『魔物生態辞典を作った男たち』  三人の男がいる。  男、とひと言でくくるのは難しいかもしれない。彼らの年代は、必ずしも一定ではないの だから。だから、彼らを一括りにするとしたら、この言葉が正しい。  ――三人の魔物生態学者がいる。  彼らは魔物生態学者にして、研究者であり、冒険者であり、編集者であり、偉人であり、 変人であり、神学者であり、研究者であり、同時に、いまや世界各国で発売されている『魔 物生態辞典』の著者である。  それは同時に、各分野からの尊敬の的ということでもある。たった三人で――もっとも、 協力者は大勢いるが――詳細かつ膨大な魔物生態辞典を造り上げた男たち。冒険者の卵の若 者たちは、その存在に憧れを禁じえない。騎士なりたてが、聖騎士を見てあこがれるように 、分野に関わる幼いものたちは彼ら三人にあこがれる。  王国の式典に現れるアーキィに恋文を送ったり。  ハロウドの冒険のあとに付いていこうとしたり。  皇七郎の研究所に差し入れを持って行ったりする。  そして――  それ以上、少しでも深く付き合った人間なら、必ずこういうのだ。間違いない、口元には 苦笑を浮かべて、微妙に目を逸らして、彼らは、彼女たちはこう言う。  ――ああ、あの変人ね。うん、変な人だよ、ホント。凄いけどね。凄いけど変人。  というわけで、その三人の変人は、今、一ヶ所に集まって喧々轟々の会話をしていた。  魔物生態辞典の編集に関する、真剣極まりない会議――  ではない。 「だから言ったでしょハロウドさん! シーカテラルドに関する論文は、えっと何年だった かな、糞忘れたな、あーあれだよ、ほら、南国の変人! あいつの論文はとにかく、否定さ れたでしょ!」 「おいおいおいおいおいおいおいおいおい困るよ皇七郎君何を言ってるんだね君は。『水棲 生物巨大論』は確かに否定されたがね、その後の『水棲生物進化論』で見事矛盾点を解消し ただけじゃないか!」 「解消!? 解消だって!? ハ! 一個矛盾解消して十個矛盾出すのの何が解消だよ! 言っ ときますけ・ど・ね! ボクぁ彼が肥大化した海の掃除屋だなんて糞みたいな論文、認めち ゃぁいませんからね。彼は、あの美しい彼が掃除屋!? とんでもない、彼は間違いなく生ま れつき巨大生物としてですね、」 「ハロウドくん、皇七郎くん。そもそも誰が彼を水棲生物だと認めたんだろうね?」 「あん? アーキィさん、そいつぁどういうことです」 「私が思うに――彼はたまたま海にいるだけなのではないか、ということだよ」 「ふむ? うん、そういうことかアーキィ君。その身の大きさゆえに彼は海に――いやまて よ、待て待て待て? いや待つぞ。ふむ。もう一つ海と酷似する空間があったな。地表から 離れに離れた、空のさらに奥――そこに、彼がいるかもしれない。そういうこかね?」 「そいつぁ夢物語でしょう! むしろボクぁ細分化して海そのものになる説を押しますね。 蒼のインペランサにとっての『餌』がシーカテラルドである、という例の奴です」 「……彼女はそういう存在ではなかったがね!」 「おやおや? ハロウドさん。なーんか知ってそうですね」 「二人とも楽しそうだね。ああ、リコは元気でやってるだろうか……」  半分以上、子供のケンカである。  子供の口げんかと、対して変わりはない。むしろ大の大人がやっている分だけタチが悪い。  真実かどうかは関係なく、とりあえず自分の言いたいことをお互いに言い合っているだけ である。傍から見ればある意味みっともない。  もっとも――こうした行為の果てに、魔物生態辞典は出来たのだからそう責めることでも ない。  三人の魔物生態学者である。  一人は落ち着いた壮年の男。優雅に紅茶を飲みながら、遠い地においてきた助手とリコの ことを思う男――トゥルシィ=アーキィ。  一人は同じく壮年の、しかし子供のようにはしゃぐロングコート、全身に小道具を仕込ん だ歩く災厄――ハロウド=グドバイ。  そしてもう一人。  この広い世界に、たった三人しかいない、魔物生態辞典の編集者にして神学者。  夢里皇七郎が、そこにいる。 