■選ぶべき道(後編)  カイル=F=セイラムは、一刀遣いだ。ただの一振り。姫君から授かった名もなきロングソ ードだけを頼りに、戦場という戦場を駆け抜けてきた。力でも重さでもなく、風の如き速さを 以って、戦場を駆け抜けてきた。その果てに、この聖騎士の塔にいる。  だが――今、カイルの前にいる、『最強のカイル』は。  黒い旋風は、二本の剣を構えている。  右手に、黒き剣イグニファイ。  左手に、白き剣ロングソード。  名のある名剣と、名もなき信念の形。二刀をもって黒い旋風は立ちはだかっている。その姿 に、何ら付け入る隙はない。今カイルが同じように二刀を持った所で、同じように構えること はできないだろう。五年後だとしても、できるかどうかは疑わしい。  けれど――十年以上、その戦いを続けてきた、未来のカイルは。  もはや二刀を、自身の手足のように扱うことができるだろう。指先の些細な動作ですら、敵 対する者にとっては致命的な動作になるに違いない。生半可な力で使えるようなものではない のだ。  右で受ければ左で殺される。  左で受ければ右で殺される。  後ろに退いても剣は届き。  前に進めば、十の字に分割される。  攻めるにしろ、守るにしろ、圧倒的に不利であることをカイルは自覚していた。否、相手が 二刀を構えるまでもなく、実力差があることははっきりしているのだ。  それでも、負けられないからこそ、カイルは此処にいる。  逃げることなく、ここにいるのだ。  相手が最高の技でくるというのならば――自分もまた、己に出来える最高で挑むだけだ。  いつものように。 「こないのかい」 「いえ――いきます」  カイルは剣を上段に構えた。降りぬくような、背負うような構え。全力と全体重を一刀にか けて切り崩す構え。防御も逃走も考えない、攻撃に全てをかけた構え。  それを見て、黒い旋風の顔に微かな笑みが浮かぶ。黒き鎧を着た聖騎士は、二刀を、十文字 のように交差して構えた。剣の先が、わずかに動く。 「心は姫君のもとに――」  黒い旋風が唱える。 「剣は信念のもとに――」  カイルが唱える。  そして、二人は。 『カイル=F=セイラム――参る!』  二人のカイルは、同時に駆け出した。  カイルは前へ、前へ、前へと。そして、黒い旋風は―― 「分裂斬撃――」  カイルの目の前で、黒い旋風は真横にかけたように見えた。実際には、前へと走りながら左 右に分身したせいで、斜め前に移動していたのだが、動きが速すぎて、分裂した瞬間が見えな かった。  とはいえ、  ――予想通り!   剣を握る手に力を込めて、カイルは内心でほぞを踏む。黒い旋風がダブルスラッシュで来る ことは十分に予想できることだった。彼が最期の手でくるといった以上、増えることは紛れも ない事実だった。その上で、最高の剣技を繰り出してくるのだろう。  勝算は、ないわけでもない。  黒い旋風を倒すのが目的ならばともかく、敵に一太刀、己の信念を叩きつけるのが目的の今 ならば、十分に勝負になる。分裂斬撃とは、つまるところ高速で移動することによって『二人 』に見えるようにする技だ。攻撃の出所を分かりにくくし、攻撃をふさがれにくくする。  防ぐつもりなど、最初からなかった。  高速で斬りむすんでいる以上どちらも本物なのだ。普通の忍者ならば攻撃の瞬間には一人に 戻るものだが、さすがというべきか――カイルは剣を降りぬく瞬間まで二人の姿が見えた。そ のことは、先の攻撃で確認している。  ならば――最初から、一人のみに目標を絞ればいい。もう一人の射程外から離れ、黒い旋風 が攻撃態勢に入るよりも早く、片方と切り結ぶ。移動に能力を割いているうちに、こちらは全 力をもって攻撃する。  それが、最初の攻撃をぎりぎりで交わしたカイルが、戦いの中で見出した最善の策だった。 確かに黒い旋風のいうように、あの状況での観察眼はほめるべきものがある。  だが――しかし。  若いカイルには、知らえなかったのだ。 「――多重残影!」  人間の可能性が、どれほどまでに広がっているのかを。 「っあ!?」  一瞬が永遠に引き伸ばされるような、奇妙な感覚の中でカイルは見た。