――それは遠い昔話。  世界が未だ、魔物との理解を放棄していた時代の物語だ。  RPG世界観 魔物生態辞典を作った男たち(過去編)    ■ スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペア ■  強くなる必要があった。  この世界で、胸を張って生きていくために。  この世界で、笑いあって生きていくために。      †   †   †  距離は腕四本分。一歩踏み込めば相手の攻撃があたる、完全に間合いのうちだった。どちら が動いても勝負は決まる。この距離では退くこともできない。下手に姿勢を崩せば、間違いな く追撃を喰らってしまう。選ぶべき道はただ一つ、目の前の相手を打破するだけだ。  方法は二つある。  一つは、先手を取り、相手が動くよりも速く勝負を決めること。  もう一つは、相手が動くのを待ち、敵が痺れをきらして攻めてきた瞬間に還り撃つこと。  どちらにも利点があり、欠点がある。結局のところ、勝負を決めるのは、実力と集中力であ る。いざその瞬間まで、緊張感を保ち続け、俊敏に倒すことができるかどうか。  その意味では――トゥルシィ=アーキィは、その資格があった。  眉一つ動かなさない。垂れた長い前髪は揺れることすらない。重心を後足にかけ、腕をわず かに引きながら、手に持ったレイピアを正面へと向けている。レイピアの先は、一直線に眼前 の敵へと向けられていた。  視線もまた、動かない。鋭い目つきで、敵の動きをつぶさに観察している。氷のように沈黙 しているが――一度動けば、風よりも早くレイピアは敵へと伸びるだろう。  そして、その敵。アーキィが睨みつける相手――ハロウド=グドバイは、不敵に笑っていた 。  吊りあがる口端を隠そうともせずに、むしろ積極的に攻め立てようとしていた。前に踏み出 した足に重心をかけ、張り詰めた弓矢のように構えている。手袋をかぶった両手は何も握って はおらず、軽く開いて指先をアーキィへと向けていた。炎のような戦意に燃える瞳で、アーキ ィの瞳を直視している。  対照的な二人は、けれど同じように、一歩たりとも動かなかった。場に緊張感だけが満ちて く。ハロウドの頬を汗が一筋伝い、わずかに吹く風がアーキィの長い髪を揺らした。  一拍、二拍、心臓の鼓動が秒針代わりになりそうなほどに、ゆっくりと時間が過ぎる。粘性 を帯びた時の中で、緊張感だけが高まっていく。  アーキィは気づいている。ハロウドの足が、じり、じり、と、時よりも遅い速さで動いてい ることに。足先だけを動かし、わずかずつ、気づかれないように距離を詰める。俊敏の対極の 歩法。気づかれずに敵に迫るための術。  が、未だ鍛錬が足りていないのか、アーキィの観察眼が鋭いのか――恐らくはその両方だろ う――ハロウドのそれを、アーキィは見破っていた。  そして、気づかれていることに、ハロウドもまた気づいていた。  相手が気づいているのを承知で間合いを詰める。それはれっきとした挑発であり、戦法だ。 素手のハロウドの間合いはアーキィよりも狭い。超近距離戦闘を好むハロウドにとっては、距 離こそが一番の敵なのだ。  それが分かっているからこそ――アーキィが、動いた。  つぃ、と。  レイピアの先が、わずかに下に下がり、 「……シッ!」  好機とばかりに、ハロウドが跳んだ。前に出した右脚で踏み切り、左手を空中に円を描くよ うに動かしながら左足で着地、 「甘い――」  下に下がったレイピアの先が、湖面を飛ぶ石のように跳ね上がった。踏み込んできたハロウ ドの喉へとまっすぐに伸びる。鋭い一撃は一直線に急所めがけて伸びる。  伸びた先に、ハロウドの首はなかった。 「そうかい!?」  吼えながらハロウドは身を低く、長椅子の下を潜るかのように低い姿勢で跳んでいた。口か ら吐かれた声と息がそのまま活力となる。円を描いた左手は下からすくい取るようにアーキィ の右手をつかみ、右足はアーキィの両脚の間にまで低く踏み込む。  