いつもの疲れきった表情で、針金細工の彼は酒場に現れた。ジェイド=T・I・S・A=ルーベルは問う。どうかしたかと。  針金細工のファル・エウリュディカは、彼の向かいの席に着くがいなや、こう言った。 「依頼をしたいのです」 『ああ、悲しき我が魔生』<後編>  同盟とは一切の関係がない、個人的な依頼です。ファルはそう前置きしてから、事情を語る。  ジェイドは、運ばれてきたワイングラスの中身を豪快に水で割ると、一息に飲み干す。  引き締められた彼の表情は、まさに仕事人の顔であった。 「……依頼は?」  ジェイドは問う。とても真っ直ぐで、誤魔化しもお道化もない、問いかけ。 「人間数人を徹底的に黙らせていただきたいのです。あした。一日だけでかまいません」  ファルはそれに応えて、一気にそう言い切った。息をつくために、水を一口。それを聞いたジェイドが、目を丸くしていた。  その表情が、徐々に弛緩していき、そして誰にでも分かるほど明快な笑顔となった。ジェイドは、笑っていた。。  その手が前髪をかきあげるように動く。くつくつと声が漏れている。──今度はファルが、目を丸くする番だった。 「その程度なら、まったくかまわないさ。お前のことだ、悪党なんだろう」  ファルは大いに同意した。ジェイドが笑う。どこか、通ずるところがあるのかもしれない。  ジェイドも、『大アルカナ』に位置する魔王の中では、ファルに近い役割を受け持っているがためでもあるだろう。 「で。一日だけってんなら、解決策はあるんだろ?」  そこに抜かりはありませんと、ファルは珍しく自信に満ちた調子で頷く。なら存分にやってこい、とジェイドがまた笑う。  それは、『交渉人』としての彼の面影もない、魔王の表情であった。 「明日の、日が変わる時分の頃。此処でお願い出来ますか」  ファルがこの街の地図を広げ、その場所を指でさし示す。──宿屋『Elysion』。 「なかなか洒落た名前だな」  そういうジェイドはいやに機嫌がよさそうだった。彼の身なりもあいまって、他の客の注目の的となるが、意に介した様子はない。  その名が示す意味は、死後の楽園。 「でしょう」  なぜだろうか、ファルはまるで、それが自分のことであるかのように胸を張って言い切るのであった。  ジェイドとの約束の期日を迎える、ほんの数十分ほどの前のことだ。  ファルは、とある宿屋を訪れていた。入り口の前に突っ立っている。それは宿というよりも、まるで城のごとく豪奢なホテルであった。  大きく、誇張して見せびらかすがごとく看板が吊られている。そこには浮き彫りにされた文字は、『Gan−Eden』とある。  エデンの園──楽園。ファルは吐き捨てるように呟いた。  Gan−Edenは、最近の二ヶ月ほどの間に建築が完了し、急激に売り上げを伸ばしている、ここらのホテル街では最高クラスの店舗であるという。  ただそれだけであるならば、ファルのような一介の魔族が気に留めるようなことはなかった。当たり前だ。理由がないのだから。  ファルは、まっすぐ入り口から入るため、やけに重い扉を開いた。しっかりとした重量がその腕にのしかかる。  入り口から入れば、当然の帰結だがそこはロビーになっている。見通しが効くその場所では、ファルの容貌はひかくてき目立つ。  ここはあの酒場のように、屈強な男達が集まるような場所ではない。魔族の異貌が受け入れられるような場所ではないのだ。  ある程度ファルが予想していた通り、従業員のひとりが駆け寄ってくる。 「当ホテルでは予約を義務とさせて頂いております故、お引取り願いますでしょうか」  男は平然と事務的な言葉を吐いた。これもまた予想の範疇内であった。  ファルはその言葉には応えず、彼を不審たらしめる要素のひとつであるローブの中から、数枚の書類を取り出して男に手渡す。  男はそれをしばらく訝しげに眺めていたが、しかしその顔は、あることに気づいた瞬間に、すぐさま愕然として歪んだ。驚愕の表情だ。 「し、しばらくお待ちください」  従業員が書類を持ったまま、彼を尻目に駆けていく。その背にファルが、「複製はいくらでもありますので」と追い討ちをかけるのであった。  