──楽園、と言うものは少なくとも即物的な意味ではこの世の何処にも無い。  何故ならばそこには既に人の居場所など無いからだ。(とある神学者の言より抜粋)  冒険者達異聞 時計塔物語/1.少女と出会いと遠く離れたとある町での一幕  tick-tack。tick-tack。時計の歯車と針とが回る音がする。  てっくてっく。てっくてっく。小さな足音がそれに重なる。  推定年齢十歳。淡い色のスカートとブラウスの極々普通の背格好。  それは、勿論彼女の物である。  そして、彼女とはアラム=O=クロークと言う名前の少女であり、この時計塔なる場所の住人であった。  推定年齢十歳の少女など、言うまでも無くありふれている。どこの街にも探すまでも無く一ダース程も見つかるだろう。  但し。少しばかり変わった事があった。彼女の周囲を見渡せば、すぐにでも解る事だが。  鼻歌を歌い続けるばかりのアラムは、青銅色をした金属質の硬い廊下を歩いている。  頭上には前へと、横へと。音も無く回り続ける歯車と、不規則に並んだ通路だ。  それから、幾つかの天窓と、淡く輝く得体の知れない装置がそこかしこに見えた。  アラムは特にそんな物を気にした風も無い。僅か十年とは言え生まれも育ちもこの塔の中。  であるからには空へは勿論の事、地の底へ向かっても長々と底知れぬ深さで広がる空間に対しても恐れる事など無いのである。  時計塔は。  一言で言うならば上空数百メートル、地下に関してはこの少女の知らない程の大きさの古い、古い塔だ。  その古さたるや、恐らく自慢できる程に違いない、とアラムなどは勝手に思いこんでいたりもする。  彼女と一緒にこの塔で暮らす彼らなら或いは詳細を知っているのかも知れないが、残念ながらアラムに彼等は話そうとしない。  注記を入れておこう。『彼等』とは彼女がこの塔の中で、寂しさで死んでしまったりしない最も大きな理由である。  丸っこくて、沢山で一つの聞かん坊の『ファンク』だったり、朴訥だけども真面目な『ワーカー』、 無口だけれど本当は優しい執事さん、こと『バトラー』、そして彼女のお目付け役兼教師の『マスター』だ。  そして、そんな場所にどうして彼女が住んでいるのか、と言えば。  大した理由ではない。アラム=O=クロークは多分拾われっ子でそれを物好きにも育てたのが彼らだった、と言うだけだ。  彼女などは橋の下やら箱の中で捨て猫宜しく泣いていた赤ん坊の頃の自分など想像していたりもする。  最も、実際の所彼女自身自らの出生を良くは知らないし、余り興味とて無かった。  つまらない昔よりも、今の方が大切に思えていたのである。  さて。彼女は散歩をしている。散歩と言えば半ば無目的、半ばぶらぶら歩いてぶらぶら過ごす。  とは言えそれでは牛になってしまうのであり、牛になるのは当然いやな物だ。  だからアラムには目的があるのである。その為に、わざわざ『クリップ』を外している程だ。  (ここで言うクリップ、とは我々の言葉で言えば一種の発信機を指す)  誰にも邪魔されたくは無いのである。最も、その計画を聞けばあれで心配性のファンクなどは黙ってはいないだろうが。   曰く、外は危険だ。兎も角何が何でも危険だ。だから行っちゃいけない。何故とか聞くな。危ないものは危ないのだ。  良く言えば心配し過ぎる性質のある、悪く言えば過保護な彼がよく言う言葉だ。  しかし、少女はこう反論するのだ。  何か危ないか教えて欲しいし、危ないものばかりしか無いなんて信じられない。大体、そうだとしたら一歩だって歩けないじゃないか。  本の偉い人だって外の人だし、少なくともマスターはそんな事を言っていない。  そんな訳で、彼女はこうして一人出歩いているのである。 「にへへ……」  思いつきを考えると、頬が緩む。  彼女の歩く方向は下り道。輝く『門』を潜り抜け潜り抜け。  