『嘘騎士とまもるべきもの』  騎士、と聞いて君はどんな人物を思い浮かべるだろうか?  名誉を求める者だろうか。剣を手に悪を討つ者だろうか。  輝かしき記憶に飾られ、誇らしげに道を往く者達だろうか。  様々の定義があろう。  だが、私は敢えて一つの括りを与えたいと思う。  騎士。剣執るその名は守る者である、と。  ──その山脈は、人の手を未だ微塵も寄せ付けぬ。  天を劈くそれを遠くから眺めたならば、まるで空を支える柱の様にさえ見えるだろう。  世界の天脈にして龍の巣。その名は大陸中央、大森林の最中に聳えるリオン山脈である。   常人ならば足をその方向へ向ける事さえ躊躇うであろう魔境だ。  峻険な尾根は外界を隔てて荒れ狂う天候を生み出し、そこを住みかとする龍達は頑なに進入を拒み続けてきた。  がさり、と背の低い茂みを掻き分ける音。その筈であるのだが、例外も勿論いる。    例えば、その男である。  現れたのは黒尽くめ。老年と言うにはまだ幾許の猶予がある。帽子を被り、腰には西洋拵えの刀を佩いていた。  本名はとんと話さぬ。その代わりに人にはロボ=ジェヴォーダンと名乗る男であった。  彼は何処でもこの格好だ。普段との違いを上げるとするならば、大荷物を背負っている事ぐらいだろうか。 「あー……大分歩いたな、おい」  独りごちて振り返り、仰ぎ見る。  仰ぎ見て、彼はそこにあった「それ」ににんまりと笑った。    ──天を仰げば。  僅かな雲の流れる空。色は青く。彼方には永久に溶けない雪を戴く山々。  遠く、空を舞う龍の声が聞こえる。そして、眼下には見渡す限り広がる大森林と、僅かに青みがかった山肌。  美しい、と言う言葉が先ず浮かび次に荘厳な、と言う台詞を思い出していた。  よいせ、と近場にあった石くれに腰を下ろす。  紙巻き煙草を取り出す。マッチを擦るとぷかぷかと煙を蒸かす。  荘厳、と言えば聖地に良く似合う言葉である。  この場所の祈りの言葉を知らぬのは残念ではあったが、彼なりの敬意めいた思いはある。  未だ見ぬものをこの目にしたい。彼の目下の目的はそれであった。  行く先々で騒動に巻き込まれるのは隠者としてどうかとも思うが。  目的の半ばは果たした。さてこれだけで足りるものか、と彼は考える。  辺りを散策するのも良かろう。世界には人間などには見た事も無い光景が無数にあるのだから。  ──がさがさ。がさがさ。  ぼんやりとそんな事を考える。と、言うよりもむしろ哀しくなる程腹が減っていて、どうにも思考が纏まっていないのであった。  何か探すか。保存食でも食べるか。兎角人間腹が減っている事程悲しい事は無いのである。  で、ついでに聞こえてきたその音に、何となく嫌な予感を感じつつ彼は顔を上げた。   「────」 「…………」  何かいる。いや、それはあちらからしても同じだろうが、ともかく何かいる。  茂みの中に隠れているつもりなのだろうが──何となく悪魔っぽい尻尾がはみ出ている。  荷を降ろす。して考える。ここにはドラゴン達以外にも生息している魔物が果たしていたのだろうか、と。  前者であれば、尻を巻くって逃げるだけであるがいきなり襲い掛かってこない以上そうではないのだろう。  ──ももっち、とか言ったか。  思い出した。確か、希少ではあるが危険では無かった筈である。付け狙う輩が多い魔物である、とも。  しかし、この嫌な予感──それも確信めいたのは一体何であろうか?  ロボは首を傾げ、それはそれとして腹が減って堪らない。 「──冒険者の保存食程不味いものはねーよなぁ……」  わざとらしく呟きつつ、塩を振りかけた靴底の様な肉を噛む。  尻尾は出たままだ。時折、動いていたりもする。微妙に興味をもたれているのかしらむ。  口から肉を離して、それと尻尾とを見比べる。 「で、気になるのか?」 「!?」  がさり、と大きく茂みが揺れた。気づいていない、とでも思っていたのか。  警戒心が強い割には、どうにも間抜けだと言う印象を覚えた。  例えば──丁度、人間の子供の様な。  まさかな、と彼は思う。どこぞの変態貴族様でもあるまいに、こんな秘境にやってきてまでそれはあるまい。 「別に取って食やしねーよ。気になるなら来い。俺のせいで身動きとれねーと思ってるならとっとと行っちまいな」  投げやりに言い放つ。 「………」 「───」  しかし残念ながらこの男、旅を始めてこの方、このような嫌な予感が外れた事が無い。  戦いや生き延びるにあたってはこれ程便利な特技も無かろうが、この場に至っては別である。  がくり、と疲れたように肩を落とす。  彼の前に現れたのは、ももっちと呼ばれる魔物であった。  魔物、と呼べば物騒な響きであるが常人であればそれを魔物と認める事は困難であろう。  何せ、見た目が幼女である。繰り返すが悪魔っぽい尻尾があるだけの幼女である。  さて、ここで何故この男がかく落ち込んで居るのかに注釈が必要だろう。  一言で言えば、彼は何時何処に行こうとも、旅先で子供の相手なってしまうという星の下に生まれついているのである。  そして、泣いている子供が居れば、渋々ながらも出来る限りでその相手をしてしまうのがロボ=ジェヴォーダンと言う男であった。  しかし、彼は子供の扱いがお世辞にも上手いとは言えぬ。それゆえの反応であった。 「俺はなぁ……少なくとも、もうちっと育ってるのじゃねーと駄目なんだっつの……」  おどおどしている『ももっち』を前に一人愚痴をこぼすも、勿論答えを返す者は居ない。   「まぁ、何だ。取り合えず座れ、な?」  促され、ちょこんと少女は地面に座る。  しかし、どうにもその表情が硬い。何か、傍目には幼女誘拐犯と被害者と言った風情である。  まさか干し肉が食いたい為に彼の近くに居た訳ではあるまい。  かと言って花を摘みに来た訳でもなさそうである。 「……」  少女は押し黙っている。落ち着かなさげに辺りをきょろきょろと見ていたりもする。  男は、考える風を見せつつ、その様子を見ていた。  して、しばしの時間が過ぎる。 「ええと。冒険者、ですよね?あなた」 「ああ。世間様に言わせりゃそうだろな」 「何もしないんですか?」 「何もしねぇな。する理由もねぇ」 「……変わってますね。私、冒険者ってそんなのじゃないと思ってました」  相変わらず警戒を解かないまま、ももっちはそんな事を言う。  男は仏頂面で、かもな、とだけ答えた。 「で、だ。お互い血を見るような事もなさそうだしよ。このまま日が暮れるまでぼーっとしてる訳にもいかねぇ。  だからって言うと何だが、少しばかり尋ねたい事があるんだが……」 「?」 「この辺りに水場は無いか?できれば安全なとこな」  幾らなんでも龍と相席で沢の水を啜りたくは無いし水筒の水も底をついてきた。  男としては、この辺りで補給をしておきたくある。   「──かなり遠くなる、と思います」  しばし考えた後で、ももっちは言う。  それはそうだ。リオン山脈と言えば龍。龍と言えばリオン山脈と言う言葉さえある。  『安全な』などと言う形容詞を求めるならば、そもそも尻尾を巻いて逃げ出した方が良かろう。 「解った。あんがとな」  簡潔に答える。と、同時に目の前の少女は善良な、と言う形容を付けたくなる様な正確なのだろうな、とも男は思った。  一瞬想像してしまった、目の前にいる幼い者が抱えているだろう軋轢に、思わず吐き出しそうになる嘆息を押さえ込む。  彼には一つだけ、人と話す上で決めている事がある。どんな者でもできうる限り対等に扱う、と言う事だ。  ならば哀れみと言う意味を付すべきではあるまい。 「………」 「………」  押し黙った彼を、少女が見ている。  顔を伏せ、ロボはしかめ面を浮かべて考えを巡らす。  それだけではない。これからどうすべきかももう少し真面目に考える必要がある。  ここに第三者が居たのならば、その思考をして彼の未熟を指摘しただろうが── 「───わっ!!」  この場では、唐突に発せられた少女の言葉がその代わりとなっていた。  ぎょっ、とした顔でロボはももっちの方を向く。何が起こったのか理解が追い付かない。  髭を蓄えた口を僅かに開いたそれは、おおよそ、間抜けと言う表現が良く似合う表情であった。  ももっちは、驚いて目をしばだたせている男を見てにやにやと笑っている。  やがて、黒マントの顔が──主に口元の辺りが僅かに引きつったのを見て、彼女は言った。 「驚いた?」  と。  …  人間、幾ら場数を踏もうとも完全には縁切り出来ないものがある。  例えば、他者から向けられる濃密な敵意がそれだ。  黒服の男は思わず鼻白みつつ歩を進めていた。  おまけに随分と妙な事態である。客観的に描写したならば、以下の通りだ。  