ハロウド=グドバイの冒険 『吹っ飛ばされて100海里』 東部大平原の南側は、近年街道の整備と休憩所の増設により、 大陸南部の南海商会から連盟所属の各国への輸出入品や旅人の移動が盛んになっている。 そして、その中でもっとも多く利用する集団が、キャラバン隊である。 キャラバンはその移動のために、様々な移動手段を使う。 有名な所でいえば馬車だが、何もそれだけが彼らの足ではない。 巨鳥ブラウスカイを使う者から、海を移動するためにウォーダガーを使う者までいる。 彼らもその一つだ。 「ふむ、見た目はワニに近いが、れっきとした龍種だな。  この第三肢、第四肢に龍族の名残を示す翼骨があるし、なによりこの龍歯だ。  人間で言う犬歯のようなものだが、龍はこれが奥にもある。彼らの存在の証だ。  しかし、せいぜい私より二回り大きいくらいなのに、  ここまで多くの荷物を運べるとはな。馬なら四頭引きの馬車が必要だぞ」 「こいつらは河を渡りますからね。だから見た目よりもずっと力があります。  少々水かさが増えた程度なら、この荷物を引っ張ったまま、河を昇れますぜ。  しかし学者先生、熱心ですねぇ。少しは休まないと、あとが辛いですぜ」 休憩所の椅子に腰掛け、積荷の整理をしているキャラバン隊に混じって、 あの男の姿があった。 ボロボロの白衣のようなコートに、古ぼけた手帳とペン。 魔物を見るその眼には常にギラギラとした熱意の火を灯す、究極の変人の一人。 冒険者にして探求者、そして世界最大の変人。 世に名だたる魔物生態学者の一人、ハロウド=グドバイその人である。 「確か、この魔物はハヤテという名前だったそうだな。  東方言語で疾風という意味か。なるほど、言い得て妙だな。  この健脚は王立馬術場の特級馬にも劣らん。  おお、よく見ると手足の間に水掻きの名残があるな。  元は水棲生物だったのか? とすると、この辺りにエラの名残がありそうなのだが」 彼が今観察している魔物は、見た目はワニが二足歩行しているような感じの生物だ。 いや、古代生物のダイナソアの方が、例としてしっくりくるだろう。 ハロウドが語った通り、彼らの太腿に当たる部分は、特にしっかりと筋肉で覆われ、 さらにその上を、ゴツゴツとした深緑色の鱗がキッチリと守っている。 胴体から手足の付け根に筋肉が集中しているので、ずんぐりとした印象を受けるが、 それは見た目だけである。 実際このハヤテたちは、馬ならば一週間かかるところを、四日で走破してしまう。 これは途中の補給を無視した数字であるが、彼らの早さを示すにはいい数字だろう。 「エラといえばこの辺りだと思うのだが、さて、どこにあるのか……あで!」 ぺたぺたと首筋の辺りを触り続けるハロウドの手を、観察対象のハヤテがガブリと噛んだ。 もちろん、怪我を負わせるためではなく、観察をやめさせるためだ。 それを見て、キャラバン隊の皆がドッと笑った。 「学者先生、嫌われちまいましたね。  魔物も人と同じで、しつこいと嫌われちまいますよ」 「ぬうう、相手を嫌い、そしてやめさせるための労力を最小限で行使する。  なるほど、見た目以上に知能があると見えるな。  これは面白い。知能によっては準貴龍種になるかもしれんな。  どれどれ、それではさっそく知能検査でお手でも……あで!」 ハヤテの正面に回り、手の平を上にして目の前に出すハロウド。 その手は、さっきと同じようにガブリと噛まれてしまう。 今度は、さっきよりも多少力が篭っていた。 「あっはははははは! うちらのハヤテはそこらの犬とは違いますよー。  それにそいつ、お転婆な雌ですからね。  なかなかのじゃじゃ馬で、こっちも扱うのが大変ですよ」 「クアーーー!」 