それすらも予期していたように、腰にあててあったアーキィの左手が閃き、  ぐるん、と。  左手が振われるよりも先に、右手を支点に、アーキィの身体が回転した。ハロウドが踏み込 んだ脚でアーキィの右膝を絡めとリ、もつれ込むようにして身体を倒したのだ。  背中から、激しくアーキィは地面に打ちつけられる。舗装されておらず、わずかに草の生え ている踏み固められていない地面は柔らかい。重症にはならないものの、勝敗がついたのは明 らかだった。  アーキィに馬乗りになり、ハロウドは高らかに叫ぶ。 「――やったぞ! アーキィくん、私の勝ちだ! これで二戦一勝だ!」  嬉しそうに言って、ハロウドは立ち上がった。手で拳をつくり、野原の上を飛びまわる。心 底嬉しいらしい。 「二戦一勝なら引き分けだろう」  立ち上がり、背中についた土を払いながらアーキィが応えた。いつもと変わらぬ平静そうな 口調ではあるが、どこか悔しそうな色が混じっている。  傍に落ちていたレイピアをアーキィは拾い、ひゅん、と軽く振った。鋭いはずの先は、丸く 削り刃を落としてあった。実践用のレイピアではない。  訓練、である。  といっても、学院の授業でやるようなものではない。型や兵法を教えるようなものでもない 。実戦形式、一本取ったら勝ち、という野良試合である。そもそも、授業ですらない。  空いた時間を使った、個人的な訓練だった。 「掴んでしまえばどうとでもなるとは……バリツは非道だな」 「何を言うやら。剣だろうが弓だろうが、当たれば痛いことに変わりはないだろう」 「……防御と攻撃が一体化してるから、私には若干不利だな」 「『左手』が間に合えば私も危なかったがね。レイピアの場合は軌道が読めてしまっているか ら、剣速より遅くとも手が間に合う」  距離を置いて、ハロウドとアーキィは互いに反省点を出し合った。半ば感想会にもなってい るが、今では慣例になっていた。  その二人に、三人目が声をかけた。 「近々距離はハロウドさんかなやっぱり――アーキィさんはもう少し距離とって、中距離から やったほうがいいとボクは思いますよ」  切り株に腰をかけ、足をくんで指摘するのは尖った耳の青年、夢里皇七郎だ。着飾れば美少 女だが、いまはいつものように乱雑な格好をしている。不思議な容姿は、人以外の血が多く混 ざっているせいなのだろう。  彼は二人を視野にいれたまま、 「しっかしまあ! ボクの教え方が良かったとはいえ、ハロウドさんがここまでバリツを使え るようになるとはね!」 「教えられ方がよかったのだね、きっと」と、ハロウド。 「二人とも、そういうものは自分で言うものではないよ」  アーキィは呆れたように言って、もう一歩だけ後ろに退いた。三人の距離関係が完全な正三 角形になる。  皇七郎が身体ごとハロウドに向き直り、座ったまま指摘を続ける。 「でも足運びは下手ですね」 「いまだ練習中なのだよ。突っ込む方が性にあっている」 「そう言って壁にぶつかったのは誰だったかね、ハロウドくん」 「はっはっは。アーキィ君、そんなこと憶えていないな」  乾いた声でハロウドは笑い、アーキィが呆れたように肩をすくめた。レイピアを腰につり、 乱れた前髪を手で整える。  その仕草を、皇七郎はちらりと横目で見て、 「ま、ハロウドさん! つまるところ――」 「つまるところ?」  首を傾げるハロウドに、皇七郎はにっこりと笑いかけた。この笑顔に上級生のお姉さま方が 騙されて寄って集まり、意外と性格の悪い皇七郎の実体を知って去っていくのだ。  笑ったまま、指先をつぃ、と振り上げ、 「――遠距離戦じゃあ、まだボクには適いませんね」  振り上げた指先に、光が点る。  指に点る光を見て、ハロウドの表情が固まる。恐る恐る皇七郎を指さし、それから自分自身 を指差して、 「二回戦?」  にっこりと笑って、皇七郎は「イエス」とばかりに頷いた。 「この距離は反則だ――!」  