互いに駆け出した以 上、一秒とかからず会敵するはずなのに――意識だけが延長されて、むしろその光景はゆっく りと見えた。  二人に分身した黒い聖騎士が。  さらに、倍になるのを。  二刀を構えた聖騎士・黒い旋風が、部屋の四隅を守るように四人に分裂する光景を、カイル は確かに見た。  四人の黒い聖騎士が、声を揃えて叫ぶ。 「さぁ受けてみろ、カイル=F=セイラム! これを受け切れたのなら『聖騎士』をやろう!」  その声を、カイルは、全方位から聞いた。  もはや前に黒い聖騎士の姿は見えない。代わりに、四方の全てに、黒い旋風はいるのだ。  いまさら止まることは許されない。わずか一瞬の間に、カイルは黒い旋風が如何なる技を遣 うのか理解していた。その技が最悪なものだからこそ、もはや正面から切り結ぶしかない。  多重残影。  ドッペルと呼ばれる人類に使える最高技の一つ。速度の壁を超越し、超越した先をさらに乗 り越えることにより――人の身でありながら時の女神に干渉し、時空を歪めて多重に存在する ことができる奥義。分裂ではなく、今まさにこの瞬間、『二人の黒い旋風』がそこにいるのだ 。  四人の黒い旋風は、まったくの同時に中央にいるカイルへと切りかかる。  カイル=F=セイラムのみが使い得る――正しく、奥義。  二人が分裂し、四人。計八刀の剣が、四方から円を描き、旋風のように迫ってくることから 、その技は遠い未来でこう呼ばれている。 「             黒            旋             」  ――黒い風と共に、衝撃がきた。  四方から渦を巻くように、カイルの周りを黒い光が走った。四人の黒い旋風は中央――カイ ルがいる場所――で一点に集まり、再び遠くへと離れていく。部屋のすべてが剣の射程となる 、逃げ場すら存在しない必殺奥義。  カイルは。  カイル=F=セイラムは、なすすべもなく、全方位から切り刻まれた。  切り落とされた左腕が――宙を舞った。  黒い旋風に高速でかき回されたせいで、部屋の中の空気は乱れに乱れていた。窓一つないは ずの部屋は、今この瞬間は暴風域に陥っていた。いくつもの方向から吹く激風によって、肌が 切れてしまいそうになる。斬り飛ばされた腕が宙を舞う。  高速で剣を振り抜き――振りぬいた姿勢のまま、黒い旋風は壁際まで滑ってようやく止まっ た。切り抜いて高速で駆け去ることこそに、この技の真価はある。黒い旋風が移動をやめたこ とによって、残像と分身が消え一人に戻る。  ただ一人残った黒い旋風。その右手に持つ黒い剣イグニファイは、ぬるりと赤く濡れている 。  赤い血で――濡れている。  黒い旋風はイグニファイを振い、剣についた血を払った。剣速が速すぎて、血だけが取り残 されてしまったかのような光景だった。  それを切っ掛けとしたように――吹き荒れていた、風が消える。  ふたたび部屋に静寂が舞い戻る。黒い旋風は、無表情のままに室内を振り返った。手にはま だ、カイルを斬った感触が残っている。  表情は変わらない。自分自身を斬った黒い旋風は、何ひとつとして表情を浮かべぬままに、 五階の室内を見た。  部屋の中央にはは、カイルの細腕が転がっている。  そして――カイルの、姿は、どこにもなかた。 「単剣――――」  声は、真上からきた。  いくら黒い旋風といえど――奥義を出した後のわずかな硬直で、いきなり高速移動をするこ とはできなかった。脊髄反射に逆らうことができず、意識せずに顔が上を向いてしまう。  真上にいたのは、他の誰でもない。  全身を切り刻まれたはずの――カイル=F=セイラムだった。左腕はない。付け根から失わ れたその場所は、今は手ではなく、だくだくと、濁々と、膨大な量の血が流れ落ちている。  それでも、カイルは、真っ直ぐに黒い旋風を見据えていた。右手のみでロングソードを背負 い、空中で前周りをするようにして振り下ろす――黒い旋風が見上げたのは、まさにその瞬間 だった。  どんな行動も、間に合うはずはない。  カイルは、最期の力を残らず振りし切り、剣を―― 「――崩ら――」  振り下ろす瞬間に、力は、尽きた。 「…………」  振り抜くことができず、カイルは意識を消失して地面に落下した。受身もなにもとれない、 墜落としかいいようがない動きだった。