じゃじゃ馬という単語に反応するように、ハヤテがキャラバン隊の方を向いて吼える。 その様子を、痛む手をなんとか動かしてハロウドはメモに取る。 「これは失礼した。レディ相手にあの態度では、さすがに怒られるのは道理だな。  しかしなるほど、これはなかなか高い知能だ。  ここまで明確に意志を伝え、交流を行う魔物は希少だな。  トゥルスィのカレン助手と違って、これはこれでまた面白い。  できるなら算数テストまでやってみたいところだが、  これ以上レディを怒らせるのは忍びないな。自重するか」 「クアッ!」 相槌とも取れるように、ハヤテがハロウドに対して鳴き声をあげる。 見た目よりも賢いこの魔物は、相当ご立腹のようだ。 「さて、そいじゃそろそろ出発といきやすか」 スクッと立ち上がるキャラバン隊が、それぞれ自分たちのハヤテの元に向かう。 と、ここでハロウドは一つの疑問をぶつける。 「ん? 彼女らに食事はいいのか? 休憩と言っても君らが食事を取るばかりだったぞ」 「ええ、こいつら一日一回牧草食わせれば大丈夫なんスよ。  あんまり食わすと、逆に腹壊したり身体が重くなりやすからね」 「おお、これで草食の龍なのか。となると、古の森龍に連なる系譜なのだろうか?  だとすれば面白い。龍族の系譜は他の魔物以上に複雑怪奇だからな。  できれば食事の様子も収めたいが、いつ頃になるかな?」 ハロウドも自分の乗るハヤテに向かいながら、熱っぽく饒舌に、疑問を口にする。 そして、帰ってきた答えは、彼の期待を裏切るものだった。 「学者先生を会う前にもう済ませちゃいまして……それに、明日の朝にはもう約束の場所ですよ」 ハロウドは、がっくりと肩を落とした。 「クゥ〜〜〜〜」 彼の乗るハヤテが首を動かし、ハロウドの頬を舐めたのは、ある意味幸運な出来事だった。 そしてそこで、また一つ疑問が浮かぶ。 「ところで、私の乗ってるハヤテの性別は?」 「雄です」 嬉しいような嬉しくないような、モヤモヤとした気分になるハロウドだった。 南海の傍には、総勢10の港街が存在し、それらは一つの組織を形成している。 その名は南海商会。大義や義憤ではなく、利で動く商人たちの集い。 東方諸国サンライトや南のサータナ諸島、果ては西方の大王国ロンドニアとの重要な接点であり、 皇国、王国連盟を問わず商いをしているため、双方にとって大きく重要な役割も担っている。 もちろん、隙あらば手に入れようとするのが人の常であるが、それが叶わない理由は二つある。 一つは、地理的な理由。 ファーライトや東国との国境線には、広大にして高大なリオン山脈があり、 さらにその隙間を埋めるように、賢者の迷森が存在している。 このどちらも、いまだ未開拓の魔物の土地であるため、そこを通るのは死を覚悟せねばならない。 軍事行動において無用なリスクを背負い込むのは、得策とは言えない。 唯一陸続きになっているのが、南大砂浜や皇国との狭い国境線だけなのだが、 ここも簡単には通れない。 ここに第二の理由が存在する。 それは、南海特有とも言える、種族の問題だ。 上記の通り、魔物の巣窟と比喩しても構わないほどの土地である南国には、様々な種族が存在する。 浜ドワーフや森エルフ、楽園の龍族たちやももっちたちなどが、一番いい例だろう。 かつてここに住み始め、暮らし始めた頃の遠い昔、人間たちは一つの取り決めを彼らと交わした。 お互いの土地に干渉しない。その代わり、誰かに危険が及んだときには、皆で助け合う。 世に名高き『リオンの宣誓』であり、リオン山脈の由来はこの立役者、賢人リオンから来ている。 そのため、国境線は南国の軍隊だけではなく、ドワーフや龍族も防備にあたっているのだ。 