と、そう長い時間もたたぬ内に、ファルの目の前にひとりの男が現れる。先程の従業員とはまた違う。  鋼鉄の鎧に身を包むがごとき屈強さを持つ、黒肌の禿頭の男だった。いかにも似合わぬスーツ姿である。  従業員としての仕事でない、この店における用心棒のようなもの、なのだろう。 「お客様、着いて来ていただけますか」  野太い声だ。言うがいなや、男はファルに背を向け歩みだす。ファルは無言で立ち上がりその後を追った。  人のいない通路を辿り、魔術によって埋められた壁の抜け道を通り抜けた先に、その扉がある。ちょうどその扉が、軽い軋みの音を上げて開いた。  開いた当人は先程の従業員だった。ファルの姿を認めると、ひぃと短く悲鳴を上げて逃げ去る。嘆息し、肩を落とすファルだった。  禿頭の男が扉の脇に立ち、どうぞ、と示すかのように掌を扉に向けて差し伸べる。 「支配人に失礼の無きよう」  ふたたび、ただ目的を告げるための事務的な言葉が野太い声で発せられる。  ファルはつかつかと歩み寄り、奇妙な重量感のある扉を、押し開いた。  ちょうど、日付が変わったころ。  宿、『Elysion』の中は静まり返っていた。なにせ今日までが、国民的な休日であると定められていたのだから。  明日からは忙しくなる。といえども、宿屋という職となると、いっそ休日のほうが忙しいものなのだが──。  内装、入ってまずある小さなロビー。その受付には、ひとりの小柄な少女が突っ伏して寝入っている。  その傍らで、長身痩躯の女性が紙片の束を捲くっている。いくつもの名が羅列されている点から察する辺り、それは帳簿の類なのだろう。  ──不意に入り口の向こう側から、とんとんと小さな音が聞こえた。掌が戸を叩く音だった。  彼女は、安寧と眠りに落ちる少女を見下ろす。鮮やかな朱の短髪を撫ぜた。少女が、それに応じるように身をよじらせる。  ふ、と。小さく笑みがこぼれる。──ひどく、いとおしいと、思った。  そんな感傷を打ち破るがごとく、入り口の戸が荒々しく蹴破られる。その後を続くように、数人の男がなだれこんできた。  数は七人。ひどくまとまりの無い、統一性も皆無の男達であった。 「喧しいね。今が何時か理解しているのかい?」  彼女が、男達に向けて言い放った。氷のごとく冷たく、そして鋭利な声音で。  対する男達の先頭に立つ男が、一歩前に出る。恐らくはリーダー格にあたるのだろう、細目の男。にやりと、不敵な笑みを浮かべている。 「ハハッ……もう慣れっこだろ? 約束のモノを取りにきただけなんだからよ」  鋭い笑みを浮かべる細目の男は、そんなことを平然とした調子でいう。  彼女は、そのへらへらとした表情を吹き飛ばしたい表情に駆られる。が、それは叶えられないことだった。  ことを大きくすれば、この店の先は見えている。それも、そう遠くないところに。  だが。 「薄汚いハイエナにやるものはないわ。ひとかけら、たりともね」  彼女がそういった瞬間だった。悲しげな目で、事態を知らずに寝入っている少女を見下ろす。  瞳が、かすかに潤んでいるようで。  その言葉を聞いた男は、へぇ? と。口元を笑みに歪めて、ぱちんとその指で音を立てる。  そしてその音に呼応するように、最後列にいた大男が動いた。盗賊には見えがたい、たとえるならば土木作業員のごとき男だった。  軽く頷くと、丸太のような腕が、ゆらりとうごめく。どしり、という確かな重量感を感じさせる音とともに、その拳が後ろに引かれる。  向けられる先は壁。その引かれたそれは、血管が浮き出るまでに握り締められる。ひたすらに力を溜めこんだそれは、大砲にすら並ぶ一撃となるだろう。  それを壁に、撃ち放つとなれば──すさまじい音が鳴り響くことは、避けることの出来ぬ未来だろう。  彼女はそれを、まっすぐに見すえる。男たちが、『主砲』を護衛するがごとく取り囲む。細目の男が、嗜虐の笑みを浮かべた。  ──その瞬間だった。入り口の扉が蹴破られ、その木片が確かな質量の弾丸となって数人の男を殴打する。  かの大男さえも、前のめりになって倒れ伏せる。