やけくそに叫びながらハロウドが地面を蹴ろうとし、 『――壁よ』  今では失われてしまった言語でそう呟き、つぃ、と、皇七郎が指を振り下ろした。  がん、といい音がした。  同時に、跳ぼうとしたハロウドが地面に転がった。足を踏み込んだ瞬間、目の前にできた見 えない障壁に自分からぶつかってしまったのだ。身体を丸ごと打ち付け、ハロウドが苦痛に悶 えながら地面をごろごろと転がる。顔を思いっきり打ったので痛いだろうが、死にはすまい。  その様を見て、皇七郎は嬉しそうに笑った。アーキィまでもが、口元を手で隠して笑いを抑 えている。 「ボクの勝ち――ですね」  ごろごろと転がっていたハロウドが、ようやく止まった。立ち上がらず、寝転んだまま皇七 郎を睨みつけ、 「……私のバリツよりも……君のソレの方がよっぽど非道いな……」 「生まれつきだからね」  ひょい、と肩を竦める皇七郎。  ――君のソレ。  ただの一言で魔法を実行する――そんな便利な方法があるはずもない。可能だとすれば、あ らかじめ儀式や道具で省略化しているか、今では失われてしまった方法を得るかだ。  皇七郎の使うそれは、後者の究極である。今アーキィたちが使う言語ではない。神話の領域 に伝わる――さながら、エルダーデーモンの始まりがいたような時代に存在したと言われる― ―神代言語。ほとんどのものは、喋るどころか、意味も、存在も知らない言葉だ。  ただの一言で強力な魔法を使い、呪文を連ねることで奇跡を起こすことができるといわれて いる。巨大な天使を召還したり、禁断の邪法を使うことすら可能だ。“あの”魔道装甲・ギガ ンティックメイルも、その時代の産物だといわれている。  エルフ種と人間種と妖精種と龍種のクォーターという複雑な血筋を持つ夢里皇七郎は、生ま れつきにその言語を使える。  彼が神学系を専攻しているのも、自分の根幹を調べたいという願いがあるからなのかもしれ ない――ハロウドとアーキィは、声にこそ出さないものの、内心ではそう思っていた。  そんなことも露知らず、皇七郎はのんきな声でいった。 「ちなみにいいこと教えとくけど。形のないものを投げれるには百年かかるそうだよ、バリツ って」 「……百年は……長い、な……」  連戦で疲れたのか、そう言って、ばったりとハロウドは大の字に転がった。青い空を見たま ま大きく息を吐く。首だけを傾けて、皇七郎とアーキィを見た。  丁度、アーキィがレイピアを持ち直しているところだった。  右手にレイピアを掴みなおしたアーキィは、何気ない風に言った。 「それでは、次は私の番だな」  ひゅん、と軽く右腕を振ると、レイピアがしなって音をたてた。その切っ先を皇七郎へと向 けた。  へ、と間の抜けた声を、皇七郎がもらす。アーキィはその幼い顔を真っ直ぐに見据えて、 「皇七郎くん。一つ忠告をするならば……この距離は、遠距離ではなく中距離だ」  言って、トゥルシィ=アーキィは、地を駆けた。  ――第三戦。 「うわわっ! せこ!」 「君が言うかね」  ハロウドがぼそりと突っ込み、アーキィは慌てて立ち上がる。が、その間にもアーキィは迫 ってきている。今から何をするよりも早く、剣の先は迫るだろう。  けれども、口を動かすほうが――動くよりは、速い。  慌てながらも皇七郎は迫り来るアーキィを睨み、息を吸い込み、 『――壁よ!』  大声で叫び、 「甘い、な」  皇七郎の目の前で、アーキィが真横へと跳んだ。  実際には慣性が働いているため斜め前だったが、皇七郎にはそう見えた。まっすぐに迫って きていたアーキィが、突如として視界の端へと消えたように見えた。ただの一言で生まれた不 可視の壁に、アーキィの長い髪がぎりぎりで触れる。  するりと、壁の横を左からアーキィは潜った。  今度こそ――何かを言う暇すらなかった。 「――チェック・メイトだ」  その言葉と同時に、アーキィのレイピアは、皇七郎の喉元へと添えられていた。  もしもこれが実戦ならば、皇七郎が呪文を唱えようと口を動かした瞬間に、喉を斬られるこ とだろう。