ここから先は気をつけないといけない。巡回する『ファンク』の目を盗み盗みの抜き足差し足忍び足。  サンダルがすべすべの床を踏んではきゅっきゅと音を立てていた。  少女の計画とは簡潔に言うとこうだ。  街を覗きに行こう。街を見に行きたいな。以上である。  実に単純きわまる行動原理は子供ならではのそれであったが、もし事が露見すれば大目玉は免れまい、と思うのだった。  第一、マスターは彼女に社会を教える時には何時だって基本的に魔物と人間は対立していると言う事。  それから、自分達がいかに妙ちくりんな立ち位置にいるかを口が酸っぱくなる程繰り返している。    が、要は見つからなければいい、と思うのだ。  それに、何時だっていい子にしているのだし、少し位の我侭は仕方が無い、と自己弁護を繰り返してみる。  365日ぶっ続けの格好付けなんて、風車や水車にでもやらせておけば十分なのである。  好奇心も盛んな推定年齢十歳は家の中に引きこもったり、本を読んでばかりじゃ居られない。  ここの所は、自分じゃなくともどこに居るのだって同じだろう。  自己弁護完了の論理武装終了。誰だって太刀打ちなんか出来る訳が無いのであった。 「……ここだよね」  柱の影に隠れつつ。陽光の差し込む門を見つめる。  その先には、一つの区切りがある。埃だらけの内と、石畳の外を分ける仕切りだ。  大体からして、ここまでは足にか背にか羽が生えたように軽やかにやってこれるのだが。  ここから先は不思議とそうは行かない。いや、別に不思議などと大層に言ってみる必要も無く、 単に自らの行いが酷く後ろめたいだけであるのであろうが。  しかし。不思議と。殊、今日この日には歯車みたいな心臓が歩け歩けと急かしていたのだった。  或いは、この少女も又、これから起こるべき一つの事件をこの時点で予想していたのかもしれなかった。 「よしっ」  が、そんな考察はちーっとも関係は無い。少なくとも、本人が思考しない限りは意味が無い。  スカートひらひら。靴をかつかつ。けれども見つからないようひっそりと。  そんな調子で、アラムは外へと歩みだしていく。  上り始めの太陽が眩しい。雲は余り見えない。少し肌寒い事を除けば本で読んだ夏のような空模様だった。  何時もは窓から何処か遠く見えた空が、とても近い。  勿論、レンガの建物や忙しそうな人だとか、何やら煙を立てている屋台はもっと近い。  最も、それよりも先に目に着くのが塔の前に設けられた番兵の詰め所だったりするのには、溜息の一つでも吐きたい気分だったけれど。  折角の気分が台無し、といった所だ。  とは言え、それも半ば形ばかりの物。  (彼女は知らない事であるが、そんな物だけではどうしようもないのである)  ふああ、と槍を持って帽子を被った小父さんがあくびをするのをアラムはちらと目に映しつつ歩いていった。    ──はて。どうにも姿が見えないであるなぁ。    などと、のんびりとモップを片手に塔の居住区を拭いているのは現在絶賛外出中のアラムが呼ぶ所のワーカーである。  のっぺりとした茶色の顔と、厚手の藍色ズボンを着た彼はと言うと今日も今日とて日常業務である。  要するに掃除なのであるが、残念ながら容易い仕事では無い。  何せ、この区域だけでも彼一人では午前一杯程も時間がかかってしまう。  最も、主婦(夫)一般の最大の敵、とも言える洗濯物について言えば、殆ど手間が掛からないのは幸いではあった。  服が必要となる者は、この塔の中には殆ど居ない。  さて。前述の通り、この区画は広く。それから、彼は少なくとも四時間以上はこの仕事にかからなけれはならない。  にも関わらず、関心の半分を──因みに、もう半分は掃除やら何やらの多重起動であるが──現在占めている女の子の姿が見えない。  