この取り決めが有効で、南国の人間と他種族の間に致命的な問題が発生しない限り、 南国を攻めるということは、南国全ての生きとし生ける者を相手にして戦うことを意味する。 こうして南国は、王国連盟や皇国よりも小さな国土であるにもかかわらず、 それら以上の武力と結束力、そして利でもって、常に中立を保って来た。 そんな南国の事情はさておき、港街の一つアントニウスに、その人物はいた。 「海の魔物の調査をしたいから手伝えってんでちゃんと来たってのに、  なぁんでいつもあいつは時間に遅れてくるんじゃぁー!」 酒場のカウンター席に座り、東方諸国産の米酒をかっくらい、愚痴をこぼす人物が一人いた。 いや、人物という表現は彼にとっては不適切である。 人間の子供ほどの身長に不釣合いのがっしりとした筋肉、蓄えたヒゲと整えられた髪。 彼は人間ではなく、ドワーフである。それも、内陸部に生息する穴ドワーフだ。 さらに、ドワーフにはなんとも似つかわしくない眼鏡と白衣をつけ、 加えて医者であることを示す赤い十字のついたバッグをつけている。 この辺りのドワーフは、ヒゲなしの浜ドワーフが多い上に、 加えて医者という、なんとも不釣合いな職であることから、いやがおうにも目立つ。 「あいつはいつもそうじゃ! 遅れて来るくせにおいしいところはしぃっかり持っていきよる!  あんなのが学者など、聞いて呆れるわい! ヒィック! マスターもう一杯!」 空になったジョッキを勢いよくカウンターに叩きつけながら、そのドワーフは吼えた。 マスターはやれやれと肩を竦めながら、ジョッキになみなみと酒を注いでやる。 それを間髪入れず、ドワーフはグイと一気に飲み干した。 「うい〜〜……しかしうめぇなこの酒。そういやマスター知ってっか?  うまい酒飲むとな、寿命が伸びるんだよ。なんでかわかっか?」 「飲んだら気分良くなるからですか?」 予備のコップを布巾で磨きつつ、マスターはドワーフに返事をした。 こういう客相手には、ある程度距離を置いて話すのが吉。 それが、この店のマスターの処世術だった。 「んむ、半分正解だ」 口元をにやりとさせるドワーフ。赤くなった頬と合わさって、逆に不気味に感じられる。 「酒飲むと気分よくなんだろ? そうすっと、笑うだろ?」 ドワーフがその笑顔のままズイと身を乗り出す。 カウンターの奥にいたマスターが、それを見てギョッと目を見開く。 そんなことを意に介さず、ドワーフは言葉を続けた。 「人間でもドワーフでも、もちろん龍でも魔物でも、笑っていやなこと忘れりゃ、  身体がそれに応えてくれるのよ」 「ほう、それは興味深いな。ならさっそく、かの名高きリオン山脈の龍の楽園に行って、  彼らと酒を酌み交わしてみるかね?」 突如背後響いた声にハッとして、ギギギと音が鳴りそうなほどゆっくりと、 ドワーフは首を後ろに回した。 「やあ、待たせたなザッパ。ちょっとばかり観察が長引いてしまったよ」 晴れやかな笑顔のハロウドが、臆面もなくそこに立っていた。 そして、ザッパはすぐさま椅子から飛び降り、ハロウドに掴みかかった。 といっても、身長の低いザッパの腕では、胸倉を掴めるはずもなく、 コートの裾を握ることくらいしかできないが。 「遅れてきておいてなんじゃその台詞は! もうちょい反省せんか! このバカタレが!」 「まあそうカッカするな。これでも急いだほうなんだよ」 そう言って、ハロウドは怒り心頭のザッパに自分の手帳を広げて見せる。 さっきまで同行していたと思われるハヤテのスケッチに、彼の観察結果や疑問が、 ズラズラとページ内に収められていた。 それをザッパは、ブン捕るように手に取り、眼鏡の位置を直して読みはじめる。 