魔法使いにとっての最大の急所を、アーキィは違わずに押さえていた。  皇七郎の頬を、汗が伝った。ひくつく顔を見て、アーキィは前髪を整え、レイピアを戻して 腰につりなおした。  私の勝ちだ、と態度で物語っていた。  ボクの負けだ、と実感したのか、皇七郎が頬を膨らませて悔しそうな顔をする。外見とあい まって、ふてくされた子供そのものだった。  薄く笑って、アーキィは言う。 「焦れば、同じ呪文を発作的に使うと思ったよ」 「君の乾杯だな皇七郎君」  ハロウドの言葉に、皇七郎は「わかってますよ!」と不満そうに答えた。不満そうだが、自 分が負けたことは自覚しているのか、足元の切り株を軽く蹴り飛ばした。 「いっそ一目散に逃げ出すべきかな……んで遠くから狙い撃ちとか」 「それか、護衛をつけるべきだね」 「今のは魔法次第では対処できたと思う。選択が悪かったな」  よっ、と気合を入れてハロウドは立ち上がり、アーキィと皇七郎はその傍に寄る。少し下っ たところにある学院校舎の大時計は、次の授業時刻が近いことを示していた。  もうしばらくすれば、学院の上に設置された大鐘が時を鳴らすだろう。  三人は並んで立ち、誰からともなく学院めがけて歩き出す。 「さて、次の時限は、と。ああ、私は実習で《外》だな」 「私も薬学の実習だ。きみと違って中で、おまけに自習だ。ゆっくりいくとしよう」 「あ、ボク次神学講義だ!」  叫んで、皇七郎が立ち止まった。ふと、重大なことを思い出したような顔をして、それから 長い髪をくしゃくしゃと掻き毟り、 「あのバカ教授、ボクのこと嫌ってっるかんな……ああもう、ボク先行くんで!」 「それじゃあまた、夜に会おう」 「転ばぬように気をつけてな!」  二人の返事を聞く間もなく皇七郎は駆け出した。振り返りもせずに、ゆるやかな坂を全力疾 走していく。ハロウドやアーキィよりも背が低い分、足の回転数が多い。小動物のようなすば しっこさで、あっという間に姿が消えてしまった。  台風のように、白衣を着た後ろ姿は見えなくなった。 「…………」 「…………」  なんとなく沈黙が降りる。雰囲気的に『置いていかれた』という印象があった。  黙ったまま、どちらからともなく歩き出した。何も話さないせいで、草を踏む足音がよけい に響く。 「まあ、あれだね」  沈黙を破ったのはアーキィだった。正面を向いて歩いたまま、横を歩くハロウドに言う。 「何はともあれ、背が痛い」 「諦めてくれ。私は全身痛い」  背中から叩きつけられたアーキィと、全身をぶつけたハロウドはぼやきながら歩く。ゆるや かな丘を降り、学院の中庭へと出ると、反対側の扉を皇七郎がくぐるのが見えた。中庭を一直 線に突っ切ったのだろう。 「時間は大丈夫かい?」 「何、私は実習の成績は良くてね」 「実習の成績だけは、の間違いではないのかね」 「はっはっは、実技もそこそこあるさ」 「……君は根気を覚えたほうが良さそうだ」  いつものようにいつもの如く軽口を交わしながらハロウドとアーキィは中庭へと踏み入れる 。中央に噴水のある中庭はこの時間でも生徒が多い。次の時限が休みで遅めの昼食を取るもの 、ぎりぎりまでこの辺りで時間を潰すもの、そもそも授業をサボるっているもの、次の教室へ と急ぐもの。結果として、授業間際の中庭はいつも以上に喧騒があある。  中庭の噴水近くでは、男子生徒が三名楽しそうに談笑していた。声が粗雑で大きいせいで、 近寄る二人のところまで会話が聞こえてくる。 「……さっきの魔物見たか?」  モンスター、の一言に、魔物生態学者を目指す二人の注意が自然を向けられる。  が、男たちの一人がいった次の言葉に、注意ごと意識が固められた。 「ああ、人型のだろ?」 「――――」 「――――」  聞き耳を立てていた二人の足が、止まった。  この中庭で人が立ち止まったくらいでは珍しくもない。三人の男子生徒たちは、笑いながら 会話を続けていた。視線は、背後にいるハロウドたちに向いてはいない。  