胡蝶の夢  ぱさり、と乾いた音が響いていた。  丁度、古い古い本を閉じる様な  ──僕は、そんな夢を見ていた。  ……    朝の光が差し込んでいる。  僕──ウォル=ピットベッカーは、それが眩しくて眼を覚ました。  何時もの朝──あの安宿の朝だ。  辺りを見回すと、寝坊してしまったのか誰も居なかった。  うん、とマイペースに背筋を伸ばす。  それから首を回すと、こきこきと言う音が鳴った。 「あー……やっぱせんべい布団じゃ駄目だ。疲れが取れない。うん」  言葉とは裏腹に──今日もいい天気だ、と思う。  何一つ憂いの無い、完璧なセカイ。  近くに置いてあった皮鎧を着込む。我ながらまるで長年使い古したみたいに、滑らかな動作だった。  手にして、腰に提げるのは西洋拵えの無銘刀。  ヒュン、と軽く抜刀して空を裂き、再び収める。  ──最も、それは件の黒服よりかはずっと遅く、僕に自身の未熟さを思い知らせるのだが。 「さて……と」  今日は何をしようか、何て考えているとガチャリ、とドアが開く音を聞く。  きっと朝日は『彼女』を照らしているのだろう。  向き直る。柔らかな微笑みを浮かべた少女がそこに居た。  古ぼけた建物の中の癖に、胸いっぱいにお日様の匂いを感じている。 「お早う、ウォル」  その少女は僕に言う。 「お早う、ツクヤ」  答えて、僕は言う。  何気ない朝の風景。きつね色の綺麗な髪はキラキラと輝き。  何時の日か。懐かしい時に、こういう事もあったのかも知れない。  僕はあれから──  ──その風景を見て、不意に僕は目の前がぼやけて、眼を擦っていた。  すると、少しばかり眼が潤んでいるのが解った。  気持ちのいい朝の、何時も通りの風景。  きっとそれが幸せすぎて、欠伸でもしていたのだろう。 「──む。どうしたの?」 「あ、いや。何でも無いよ。うん」  答え、ツクヤの隣を一息に通り過ぎる。  くるり、と後ろを振り向くと言葉を投げた。   「朝ご飯でも食べに行こう。早くしないと昼になっちゃうしな」 「あ、ちょっと!!ねぇ、待ってよウォルっ!!」  そして、外に足を向けた僕の後ろにツクヤが続いていた。 …  道を歩いている。  前を行くのは僕。ツクヤはと言うと後ろと言う訳じゃなくて隣に続いている。  朝食はパンとミルクとスクランブル・エッグ。ユダで十三課でイスカリオテな店長を除けば、極々普通の美味しいもの。  その後は、特にする事も見当たらず、皇都の街を歩いていた。  遠くには街全体を囲う城壁、それから皇都の象徴とも言える天に向かって聳え立つ城が見える。  ──最も、そんなものはうっちゃって。  様々な商人達が軒を連ねる通りに入ったとたん、ツクヤは露天が並べている珍しい品物に対して心を奪われていて、 僕はと言うとその光景を眺めていた。  微妙に──コメカミの辺りに汗をかきながら。 「おっ、嬢ちゃんお眼が高い。そいつは銀鱗龍の鱗を磨いた奴でね。俺んとこじゃ一番の売れ筋さね」   銀色の欠片をあしらったネックレスを弄びながらはしゃぐツクヤに、それを売っている行商が言う。  そう。毎度の事ながら手持ちが殆ど全然無いのである。  ポケットをひっくり返した所で出てくるのはゴミばかり。  どうしようもない。そう、どうしようも無いのである。  ため息を一つ。己自身の貧乏など最早慣れているのだけれど、年頃の少女までそれに巻き込むのは不憫な事この上無い。  眼を輝かせながら装身具を手に取ったりしているツクヤを傍目に、僕はと言うと滂沱の涙を流しそうだった。  無い袖は振れない。しかし、取り合えず懐を探ってしまうのは見栄っ張りな男の性と言うか何と言うか。 