果たしてそれの質量はいかなるものであったか、空間内に響き渡る轟音。  ごう、と。外界の暗闇から肌を撫ぜる寒々しい風が吹きこむ。それに続くがごとく、彼女の紫の長髪が風に舞い、ゆらゆらと揺れる。  どこか、呆然とした様子だった。  一瞬のうちに起きた出来事、それに一歩遅れるように、理性的な言葉が聞こえる。 「この『世界』は俺の支配下にある。どれだけ騒ぎ立てても──無駄だ」  その両手には武器すらもない、スーツ姿の青年。口元を吊り上げ、いかにも陽気に、笑いかける。  彼女が、目を丸くしていた。男が、苦渋に表情を歪める。少女はまるで、ただひとり世界に取り残されたように、夢を見ている。  ジェイド=T・I・S・A=ルーベル──『世界』の魔王としての事象、その片鱗の顕現だった。  扉の向こう側にいたのは、ソファーにどっしりと座り込む、『いかにも』な男だった。  肥え太った外見はあからさまに醜悪さを醸し出すが、しかしその堂々たる姿には威厳に近いものがある。  針金のごとく痩せ細ったファルと比肩するならば、まさに対象的な人物であるといえよう。  男は開口一番こういった。 「なにが目的かね」  くぐもった声だが、しかし堂々とした調子だった。自らの行動を省みるような、そのような様子は一切ない。  男の背後には、四人もの男が着いている。いずれも屈強な姿をしており、ファルの細身など、簡単に捻り潰すことが出来そうな気さえしてくる。  ファルは男の向かい側、その席に着きながら指を組む。さてどうしたものか、と、思考するように。  しかし続く言葉は、どこまでも率直だった。 「盗賊団の残党との手を切る。他店への営業妨害の取りやめ。どうですか」  ファルがいった瞬間、男がくぐもった笑い声をあげた。若いな、と。そう言いたげな、嘲笑。  男がぱちんと指を鳴らし、その瞬間ファルの背後の戸が開く。入ってきたのは、先程の従業員だった。  過剰に状況に怯えているらしい彼は、思わずその身を振るわせる。その腕の中には、束となった紙片が詰め込まれている鞄があった。  ばらりと。ファルの目の前のテーブルにぶちまけられた鞄の中身は、他のなにものでもない、金であった。 「それだけあれば、何十年も遊んで暮らすことができるだろう」  男は口元をゆがめて言った。ファルには分からなかったが、それは会心の笑みであった。  それに対するファルの答えは淡々としたものだ。 「はぁ、それで」  それだけ。その一言で一蹴する。彼にとってはそのような紙片などただのかみきれでしかなく、無意味に木材を刈り取った末の死骸でしかない。  ファルがそう発した瞬間、男が二の句を告げる暇を与えんとばかりに次の言葉を続ける。 「……バカな。あの程度の証拠で、私のしていることが立証できるとでも」 「私が、自らの手札をすべて晒していると思っておいでですか」  その言葉を言い切る前にファルが追撃をかける。つい、とその指により押し上げられる銀縁眼鏡。あんぐりと口を開ける男。  あたりまえのことだった。並大抵の人間の理解の範疇で、知性持つ『魔族』を推し量れようはずもない。  男が──怒号を放った。『やれ』、と、そう聞こえるやもしれぬ、とにかく不明瞭な声音だ。  屈強、歴戦の男たちが踊りかかった。その丸太のごとき腕が、ぐいと伸ばされる。ファルの痩躯など、ひとひねり出来そうなほどだ。  十秒とかからなかった。  男たちの首は、綺麗さっぱりに失せていた。 「!?」  唯一残された支配人は、驚愕のあまりかそれとも恐怖からか、ソファーの背に思い切り力をかけてしまい背中から倒れた。  その姿を、立ち上がったファルが見下ろす。悪鬼の面だった。 「一瞬の死か、地を這う生か?」  短い問いに、男の表情が歪む。明らかな怯えだった。  見開かれた両目の眼前に、彼の枯れ木のような細指が添えられている。 「……や、つら、とは、てを、きります」  途切れ途切れの言葉で彼は答えた。その音は振動によって聞くことの出来る声。  ファルはにこやかに微笑みながら、その指を引いた。  ジェイドの手にかかれば、それはてんで児戯に等しかった。  