皇七郎が去っていった扉の方を、三人の男たちは見ている。 「あんなモノが神聖な学び舎にいるなんて、ぞっとしないね」 「まったくだ。魔物は山で肉でも食べてりゃいいのに」 「それか勇者にでも駆除してもらえりゃいいのにな――知ってるか? アレ、龍が混じってる らしいぜ」 「本当か? そのうち、口から火を吐くぞ!」  彼らは、本当に、楽しそうに談笑していた。悪意はきっと無いに違いない。むしろ、彼らに とっては――世界にとっては、これが普通なのだ。別に皇七郎をバカにしているのではない。  人でないというだけで、魔物の血が混ざっているだけで、侮蔑の対象というだけだ。  彼らにとっては――見下し、嘲弄すべき対象だというだけだ。  別に彼ら三人に限った話ではない。ほとんどの者が、彼らと同じような意見を吐くだろう。 常識をもっていれば直接口にはしないでも、心の底ではそう思うだろう。それは、皇七郎の友 人が、ごく少数しかいないことが物語っている。  けれど――仕方ないといえば、仕方ないのだ。  なぜならば。  この時代にはまだ――魔物生態辞典など、ないのだから。  人と魔物が、まだ歩みよっていないのだから。一部の現場以外には、魔物は『わけのわから ない敵』でしかない。学院と名乗っていても、学科が違えば変わらない。たとえ人型をしてい ても、偏見だけは消しようがない。  無知による侮蔑と嘲笑の対象。それはここ、学院においても変わりはなかった。  けれど。  けれども―― 「なあアーキィ君」 「なんだね」 「根気は――この場合、いらないだろう?」  答えも聞かずに、ハロウドは駆け出した。背中を向けて楽しそうに笑う、嫌な笑いを浮かべ る三人の男子の元へと。まったく減速せず、全力で駆け寄り、 「明日のための第一歩――!」  力の限りに、そのまま飛び蹴りを喰らわせた。  ――魔物そのものを、そして親友を馬鹿にされて、黙っていられるような彼らではなかった。  全体重をかけた、惚れ惚れするようなとび蹴りだった。身体が一直線に伸び、質量と速度を まるごと男の背中にたたきつけた。実際、その光景を見ていたルージュ(格闘科の生徒)は、 思わず「おー」という感嘆の声と拍手を送ってしまったほどだ。  恐らく蹴られた彼は、自分が何をされたか気づく暇もなかっただろう。勢いよく地面に叩き つけられ、そのまま遠くまで転がって、ぴくりとも動かなかった。不意打ちが、すがすがしい くらいに見事に決まっていた。  呆気にとられる二人の目の前に着地し、ハロウドは楽しそうに笑った。 「まったく。これくらい避けきれなくてどうするんだね」  完全な不意打ちに全力を注いどいて何をかってな――二人の男の頭にそんな言葉が浮かぶが 、あまりの事態に口まで出てこなかった。  結局、口から出てきたのは、あまりにも陳腐な恫喝だった。 「――ってめぇ!」  反射的な行動だったのだろう。  右側に立っていた男が、ハロウドめがけて拳を振り上げた。体重を乗せ、勢いよく男は拳を 突き出す。  突き出した先に、ハロウドはいない。  どころか、男に背中を向けていた。身を屈め、男の腹に背をつけるようにしてもぐりこみ、 突き出した右手をつかまれ、  ――気づけば、男は宙を舞っていた。 「少し、頭を冷やしたまえ」  その言葉が、男が聞いた最後の言葉だった。次の瞬間には、ハロウドに投げ飛ばされて、噴 水の中へと叩きつけられていた。軽い脳震盪を起こしたせいで、膝ほどまでしかない噴水の中 で男はもがく。  その男を放って、ハロウドは一仕事したとばかり、手をぱん、ぱん、と叩いた。  そして、三人目。  三人目の男は――そもそも、動くことができなかった。 「…………」  男は沈黙したまま、動くこともできない。  なぜならば、その首元には、 「動けば、痛い目にあうことを私の名において約束しよう」  薄く笑うアーキィのレイピアが突きつけられているからだ。  いくら訓練用とはいえ、全力でつきこまれたら喉がつぶれるくらいはする。