黒服を着込んだ壮年の男が、未だ幼女と言っていい容姿の娘に手を引っぱられながら歩いているのを天から地からを問わず ──それこそ、一般人ならばその光景を見ただけで卒倒する程の数の龍達がその二人を見ている。  赤、青、緑、黄に灰色。極めつけは今や滅多に見ることも無い古代龍や黄金龍だ。   「──頼むから尻に噛り付いてくれるなよ……」  男の口元は微妙に引きつっているが、寧ろ虎穴、と言う形容すら生易しいこの場で、 その程度の動揺を示すだけで済ましている男を褒めるべきである。  ──本当の事を言うと、身の安全だけを最優先するならば彼はこんな場所に来るべきではなかったのだ。  とはいえ、既に踏み込んだ以上、文句も言ってられない。   手を引かれるまま石垣と、それから幾度も踏み固められたらしい道を歩いて進む。  視界が開ける。切り立った崖に囲まれた小さな谷だ。  幾つかの小さな小屋から成る集落が見えた。恐らく、この少女の隠れ住む場所なのだろう、と男は思った。    ──風の啼く音が聞こえる。四角く切り取られた町の空とはまるで違う空の下。  山深い地。幽玄と言う言葉が似つかわしい場所である筈なのに、そこは酷く穏やかに見えた。  羽ばたく音。彼を睨み付けていた龍達は、ここに立ち入る事は出来ないとでも言うのか、一斉に翼を広げて去っていく。  さて、何故この黒服がかく如きであるのかについて説明が必要であろう。  彼は少女に水が足りないと言い、少女はそれなら自分達の村に立ち寄るといい、と答えたのだ。  何故彼女が余所者に過ぎない、それも彼女等の敵であるかもしれぬ男にそう言ったのかはロボには断定できぬ。  だが、有難くはあった。戦わずに済むならそれに越した事は無いのだ。 「っはぁ。もういい、もういいっての。引っ張るなっ!!」  喚く男に少女は頓着しない。警戒を解いてはいるらしいが、寧ろ男にとってはこちらの方が困り者であった。  何故か子供に好かれる星の下に生まれているとは言え、流石にこの様では男としての矜持にヒビが入りそうだ。  男とは正反対に息を切らしつつもロボを引っ張っていたももっちは、振り向くと少し不機嫌そうな顔を浮かべていた。 「──私にあんなことしたのに、そんな事言うんだ」 「おい。何、誤解を招くような事言ってやがるっ!?」  何となく、狙撃首にヘッドショットを狙われている気分になりつつも、ロボは思わず大声で反論する。   「いいもん。それなら私にだって考えがあるもん……」  何事か物騒な事を言いかけた少女の口を、慌ててロボは手で塞ぐ。  流石にそれは色々洒落になっていない。ここまでの道中で理解した事だが、山脈の龍達はこの少女にとても友好的だ。  熟練冒険者さえ対策無しでは一瞬でバラバラにするディスティングレイト(分子分解)のブレスなんぞ間違っても背中にしたくは無い。  とは言え、そんな龍共と水場を共にするぐらいなら、こちらの方が少しは安全な方策と言える。  むがむがともがくももっちを抱えつつ、彼は己が天命に向かって深くため息を吐いた。 「──!!ももっち!?おい、何してる!!」 「──あ?」  そして、突然聞こえた声に顔を上げた。  そこには浅黒い肌の少年が一人──因みに、これまた悪魔の様な角が生えている。人間では無かろう。  だが、勇ましい声色とは正反対に、角と言う一点を除けばどう見ても極普通の少年である。 「──ぷはっ。あっ、ひろっち」  少年はひろっちと言うらしい。  どうやら──まぁ、無理も無いがロボを誘拐犯か何かと勘違いしているらしい。  慌てて足元の石を拾い上げては投げつけるものの、ももっちを再び抱え上げ男はひょいひょいと軽やかに避け続ける。 「ももっちを離せ、この野郎!!」  ひゅんひゅん。ひょいひょいひょい。  ひゅんひゅんひゅひゅひゅ。ひょいひょいひょいひょいひょい… 「よせ、危ないだろがっ!!あ゛ーー、つかそもそも誤解だっつーの!!」  (ロボが黒い蝶の如く舞い、ひろっちがラッパの様にがなっています。暫くお待ち下さい) 「ぜーはー……ぜーはー……離せって、言ってるだろ……っ」  ぺいっ、と肩で息をしているひろっちが投げた小石が力無く宙を舞う。  ぱしり、と伸ばした手でそれを受け止めてロボは疲れた様な顔を見せ、それから、 少年がいい加減疲れ果てたのを見て、ももっちを下ろした。 「いいから落ち着け!!何想像してるかしらねぇが、俺に悪意があったんだったらとっくに龍に食われてるっての!!」 「……信じられるかよ。人間だろ」 「ああ、人間だ。けど、それがどうしたよ。たった一人でこんなとこに来る奴なんざよっぽどの物好きか阿呆ぐらいだろが」  男の言葉に面食らったのか、顔を顰めて少年は言葉を詰まらせる。  それを見て、男はここぞとばかりに畳み掛けた。 「安全だ。安全パイだ。な?」  が、ひろっちは警戒を解かず、男を見ている。  さて、ももっちとそれに連なる種族は人の賢者には世界で最も奇妙な魔物だと評されている。  と、言うのもこの魔物達はにせもも種を除いて戦闘能力らしい戦闘能力を持たず、 にも関わらず、冒険者が魔物に対峙する際に最も重要な通称『経験値』──この世界の生物種の体内に含まれ、 害意を以って対峙すれば凡そあらゆるもの達に対しワクチンの如き役割を果たす、魂の欠片とも称される、 通常その生物の強大さに比例して増大する筈の不可視粒子──を大量に所持している為である。    かつては世界中に分布していたと考えられているが、今では『隔離地域』、及び深部大森林等を除いては殆ど見られない。  冒険者達、及び人の繁栄を願う者達によって殆ど狩り尽くされた、と言う状況にある。  つまり、少年の反応は極自然なものと言えた。  ロボがさっぱり譲らないと見たひろっちは三白眼をももっちに向ける。 「大体……ももっち、一体何考えてるんだよ」 「あ……うーん。えーと……」 「解ってる筈だろ。冒険者とか、勇者とかそんな連中がどんなに危険かなんて!」 「……確かに、そうだけど」  怒るひろっちに困るももっち。ロボはと言うと、苦虫を噛み潰した様な顔でコメカミの辺りを人差し指で掻いている。 「──すまねぇな。邪魔しちまったらしい」  そう言うと、更に言葉を続ける。 「ただ、井戸だけ使わせてくれねぇか?流石に干からびるのは簡便だからな」  苦笑しながら、親指でぽつん、と家の横合いにある井戸を指した。  言葉を止めたひろっちが男を見据える。 「だったら初めから来なけりゃよかったじゃん」 「そりゃそうなんだが……流石に泥水を啜りたくはねぇしさ」 「──解ったよ。そこまで断る理由もないし。けど、直ぐに立ち去ってよ。あんまり長居されたくもない」 「へえへえ、解ったよ。──っと、ももっちだっけか?」  ぞんざいに肯定の返事を返してから、ロボは少女の方に顔を向けてからにやっ、と笑った。  びくん、とそれに驚いたのかももっちは肩を僅かに震わせるのに構わず、男は言う。 「あんがとよ、お二人さん。この水、大切に使わせてもらうぜ」    …  満天の空に広がる星に、この場所は程近い。  そのせいだろう。天のみならず、夜の帳の下りた谷間にも、ぼんやりと光る星があった。  蛍の様なそれらは、リオン高原の谷間にひっそりと暮らしている『魔物』達の集落である。  (龍族達と共生関係にある、とされるがその詳細は今も不明である)  そして、その中の一つ。物干し台がひっそりと佇んでいる小さな家。  ばたん、と木の扉を閉める音が響く。入ってきたのはももっちだった。  ちらり、と恨めしそうな目で一瞬ひろっちを見た後、視線を外す。 「……何さ、モモ。そんなに気にしてるのか?」 「ううん、そうじゃないけど。気の毒だった、って。乱暴な人じゃなさそうだったし」 「気にしてるじゃないか……」    少年の姿──余談だが、彼等の種族は人間で言えば十歳前後の姿で成長が止まる──の魔物は、少しばつが悪そうに答える。  追い出したのは自分だし、それに目の前の少女がそんな性質である事は元より承知していた。  何せ、「ひろっち」と「ももっち」は必然的に一つのペアが生まれた頃からの付き合いなのだ。  因みに、彼等の暮らしている家も、何人もの先代達から受け継いだものである。  ──少年のそれは仕方の無い応対だとは言える。  だが、凡そ彼の知る限り心優しい、と言う評価が最も適切な少女の心に棘を残さないやり方とは言えまい。  誰一人罰される必要は無い。だが、特赦された罰ほど罪深さを人に覚えさせるものはない。 「気にする必要なんて無いよ。俺達は人とは交われないって解ってるじゃないか」 「……でも、皆が皆そうだとは」 「そうだとしても、今のそれが変わらなきゃ何も意味が無いよ。それに……」  言いかけて、少年は自分の失敗に気づいた。『それ』は口にしてはならない事だ。 「……」 「あ、いや……」  僅かに暗い影を落としそうになったももっちに慌ててひろっちは口を開く。  