『王国は何を考えている!!奴等は条約を忘れたのか!!』  そう、雄の龍の怒声が響いていた。  会議は踊る。されど進まず。  正にその言葉がぴったりと当てはまる様相であった。  シルフ──通信魔法越しには、今の雄龍の様な酷く重い声や感情的(ヒステリック)な怒鳴り声が飛び交っている。  だが、問題は既に引くか、それとも戦うかであった。  確認された地点は谷間に広がる森の中。それも、『エデン』に程近い。  そこで迎撃しようとした所で龍達の数は十分とは言えない。  相手もまた、この地が龍の領地だと知っている以上、すぐさま移動してしまっているだろう。  そうなればこの夜闇では発見できるとは限らないし、この森を抜けられれば直ぐにでもエデン──ももっちの集落である。  だが、かといって水際での対処しようとすればちっぽけな集落など一刻と待たずに灰燼と帰すだろう。  議論は、愚痴にも似た叫びを除けばその一点で平行線を辿っていた。  だが、誰一人として現状を、或いは怒りを隠さない者を責めては居ない。  勇者の来襲である。  それを前にしているのだ。発言や態度に対しての非難等、全てが終わってからでも出来る。   「──」  自らのねぐらでさえ人の姿を取っている──同属に言わせれば変わり者の──彼女、ナジャ=アルテシアもそれは理解していた。  だが、納得はいかない。はいそうですか、と受け入れ、冷静になり切れる筈も無かった。  幾ら、ドラゴンズ=ポスト等と自称しては変わり者を気取ってはいてもだ。  翡翠色の長い髪を苛立たしげに弄びながら、彼女はその横顔を悔恨の色に染めている。  だからと言って何が出来ると言う訳でも無い。  例えば、全てを無視して一人で飛び出したとしても。  今すぐ同族達に叫んだとしても。  ぎゅう、と彼女は唇を噛んだ。  シャルヴィルトは、彼女にとって友と呼べる存在だった。  そして、聞かされ続けていた。  叫び──否、その悲鳴を、だ。  魔法の顕現を停止させる事さえ忘れてしまっていた。  先ず最初に全身を突き抜ける怒りがあった。  だが、気が付くとその肩が震えていた。  止めてくれ、もう止めてくれと知らず哀願さえしていた。  当然、それが届きもしなかったのは言うまでも無い。  ナジャは苦悩する。  何一つ出来はしなかった。そして今も。  『勇者が居た』と言われた時、直ぐにでも飛び出してしまえばよかった。  思う。己はあの娘を見殺しにした様なものだ、と。  後悔。それから、今も生きているかも知れないと薄甘い願望が囁く。  同時に半ば予想してもいた。凡そ最悪に近いだろう状況を。  がぶりを振り、囁き続ける通信に努めて耳を傾けた。  そうでもしないと押しつぶされてしまいそうだったからだ。   『──諸君、議論は既に極まっている』  一際低く厳かな声──これまで只の一度も意見を発しなかった龍だ。  ナジャは、それがこの山脈を取り仕切る一番古い龍なのだと理解する。  ──齢は千と五百を優に超えるだろう。彼女や他の龍達とてその正確な年齢は知らない。  それまでの議論の応酬は、その一言で途絶えていた。  だが、ざわめきは消えない。 『最早、問題は引くか、それとも攻めるかではない。  刻限は過ぎ、時兎は走り去った。この上尚座していれば、遠からず全てを失うだけだろう。  我々は戦い、そして勝利するのみだ。例え、敵が勇者であったとしても』  声の主は言う。  それは、打って出る事を主張する意見と同じではあったが、無視する事を許さない重みがあった。  一方でナジャは思う。果たして己は、今戦う事が出来るのだろうか、と。 『炎を扱える者は集え。森を焼き払い、勇者を燻り出す。その程度で怯むとも思えないが、エデンに戦火が広がる事は抑えられる』  声がすっかり静まったのを確認して、彼は言う。  ──その言葉に彼女は顔を酷く歪ませた。  その意味が直ぐに理解できたからだ。  言い換えよう。古龍は、シャルヴィルトの生存を度外視する事に決めたのだ。  言葉を選らべば生存を絶望視していると言う事であるが、その示す所は変わらない。  そして、ナジャを他所に再びどめよきが上がった。  無理も無い。それは率直に言えば、暴挙とも言ってよかった。  龍は森を焼かない。人にとっても彼等自身にとってもそれが常識であった。  普通、自らの庭に火を放つ人間など居ない。  そういう事だ。   『──本当に、我々は戦が下手だな』  幾つかの、無意味なぼそぼそとした呟きを除けば、沈黙が蟠っていた。  そう息を吐きながら呟く古龍は反論を待っているのだろう。  自らの言葉が場にそぐわぬ事は知っていたが、それを見て取り口を開く。 『──シャルヴィルトは』 『その質問は却下する。ただ一人と、我々全ての利益を天秤に掛ける事は出来ない』   しかし、それはただ一言で切って捨てられる。  ナジャは唇を噛む。解っては居た。だが、想像と現実はまるで違う。  古き龍は平等だが苛烈だ。彼は無慈悲なまで現実を見つめている。  そして──残念な事に、龍族と言えど一枚岩では無い。  当然と言えば当然である。  人がこの地に訪れる前は、彼等とて互いに合い争う身であったのだ。  侵食する人の世に対抗し山脈の龍達が同盟を結んでから、僅かに二百年。  ──その内、シャルヴィルトの種族を含む三の龍族が血を絶やした──  長い時を生きる龍にとっては、その程度の時間でしこりが消え去る方がおかしい。  血を血で洗う内輪揉めが巻き起こされる程では無いにしても。  苦虫を噛み潰した様だった。  せせら笑いが聞こえた気がした。  