何よりも、アー キィの態度から感じられる『本気』に、男は動けなかった。 「いきなり……何しやがる!」  それでもどうにか、男は悪態をついた。動かせるのが口しかないのだから、悪態をつくのは 道理だった。 「なぜ?」  アーキィは瞳を細くし、ハロウドは不思議そうな顔をした。  そして、レイピアをつきつけたまま、アーキィは言う。 「学友を侮辱されて、黙っていろと?」 「あいつは人じゃないだろうが!」 「人じゃないとも。それが何かの問題かね」  答えたのはハロウドだった。言って、男の背へと一歩歩みでる。  ――挟撃。 「ったりまぇだろ!」  その形がまずいと思ったのか、それとも自身の実力を信じたのか、男は動いた。アーキィの レイピアをはねのけるように首を振り、潜るようにして内側に入る。たしかにその動きは機敏 だった。彼は恐らく、戦闘系の学科に所属しているのだろう。拳を握り、アーキィのレイピア を持つ手へと振る。相手の武器を落とすことを目的とした一撃。  その一撃を――アーキィは、レイピアの腹で触れるようにして受け流し。 「痛い目にあわないと、自分が何を間違えたかも分からないらしいな」  姿勢が横に流れたところに、アーキィが左手で腰から引き抜いた、二本目の短剣――その腹 が、男の額に叩きつけられた。         †   †   † 「……ハロウドさん、アーキィさん。何ですその有様?」 『別に』  夕刻時、宿舎に戻ってきた皇七郎の質問に、アーキィとハロウドは異口同音に答えた。一糸 乱れる発声、とはまさにこのことなのだろう。  椅子に座って、本から視線をそらさないところまで同じだった。顔や手などむき出しの部分 には包帯が巻かれていたり消毒されていたりするのに、それが当然のように振舞っている  怪しすぎて、逆に何も言えなかった。 「…………ま、いいんですけどね別に。ケンカでもしたんですか?」  それだけ言って、皇七郎は鞄を机の上に放り出した。その様子を横目でちらりと、アーキィ とハロウドがまったく同時に見る。皇七郎は鞄の中身を机に出しながら、 「そういえば聞きましたよ、何でも昼に中庭で乱闘騒ぎを起こした生徒がいるそうじゃないで すか」  アーキィが、そしらぬ顔で本に視線を起こした。頁をまったく捲ろうとしない。  ハロウドが、真顔で窓の外を見たまま「いい陽だ」と呟いた。もう夜だというのに。  二人の行動に何も言わず、皇七郎は鞄の中身を片付けるべく手を動かしながら続ける。 「ケガして魔法治療禁止と謹慎の罰まで与えられたそうですね。もっとも――相手の生徒側を 完膚なきまでにぼこぼこにしてその程度ってんだから、きっと理由があったんでしょーね、ボ クには知りえませんですけど」  鞄の中身を全部仕舞い終え、最後に鞄の奥から財布を取り出して、皇七郎はくるりと振り返 った。  そ知らぬふりを続ける二人を見て、皇七郎は笑う。 「なんでも『友達を侮辱されたから』そこまでやったそうですよ。今どきいるんですね、そう いう熱血系が」  やれやれ、とでも言いたげな。  どこか嬉しそうな――笑みだった。  笑って、皇七郎は言う。 「さて、お二方。――飯でも食べにいきませんかね? ボク、お腹すいてるんですよ。たまに は《外》のの銀龍亭まで、こっそりどうです?」 「勿論だとも」 「異論はない」  ハロウドとアーキィがまったく同時に立ち上がり、左右から皇七郎の小さな身体を抱き上げ た。「わっ」と小さな驚きの声をあげて、皇七郎が宙に浮く。 「さーぱーっといこうぱーっと! 明日の活力を求めるために!」 「呑みすぎるのだけは止めておくれよ――ふむ、野暮かね?」 「そのときはそのとき! さあさあ皇七郎くん、急げ急げ! 夜は始まったばっかりだがすぐ に終わるぞ!」 「世は全てこともなし。さて、楽しくいこうではないか」  左右の男は苦笑しながら交互に言う。その二人を見上げて、皇七郎も笑う。  人でないとしても――この世でもっとも、嬉しそうな笑顔だった。