掴んだままの名もないロングソードが、黒い旋風の黒 き鎧にぶつかる。それはぶつかっただけで、とてもではないが斬撃とはいえなかった。鎧にか すかに線上の跡がついただけで、傷すらついていない。少し手でこすれば、その跡も消え去る だろう。  ただ、ぶつけただけだ。  それでも。  それでも――地面に倒れ、ぴくりとも動かないカイルの手は、しっかりとロングソードを掴 んだまま、離そうとはしていなかった。  意識など、ないはずなのに。 「…………」  その様を、黒い旋風はじっと見下ろした。地面に伏し、左肩からなおも血を流し、今にも死 にかけている遠い過去の自分を、黒い旋風は見下ろした。  見下ろしたまま、二人のカイルは動かない。  動こうとも、しない。  だから、最初に動いたのは、二人のカイルのどちらでもなく。  ――凄いじゃん。  ぱち、ぱち、ぱち、と。  拍手をしながら、黒い旋風に駆け寄ってきた、因幡 ましろだった。ましろはとててててて てててと駆け寄り、倒れ伏したカイルの左肩をグローブでそっと撫でた。  途端に――血が止まる。  止まっただけではない。失われたはずの左腕が、何事もなかったかのように生えていた。そ れどころか、血の気を失っていた顔までが赤みを取り戻している。  地面を濡らす血だけが、先の傷が幻ではなかったことを示していた。  時の女神、イナヴァにとっては、人一人の時間を巻き戻すことなど、造作もないのだろう。 「す、」  その行為を見ながら、黒い旋風は、ようやく口を開いた。 「凄いな、僕は! いや、人事みたいだけど、人事じゃないけど!」  昔のように、『僕』と言って。  カイルは子供のように破顔した。喜べばいいのか驚けばいいのか分からないような表情をし て、落ち着きなく辺りを見回した。完全に動揺している。放っておけば万歳三唱でもしそうな 勢いだった。  ――ちょっと落ち着けい。  その足を因幡さんがさっと払う。先の威圧はどこへいったのか、避けることもできずに黒い 旋風は頭から床にぶつかった。そのまま床をごろごろと転がり、起き上がって、惚けたような 顔をして――倒れ伏したままの、若い自身を見た。 「いや、まさか……一太刀入れるならともかく、『分裂斬撃』まで使うなんて」  心底感嘆した声で、黒い旋風は言う。  そう。  たった今カイルが使ったのは、間違いなく分裂斬撃だった。影分身。もちろん、そんな技を 、この時点のカイルは取得してはいない。恐らく、今回が初めて使ったのだろう。  ――だから私たちが最期に選ぶべき手段は、自らが取得し、使い続ける『己の技』に他なら ない。最期だからこそ、いつも通りに私たちは戦うのだ。  戦いにあたって、黒い旋風はそう告げた。新たな必殺技を試すのは剣士であり、奇策を用い るのは魔術師だとも言った。  その通りだと黒い旋風も思うし、カイルも思ったことだろう。  だからこそ、カイルは――分裂斬撃を使ったのだ。  その技は、他の誰でもない、カイル=F=セイラムが、使うことのできる技なのだから。い つかが、次の一瞬ではないとは言い切れない。使えるかどうか分からない、ではない。いつか は、必ずできるのだ。  その生きた見本が、目の前にいたのだから。  あとは、力量次第だ。  カイルは、一度見た黒い旋風の技を、自身の技を再現するべく、それこそ全力を出し切った に違いない。接触の瞬間、四方に逃げ場がないことを知り、とっさの判断で上へと跳んだ。そ して、振りぬいて背中を見せた黒い旋風目掛けて天井を蹴ったのだ。  そして――その剣を、届かせた。  その覚悟と行動に黒い旋風は感心する。  けれど、何よりも感心している点は、その技を使ったことそのものではない。  左腕を斬られた点だ。  あれは技が未熟だから喰らったのではない。斬られた感触を相手に与えるために、完全に避 けられたことを悟られないために、わざと斬られたのだ。左腕を捨てることで、ただの一太刀 の機会を作る。実際、何も斬っていないことを感触で知れば、黒い旋風は止まることなく連続 で『黒旋』を使用したことだろう。  けれど、そうはならなかった。  与えられた条件の中で――カイル=F=セイラムは、最善を尽くしたのだ。 「いや……うん、凄い。