ナジャは、彼女の心配など他所にただ進んでいく会議を聞いていた。  …  ロボ=ジェヴォーダンなる男にとって、雨はどうにも好きになれない物の一つであった。  旅の途中で降られれば足止めを余儀なくされるし、第一煙草を吸う事も出来ない。  寝覚めの雨ともなれば酷い頭痛を呼び起こすし、夏の雨はその雨上がりが蒸し暑い事この上無い。  そして、何より。彼は今、頭から足の先まで全身ずぶ濡れであった。  車軸の様な雨が彼の外套に遠慮呵責無くぶち当たっては、染み込んいる。  帽子の鍔を伝って水滴が地面に流れているしブーツの中も完全に水浸しだ。  全く持って、男が愚痴を零すのも無理も無い話ではあった。  その原因は、彼がつい先程まで、走っていたからだ。  夜の森を。木々の間をすり抜けすり抜け。時には崖の様な斜面を下り、只の一度も立ち止まらずに。  ロボは、最初に携えていた荷物の大半を軒先に置いて来ていた。  持っている物と言えば一本の刀と、上半身を覆う皮鎧。(後者には投げナイフのベルト、それから鎧通しが一つ)  それからポーチと鞄が一つづつ。  先程も言ったが、易しい道のりと言う訳ではなかった。  山を越え谷を越え──てはいないが道は険しく暗く。  夜の山道を全力疾走など、己の言葉が無ければ決してやらないだろう。  最初に閃光が見えたのは凡そ半時間前だが、その時からずっと走り詰めである。  汗が直ぐ雨で流されるのは多少有難かったが、気休めである。 「チッ……全滅してやがる」  ごそり、と懐に手をやり、念の為にと持ってきていた煙草が完全に駄目に成っているのに彼は酷く不機嫌そうに呟く。  但し、彼とてこの雨の中紙巻き煙草の無事を期待していた訳ではないが、それは愛煙家の性と言うものである。    ため息を一つばかりついて諦めると、彼は注意深く辺りを見回す。既に、この辺りの筈だった。  彼が探している物は足跡である。勿論、獣のそれでは無く人間の、だ。  人類未踏破の地域に信頼できる地図は無く、一方でこの地の覇者たる龍達には地図を作る様な必要性は無い。  故にある意味、冒険者にとって索敵と踏破、そして注意深さと慎重さは戦闘力などより余程重要な要素てある。  それこそ、闘いがそれらに代わる様な化け物でもない限りは。  兎も角、それさえ見つければ追跡し、空間移動でもされない限り、何処まで移動しようと発見する自信が彼にはあった。  但し、この雨に夜闇だ。酷く注意力を要求する作業に違いなかった。  方向感覚を頼りに、彼方からでも確認できた『閃光』を追えばよかった先程までとは違う。  地面に跪き、辺りのぬかるみをじっくりと改める。  僅かに鼻を蠢かせてさえいる様は、何処か狼を彷彿とさせた。  やがて立ち上がる。その目は、ある一点を捉えたまま動かない。  最早遠くは無く、そして彼は何となくこれからの運命を予感していてもいた。  いや、どちらかと言えばデジャヴュと言うべきか。  さて、話は変わるが彼にはある一点から以前の自身に関する記憶がまるで無い。  目覚めた時には、何処とも知れない森の中、今のそれと殆ど変わらぬ服装で──とは言っても、 その当時の彼は流石に今よりも幾分若いし、流石に何度と無く服を買い換えてはいる──地面に倒れ伏して天を仰いでいたと言う具合だ。  (只、技能と知識だけは何故か鮮やかに思い出せた。何者であったかに関する記憶のみがごっそり抜け落ちている)  そして、その既視感も又、その失われた記憶の中に属していた。  気に掛かる事と言えば行く先々でどうしようもない災厄やら危機に巻き込まれるぐらいか。  旅を始めて随分経つが、一度だって目的を果たすまで平穏に過ごせた記憶が無い。  その上、大抵はそれ等がどうしようも無くなった頃に出くわすのだ。  そうでなければ、初めから戦う事が決まっている。  今回はどうやら後者であるらしい。  傍迷惑な話ではあるが、どうもそれは男の宿命と言う奴らしかった。  頭を振る。それはどうでもいい事だった。少なくとも、今は。  そして、彼の原理は二つある。  一つは旅をする事。  最も、実の所はっきりとした目的がある訳では無い。己自身の記憶にも何故か興味は沸かなかった。  強いて言えば、旅そのものであろうか。  これについては彼は悩んだ事は無いし、その必要も無かった。  ──そして今一つは。騎士であろうと意思する事であった。   例えば、月影のビー玉が宝石であろうとする様に。  描かれた横顔が、過日の影を思い起こさせる様に。  すい、と。雨脚に紛れ、音のまるでしない足取りで、彼は歩み出した。  …  リオス高原の裾野。そこに広がる森の中。曇天と夜闇の下だ。  炎は焚かない。その為、酷く寒いがその男に限ってはその程度では堪えまい。 「うだーーー……雨ウゼェ」   鬱陶しそうな顔をしながら大樹の根に腰を下ろしていた。  ガチ=ペドと、と言う男である。  (注記しておかなければならないのは、今はまだ彼が良く知られる以前である、と言う事だ。  故にヘイ=ストなる魔法使いも居なければ、ロリ=ペドなる聖騎士とて居ない)  傍目には、むしろ彼こそが奴隷の様な風体である。着ている服は酷く襤褸であるし、髪もまるで手入れされていない。  人間、何処か一つは欠点があると言う。この男が人の範疇に留まるかどうかは又別種の議論が必要であろうが、 兎も角、見ての通りの有様であった。    そして彼は一人だ。連れ立っていた魔法使いと席を共にしている事も無い。  退屈であった。魔法使いの男の様な趣味は彼には無い。  