一体この細身のどこにそのような力があるのか。  かの倒れ伏した巨漢は胸倉を掴まれ強制的に立ち上がらせられると、人知を超える凄まじい勢いでふたたび地に叩きつけられる。  その男を取り囲んでいた盗賊達が、散り散りとなって消えていく。あたりまえの行動だった。ジェイドもなにも、逃げる者を追うつもりはない。  どうせ、数日とせず法の下に罰せられる者どもなのだから。  ただただ、細目のリーダー格の男が所在なく立ち尽くしている。ひたすらにそわそわとして、落ち着きが無い。  そんな彼に、ジェイドはいかにも優しげに問うた。 「助かりたいか?」  男はせわしなく首を縦に振った。すでにこの店に関することなど、どうでもよいと思ったのだろう。  その場限りでの契約など、彼らにとっては瑣末なことである。ジェイドは、そうかそうかと頷いた。  男の顔面がへこんだ。床と拳にダブルクッションされたその面構えは、上から見る煎餅と瓜二つだった。  ぱんぱん、とジェイドが手を払う。 「依頼完了、と」  そう小さく呟いた。断じて交渉ではない、あくまでも依頼である。  更にいうならば、部下の頼みごとを聞き入れる、心優しい上司としての仕事の一環でもある。  ついとジェイドは、あの長身の女性に目をやった。事象を圧縮させると同時に、つかつかと歩み寄る。 「……というわけで、明日からはあいつ等を気にせずに営業できますよ」  にこやかに笑みを浮かべるジェイド。それに彼女がはっとする。どこかに目を奪われ、呆然とした調子であった。  あわてて居住まいを正すと、頭を下げて礼を言う。礼儀正しい女性である。 「リゼ・エウリュディカ様。ですよね?」  ジェイドは確認するために問う。  それは、ファルがあの吸血鬼から聞いた名だった。間違いなかろうとジェイドは確信する。  しかし、彼女は横に首を振った。 「え?」  思わず素っ頓狂な声を上げるジェイドに、彼女は続けて言い放つ。  本当のことを。 「母の、リゼ・エウリュディカ、です」  カウンターで寝こけている少女に掌を差し伸べ、彼女はそう紹介した。  それから三日後のことである。ファルはあえなくして時に追い立てられ、街を発つことになっていた。  それもこれも、盗賊団残党の行方を理解しておくためである。ふたりが行方不明。残りの全員は国境を越えている、との情報がすでに彼の手元にはある。  彼に残された仕事、それは『隠者』の魔王、大賢邪ベルティウスからの勅命であった。──聖杯の女王に今回の件を報告してほしい、と。  無論、ファル以外にも伝令役は存在するのだが──便宜上少数人数は、ファルのような、『魔同盟』全体の配下が担当することとなっている。  ある程度の信用を保有しているがため、ということもある。  発つ予定は、深夜であった。  例のバーにて、吸血鬼──ラナ・ストリクスにことの初めから終わりまでのすべてを伝え、しばしの別れを告げる。  それだけで、済むはずだった。  現実はそうでない。夜遅くバーから出たそのとき、ファルはひとりの女性と鉢合わせた。  背は高く、それでいてその身は針金のように細い。その長髪の色は、朱と銀が混ぜ合わさったかのような不思議な紫。  ファルに話しかける声は、理知的な色を含んでいた。 「おとうさん」  彼女はそう呼びかけた。それに続いて、久しぶり、と。ただそれだけ、魔族の異貌を持つ彼に向けて。  ファルは、何も返すことが出来なかった。 「おかあさん、ありがとう、って」 「……そう、か」  ファルは何も彼女には語っていなかった。そして今から彼が語ることも、また、ない。  けれども彼女は、まるでそれを当たり前のように思う。その訳もまた、解しているかのように。  彼女が、ファルの瞳を真っ向から見据えている。 「大きく、なったな」 「うん」  ──そう言葉を交わしたきり、ふたりはすれ違った。ファルが小さく手を上げる。それが、別れの挨拶代わりだった。  彼女は、ただその背を見送る。同じように、細いそれを。  彼女に背を向けたまま、彼は言い残した。 「……すまんな」 「……うん」  冬も近付く、三日月が鮮やかな秋の日のことであった。  <了>