人里の只中にあっても、無人の空間というものは存在する。路地裏、屋上、物陰。隙間は どこにでも隠れている。人の群れの中にあってさえ、空白地帯は必ず存在する。  今、二人がいる場所もそうだった。壮大な城壁に囲まれた街、その中心にある城。  その最奥にある部屋には二人しかいない。その部屋だけではなく、その部屋を囲む通路と 部屋――百の騎士がつめかけてもまだ余裕がある――場所には、猫一匹とていない。 「試練、ですか?」 「そう、まさに試練だよ。試練としかいいようがない。彼を不運と呼ぶむきもあるがね、そ れは違うと私は思う。たしかに彼は一度死ぬことで不運を呼び込む体質を手に入れたが、」 「あら、それは違いますわ」微笑み、「あの子は、ずっと不運でしたもの。ここに来たとき のことをご存知? あの子ったら、階段でこけて転んだのよ。……あとで隣の子に足をかけ られて転んだことがわかりましたけれど」 「なるほど、彼らしい」  女の懐かしそうな声に、男は納得げに頷く。  二人は奇妙な組み合わせだった。一人は白衣ともロングコートともつかないものを着た冒 険家風の壮年男性。眼鏡の奥の瞳は、子供のように輝いている。もう一人は美しい少女だが、 物腰には歳に似合わぬ気品がある。  孫と子ほど歳の離れた二人は、旧知の親友のような親しさで話し続ける。 「しかしながら彼は、不運を得ることに成功した。そこで諦めていればよかったのだがね、 彼は決して諦めなかった。不運へと立ち向かってしまったわけだ。不運とはあくまでも呼び 込むもので、立ち向かうものではない。立ち向かい、戦ってしまえば――それはもう、試練 と呼ぶしかないだろうね」 「意味のある戦い、ということでしょうか」 「意味がある戦いなど、どこにもないだろうね」 「あら、ハロウド先生」少女は首を傾け、「わたくしどもにも、意味がないと?」 「ああ、失礼。貴女を、いや、貴女たちを侮るつもりはないのだよ」 「わかっていますわ」  少女は悠然と微笑み、男は肩をすくめる。 「意味のある戦いはない。――けれど、意味のない戦いもない。我々にできることはただ、 戦いに意味をつけることだけなのだよ。死にたくない、家族を守りたい、国を守りたい、憎 いやつがいる、欲しい宝がある、斬るのが楽しい、お金が欲しい、食べ物が欲しい、」 「『知らない魔物が見たい』」 「そう、その通り。つまりは信念、心にある何かのために戦うわけだね」 「それでは」少女は目蓋をつぶり、「あの子の試練には、如何様な意味が?」 「意味については、彼自身が考えるしかないでしょうね。幸い、南ではどうにかこうにか意 味を見つけ出せれたようですが」 「それはそれは」  少女は掌で口元を隠して笑った。男も笑い、円卓机に置かれた、不釣合いな湯飲みを手に とった。中には濃い緑色の液体がなみなみと注がれている。ティーポットから出るにしては 不自然極まりない色だ。  嫌そうな顔一つせず、男は湯飲みに口をつける。  部屋は広い。  幾人もの騎士が腰をかけることのできる円卓と、長いその果て――専用の椅子。選ばれた 騎士たちが集うそこには、今、男と少女の二人しかいない。  会話が止まった拍子に、二人は何気なく外を見る。  その国で一番高い場所にある塔――そこから見える風景を。  広い城下外と。  巨きな城と。  式典に使われ、有事には騎士たちがずらりと並ぶ、宮殿外広間を。今はただ、旗が揺れる のみだ。  平和だった。  たとえ世界のどこかが、今も平和でないとしても。 「ただ」  茶を呑み終え、視線を少女へと戻して男が言う。 「ただ?」 「彼には試練の意味について考えてる暇などないでしょうな。あれはどうにも、そういう生 き方を無意識に選んでるふしがあるね。とんでもない試練に、無自覚のうちに飛び込んで― ―矢継ぎ早に襲ってくる試練と戦い続ける」 「あの子は――意味を、見出せるのでしょうか」 「前は見出したから、今回も大丈夫じゃないでしょうかね」  なんとも適当な声で男はいう。その声には、“どうせ彼のことだから心配しなくても大丈 夫だって”といった親しみが込められている。  少女は「まあ」と笑い、笑ったまま、 「賢龍団」  湯飲みを机に置こうとした手が、ぴたりと止まる。 「そこに、今、彼はいますわ」  男はどうにか、机に湯飲みを置いて、 「彼も難儀なことだ。よりにもよって火の中に自分から飛び込むとはね! ああいやでも、 彼は傭兵だから間違ってはいないわけだ。火の中に飛び込まないと飢えてしまう。とはいえ、 なにもよりにもよって賢龍団とは!」  早口でそう言って、男は急に言葉を切り、少女の瞳を見据えて、 「貴女もよく彼の行動をご存知だね。ひょっとして私が話すまでもなく、南の一件をすべて 知っているのでは?」  少女は、やはり微笑んだまま、 「カイルも、ソィルも――一度でもわたくしの元に集った騎士は、一人として忘れてはいま せん」  少女の声は誇らしげだった。大切な宝物について語るかのような口調。  ごまかされてるな、と男は思いつつ、 「ふむ。そんな貴女ならば、東国が皇国とひと悶着おこしたことも知っているだろうね」  今度は、少女の動きが止まる番だった。  男は返事を待たずに続ける、 「公には知られていない。その事実は、水面下で動き出しているというだけのことだ。皇国 は負い目があるから決して公にしないものの、まず確実に東国へと手を伸ばすだろうね。