と言うよりも、実際の所、彼はそれを使い物にならなくしてしまう為に取り上げられたのだが。  その為、不機嫌でもあった。  ──荒い息遣いが聞こえる。ぺっ、とガチ=ペドは唾を吐き捨てる。  自分でヤるなら兎も角、おあずけ喰らって他人のそれを聞かされンのはムカツクな、と彼は思う。  只、木偶を弄んで何が楽しいのか、とも思うのだけれど。  良く考えずに安請け合いしちまったのは失敗だったな、と彼は今更ながら思う様になっていた。  だが、他にどうしようも無かったのである。   勇者、と言えども衣食住は必要だ。特に、食に関してだ。  この男、性質を述べるのならば正真正銘の野生児である。  身寄りも無ければ、生まれた時から己一つであり、それが全てである。  服や武具など何とでもなる。だが、食料に関してだけは道端の物など口にしたくは無い。  それから、トゥリューズに付いた時点で、只でさえ浪費癖のある彼の路銀が底をついていたのであった。  (殺し、奪い、犯せば金を貰える時代だ。正に彼にぴったりと言えるだろう)  最も、凶暴化した魔物が溢れ返っていると巷に言われるこの時勢だ。彼が食い扶持に困る様な事は殆ど無い。  すぐに仕事は見つかった。それを持ちかけたのが、今彼が同行している魔法使いである。  (余談ではあるが、彼の職探しはすぐそれと解る。  冒険者の溜まり場を見つけては、そこを滅茶苦茶に暴れまわって破壊し、己の力に目をかける者を探すのである)  特に屈強と思える冒険者を殴り殺して、それから声を掛けてきた卑屈なこの男に曰く、奴隷狩りにございます、との事であった。    彼にしてみれば全く理解できない事に(なぜならガチ=ペドにとっては魔物は駆除対象でしかない)、 この世の中にはそういう者が少なからずいるらしい。  普通のそれと違い、ここで言う奴隷とは人に似て人で無い者である。  好んでそれを辱めては嘲笑う様な連中が居ると言う事だった。  何をしているのかと言うとナニをしているのだろうが、兎も角後は需要と供給に問題は移行する。  それから、あの魔法使いに言わせれば今の状況は所謂基礎教育とかそう言う類の言動で表されるのだろう。 「ナンか面白ぇ事でも無いかねぇ」  だが、何も無い。彼の眼鏡に適う程の愉快事などそうそう起こるものでもあるまい。  故に世は事も無し。彼派欠伸を一つに肩を鳴らしていた。  さて。ここで一つ断っておくべき事がある。  ガチ=ペドとは前述の通り、野放図にして混沌の男であるが、少なくとも人にとっては決して悪の一言で括られるべき人間では無い  彼の通った後に魔物の影は無く、人の世界は異種の根絶を伴う進出によって拡大する。  (事実、彼はこの点により、後に勇者として大陸中に名を轟かせる事となる)  故に、常々官僚や政治屋の口に上る言葉を繰り返すならば、あらゆる殺戮は正義であり、略奪は善である。  人の世から魔物の脅威が無くなれば国は益々富み、その王と一族は末永く栄えるだろう。  彼とてそのお零れに預かり、一介の冒険者──そう、彼は今はまだ冒険者に過ぎない──には多分に過ぎる待遇を受けるに違いない。  とある宗教家が記した言葉を付け加えておこう。 『魔物の悪を疑う者は『王国』に仕える賢者達が記した歴史書を読み考えを改めるがいい。  歴々の国を汚してきたあのおぞましい生物を知るがいい。  その根絶こそは正義であり、善である──』云々。  ただ、彼にしてみれば細かい理由など気にかけるまでもあるまい。  元より英雄譚に語られる者など夢想だ。  一方で時代は確かにガチ=ペドの背中を押している。  貧しい者は切り開かれる土地と打ち倒される魔物に希望を覚え、富める者は齎される財宝に喜ぶだろう。  人に対しては罪を償うに足るどころか、山程の保釈金を彼は積んでいる。  彼は、勇者である。  だが、それは事実の別側面に過ぎない。  兎も角、前述の通り彼は退屈なのであった。   そして退屈さとは人を殺す。  未だ仲間と呼べる仲間を持た無い彼からしてみれば、それは魔物などより余程手強い相手であった。  さて。暫く何も殺してはいけない、と魔法使いは彼に告げていた。  蜂の巣を突いた様な騒ぎになるだろう事が明白だからである。  確かに。 「そいつは面倒だよな」  言う。  目下の所は路銀を求める彼は勿論、自らの命を危険に晒すなど真っ平である。  芋を洗うような龍の群れを相手にするとなると、流石に骨が折れる。  さりとてざぁざぁと雨は降り続いていて、不快な事この上無い。  何をしようか、しかし何もする事も出来る事も無い。  あの魔法使いの如き人間と騒ぐ等真っ平ごめんである。  拘束具を嵌められた上では何をやっても楽しくは無いだろう。  そんな思考のループを繰り返す。  これはある魔法使いの評であるがこの男、子供であった。  肉体的にと言う意味では無く、精神的にである。  例えば、今だってそうだ。(大人である、と言う言葉を義務と欲望の両者を履行する者た、と定義するならば)  彼には何も義務は無く、心の赴くままに全てを行う。  そして、両親に保護された子供が自由である様に、強大極まる腕力が彼を守護していた。  何も恐れる事は無いだろう。  だが、そうであるが故に彼は人なる自身が本当に何をすべきか解らない。  本能的欲求の充足は獣とて出来る。己の意思こそが問題であった。  最も、彼はそれを知らないし誰一人として彼にそれを説こうとする者もいない。  彼に並び立つ者など、並び立とうとする者など未だ居はしないのだ。  つまり、ガチ=ペドなる者は孤独な男であった。  勿論、彼がそれを自覚しているかどうかは別として。  