その顔からは、酔いの赤みが消えていた。 「彼らは草龍が、広い平野や山を超えるために小型化したものだというのが、私の出した仮説だ。  最初は河川の多い地域にいたため水掻きがあったが、  それも陸上での生活が長く続くうちに、翼と共に退化させていったのだろう。  その代わりに、邪魔にならない程度に翼を第三、第四肢に変え、  急な坂を登るときに活用していったのだと思う。  ちなみに、リンゴくらいなら軽く握り潰せるらしいぞ」 ハロウドがすらすらと自らの所見を述べるが、ザッパは図のほうに集中しているらしく、 返事を返して来ない。 そして唐突に、手帳を閉じてハロウドに投げ返した。 「やっぱりわしがいっしょに見てやらんと、お前さんはダメじゃな」 ザッパはそれだけ言い残すと、カウンターに代金を置き、さっさと一人だけ店を出ていこうとした。 その後を、ハロウドは慌てて追いかける。 「どういうことかね? 詳しく聞かせてもらえないか?」 「詳しくも何も、お前さんが水掻きだといっとるもんは、ただの鱗膜じゃ。  弱い所を覆っているだけに過ぎん」 その言葉を聞き、ハロウドは呆然すると共に、少しだけ納得した。 「なるほど。確かに不整地は意外な所に怪我の元があるからな」 納得した所で、ハロウドはすぐにザッパを追いかけて店を出た。 南国からの航路は、二つに分けられる。一つは東、もう一つは西。 そのどちらを通る際にも、必ず南のサータナ諸島を通らなくてはならない。 というのも、そのまま東にいけば魔王同盟の占領地域の傍を通ることになる上、 西に行けば密林大陸付近を流れる大潮で逆に押し戻されてしまう。 そのため、まず先に南のサータナ諸島に行き、準備を整えてから移動する。 「しかし、なんでまた船になんぞ乗らなきゃならんのじゃ?  そこらの海岸で釣りしながらでも調査できるじゃろ」 「サータナ諸島の南を、今度シーカテドラルが移動する。  皇七郎君がロンドニアの沿岸で数週間前に発見してね。  おそらくそのまま潮に乗ってこちらに移動してくるはずだ」 「クラゲは掻っ捌くところがないから好かん」 「それは安心した。私も彼女が切られるところを見たくない」 大型キャラバン船の甲板上に、二人はいた。 キャラバンが使う船の多くは、多くの輸送貨物や人員、陸上移動用の各種生物を搭載するため、 通常よりも収納スペースが大型に作られている。 なので、大型の帆や舵だけでは動力が足りないため、ある仕掛けを施してある。 「しっかし、魔物を動力源に使うとはのぉ……」 「いい魔力機関が開発されていないからな。それはしょうがない。  風の力だけで移動するには、海は広すぎるからな」 今彼らの乗っている船を動かしているのは、フライヤーと呼ばれる魔物だ。 翼の生えた巨大な海蛇、と言うのがその容姿を表すのにもっとも適した言葉だと思われる。 だが、その翼こそがフライヤーのフライヤー「飛翔する者」の意味を体現している。 「翼が舵代わりか。どういう構造になっとるんじゃ?  たぶん水吸って吐いてってとこなんじゃろうが、どうもその理由がわからん」 「おそらくその説でいいだろう。問題はなぜそのような構造になったか、だな。  話によると、彼らはかなり高空まで飛んで獲物を捕らえることができるようだ。  一説では、リュウノアギトの群れまで捕らえたことがあるそうだ」 「そいつぁまた恐ろしいのぉ。ま、もしくはそれを利用して、  巨大な獲物から逃げたりするのかもしれんがな……っかし、揺れるなぉ」 このキャラバン船は、フライヤーを船の先から鎖で繋げ、引かせるような形で動いている。 もちろん、目的地に一直線で向かって行くので、途中の波をまともに喰らうのは、言うまでもない。 