彼等はももっちを守ると言う使命がある。  だが、それは『口にしてはならない事』であり、『汚してはならないもの』である。  自分自身の力の無さを棚に上げて、陰口を叩く事が果たして少年に許されるだろうか。 「ううん。いいよ。そうよね、仕方ないもん」  曖昧に微笑むと、ももっちは言う。  その表情に、少年は思わず顔をそらしそうになり、辛うじて留まった。  ──畏れてはいけない。汝、傷負う事を畏れる勿れ。 「でも、どうして私達ってこんな風に生まれたのかな……」 「違うよ。それだけは絶対に違う!!」  少しだけ憂鬱そうに呟いたももっちに、思わずひろっちは言葉を荒げていた。  彼自身、自分の声の大きさに驚き、そしてその直後に、酷く不甲斐ない気分に襲われていた。  それはそうだ。ギリギリで踏みとどまったラインを一歩乗り越えてしまったのだ。  すぐに顔を後悔に歪めると、俯いて言葉を口にする。 「──悪い、怒鳴っちまった」 「……少し、散歩に出させて。すぐ戻ってくるから」  そう答えると、ももっちはひろっちに背中を向ける。  慌てて呼び止めようと少年は手を伸ばし、しかしその手は空を切る。  僅かに、少女のスカートが揺れる。  後には残ったのはドアが閉められる音と、顔を伏せたひろっちだけであった。 …  さく、さく、さく。  夜空には月。村はずれから広がる空き地は、銀色の海原のようだった。  既に龍達さえも眠りに入っているとさえ思える静けさ。風の鳴る音が僅かに聞こえる。  草を踏む音。ももっちはそれをぼんやりとした心持で聞きながら、歩いていた。  考える事、と言えばひろっちの先程の台詞ばかり。  幾ら納得のいかない言葉だったとしても──もう少し、冴えたやり方もあったと思う。  例えば、彼の考えを嗜めるだとか、変える様に諭すだとか。  結局の所、ひろっちの言葉は正論であるし、そもそも、ももっちは残念ながらそういう事には向いていない。  第三者的に述べるならばただ万言のみを費やした所で事実が変わる訳でもなく、結局の所無駄足となっていただろうが。    月が綺麗な夜だ。雲一つ無い空には、宝石の様な満月が浮かんでいる。  更に要素を付け加えれば、リオン高原は酷く空気が澄んでいる。  天を突く諸峰は蒼を照らし返し、寒々しい風は知らず心を研ぎ上げる。  もしも、只人が目にしたならば嘆息せずには居られないだろう。  威容はまるで違うけれども、それはどこか巨大な神殿を思い起こさせる光景だった。  だが、彼の御身は導く御手を差し伸べはするが直接の答えは与えまい。   曰く、自ら助くる者を助くと。  ざぁ、と風が吹いた。  ふと、彼女がこれまで経験したどれとも違う妙な匂いが鼻を突く。  それを辿り視線を彷徨わせる。やがて、一つ所で止まった。  全てが青白い世界の中、赤い蛍がそこに居た。か細いが、それは確かに火の赤だった。 「──あ」  もし、それが無かったならば気づかなかっただろう。  なぜならば、そこに居た人影は黒服を着込み、まるで溶け込む様に木の幹にもたれていたからだ。  ももっちはその男に見覚えがあった。と言うよりも、昼間出会ったあの男である──ロボ=ジェウォーダンとか言っただろうか。    足音に気づいたのだろう。蛍が水平に動く。  あまつさえ、手を上げて応えているのさえ見えた。 「え、あ、う……」  間が悪い、とは正にこの事か。  むしろ、何故未だ集落にとどまっているのかを問いただすべきか。 何せ問題の一つである。ひろっちに知れれば、黙ってはおられまい。  ──見なかった事にして回れ右をしてしまうと言う選択が無いのは何とも彼女らしいと言える。  暫くの間、男はももっちの方を向いていたが、やがてそれにも飽きたらしく又寝転がる。  煙草は随分と短くなっていた。それにしても、どうにも獣じみた──特に逸れた狼を思い起こさせる所作である。 「あのー……」  それから、しばしば好奇心が他の全てに勝ってしまうのは、ももっちのどうしようも無く救われない部分なのかもしれなかった。   「ん、何だ?」  全く予想していなかった事に、返事が返ってくる。  びくり、と肩が震えた。ここで漸く回れ右してしまえという事場が少女の脳裏を過ぎっていくがワンテンポ程遅い。  +αの好奇心。結局の所、懊悩を置き去りにしてしまうと一歩、男の方に踏み出した。  遠く、羽を持つものが飛び立ったのか木々がざわめくのが聞こえた。 「ええと」  何から切り出すべきか。一瞬、躊躇いを覚える。  男の帽子の鍔が持ち上がり、その奥から僅かに目が覗いている。  やがて、立ち上がり煙草を踏み消した。 「──何かあったか?」 「え、あ。えとですね」 「慌てんな。前にも言ったが、俺ゃ別に何するつもりもねーよ。ただふらっ、と立ち寄っただけだ」 「……そう、ですか。そうですよね。あはは、何身構えてるんだか」 「そうだぜ?話する時ゃ、落ち着いてねぇとな。ま、立ち話も何だからよ。地べたで悪ぃが、こっち来て座りな──そこじゃ遠いだろ」 「えと、それじゃ失礼します」  促されるままに道端に、比較的綺麗だと思われる場所を選んで座り込む。男もまた、それに倣った。  どうにも無遠慮な物言いである。男は自分の事を指して立ち寄っただけだ、と言ったがこれではどちらが客なのかも判りはしない。    さて。  いざこうなってしまうと、かえって話がしにくいものである。  ロボは、と言うと話を切り出すのを待っているのか、ぼうっと空を見上げている。  やがて、退屈を持て余したのか懐から一本、紙巻き煙草を取り出した。 「それ、何ですか?」 「ま、男の嗜みって奴だな」  そして、男はにやりと笑うと彼女にそう言ったのだった。 …  銀の臥所に紫煙燻り。  龍の住む山にてはこの白蛇さえ、門昇る白龍にも似て。  煙草を吸いながら、男は少女の横で座り込んでいた。  少女は、と言うと借りてきた猫の様な調子で身じろぎ一つしていない。  それは最初の鉢合わせの風景の焼き直しとも言っていいだろう。  だが、少しばかり違う。その二人には既に面識はあった。  しかし男の考えている事は彼女にはとんとわからない。ただ、別に追い散らす様な気分でもないだろうと言う事ぐらいか。  相変わらずである。何かあったかと聞かれたが、この調子では少女の口からは吐息以外には出はしない。 「──こほっ、こほっ」  風が吹き紫煙は流れて少女が僅かに咳き込んで。  しかし自重する様子も無く男は煙草をふかす。全く以って無遠慮な男である。   「なぁ、じっと座ってるだけか?」  そして矢張り、と言うべきか。彼は不意にそんな事を問いかけた。 「いえ……そんな訳じゃないですけど」 「良くは無いぜ、そんなはよ。じっと待つのも良いが、それで機会を逃すのはちっとな」  ぷかぁ、と煙を吐き出す。丁度、輪の形をした煙が男の口元から昇り。 「お──輪っかか。珍しい」  それを見てももっちは龍の吐くあの炎を、氷を。時折遊びに来る彼等が笑って見せる愉快な曲芸を思い出していた。  数秒も無い。綺麗な円形を描いていたそれは形を崩しながら溶ける様に夜闇に消える。   「ま、何にせよだ。アレだな。言っちまうと、愚痴があるなら聞くぜ、って事だ。どうせ今は暇だしな」  道理、と言えば男の言葉は道理であろう。ももっちとて、彼を招いた時の周囲の警戒振りは目にしている。  夜は魔物の時間であり、月は冷たく、そして少しばかり狂気めいた考えを呼び寄せるものだ。  わざわざ動く理由が無いのだろう。ひょっとすると自分に期待してるのかもしれないな、と僅かに少女は思った。  ──それはさておきだ。よく言えば柳に風と言うべきか。悪く言えば傍若無人と言うべきか。  まるで風に吹かれて枝を揺らす様に声をかけてくる男は、彼女の目からしてみても少々お節介な性質に過ぎる様に思われた。 「そんなの余計なお節介、って言ったらどうします?」 「さてな。そう言われたその時考えるさ」 「それじゃあ、暇じゃないって言うのは」 「それなら、そもそも出歩いたりしないで寝るだろ。何するにしてもここらの山道に居るのは龍だけじゃねーからな。  ここまでの道行きと付いてからとで散々おっかねぇ連中に襲われた。お前さんみたいな子供にゃ危険過ぎるよ」 「……それでも愚痴があるって決まった訳じゃありません。  そもそも、子供扱いしないで欲しいです。私、これでも見た目より年上なんですよ?」  子供、の一フレーズにカチンと来たのか少し眉をしかめ、憮然とした顔でももっちは言う。  確かに彼女の種族は、およそ外見は人間で言えば十歳前後で成長し切り、それからは少しも変化しない。  それでも精神は成長するものじゃないか、と彼女などに言わせると返事が返ってくるだろう。  が。 「──ぶっ……ぶははははははっ!!げほっ、げほっ!!いや、ちょっと待てって。