「嗚呼畜生、オフクロ様。世間様は貧乏人に大変厳しくございま──ん?」  しかし。天に悲痛な僕の叫びが通じたのだろうか。  何故だか、懐に袋が。いぶかしみつつ中身を改める。  その瞬間、僕は卒倒しそうになった。なぜなら。 「──こ、これはどうしたことだっ!?大判小判がザックザク!!ザックザク!?」  その中には、ぎっっっっしりと金貨が詰まっていたので。  思う。これは一体どうした事なのかしらん?何時の間にか俺大金持ち!?  つか、夢の一戸建てだって余裕で買えてしまうかもしらん。  などと叫ぶ。すると当然、それは周囲に轟き渡りまくってる訳で。  ──顔を上げると、そこには血走った眼の商人軍団が居たのでした。 「お嬢ちゃんの彼氏、随分と金持ちなんだなぁ……おっちゃん羨ましいよ」 「あ、うーん。えっと……」  しみじみと言う壮年の商人の前で、僕の状況に気がついたのかどうにも気まずそうな顔でツクヤが笑っていて。  しかし、僕は全くそれを気に掛けている余裕も無い。 「──何か。何か皆さん目が怪しく光ってらっしゃるんですがっ!?」  僕はそう叫ぶのだけれど、全く気にした様子も無く手にした金貨の袋を凝視しながら、口々に  『大口のお客だ』、『見つけたのは俺んとこが先だ。全部買ってもらうぞ』とか 『そんな事はどうでもいい。兎に角金だ!!』などと危険な口調で呟きあっておられたのでした。    ざざざっ、ざざ。ざざざざざざ。  砂煙を上げながら、赤の他人同士とは思えない錬度の動きで僕を彼等は取り囲む。 「嗚呼っ!?包囲陣形!?どうあっても逃がさないつもりですかコンニャロウ。  そしてツクヤはガン無視ですか。男女平等の理念はどうしたド畜生ーーーーーーっ!!」    魂の絶叫を搾り出すものの、それで状況が好転する訳も無く。  ──OK。取り合えず、状況を整理して対策を考えてみよう。  何故、僕みたいな貧乏冒険者の懐にこんな大金が入っていたのかは謎だ。  が、そのおかげで飢えた獣よろしく血走った目の店主の皆様に僕は取り囲まれてる。    1.ハンサムなウォル・ピットベッカーは突如として起死回生の策を思いつく。  2.仲間達が助けにやって来る。  3.目の前の連中にケツの毛まで毟り取られる。現実は非情である。  1!! 1ですかっ!?   No No No No!!  それとも2ですか!?  No No No No!!  ひょ、ひょっとして3ですか!? Yes Yes Yes Yes!!  逃げようとしても無駄無駄ですか〜ぁっ!?  Yes Yes Yes Yes!! 「ひーまいがぁぁあっ!!」  絶叫。そして人の津波。嗚呼、まるで僕は風前の灯っ!!  余りに無力っ!!余りに無為っ……!!  ぐぐ……っ!!貴様等、それでも人間か……っ!!  その瞬間、僕の浮かべていた顔は、きっとギャンブル狂みたいで。  だが。うん。同時にこうも思う。  何となく、意識の水底から浮かび上がってくるマカデミアナッツの様な幻影を視ながら、である。  奪われて……なるものかっ!!折角のお金を……奪われてなるものかっ!!  この幸運で、僕は男らしく振舞うんだ……っ!!恋人の前でそう思って何が悪い……っ!!  嗚呼っ、力が……っ力が欲しい…っ!! (最も、腰の獲物を抜き放つ訳には行かないヒーホー。そしたら僕は殺人犯でSo Bad!!)  ──パキィン、と何かが割れる音を聞いた。  ハッ、と眼を見開く。眼前には迫る人の津波。  ツクヤと話し込んでいる商人はと言うと、我関せずと言うか将を得んとするならばまず馬を射よと言うか何と言うか、 そんな馬鹿騒ぎを無視して、様々な品物を勧めている。  だが。