周知の事実ではあるが、私の記憶力は少しばかりおかしい。  魔物などの興味がある方向には突出しているが、興味のないことを憶えるの は苦手なのだ。というよりもまったく憶えられないし、憶える気もない。人の 顔や、昔あったことなど、あっさりと忘れてしまう。私が駆けて行く先は未来 であり、過去のことを気にする暇などないからだ。研究対象以外では、だが。  というわけで、過去にあった失敗や、後悔すべきことなど、私はあっさりと 忘れてしまう。  そんな私にも、忘れられない、悔やんでも悔やみきれない過去というものが ある。  皇暦2235年、私がまだ若く名の知られていない、ただの研究所長の頃の話だ。  今でこそ私、ハロウド=グドバイは世界に知らぬ者なき三大魔物学者として ――我が良きライバルであり最高の友人である、生態学者トゥルスィ=アーキ ィと、神学者夢里皇七郎の二人に私を加えた三人だ。この手記をお読みの方は 、手持ちの魔物生態辞典の後付を開いてみるといい。三つの名が整然と並んで いるのを見ることができるだろう!――活躍しているが、その頃の私は幼く、 勢いがあり、そして愚かだった。  魔物と触れ合う、ということを、深く理解していなかったのだ。  もし理解していたのなら、あんな軽率なことをしなかっただろう! 外れと はいえ、街中に魔物生態研究所を建てるなどということは。私がもう少し賢け れば、あの大惨事は防げたはずなのだ。  が、この世界にIFはあるが、残念なことに私の手元には存在しない。IF なんてものを操れる第七章生物に出会ったことはまだない。過去を変えること など私にはできないし、する気もない。過去の美しい積み重ねを勝手に変える ことなど、どうしてできようか!  閑話休題。  ともかく、私は未来ある優秀な研究所長として研究を続けていた。研究員は わずかに二名。所長を合わせて三名といった小さな研究所だが、私たちの士気 は高かった。  なぜか?  私の研究所には、『ももっち』がいたからだ!  この手記を読む貴方が生態学者ならば(あるいは、魔物と戦い続ける冒険者 諸君ならば)、私の幸運が判ってくれるだろう。  今では絶滅種、そして当時は希少種であったももっちが、私の手元にいたの だ。エルダーデーモンの変異種、神の残した神秘、あの伝説の『魂の欠片』の 欠片を持つもの! 魔物でありながらも人に近づいた、境界線上の存在。  研究内容には尽きない、すばらしい存在だった。  これを読んだ誰かはこう考えるだろう。こんな疑問を持つだろう。  私が彼女に極悪非道な実験をしていたか? と。  とんでもない!  私が、この私がそんなことをするはずがないではないか! 愛すべき魔物!  確かに容姿は可愛らしいが、私が最も愛したのは、そのあり方、存在そのも のなのだ! たとえ彼女が醜悪なゲル状生命体だとしても、私は変わらぬ愛を 注ぎ、丁重に『客』として迎え入れただろう。  だが、彼女は人型であり、中身までもが少女であった。  だから私は、研究の一環として、彼女を『家族』として迎え入れることにし たのだ。  彼女は、歳の離れた友人であり、妹であり、娘だった。恋人ではなかった。 私たちはパートナーであり、気の会う仲間であった。研究者と非研究対象とい うよりは、まるで『生活実験』のような、そんな日々を送っていたのだ。  それは心温まる日々だった。  ……。 「ご飯、いる?」 「ふむ? ひょっとして作ってくれたのかね?」 「うん。暇、だったし」 「ほう! 積極性のある対人関係の構築とは素晴らしい! 本能的に火を恐れ ない調理法といい、味覚の機微がわかる点といい! ああ勿論ありがたく頂く とも!」 「……美味しい?」 「ももっち」 「……なぁに?」 「私に一生ご飯を作り続けてくれないかい?」 「……!!」 「素晴らしい味だ、研究員の作るドロ水コーヒーとは比べ物にならないね!」  ……。  ……。 「ねぇ」  くぃ、と彼女は私の裾をひっぱってきた。私は家へと帰りかけていた足を止 め、胸元以下しかない彼女の顔を覗き込んだ。  上目遣いで何かを懇願するように、ももっちは私を見上げていた。 「なんだい? ひょっとして具合でも悪いのかい? それは大変だ、いますぐ に検査を、」  ううん、と首を横に振った。