どう見てもお前さんは子供にしか見えねーよ!!」  煙草を思い切り噴出し少々咽返り、尚も一しきり笑ってからロボ=ジェヴォーダンはそう返事を返し── それから顔を向け直して初めて傷ついた様子のももっちに気づいたらしく、 半笑いの様な表情を曖昧に維持したまま一瞬動きを止めていた。 「言い過ぎたな、うん」 「……」  どうにもバツが悪くなったのか、髭を摩りながら男は言うものの、その程度で直る程彼女の傷口は小さくあるまい。  じっ、と男を睨んでいる。男は追い詰められる。刀では視線は切れない。鞘に収まっていれば尚の事。  つまりは、そういう事である。薮蛇である。猫に睨まれた黒鼠と言った風情かもしれない。   「……すまん。今のは俺の間違いだ」 「……」 「おーい。応えてくれ。悪かったって。許してくれ。降参だっての」 「謝る時の言葉はごめんなさい。でしょ?」  んぐ、と喉に何かが引っかかった様な顔でロボが唾を飲み込んだ。 「……ごめんなさい」  今度はの方がやり込められる番であったろうが、そこは矢張り亀の甲より年の功。  少しも表情には出さず、まぁ少しばかり声が濁っているのはご愛嬌であろう。  良く出来ました、もしくはしてやったり、と言うような顔のももっちに一方の男は苦虫を噛み潰したような顔だ。   「ええい畜生め。これだから苦手なんだよ……」  呟きつつ黒帽子を直す。 「つか、何の話してたんだっけか?」 「愚痴がどうたらこうたらって」 「そう、それだな」 「あなたへの愚痴なら掃いて捨てる程ありますけど、他に言う事なんてありませんよ?」  先手を打ち、少し得意な調子でももっちが言う。やれやれ、とロボは首をすくめた。 「嫌われたもんだな、おい」 「当然です」 「いや。それでも子供ってのはその通りだろ?譲れねーな」 「まだ言う……」  流石に呆れた様な様子を見せて少女は言う。  ──言われ、男は口端を吊り上げてみせた。 「顔も、口ぶりもだ。あんまりにも素直過ぎるからな。そういう台詞ってのはもう少し腹黒くねーと様にはならんぜ?」 「……」  さっとももっちの顔が赤くなった。担がれたと気づいたのか、或いは思う所でもあったのか。  まぁ、どちらにしても彼の言葉は彼女自身の顔面が根拠の裏付けをしている。  さて人間、と言う言葉をつけるかは別にして。  凡そ、事実をありのままに指摘されたままの人間は往々に激しく怒りを覚えるか、それとも萎んで縮みこむかのどちらかである。 「ま、その内大人になるさね。腹黒くなったり姑息になったりするのはその時からで十分だわな」 「……」 「何で悩んでたのかは話したくないみてぇだし聞かねぇ。だが、どうにかなるさ。絶対な」 「それは──私が子供だから?」 「然りよ。スッ転んで、すりむいて泣き喚いて後悔して。けど、それからでも立ち上がって笑えるってのは子供の特権だからな。  つまり、友達と喧嘩したんなら謝ってくりゃ済むし、悪さしたんなら大人しく叱られて来いってこったな」 「……説教ついでに聞かせてほしいんだけど。私が子供なのは解った、でも大人なあなたは何をしてるの?」 「そら大人にしか出来ない事だろ。例えば、今みたいなのとかな」 「真面目に答えて欲しいな」  笑いながら最後の台詞を口にしたロボに、ももっちは幾分不機嫌そうに言った。  すると、男は途端に笑い顔を収める。かちり、と腰の剣を鞘ごと取り外してから、少女に向き直る。  驚く暇も無い。あっ、と言う間に剣を地に付け、ももっちに向かって座ったまま片手と膝を付き、首を下げて礼を取る。  ──少女は知らぬ事であるが、それはまるで騎士達の取る最上の礼にも似ていた。 「──無銘なれど鋭き剣、御身に会え光栄に候。紛いなれど固き盾として、敵意と悪意を払い奉る。  其、支払いうる唯一の対価なればこそ甘露の礼、臥所の謝にさえ斯くを以つ所存にて候」  目をしばだたせるももっちに構わず、一言で男は口上を述べてから男は居住まいを正す。  もしも、ここに極普通の人間が居たのならば彼を指をさして笑っただろうが、生憎ここには彼等以外には龍ぐらいしかおるまい。  或いは、物好きな龍族が居れば彼を笑って居たのかもしれない。 「ああ、気にするな。これは真面目にやる上での礼儀だからな、一応」 「は、はぁ……そうですか」 「でだ、俺が何をやってるかっつーとだ。冒険者ってのもそうだし──」  そこで一旦区切るとにっ、と男は勿体つける様に笑ってみせる。  どうにもそれがいやに嬉しそうに見えて、ももっちには彼の方がよっぽど子供ではないか、と思えてしまう。  そんな彼女の心中を知ってか知らずか──或いは気にもしていないのか。  兎も角、彼は口を開いてこういった。 「俺はな、実はこう見えても騎士なんだよ」  と。  付け加えると──勿論、その後に少女がそれを即座に否定して見せたのであるが。 …   少女──ももっちは夜の野辺を歩いている。  とは言っても、実際のところそうそう大した距離でもないのであるが。  先程の広場から彼女の家までの道筋だ。変わった所も特に無い。  何時もの様な土の道であり、傍らには木石やら低い石壁やらがあり、少し離れた場所には他の家々の明かりが見えた。  空気は相変わらず冷たい。はぁ、と吐き出した吐息が青白い。それらもまたリオン高原においては常である。  男とはあの後軽く二、三言葉を交わした後で彼女の方から立ち去った。  結局、彼は何がしたかったのだろう、と思う。  適当に言葉を返していただけかもしれないし、もっと深い考えがあったのかもしれない。  ともあれ、ロボ=ジェヴォーダンが明言した事と言えば、(腹の立つ事に)ももっちは子供であり、 故に、我武者羅でもみっともなくとも構わない、と言う事だと彼女は理解していた。  が、だからと言って一つを除いて彼が何をしたと言う訳でもない。  煙草とか言う妙な棒に火を付けて煙を吸ってみたり、亡と夜空を見上げていたに過ぎない。  子供だ、という彼の意見には彼女は断じて反対だ。  人間の数えに換算すれば、凡そ二十過ぎにも達するであろう。  霜の降りた朝。雲の無い蒼天の下で生まれた彼女を指して子供とは一体何事か。  不躾な言葉にも程がある。魔物で無くとも普通は憤慨しよう。  ──だが。確かに。  腹は立つ。のだけれど、確かに彼の言葉にも一理はあった。  元々、彼女とても解っていた事ではある。が、それは往々にして忘れてしまい易い事でもある。  腹は立つ。だが、ももっちは感情を優先しない事に決めた。それでは余りに子供っぽい。 「──仲直りしよっと。切り出すのは私から。決めたっ」  手を広げ、踊りでも踊るかの様にくるり一回転。  ふふっと笑って空を見上げ、彼女はそう言った。  して気づく。言い忘れていた事がある。  本人に言うとからかわれるだろうし、それは悔しいからここで言ってやる事にした。 「──あ」  それで、名前を聞き忘れていた事に気づいた。  ──むむ、と唸る。仕方が無いので。 「黒んぼさん、どうもありがとね!」  彼女は夜空に向かってそう言ったのだった。 …  ロボ=ジェヴォーダンは愛煙家である。  その癖、今は口にそいつを咥えていない。荷物を背枕に、それから引っ張り出した毛布を被って目を閉じている。  要するに眠っているのだが、剣も放り出して完全に大の字で眠っている点が彼と言う男を端的に表してもいた。  月が翳る。とは言っても、この山脈の住人達には関係は無かろうが。  男にしても、雨が降りでもしない限り安眠推進以外の意味などなかろう。  ばさり、ばさりと羽ばたく音が響く。  ──月が翳る。翳る。影を蜂蜜色のキャンバスに描く。  余りにもその翼は大きく。顎は雄雄しく。瞳に確かな知性を湛え、同時に敵意に輝かせている。  それは大きな龍であった。銀色の鱗を持ち、今は蒼月色に煌く龍であった。  その巨体からすれば驚くべき静けさで、それは大地へと脚を下ろす。  そして。変り身の魔法──(変化の上位。外見を錯覚させるのではなく身体を文字通りに変容させる高位呪文である。)──を一言。  圧縮言語たる龍語は多くの魔法においてさえこの様に特異な性質を示すのであるが、それにしても只一言において、 魔法──(通常、言語の他に発動の明確なイメージ、及び付随する手順を必要とし、口述はそれの明確化を図るプロセスとされる。 特に高位のそれとなると正確な発動には複雑怪奇な思考を必要とする)──を発動させる彼、あるいは彼女は、 それだけを取ってみても相当に偉大な龍である事が推察された。  力有るにせよ、知恵持つにせよ。大抵、龍族にとっての偉大さは己及び同胞、もしくは財宝を守る為の力の程度を指す事が多いからだ。 「──」  現れたのは、一人の女であった。ももっちと比すれば、幾分年上ではある。  だが、存外に若い。髪は長く、袖の短くゆったりとしたローブの様な衣服を纏っていた。  