そんな雑感はさておき、彼は相変わらず腰掛けたまま退屈げに呟く。 「あーあ、なンか面白ぇ事でも起きねぇかな」  …  『永久の灰色──超越種・神獣類・事象龍目      事象龍の一。秩序、混沌に対し中立を象徴する神獣。   前述した両者に対する抑制者、調停者にして刺客とされる御使いである。   『生物の意識が生み出した事象龍(暁のトランギドール、蒼のインペランサの項参照)』との見解が通説だが異論も多い。   と言うのも、前述した通り事象龍は様々な伝承を伴うのであるが、本種は幾つかの者達と同じく、   (穢れ無きウォルヤファの項を思い出して戴きたい。残念な事に信仰が途絶え、日の光を失った者達もいるのだ)   秘儀と忘却の分厚いヴェールを被っており、今となっては我々は殆どその逸話さえ知る事ができないからである。   その中で比較的知られる言葉(創生神話、と一般的に呼ばれている書物からである)を抜粋するならば、曰く   『彼の者は背後より、鋭い刃で殺し過ぎた者を、救いすぎた者を突いた。    何故ならば、彼はそれらの者を好まないからである』云々。   今も良く知られる事象龍達は多いが、その一方で殆ど誰にも知られる事も無い者達も居る。   ここからは余談であるが、思うに彼等の多くは『視る者が居るからこそ存在し得る』のではなかろうか。   最も、これは傲慢な見解であるし、事象である以上は無いと言う事こそ有り得ない。   だが、少なくとも見えない物は見えないのであって、そうであれば筆者の様な学者は直ぐにその職を失ってしまうだろう。   事実として、この種は伝説の中でのみ語られる存在であって、確認された事例さえ資料の残る範囲では無い。   ──(編集注記:以後、筆者の論が続くが紙面の都合上、ここでは割愛する)                     』   以上、魔物生態辞典第三版より抜粋。 私は著者達の労苦に大なる感謝を捧ぐ。  …    ぼんやりとして現実の事は何も考えられなかったから、閉じた思考の中でシャルヴィルトは昔の事を思い出していた。  今ではトゥーリューズと呼ばれている街における、五十年程前の出来事である。  それから、彼女は今年で二百五十歳程になる。この様に書くと、随分と長い年月を生きてきたようにも思えるが、 実際の所、千年の年月を平気で生き抜く龍族の中ではかなり若輩の身である。  (その為侮られた事も多いのだけれど、彼女は美しく、その体躯は並の龍などより遥かに大きかった)  話を元に戻そう。  五十年前のトゥーリューズは人にとっては未開の森であり、そこには一つの集落があるばかりだった。  とは言っても人のそれではない。『銀鱗龍』と呼ばれる貴龍にして古龍の郷である。  (貴龍とは人の言葉を解し操る龍、古龍とは人の世の以前から種として生きる龍を指す)  彼女は、その場所の生まれであった。  龍の巣。単語のみを示されれば、きっと多くの人は何か洞窟だとか、そういった物を連想するかもしれない。  事実、その風景が原則であるし、そもそも彼等程強力な生物ともなれば群れを作る必要も無い。  かつ、高等以上の知性を持つ魔物とは多く個人主義か、或いは家父長的な色彩を帯びる集落を作るものである。  だが、彼等はと言うとそのどちらとも違う。  と、言うよりもそれと知らなければ、亜人の集落とでも見間違う事だろう。  (ただ、便宜上その村も又、トゥーリューズと呼ぶ事を許して戴きたい。元々の名前など解らない為だ)  銀鱗龍は、人の姿を取る事を好む。  と、言うよりも必要がなければ殆どの場合は人の姿のままであるのだった。  シャルヴィルトの様に、正統な龍の姿を好む者の方が少ないのである。  勿論、それには理由がある。人間のある面を彼等は愛するからであった。  少しばかり想像力を掻き立てる事としよう。  人とは常々対立する二つの項で出来ている。例えば、喜怒哀楽などと言った言葉を思い浮かべればいいだろう。  勿論、銀なる物達が好むのは美しいものであり──わざわざ、汚濁に身を沈めようと言う物好きはそうは居まい── それから、その中でも何より愛するのが、人が編み出した英知であり、真理であった。  概して、好奇心の強い者が多いのもその為である。  最もそれは余談であるのだが。  彼等が大変理屈っぽい事の裏返しでもあるのだが──実際、彼女の記憶の中には、両親が何やら理解の埒外にある深淵な議題で 激論を交わしていた情景が多々ある──人の基準でも善良と言っていいだろう。  さて。  シャルヴィルトの思い浮かべているそれはと言うと、何気ない日常の記憶だった。  自宅の書斎、そこに無数と見える程大量に本の収められた書架から抜き出した何冊かの書物を読むのにも飽きて、 遊びにでようと外に飛び出し、走っている時だった。  確か、あの時は全部読み終えるまで外出するな、とも言われていた気がするけれど、 子供と言うのは元気がありあまっているものであり、それは読書にだけ費やされるようなものでもない。  走っている。風を切って、地面を蹴って。  道を行く大人が二人見える。龍族の繁殖力はきわめて低い。この村の子供は彼女一人だった。  向かってくるシャルヴィルトに気づいたのか、彼等は彼女の方を向く。  あの子か、と一人が言い、もう一人は、今日も元気だね、と彼女の後ろ、二階の窓が開け放たれた家を見ながら苦笑いしている。  きっと、今頃火でも噴く様な形相をしているだろう娘の両親の事を想像しているに違いない。  怪我するなよ、俺達は釣り行くんだけどさ、と続けていた。  