だが。  そう。割れたのだ!!種が。ちょっぴり既に旬は過ぎているが、それは無視して!!  ウォル=ピットベッカーよ。汝、その限界を打ち砕け!!  ──瞳が輝く。輝く。  既に、世界は余りに遅く僕の眼には見えていた。 「──宜しい。百と二十の商人共。望むか。私から搾り取る事を望むか。ならば戦争だ。一心不乱の大戦争だ!!」  正面には軍勢。無論、横合い、背後とて囲まれている。  対する此方はただ一人。余りにも矮小。絶望的な戦力差。  だが。僕は諦めない。  ──待っている者が居るから。  この命は、彼女から貰ったものだから。  ならば、絶望など不要である。生き残り、打ち勝つのみ。  だらり、と両手を垂らす。それは期せずして、僕が師と仰いだ男の姿に似ていた。  生涯彼には及ばない事はわかっている。だが、あの嫌味の黒服怪人はこんな時にも笑って迎え撃つだろう。  師が行う事を弟子もまた行おうとするのは当然の事。敵は商人の大軍勢。畏れず、恐れず走り出す。 「このお団子はいかがですかーーーーっ!!」  先手。お団子の皿を手にした中年の男性がにこやかな営業スマイルで迫る。  丁寧な一礼。寸前まで迫り、愛想を振りまきながらアピールする。  その間僅かに数秒──!!正に恐るべきは、行商人の商魂なり!!    しかし、それを叩き返してこそウォル=ピットベッカー!!  我が名は貧乏冒険者!!全てのセールスを鮮やかに断る者なり!!  応じる。にこやかに返礼。 「すみません。お腹が一杯で、朝飯食べたばっかりなんですよ。てなもんなんで、一つたりとも要りません──!!」  理由を並べ、相手の気分を害さないよう微妙に卑屈になりながら申し出を断る。  そして、それも僅か一瞬。  一人、商人が糸が切れた操り人形みたいにがっくりとうなだれる。  だが──その後ろには果てしなく人だかりが続いている。  で、ツクヤはと言うと通りがかった二人組みと雑談に花を咲かせている。  曰く「ふむ……出来れば君とはゆっくりとお話をしたい所ではあるよ。興味ぶかい」だの貴族風の髭の男が言っていたり、 その横でツクヤよりもっと小さな女の子がむくれていたり、一方のツクヤはと言うと 微妙にその髭男と相手の言葉の論点をずらしつつ言葉を交わしてたりなんかして──  まぁ、要するに『トラブルを呼ぶ男』こと、僕ウォル=ピットベッカーの邪魔をしない様にしているのである。  誰だって人の津波に揉みくちゃにされたくは無いだろう。   「──って言うかいい加減にしろお前等ぁぁぁぁぁっ!!」  そして、そんな叫びが天を突いていた。  しかし、やって来るセールスには丁重にお断り申し上げるのである。  ──○月×日、本日は激戦であった、まる。  …  影絵の様な街の片隅。路地裏の上。照らし出す街灯さえなく、蒼白い光だけが全てを照らす。  そこに黒服の男が一人。  彼は灰煙の様な外套を身にまとい、手にした時計に眼を落としている。  髭を摩り、天を見上げた。  そこには、太陽は無い。昼の盛りと言う筈であるにも関わらず、だ。  代わりに浮かんでいるのは、一つの月。青々と冴えたそれが浮かんでいた。 「まだ、時じゃねぇな」  呟き、彼は煙草を一つ抜き出し、胸一杯に紫煙を吸い込み、吐き出す。  彼は酷く懐かしげな顔。なぜならば、ここは楽園であるからだ。  それは何一つ欠ける物の無い、幸せな場所である。  だからこそ己の如き存在があまりにここでは無粋である事は、最初から承知している。  だが── 「柄でもねぇが、剣を使う者として、アイツともう一度刃を交えたくなっちまったから仕方ねぇよな」  言い訳めいた言葉を呟き、自嘲する。  