私はわけがわからず、彼女が説明してくれるの を待った。  ももっちはもじもじと指を動かし、私の白衣をくしゃくしゃにしてから、蚊 の鳴くような声で言った。 「もう、帰るの?」 「うん。帰るとも。帰って寝て起きてまた来るのさ」 「……」 「それが?」 「明日は、何時に来る?」  私は、その言葉でピンと来た。 「ひょっとして、寂しいのかい?」  ももっちは――顔を真っ赤にして、こくん、とうなずいた。  ……。  ……。  というわけで、私は借りたばかりのアパートを解約し、研究所内で寝泊りを することになった。もともとあった仮眠室を改良し、寝泊りできるよう小さな ベッドを二つ作った。ガスも水道も取っていたので、生活に不自由はなかった 。二人分の食器を買い込み、棚に詰めた。傍から見れば私のソレは奇行であっ たが、二人の研究員は温かく見守ってくれた。彼らもまた、心優しき生態学者 であり、彼らにとってもももっちは愛し守るべく存在だったからだ。  ……。  ……。  夜、私がベッドで(もちろん、古くて固くて狭い方のベッドだ。上等なベッ ドはももっちへと譲った。それくらいの甲斐性は私にだってある)寝ていると 、もぞもぞとももっちがベッドに入ってきた。  私のベッドに、だ。 「…………」  私は何も言わず、彼女を見た。  彼女もまた何も言わず、深くベッドの中にもぐりこみ、私の胸の中で猫のよ うに丸くなって眠りについた。すー、という小さな寝息だけが聞こえてくる。  彼女を起こさないように、私は小さくため息をついた。彼女のこうした行動 に興味はつきないが、いきなりされるとさすがに驚くというものだ。  この癖は、毎晩続いた。  彼女に尋ねたところ、さんざん言い渋って、やはり顔を真っ赤にして彼女は 「一人で寝るのは怖い」と言ったのだ。  一緒に寝ることが習慣になった。  ……。  ……。  二つのベッドのうち、一つは古道具屋行きとなった。そのお金は私の懐に入 る予定だったが、研究所に帰り着くまでには全て無くなっていた。  ……。  ……。 「これ……」  女の子向けの洋服屋。試着を終えたももっちは、おずおずと私の方を上目遣 いで見てきた。本当に買ってもらっていいの、と蚊の死ぬような小声で続ける。  私は即答した。 「ああ、気にすることはない。無駄なものを売り飛ばして必要なものを買った だけだからね。そうとも、この世に無駄なものなどないのだ! 全ては必要な ものへと変化し万物は流転していく!」 「お客様、もう少しお声を……」 「ああ、すまないすまない。貴方は店員としての職務をまっとうしてもらって 構わないよ。それで、ももっち、それが似合っているかって? ふむ」  私はももっちを上から下までじっくりと見た。  今までの質素な服装も似合っていたが、これもまた格別のものだった。フリ ルの多くついた、少女らしい可愛い服。農作業などの「汚れる」ことを前提と した服ではなく、見た目の可愛らしさを追求した服だった。すその広がるスカ ートがよく似合っていた。  私は、正直な(真実を調査し探求する者として、私は常に正直である!)感 想を述べた。 「素晴らしい。もちろん服がではなく君がだ」  ももっちは私の言葉に――嬉しそうに微笑み、くるりと一回転してみた。  フリルのついたスカートが、ふわりと広がる。  かすかにももっちの匂いがした。  ……。    ……。  一緒に風呂に入った。  彼女の体は私の半分ほどしかなく、研究室のせまい浴槽でも充分に入れた。 私の膝の上に乗るようにして、二人折り重なるようにしてのんびりとした。  ふと思い立ち、私はよく考えもせず、 「生殖器を調べても構わないかね」  と、相手が少女であることも忘れ尋ねてしまった。これは学者の悪癖だ。調 査が何よりも優先され、ときには倫理や常識を忘れることは。  私の言葉に、ももっちは満面の笑顔で振り返り、 「べ――」  あっかんべーをして、右手で私の頭を叩いた。  顔は真っ赤だった。  三時間も口を聞いてもらえなかった。  ……。  ……。  小さな事件が起こった。  私たちの関係を変える、小さくとも、重大な事件が。  “新種の魔物が街の近くで見つかった。至急来てほしい”という連絡を受け 、私は丸々二日間研究所を留守にしたのだ。  結論から言えば、情報はガセだった。というよりも単なる見間違いと勘違い だった。“新種の魔物”の正体は、ゴム樹皮を全身に塗りたくり、体中に枝と 葉と花をつけ、おまけに泥沼に落ちた間抜けなゴブリンだった。ゴム樹皮を塗 る、というのは、彼らが狩猟の際に行うまじないだ。普通は手にのみ塗り、“ 武器と獲物が離れることのないよう”と願うものだ。その間抜けなゴブリンは 、何を勘違いしたのか全身に塗っていたが。  完全な徒労だった。  そして私は、そのときになってようやく、ももっちのことを思い出した―― 一言も連絡を入れていなかったのだ(当時はまだ、魔粒子による音速通信が確 率されていなかった)。  だが私は楽観していた。  高々二日だ。家には充分な量の食料もあるし、実質研究所での家事はすべて ももっちが行っていた。  何も心配することはない。そう思っていたのだ。  愚かしくも。  家へと帰りつくころには夜になっていた。天の頂には真円の青い月がかかっ ていた。三つ子月の中で、“最も優しい夜”と呼ばれる月だった。  魔物たちでさえ眠りにつく、静かな青い夜。  私はノックもせず、足音を殺して部屋へと入った。寝ているももっちを起こ さないように、という私なりの親切心だった。  それが過ちであり、私が底抜けで救いようのない愚か者だと判明したのは、 扉をくぐったその瞬間だった。  暗くなり、窓から青い光のそそぐだけの研究室。その真ん中にある机に向か って、夜よりもなお静かにももっちが座っていたのだ。 「…………」  私は沈黙した。沈黙することしかできなかった。どんな言葉をかければよい というのだろう? 未だ還らぬ主人を、眠気をこらえて待つ少女に。すっかり 冷えてしまった夕食(昨日もそうだったに違いない。生ゴミ箱に、料理の形を したモノが捨ててあったから。彼女はいったいどんな気持ちでアレをつくり、 そして捨てたのだろうか?)を机に並べ、一心に私を見つめてくる少女に。  ただいま、とでも阿呆のように言えばよかったのだろうか? あるいは、何 をしているのかと問えばよかったのか? 美辞麗句を並べ立てて謝るか?  まさか!!  どんな言葉を意味をなさなかった。彼女の二日間を埋める言葉など、この世 のどこにも存在しなかった。何かを言う資格があるとすれば、それは眼を赤く はらした少女だけのものだった。  ……ももっちは、椅子を立ち、呆然と立ち尽くす私の前まで歩み寄ってきた 。顔を伏せていたため、彼女がどのような表情をしているのかわからなかった。  私は覚悟をして待った。  彼女にしかられ、ののしられ、殴られ、嫌われる覚悟を。  しかし―― 「……よぅ」  ももっちのとった行動は、そのどれとも異なった。  倒れる柳のように、私によりかかってきたのだ。そして、その細く白い手を わたしの背へとまわし、力いっぱいに抱きついてきた。 「……さみしかったよぅ……っ!!」  言葉はそれに尽きた。  私の腹に顔を埋め、声も出さずにももっちは大泣きした。音もなくびしょび しょに濡れていくシャツだけが、彼女の寂しさを表していた。抱きついて泣く 少女にかける言葉は、やはり無かった。  私にできることは一つしかなかった。痛いくらいに力を込めて抱きついてく るももっちの体を、私はそっと抱き返してやった。異性を抱きしめるのは生ま れて初めてだ、そんな場違いなことを考えながら。  その行為が正しかったのか、今でもわからない。  ただ、ももっちはさらに深く泣き、強く抱き返してきた。  静かな青い夜に、かすかな泣き声だけが響き渡った。  青く優しい夜、すすり泣く少女。  その姿を、私は初めて――魔物として、研究対象としてではなく、そう、異 性として――美しいと、感じたのだった。           ■  私たちは一歩前へと進んだ。生活的な意味でも、研究的な意味でも。  最初に生活ががらりと変わった。  私は、一日のほとんどを研究室で過ごすようになった。出張の仕事は断り、 基本的に街から離れないようにした。また、その私のそばには常にももっちが いた。  