「ボクぁそろそろ真面目に考えたいんですけどね、アーキィさん、ハロウドさん。そろそろ どうにかしませんかね?」  皮肉げに言う皇七郎の口調は早く声は高い。  それもそうだろう。  二人の壮年の男に囲まれる、皇七郎は――どう見ても、子供だからだ。  そう、子供だ。  小等学校から中等学校くらいの歳にしか見えない男の子である。ズレたサングラスをかけ 、髪を乱雑に伸ばし、白衣を着てはいるものの――子供である。  体系顔声その他諸々、どこをどう見ても、女顔の少年にしか見えない。  が、誰がしろう。その少年は、すでに四十を越える数を生きていることを。  エルフ種と人間種と妖精種と龍種のクォーター。永遠に幼い姿で過ごす、人よりも圧倒的 に魔物よりの生態会社。その思想は、完全に人のそれとは違い、魔物を基準にした世界を感 がえているほどである。彼自身も、その血の通りに、四分の一――あるいは以下しか、人間 の味方とは思っていないだろう。  が。 「皇七郎君君はあれだねどうもそうだね物事を真剣に考えすぎているよ。いい言葉を教えて あげよう! なせばなる、なさなくてもなる。どうにかなる。どうにもならないときは、諦 めなかったらどうにかなる! ほーらいい言葉だろう」 「グドバイ。君は幸せそうだね」 「おや? トゥルシィ君。君は幸せでないのかね?」 「幸せだとも。少なくとも『家』で研究しているときはね」 「その言い方だと私が悪人に聞こえるね! 龍種の資料が足りていないんで、せっかく集ま ったついでに行こうと言い出したのは君だろう!」 「『君に行って欲しい』と言ったんだ。まさか三人全員で行くとは」 「ちょっと二人とも。ボクのこと、完全に無視してませんかね?」 「無視じゃない。気にしてないだけだよ」 「そうとも言うね」 「――。貴様ら二人とも土と火と水と金と木に還ってしまえ」  幼い声で思いっきり毒舌を吐く皇七郎。  が、いつものことなので、ハロウドもアーキィも気にしない。  人間の敵対者を名乗って憚らない、魔物原理主義者の皇七郎。  しかしその彼も、残る二人にとっては、ただのわがままで捻くれた子供でしかなく――同 時に、かけがえのない仲間だった!  偏見の入る余地のない、魔物生態辞典という、魔物という、一つの宝で繋がれた仲間!  だからこそ、今、彼らはここにいる。 「ま、このままだと私たちは本当に還ることになりそうだね」 「そうだな。ああ、リコ……どうしてるかなぁ、おなかすかせてないかなぁ」 「その前にボクらが腹減らせて死にますよ」  描写していなかったことが一つある。  彼らが今どこにいるか、だ。  優雅に紅茶を飲むアーキィ。のんびりと空を見るハロウド。舌打ちをして悪態をつく皇七 郎。  その彼らの周りを、ぎゃーぎゃーと叫びながら、龍が飛んでいる。  龍である。  問答無用情け無用で、龍が、数多く飛んでいる。  彼らは何も、王国や皇国や連合の大きな研究所で話しているのではない。  いや、ある意味では、大きなところだった。  世界最大の山脈の一つであり、魔物の聖地、リアス高原。  その近く、切り立った崖のてっぺん。人三人がどうにか寝れるくらいの狭いところに、彼 ら三人は、つめて座っているのだ。  ちなみに――一歩足を踏み出せば、底が見えない崖である。 「で? 誰のせいだと思います、これ」  皇七郎の問いに、残る二人が同時に答えた。 『私のせいではないな』 「ボクのせいでもありませんよ! 元はといやぁ、ハロウドさんが突然『おや珍しい草だ!』 といって道を外したのが原因でしょう」 「おやおや。おやおやおや。その後君だって『うわ! 糞、こんなところに絶滅したはずの ウサギがいる!』と服を着た白兎を追いかけていったじゃないか。しかもうまく撒かれたん だろう? はっはっは!」 「ハロウドくん、笑うのもいいけどね、その後道をすべったのを忘れてないかい?」 「ええ、忘れてないとも! トゥルシィ君、君が指差した通りに進んだら道がなかったこと も、ちゃんと憶えてるとも!」 「トゥルシィさん、あんた、まだ方向音痴直ってないの?」 