頼 みの騎士団に打撃を受けた東国は、やむなく王国連盟に頼ろうとするだろう」 「そして」男の長広舌に、少女が口を挟む、「王国諸国は、手伝うふりをしながら、東国の 勢力を削ろうとする。でしょう?」 「その通り」  男は満足げに頷き、 「あるいは、貴女の国のように、完全不干渉を貫くか、でしょう」  ええ、と少女は――王宮の最奥で、『故郷の姫君』は微笑む。  国を背負ってなお、揺るがない笑みを。 「どちらにせよ戦は始まる。人間同士の戦だとも。たとえそれが政争からくる戦だとしても」  男は言い、再び視線を外す。少女もつられてそちらを見る。  そこには何もない。どこまでも広がる青い空があるばかりだ。  空の繋がった先、そこにいる、黒い鎧を着た友人の姿を、男は幻視しながら言う。 「この戦いには、おそらくあの勇者の出番はないだろうね。危機に助けにきてくれるわけで もないだろうし、あるいは敵としてとどめを刺しにも来ない――彼は、その試練の中で、最 後まで足掻き続けなければいけないだろう」    ――――カイルのディシプリン――――        KYLE'S DISCIPLINE 【discipline】  鍛錬、訓練、修行、懲罰、試練、秩序……  要するに“厳しいこと”“きついもの”  といったような意味を表す言葉 ■ 第一話 Scorching Gold AND Black Gale ■   冒険を求めているのではない。冒険を終え、帰る家を捜し求めているだけだ。                           ――名も無い吟遊詩人の言葉より         1  たまに、カイル=ファーライト=セイラムは思うのだ。  自分はひょっとすると、ひょっとすると――世界で一番不幸なのではないか、と。  もちろん彼は自分以上に不幸な人間をたくさん知っている。不老ではない不死になってし まった賢者や、戦火により幼くして孤児になった者たちや、親兄弟を理不尽に奪われた少年 や、盗賊団に飼われている魔物少女を知っている。  それでも、たまに思わずにはいられない。  自分は――ものすごく不幸なのではないかと。  なにせ任務で一度死に、鎧に命を定着されて生き返り、生き返ったら死んだことにされて いた。しかたなく傭兵として生きているものの――お金がほとんど払われていないわりには、 命がけの危険が多すぎる。この前の南の事件など言うにおよばず、だ。巻き込まれて、とは いえ、大抵の場合途中から自分で頭を突っ込んでいるので、文句など言えるはずもないが。  それでも、この広い世界で、百番目くらいには不幸なんじゃないかな――そう思わずには いられない。  小さくため息をついた。宿屋で黒く立派な鎧を身に纏っているカイルはたいそう目立つ。 相方などいないので、二人掛けの席を一人で占有してしまっている。そのせいでよけいに目 立っている。  が、本人はまったく気にしていない。というか、気づいてもいない。注目されるのにはな れていし、必要以上に目立たなければそのうち飽きられることも知っていた。  必要以上に目立つことをしなければ、だ。 「……はぁ。はぁぁぁ……」  深く、深くため息を吐く。人生に疲れきった老人のようなため息だった。 「どうして……僕はこう……酷い話だよね本当」  半ば無自覚なぼやきと共に、カイルの腰元でがちゃりと音がなった。  手にもった二本の剣がぶつかったのだ。  安全なはずの宿屋――冒険者たちが休息をもとめるはずのそこで、カイルは微塵も油断し ていなかった。半ば以上臨戦態勢にあったといってもいい。皇国南西の町ハングレームはこ の辺りで一番の大都市で、突然魔物が攻め入ってくることはないというのに。  それも仕方がないことだ。  宿屋の二階――カイルがとった一室には、魔物なんかよりも恐ろしいものがいるのだから。 その気になれば、この街を壊滅させられるような怪物が。  怪物よりもなお恐ろしい存在が。 「……はぁぁぁぁ」  本日七度目のため息。  そのため息に混ざって……とん、とん、という軽い音。二階から誰かが食堂へと降りてき たのだ。そこそこに混雑している食堂では、誰もそのことに気を払わない。気を配り続けて いたカイルだけが、耳ざとくその音を聞きつけた。  子どもが降りてきたかのような、軽い足音。体重の軽い誰かが、靴も履かずに素足で降り てくる音。  カイルは振り向かない。剣の柄を強く握る。  とん、とん、という足音は近づいてくる。その音が近づくにつれて、周りのざわめきが波 引くように変わっていく。それぞれの勝手気ままなお喋りから、ある一定のことがらに対す る噂へと。  誰もがこちらを注視し、注目していることをカイルは肌で感じた。 「……姫様。僕が悪いんですかこれは?」  自分にすら聞こえないような小さな呟き。誰も答えてはくれず、無常にも、足音はカイル のすぐ隣で止まった。  それでも、カイルは振り向かない。  隣に立った誰かは、澄んだ、丁寧な口調で言った。 「――おはようございます、セイラム様」  隣に立つ少女が、頭を下げ、頭を上げるのが見えた。その動きにつれ、長い髪がカイルの 視界に飛び込む。  髪の色は、黄金だ。  ゆっくりと、ゆっくりとカイルは振り向く。振り向いた先に誰もいなければ、これは夢だ と思えるのに――そんなことを思いながら。  けれど、それは夢でも何でもなく。  ――黄金色の少女が、そこにいた。         2  ――話は数十時間ほど前に戻る。    初めに言っておこう。三秒前までカイル=F=セイラムは幸せだった。 「魔物が出たぞ――!」