以前よりも二人の距離は近くなった。  例えば、私が椅子に座って本を読んでいると、彼女はどこからともなく寄っ てきて私の膝の上に座るのだ。まるで、甘えたがりの子供のように。そんなと き私は、片手で彼女の頭を優しく撫でてやった。するとももっちは気持ちよさ そうに眼を細め、私の体にすりよってくるのだ。子供のように、猫のように、 少女のように、甘えてくるのだ。  家族から、それ以上の関係になったようなものだった。事実、あの頃の私た ちは、他人から見れば歳の離れた新婚夫婦のように見えたに違いない。  しかし、私たちの関係とはそんなものではなかった。夫婦とはまた別の、し かし深いところで繋がった関係だった(私は言語学者ではないうので、関係を 表す言葉を思いつかなかった。この本を読む我が未知なる読者よ、叶う事なら ば、この関係を表す言葉を探し出して教えてほしい。それが無理ならばいっそ 作ってくれ!)。  ただ一ついえることは、互いがかけがえのない存在だということだった。  そして、もう一つ。  生態学者として、私は、重大な事実に気づいた――あるいは、重要な仮説を 思いついたのだった。  種族としての『ももっち』。  彼女たちは、あのエルダーデーモンの末裔だ。しかし、もはや牙も爪もなく 、名残といえばその瞳と尻尾くらいのもので、力も遠く及ばない。『奇跡』を 起こす能力すらない。使い道のない魔力と経験地を秘めた、ただの少女のよう なものだった。  なぜ、彼女たちは退化としか思えない進化を遂げたのか?  ……生物学上に、『退化』という言葉はない。それは進化と同一であり、何 らかの意図を――あるいは原因を持って行われることなのだ。生きるために、 生き延びるために、生き続けるために、そして子孫を残すための変化。それが 進化だ。  彼女たちは、人に近くなった。  そして、彼女たちは人懐っこく、甘えん坊で、(悪く言えば軽度の依存癖す らある)、誰かと共に居なければ生きていけないような存在だ。  それはすなわち――『人間』との共存のための進化なのではないか?  それは、いままでの魔物生態学と、そして人間と魔物のこれからを覆す、重 要な仮説だった。憶測にすぎないものの、興味の尽きない内容だった。  もっとも――  ――それを確かめる機会は、永遠に失われたわけだが。           ■  その日、私は街の中央区へと出かけていた。補助金を受け取りにだ。  普及された金額は予想以上に多かった。この前書いたももっちに関する論文 が評価されたのだろう。ひょっとすると、物議をかもし、皇国中央へと召還さ れるかもしれない。  が、そのとき私の頭にあったのは、ももっちと美味しいものを食べに行こう ――ということくらいだった。あの一見以来、すっかり私たちの関係は甘くな っていたのだから。  だから、忘れていたのだ。  種族『ももっち』が、稀少なモンスターであることを。 「よぅ」  <彼>は(結局、私は彼の名前を知らなかった。知る機会もなかった。ここ では一貫して<彼>と表記させていただく)、研究所へと戻ってきて、呆然と 立ち尽くす私に向かって、まるで往年の友人にあったかのように手をあげて挨 拶した。  私は、何も言えなかった。  なぜならば<彼>は、私が扉を開けた瞬間、よりにもよって私の目の前で、 ももっちを切り殺したのだから。切り殺した次の瞬間、入ってきた私に気づき 、何事もなかったかのように挨拶をしてきたのだ。  ……。  この時ほど、私は自らの観察力と調査力を恨めしく思ったことはない。恐怖 におびえるももっちの仕草も、瞳から流れ落ちる涙も、腰のあたりで真っ二つ になる瞬間も、赤い内臓と血管が覗く断面図も、男が使った狂気が研究所の何 の変哲のないパールであることも、殺す瞬間に男がたしかに笑っていたことも 、すべて分かってしまったのだから。  ももっちの死に様は、今なお、私の頭にこびりついて離れることはない。  血はすぐには吹き出なかった。一定以上の力と速度で切り裂いたため、血管 や筋肉が切られたことに気づいていないのだ。よりにもよってただのバールで そんなことをする<彼>の実力が信じられなかった。  ごとん、と。  いやな音をたてて、上半身と下半身を別たれたももっちが地面に落ちた。