目だけが相変わらず鋭く、夜の中でさえ龍と変わらず鮮かな血の様に赤い。  一方の男は、と言うともぞもぞと手を動かし鞄の中を漁った以外には身じろぎ一つしない。  不遜、と言うよりもそれは愚行と言っていいだろう。  或いは焦りの一つでもあるのやも知れないが、少なくとも外見からそうとは知れなかった。 「──客、か?」  数歩。それだけ龍が歩み出て初めて起き上がり男は独り言の様に言った。 「ああ、客だ。良い客かどうかは貴様次第だが」 「そうかい。ご苦労なこったな」  「ご挨拶だな。この場で焼き払われるとは思わんのか?私の吐息は火よりも熱いぞ」  男は肩を竦め、答える。 「理由がねーしな。今も、それにさっきだって出来るだろ、そいつはよ?」 「──良く回る口だ」 「一時はそれで飯食ってたからな。第一回らねぇ口は飯も食えねぇっての」  軽口を叩く男に冷たい目を向け、龍の娘は口を開く。 「さて。私がここに来た理由は解ってるだろう」 「そりゃな。けど、それでも今すぐ動く訳にも行かねーさ」 「何故だ?」 「俺が決めたからだよ。今日のねぐらはここにする、ってな」  不敵に笑うと、男はそれに答える。  何を言っているのか。何せ彼女の目の前に居るのは龍族曰く、不快極まりない宿六のごろつき風情である。  龍族、と言うのは同属意識が非常に強い。  彼等を殺しにかかる人間は、全てでは無いにしても多くは明らかに敵の分類に入るのである。 「軒先を貸して母屋を取られないと言う保証も無いだろう。はっきりと言って置こう。我々にとって貴様等の様な存在は極めて不快だ」 「──こりゃまた」  流石に男とて、そこまで言われれば顔を顰めるのだろう。  それは明らかな拒絶であり、半ば最後通告めいた言葉でもあった。  ここリアン山脈にも時折男の様な人間が足を踏み入れる事があるが、問題はそれでは無い。  むしろ、この麓に位置する街──トゥーリューズと言う──が既に築かれている点にあった。  そこは人魔が共存する地でもある。だが、決して優しくは無い。  知らぬ者は注意して見るがいい。魔物の奴隷が、或いはその肉が売られているでは無いか。  そこを橋頭堡として、あのおぞましい精神の持ち主共達は多くの同属と、その他の魔物達を殺し続けているではないか。  故に、無理なからぬだろう。娘の言葉は一面の真実だ。  決してそれは変わるまい。 「言い訳のしようはねーわな。けど、それで動くかってーと答えはやっぱし否、だ」 「──それは私の言葉の否定か?」 「ああ。そうだな」  瞬間、娘の体が何倍にも膨れ上がった様に大気が震えた。  ぴりぴりとした空気は肌を刺すようで、まるで突然真冬にでも放り込まれた様であった。  男は、しかしそれでも剣に手を掛けない。只、何も言わず滑らかな足取りで立ち位置を変える。 「さて、それじゃ今から俺を殺すか?」  何処か余裕めいた口調で男は言う。  しかし、挑発とも取れるその言葉に娘は一歩も動かない。  なぜならば。彼の背後には小さな村がある。  今しも駆けて行ったばかりの少女の背さえ見えるかもしれない。 「卑劣漢め」  忌々しげに一言呟き、そして目線を手のひらに移してから再度男の方を見やる。   「私が今は爪と牙しか使えないと侮るか?」 「まさかな。けど、良く考えた方が良いぜ。力の使い道ってのはよ」 「くどい。私はお前の敵だぞ?」 「──ふぅ」  ため息を吐く。そうして男は初めて刀に手を遣った。  鞘が浮き、片手が柄に添えられる。腰が落ちて、片足が半歩ばかり下げられる。  それは余りに平然としていながら、余りに異質だった。  一言で言うならば、まるで木々のざわめきの如く、彼の龍をしてそう思わせる程に一連の動作が自然に過ぎたからだ。  ──轟、と爆発するかの如き幻聴を彼女は聞く。  風が凪ぐ。危機感が肌を焼く。首元が凍える様に冷たい。  人の身に過ぎない筈のその男は、最早その殻に到底収まりなどしない人型の異形であった。  そして、それらは彼女に告げていた。  目を逸らすな、と。あれはお前を殺しうるぞ、と。  凪いだ風は緊張の証であり、危機感は狼王の咆哮にも似、寒気は即ち必殺への明確な警告であった。  そう言えば、私と男は余りに近すぎる。これでは首を晒している様なものだ、とそこで初めて彼女は気づいた。 「漸く戦うか、私と」  しかして龍は怯まない。  怯えて逃げるのは臆病者の論理であり、戦うべき時に戦わないのは卑怯者の論理だ。 「言ったろ。俺は単なる物乞い風情、雨風凌げりゃそれでいい。ただ、死ぬ積もりも無いな」  男も又、言葉を変えない。    空気が焼ける。怯える様に風が吹く。雲間からは青白い月がそれを見下ろしている。  ざり、とどちらの物とも知れない土を踏む音だけがそれ等に続いていた。  やがて、娘が口を開く。   「──その鬼気は飾りか?」 「それで済んだらいいんだがね」  静かに男は言う。 「ふむ。兵法、と人間が呼ぶ物か?四十六計逃げるに如かず──とは誰の言葉だったか」 「そんなご大層なものじゃねぇさ。ま、曰く戦わずして勝つが最上なり……ってのには同意するがな」  そこで言葉を切り──男はしばし娘を見据えてから口を開く。 「──煙草だ」 「?」  唐突な言葉に形のいい娘の眉尻が釣り上がる。 「見合ってるのにも飽きた。煙草吸ってもいいか?」 「……」 「沈黙は同意なりってな。それじゃ……失礼」  懐から一本、して滑らかな動作で口元まで運ぶ。  続いてマッチに火を点した所で、何やらワナワナと震えている様な声が聞こえてきた。 「……私はな。数多くの冒険者を見てきた」  すぅ、と大きく紫煙を吸って吐き出し、何とも旨そうな顔を浮かべてみせるロボ=ジェヴォーダンを前に、更に肩まで震わせ始める。  果たして、その原因は何であろうか。 「だが、これ程の大馬鹿者は始めて見る。お前は私を侮辱しているのか?」 「んな積もりはねーよ。只、それだけ口が回るならさぞかし頭も回るんだろ。  だったら、ここで俺なんぞ相手に、わざわざ一人で戦う意味は無い事も理解出来ると思うがね」  言うまでも無く怒りであるのだが、一方の男はと言うと解っただろうとでも言うように言葉を吐き出す。 「……確かに私は一人だ。だが、問題は無い」 「一人っきりは寂しいだろ。っても団体様に尻焦がされるのは簡便だが。ほら、そう言うのは人間じゃあ推められん」 「……あのな。もう一度聞く。お前に戦う意思はあるのか?仮にも侵入者だろう」 「ねーな」  はっきりと一言で言い切った。嗚呼、男はそう言い切った。  最早、先程までの威圧感など微塵も感じられない。今直ぐにでも地面に寝転がってしまいそうでさえある。 「……では略奪する意思は?盗み出す意思は?」 「しつけーな。ねーったらねーよ。甘くも辛くも厳しくもねーし、強奪も強姦も窃盗も殺人も普通はしない、それから切羽詰っても無い。  一応、これでもその辺のトッポは弁えてるっての」  男の言葉に今度こそ真面目に取り合う気力が失せたのか、がくり、と娘は肩を落とした。  窮鳥懐に何とやらでは無いが、敵地にも関わらず楽天極まる男の様子に彼が逆鱗に触れたでもあるまいし、完全に脱力したらしい。 「……正真正銘の馬鹿者だな」 「そりゃどうも。で、俺はもう寝てもいいのか?」 「好きにしろ。付き合ってられん」  言うと娘は彼に背を向け──変身の応用か、銀の鱗に包まれた翼を一対生じさせると、羽ばたく。 「──お前の様な馬鹿ばかりだとももっち達も苦労せずに済むのだろうがな」  それから、ふと思い出したかの様に呟く。 「そいつは難しいだろうさね」  煙草を指に挟んでから、男はそう答えていた。  直ぐに娘が空に踊り出、その姿を龍に変ずると山々へ向けて飛び去っていく。  月は最早、半ば隠れかけており、それを見てロボ=ジェヴォーダンは嫌そうに顔を顰める。 「一雨降る……かもしれんな。あーあ、嫌だ嫌だ」 …    銀龍の乙女。隠者達の娘。それが彼女、シャルヴィルトであった。  頭上には分厚い雨雲。ぽつり、ぽつりと雨粒が彼女の翼を打っていた。  飛ぶ事自体には支障は無い。例え、重い空気が皮膜に絡みついたとしてもだ。  だとしても、酷く不愉快に感じる。人間で言えば、びしょ濡れのドレスを引きずっている様なものだ。  とは言え、当然人と龍との違いもあろう。 『──』  口を開く。精霊への交信完了。大気振動誤差修正完了。シルフ達による仮想音声伝達回路構築──完了。  そう、例えばこれこそが、それである。  龍言語による通信魔法である。  人にとっても身近と言えば身近な術ではあるが、龍にとっては意味が異なる。  これは、シルフと呼ばれる精霊を使役する術を知る者しか送受信は出来ぬ。  だが、龍は──特に貴龍と呼ばれる人語すら解する龍達は──例え魔法の扱いが不得手だろうと、人よりもずっと精霊達と仲がよい。  