――それは遠い昔話。 「大変だ、魔物が出たぞー!」  そんなありきたりかつどこにいても聞けそうな悲鳴で、私、ハロウド=グドバイは目を覚ま した。辺りはまだ明るい。というか明るすぎる。どう見ても昼間であり、野外だった。部屋に 閉じこもって丸くなっていれば、こうも明るいはずはない。ということは、私は――  外で寝ていることを、ようやく私は自覚した。広い中庭に置かれたベンチ、校舎を一瞥でき る位置にある特等席。そこでうっかり昼寝してしまったらしい。外で寝るというのは、中々に 心地がよかった。起こされなければ、次の講義も忘れるくらいには寝ていただろう。我々は人 間であり、人間である以上睡眠を忘れてはならない。否、睡眠から逃れられることなどできな いのだ。  ……ふむ? とすると、調査の最中にしばしば寝食を忘れてしまうのは、一時的に人間を超 えているのからなのか? 興味がつきないところだ。だが、私の専門は、人間ではない。  言うまでもなく――魔物である。 「誰か、誰かやつを止めろ!」  などと考えごとをしていたら、事態は悪化していた。見れば、二階中央の実験室の壁が丸ご と爆発していた。壊れた壁からは黒煙が漏れ出し、その煙の向こうに、かすかに見えるのは― ― 「――龍、かね?」  思わず呟いてしまった。ちらりと見えたその姿は、恐らく龍種だ。もっとも、かすかな文献 を頼りに調べただけのものなので、はっきりと断言はできないが。  もう少し、近くで見たい。  そう思い、私は爆発が起きた窓の下へと近寄った。こういう事態に慣れていないもの――お もに一年生――はすぐ真下に近寄るか遠くへ逃げており、その他大抵のものは遠巻きにその教 室を眺めていた。そしてさらに幾数人は、訳知り顔でにやにや笑っている。  その笑っている中の一人が、近づいてくる私に気付き、大きく手を振った。私は彼の元へと 歩みよる。事情は事情通に聞くに限るからだ。 「ハロウド、見ろよアレ」  彼は私の名を――呼んで、未だ煙を吐き続ける校舎を指さした。 「さっきから見てるとも。何があったのかね?」 「何があったって、なにがあったに決まってんだろ。ありゃ何だ?」 「龍だろう」 「リュウ? あれがぁ?」  訝しげに言う彼の気持ちも、分からなくはない。さっきから煙の向こうに見え隠れしている のは、一見しては龍には見えないだろう。奇妙な形の、光り輝く青色の水晶にしか見えないだ ろう――学習熱心な生徒でなければ。  そして私は、その分野においては、この学園で有数の人間だと自負している。一番、だとい わないのは謙虚さでも何でもなく、私としのぎを争う人物がいるからである。  例えば――恐らく、すぐ上、二階にいるだろう相手。 「“また”彼かね?」  私の問いに、彼はわざとらしく首をすくめて 「“また”アイツだよ。いい加減首輪でもつけたほうがいいぞアイツに」 「考慮しておこう――」  基本的に私は生命の尊厳というものを尊重しているが、同時にこの事件にいるであろう友人 が、文句のつけようもない問題児であるというのも確かだ。まったく、誰に似たのだろう。類 は友を呼ぶという格言を私は絶対に信じない。もしこの先辞書を作ることがあったら、まずそ の言葉を除外させていただこう。  閑話休題。  いい加減放っておくのもあれな上、私の好奇心をくすぐるものがいつ消えるとも分からない ので動くことにした。いつも愛用している白衣のようなコートから鞭を取り出し、二階に見え る骨組みへとかける。 「おいハロウド、普通に周っていけよ! 目立ってるぞ思いっきり! しかもそれ校則違反じ ゃねーか!」 「知的好奇心の前には、拘束など何の意味もなさないのだよ!」  そう叫んで、私は縄を力の限りに引き上げた。壁のかすかなくぼみに足をかけ、するすると 二階まで昇る。これが三階や四階ともなれば別だが、二階程度ならばこの方法で昇りきること ができる。やりすぎて教師に叱られることもあるが、それは仕方のないことだ。仕方ないこと だと思っておこう。そうすればそこそこ幸せだ。  二階へ昇り、壊れた窓枠から入ると、案の定見知った顔がいた。  小等部から中等部前半くらいの歳にしか見えない少年である。この高等部にいれば、若干の 違和感を覚えてしまうような、そんな相手だった。ズレたサングラスをかけ、髪を乱雑に伸ば し、白衣を着てはいるものの――どう見ても子供である。  体系顔声その他諸々、どこをどう見ても、女顔の少年にしか見えない。  が――少なくとも私の知る限り、彼は数年前からその姿を変えていない。恐らくは、この先 もそうそう姿形が変わることはないだろう。何せ彼は、エルフ種と人間種と妖精種と龍種のク ォーターなのだから。 「また変なところから登場しますねハロウドさん」  夢里皇七郎君は、私を横目で見て、そっけなく言った。にっこりと笑えば女学生が寄ってく るような顔だが、生憎彼は私には微笑んでくれない。いつも怒っているような気がする。 「……皇七郎君。何をしているのかね?」 「何って、見てのとおりですよ」 「私には君が、地面から首だけ生えた龍の上でくつろいでいるようにしか見えないがね。つい でに言うなら、他の生徒たちは皆壁際に退避し、教師はその龍に押しつぶされて気絶している ようにも見える」 「糞のように長い台詞をどうもありがとうございました。