辺りには、未だ灰色の煙が漂っている。  彼はただじっと、中天の月を見つめていた。  …  戦い終わって日が暮れて。  僕は疲労の極みに陥りつつ、がっくりと肩を落としてへたり込んでいた。  かーかーと遠く、夜多烏の鳴き声が聞こえる。で、周囲には無数の商人達が轟沈していた。  「業突く張りの守銭奴め」などと呻きにも似た呟きが聞こえるが知ったことでは無い。  そそくさと立ち去っていく彼等を見送りながら、僕は一人毒づいていた。  いらないものに支払うお金なんてびた一文ないのである。  むしろ、君らのせいで素晴らしい一日が。ああ僕の一日が……  状況は『orz』に移行します。システム鬱モード起動、云々。 「やぁ、随分とお疲れのようだね。ええと、確かウォル=ピットベッカー君か」 「ええ。見ての通り──って何で僕の名前知ってるんすか?」 「ああ、ツクヤ君に聞いたのだよ。と、そう言えば名乗っていなかったね。  私の名前は、トゥルシィ=アーキィ。皇国で騎士に叙せられている者だ。そして、この子が──」  言うと、ぽんと隣で彼の裾を掴んでいた少女の肩を叩く。  だが、彼女は僕をじっと眺めたままで、躊躇うようなそぶりばかりを見せている。  ツクヤも、そんな少女を見ている。そして勇気づける様にその手を引いた。 「ほら、リコさん。えっと、悪い人じゃないから。ウォルさんはあんまりお金は持ってないけど、優しい人なの」  ……あの、だ。確かに僕が貧乏なのは事実だけどさ。自分で考えてみてもそうなんだけどさ。  そうはっきりと言われると……随分とショックなのですよ、うん。  確かに貧乏極まる僕(明日の食事にも困るのである)なんかじゃ誰とだって釣り合わないよな……ははは。  目の前の騎士様がなんだかとても煌びやかに見える。まるで、お釈迦様のようだ。  その落差にボディブロー宜しくジワジワ効いて来る痛みと苦悩に『死のう』などと考えつつ、気力を振り絞って顔を上げる。  すると。 「あの……その。始め……まして」  そう、リコと呼ばれた女の子がおずおずと僕に向かってお辞儀をしていた。  何やら尻尾が生えている事を除けば、何処にでも居る女の子の様に僕には見えた。  ──人見知りする性質なのだろうか、少しばかり恥ずかしがっている様子だったがそれでもきちっとした身なりの彼女に比べて、 なんと我が身の情けない事よ。具体的に言うと、馬鹿みたいに口をぽかんと開けて、へたり込んでいるのである。  ごほん、と咳払いを一つ。  立ち上がって服に付いた汚れを払い、続いて手のひらをマントの端で拭いてから、握手を求めようと手を伸ばす。 「あ、うん。こちらこそ──始めまして、リコさん」  小さな手が重なり、それから上下に二度。僕はにぱっ、と笑い顔を作ってみる。  ──功を奏したのだろうか。握手が終わり、騎士の元に戻った彼女は最初に見せたような様子も見せず佇んでいた。   「──で、騎士様が僕なんかに何の用です?」  言うと、彼は答える。  ──皇都における騎士の定義とは軍人であると共に警察機関の一員と言う事である。  なのだが、少なくとも僕は警察のご厄介になる様な心当りなど無い。  寧ろ、どちらかと言えば係わり合いになりたくない類の職種である。  不思議と目の前の人物から、そんな手合いに良くある威圧感を感じないのは、ひとえに彼の人徳とも呼ぶべきものなのだろう。 「いや、特に用事があると言う訳では無いが、縁とは奇なる物とも言うじゃないか。これもその一つだよ、うん間違いないな」 「はぁ……さいですか」 「うんうん、その通り。それに聞きたい事も沢山ある。  ──とは言っても、それとなく君の恋人に断られている以上、詮索するつもりも無いしね」  一しきりまくし立てると、はっはと彼、トゥルスィは笑う。  僕は、と言うと戸惑う事しきりである。相手の行動原理がさっぱり読めないとでも言うべきか。  そんな事を思いつつ、視線をずらすとリコとツクヤはと言うと様々なゴシップを咲かせていた。  ──口惜しい事に、僕にはその殆どが理解できないのだけれど。  すまん、ツクヤ。  けれど、自分の肩から力が少し抜けるのも解った。トゥルシィもまた、それを見ている。 「夕暮れに咲く花二つ、か。美しいものだな、うん」 「詩人っすね──確かに、その通りですけど」  本当に、そう思う。だが、何故だろう。それは酷く寂しげな光景に見えた。  ごーん、ごーんと遠く、大聖堂が毎日鳴らしている日暮れを告げる鐘が響く。  ──今日は色々と、まぁ疲れる事があった。だが、こんな風景を見る事が出来たのなら、そう、悪くないと思う。   「さて、名残惜しいがそろそろ私達は帰らなければならないな」  言って、トゥルスィは向き直り、手を差し出した。 「解りました──ま、セールスん時は手助けして欲しかったですけどね」  握り返し、少々冗談っぽく答えた。  すると、彼は「ふむ、そうしたいのは山々だったが流石に策も無くアレに飛び出すのは無謀だよ」と。  僕は「無策で悪かったっすね」などと切り返す。 「いやいや、それでも君は勝った。耐え難い醜態を晒したとしてもね。それは立派な事だよ」  ──果たして、それは誰に向けられた言葉なのだろうか。  斜陽と黄昏は騎士の顔を隠し、僕にはその心が解らなかった。  むしろ、僕は僕自身の心さえ良く解らなかった。  きっと、それは黄昏のせいだろう。  「ウォルっ!」と声を掛けられて、白昼夢の様な意識が覚醒する。  反射的に隣を見ると、ツクヤが僕を見ていた。  どうやら、彼女達のとりとめも無い話も終わってしまったらしい。  或いは、僕等の会話が聞こえていたのだろう。  彼女はとても満足そうだった。きっと、リコとの出会いが素晴らしいものだったに違いない。  少し、嬉しくなる。心からの笑顔を見るのは、とても幸せな事だ。  女の子も、トゥルスィの隣に戻っていた。 「それでは、失礼するよ」  トゥルスィが背を向け、しかしリコはそのままだ。  彼女はツクヤの方を見ていた。おずおずと、何かを待っているみたいだった。  すると、ツクヤは一歩出て、手を振りながら── 「またね、リコさん。今度も一緒に話そうね」   にぱっ、と笑うと再会を誓ってそう女の子に向かって、そう言った。   リコもまた、ツクヤに応えるみたいにぶんぶんと大きく、その小さな手を振っていた。  …  夕暮れの街。一日の終わり。労働を終え、疲れた人々は言葉を交わしながら家路を急いでいる。  冒険者もそれは同じであり、酒場に向かう者、宿屋に向かう者。  何やらナックルを付けた娘が食堂で山盛りの飯をむさぼっていたりもするし、 ドワーフの医師は酒を傾け、黒い鎧の男はロングコートを着込んだ誰かと話し込んでいて、 フルプレートを着込んだ娘は同行しているリザードマンの女性に愚痴っている。  それぞれが思い思いの時間をすごしている。  空には三つ子の月が昇り始め、それは柔らかい蜂蜜色だった。    暗くなり始めた街路を歩く僕も同じである。  ──宿に戻る、なんて無粋な真似は流石に出来ない。  それにこんなに綺麗な月夜だ。少しばかり遅くまでの散歩も良い。  昼間は何も出来なかったけれど、今からは別だ。  彼女と一緒に何処に行こうか、と思う。  皇都は広い。行く場所は幾らでもあるが、行きたいと強く思う場所は余りなかった。  