山岳や草原に住まう者ともなれば尚更だ。  魔法とは外界に対して働きかける錬金術とは違い、内界に沈み世界の太源と繋がる事で具体的結果を発生させる技術であるが、 常日頃から世界の秘密の一端に触れる龍族は、言語とイメージによる手順を一部においては無意識に行いうるのである。  第二に。龍の言語は、前述の短い発音に膨大な意味を含有する。  故に、この魔法を駆使する龍は事実上、山脈の何処に居ても同属達と連絡を取る事が出来るのだ。  曰く。  ──先刻確認された侵入者の男に関する報告を開始。  人数は一名。武装は然程でも無し。戦闘意欲は今の所見受けられない。なれど発見地点はコード:『エデン』。  今後の動向には注意が十分な必要だと愚考。報告は以上。下命を待つ──前記は、その意であった。  兎も角。彼女は雨雲の下で翼を羽ばたかせていた。  理由は只一つ。勿論、見た目だけで言えば彼の乙女にお似合いな雨の日の散歩では無いし、気まぐれでもない。  ももっちと呼ばれる魔物の守護、それから派生する哨戒任務の為であった。  それが古からの義務であり、定めでもある。 『それにしても──憂鬱な雨だ』  ぐるぅ、と一啼き。その実、言葉を転がす。  確かに、嫌な雨だった。号泣の様に激しくも無ければ、嬉し涙の様に優しくも無い。  冷たく、陰鬱でしとしとと降り続く雨。まるで啜り泣きの様だった。   『お疲れ様、シャルヴィ』 『む。君か。そう言えば、私の次の巡回任務であったな』 『ええ。正直、ねぐらでゆっくりしてたいんだけどねー。ま、そーも言ってられないわ』  冗談めかした声が、何処かくぐもった風に聞こえる。 『……』 『あれ、どうしたのよ。黙り込むなんて貴女らしくも無い。普段ならもっとこう、ガーーーーッ、と言い返す筈でしょ』 『確かに、そうかもしれんな。私らしくも無い』 『……益々変ね。魅了の魔法でも掛けられたの?その、ももっち達の所にいるとか言う侵入者に』 『馬鹿な事を』 『あはは。そういう所は相変わらずお堅いね。でも、龍族って一言で言っても色々よ?  それに、ドラゴンズ・ポストの編集長を自称する私としては貴女の浮いた話の一つでも聞きたいじゃない。鉄の女、って評判の』 『ありえんよ。現実を空想小説と同列に語るな』 『けど、分かり合える相手だって居るし、分かり合った者達もいる。殺しあわずに済むならそれに越した事は無いわ』 『──だが、それは理想論だろう?』 『ええ、そーね。それは私も否定しない。確かに人間って私等と頭の性能って一点に限って比べると馬鹿だしね』  大気の壁。その向こうで肩を竦めて苦笑するかの様な声が聞こえる。  それを聞き流しながら、彼女は目の端に僅かに闇夜に光る物を捕らえていた。  鈍い赤。焦げる匂いと音がすぐにでも感じられる様だった。  先程の男では無いだろう。雨も降っている。  あの抜き身の刀の様な殺気は恐らく飾りでは無い事は、相対した彼女は良く知っている。  だが、それにしたって短時間でこの距離を移動する意味は無い。  それに── 『ああ。確かに、その意見には同意するよ。だが──人間だ』  松脂を混ぜた火だろう。それは確かに消えにくい。だが、この場に限っては龍達や獣に己の位置を知らせる以上の意味はあるまい。  リオン山脈付近の獣魔やその類は人を恐れない。  それ所か、彼等は『人間』と言う獲物が火に寄り集まっている事を経験として知っている程である。  個々は大して強力でも無い。だが、それらは雑菌まみれの爪と牙を持っており、しかも大群で襲い掛かってくるのだ。  (因みに、とある黒服等はそれ故に塩味のする靴底モドキを噛み締める羽目になっているのだが) 『ここで火を焚いている。何も知らぬ馬鹿者か──それとも藪に潜む大蛇か、と言った所か』 『確認できる?』  先程までとは一転して、硬い色の声が聞こえた。  状況からの思考への反論。と言うよりも、正確には二者択一。それから、当然に考えられる確率の変化。  何しろここはリアン高原深部。結果予測は良好で無い。声の固さはそれ故である。 『そうだな──何とかやってみよう』  反転。翼が空を切る。轟と言う音が、雨音よりも更に強く響いた。  もしも、彼女が人の姿を取っていたならば、その眉は盛大に顰められていただろう。  獰猛な顎が開かれ、真っ赤な舌が僅かに覗いている。   『くれぐれも落ち着いてよ?貴女が人間嫌いなのは解るけど、考え無しは早死するわ』 『……解っている』  見透かされたか、と彼女は思った。  幾ら、龍族の視力を以ってしてもこの闇夜、しかも雨天ともなれば近づかずには偵察も叶わない。  だが、それは同時に相手からも発見されやすくなると言う事だ。  もし、彼女が不幸であったならば。ほんの僅かな間隙が命取りとなる。  敵がやって来る限り、この山脈は龍族の戦場なのだ。例え人間にとってそうでないとしても。  だからこそ腹も立つ。彼女には戦う理由がある。  高度がぐんぐんと下がる。真横にその影が見えた山頂が、あっと言う間に頭上へと昇っていく。  考えを断ち切り──目を凝らした。見える。  三名。豪奢な杖を持つ者。彼女からして見ても素晴らしい鎧に身を包んだ者。  そして今一人。恐るべき者が、そこにはいた。    ──勇者……ッ!!  彼女は、目を見開いた。  獣共の無数の死骸。その上に座るそれは見間違えよう筈も無かった。  意識が沸騰しかけた。が、ここで感情に流されるのは愚以外の何者でもない。  慌てて押さえ込もうとし── 「!!」  しかし、往々にして不幸とは重なる物だ。一つのミスが更なる失態を呼ぶと言い換えても良かろう。  魔法使いと戦士とがほぼ同時に立ち上がり、天を仰ぐ。  勇者は、と言うと泰然と死体に腰を下ろした姿勢のまま、嘲笑う様な顔で天空を睨めつけているのが見えた。   『何て迂闊なっ!!』  ケチが付いた。自業自得とも不幸とも自身を叱咤するが、それで現状は変わるまい。  兎も角も、一刻も早く離脱する必要があった。    交戦規定、と言う言葉がある。  戦場において、兵が指揮官からの下命の一種であるが、 大雑把に言うならば、相手にすべきモノとそうでないものを兵へと連絡する命令である。  勿論、龍にだってそれはある。只でさえ、戦場に耐えるだけの力を持つ者が人と比べ圧倒的に少ないのだから仕方が無い。  只、断っておかなければならないのは、それは本来人が作り出したものを渋々ながら龍が真似た物であるという事だ。  所詮は見よう見まね。故に、言ってしまえば如何にも下手糞なやり方ではある。   曰く。常時のそれを抜粋するならば、 『一、剣や槍を持つ者だけであれば敵意を確認し次第、これを殲滅せよ。  一、魔法を用いる者が認められたのであれば、此方に対して比較的有効な攻撃手段を持っている場合が多い。    単独哨戒中であれば速やかに本部に連絡し、自らは遠方からの撹乱、及び殲滅を実施、これが不可能であれば、    出来うる限りの情報を収集し、撤退せよ。  一、勇者と呼ばれる存在が確認されている。発見した場合でも、交戦は許可しない。    速やかに報告した後、出来うる限りの情報を収集し、撤退せよ。  尚、以上行動中には受信-送信担当の間において二者一組とし、基本的には援護を行わないものとする。以上』  と言う事であった。    反転上昇。内臓が地面に引き付けられる様な錯覚。寂しがりな大地の抱擁ばかりは誰に対しても平等である。  無茶な機動に喉の奥から吐き気が上ってくるが、そんなものは後回しである。  なんとか高度を取るや否や、魔法使いが詠唱を開始。  ブレスでの迎撃は──姿勢制御の問題で不可。手持ちの魔法では、距離が遠すぎる。 『どうしたの!?シャルヴィ、ちょっと!!』 『勇者だ!!私はそのパーティに気づかれた!!』 『──何ですって!?場所はッ?』 『双子谷の南部七ば──くっ!?』  シルフを介した雑音混じりの慌て声に怒鳴りつける様に答え、それにも又すぐさま返事が返ってくる。  だが、彼女の方の言葉が途切れた──魔法が、来る。  風を切る度、彼女の翼の皮膜を横殴りになった雨が打つ。巡航飛行に於いては問題は無いが殊、戦闘機動に於いては酷く鬱陶しい。  迅速に離脱すべく首を返そうとした銀の龍に、しかし魔法使いはそれを許さない。  大気が揺れる、揺れる。発動直前のマナ──呼び名はさして問題では無いが──の収縮である。  光球の顕現。指揮者の様に杖を振りたてる魔法使い。真円の魔方陣が広がる。  その縁に刻まれた言葉は即ち、『我が敵を討ちて滅ぼせ』と。『偉大なる原初の朱。その吐息今や降り来たりし』と。   「──我はここに裁定を下す。等しく紅の元に滅びよ!!マグナ=ムスペル!!」  破滅の詩を歌い上げ、振りかざした杖に従って。  魔法使いの軍勢は進軍を開始した。  とは言っても、それは『前進』等と言う緩慢なものでは有り得ない。  