という、どこの町だろうがどこの村だろうが変わらない警戒声が聞 こえなければ、三秒が過ぎても幸せだったに違いない。声はそう大きくもなく、町中すべて に響くほどのものではなかった。  カイルが、町に来てすぐ酒場へと来なければ――その叫びを聞くことはなかったに違いな い。  仕方がないのだ。  夜に開いている店などそこしかなかった。夜中に冒険者がやってきてもいいように、町の 入り口にある店はつねに蝋燭を灯している。その灯りに誘われて、カイルは酒場に来たのだ から。  二人掛けの机にはできたばかりの料理がある。クチの実をこねて作った安いパンに挟まれ た、脂身の多すぎる肉と新鮮な野菜。ミルクには水が混ざっていない。野外で食べる保存食 に比べれば、天と地ほどの差がある料理だった。  おまけに出来立て。肉はまだ熱く、食欲をかきたてる匂いがカイルの鼻腔をくすぐってい る。  意気揚々とさあ食べよう――そう思った瞬間に、「魔物が出たぞ」だった。  幸せでいられる方がおかしい。  が、カイルは幸せそうに笑っていた。外の声がまったく聞こえないような顔をして、 「ははは。いただきま、」 「助けてくれ――っ!」  酒場の外から、柵が壊れる音、動物のけたたましい鳴き声、それから人の悲鳴が聞こえた。 料理に伸ばしかけた手が否応なく止まる。  そっと、カイルは酒場の中を見回した。  ハングラは主要都市ではない。この辺りで一番大きな都市、ハングレームへと続く街道沿 いにある小さな町のひとつだ。冒険者たちがたまに宿を借りに来るくらいで、すぐに旅立っ てしまうから――活気というものはほとんどない。  したがって、その夜も、カイルの他には誰もいなかった。  少なくとも、客は。  代わりに二人の店員がいた。調理台の向こうの女将と若いウェイトレスが、期待に満ちた 目でじっと見つめてきていた。  その瞳は如実に語っている。あんた冒険者だろ。なんとかしてくれ。助けてやってくれ。  カイルは目をそらし、机の上の料理を見て、それから天井を仰ぎ見た。木目調の天井には 何もない。葉巻の煙で薄汚れているだけだ。  上を見上げながら、カイルは心の中で呟く。  ――ああ、故国の姫様。どうして僕は毎回こんなことに?  ため息を吐いた。 「……外に加勢してきますね」  心とは裏腹にそう言って、カイルは立ち上がった。店の奥の二人がろこつに喜んだ顔をす る。せっかくの夜食が冷えていくことについては考えないことにした。  酒場から出ながら、カイルは思う。  町につくなりこれだ。自分は本当についていないと思う。南海の冒険を終えて数週間。気 づけば皇国領内へときてしまった。  まず、ハロウド=グドバイと二人旅、というのがまずかった。  あんな人と旅をすればどうなるか、知らないわけではないのだ。南の事件のインパクトが 強すぎて、すっかり忘れていただけだ。そのせいで、ただの旅がいつのまにか次の冒険にな っていた。ハロウドの友人と妖精里への調査に行く――なんてものの付き合いまでさせられ てしまった。  ――このまま傍にいたら厄介ごとに巻き込まれ続けてしまう。  そう気づいたのが一週間前。気づくと同時にカイルは夜の闇に紛れて逃走し、今、ようや くここまでたどり着いてここにいる。  休む暇は、ほとんどなかったような気がする。 「なんでかなぁ……? ハロウドさんが厄介ごとを持って来るんだと思ってたけど。あの人 がいてもいなくてもこんなだなんて……よりによって来たその日に襲撃されなくてもいいじ ゃないか」  ぶつぶつと独り言を言いながら、カイルは少しだけ駆け足になる。  悲鳴はなおも続いていた。ハングラの町に城壁はない。申し分ない程度に柵で囲われてい るだけだ。その柵を壊して、魔物が侵入してきたらしい――暗闇の中、カイルはなんとかそ こまで判別をつけた。  あとは、追い払うだけだ。向こうがやる気なら、斬る。迷いこんだだけなら追い払う。 「一度お払いとか試してみようかな……でも絶対なんか騙されてお金取られて終わるだけな 気がするんだよなあ。呪われてたら嫌だな」  虚しい独り言と共に、腰の剣を抜き放つ。  オリハルコンの黒剣、イグニファイではない。名もない白いロングソードの方だ。他に人 がいるところでイグニファイを振うと、間違えて味方が斬られてしまうことがあるからだ。 闇の中で剣が見えず、何もないと思って剣がある空間に走ってきて勝手に斬られた味方が過 去に存在したのだ。  右手でロングソードを構える。左手を柄尻に沿え、剣先を右上へと向ける。 「ひゃうわぁぁぁぁっ!?」  中年女性の悲鳴。視界の先、人よりも大きな蜘蛛が、がゆっくりと女性に迫っている。  ――フラッシュハウンド?  魔物の名とともに、疑問符がカイルの頭に浮かぶ。あの魔物は、巣穴に敵が入り込むのを じっと待つタイプの魔物なのに――  疑問に思考を費やしていたのは一瞬だけだった。  そんなことよりも、今は、 「そこのおばさん、伏せてください!」  ロングソードを矢のように投擲。銀の光がフラッシュハウンドへと伸び、 「シュ……シュィ……」  低い唸りと共に、フラッシュハウンドが六本の足を蠢かせて後ろへと下がった。狙い通り、 剣は女性と魔物の間に突き刺さる。  一拍遅れて、カイルがそこに飛び込んだ。地に刺さった剣を手に取り、魔物に向かい、 「退け! 大人しく立ち去れば斬りはしない!」  その言葉に、フラッシュハウンドの複眼が揺れた。  カイルは目をそらさない。赤い八つの瞳をじっと見つめる。  