こういう時は、仕事以外録に何もしない普段の自分が恨めしくなる。  振り向く。ツクヤはと言うと、飽きた様子も無く僕のすぐ傍らに。  街の活気自体が楽しいのかも知れない。  一方の僕は首を捻る。本当に困った事であるなぁ。  何時か読んだ『必勝!!皇都デート百選』なる粕取り雑誌を思い出し、それを元に綿密にシュミレートしてみるが、 その雑誌自体が碌でも無い代物だった事を思い出してすぐ止めてしまった。  ──うーむ。むむむむむ。あーでも無い。こーでも無い。   「何悩んでるの?」 「あー……いや、何でも無いよ。何処に行こうか迷ってるだけだから」  僕は答える。するとツクヤは言う。 「悩む必要なんて無いと思う。道は何処までも続いてるし、私達は何処にだって行けるもん」  全くの不意打ちを貰った様な錯覚だ。確かに、それは真理だった。  道は続いている。だから、何処にだって歩いていける。  歩いて行けなければ馬車を使ってもいいし、船なんて手段も。  そう考えれば、何処に行くかなんて些細な事だった。  夜は長い。目的なんて決めなくても、行ける場所なんて無数にある。 「──そだね。うん。考えるのは止め!!好きに歩いて、思うままの場所に行こう!」  世界は今や夜。夜明けはまだ遠い。けれど、今日は月夜。彼女の名を冠した夜。  なら、これでオシマイだなんて言える筈もない。  時折思うのだが、ひょっとすると僕は昼間よりもこんな夜が一番好きな時なのかもしれない。  今に天高く上った月は明るく、そして蒼白く全てを照らすだろう。  神秘的なその光景を想像するだけで、心が高鳴る思いだった。  ──さて。先程も言ったのだけれど、この街は全て歩いて回るには一日をかけても足らないほど酷く広い。  月影に惑わされた足取りともなれば尚更だ。  一応、住み始めて随分になるが、それでも何処に何があるのか完全に記憶している訳ではない。  最も、それは言い訳なのだけれど。何故かって?  街灯が点されているのは中央路ぐらいであり、そして生き物みたいに脈動を繰り返す都市だからか、 区画整備なんてまるでされて無い街路は、一歩間違えば迷路に迷い込むようなものだ。  そして、ツクヤの方が僕よりもずっと夜目が効く。  この二つの要素が鍵だ。  つまり、僕は(それは傍目からは情けない図かもしれない)ツクヤに先導されながら、迷路みたいな道を歩いているのである。    様々な場所に訪れた。例えば、夜の公園。(最も、そこは色々問題があったのですぐに立ち去った)。  夜店に酒場に食堂に、荘厳な大聖堂と大きな橋。  当然夜中である為、後者の人通りはまばらであったがそれはかえって都合が良かった。  くれぐれも注意しておきたいのだけど、疚しい事は何も無かった。  (何となく、彼女の姉達に怒られそうな気がしたからだ)  歩き、歩き、まだ歩く。やがて、蜂蜜色だった三つ子は空の上で蒼白く輝くようになっていた頃。  皇都中心部からは少し外れた丘の上、僕とツクヤはそこに居た。 「随分歩いたね」  ここまでの道に歩き疲れたのか、少し弾んだ声でツクヤが言う。  後ろに続いていた僕は、彼女の隣に辿り着くと一度深呼吸し、「ああ」とその意見に同意を示す。  そして顔を上げる。僕の眼に映った彼女の姿は蒼い月に照らされて、凄く綺麗だった。  僕は、自分の語彙が貧弱なのを知っている。だから、簡単な言葉で止めておきたい。  下手な修辞なんてかえって不細工な言葉になってしまうだろう。  ──この丘からは、皇都が見渡せる。  すっかり夜も更けた今となっては明かりはまばらだけれど(灯火の為の油や蝋燭を常備できる裕福な家は少ないのだ)、 幾つも遠い明かりが見える。