しんと静まりかえった夜のことだった。バーズワース王国にほど近いこの森も、深入りをすれば魑魅魍魎が跋扈する魔界である。  そんな場所に存在しているには、あまりにも不自然である小さな木製の小屋。その中に、ふたりの男がいる。 「集会? 下らん。そんな者になぜ私が行く必要がある」  ひとの身体に純白の翼。鹿の二本足に山羊の角。あまりにも奇妙な風貌をした男が、尊大な口調でそう言い放った。  威厳にあふれた声が、こじんまりとした室内に冷厳とひびく。  男は異形であり、魔でもあり、そして王でもあった。 「そうは申されましても、ロイランス様。『正義』のあなたのことが議題であるというのに、本人が欠席なされては」  丁寧な言葉遣いで、異形の彼に苦言を呈す、もうひとりの男。彼は、王である男とは実に対照的な存在だった。  オールバックの白髪に、かすかな知性を感じさせる小さな丸眼鏡をかける中年。  その影は針金細工のように細く萎びていて、肌は枯れ木のように生気がない。 「ほぅ?」  ロイランス、そう呼ばれた男は興味深げに針金細工をねめつけた。『正義』、その言葉を聞いてどこか満足げである。  彼は続きを話すようにあごで促した。針金細工が続ける。 「今回の議題はロイランス様の問題行動、『バーズワース王国への侵攻』です。それに応じて同盟内の全二十二名が収集する手はずとなっております」  針金細工は、まるであらかじめ決められた文章を朗読するかのごとく、すらすらと用件を述べていく。ロイランスはそれをただ黙って聞いていた。  だがしかし、彼がその様子を一変させたのは、針金細工の続ける言葉を認識した、そのときだ。 「──ロイランス様も、『正義』の魔王としての自覚をお持ちください。同盟とは、協力関係にあってこそ成り立つものです」  針金細工がそう言い切った瞬間、羽織っていた大き目のローブの胸倉をとんでもない力で引き寄せられる。  数秒と立たず、瞬時にして彼の身体は部屋の壁へとまっすぐに吹き飛んでいた。  人智を超える勢いを伴って投げられた針金細工の体躯は、あっさりと小屋の木の壁を突き破り、その姿が夜の暗闇に晒される。  木片が散らばり、凶器と化した欠片が楔となり針金細工の胴体を地面と縫い付けているのを、ロイランスは憮然とした表情で見下ろした。  ロイランスは彼に、ゆっくりと無言で歩み寄る。怒り狂う様子さえもないという事実が、いっそうに不気味さを引き立てていた。 「私が、『魔王』? もう一度言ってみたまえ」  針金細工にそう告げると、彼がむくりとロイランスを見上げる。ずれた眼鏡をかけなおし、紅色が零れる口元を袖で拭う。  ロイランスが行った一連の行動はあまりにも常軌を逸していたが、それに耐えうる針金細工もまた異常であった。 「……そうですね、あなたはこう名乗っていましたね。『聖王』殿」  くぐもった声で針金細工が呟いた。ロイランスは表情を見せず、彼に背を向けて言葉だけを伝える。 「日程通りに出席する、そう伝えたまえ。──貴様が私にとっての悪に成り切らなかったことを、神に感謝するのだな」  ロイランスはそう言い残すと、その姿は霞となってかき消えた。あとは黒洞々たる夜の中、針金細工が地べたにたたずむばかりである。  独善たる『正義』の彼も、神を信じるというのか。彼はそう考えると、どこかおかしな気分になる。  おもわず笑ってしまいそうになったが、肺は鋭い木槍に貫かれて激しく損傷している。かすれた吐息がこぼれて消えた。 『ああ、悲しき我が魔生』<前編>    針金細工が、『自称聖王』と会合した、その数日後のことだった。 「……──わかった。その日に『地狭海』に行けばいいんだな」  緊張した空気がただよう。それは、日常から一歩離れた隣側にいる、熟練者達が発する特異な気配であった。  酒を飲むことばかりが目的ではないこの酒場で、針金細工と黒スーツの男が相席で何事かを語らっている。  屈強な冒険者達が集うこの酒場では、浮世離れしているかのごときふたりの存在は、非常に目立っていた。  黒スーツの発したその言葉に、針金細工が首を縦にふり首肯する。 「ええ、ジェイド様。理解が早くて幸い致しました」  針金細工は本心からそう言っているようだった。先日に貫かれた胸部の傷は、外面上で言えば跡形も残ってはいない。  軽くため息を吐く彼の様子は、ひどく年寄りじみていた。  黒スーツの男──いまだ年若い魔王のひとり、ジェイド・T.I.S.A・ルーベルはおもわず苦笑を漏らす。 「あいかわらず苦労してるみたいだな、ファル。にしても良くここまで来てくれた」  ジェイドは言いながら、テーブル上のグラスを口元に運んだ。中身はアルコール度数低めの蜂蜜酒である。  針金細工──ファルと呼ばれた彼も同じように、グラスを手に取る。中身は新鮮なミルクだった。 「いえ、お構いなく。にしても、ジェイド様は如何な理由でこのような場所へ? そう動き易い場所とはいえませんでしょう」  ファルはグラスの中身を飲み干してそう尋ねた。