とある一つのお話。 山の朝は冷え込む。 高い場所ならば尚更だ。 けれども人間と言うのは驚くべきもので、こんな環境にすっかり慣れてしまった。 人間の身で、こんな人知れぬ山で生活するのは無謀だと思っていたが、実際はそうでもないようだ。 人里にいた頃よりは健康的な生活を送っている気がする。 空気も、食物も、水もずっと新鮮で美味しい。 そして、ここでくらす最大級の理由が、何時の間にか俺の隣に降り立っていた。 「おはよう」 綺麗に澄んだ声に、俺の意識は一瞬捕われる。 が、流石に魔性の声と言えど毎日聞いていれば耐性ができるらしく、すぐ現実に戻ってこれた。 「ああ、おはよう」 そういって、俺は彼女に微笑む。 整った美しい顔、緑の柔らかな髪と服の上からでもわかる豊かな胸、背中には大きな鳥の翼。 一見すれば天使のようだが、額にある小さな二つの角がそれを否定している。 そう、彼女は魔物。 ハーピーやハルピュイアと呼ばれる魔鳥族なのだ。 ここに来る前の俺は剣士だった。 町から町へ、村から村へと渡り歩き、人の頼みや依頼を引き受けながら生活していた。 いつものように立ち寄った村で、ある噂を耳にした。 −最近この近くにハルピュイアが出没し、男達が次々と行方不明になっている− −町長もすっかり困っていて、退治できた者には褒美がでるそうだ− そこで俺は渡りに船、とばかりに町長の所へ出向き、依頼を引き受けた。 ハルピュイアなら何度か戦った事もある、そんなに強い訳でもない。楽な依頼だと考えながら、 俺は問題の山へと足を踏み入れた。 あてもなく未整備の山道を歩いていたからか、足が痛くなった。 丁度良い具合に休憩できそうな場所を見つけたので、そこで体を休める。 湧き出ていた水を口に運び、空を眺めていた時のことだった。 天使が現れたのだ。 整った美しい顔、緑の柔らかな髪と服の上からでもわかる豊かな胸、背中には大きな鳥の翼。 その女性は、天使としか形容しようのない外見を持っていた。 天使なんて伝承でしか聞いた事がないし、目撃例だって聞いてない。 それ以前に、なんで俺の前に現れたんだ? 軽く混乱状態に陥った俺をよそに、天使(暫定)は心を融解させそうな微笑を浮かべた。 もう、それだけでハート鷲掴み。君にどっきん・フォーリン・らぁぁぶ。 『うわ可愛いなぁ、綺麗だなしかも胸大きいし天使って素晴らしい存在なんだな。  ああでも彼氏とかいるのかな、いたら嫌だなぁ。  でもきっと俺なんか太刀打ちできないくらい美形なんだろうなぁ。』 どうでもいい事を延々と、切れ目なく考えていた。 天使の口が開き、声も綺麗なのかなとか考えた。 紡がれた声は綺麗で、澄んだ音律を作り出していた。 途端、脳が危険信号を発信する。 そこでようやく、天使の正体に気がついた、彼女は天使じゃない、件のハルピュイアだ! 気付くのが遅れたのには理由が三つある、まず一つは人間の姿をしていた事。 今まで戦ってきたハルピュイアは、例外なく人と鳥の混ざった姿だった。 人目で魔鳥と気がつく姿だったのだ。 二つ目は服。先に述べたように、人と鳥の混合で腕が翼になっているから服は着れない。 これが全裸で現れていたら、俺も少しは疑ったのだろうが。 いや、先に鼻血を吹いていた筈、そしてもっと凝視していた、うん。 気を取り直して三つ目だが、これは至極個人的な感情だ。 あんなに綺麗で可愛らしい子が、魔物であって欲しくないと思っていたのだ。 ああ、悲しいかな男の性。 歌を聴いてしまえば、まず間違いなく負ける。 だから俺は集中する、意識を剣に向け、意思を強くもった。 それなのに、それなのにまだ歌は聴こえてしまう。 ここまで強力な歌は聴いたことがない。 鼓動が早まる、体が熱く火照ってくる。彼女を見るだけで胸が苦しくなる。 どうにかなってしまいそうなこの気持ち。不味い事に俺は魅了されつつあるらしい。 これ以上歌を聴いてはいけない、と理性が告げていた。 しかし本能は彼女の歌を求めていたのだ。 今まで出会ったハルピュイアとは比べ物にならない声が、脳神経の奥まで染み渡る。 足が止まり、腕から力が抜け、剣が落ちた。 