喩えるとするならば、寧ろ『突撃』。そうだ、破滅を呼ぶ球体共の突撃である。  突撃!!突撃!!突撃!!  雲の掛かった夜、雨降りしきる闇を切り裂いてそれは突き進む。    ──例え、錬金術師共の最新の砲を以ってしても、それを再現するのは不可能だろう。  光り輝くそれは、『始まりのヴァーミリオン』の力を借り成しうる、炎ではない高温高圧のプラズマ球だ。  神なる獣や、その眷属。そして僅かな例外を除いたならば、あらゆる物質を蒸発せしめる破滅の権化である。  それが二十余り。魔物の生存など許さぬと言うが如く彼女を追い、迫る。  娘は、襲い来るそれに歯噛みしながら機動を変える。背筋が粟立つ様な錯覚を感じながら羽ばたく。  避けなければならない。銀龍は、比して魔法に対する高い抵抗を有する。  だが、彼方のそれは数少ない例外の一つだった。  心が酷く薄ら寒い。見開いたままの目を雨が叩くのを気にもかけられない。  恐怖だと言うのは容易いだろう。だが、娘はそれに屈さない。  加速、加速、加速!!臨界まで達して尚、追いかけてくる破滅を背に、くるり宙返り。羽をたたむ。  マントの如く己の翼を纏ったシャルヴィルトの赤い目は、真下に広がる裾野の森を見る。  ぶしり、と余りに無茶な機動に僅かに翼の付け根が裂け、血がしぶいていた。 『うぉぉぉぉぉぉーーーーーっ!!』  己を鼓舞するかの如く、銀の龍は戦の咆哮を上げる。  中天に座していた龍は、破滅に追われる様に大地へと直下していった。  拡大する大地。轟、と響いて森の木々が一斉にざわめく。  その機動には、理由があった。  或いは語るまでも無いやも知れぬが、背後に迫るプラズマ球を回避しなければならないからだ。  無論、許されたタイミングは非情なまでにシビア。  地上僅か三十メートルにも満たない地点だ。時間にしてゼロコンマ数秒あるか否か。  言うまでも無く自殺まがいの機動。身投げ同然に落下していく。  遅れれば最後。骨まで綺麗に粉砕された死骸が一つ出来上がるだろう。  けれど、あれは何かに触れるまで、ずっと彼女を追い続けるに違いない。  ほん一切刹那、後ろを顧みる。  真っ白い球体が見える。  心臓が締め付けられる様な感覚を覚える。  すぐに前に向き直る。  木々が最早目の前にある様だ。  常時ならば、眩暈の一つでも起こしたかもしれない。  そして、その機は訪れる。  今だ、と彼女は確信し──その身を包む、翼を広げ。  雨の降る谷間へと龍の咆哮、即ち龍言語魔法(ドラゴンズ・ロアー)が砕けとばかりに叩きつけられた。 『告げる!!散在する大気の精よ。風の神々よ。我は汝等の秘密の名を知れり!!疾風を我に!!轟風を我に!!烈風を我に!!』  球体魔法陣を展開。選択する属性は『風』。  発現座標を前方25メートル地点へと設定。魔力装填。『咆哮』による短詠唱完了──   『顕れよ、『サイクロン』!!』  応え、周囲の空気が『巻いた』。  翼が上昇を開始すべく、急激に収束し始めた風を捕らえる。  ぴり、ぴりと人間で言うならば皮膚をゆっくりと破られる様な痛み──皮膜が限界に達しているのだ──を覚えながらも、 しかし、それで真下を向いていた筈の首が急激に持ち上がる。  吹きすさぶ大気に僅か乗り、姿勢制動で失速した速度を確保──そしてもう一度、羽ばたき、風の回廊を脱出する。  視界が開ける。  直ぐ真下に広がるは黒い森。  炸裂。そう、彼女の背後でその破滅は炸裂した。  遅い。  じりじりと追いすがってくる放射熱とて、闇夜に溶けて直ぐに消え。  背後に残るのは、只、膨大な熱と衝撃とになぎ倒された木々のみであり──彼女は遂に逃げ切った。  地面スレスレの匍匐飛行。射出地点からは随分と離れている。そこには誰もいる筈などなかったのだ。  いいや、そこまで考える事が出来なかった、と言うべきか。  故に、僅かばかり忍び込んだその安堵を誰が笑えるだろうか? 『──ッ!?』  その目は、それを遂に映す。眼下の森。その木の先に、何かが居る。獣では無い。猿の如き獣などこの森には居ない。  鎧すら纏っていないそれは、『何も持ってはいなかった』。  常軌を逸している。だがそれは。理解する。理解してしまう。  その者は『それ』であるのだと。 「ヒャハハハハハハハハハハハハハハァッ!!」  凶暴な叫びを挙げ、地を蹴り人とは思えぬ速度で森を走り、まるで踏み台の如く木々の幹を蹴りつけて。  砲弾の如く、それは彼女の元にやってきた。  それが浮かべるのは──狂笑。その男の名こそはガチ=ペド。即ち、勇者と呼ばれる者であった。  そして。衝撃が飛翔するシャルヴィルトの翼を打ちぬいたのは、次の瞬間である。  びり、と。布が裂ける様な音を娘は聞いた。  鈍い鈍い痛み。血が弾ける。裂ける。裂ける。頑強な皮膜が、まるで紙で出来ているかの様だった。  ぐらり、と体が傾いだ。その一撃で完全にバランスを失ったのだから、当然だった。  地面に叩きつけられる。半身が。耳を覆いたくなるような酷い音が響いて、彼女の世界は幾度と無く回る。  回る、回る、回る。  きらきらと、舞い上がった破片が雨の降る夜空に尚輝く。  目を凝らして見るがいい。それに付いた黒い染みを。  それは、竜の娘の血であった。  無数の木々をなぎ倒し、跳ねる様に転がり、その末に大岩に叩き割り、漸くその身体は止まっていた。 『──が、ぐがぁ……かは……ッ』  激痛と言うも生易しい痛みに、呪詛じみた呻きが零れる。  まるで、全身の骨が粉々に砕かれた様だった。  こうやって、首をもたげる事が出来たのだから、そういう訳では無いらしいけれど。  かと言って、生易しい傷でも無い──ありていに言えば満身創痍であった。  雄雄しく羽ばたける筈だった翼は最早見るも無残に千切れ果て。見るのも嫌だが、骨さえ覗いているかも知れない。  美しかった彼女の銀鱗は全身至る所から剥がれ落ち。突き刺さった様々破片を伝って止め処無く血が溢れ、焼け焦げて。  腕や足と違い、落下の衝撃から護る事も出来ない尾は骨がへし折れているらしく、根元の辺りから痛み以外の感覚が無い。  喩えるならば、全身に焼け串を付き立てられているよう。    ──だが。 『───』  シャルヴィルトは、立ち上がった。  赤い目は、彼方の勇者を捉える。  退路は既に絶無。援軍なぞ期待しようも無い。  それでも、立ち上がっていた。  ──さて。何処にでもある話をしよう。  昔々ある所に、平和に暮らしていた一つの村があった。  山深く、所々には未だ雪が残り。月の綺麗な夜には、それがきらきらと輝いていたものだった。  そんな村に、ある日、一人の女の子が生まれた。  勿論、その両親も村人達も彼女の生を祝福し、新たに生まれたその命はそうやって世界の善意を信じていた。  さやさやと木々は揺れ。幾度目かの初夏の風がその娘の頬を撫でていたのだった。  そして、その風は顔を嬲る熱風へと変わっていた。例えば、灼熱の吐息の様に。  当時の地図を俯瞰すれば良くわかる事であるが、その村は人間と魔物の狭間と言っていい地にあった。  背後に聳え立つ山脈は魔物の世界。眼前に広がる大地は人間の世界。  人が徐々にその版図を拡大しつつあった──言い換えれば戦乱の時代においては、その結果はいわば必然と言ってもよかったろう。  つまりそれは──戦、である。    今や赤子で無くなっていたその娘の眼には、はっきりとその赤色が映っていた。  木々は燃え。家々は崩れ。そして、村人達の死体が積み重なっていた。  銀色の龍!!ははは。皮を剥げ!!牙を抜け!!雄は殺せ!!雌にはあの薬を飲ませろ!!  ははは。あははははは。はははははははははっ!!大もうけだ!!金の山だ!!  見ろよ、怯えてた俺達が馬鹿みたいだ!!いいぞ殺せ!!もっと殺せ!!もっともっと皮を剥ぎ取れ!!  何人もの人間が軍隊蟻の様に集っては、銀色の大きな龍を殺していく。  剣で。斧で。槍で。棍棒で。或いは、口ずさむその魔法によって。野蛮極まる絶叫を吐きながら。   一際大きい雄の銀龍が吼え声を上げて吐息を吹きかける。悲鳴を上げる暇も無くなぎ倒される人間達。  銀龍の吐息は、火炎でも冷気でも無い。幾千のミスリルの鏃の魔法的な暴風である。  ズタズタに引き裂かれた死体は人間と言うよりも既に挽肉と言った方が良いだろう。  だが。人間達は止まらない。びしゃりびしゃりと同胞だった物を踏みしだきながら銀龍に迫る。  咆哮。絶叫。欲望と殺戮と愉悦のカオス。  吹き乱れる暴力と狂気との嵐。進軍!!軍団(レギオン)の進軍!!  その娘は、銀色の龍が最早肉と化すまでじっと眺めざるを得なかった。  殺してやる。  シャルヴィルトは知らず、そう口にしようとしたのだけれど。  実際に吐き出されたそれは何ら意味を持たない咆哮でしかなかった。  