この酒場は、辺境とは言わずとも、都市部からはやや遠い場所に存在していた。  おまけに──『旋風の双牙』。そう渾名される人物が、この地ではたいそう話題になっている。  ファル自身、その人物のことを良くはしらない。なれど、魔族に害こそ与えど利を為す存在ではなかろうと、そう考えていた。 「『あの』魔術学院から直接の依頼だ。断れないさ」  ジェイドはそう言って気障な笑みを浮かべた。気品の良さのためか、不思議といやみな印象を与えない表情だ。  ファルは、かすかに皺が浮かんだその表情を訝しげにゆがめた。人間が魔王に金を払い、交渉を頼みこむ。なんと皮肉なことだろうか。  もっとも依頼人側からすれば、『世界』の魔王であるジェイドにではなく、『交渉人』としてのジェイドへの依頼なのだろうが。 「はあ、あの魔術学院が……奇妙ですね。差支えがなければ、教えていただけますか?」  ファルは興味深げに問うた。数いる魔王の配下として世界を飛び回るファルだが、人間の世情には疎いものがある。  ジェイドはうなずいて口を開く。 「『セリス・イグナイト』。知ってるか?」  その名を聞いたファルが身体をぴくりとふるわせ、反応した。脳内に含まれていたその情報をひきだして、すぐにそれを答える。 「禁薬を創り出した、魔女ですね」  呟いて、そしてまたため息がこぼれる。まるで呆れているかの様子だった。  ここでいう禁薬とは、『不老不死』の効用を示すもののことである。  無限に近い命を持つ魔王からすれば、薬などなくとも、それは当たり前のことだ。もっとも、ファルは魔王ではないが。  なお、本名をファル・エウリュディカとするこの魔族は、今年で齢三百五十を超える。 「その人に関する、な。それ以上は秘密だ」  ジェイドはそう言って打ち切り、グラスを空にした。それを皮切りにふたりは席を立った。  もっともジェイドは、この地を拠点として逗留しているため、しばし居残るようだ。  ファルがふたり分の料金を支払う。店長はまるで熊のような巨漢だった。  ひとりで店を出る痩せ細った背中に、いくつもの好奇の視線が突き刺さっているのをファルは自覚していた。  ファルは店を出たその足で、また別の酒場へと足を運んだ。日はやや陰り、夜の時間帯に差し掛かりつつある。  といっても、先程におもむいたような場所とは似ても似つかない。暗い路地裏に位置するその酒場の実態は、小奇麗なバーであった。  店前の看板に大きく記された名は、『Devils−Lair』。  客がまばらにしか存在しない中、夕陽差し込む角のカウンター席から、たった今入店したファルを手招きする人物がいる。  ファルとはまた別の理由で、酒場という場所には似つかわしくない人物であった。  夕焼けに赤く染められた、はっと目が覚めるような銀の長髪。  それとは対象的に、黒い厚布一枚に身を包んだ少女の澄んだ青瞳が、針金のように細い彼の姿を捉えていた。  年の功は、それなりに見積もっても、精々が十代なかば。しかも、このような場所ではいちじるしく目立つ童顔である。  誘われるがままに隣の席に着いたファルとは、親子ほどの外見の差があるように思えた。 「やあ、ファル。元気にしてる?」 「ええ、それなりには。ラナさんのほうは元気そうですね」 「うん、ばっちり」  ラナと呼ばれた少女は、喜ばしげに笑顔を浮かべながら、手元のグラスのカクテルをストローで啜った。  注がれているのは真紅の色、ブラディマリーだ。 「でもきみはあいかわらず元気がないね」  特に落ち込むわけでも、気を病んだわけでもない様子でラナはいった。もちろん、心配をしているわけでもない。ファルは苦笑を浮かべる。  しかし確かに、相変わらずではあった。 「わかるのですか」 「目を見ればね。元気なひとのほうが美味しい血だもの」  若ければもっと良いね、と付け加える。ファルという人物にとっては、なにひとつ叶うことのない条件である。  ファルの齢はすでに三百五十をこえている。時は二度と戻ることはない。 「ま、元気だしなよ。マスターマスター」  ラナがマスターに呼びかける。  振り返ったのは、淡い朱色のドレスに身を包んだ、長身の女性だった。金髪が服装に映えている。ラナとは対照的な人物である。  他の客の視線を集めているという点では、同じことなのだが。 「こっちのひとにお酒ひとつー」 「ブラディマリーで?」 「ノンアルコールを。ミルクセーキかレモネードで」 「うん、あいかわらずのノリの悪さだ」  ラナはからからと笑って真紅をあおる。マスターが、ルージュの引かれた唇が弧を描いてくすりと微笑んだ。その口元から、鋭い牙が見え隠れする。  ファルは小さく、その細い肩を落とすばかりである。 「今日は同族の方じゃないのね、ラナ?」  彼女はシェイカーの中に卵黄等を注ぎながら、いたずら気な表情でたずねた。  この店のブラディマリーには、童貞と処女の血が使用されている。 「まあ、たまにはね」  ラナはそれを口に含む。