どうやら、完全に魅了されたらしい。頭の中にあるのは彼女の事だけになっていた。 ゆっくりと、両腕を広げた彼女が俺に近づいてくる。 歌はまだ聞こえていたが、先程とは違うものだった。 でも、俺にはどうでもいい事だ、綺麗な声には変わりない。 動けないでいる俺の目の前に、彼女が降り立つ。 そのままゆっくりと歩いてきて、両腕を俺の体に絡ませてきた。 サバ折りとはまたえげつない殺害方法だ。 外見に似合わずやりおるわこの娘ッ子。 抵抗はしない。俺も剣士の端くれ、死ぬなら潔く、だ。 『まぁでも、こんな綺麗な子に抱きしめられて死ぬならそれはそれで』 そんな事を思いながら、やるなら一思いに、と瞳を閉じた。 だが、全く予想外の事態が起こった。 まず其の一、柔らかくて温かい物が俺の唇に触れた。 其のニ、温かく湿ったものが口内に侵入してきた。 其の三、反射的に舌で触ってしまった。 其の四、そうしたら、それは舌の上をゆっくり前後に動いた。 其の五、体に柔らかいものが当たる感触がある。 其の六、俺死んでない。 不思議に思って目を開けたら、彼女の顔が目いっぱいに広がっていた。 何故か頬を赤く染めて、目を閉じている。 こちらの視線に気がついたのか、彼女の目がゆっくり開き、顔も少しづつ遠ざかる。 そこで初めて、俺の頭は一つの結論に達する。 …………キスだこれーーーーーーーーーーーーーーーっ!? それからまた放心状態になった俺は抱きかかえられ、彼女の里に連れて行かれた。 そこで長老らしきハルピュイアから、彼女達がレリックハルピュイアだと聞かされた。 絶滅したと伝えられていたが、実際は人目につかない山でひっそりと暮らしていたのだ。 なんでも彼女は繁殖期で、つがいとなる男を捜していたそうで。 でも、俺は魅了されただけで、本当に彼女を好きかどうかはわからない。 長老にその旨を伝えたのだが、軽く一笑されてしまった。 どうやら俺が魅了の歌だと思っていたのは、レリックハルピュイア秘伝の歌らしい。 その歌には魅了の効果なんて無くて、ただ純粋自分の全てを伝えるだけの恋歌。 それに魅了されたと言う事は、俺が彼女を受け入れ、好きになった証拠なのだと。 ああ、確かに思い返せば恋ににた症状が出ていたような、というか今でも胸がときめく。 ちら、と横目で彼女を見やれば、頬を赤くして僅かにうつむいていた。可愛い。 もう引き返せないとか言われた気がしたが、そんな事どうでもよかった。 隣にいる彼女と、死ぬまでずっと一緒にいられる喜びの方が遥かに強かったのだ。 そうそう、次々と男が行方不明になっているのは、他にも繁殖期を迎えた子がいるからだそうだ。 両思いにならなかった場合はどうなるのか、と聞いたら『知らないほうがいい』と返された。 確かに、知らないほうがいい事もあるな。 早く新しい環境に慣れなければならないし、無闇に地雷を踏む事もないだろう。 新居は彼女と一つ屋根の下。その晩の事は一生忘れられない。 そんな感じで、俺はレリックハルピュイアの里で暮らす事になったのだ。 「まぁ、しかしあれだな。ここで暮らしてもう一ヶ月近くなるが、本当に俺でよかったのか?」 俺は崖に座り、朝日を眺めながら彼女に問い掛ける。 「うん、貴方でよかったよ。今も凄く優しく大事にしてくれるし、頑張ってくれてるもの」 家を増築しようと木材を運んできているし、他にも色々作る計画に参加しているからな。 頑張っているとはきっとその意味だろうけれど、でもなんで彼女は顔を赤らめているのか。 もしかしてあっちの方の意味でもあるのかっ、そうなんだな。 「何故にお前が顔を赤らめているのかが気になるが……ありがとうな、スェリレ」 「いえいえ、こちらこそ」 朝日に照らされた彼女の微笑みは、本当に綺麗で、いつまでも大事にしたいと思わせてくれる。 「私には過ぎたスェテルエ(素晴らしい夫)だよ」 呟いて、彼女がこちらの肩に頭を乗せてきた。 『幸せだと思えることが、きっと一番幸せなんだろうな』 そんな風に、似合わないことを考えながら、俺はここで暮らしていく。 大好きな人と一緒に。 おわり