状況から推察するに、単なる行き違い、と言う訳でもあるまいと考えた。  アラムの行動パターンは、当然ながら機械の身の上である彼の記憶媒体に逐一記録されているし、 何時でもワーカーはその情報を読み出す事ができる。   それによると、今はマスターによる授業開始の十分前。急いで走ってワックスの利いた床にすっ転ぶ、なんてのが代表例だ。  きゅっきゅっと、床を磨く。それから、バケツに突っ込んで湿らせ、水を切って作業を続ける。  状況予測。無線通信の準備開始──受信。発信者の名義は、勿論マスターであった。 『アラムの姿を見ませんでしたか?姿が見えないのですが』  返して曰く。 『おれの方も見てないよ。ファンクには聞いてみたのか?』 『残念ながら聞いていません。……何時もの悪い癖でしょうからね。きっと。教師としては感心できませんが』 『奇遇だな。おれも、丁度そう思ってた所だ。それで、どうするんだ?』 『十一時を待って、ファンクに知らせます。きっと彼の事ですから大騒ぎして見つけ出そうとしてくれる事でしょうし。  最も、その間に塔内部とクリップの位置データは洗っておきますが』 『腹が空けばなんとやら、か』  ピッ、と音のイメージが意識に割り込んで、仮想の会話に新たな名前が現れる。 『失礼する』 『お早うございます、バトラー。今日もお元気そうで』 『グッモーニン。しかし珍しい。あなたが口を挟むなんて』 『世話をする相手がいないからな。ちょっとした暇潰し、と言う訳だ』 『成程、執事は主がいなければならない。そうでなければ己と言う存在でしかない、と言う訳ですか。  最も、我々に私(わたくし)等と言う物が存在するかどうかというのも面白い思考です』 『お前も相変わらずだな、マスター』 『全く』  ワーカーが相槌を打つ。彼などは、バトラーの文字から何とはなしに辟易とした印象を受け取っていた。  そして、他愛も無い会話が続く。主に発言しているのはマスターとワーカー。時折、バトラーが相槌を打ち意見を挟む。  気だるげな空気は鋼鉄の肌でだって感じられるのであるが、どうにも身内に爆弾を抱え込んでいるのも又、事実であった。  そいつは今もカチカチと時限装置の秒針を、或いは丸まっちい本体に接続された導火線をバチバチ言わせているに違いない。  たとえば、こんな風に。 『所で今日のメニューは?執事さん』  3  『それは私としても興味深いですね。ただ、栄養学的にも見た目も味もバランスが取れていなければならない。  極々僅かに思える事が致命的な結果を呼ぶ、何てことは往々にしてあるものです』  2 『そんな事を言って、一週間連続で倉庫の片隅に転がってた栄養フレーバーの合成食ばかり出して拗ねられたのは何処の誰だったか。  ま、ご期待に沿えるよう努力はするがね』  1 『──さて、そろそろ各人するべき事をしましょうか』  まるで何か文言でも宣言する様に、マスターが発言し。  余り性能に余裕の無いワーカーは情報の処理量を制限し、一方のバトラーはと言うと一つばかり空欄の発言を挟む。  人間に置き換えれば、丁度耳を塞ぐ様な挙措であった。 『うっだらぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!』  そして身内型爆弾炸裂。その通称をファンクと言う。 『おや、どうしました?ファンク』 『アラムはっ、アラムはどうしたっ!?何処にも見えねーじゃねーか!!』 『言いたい事は解りますから、とりあえず落ち着いて』 『落ち着ける訳ねーだろ!!』  言うが、ファンクは少しも落ち着いた様な素振りを見せない。  はて、とマスターは思う。彼とて、アラムの癖は知っている筈だ。  普段のどこか作った様なそれと違い、この慌て振りは妙だった。  何か、妙な事でも起こったのであろうか。  その思考に従い、マスターは遣ってきた爆弾に発言を促す。 