ぶんぶんと手を振ってそれに答え──狭い村だ。そこに住む全員が顔見知りの様なものである──走りながら、彼女は空を見上げる。  まっさらに晴れた空。幾つも雲が流れる。  飛んでそれを追いかけたい気もしたけれど、大人になるまでは決して飛ぶなと言われていたから我慢した。  その代わりに、走る事にする。追いつけないかもしれない、とは考えなかった。  風と、土と。そして森の匂いがする。  何度か立ち止まって息を吐いた。途中で寄り道をしたりもした。  だが諦めなかった。追いかけ、走る。  それを子供故の愚かさだった、と断じるのは、容易い事だろう。  事実として、その通りなのだから。  ──もう少し、この記憶には続きがある。  余り意味の無い事だとはわかっている。これは逃避であるからだ。  人──であるかどうかは兎も角として、夢とは儚い。  だからこそ、もう少しばかり付き合って欲しい。  遠く──夕日が沈んでいた。  シャルヴィルトは、と言うと森の中で一人、座り込んでいた。  彼女の居る場所は少しばかり開けていて、上空から見下ろせば丁度そこは広場の様に見えるだろう。  俯いている。目は今にも泣き出しそうなほど潤んでいるし、もう歩き回る気力さえも無くなった、と言った様子だった。  単純な事である。道に迷ったのだった。走っている内に森に入り、歩き回っている内に道を失ったのだ。  一方の森はと言うと既に夜があちこちに訪れている。  木々の梢は日の光を隠す。黄昏の空は森の夜であった。  遠く獣の遠吠え、梟のさえずり、それからギャーギャーとざわめく鳥の叫び。  それが聞こえる度にびくびくと体を縮こませて、辺りを見回しては又俯く。    魔境の夜は、文字通りの異界だ。  易々と人さえ食い殺す獣が跋扈し、空を飛ぶ者は星の下で合い争う。  ざわざわと巨大な蟲どもが這い出し、哀れな獲物を探す。  兎も角、幼龍が生きていける環境で無い事だけは確かであり、その不安、と言うよりも恐怖は当然の感情であった。  十分に成長していれば飛んで帰れもした。  だが、その時の彼女は飛び方も知らなかったし、第一、そんな事を考えつけもしなかった。  幼心に愚かな事をした、と思っていた。  何が悪かったのだろう、何処で間違えたのだろう、両親は今頃自分を心配しているに違いない、そう思っていた。  それよりも何よりも、すぐにでも自分の家に帰りたかった。  帰りたい。やがて、その思いが何よりも強くなる。  ふと空を見上げると、すっかり日は落ちてしまっていた。  その代わりに、ひっくひっくとしゃくり上げる声がシャルヴィルトの口からは漏れ始めている。  感情のハレーション。我慢など出来る筈も無く。胸の内に渦巻き、脈動し、のた打ち回る感情の蛇はすっかり彼女を縛り上げ。  シーッ、シーッと威嚇する様な音。ざわざわと木々がざわめく。何処もかしこも恐ろしいもの満ち満ちているという幻想。  きっと、そのままであったならば不安は、或いは夜の死神共は幼子の命を易々と刈り取ったろう。  シャルヴィルトもそれを確信してさえいた。  ──グオォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!  夜闇を切り裂く、その咆哮が聞こえるまでは。  弾かれた様に空を見上げる。一つ月、二つ月が半月に輝きソラを照らし。  そして、その叫びの主はそこに居た。  月影に蒼く煌く鱗を纏い、雲霞と飛び来る鳥の魔をなぎ払いながら、突き進んでいた。  それは二頭の銀の鱗の龍。  その進撃を鳥獣風情に阻める道理などあろう筈もあるまい。  シャルヴィルトは、直感的に理解していた。あの龍は、父親であり母親なのだと。  咆哮に応え、彼女も又叫ぶ。  銀の龍がそれに応え、それから邪魔だと言わんばかりに奇妙な叫び──それは龍言語と言う──を上げた。  応え、発動する。ばずん、と弾ける様な音がして、銀龍二騎に纏わり付いていた化鳥がバラバラと落ちていく。  そして一直線に両親が向かってくるのをシャルヴィルトは見ていた。  その瞬間、安堵していた。ひょっとすると両親もそうだったのかも知れない。  どずん、と木々をなぎ倒して二頭の龍が彼女の前に降り立つ。  ──その体を図るのには、少女が何人必要になるだろうか。  十人?二十人?いやいや、もっと必要に違いない。  彼女が始めてみる龍姿の両親は、力強く、美しく、そして厳しい顔立ちだった。  二人は、何も言わず彼女をじっと見下ろしている。  その時、彼女は勿論安堵していた。実際の所、両親もそうだったのかも知れないが、 少なくともその時の彼女にはその二人が怒っている様に見えた  すぅ、と父親が大きく息を吸い込むのが解る。何事か、と思うが理解がさっぱり追いついていない。  ──グルォオオオオオオオオオオオッ!!  言葉にもなっていない咆哮が轟き、びりびりとシャルヴィルトの頬が空気の振動に嬲られる。  泣き出す、所の話では無い。激怒に染まった父親を前にひきつった顔をしたまま、彼女は完全に硬直してしまっていた。  それは今にも食いつきそうな形相であり、事実寸での所までにじりよったのであるが、 真横から妻からの体当たりなど貰って、足を止める。  ぼつぼつと小声で何かを呟くが、改まって向き直る。  要するに、本当に怒っていたのだ。あんまりに心配しすぎて、それを抑え切れなかったのだ。  しかし、先程の一撃で我に帰ったのか、ごほんと咳払いをして居住まいを正している。  ややあって、未だ語気の荒い父親に代わって、母親が彼女に対して問いかける。  どうしてこんな事をしたの、と。