味わうように舌の上で転がして、嚥下した。喉のうごめく様相が明瞭と見える。  彼女の口の端には、一見して八重歯などと見分けのつかない牙が、その姿をのぞかせていた。 「私はアルコールは好みませんし、血液を摂取することを嗜好するわけでもありません」  ファルが嘆息する。吸血鬼ふたりを眺めながらも、しかし疎外感はない。  例えば。テーブル席に居座る、蛇の下半身を持つ女。牛の頭を持つ巨漢。その他諸々エトセトラ。  店名からして、名は体を現すとはこのことだろう。 「つれない人ねぇ」 「そんなにまっとうに生きて退屈にならない?」  真紅の彼女がくすりと笑い、ラナが冗談めいた調子で問いかけてくる。 「仕事がありますからね」  ファルは真顔で答えた。真っ当でない生き方など自分には似合わないと、彼自身はそう思っている。それが真実か否かは定かではないが。  数百年の時を生きている彼のことを、ラナは知りえている。そしてファルの側も、彼女のことを知りえている。  つまるところラナはすでに、四百五十を数えるほどの時を生きる魔族なのだが──ファルはそのことを言葉にはしない。  そのような行動が命取りとなることを、理解しているからである。  そんなファルの前にグラスが置かれる。ストロベリーベースのようで、薄い紅色と純白の生クリームが鮮やかな色合いをかもしだしている。  ファルはそれをストローですすった。どことなく間抜けな光景であった。 「……甘くないですね」  ふと呟いた。訝しげに表情を歪める。  それに興味をそそられたか、ラナが横から指につけた生クリームを舐める。どことなく犯罪的な状況であったが、店内にそれを気にかける者はいなかった。 「うん、甘くない。触感は良い感じだね」  ラナはそう感想をこぼしたが、ほろ酔いの吸血鬼の感覚などあまり当てになるものではない。  その言葉に、女主人が妖艶な笑みを浮かべて応えた。 「特別なミルクを使ってますの」  へぇ、とファルが気のない返事をしてまた一口すすった。味の珍しさはともかく、それなりにイケるものではあるらしい。  彼女の下腹部が不自然に隆起していることなど、彼が知る由もなかった。  夜も更けてきた頃である。街路樹に灯がともり、そうでなくとも月がきれいな夜であった。  ラナ・ストリクスはそのままの席にて、訥々と本題を語りだした。  そもそものところ、ここでの待ち合わせは彼女からの申し出である。 「この近くにある、宿屋『エリュシオン』。知ってる?」 「いえ」  ラナの言葉にファルはゆるゆると首を振る。手に持ったグラス内の氷が、からからと音を立てていた。 「魔族の親子でやってるとこなんだ。割と繁盛しててね、人間からも結構な評判なんだ」  ファルは適当な相槌を打ちながら、ただ水を口にふくんで、少女の言葉を待つ。 「……でも」  ラナは表情をくもらせて言う──悪い虫が付いてるんだよ。  その言葉を聞きながら、ファルはグラスを口元に運ぶ。とうに中身は空になっていたようで、とけた氷水がかすかに流れるだけだ。  ラナは、追加のブラディマリーを注文する。数秒とせずに注がれた先は、ファルのグラスの方であった。 「悪い虫──ですか。実力行使、というわけにはいかないのでしょうね」  客商売となれば、店の風評はその生命線に直結する重要事項である。そうそう揉め事を、それも店側から起こすわけにはいかないだろう。  従うしかない。  ふたたびグラスの中身を流しこんだ。童貞の血液が混入された真紅のカクテルである。思い切りむせるファルであった。 「うん、盗賊団の残党がね。目立ってはいないけど、客足は減ってきてる」  けら、と笑いながらも口調はけっして軽いものではない。カウンターに戻されたそのグラスを手にとって、一口にそのすべてを流しこむ。 「ひとつお聞きします。経営者の名をなんと」  ファルは何気なくたずねた。何気なくたずねた、ように聞こえる。  それは意を決した問いであった。眼の奥に灯が点いたかのような、意志がこめられた問い。  それを聞いてラナはうすく眼を閉じた。軽く息を吐いて、口元を歪める。それは笑みだった。  ラナは答える。 「──リゼ・エウリュディカ」  ラナは笑いかける。ファルは無言で立ち上がり、代金をカウンターに差し伸べる。  彼女が料金を数えもしない内に、ファルはラナに会釈して店を出た。  料金は、彼が飲んだ代金とちょうど同額であった。「奢ってくれないのねえ」粋じゃないねとラナは笑った。  それから二日間、ファルの動向は依然として知れなかった。  ことの真実は、魔王にさえも知るものがいない。その例外は──せいぜいが『隠者』ぐらいだろう。  その間、街はただひたすらに平和だった。  <続> 出演者: 聖王ロイランス ジェイド=T・I・S・A=ルーベル ラナ・ストリクス ファル・エウリュディカ ゲスト: 大賢邪ベルティウス セリス・イグナイト 『旋風の双牙』 ガルド・イダルゴ 出典無し: 名無しの吸血鬼さん リゼ・エウリュディカ