『──何か、あったのですか?』  …  とある田舎町。空はと言うと空ろに蒼く。かと言って、何寂れている訳でも瘴気やら何やらが漂っている訳でもない。  街道沿いの極々普通の宿場であり、とは言っても交通の要衝と言う訳ても無く、特徴が無いのが特徴とも言える町であった。  そこを歩く、立像が一つ。人影、と言わないのは端的に言って『それ』は人には見えないからであった。  黄金の鎧。それから、腰の金なる大段平(おおだんびら)。  人の言う所の、『聖騎士』ロリ=ペドなる存在であった。  彼に関して語る必要は余り無かろう。   それにしても恐ろしく目立つ男であった。  普通、そう言う言葉を充てるからには髪やら服装やらに対象が行きそうなものだが、この場合は最早問題外であろう。  その格好だけを抜き出してみれば、どこの仮装行列かとも見紛う程である。  事実として、すれ違うだけで人の目を集めずには居られず──最も、その悉くは彼の纏った威圧感にすぐさま目を逸らさずには居られないのだが──その彼は、と言うと時折衆目を僅かに集めつつ酒場の扉を潜った。    それが、先程までの特に記す事も少ない片田舎での出来事である。  ──で。彼は今現在、ストゥールに座り、数人がけのテーブルに一人で陣取ってメニューを眺めている。  はっきりと言えば、それは日常と非日常が対比された素晴らしくシュールな情景であった。  そして、注文を取るべく視界を持ち上げた所で──その男が彼の目に映っていた。 「──灰龍?」 「げっ……」  そして、彼が目にした男を前に口にする。  何故だか店員の服装を着込んで瞬間的にとんでもない渋面を浮かべたひげ面のそいつはと言うと、 思わず片手のメニューその他を取り落としそうになりつつ、ロリ=ペドの前に立っていたのだった。  これも又、酷くシュールな光景である。彼の名は、ロボ=ジェヴォーダンと言った。  そして、その二人はこの町に居ない、と言うよりは居てはならない筈の存在であった。  ところで。  化け物が、何時だって化け物として動き回っているとは限らない。  例えば人に紛れて生きるならば、人のふりをして生きなければならない。極々、当然の事だ。  優に百年以上の単位で生存を果たす連中に対して、人間の観念が通用するかどうかはわからないのだけれど。  ともあれ。彼らとて、人間社会に生きる以上、忘れてはならない事実が存在する。  要するに、何か目的を果たすためには代価が必要である、と言う事だ。  そして、それは魔法の壷から出てくるみたいに無限に湧き出してくる訳では、決して無い。  ──まぁ、要するに。ロボ=ジェヴォーダンなる男には金が必要なのであり、その代価がこの有様、と言う訳である。  これでは、冒険者と言うよりどちらかと言うと文無しの放浪者である。余り格好の良いものではない。  しかしながら、金は必要だ。人間近縁種族の支配圏であるからには仕方が無い。 「ジャ、ジャック君。どうかしたのかね?」  1km程先からすっ飛んで来た店主の声に──呼んだ名前は男の偽名だろう──先程口にしたそれとは変わって何でもありません、と 慇懃に返しつつ、ペンで長々と品書きが書かれたメニューを目の端に写しつつ、「ご注文は?」と言った。  返事は無い。兜の細い隙間から、目の前の相手を見つめる眼が僅かに覗いているだけだ。  ──最も、それでぴりぴりとした空気が僅かでも張り詰め始めた事に気づいていたのは、『ジャック』なる彼だけだろうけれども。 「よせよ」  と、聞き取れるか聞き取れないかぐらいの煙草でしわがれた小声で『ロボ=ジェヴォーダン』が言う。 「まだ、クビになりたかぁねぇんだ。話があるなら後にしてくれ、『お客さん』」  果たして。それで興味を失ったのか、或いは納得でもしたのかロリ=ペドは再びメニューに目線を戻すと。 