魔物も、カイルも動かない。  相手ははぐれだ、カイルはそう思う。群れから追い出されたか、巣から迷い出てきたか、 腹を空かせてここまでやってきたのだろう。そういう類は、一度追い払われれば二度と来よ うとはしない。  加えて、フラッシュハウンドは体内に猛毒を抱えている。できることならば戦いたくない 相手だった。  自分よりもなお大きな蜘蛛を前に、カイルは退かず、剣を構えたまま動かない。その後ろ で、中年夫婦が慌てて奥へと逃げていく。  カイルも、フラッシュハウンドも、動かず、互いに目を逸らさない。  やがて―― 「シュ、シュァ……」  先に目を逸らしたのは、フラッシュハウンドだった。  カイルからさらに一歩ひき、くるりと反転する。六つの足を忙しなく動かし、カイルから 離れていく。 「よかった……」  剣を降ろし、魔物の行く先を見て、  ――良かった、どころの話じゃないことに気づいた。  フラッシュハウンドのさらに奥。闇の中に、小柄な人影が見えた。暗くて人相は解らない。 なにか大きな荷物を引きずりながら、たった一人でこの町へと向かってきている。遠目にも 身体は小さく、子供のように見えた。  振り返りもせず、魔物はその子めがけて一直線に駆けていく。  鎧騎士より、食べやすい方を。 「――逃げろ!」  叫んだ。間に合わないと知った上での叫びは悲痛で、それでも叫ばずにはいられなかった。 カイルは駆けだし、子供がフラッシュハウンドの陰に隠れて見えなくなり、  カイルの見る中。  フラッシュハウンドが、二つに割れた。  左右真っ二つ。奇麗なまでに両断されていた。切断が速すぎて、筋肉の収縮が間に合わず 、血も体液も毒も噴き出してこない。魔物の右半身と左半身が、慣性の法則にしたがって子 供の脇をすりぬけていく。そのまま身体はしばらくすべり、やがて安定を失って倒れた。そ の身体から、ゆっくりと液体が流れ出る。  子供は、魔物を両断した武器を、再びずるずる引きずって歩いてくる。  何事もなかったかのように。  カイルは何も言うことができず、駆け出そうとした姿勢のまま、その相手を見た。  近づくにつれ、はっきりと見える。  子供は、少女だった。  荷物は、黄金色の剣だった。  どこかで見た姿だった。足元まである黄金色の髪、ほとんど下着姿同然の服と首輪。  瞳が、あの勇者と同じように、濃く――赤い。  ――両断が好きなのかな。  場違いなことを考えてしまう。それが現実逃避の思考であることを、カイルは自覚してい た。自覚できずに、完全に逃避できればよかったのにとすら思った。  黄金色の少女は、重そうに黄金色の剣をひきずって近づいてくる。  逃げ出したいのに足はまったく動かなかった。  少女はついにカイルの目前までたどり着き、 「あ」  カイルを視界に入れて、微笑んだ。  歳相応の笑みを浮かべ、 「カイ――」  最後まで言い切ることはできなかった。剣に押しつぶされるようにして、力つきて少女は 倒れたからだ。  そのまま、ぴくりとも動かない。 「…………」  カイルは何も言えず、倒れた少女を見詰める。  見覚えがあった。  数週間前、命と信念をかけて対決した相手だった。  地面に倒れる少女――ロリ=ペドを見ながら、カイルはぽつりと呟いく。 「……決めた。今度お祓い受けてみよう」  カイルの背後。ようやく、町の奥から賑わいと松明の灯火が近づいてきた――         3  そして今、カイルの目の前にはロリ=ペドがいる。  黄金鎧、ではない。  あの南海の果てで戦った、中身の少女がそこにいる。  今、ここに誰かが居ても、この少女があの伝説の、黄金の聖騎士とはわからないだろうな、 とカイルは思う。  鎧というのは、その人物を人物たらしめる重要な要素だ。カイルの黒い鎧も、この世に二 つとない逸品だ。見る者が見れば、鎧だけでカイルだと――あるいはカイルを倒し、鎧を奪 った人物だと分かってしまうだろう。銀の鎧に身を包んだクレセント=ララバイも、その素 顔よりも立ち振る舞いと奇妙な武器の方が有名だ。  武器と、鎧。すなわち武装こそが、伝説を物語る道具だ。  そのどちらも少女は持っていない。剣は宿の上に置き、鎧はそもそも持っていなかった。 傍から見れば、親に売り飛ばされた踊り子か何かに見えるだろう。 「……三つ、いいかな?」 「はい、何なりと」  背筋をぴんと伸ばし、動かずにロリ=ペドが答える。カイルはこめかみを手で押さえつつ、 「一つ。色々あって、僕はすでにセイラム家を追い出されてる。……その、セイラム様って いうのは、やめてほしい」 「ですが」ロリ=ペドは眉根を寄せ、「昔、父様から教わりました。貴族の方や騎士の方は、 家名でお呼びしなさいと」  その昔っていうのは、いったいいつのことなんだろうな――ふとそんな疑問が浮かんだが、 カイルは口に出さない。  代わりに、 「僕は傭兵だよ、今は。カイルでいいよ」  ロリ=ペドは少しの間考え込み、やがて納得したように頷いて、 「はい、カイル様」  様、と呼ばれるのはものすごく違和感があった。  その違和感をカイルは堪える。少なくとも、セイラム様と呼ばれるよりはマシだった。一 番最悪なのは、ここでごねて、『ファーライト様』と呼ばれることだった。一応、これでも ファーライト王宮からは追い出された身なのだから。 「もう一つ。……なんですか、その格好?」 「……おかしいでしょうか?」  ロリ=ペドが首を傾げる。その仕草に、カイルはなんともいえない、複雑そうな顔をした。  