責めるでは無い、しかし厳しい声音だった。  そもそも、前述の通り銀鱗龍は滅多に人以外の姿を取らない。  例外を挙げるとすれば戦いか──さも無くば、彼等が本当に怒っている時ぐらいである。  だが、彼女は正直には答え辛かった。かといって嘘をつくのは論外だが。  なかなか答えようとしない娘に、母は言う。  迷惑をかけた、なんて思ってるならそれはいいのよ。  心因性神経疾患(ストレス)で──心配し過ぎてで卒倒しそうだったお父さんは仕方ないけれどね。  ちら、と言ってから横を眺める。雄龍が気まずそうに身を揺すっている。  何を言っていいか迷う少女の様子を見て取ってか、道に迷った理由も聞かずに母親は続けた。  そうね──本当は、とても難しい問題なんだけど。母さんちょっとズルしちゃおうかしら。  満点の答えは見つける事が出来るまで保留にしてあげるから。    シャルヴィルトは一も二もなく頷く。  あなたは、自分のした事をどう思ってるの?  否定。これは良くない事だ。  いけない、と思ったのはどうして?  ──少し、考えていた。両親を心配させたから?  それも含まれる。だが、少し的外れで裏返しの答えだ、と思っていた。  何故、それを駄目だと考えたのか。綱を引く様にして思い描く。  それはきっとそうに違いない。  ──大好きだから、だからそれはいけないの、と少女は舌っ足らずな言葉で答えていた。  満足そうに微笑む。その横の父親は、どうも気まずげに首を背けている。  シャルヴィルトばかりが不安げであった。  そして母は言う。もう、これで終わりだから、と言った様子で。  それじゃあ、帰りましょ?遅くなったら、ご飯が冷めちゃうわ。   うん、と小さく彼女は頷いていた。ごしごしと、何度も何度も目じりを擦っていた。  やがて彼女を背に乗せ龍は、母は父は大きく羽ばたく。  空高く舞い上がる。  月は近く、森は遠かった。    ──遥かな昔日に、そんな事もあった。  今は、全て無くなってしまった。これは、それだけの事。  ずきん、と頭が酷く痛んだので。シャルヴィルトは薄く、閉じていた目を開いた。  頭上に小太りの男の顔があった。彼女はと言うと、寝かされているのだった。  現実はこんなものか。麻痺した頭ではそんな事ぐらいしか思いつかない。  余り面白くも無い光景だったから、自然と目を逸らす。  当然と言えば当然だった。    ──そんな視線の先に、誰かが居る。  黒い帽子と黒い服。剣を抜いてそれは静かに佇んでいた。  雨は彼を叩いている。雫が滴り、マントを剣を伝っている。  視界暗転。自分の意識が遠のいていくのがシャルヴィルトは解った。    そして。  その最後の一刹那に。それは何処かで見たことのある姿だな、なんて彼女は思っていた。  …    その魔法使いを一言で言い表すならば、俗物と言う言葉が最も良く当てはまる。  権力欲。物欲。性欲。そんな物に突き動かされる、極々普通の人間だ。  勿論、その為に彼は合法、非合法を問わずに並々ならぬ努力を積み重ねた。  その為ならば卑屈にもなれるし卑怯にもなりうる。  嘲笑う者がいるならば彼は微笑み返し、なら君は何をしてきたんだい、と言うだろう。  生きる、と言う事は何かを食い潰す事だ。  男はその真実をその身で悟ったからこそ、彼は喰う側になろうと誓ったのだ。    知っている。  路地裏の貧民街を。矛盾に満ちたこの世界を。  彼はそれを嫌悪に満ちた目で見ていたものだ。  なぜならば──  いや、語る事はあるまい。  良くある美談だ。貧しい家に生まれた男が、勉学と努力を積みかせねて才能を咲かせる。  魔法使いという道をえらんだ、そんな名も無き人間の話でしかない。  彼は狂いはしなかったし、何処までも俗物だった。  その生き方に罪は無い。少なくとも、強い者が弱い者を食らうのは罪では無い。 「やあ、こんばんわ。こんな場所で人間に会えるとは。貴方も、魔物退治に来たのですか?」  親しげな声で言う。  魔法使いの男は、今、一人の男を前にしていたのだった。  それは、全身に黒装束を纏った髭の男である。  そんな事を言ったのは、彼が雨粒を滴らせる剣を片手に握っているからだった。  不憫だな、と思う。自身は魔法が使える。つまり、雨など気にしなくてもよいと言う事だ。  最も、かけてやる情けなど魔法使いは持ち合わせていなかったが。  男は、魔法使いの問いかけに答えなかった。  じっ、と。闇に光る目で彼を見据えている。  (尚、奴隷は、と言うと既に眠りこけている。魔法使いは特に何も思わなかった) 「言葉が通じませんか?」 「いや、通じてるよ。ちょっくら、ぼうっとしてただけだ。夜も遅いしよ」  今度は、返事が返った。  魔法使いには、何故彼が最初に返事をしなかったのかが解らなかった。  最も、それはどうでもいい事だろう、彼はそう判断する。 「疲れているのですかな?それは大変だ」  口調とは裏腹に、彼の目は値踏みする様に見つめていた。  癖だった。そして、彼にしても自信のある技能の一つだった。  見るに、目の前の男は只の男でしかなかった。  何故、ここに居るのかが不思議に思える程に平凡としか見て取れなかった。  彼がトゥーリューズで声を掛けた、まるで暴風の様な男とはまるで違う。  (魔法使いは、誰もが恐れた彼に対して期待を寄せていた。ああ、何と言う単純にして力強い男であろうか!!)  その唇は、僅か歪んでいた。 「大方、街の方から迷い込んだんでしょう?」 「街、と言えば街からだな。けど、一つだけ違う。