「美酒、何処」  ずらずらと並んだメニューの酒を眺めつつ、ジャックに言った。  かくして。辛くも崩壊の危機を免れたその酒場で、金色の鎧は火酒を啜る。  銘柄はオウルド・ボウ。泥炭で燻した麦の樽詰め蒸留酒である。  一本二本とゆっくり傾け傾け。その一方でジャックは床を拭き、注文を取り店の中を動き回る。  時折、幾人か昼食を取る者や、猥雑やら世間話やらが飛び交い、その内の幾人かは鎧に目を遣ったりしていたが、 概ね、平凡で退屈な時間が過ぎていった。  ここに居座る多くの者にとっては少しばかり変わった事件に過ぎまい。  二つの大人しい異物を除いて、だが。  それから。昇る朝日はやがて傾き、地平の向こうに消えずには居られない。  積まれた空き瓶が10を数える頃、どうやら今日はこの町で夜を越す腹積もりか彼は未だ席を立ってはいなかった。  客の姿も消え、夜の帳も降り切って。  店の中に残った風景以外のものと言えば無言でグラスを拭くジャックと、 今しも最後の火酒の最後の一杯を飲み干そうとしているロリ=ペドと、 そんな鎧を見つめたまま彼が水か何かの様に飲み干し続けた酒代を本当に支払ってくれるのだろうか、 とかそんな事を心底心配しつつ店じまいの準備をしている店主の男だけであった。 「なぁ、君。その、何だ。アレだな。少し、簡単な用事を頼まれてはくれないか?」  しどろもどろ、と言った調子で40絡みの恰幅の良い店主が不意にジャックにそう声を掛けた。  ちらりちらりと臆病そうな光を湛えた目が石像か何かの様に椅子に接着したロリ=ペドを見ている。  そろそろ店じまいの時間だし、彼はもう十何時間も居座ったままであるし。  放って置いたならば、この世の終わりがやって来るまでこの店の片隅で火酒をあおり続けて大損害を食らわせてくれるのではないか。  そんな事を考えているのかもしれなかった。  声を掛けられ、ジャックは手を止め「解りました」と答えてから、店主の意を汲んでカウンターの中から出る。  この時は、未だ彼はジャックのままだ。かつかつと歩き、鎧の前で立ち止まる。   「お客様。すみませんが、そろそろ閉店の時間ですのでお会計の方を……」  言うと、鎧が彼の方に顔を向けた。  まさか、踏み倒すと言う訳でも無かろうが彼の挙措はそれのみで、しばし反応が止まる。  背中に店長の視線を感じながら、ジャックは辛抱強くロリ=ペドの反応を待った。  やがて鎧がやっと気づいた様に立ち上がる。  ふと、面頬付の兜を付けたままどうやって酒なんぞ飲んでいるのか、等とつまらない疑問が過ぎ去って行き。  びょう、と撓んだ空気が引き裂かれる音をジャックは間近に聞いた。  彼は瞬き一つしなかったが、酒場の床に叩き付けられたその『剣』に哀れみを誘うほど驚いていたのは店主である。  と、突き立った剣を引き抜いて髭の男がはジロジロそれを確かめる様に眺めてから振り向く。  直刃で、無骨ながら良く鍛えられた剣だった。装飾は殆ど無く、まさしく実用一点張りだと言わんばかりであったが、 よくよく見てみれば、刀身にもそれと一体化した柄にも、一種の回路の様に見える筋が走っていた。  成程。業物だな、とそんな感想と同時に彼は僅かばかりロリ=ペドを羨ましく思った。  現金では無かろうが、こと資金に関しての苦労は無いのだろう。 「店長。これが代金、だそうです」  言われ、ぽかん、と店長が顎が外れたみたいな顔をする。  余りにも当然すぎる反応に、ジャックが「酒代には十分足りてますよ」と助け舟を出した。  相変わらずぽかん、としたままの彼に近づくとジャックは「今度の仕入れの時にでも引き取って貰う事にしましょう」と言った。    閑話休題。  彼らが居る酒場は酒場とは言っても半ば宿屋の様なもので、黄金鎧の宿もそれだ。  前述の店主はと言うと、勿論心中では反対したのだけれど口には決して出す事が出来なかったそうだ。  