遥か彼方からは恐るべき速度で走り寄ってくるガチ=ペドが見えた。  口の端から、ミスリル銀の欠片が零れ、迸る。  ガチ=ペドは顔面の前辺りでその両腕を交差した。  空中を疾駆した無数の鏃が次々とその身体へと突き立っていく。  当然の如く勇者の肉は引き裂かれ、腹からは僅かに赤黒い臓腑が覗いている。  だが、止まらない。一体、それは本当に人であるのか問いたくなる程に足を止めない。 「ひひひ──痛ぇ。痛ぇ。イッちまいそうなぐらい痛ェッ!!」  それは狂ったように笑いながら、そう叫んでいた。  ブレスが止まる。それを見計らったかの様に、ガチ=ペドはその腕を振りかぶっていた。  応える様に、シャルヴィルトも又顎を開き、首を叩きつける様に振り下ろした。  もしも、それを見る者が居たのならば、空気を打ち抜く幻聴を聞いただろう。  龍の顎は人間など易々と飲み込む程大きい。  だが。目の前のそれは人間であって人間ではない。  邪神さえも殺してのける、神の作り給いし破壊者である。  ドン、と。  ガチ=ペドの足が大地を踏み抜かんばかりに蹴った。  只一度で20M程も真横に跳躍。空しく空を切る顎を嘲笑う。  勇者はその身を低く屈める。続いて拳を握りこむ。  たかが拳骨と侮る事なかれ。勇者が振るうならば、それは地上最凶の拳である。 「うおらぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!ひゃはっ!!」  放たれる拳。振り下ろす様に一度、打ち上げる様に一度。  銀龍の巨大な頭部が瞬間的に跳ね上がり、皮下組織が潰されたのか血が飛沫を上げる。  ガチ=ペドは止まらない。踏み込みを一度。懐に入り込むと、更に鉄拳を振るう。  その一撃で、肋骨が軋んだ。余りにも距離が近すぎる。丁度、頭部の真下に当たるそこは、龍の死角と言ってよかった。 「どうしたどうした!!つまんねーぞ化け物!!もちっと足掻いてみせろや!!」  そのダメージを受け止めたシャルヴィルトが競りあがってくる胃液を吐き出すより早く連打、連打。  何度も何度も何度も何度も握り拳を叩きつける。  ぼきり、と今度こそ骨の折れる音が響き、零れた黄ばみがかった唾液には既に赤い色が混じっていた。   『ぐ……う……げほっ……げぇ……っ』  意識が、混濁する。  何処までも続く暗い森。視界が霞む。  痛い。気が狂いそうだった。よろめきながら後ずさろうとし、彼女は自分の鼻先が掴まれるのを感じた。  ぐい、と引き摺られ、地面の岩盤へと叩きつけられる。  ふと──その揺らめく視界の中に、杖を持った姿が見えた。  それは、少しばかり不安そうな口調で言った。 「──勇者殿。そこまでにして戴けませんかな。私との約定をお忘れではないでしょう。殺してしまっては、元も子も無い」  それは、陰鬱な色のローブを纏った魔法使いであった。  声を掛けられ、シャルヴィルトの鼻先を掴んでいたガチ=ペドが返り向く。 「ああ、そういやそうだったな。あんまり退屈だったからよ。思わず打ち殺しちまうとこだった」  すると、僅かに魔法使いは顔を歪める。  彼には彼の目的があった。最も、勇者はその様な事をあまり気に掛ける性格でもない。 「気をつけて下さいよ……貴方はここに殺しに来た。けれど、私は奪いに来たのですから」  つかつかと魔法使いは媚びる様な卑屈さを覗かせつつ、彼の横を通り過ぎて龍へと歩みよった。  じろり、じろりと身体を沈めたまま、身じろぎ一つ取れないシャルヴィルトの体躯を嘗め回すように見ていた。  周囲を一通り回り終えてから、彼は上品に顔を歪めると、ローブの裾でその鼻を覆うジェスチャーをしてみせる。  既に、闘争は娘の敗北で終わった。  今更、魔法使いの出番は無いかの如く思われたが、そうでは無いらしい。  がさり、と遅れて戦士らしき人影がやってくる。それを無視して、魔法使いは続けた。 「おお、何と生臭い。龍と言えども所詮は獣ですね」 「当たり前だろ。ケダモンじゃねー魔物なんかいねーよ。だってのに人間様に逆らうから、こうなる」  嘲笑うかの様なガチ=ペドの声。がつん、と龍の頭を軽く足蹴にする。  振り向いた魔法使いは彼に僅かに皮肉げな顔をしていた。 「貴方の意見には賛成ですがね、殺す以外にも使い道は──おい、ウスノロ!!さっさとこっちに荷物を持って来い!!」  振り向き、立ちすくんでいた戦士に怒鳴る。  実際の所、彼がウスノロ呼ばわりした男は豪華な装備をしては居るが戦士では無い。  長旅に際して、人間であれば当然必要な諸々──例えば、食料や水──がある。  幾ら、圧縮魔法その他諸々を考慮したとしても数人を数日間支える量、ともなればそれだけでかなり嵩張る。  更に、照明器具、寝具ほか雑貨諸々──要するに、当然それを運ぶ手段が必要になる、と言う事だ。  通常であれば馬やロバ。そして、奴隷である。  因みに、奴隷の装具は魔法使いにとっての『財産』でもある。 (国や道徳、倫理に縛られるとは限らない冒険者にとって、 法に縛られる政府系(冒険者ギルドのそれを含む)の銀行は都合が悪いし、相手が十分な現金を保有しているとも限らない。  故に、ある程度財産のある冒険者は普通貯蓄代わりに高価で壊れにくい品──宝石や魔法の品、を持ち歩くのである)  ──さて。ガチ=ペドが手渡された自身の鞄から取り出した怪しげな薬品を飲み下し、 一際大きい袋に入れられ、ぐったりとしている少女?の首輪を引いて自らの傷を癒している傍ら、 一方の魔法使いは何やら奴隷から受け取った袋から何かを取り出していた。  それは、丁度ビー球程の大きさをした球体であった。とは言っても、勿論ガラスではない。  日に透かせば良くわかるだろうが──それは、表面に無数の細かな細工が施された天然水晶であった。   「何だ、そりゃ?」 「ああ、これですか?魔法の発動体ですよ」  言って、手に握りこんだそれを示してみせる。  しかし、ガチ=ペドは不機嫌そうに言う。 「それは解る。何の為かって聞きたいんだよ」 「すぐ解りますよ。まぁ、見ていて下さいな」  手のひらを差し出す。そして、片手の杖を地面に付ける。   魔法使いは口ずさむ。魔方陣が展開される。  詠唱である。だが、何を唱えると言うのか?  発動体が必要となる魔法など余程大規模なものぐらいだのに。  腰を下ろし興味なさげに眺めているガチ=ペドを尻目に、彼はシャルヴィルトに近づき、 その水晶の欠片をシャルヴィルトの口の中に押し込んだ。    ──毒、だろうか?  その彼女は、と言うと薄ぼんやりとした頭でそう考えていたが、それは毒薬では無く水晶である。  最も──ある意味では、それは龍族にとって最大の猛毒、とも言えるのだが。  魔法使いが、何事か呟き始める。瞬間、びくんと龍の身体が跳ねた。  その口からは苦悶に満ちた声が漏れていた。  そして、何より異様な出来事は──シャルヴィルトの全身が、まるで繭の様な光で包まれて始めている事であった。  そこで初めてガチ=ペドは目を僅かばかり見開いていた、興味を覚えたのだろう。  一方の魔法使いは、ニヤニヤと顔をゆがめながら言葉──つまりは詠唱を続けている。  かつて、龍族の楽園であったこの土地──リオス高原、及び山脈一帯において、戦争があった。  その戦いで使われ、後に禁呪とされたものこそ、魔法使いが唱える呪である。  誰が呼んだか曰く、それは『男専用』の魔法。  人の姿へと変異する龍の術式に介入し、それを操る外道の技である。  やがて、繭が溶ける。魔法使いは己の成功に笑みを浮かべ、ガチ=ペドはと言うと、まるで奇術を目にしたような顔をしていた。  (彼の名誉の為に一言を付すると魔法使いの業は難解な数学の式の様な物で、専門技能を有しなければ理解は非常に難しい。  第一、ガチ=ペドが入学出来ただろう『王国』にも『皇国』にもそんな実学を教える様な授業など殆ど無い)   「どんな手品だよ、コリャ」  呟く、ガチ=ペド。  先程まで繭があったそこには一人の『娘』が横たわっていた。  彼女が纏った服は酷くボロボロで、手足とて傷にまみれている。  その髪は美しい銀色を尚保っていたが、べったりとこびり付いた生乾きの血が如何にも生々しい。  ──つまり、それはシャルヴィルト、と呼ばれた龍の成れの果てであった。 「見ての通りですよ、勇者殿。先程の獣を人の姿に変えたのです」  自慢げな言葉らに勇者は疑わしげに見つめると、一足で歩みよると横たわる娘の腹を蹴り上げる。  悲鳴さえ上げられず、シャルヴィルトの身体が浮く。  苦痛にのたうつ娘を見下ろし、それでガチペドは納得がいったのか。 「成る程。確かに龍だ。俺が蹴っても死なねぇしな」  愕然とした表情の魔法使いを無視し、さも愉快そうに笑っていた。  ──雨音が、何時しか強くなり始めていた。