そ の衝撃で、ようやく血管たちは血液を床に撒き散らし始めた。下半身と死に別 れになった上半身が、びくんびくんと跳ねた。  <彼>は――満面の笑顔を浮かべて、血のついていないバールを肩に掲げ、 呆然とする私に言った。 「なりがいいから犯っちまおうかとも思ったがな。誰かに横どりされんのもな んだし、さっさとヤっちまった」  そして<彼>は半分だけになった下半身を持ち上げ、まるで「私はなんて親 切なんでしょう!」とでも言いたげな笑みを浮かべて、よりにもよってこう抜 かしたのだ。 「この穴でよかったら使うか? まだあったかいぜ」  その時ほど、怒りを感じたことはない。  そして、感情を抑えなかったのも、抑えようとしなかったのも過去にも先に もその時だけだ。  私は怒りのままに拳を固め、その男へと殴りかかった。勝てる、勝てないの 問題ではなかった。殴らなければ気がすまなかった。ももっちを殺した男を、 そして殺されてしまった自分を殴り飛ばさなければ、私は発狂していただろう。  彼は私の望みをかなえてくれた――すなわち、何のためらいもなく、愚かだ った私を殴り飛ばしてくれたのだ。手加減をしてくれたのか死にはしなかった が、死にそうなくらいに痛かった。骨の二、三本は確実に折れているのが、生 態学者として分かった。  思い切り地面に叩きつけられる。意識が消えそうになった。消えるわけには いかなかった。私は奥歯をかみ締め、必死でこらえた。口の中に血の味がした。  痛かった。  そして――ももっちは、私以上に痛かったに違いなかった。  <彼>は、痛みをこらえ、必死に起き上がろうとする私を見下ろしていた。 さきほどまでのうそ臭い笑顔の消えた、感情のない笑い顔だった。他人を、そ して世界を見下したような笑み。 「経験地10万、ありがたく頂いたぜ――オレのために大切に『保存』しとい てくれてありがとうよ!」  彼はバールを投げ捨て、踵を返し、何を言う間もなく、振り返ることもなく 立ち去って言った。  ひゃははははははははははははははははははははははははははははははは、  という笑い声だけが、遠くから響いてきていた。  ……私は、残された力を振り絞って、ももっちへと擦り寄った。立ち上がる こともできなかったので、はいつくばって、だ。  ももっちは、かろうじて生きていた。上半身だけになっても、意識だけは残 っていた。数秒後には消え去るであろう命とともに。  彼女の光のない眼は、私を見ていた。  死に掛けた少女。  ももっちもまた、最後の力を振り絞って――私と違い、彼女は文字通り最後 だった。自分が死ぬことを、彼女は理解していた。今にして思えば「いつかは 死ぬ」ことも、きっと知っていたのだ――私に言った。 「ありがとう」  それが、最後の言葉だった。  上半身だけになったももっちは、最後にソレだけを言って――満足げに、笑 ったのだ。  この人生は無駄ではなかったと。 「この世に無駄なものなどはない」とでも言いたげに。長くもない二人の生活 は楽しく、幸せだったとでも言うように。  彼女は、今までで一番幸せな笑みを浮かべ、その笑みを残したまま、死んで いった。  私は――泣いた。  誰かの死にないたのは、それが初めてだった。相手が魔物であることなど、 意味をなさなかった。魔物も人も関係ない、その時私の目の前で死んだのは、 大切な愛しい存在である『ももっち』という名の少女だったのだから。  私は子供のように大声で泣き続けた。  最後まで意識を失わず、ももっちから視線をそらすことなく、私はただただ 泣き続けた――――           ■  思えば、それが私の始まりだったのだろう。  私は中央区へと召還されたが、それを断った。断る代わりに金だけ貰い論文 を幾つも発表し、著書を築き、同時に旅を始めた。  様々な魔物たちを調べるたびを。  その果てに、魔物と人が手をつないで生きていける世界を見つけるために。  いつの日か――  あの少女と、共に暮らした、幸せだった日が、全ての人間と魔物のもとにあ ることを信じて。  私は今日も、旅を続けている。                グドバイ=ハロウドの手記より抜粋