それは人の暮らしの印だ。  悲喜交々、些細な事で笑ったり怒ったり悲しんだり、或いは笑ったりする人たちの宿だ。  普段は月よりもずっと近くにある筈のそれが今は酷く遠く見えた。  眼を細める。きっと僕は笑っているんだろう。  僕なんかよりも、ずっと人の事が好きであるツクヤもそうに違いない。  彼女は何よりも人々の暮らしを、日々を何気なく平穏に過ごす彼等を眺めるのが好きだ。  そして、僕は彼女と同じ場所に今立っている事が幸せだった。  ──辺りには誰も居ない。心地いい静寂が満ちている。この場所は一種の聖域だった。  遠く街を眺めるツクヤを僕は見る。ふと、その背中を抱きしめたい誘惑に駆られたけれど何とかそれは押さえ込んだ。  汚してはいけない。  取りとめも無くそんな事を思う。人生の大半はそんな時間で出来ているものだ。  ふと、彼女が向き直る。狐の耳がぴょこぴょこと揺れていた。 「ねぇ、ウォル。今、幸せ?」  答えるまでも無い問いだった。幸せでない筈が無かった。  僕は答える。幸せに決まってる、と。  ──あんまりにも堂々と言い過ぎたか、とも思う。だけど、他の言葉も思いつかない。  思わず顔を逸らしつつ──何やら赤面している気がしたからだ──恐る恐る反応を待つ。  不意にぽむ、と柔らかい物が僕の胸の辺りに触れた。顔をうずめたのだろう。  確認するまでも無かった。今、この場にツクヤ以外の誰が居るだろう。  そして、言葉も又必要で無かった。代わりに、その滑らかな背中に腕を回して抱きとめる。  女性を抱きとめるのは実際のところ初めてで、力が強すぎないか不安だったけれど、いい匂いがして、暖かくなった。  その瞬間に──僕は本気で、世界の全てが美しいと思っていた。  それは月の下の合一であり、調和と充足に満ちた場所であり、他に何ら必要としない完成された箱庭だった。  ──時よ、願わくば止まってくれ。お前は何よりも美しい。  …  それから、どれぐらい時間が経っただろう。  秒数を数えていればはっきりと解ったのかもしれないが、生憎そんな事はしていない。  草の上に腰を下ろし、ぼうっと空を見上げていた。  ふぁ、と欠伸をする。流石に疲れが出てきたのかもしれない。 「ウォル、そろそろ帰ろ?」 「ああ、明日も早──もとい、ちょっとは寝坊するかもしれないけど、色々と忙しいかもしれないからね」  立ち上がる。今日は楽しかったが、明日は忙しくなるだろう。  何せ、貧乏暇なしだ。少なくとも、日々の食料と──それから少しばかりの贅沢の為にも働かなければならない。  そうして、帰路に着こうと振り返ったその時だ。  その黒服──今は、黒いマントを灰色のそれに変えているが──が佇んでいるのに気づいたのは。 「──よぅ、久しぶりだな、ウォル」  彼は言う。僕は、と言うとまるで間抜けみたいに呆然と彼──ロボ=ジェヴォーダンを見ていた。  久しぶりの再会だ。声の一つでも掛けるべきなのだろうが、そう言う訳にもいかなかった。  彼は皮鎧をマントの下に付けていたし、それにはナイフを挿したベルトを巻きつけていた。  僕は知っていたからだ。それが彼の戦装束だと。 「何しに来たんです」  ずい、とツクヤが一歩進む。その姿はさっきまでの穏やかさが嘘みたいに酷く殺気だっていた。  九つの尾と、蒼白い輝きがその身体から見え隠れしているようだった。  酷い威圧を感じる。しかし、男は気にした風も見せずに言う。 「戦いに、だ」 「そんなの必要じゃない。輪廻の内に帰って下さい」  ぴりぴりとした空気が肌を焼く。正に一触即発だった。  そのせいだろうか。僕はふと頭痛を覚える。  だが、大した事でも無いだろう。