「ああ、紅茶が美味しい……リコにもわけてあげたいくらいだ」 「あーあーももっちと幸せそうにしてる人はいーですねー。ハロウドさん、ボクらも――っ と失礼、あんたは失恋したんですよね」 「ああでも皇七郎君、最近私の娘を名乗る子が来たとも。……あれは誰の子なんだろうなあ。 明らかに人間種じゃなからなあ。人間種だったらまだ特定できるんだが」 「は! そのうち『父親・ハロウド=グドバイ』と書かれた魔王が出てきますよ! そんと きゃあボクが手伝ってやりますよ」 「うちのリコの遊び相手になってくれないかな」  なごやかに――とは言いにくいものの――話し合う三人。  その周りを、やっぱり、龍は飛んでいる。  右を見ても崖。  左を見ても崖。  どっちを向いても崖。  三人とも口に出さないが、心に思うことは一つである。  ――さて。これからどうしよう。  真っ先に動いたのは、皇七郎だった。  すく、と立ち上がり、その場でくるりと回転し、 「ハロウドさん」 「何かい? どうしたどうした、頼みでもあるのかい。遺言を聞くのはまっぴらごめんだよ」 「いえ、ただの頼みですよ」  そう言って、にっこりと笑って。 「飛行系の魔物の助け呼んできてください」  黒いニーソックスを履いた足で、思いっきり、ハロウド=グドバイの足を蹴り飛ばした。  足は背中に食い込み、無防備なハロウドはそのまま堪えることもできずに、 「――へ?」  間抜けな声を残して、落ちていった。 「あとはよろしく。いやあさすがハロウドさん、ボクにゃあ真似できないですね」  勝ち誇ったように皇七郎は笑う。  ハロウドさんめざまあみろ――その顔は、そんなふうに笑っている。  が。 「皇七郎君。いい言葉を教えてあげよう――死なば諸共、だ」  ハロウドは落ちていなかった。  崖っぷちに立つ皇七郎。その足に、ハロウドの鞭が絡み付いている。  落ちた瞬間ハロウドは、咄嗟に、服の袖から鞭を取り出し、皇七郎へと投げたのだ。  その狙いは正しく、鞭によってハロウドと皇七郎は、綱引きをするようにつながれた。  ハロウドの全体重が皇七郎にかかる。皇七郎は落ちないよう、足に力を込めて、必死に堪 えた。  命がけの、綱引き。  それでも、二人は笑っている。  余裕の笑いではなく、皮肉めいた、自嘲じみた笑いだ。 「えぇいしぶとい――さっさと落ちてくれませんかねハロウドさん」 「はっはっは。断る。空を飛んでみたいとは思うが、ぬけぬけと君にやられたいとは思わな いのでね」  ぎりぎり、と、二人は拮抗する。  こんな危ない場所での、半ば以上命がけの綱引き。  その結末を告げたのは、ハロウドでも、皇七郎でもなかった。  ただ一人静観していた、最後の一人――アーキィだった。  紅茶を口から離し、ふむ、とひと言呟いて、 「では頼むよ、皇七郎くん、ハロウドくん」  そう言って。  ぎりぎりと拮抗する皇七郎の背中を、アーキィが、とん、と押した。  かるい押しだった。  けれども、拮抗状態にあった皇七郎にそれを堪えきれるわけがなく。 「畜生ぉぉぉぉぉぉ!! アーキィさんの糞め! あんたらみんな糞だ!」 「ふーむ。今私は落ちているわけだが、しかし落下から逃れる魔物たちのように、どうにか して浮く方法はないのかね? そういえば某所で空を飛ぶ石が発見されたようだが。今度皆 で行ってみようか、天空上に。幸い我が友人カイル=F=セイラムが暇をもてあましている ようだし、巻き込むのもいいかもしれない。彼はあれだね、とことん不幸だね。私が言うこ とでもないけど。……む。閑話休題。私は今、落ちてるのだった。さてどうしよう」  遠吠えを残して、二人の男が落ちていく。  その姿を、アーキィは見ない。  どうせ助かることを、きちんとしっているからだ。彼ら二人なら、どんな状況でも泥まみ れになりながら帰ってくるだろう。ついでに、新しい魔物をニ、三種ほど発見しながら。  だからアーキィは、優雅に紅茶をすすり、空を見て、ひと言呟いた。 「ああ――――紅茶が美味しい。リコに会いたいなぁ」  その声にこたえるように、龍たちが、一斉にぎゃあ、と鳴いた。 (了)