そのため、揺れも断続的に、かつ激しいものとなっている。 「ウエー、わしは海に落ちるのだけは勘弁したいわ。穴ドワーフは水浴びこそするが、  身体が重くて泳げんのじゃ。魚の餌になるのだけはいやじゃ」 「そうなりたくないなら、船室に帰っていてはどうだい?」 「バッカモンが。こんな広い大海原、早々拝めるものではないわ」 そう言って、船べりをガッチリを掴んで、ザッパは子供のようにはしゃぎながら海を見ていた。 内陸に住む穴ドワーフにとってみれば、入ることのできない海に憧れに近いものがあるのだろう。 そして、そのおかげか、彼は一つの異変を最初に察知できた。 彼の視界の先に、一艘のボロっちい船があったのだ。 「あん? なんじゃありゃ? あんな船でも海渡れるのか?」 「ん? 船だと?」 ハロウドも、揺れる甲板上をなんとか渡って、船べりに移動した。 彼もまた、件のボロ船を視界に納めた。 帆はなく、船体も朽ち果て、何より、いかなる生気も感じられなかった。 なのに、その船はこちらに向かってくる。どこでもない、ハロウドたちの乗る船にだ。 「……まさか、ヤツか。ザッパ! 武器を構えろ!」 「ギャーーーーウ!」 突如、船が止まった。フライヤーの悲鳴と、ハロウドの叫びが、同時になり響いた。 「何があった!?」 ゾロゾロと、船員たちが武器を手に甲板に集まってくる。 そしてヤツらも、甲板に踊り出てきた。 「ガギ! ガギ!! ガギ!!! ガギ!!!! ガガギギギイィ!!!!!」 船体にその鋭い爪と足を突き刺し、よじ登ってくる巨大なヤドカリの群れ。 いや、ヤドカリと言うには、そいつらは巨大すぎた。なにせ人よりも大きい。 背殻はもはや貝の死骸などを積み上げた一種の岩であり、その爪は木造の船舶など易々と破壊する。 なればこそ、人々はこいつをこの名で呼ぶ。 「船喰いだーーーーーー!」 船員の一人の発した言葉が、そのまま彼らの乗る船を、戦場に変えた。 誰もが武器に手を持ち、誰もが生き残るために、誰もが戦いはじめた。 もちろん、ハロウドとザッパも例外ではない。 いや、ハロウドだけは例外だった。 「どういうことだ。船喰いは浅瀬の生物だぞ。こんな沖合いに来るはずが、来れるはずがない。  もちろん水底を歩くという方法はある。だがそれでは船底にどうやってくっつく?  泳いだのか? いや、違う。そんな機能は聞いたことがない。  ではなんだというのだ!?」 「んなこと考える暇があったら腕動かさんかい!」 メイスを取り出したザッパが、自らに向かってくる船喰いの爪を叩き落としながら、 ハロウドに吼えた。 だがハロウドは返事をしない。返事をせずに意識を自らの記憶の海に向ける。 今までの長い年月で蓄えられた、彼とその仲間たち以外には無用な、だが彼らには大事な記憶を。 そしてその中から、彼は一つの情報を引き出す。 それは、ある意味とても単純で、とても答えに近い情報だ。 「もし、もしもだ。我々が船喰いと呼んでいるものが、まだ幼生だとしたら。  さらに、まだ我々の知らない、船喰いの成体がいたとしたら……  ああ、なんてことだ! なんでこんな簡単なことに、今の今まで気づかなかった!」 頭を抱えわめき散らすハロウド。 そしてそれに応えるように、彼の背後で巨大な水飛沫が上がった。 巨大な影が彼を覆いつくし、後ろからはギギギと、耳障りな異音が聞こえる。 恐る恐る、ハロウドは後ろを振り向いた。 「名づけるなら、『海渡り』、が適切か?」 そこにいたのは、まさに巨大な船喰いだった。 大きさは動く山といっても過言ではない、それほどまでに巨大だ。 背には、先ほどザッパたちが見たあのボロ船が乗っている。 