おかしくはないのだ。少なくとも、カイルの観点から見れば。デザインとしてはそう奇抜 なものではない。以前と変わらない姿。白い羽が重なってできたかのような服。鎧の中で着 るには何の問題もないだろう。  が、街中となれば別だった。下着姿同然の服。トップは紐でつられているだけで、肩も脇 も鎖骨もヘソもすべてむき出しになっている。おまけに首輪までついていて、成りがいいの で――親に売られた踊り子か、頭のおかしな娼婦と思われてもおかしくはない。  実際、全身黒いカイルが、気を失ったロリ=ペドを運ぶ姿は、どう控えめに見ても極悪な 盗賊が少女を無理矢理拉致しているようにしか見えなかった。  実際、イングラの町では、かけつけてきた町人に退治されかけた。  そして、今。  まさか見捨てるわけにも行かず、乗り合い馬車に傭兵として乗り込み、ロリ=ペドと共に この町まで来たのだった。馬車の中ではほとんど眠っていたので、ちゃんと話すのは今日が 初めてということになる。 「変じゃないけど……おかしいかな。町で着ると目立つよ、やっぱり。危ないし」  分かっているのか、いないのか。ロリ=ペドは首を傾げるばかりだ。扇情的にも見えるロ リ=ペドの格好に、危ない目線を送っているのが宿屋の中にもいた。敵意でも殺意でもない ので、ロリ=ペドは反応していないんだろうな、と思う。  もし、抱いているのが敵意ならば――あるいは、身売りに出そうとして、攫おうとすれば。  たちまちのうちに『ズドン』だ。  もっとも、黄金鎧の時のような、常に剥き身の剣を構えられているような、そんな雰囲気 はない。それだけが救いだった。 「とりあえず座ったら?」 「はい」ロリ=ペドは素直に椅子につく。戦っているときは意識しなかったけれど、こうし てみると相当に小さい。「ただ……私、これ以外に服は持っていないのです」 「あー……」  そのことにカイルは思い至る。服どころか、ロリ=ペドは剣以外には何も持っていなかっ た。冒険者にすら見えない有様。普通あんな軽装で外にでたら野垂れ死ぬ。  ――食べなくても平気なのかもしれない。  そんなことを、ふと思った。  好奇心を堪えて、本当に聞かなければいけないことを、カイルは問う。 「それで、最後の質問なんだけど――君は、どうして、僕を訪ねてきたの?」  そう。  それこそが、本当に聞かなければならないことだ。  カイル=F=セイラムと、ロリ=ペドは、南海の果てで敵同士として決闘した。敵とも味 方とも言えない立場だったが、剣を交えたことには変わりない。  そして、別れた。二度と合う事はないだろう――とはいかないまでも、しばらくは絶対に 会いたくなかった。  まさか、追いかけてくるなんて思わなかった。しかも、黄金鎧を持たずに。  ロリ=ペドは顔を伏せ、答えない。表情を見ることができない。  仕方なくカイルは続ける、 「あの勇者の人と――あと、鎧は? 黄金色の、あの鎧」  ロリ=ペドは答えない。疑問ばかりが積もっていく。  そもそも。  ハロウド=グドバイから聞かされた話と、頭の中の知識を簡単に照らし合わせ、カイルは 最も重要で、最も基本的な疑問に辿り着く。  ――どうして、この子は動けているんだ?  普通の相手にならば失礼になる思考は、この場合は当てはまらない。  黄金鎧の聖騎士、生きる伝説の勇者のパーティ。  ロリ=ペド。  黄金鎧に――暁のトランギドールに、触媒とされた正義の執行者。  鎧の中で意識があるかどうかは半々だろうがね、とあの学者は言っていた。けれど、カイ ル同様に、そう簡単に鎧を脱げるような人間ではないはずだ。  なぜ。どうやって。どうして。疑問ばかりが膨らんでいく。  そして、ロリ=ペドは。  答える代わりに、ぽとり、と。  机を微かにぬらした。 「――え、」  予想外の事態にカイルはうろたえる。その間にも、ぽた、ぽたりと雫は落ちる。  泣いているのだ、という思考に辿り着くまで、たっぷり十秒はかかった。  あの聖騎士が泣いている――違和感のありすぎる光景を、すぐには受け入れられなかった。 けれど光景だけで見れば、幼い少女が泣いているだけなのだ。  どうすればいいかわからず、カイルはうろたえ、左右を見回して自分に向けられたきつい 眼差しの数々を見つける。  ――女の子を泣かせた鎧野郎。  そう言われた気がした。よく分からないけど、この状況はまずい。  なにか言おうとして、カイルは何も言えず、 「私は――」  ロリ=ペドが、泣きながら言った。  顔をあげる。涙に濡れた赤い瞳が、カイルをしっかりと見つめている。  涙に震える声で、ロリ=ペドは言った。 「――兄様たちに、捨てられたんです」         4 「一番隊と参番隊は右翼展開! 二番は直進! マルタに行き過ぎるなって伝えな!」  はりのある、力強い女性の声と共に、隣に立つ男が角笛を吹く。三つの音階と七つのリズ ムからなるその音が、広い戦場においては最大の司令塔だった。特に、今『賢龍団』(シル バーハーミッツ)がいるような平野では。  学術都市ウォンペリエから西に一日いった処にある、ハンバルト平野。そこに今、彼等は いた。  魔物退治のために。  角笛の命令に従って、五人一組の隊が大きく動きを変える。年齢も、性別も、持っている 武器すら異なる。  それも当然のことだ。賢龍団とは、あくまでも傭兵組織なのだから。戒律や規律を重んじ る騎士団とは違い、生き残ることを第一に、そして勝つ事を第二に考えている。