我が事ながら、よくやったってほめてあげたいね」  ――自画自賛? 「まさか。いや……でもそういうことになるのかな?」  ――さぁねぇ〜。  戦いの雰囲気を完全に取り払い、黒い旋風と因幡は和やかに会話する。もともと波長があっ ているのかもしれない。  黒い旋風は、小さなウサギ耳の少女から目をそらさずに、尋ねる。 「合格ですか?」  因幡ましろは、黒い聖騎士を見たまま、にやりと笑った。  ――さぁねん。  くすくすと笑い、  ――それは、本人が知ってることだよん。 「……そうですね」  言って、黒い旋風も笑った。  騎士の役目は、勝つことではない。  騎士の役割は、負けないことでもない。  騎士は――守るためにいるのだから。  何を守るかは、人次第だけれども。 「カイル=F=セイラムは、全てを出し切りました。『資格』は十分でしょう。僕の出番も、 これで終わりです。あとは……」  ――そう、あとは。  因幡 ましろは、黒い旋風から視線を逸らす。その瞳が見るのは、穏やかに眠っているよう にしか見えないカイル=F=セイラムだ。  母親のように優しい顔つきで見ながら、因幡 ましろは明瞭と言った。  ――最期の試練だけだね。         †   †   †  ――いつまで寝てるのさ。  その言葉と共に起こされた。鎧の隙間から下腹に突き刺さるような、痛烈な一撃だった。威 力そのものはなくとも、ものすごく嫌な位置に決まった。突き刺さる痛みにカイルは悶絶し、 その痛みでようやく目が覚めた。  身体を起こすと、見知らぬ部屋だった。  自分の部屋か、あるいは騎士団の訓練場かと思ったら、違った。四方に渡って何もない、換 算とした部屋。天井はそう高くはなく、窓もないというのに、圧迫感を感じない不思議な部屋 だ――そこまで考えて、カイルは『見知らぬ』部屋ではないことに気づく。  聖騎士の塔、その五階だ。  ――起きてるー? 寝てる?  ぽん、ぽん、と手袋で頭を叩かれても、カイルは反応できない。まだどこか夢の中にいるよ うな気がした。記憶と意識がはっきりしない。黒い聖騎士と戦ったところまでは憶えている。 そこから先があやふやだった。確か、相手の奥義を受けて、反撃しようとして――そこで、記 憶はぷっつりと途切れた。  考えられることは一つしかない。  ――試練クリア、おめでとさん。  負けたのか、と言おうとした瞬間を見計らったようなタイミングで、因幡 ましろはそう告 げた。嬉しそうでも悲しそうでもない、『今日の天気は晴れですね』とでも言っているような 口調だった。  そのせいで、何を言われたのか、すぐには分からなかった。  呆けた顔をするカイルの頭を、因幡さんはもうニ、三度叩き、  ――聖騎士の塔、五階突破だよん。  ようやく、その言葉が、実感として頭にしみこんできた。  染み込むと同時に、疑問が湧いた。納得がいかない、という強い思いに衝き動かされるよう にカイルは尋ねる。 「でも――僕は……勝てませんでした」  因幡 ましろは、即答した。  ――当たり前じゃん。 「え」  ――もとから勝てるわけないんだから。そもそもね、五階の試練は、勝敗で決めないの。あ んたは全力を出して、手を届かせた。それでいいのさ。 「…………」  因幡 ましろは言う。  勝てばそれでいいのではない。  負ければそれで終わりでもない。  カイル=F=セイラムは、全てを出し切って――決して今は届かないはずの領域に、手を届 かせた。それでいいのだ、と因幡は言うのだ。  その言葉を、カイルは、ゆっくりと噛み砕いた。確かにこの試練は、不可能を可能にしろと いわれるようなものだ。始めから、カイルだって勝てるとは思っていなかった。ただ、因幡の 言葉から、読みとれることはあった。  ようするに―― 「僕の剣は、届いたんですね」  因幡ましろはその言葉に答えず、にやりと、含みありげに笑うばかりだった。にやにや笑い は猫のものだというが、ウサギの因幡にもよく似合っていた。はっきりと答えてはいないもの の、その笑いは、明確に物語っていた。  あんたは良くやったよ、と。  その笑みを見ながら、カイルも微笑んでしまう。自分よりも五つは幼い少女とこんなところ で話しているのが面白かったのだ。