よく舌が回りますね。二枚くらい生 えてるんですか?」 「西の方にそういう人間がいるらしいよ。アリクイの系列から進化したせいで、長く伸びた舌 が二本あるそうだ。生存競争とは素晴らしいものだね。知っているかい? 彼らはより多くの ものを摂取するために、」 「長いですってば。それで、何しに?」 「無論――見にきただけだ」  そう言って宣言どおり、私は教室の中を見た。先ほどぺらぺらと喋ったように、周りの生徒 たちは一気に壁際まで逃げている。それもこれも、教室の真ん中に浮かび上がった魔法陣から 、水晶で出来た龍の首から上が跳び出ているからだ。  不完全な召還呪文――か? 「ま、見てのとおりです。召還呪文の授業で好きなものをと言われたんでね」  少しだけ自慢げに皇七郎君が言う。ふむ、教師は恐らく、呼び出せたとしてもジェラード・ グミやそこらを想像していたのだろう。召還は神聖系でも難しいものであり、【断られる】と いう事態が発生する。それを難なくクリアした皇七郎君を褒めるべきか、教室の真ん中に龍を 呼び出した彼を怒るべきか。  私が選ぶべき道は、どちらでもない。 「ふむ。甲殻ではないな。純粋な結晶……水晶だな、これは。わずかに発光しているようにも 見える」 「ボクが思うに、純粋な龍種ではなく、亜龍の系統だと思いますが」 「それもあるが――事象亜龍の可能性は?」 「そうか! そうかそれがあった! だとすると、龍が水晶を得たのではなく、水晶が龍を経 た?」  喧々諤々と話し合う私たちを、その龍は興味ぶかげな目で見ていた。その目までもが美しい 水晶であることに今更気付く。  そう。  私たちにとっての最優先事項は教室の修繕や退避などではない。目の前の稀少な魔物へと、 全ての興味が注ぐべきなのだ。  そのために――私達は、24時の魔法使いと聖騎士、加えてかつての勇者と魔同盟が手を組 んで創り上げたと言われる不緩衝地帯にして学術国家にいるのだから。  学ぶために。ただただ学ぶためだけに! 「貴様ら……早く助けんか……」  召還された龍に押しつぶされている教師がうめき声を漏らした。むう、すっかり忘れていた 。私の中で、かの人の優先度と龍のそれを比べることができるはずもない。仕方なしに助けよ うかとも思ったが、皇七郎君に止められた。 「ハロウドさん、そのヒト助けなくていいですよ。龍が出るなり驚いて攻撃魔法ぶっ放すよう な人でなしですからね!」 「ほう! つまりあれかね、そこの壁はこの先生がやったのかい?」 「そゆことです。水晶の肌で反射して壁にそれたんですよ」 「それはますます興味深いな。反射? それとも吸収と放射かね?」 「あれは反射だと思いますよ。物理衝撃はどうなのかな……」 「いいから……助けろ……」  なおも呟く教師。助けなくても、この龍に感じ取れる知性を考えれば、潰されることはない と思うのだが。とはいえ煩いので、いい加減助けようかと、皇七郎君に打診しようとしたとき 、 「皇七郎くん、ハロウドくん、素晴らしいものが出たときいたよ!」  教師にとっては残念なことに、私たちの最後の仲間がやってきた。  手に抜き身のサーベルを掲げ、髪をあげた青年はつかつかと教室に入ってくると、そのまま つかつかと歩み寄り、教師が眼に入っていないのかその背中を思い切り踏んづけた。  ぎゅえ、と断末魔の悲鳴が聞こえる。合唱。  それすら聞こえていないのか、最後の仲間――トゥルシィ=アーキィは、興奮した様子で龍 の全身を眺めた。片手にサーベルを持って興奮して龍に詰め寄る男の姿は、はたから見ても十 分に危ない。その証拠に、周りの生徒たちがさらに退いた。  龍を退治にきた英雄――に見えなくもないが、その正体は真逆である。 「アーキィさん、何ですその物騒なの」 「ちょっと決闘をしてきただけさ。そんなことよりも皇七郎くん、これは――ああ、なんと言 えばよいのだろう。この感動を私は詩にするべきか?」 【そんなこと】ときた。私たち三人の中で一番温厚なのに、彼が決闘慣れしているのは一体全 全体どういうわけなのだろう? 貴族出身か、単に周りの生徒に舐められているだけか。まあ もっとも、一度でも彼と決闘をすれば、二度とつっかかることなどしないだろうが。 「返り血はついてないようだね」 「ああ、君らがこんな素敵なことに出くわしていると教えてもらってね。治療する暇も惜しか ったので柄で殴って逃げてきた」  ……まだ見ぬ決闘相手に同情しよう。 「お前ら……憶え、とけ、……よ……」  教師が最後にそう言って、今度こそ完全に沈黙した。トゥルシィ君と皇七郎君はそんなこと を一切気にせず、龍についてあれこれと早速会議を始めてしまった。龍は、その二人を楽しそ うに見ている  私は――少しも悩むことなく。 「まだ名も知らぬ龍の方よ! よかったその皮膚を少しばかりわけてくれないかね? 何、別 に悪用しようというわけではなくてね。水晶妖精の作成に最近こっていて――」  いつものように、魔物と手を結ぶために、そして世界の平和のために、彼らの輪の中に飛び 込んでいった。  ハロウド=グドバイ十六歳。  トゥルスィ=アーキィ十七歳。  夢里皇七郎十五歳。  彼ら三人が、【魔物生態辞典】を創り上げ、世界に名の知らぬ者なき存在となるのは――ま だ、遠い未来の話である。