そういう意 味では、賢龍団は高いレベルにあるといえた。 「姉御、撃ちやすか!」  レザーメイルに身を纏った男が言う。姉御と呼ばれた女性――レイエルン・アテルは、戦 場を見通せる場所に立ったまま「このヌケ作野郎!」と怒鳴り、 「隊長に言われたばっかりだろ、情報どおりやれって! あせって突っ込んでケツ掘られた ら、死ぬのはあいつらだって言ってんだろ」  くい、とレイエルンは顎で野原を、戦場を指し示す。  ――竜がいた。  ただし背丈が人間の半分ほどしかない、一見幼竜に見えるものだった。最近では学者のお かげで生態がはっきりしている。あの大きさで成竜。素早い動きと鋭い爪、群れて獲物を駆 る地竜、ドラゴパピィ。  一匹でも厄介で、まとまって襲われればなす統べもなく全滅しかねない――そういう敵だ った。  その竜たちの群れは、今では残り五匹まで減らされていた。  隊長・長腕のディーンの指揮によって。 「情報こそが戦ねぇ。あたしゃそういう面倒なこと嫌いなんだけど――ま、金が入って命も 助かるなら別に構わないね」  レイエルンが暇つぶしに呟く。それくらいに、今の彼女は今だった。  視界の先、戦は終わりつつある。後方から追い立てられ、右側に人の壁を造られたドラゴ パピィたちは、自然に左側へ逃げようとする。  森がある方、平原から逃げようと走り―― 「撃ちな」  レイエルンが嬉しそうに言う。指令を出す必要はなかった。  あらかじめ決められていた通り――追い込まれたドラゴパピィめがけて、一斉に矢が撃ち かけられる。風下、森の中から。  五番隊の正射によってドラゴパピィの脚が崩れる。下半身を狙って穿たれた矢は見事に突 き刺さり、二匹のドラゴパピィが転倒し、一匹が眼球につきたてられ即死し、その三匹を踏 み潰しながら残る二匹が転んだ。  その倒れたドラゴパピィめがけて二番隊が、そしてその中の一人が抜き出て書ける。浅黒 い肌に皮の胸あて、まだ若い、身の軽そうな少女。二本のグラディウスを構え、飛ぶように ドラゴパピィへと襲い掛かる。  その光景を見て、レイエルンが頭を片手で抑えた。 「あちゃ――マルタ、また突っ込んでるの。剣闘の癖、中々抜けないもんだね」 「そりゃあっしら傭兵、戦方は変えられませんです」  指令部の見る中、マルタ=ロルカが一匹のドラゴンパピィを捌き、負けてたまるかと二番 隊の四名が襲い掛かる。倒れたまま牙をむく竜に、長槍が打ち込まれる。  魔物の討伐とはいえ――消耗率ゼロ。  ここの戦は楽でいいね、とレイエルンは思わずにいられない。勝ったな、そう思いながら 戦場から視線を外して、 「……隊長さんは……いますか……?」  ふらり、と。  幽鬼のように、男が立っていた。  本当に亡霊か何かかと思った。それくらいにやつれた男だった。傭兵にしては立派な鎧を まとっているため、余計にそう見えた。短く切りそろえた銀の髪を掻き毟りながら近寄って くる。  レイエルンは斬りかかりそうになるのをこらえつつ、 「出てるよ。あたしが隊長代理。なんでも人と会うんだって――で、何か用事?」 「そう……ですか……」  来たときと同じくらい唐突に、男はふらふらとよろめきながら立ち去っていく。誰もいな いところに向かって「だから黙れって……」や「オレに話しかけるな!」と呟きながら。  レイエルンの隣に立つ男が小さな声で、 「あいつ、頭大丈夫ですかい?」  手のひらを頭の横でくるくる回しながらそう言った。その意味を理解しつつ、レイエルン は首を縦にも横にも振らない。  正直な話、知らなかったからだ。 「ダリス=グラディウス。隊長がつれてきた新入りだけど――ありゃ大丈夫なのかね」 「ま、隊長のやることに間違いはありませんですし。……その隊長は、どこへ行ったんです かい」  視線を、ダリスの後ろ姿から、戦場へと戻す。  すでに戦は終わり、事後処理が始まっていた。竜の皮や肉は十分に高価な資源だ。無断に するはずがない。マルタは飽きたのか、その作業を見もせずに、座り込んでぼうっとしてい た。 「――なんでも、新しい傭兵を迎えに行くんだってさ」 「はぁ……そりゃまた」男は驚き、「隊長自らたぁ凄いですな」 「あたしとしては、今になって新しい奴集めてる理由が知りたいけどね――なんか、でっか い動きでもあるのかもよ」 「はぁ」  男は曖昧に頷き、 「で、隊長が会いに行った奴たぁ、どんな奴なんです?」  その言葉に、レイエルンは頭を掻いた。  正直、自分でも隊長の言った意味を理解していなかった。  だから、伝えられた言葉を、そのまま言った。 「『死人に会いに行ってくる』――だってさ」         5 「ふぁっくしょん!」  いきなり大きなくしゃみがでた。寒くもなく、風邪を引いているわけでもない。  誰かが噂をしたのかもしれない、カイルはそう思い、鼻の頭を掻いた。 「体調が」横に立つロリ=ペドがカイルを見上げ、「優れないのでしょうか?」 「あー……いや、大丈夫だよ。ちょっとくしゃみが出ただけ」  善かった、と呟いて、ロリ=ペドは周りを見回した。カイルも同じように視線をめぐらせ る。  ハングレームは、皇国領土の町だ。国の性質上、ここには王はいない。ついでにいえば貴 族領でしかない。民主的に町長が納めている――裏にどんな思惑があったとしても。  したがって、ハングレームは商取引が発展し、今では南西方面と皇国中央の商業的な橋渡 しを行っている。商人で栄えた町、巨大都市ハングレーム。