閑話休題了。  さて。これにて『ジャック』は『ロボ=ジェヴォーダン』へと戻った。  つい先刻までベッドメイクに勤しんでいた所の彼は、揃いの黒く襤褸いコートと帽子を被り椅子に座ってマッチを擦り煙草に灯す。  部屋の明かりは二つになり、彼は眼前の黄金鎧に胡乱げな目を向けていた。 「久しぶり、と言うべきか。それともはじめましてと言うべきか。正直、会いたくも無かったが──縁とは奇なる物ってな本当だな」 「否。必然」  と、黄金鎧が言う。ぶはぁ、と何とも嫌そうな風に顔を下げてロボが煙を吐いた。  「言うな。煙草が不味くなる」と続けて一度言葉を切る。 「でだ。と言うことはお前もか?」 「是、也」  肯定の言葉に、黒い男は何かを考える様に、納得でもしたかの様に顎鬚に手を遣った。  一度煙を深く吸い込み、吐き出す。  彼は、遠く自らが赴くだろう見も知らぬ場所について一瞬思いを巡らせていた。  同時に、彼我の待遇の差、という物に見も知らぬ誰かに愚痴を吐きたい気分にもなっていたが。  つい先日底を付いた財布を恨めしく思いだしつつ、 ぐっ、ともしも自分が勤め人ならば出ているであろう残業やら出張やらの手当の事など飲み込み、彼は言葉を続けた。 「まぁ、今日はゆっくり休んでいきな」 …  天気は晴れ。湿度はほぼ0パーセント。その他の空模様は相変わらずの為にすっ飛ばして、上がっていた視点を下げる。  最も、アラムの目はと言うと、きょろきょろと辺りを物珍しげに見ていて落ち着きが無い。  それも朝方からという物ずっと同じ事であるが、代わり映えが無いと言ってはならない。  要するに、驚きっぱなしのぱなしで初めて近くで見る世界に魅入っているのだった。  歩く気分はお祭りの最中か、それとも見知らぬ土地に潜り込む探検か。  例えば、人の群れ。群れ。群れ。丸まっこくも無ければカクカクでも無い。自分と同じ姿が猛烈に沢山。  足取りはステップの様に軽やかに。最も、流石に恥ずかしいのでステップなどはしないけれど。  例えば、立ち並ぶ家。家。家。その一つ一つの中を想像し、彼女などは嬉しくなるのである。  時計塔からは随分と遠くに来てしまった気もしたけれど。街の真ん中にあるそれは街の何処からでも見つける事が出来る。  退路は既に確保済み。転進後退何時でも可能。無能な将校も居はしない。  そう言う訳で余り自らの心配はしていなかった。 「あ」  と彼女は言った。  むしろ、少女が心配すべきであったのは、自身の足元だったに違いない。  街路に敷き詰められた石畳の出っ張り。僅か、10cmに満たないそれが敵であった。  すべっ、と。見ている者が居たのならばそんな音を聞いたに違いあるまい。  そして、残念ながら黙ってそれを見ている人影が一つあった。    一瞬、アラムは塔の皆か、とも思ったのだけれど。  見上げたそこに居た女の子に、少なくとも彼女は見覚えが無かった。  その少女は一言で言うならば、雲のように或いは雪のように真っ白だった。  白い服に、前垂れの付いた奇妙な帽子。薄い布の向こうにあるだろう瞳がアラムを捉えていた。  目が合う。が、言葉は無い。倒れたまま、と言う訳にも行かずアラムはすぐに立ち上がるのだけれど、 その間も白い少女が何か言う事は無かった。  気まずくなって何か言おうとするものの、さっぱり言葉は出てこず一種の膠着状態が生まれている。    白い少女は自分が可笑しくて見ている訳では無い、とアラムは理解していた。  少しも笑い声など聞こえはしなかったし、その挙措も何示す訳でもなかったので。  ただ。じっ、と。地面にスッ転んだ自分を見ているからには何かしらの興味を持っている事だけは確かだったが。 「痛い?」  ふと、白い少女が言い。 「痛くない。うん。ぜんぜん痛くない」  と、アラムは強がって答えを返していた。   