それに、目の前の黒服(元)の事の方が問題だった。 「ロボさん。何でまた……それに、戦いにって誰とですか?」  彼は私怨で動く様な人間では無い。だからこそ解らなかった。  何故、彼があんなやる気満々の出で立ちで、しかもこの場所に降って沸いた様に現れたのかが。  だが、淡い期待を彼は易々と裏切る。  音も無く、腰に提げた剣を引き抜き、その切っ先を僕に向けた。  月影に照らされ、緩やかな曲線を描く刃が輝く。 「お前とだよ。ウォル=ピットベッカー」  そして、鋼の様に気迫に満ちた声で、ロボ=ジェヴォーダンはそう言った。  全く抑えられていない焼け付くような殺気。  今すぐにでも背を向けて逃げ出してしまいたかったが、彼は僕を名指ししている。  ──ふと、デジャヴに駆られた。  先ず浮かんだのは遥かな過去の様に思えた。  燃える村。泣き叫ぶ僕が居る。大きく美しい龍が鳴き声を上げながら地に倒れ付し、無数の欠片に散り咲く風景。  勝利の凱歌と、怒号。あの敵を許さない。殺してやると涙ながらに叫んだ。  その時は、黒服が僕を殴りつけて止めた。敵も味方も誰も彼もがぼろぼろでとても戦える状態では無かった。  それは、燃え盛る異国の宮殿の中であり、幾多の冒険者と魔物と兵士達の死体が転がる戦場だった。  魔と人との決戦の一幕であり、僕は人に属する冒険者だった。  そこに、幾分年齢を重ねた僕は居た。目の前には、灰色と黒を纏った修羅──否、『騎士』が一人。  彼は護る者であり、王の間に繋がると思しきその道に立ちふさがる者だった。  挑み来る幾多の冒険者を葬り去り、今や魔に属する人間だった。  彼は無数の傷に塗れていた。手にした剣は毀れ、灰色の外套の端は破け、みすぼらしいともいえる姿だった。  だが、彼は同時に無限とさえ思える返り血を浴び、黒と言うよりは赤黒い色をしていた。  気づき、眠るようにして床に沈んでいた彼は立ち上がった。  言う「お前か」。僕は答える「貴方だったのか」。  剣を抜く。きっと、僕は今でも貴方には及ぶまい。だが、負ける訳には行かない。  赤。赤い。その時間は醜く、真っ赤で地獄と言うに相応しいものだった。  これは何だ。  この錯覚と言うにはあまりに生々しい記憶は何か。  ツクヤが、ロボの事も忘れて僕を真っ青な顔をして見ている。  ──記憶が、食い違う。確か、ああ。君は確かあの時に。  そういえば、そう考えてみれば。今日は何処か変だった。食い違っている。  今の今まで気づかなかった事だけれど。  この楽園は完全だった。だが、矛盾しているのだ。  ──思考を閉じ、剣を抜いた。それは、目の前の男から譲り受けた無銘の業物。我が生涯の愛剣。  今は、それよりも優先すべき事があった。  思考を冴え渡させる。意識を集中する。ここから、『僕』は『私』になるのだ。  「すまない」とだけ、ツクヤに告げた。他でも無い師の願いだ。それに応えるのもやぶさかではない。  ──それにしても本当にこの男にだけは敵わない。  まさか、そんな単純な願いを叶える為だけに、こんな場所までやって来るとは正しく予想の埒外だ。 「戦いに、か──師よ。随分と私を買っているんだな」 「気づいたな。ああ、買ってるよ。何てったって、お前は俺を殺した奴だからな。  もう一度、今度こそは全力で戦いたい。──まぁ、そりゃ我侭だがな」  けっけっけ、とロボは意地悪に笑う。もう、ツクヤは何も言わない。私の意志に気づいたのだろう。  そして、私が今考え、覚えたデジャヴュについても、勿論の事ながら。 「さて、少し離れんぞ。ここじゃ狭いし、ツクヤの嬢ちゃんを巻き込む積もりも無いしよ」  私は頷き、彼の後に続いた。  …