この町の目玉といえば、城壁の 入り口、四方の城門からまっすぐに中央まで伸びる『露店通り』だ。きちんとした店から、 風呂敷一枚広げただけの店まで、ありとあらゆる店があり、ありとあらゆる物が売られてい る。  その道を、今、カイルとロリ=ペドは一緒に歩いている。  宿屋の中ほどは注目されない。露店どおりには装備を整えて歩いている人が多いし、実際 に武器を振り回して実演販売している者までいる。カイルの黒鎧も、ここではそう珍しくは ない。  そして、もっとも目立つ姿のロリ=ペドは―― 「カイル様――ありがとうございます」 「え?」 「わざわざ買っていただいて――」 「いや、いいんだけどね、別に。高いものじゃないしさ」  頬を掻き、カイルは横目でロリ=ペドを見る。  いつもの露出度の高い格好ではない。  露店どおりの一角、着衣場まで備えられた洋服屋で、カイルが買い与えた服を着ていた。 西方特有の洋服。ケープと肩飾りのついた烏色のミニ・ワンピース。胸元には赤いリボン。 白いソックスと革靴は、ロリ=ペドの格好を見かねた店主のプレゼントだ。  こうしてみると、どこかのお嬢さまにしか見えない。  ただ――手に持った黄金の長剣と、首輪だけが、どうしようもないほどに違和感をかもし 出していた。  珍しい格好ではあるが、ろこつに注目されるほどでもない。  言葉につまり、カイルは思いつくままに、 「他に、何か欲しいものある?」 「いえ」ロリ=ペドは首を振り、「これで十分です」  そういわれては、何もできない。  再び無言になって、二人歩く。この繰り返しだった。カイルが話しかけ、ロリ=ペドが答 え、会話は続かない。  何を話せばいいのか、まったくわからなかった。  ――こういうのって、ハロウドさんの役目だよなあ。  思う。こういう、少女に物を買い与えたり、厄介ごとに巻き込まれたりするのは自分の役 目ではないと。こういうのは、あの人の方が似合ってると思う。大昔、ももっち相手に似た ようなことをしたという話を思い出してしまう。  ももっちも聖騎士も、危険度では変わらないかな、そう思いながら、カイルは心の中でた め息をついた。  会話を探して視線をさ迷わせ、 「あ」 「? ……どうしました?」  ロリ=ペドの問いに答えず、カイルは立ち並ぶ露店の一つに近づく。  そこにあるのは洋服ではなく、食べ物だ。皇国内でなら、どこででも食べれるような者。 ただしカイルはそれを食べたことはほとんどない。  美味しくないから、ではない。  甘いからだ。  露店の看板には、なまりのある皇国共有語で、こう書かれていた。 『ジェラード・ソフトクリーム』。  言わずと知れた、ジェラード・グミのソフトクリーム版だ。もちろん本当にジェラード・ グミが使われているわけではない。美容にいいですよー、という名目で売られているだけだ。  本当かどうかはともかく、味に評判はあるらしい。  それを買おうと思ったのは、昔、故国の姫が食べたいと言っていたのを思い出したからだ。 「すいません、一ついただけますか?」  店の店主はむすっとした顔でカイルを見て、それからロリ=ペドを見る。カイルも思わず 振り返ると、ロリ=ペドは剣を地面に置き、柵に腰かけて待っていた。視線があうと、ぺこ りと会釈する。  店主は黙ってカイルが差し出した金を受け取り、代わりにソフトクリームを手渡してきた。  普通のよりも、少しばかり量が多いのを。  店主はそれをカイルに手渡し、やはりむすっとした顔のまま、あごでロリ=ペドを示す。 それきりカイルを見ようともしない。  ――誤解されてるんだろうなぁ。  そう思いつつも、訂正する勇気はなかった。黙ってカイルは踵を返し、 「はい、これ」  ジェラード・ソフトクリームを、ロリ=ペドへと差し出した。 「え――」  ロリ=ペドはまるで、剣でも向けられたかのようにそれを凝視して、 「私に……でしょうか?」 「君以外の誰にあげるんだよ。僕は食べないし、ここにいるのは君だけだよ」 「え――でも――」  ロリ=ペドの視線がさまよう。食べたいけど受け取るかどうか悩んでいるんだろうな、カ イルがそう思った瞬間、予想外のことをロリ=ペドは言った。 「これは――何、ですか?」  こけそうになった。  道端でずっこけそうになるのを堪え、カイルは「あのね、」と呆れたように言い、  ――そこで、思い出した。  相手が、これを本当に知らない可能性があることを。  一瞬。穏やかになりかけたカイルの心に、冷たいものが走る。  それを押し隠して、カイルは、言葉を選んで言う。 「食べ物。甘くて美味しいから、食べてごらん」  少しだけ、前へと突き出す。  ロリ=ペドは恐る恐る手を伸ばし、そっとコーンの部分を両手で包むようにして掴んだ。 すぐに口をつけようとはせず、カイルを見上げる。  赤い瞳が、じっと見つめてくる。 「……美味しいよ?」  そう言うのが、精一杯だった。  少しだけ悩んで、悩んだ末に――ロリ=ペドは、そっと舌を伸ばして、舐めた。 「わ、」  驚きの声。続いて、もう一舐め、二舐め。  都合三回舐めてから、ロリ=ペドはカイルを見つめ、 「こんな美味しいものが――あったんですね」  そう、笑って言った。  年頃の少女らしい、柔らかな微笑みだった。 「……行こうか」  カイルも、気力をふりしぼって微笑み、地面に置かれた黄金剣を拾って歩き出す。ロリ= ペドは両手でジェラード・ソフトクリームを掴み、舐めながら隣を歩く。  平和だった。  食べているせいで、会話がなくても微妙な雰囲気は流れない。