「……変なの」  心底不思議そうなだけの返事が返ってくる。  少女は、と言うと立ち上がって答えを返したものの、予想もしていなかった反応にどう返すべきか解らなかった。  心配しているのならいい。或いは、様子を見るだけで直ぐに立ち去ってしまうのでもかまわない。  が、真正面からまるで観察する様な調子でひたすら自分を見つめられなどしてはやりにくい事この上無い。  アラムで無くとも反応に困るだろう。   出来る事と言えば早々に何か言葉でも言うか、それともじっと反応を待つか。その他か。 「えっと……」  そんな訳で、アラムは数少ない選択肢の中から現在の状況に対応可能な選択肢を探している。 「……」  垂れ布がこちらを見つめている。 「私、アラム。アラム=O=クローク。あなたの名前は?」 「ルビィ」  と、その白い少女は答えた。  その調子は相変わらずだ。 「その……あ、ほら。熱くない?すごい厚着だし」 「いいえ」  反応に困っているならば、無視するなりさっさと立ち去るなりすればいいと言うのに構ってしまう辺りは 身内以外の対人経験が極度に少なく、その上におおむね「良い子」と言える様な彼女らしい、とは言えた。  ついでに言えば、道の真ん中でよく解らない会話をする幼い少女二人、しかもその内の一人が病院着まがいの全身白尽くめともなれば、 悪い意味で酷く目を引いたりもするし、又、一方でこの時計塔の街──アードヴァルタと言う──は、 中心部に聳える塔がそのまま得体の知れない魔物の巣窟であり──そういった物に対する漠然とした不安感が存在したりもする。  対岸で起こった火事を想像すればいいだろう。物騒である事はいかにも明白である。  ──ただ、この街の名誉の為に言っておくならば、対岸の火事は対岸の火事であり、 こちら側に燃え移らない限りは問題は無く、暴動まがいの事態やら極端に先鋭化した思想が流布している訳では決して、無い。  更にいうなれば、その対岸、と言うのは随分遠く、この街が出来て以来の記録では、 多くの犠牲の結果、塔内部に確認されたタイプの魔物による具体的な被害は一件たりとも確認されていないのだ。  故に、傍から見る限りでは概ねそれは微笑ましい光景だ、と言えるのだろう。  まるで初対面の子供同士が、お互い初めて出会った時のような。  世間知らずで、臆病さと好奇心がせめぎあっているような。  さて。そうしてアラムが何を話そうか、でも一人で喋りまくるはちょっとな、この子は余りお喋りが好きじゃないかもしれないし、 などと考えていた時、かつり、と石畳を踏んで近づいてくる影が一つあった。 「ルビィ」  そして、その人影はアラムが話していた少女の名前を呼んだ。  アラムが振り返り、ルビィが顔を向ける。  そこに青白い鎧を着て、彼は居た。  アラムは、はっきりとそれを見ていた。  男は、白子であった。そして、青白い鎧を着て腰に剣を一振り提げていた。  その銘など勿論彼女は知らなかったが、それでも一目でそれが素晴らしい武具である事は察せられた。  しかし、いったいどういう関係であろうか。それまではアラムには解らない。  兄妹か、それとも単なる友達か何かか。  兎も角、重要な事は声を掛けられたルビィがアラムに頓着する事無く、歩き出そうとしている点であった。 「あっ」  と、まるで呼び止めるかのような声が出た。  ルビィが振り向き、青年が足を止める。彼は「何をしている」とルビィに言った。 「もう、帰っちゃうの?」 「ええ」 「待って」  呼び止められ、ルビィはじっ、とアラムを見る。  少女は、改まった調子でルビィの前に立つと「またね」、と言う。 「……?」 「お別れの言葉。だけど、またどこかで会いたいから『またね』なの」 「……解ったわ。またね」  そして、ルビィも又、アラムの言葉を真似て、そう答えていた。