迷い込んだ、って訳じゃねぇよ」  だが、それを男は否定する。  魔法使いは怪訝に思う。口を開くより速く、男が言葉を投げていた。  視線が動き、横たわる娘を見つめていた。 「それと、だ。そりゃ、何だ?」 「これですか。見て解りませんか?」 「質問を質問で返して欲しかねぇなぁ」 「そもそも意図が解らなかったもので」 「そうかい」  何を馬鹿な事を、とせせら笑いを飲み込みながら言う魔法使いに、黒い男は蓄えた髭を摩(こす)る。  それは矢張り雨晒しのずぶ濡れで指先からは水滴が滴っており、そしてそれは又、横たわる娘も同じだった。  魔法使いは、と言うと突然やってきたにも関わらず、何やら論戦まがいの言葉を吹っかけてきた男に少々辟易しつつも、 その品物の事を考えていた。中々上質、と言うよりも得がたい収穫であったからだ。  と、言うもののこの娘、銀鱗の龍であり、それは即ち絶滅危惧種にして高価買取が予測できる商品であり、奴隷である。  恐らく、巨人の身の丈に匹敵する程の金塊とさえ換えられるだろう。  (最も、前述の通り、その大半は書物や魔道具との物々交換に消えるだろうが)  彼が目の前の男を無碍に扱わないのも、ひとえにその結果に今満足しているからであった。    もう少し、欲を掻くのも良いかも知れない。  例えば、人の噂に曰く。リオン高原の奥地にはももっちの──そう、『あの』ももっちである!!──村があると言う。  今や、世界に殆ど姿さえも見えなくなった魔物!!  それも、銀の鱗の龍に匹敵する程高価な商品にして、我が身の血肉となるべき弱者!!  踏みしだき焼き払う度、自己の力が増す想像は手が震えそうな程の興奮に満ちた想像だった。  最も、想像は想像に過ぎない。危険だと感づいた時点で、彼は尻尾を巻いて逃げ帰るだろう。    そう。何も只の一度で踏破する必要など無いのだ!!  飴をしゃぶる様に、ゆっくりと咀嚼し溶かしていけば、それでいい。 「そう言う訳ですから。何かあるんでしたら、一つお聞かせ願えませんかな?」 「じゃあ、もう一つ聞くぜ」 「何なりと。私は今機嫌が良い」  ぽたぽたと、男の握った刃の切っ先。そこから雨の雫が幾つか滴り落ちる音。  男の剣は動いていないように見えた。互いの間に空いた闇は、凡そ10m程だろうか。  視界が殆ど無い為か、雨音だけが良く響いている。  その癖、鋼色のせいか剣の鈍色はと言うと酷く目立っている。 「お前はどうしてここに来たんだ?難しい質問じゃねぇだろ。答えてくれねぇか」 「魔物を退治する為に。当然でしょう」 「じゃあ、そこに転がってるそいつは何だ?」 「戦利品ですよ。強い者の権利、と言う奴です。第一、勝ち戦の略奪なんて珍しいものでも無いでしょうに」    人は魔物に勝利しその財を奪い、加工し、量産し、工夫し、開かれた土地で暮らし数を増やす事で再び魔物に勝利する。  冒険者も又、魔物を殺し、その骨や肉や牙、時には魔物そのものや彼等の持ち物を売り払って財を得る。  その無限連鎖こそが、人と言う種最大の強みであった。 「そりゃそうだが、随分と単純だな。まぁ、俺も人の事をどうこう言える身でもねーが」 「さて、それは兎も角、私からもあなたへの質問なんですがね──」  愚かな質問を繰り返す男に対し魔法使いは言い、そして続ける。  最早嘲笑を隠そうともしない。さて、それがなぜかと言うと目の前の男が馬鹿者だと思ったからだ。  第一、こんな場所にまでやって来てさえ、この様子である。  せいぜい笑って追い返すとしよう。きっと夜の獣に食い殺されるに違いあるまいが、知ったことでは無い。  何度も言うが、弱き者など死ねばいいのだ。  それこそが彼の思う正義である。 「あなたこそ一体何なんですか?どうも、私には只の人とも思えない」  からかう様な口調で魔法使いは言い、 「──騎士だ。それからお前の敵だな、魔法使い」  それに応えて、黒い男が言う。  何の気負いも無い。相も変わらずの平然さ。  しかし、それがさも当然とでも言わんばかりの口調でもあった。   「騎士──私の敵──?あなたが?ここで? ッ──はははっ、あははははははははははっ。はははははははははははははははっ!!」  そして、それは魔法使いの目には途轍もなく滑稽な道化として写っていた。  馬鹿だ。言語に絶する大馬鹿だ。何を言っているのだこの男は。言うに事欠いてその台詞か。  笑いが止まらない。後から後から付いて出る。  一しきり笑ってから、向き直る。黒服の男はと言うと、律儀にそれを待っており、それが尚魔法使いの笑いを誘う。  魔法使いに彼は言う。 「一応、最後の警告だな。一度しか言わない、今すぐ尻尾巻いて戻る気はねぇか。このままじゃお前、外れるぜ?」 「いや、いやいやいや。あなたこそ、自分の立場と言うものを理解しては如何か?」 「理解してるぜ、俺はよ」  事象龍の力さえ借り受け、神代の言葉を操る己に対して向けるべき言葉とも思えない。  引き続く不遜かつ愚かな物言いに、流石に気分を害したのか彼は笑うのを止めると傍らの杖をもたげた。 「私もあなたに言いましょうか。いい加減、鬱陶しいので消えてくれませんか?何、私は寛大です。従うのなら、手打ちにしますよ」 「──ふぅむ。じゃあ、俺も言わせてもらうとするか」  だが、魔法使いよ、忘るる事勿れ。  事象は人の枠に囚われない。それは世に遍いている。  目には映らぬとも、耳には聞こえぬとも。  確かに、それは座している。  人の世など、世界の上に座す水泡に過ぎぬ。  そう。何処にだって、それは有る。  例えば。 「『未だここは人が入り過ぎてはならない場所だ』っ、てよ。  