だからこそ、余計に平和に 思えた。  とても――隣に立つ少女が、『あの』ロリ=ペドだとは思わなかった。  黄金鎧。飛び交う黄金剣。暁のトランギドール。勇者、ガチ=ペド。  そんな単語と共に、宿屋の中でロリ=ペドが言った言葉を思い出す。  ――トランギドールに捨てられたのです、とロリ=ペドは言った。  聞けば、あの鎧から『拒否』されてしまったらしい。あの黄金鎧は暁のトランギドールそ のものであり、同時に正義そのものでもある。  ――それが、崩れてしまったから、私は捨てられたのです。  ――どうして?  カイルの何気ない質問に、カイルを睨んで、はっきりと言った。  ――貴方に、私が負けたからです。私の中の正義が、あの瞬間に揺らいだからです。  その瞬間、カイルは己の最大の不運を悟った。  心の中でハロウドを呪うカイルに構わず、ロリ=ペドは淡々と言った。  ――私が揺らぎない正義を見出すまで、あの子の意志は止まってしまいます。  ――兄様は、自分のことは自分でしなさい、と私に言いました。  ――あの大魔道師は、あざ笑うばかりで助言をしてくれません。  ――だから、私は貴方を探しました。  ――私を倒した、貴方の正義を知りたかった。  ――貴方を知れば、私は、兄様の役に――  そういった言葉を、カイルはショックに揺れる頭で言葉半分に聞いていた。  結論からいえば、ようするにロリ=ペドが再び黄金鎧の声をきけるようになるまで一緒に いさせてもらう――というものだった。  すべてを言い終えて、ロリ=ペドは三つ指をつき「宜しくお願いします」と深く頭を下げ た。  あまりの不運さに、その日の夜は、思わず布団の中で丸くなって涙ぐんでしまったほどだ。  厄介ごと、だとカイルは自分でも思う。  ただ、  それでも――そんなことからは関係ないくらいに、今は平和だった。  街は穏やかで。  隣に立つロリ=ペドは、ただの少女にしか見えなくて。  剣を抜く必要はなくて。  厄介を巻き起こす人はここにはいなくて。  穏やかにすら、思えた。  それが、カイルにとっては――  ――正直に言えば、少し怖かった。  ロリ=ペドが、ではない。この状況そのものがだ。  長年培った経験と、そして不運に見舞われ続けた本能が、声をそろえて警告を発している のだ。この状況は嵐の前の静けさだぞ、絶対に不吉なことが起こるぞ。きっとそのうち、と んでもないことがあっさりと起こるぞ。厄介ごとが間違いなく襲ってくるぞ。  心の声を、カイルは信用していた。信じようが信じまいが、厄介ことは襲ってくる。なら、 少しでも心構えはあったほうがいい、そう思っていた。  少しの心構えなどまったく意味がないことを、カイルはのちのち知ることになるが。 「――お客さん、手紙! あんたに手紙だよ!」  宿に帰って来るなり、店主に呼ばれた。ロリ=ペドと共に二階にあがろうとしていた脚を 止め、昇りかけていた階段を降りる。 「手紙ですか? それ、本当に僕に?」  カイルの言葉は懐疑的だ。確かにこの大きな町にならば『郵便局』があるが、普通はそこ に自分から出向き、魔術通信のネットワークで届け物が来てないか確認する――定居地をも たない冒険者にとっては、それが普通のことだ。  が、店の店主は脂ぎった額を袖で拭きながら、 「『黒い鎧、黒い髪、二本の剣。カイル=F=セイラム』――あんたしかないだろう」 「……そうですね」  店主の前に立ち、カイルは頷く。  冒険者に手紙を直接出すような人間は、そういない。届く保証が確実にないからだ。  しかし、そういうアホなことをする人間に、カイルは一人心当たりがあった。 「ハロウドさんからかな――」  呟くカイルに向かって、店主は封筒を手渡す。カイルはそれを受け取り、ロリ=ペドが背 伸びして覗き込もうとする。  はなから違和感があった。 「あれ、薄い……?」  受け取った封筒は、あきらかに紙一枚しか入っていないほどに薄かった。  カイルの知る限り、手紙を出す人間――子どものような魔物生態学者は、やたらと大量の 手紙を送りつける。本題を回りくどく説明し、途中で話しがずれ、ずれた話がさらにずれ、 遠まわしな比喩と関係のない話が始まり、必要事項の十倍以上の量になっている。全部まと めれば分厚い本になるくらいだ。実際、冒険の最中、暇なときに手紙を読み返す癖がカイル にはあった。  けれど――今手渡された封筒は、薄っぺらい。手紙は本来薄いものなのだが、あんな人間 と長く付き合っている生で、思考が完全に汚染されている。  封筒を裏返してみる。  ハロウド=グドバイというサインはない。代わりに、封筒は蝋で固められていた。蝋印は、 龍を模った紋様。  ――見覚えがあった。  何も言わずに階段を昇り、カイルは部屋に入り、ベッドに腰かける。蝋でかためられた封 をそっと切って、中に入っていた手紙を取り出した。  ロリ=ペドは椅子に腰をかけ、両膝に手をそろえ、カイルを見る。手紙の内容が知りたい が、勝手に見ることはできない――そんな態度だった。  だが、カイルは、気づいてもいない。  手紙に目を奪われている。何度読み返しても、そこに書いてあることはかわらない。  厄介ごとの匂いがした。  そこに書かれた文字は、たったの二行だった。 『三日後そちらに会いに行く             ロングアームよりブラックゲイルへ』 ■ 第一話 Scorching Gold AND Black Gale.....END ■