その穴という穴から、船喰いたちがゾロゾロと這い出てきていた。 もちろん、この船に向かってだ。 「おいハロウド! おめぇもボケッとしてないで戦え! 死にてぇのか!  こら! 聞こえてんのかこの朴念仁!」 ザッパが船喰いの一匹にメイスを振り下ろしながら、ハロウドに叫び続ける。 ハロウドは、ずっと巨大船喰い――彼が海渡りと呼んだ相手を見ながら、震えていた。 傍目には恐怖で動けないようにも見えるが、彼はこんな状況を何度も潜り抜けてきた古強者だ。 まずそれはありえない。ならばなぜ震えているのか? ザッパの位置からは、ハロウドの表情は見えない。もし、彼がハロウドの顔を見ていたなら、 なぜ動けないのか理解できただろう。 ハロウドは、笑っていた。 「素晴らしい! 素晴らしいぞ! 私は今日という日を学術的記念日にしてもいい!  これだから冒険はやめられん! 面白いと思わないかザッパ!  まずはこれだけ巨大になるまでにどれほど生き抜いてきたのだろうか!  それに雌雄の区別だ! 雌だけこれほど巨大になるのか!? それとも交尾した後か!?  さらに最大の疑問は、どうやって海を渡るかだ! そのメカニズムがわかればまさに大発見!  私が思うにおそらく水を吸って吐いて移動していると思うのだ! どうかねザッパ君!?  この説は非常に的を得ていると思うが君の意見はどうだ!」 「知らんわぁーーー!!」 懐から手帳とペンを取り出し、さっそく海渡りの姿と特徴を書き連ねていく。 もちろん、ザッパたちに加勢しないことになる。 「お前やっぱ狂っとるじゃろ! 知り合いの魔術医に相談してその脳みそいじくったる!」 「それは無理な相談だ! 私は私であるが故に私だ! これは誰にも止められんよ!」 興奮したハロウドにつける薬はない。ザッパは改めてそのことを思いだした。 そして、ノコノコついてきた自分のことを、お人好し過ぎると今更ながらに後悔した。 「お前が海に落ちても絶対助けてやらんからな!」 「ハッハッハ! 泳ぎなら誰にも負けないつもりだ!」 ハロウドはまだまだ手帳への記入を続けている。それが、ある意味不幸を招いた。 そして、ザッパが気づいた時にも遅かった。 海渡りが、その巨大なハサミを振り上げていたのだ。 「ハロウド逃げろぉおおおおおお!!」 「逃げる! 何をバカなことを言ってるんだ君は!  こんな状況で逃げるなど魔物生態学者の名に泥がつ――」 ハロウドの声は、轟音にかき消された。衝撃が彼の身体を襲い、その意識をズタズタに引き裂く。 振り下ろされた海渡りの挟むが、船の甲板をぶち抜いたのだ。 ハロウドは、そのまま吹き飛ばされ、海に落ちた。 「ハ、ハロウドーーーーーー!」 海に落ちる直前、ザッパの声がハロウドの耳に聞こえたが、それもすぐに水音にかき消された。 背中からまともに落ちたため、その痛みは全身を蝕み、さらに急激に彼の体内に侵入する海水が、 思考すらも蝕みはじめる。 だが、それでもハロウドの、本能ともいうべき執念はその手の手帳をはずさなかった。 観察を止めることはなかった。 「まさか、これほどとは……」 海の沈んだことで、彼ははっきりと海渡りの底部を見ることができた。 そこにあったのは、幾重にも折り畳むことが可能なほどの、巨大な足があった。 そしてもう一つ、彼の仮説だった水流噴射機構も、臀部の辺りに存在した。 「半分正解で、半分、はずれ、か……グッ!」 見届けたところで、急激に彼の身体を苦痛が襲いはじめる。 呼吸もできず、体内には異物が入り、それから逃れることはできない。 肺呼吸を常とする霊長類――人間の欠点の一つである。 「ガッ! グボッ! グバハッ!」 