俺に言わせれば、ンな事はどうでも良いんだが──ま、そういう訳だ。  人の神様に祈りたいなら、とっとと済ませておいてくれよ」  ──ぞわり、と。背筋が震える。  瞬間、揺れる灰煙の幻視を彼は見た。煙る雲間にたゆたう巨大な龍の姿を彼は見た。  それは、笑みを浮かべている。じっ、と彼方から矮小な魔法使いを睥睨している。  現実には、黒服の男が彼の前に居るだけで、彼が剣を抜いているだけだ。  何らの威圧さえ無いその姿が、今は喩えようも無い程に不気味であった。  知らず、じり、と魔法使いは数歩後ずさっていた。杖を構えてそれに魔力を込める。  ──呟くのは一言で良い。たった一言でいい筈だ。  圧倒的な優勢の筈だ。その筈だ。だが何故、背筋に走る焦燥が消えないのか。  脳裏から、己の知る言葉を検索する。そうしかけて、気づいた。  今は、己は龍の群れから姿を隠している筈では無いのか?  だとすれば、下手に呪文など唱える訳には行かないのではないか? 「勇者殿!!勇者殿!?」  叫ぶ。だが、誰も来ない。焦りに塗れた彼の声は聞こえている筈だろうに。  黒服の男が悠然と歩いてくる。だらりと下がった手には刃が輝いている。  その時、彼は迫る男の顔を見た。刃物の様な目が、そこにあった。  まるで処刑人のそれだ。  一瞬の異様な圧力に魔法使いは後ずさる。どうすべきか?リスクを無視するか?  いや。待て。それ以前に、何故自分はその様な事を考えているのか?  第一、自分が何をしたと言うのか?それ以前に目の前の男は一体何であるのか?  人間の癖に、どうして私に剣を向けているのか?  幾つもの疑問が脳裏に浮かんだ後で結局、私は何も悪くない、そう魔法使いは考えていた。 「ま、待て。話せば解る」  言うが、数歩先で抜かれていた刃が走り、流れた。  混乱した頭でも、僅かに男の手が振れたのだけは魔法使いも見て取れた。  ──痛みは無い。彼は、何事も無かったのかと思いたかった。  思いたかっただけであった。 「ま……っ、あっ?」  僅か、十数秒。ひり付く喉でその時間を過ごした魔法使いは、どさりと何か重い物が地面に落ちる音を聞いた。  相変わらず、痛みは無い。痛みは無いのだ。  黒服の男はもう終わったとばかりに、手にした剣を再びだらりと下げている。  その癖、魔法使いに安堵は全く無く理性は地面に落ちた物を見るな、と彼に叫んでいた。 「あ゛……っ、ああああっ!?」  ちらり、と。恐る恐る見下ろす。そこには、一本の腕が落ちていた。  ローブの切れ端に包まれたそれは、傷口から血を吐き出す事さえ無く、まるで人形の腕の様にさえ見えた。  だが、片腕に言い知れぬ寒気を覚えつつ、魔法使いは理解する。それは。地面に転がっているそれは──  己の腕では、無かったのだろうか?  慌てて杖を握った方の手で確かめ様とし、しかしそれは虚空を彷徨っただけだった。 「──もう遅ぇよ。ここがお前のお仕舞だ」  黒服の男は、躊躇せずそう言い放つ。  それを実証するかの如く、魔法使いの視界が横にずれた。  ずるずると。首の稼動範囲を超えて、魔法使いの頭部が真横にずれていく。  必死で状況を理解しようとしていたが、残念ながら遅すぎた。  率直に言うならば、彼は判断を間違えたのだ。  魔法使いの頭が、地面目掛けて落ちていく。  その口は絶叫でも発したいのか大きく開かれていたが、最早言葉は喋れまい。  何故だ何故だと首だけになりながら魔法使いは思っていた。  立ち尽くす首から上の無い己の胴体を眺めながら、だ。  無論恐怖が大きく、今すぐにでも怯えてしまいたかったのだけれど。  それよりも、何故だ。何故己がこうならなければならない。そんな言葉の方が魔法使いの中では大きかった。  街に戻り、娘を換えれば豪遊とて出来た筈だった。己の運命を彼は疑っていなかった。  嗚呼。何故だ。何故、己がこんな目に会わねばならない。  只の略奪をしていただけであり、人間に殺される謂れなど無い筈だと言うのに。  勿論、誰一人それに答える者は存在しない。  死にたくないと言う思いを酌む者は無く、遅まきながら血を噴出し始めた傷は彼の願いとは無関係だ。  一言で言うのならば、この魔法使いの人生は無価値となった。  今のそれは彼の論理にしたがって言うならば、彼はより強いモノの犠牲になったのであり、彼の死こそは正義の筈であった。  だが、彼は自らの意思でそれを否定し、だからこそ、その哲学に裏打ちされて歩んできた人生は無意味に堕した。  兎も角。  何故だ。その言葉を只管繰り返し、その魔法使いは死んだ。  殺したのは黒服の男であり、原因は魔法使いが禁忌を犯した──やり過ぎたからであった。  これは、それだけの事に過ぎなかった。  黒服の男は、娘にも二つの死体にも一瞥とてくれず、嬉しげに笑いながら彼等を見ていたそれを見つめる。  それ、とは男だ。ガチ=ペドと言う名の、酷く楽しそうに一連の状況を眺めていた人間だった。  男──ロボ=ジェヴォーダンはその彼を見据え、今更ながらにため息を吐く。  何故、旅空の己がこの場所へと導かれたのかを、毎度の事ながら瞬間的に直感したからだった。  一方のガチ=ペドはと言うとその様な事など知った事では無い。 「あんがとよ、オッサン。丁度、退屈してた所なンだよ」  愉快げに、彼はそう言った。  返し、ロボは吐き捨てる様に言う。 「だったらとっとと街に戻って寝やがれってんだよ、糞餓鬼が」 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