必死に泳いで水面に昇ろうとするハロウドだが、 もはやそれがままならないほどに彼は深く沈んでいた。 服は水を吸って重くなり、さらに数多くのポケットの中味が、さらにその重量に拍車をかける。 もはや脱出不可能と思った、そのときである。 不意に、彼の身体が浮いたのだ。 「モガッ!」 なんだ、と思った彼が辺りを見回し、背後に目を回そうとしたが、そのハロウドの顔を、 白い手が優しく抑えた。 それは後ろを見るなという意思表示と取れた。 「どうかこちらを見ないでください」 水の中だと言うのに、透き通った声がはっきりとハロウドには聞こえた。 そこで彼は理解した。誰が自分を助けたのかを。 だから彼は、後ろを見ないことにした。彼女らは恥ずかしがりやだからだ。 「ありがとうございます」 後ろから礼の言葉が聞こえた。そこで、彼の意識は途絶えた。 気がつけば潮騒が聞こえ、日の光が彼の身体を優しく包む。 意識が徐々に覚醒し、はっきりと自分の身体がここにあることを認識する。 ハロウドが目覚めた場所は、南国の名所のひとつ、南大砂浜であった。 「……ああ、今回も生きてるか」 ゆっくりと指を動かし、感覚を確かめる。 少々ぎこちないが、なんとか動く。 「よし、アントニウスに帰って報告を……」 立ち上がろうと足を動かしたところで、彼は違和感に気づいた。 グニョグニョした何かに包まれている。 なんとなくその正体は想像がついたが、確認のために足を見やる。 「……私は餌じゃないぞ」 ジェラートグミが、纏わりついていた。 場所を問わず、砂浜という砂浜に存在する半液状生物が、彼の足にしっかりと纏わりついていた。 「ふむ、確かジェラートグミの主食は海水だったか。  となると、私の服に染みこんだ海水が目当てか? なるほど、簡単な脱水に使えそうだ」 プニプニとしたそのボディを指で突付くハロウド。 ジェラートグミは反応を返してこないが、それでもハロウドは内心楽しんでいた。 「ほーれほれほれほれほれほれほれほれほれ」 何度も何度も、子供のように無邪気に突き続けるハロウドに嫌気がさしたのか、 ジェラートグミは彼から離れ、波打ち際で真ん丸くなった。 真ん中のコアが、非難するかのようにハロウドを見ている。 「わかったわかった私が悪かった。だから怒るな。彼女に会ったらありがとうと伝えてくれ」 そう言って、ハロウドは立ち上がり、自分の倒れていた場所の横を見た。 自分のくっきりとした人型の跡ともう一つ、何かが這っていった跡が残っていた。 「できることなら、面と向かってちゃんと礼を言いたかったが、まあ今回は運が悪かったと諦めるか」 そして彼は、自らの出発点――港街アントニウスに向かって歩きだした。 ザッパたちの安否の心配もあるが、何よりも彼がまず報告したかったことがある。 「あの巨大船喰い――海渡りのことを早く知らせねばな!」 なにがあっても、ハロウドは魔物生態学者であった。 余談であるが、あの後ザッパたちはなんとか船喰いたちを倒し、 海渡りからフライヤーに乗ってなんとか逃げ切ることができた。 さすがに巨大な相手を倒す装備はなかったので、この行動は正しい。 起こった出来事をアントニウスで話そうとしたが、その前にハロウドが事の大半を伝えていたので、 彼らの出番はほぼ無く、おかげでゆっくりと休むことができた。 今回の事件は、勇者が出撃するほどのことでもないと判断され、天災として処理されることとなり、 さらにしばらくサータナ諸島への海路は、緊急措置として封鎖された。 キャラバン隊には不運であるが、事故にあうよりはよほどマシである。 「あー、シーカテドラルの姿、出来れば見ておきたかったものだ」 「お前とは二度といっしょの船に乗らん!」 めでたし?めでたし