先までの戦いが嘘のようだった。  嵐のような闘争は、ようやく終わったのだ。  実感が、遅れてやってきた。確実に死ぬと思ったし、死ななかったことが不思議に思えるく らいの戦いだった。左腕を切り落とされたことも、  左上。  カイルは慌てて右手で左腕に手を伸ばした。あの時、黒い旋風に切り落とされたはずの左腕 は、今も根元からきちんとついていた。左腕を握って、開いて、握ってと幾度か動かしてみる 。違和感なく動かすことができた。 「腕がある……」  因幡 ましろはにやりと笑い、  ――足りないならもう一本くらい増やしてあげよっか? 「いい! いいです遠慮しときます!」  冗談だとは思うものの、本気でやられそうな気がして慌ててそう言った。床を跳ねるように して立ち上がり、手足を叩いて異常がないことを確認する。見た目は無事でも折れていたり腫 れていたり、最悪叩いても痛覚がなかったら赤信号だ。幸いにもそういうことはなく、五階に 昇る前よりも調子が良いくらいだった。  因幡 ましろが治してくれたのだろう。本人いわく『時の女神』だ。まったくもって信じ難 いが、それが本当なら、怪我を治すことくらいは容易いだろう。正確には、怪我をする前まで 時間を戻す、かもしれないが。  一応、言っておくことにした。 「ありがとう」  カイルの礼に、因幡はにこっと笑って「いえいえ」と恥かしそうに頭を掻いた。  未だ握ったままだった剣を収める。気絶しながらも手放さなかったことは我ながら褒められ ることだけど、下手をしたら自分の身体を傷つけているところだった。酔っ払って自分の首を 斬った騎士の話を思い出してぞっとする。  改めて部屋の中を見渡してみる。あれだけの戦いが起きたというのに、地面が割れたり天井 が裂けたりということはない。壁や床の素材も、『時間』で出来ているのかもしれない。  ただし、部屋の中には、先までは存在しないものがあった。  部屋の中央――丁度、黒旋の破壊力が一点に集中した場所だ――には、見覚えのないものが 、どんと置いてあった。  鏡だ。  小さな鏡ではない。人の背よりも高い、真円状の姿見だ。剣のからみ合うモチーフで出来た 枠には、一から十二の数が記されていた。時計を模した鏡、というわけらしい。  何時の間に、と思う反面、なんでもありだな、とも思った。  ――気になる?  カイルの視線を読んだのか、横に立つイナバさんが口を挟んできた。カイルはちらりと視線 を戻し、胸ほどまでしか背のない少女の瞳を覗き返し、 「そりゃ、少しは……いや、かなり気にはなってる」  どちらかといえば、悪い方で気になっている。こんなときにこんなところに出てきたものが 、ろくでもあるもののはずがない。間違いなくろくでもないものだ。  案の定、因幡 ましろはにやりと笑い、          ・・・・・・・・・・・  ――見ていいよ。あれが最期の試験だから。  そんな、とんでもないことをさらりと口走った。 「…………え」  あまりにも自然すぎたので――あるいは脳が考えるのを拒否したせいか――カイルは問い返 してみる。が、因幡はにやにやと笑うばかりで答えようとしない。そればかりか、カイルの側 を抜けて、鏡の横に立った。  鏡の脇から顔を出して、カイルを見遣りながら、因幡は言う。  ――さ、早く早く。聖騎士になるかどうかが、これで決まるんだから。 「さ」  ――さ? 「さっきので終わりじゃなかったのか!?」  思わず怒鳴ってしまった。さっきの激闘が、名実ともに最期の試練と呼ぶべきものに相応し いものだと思っていたのに。まさかこの先にまで何かが待っているとは思わなかった。  +が、因幡は気にした様子もなかった。ふふふーと笑い、  ――たとえ最期の試練を破っても、悪の心ある限り第二、第三の試練が蘇るだろう…… 「そんなハロウドさんみたいなセリフはいいですから! 本当に試練が何度も何度も続くんな らいくら僕でも怒りますよ!?」  ――冗談よ冗談。  怒り狂うカイルにも動じることなく、因幡さんは手をぱたぱたと上下に振った。そして、彼 女を知っている人ならば信じられないくらいに真顔になって、カイルに言う。  ――さっきのは、最期の試練。これで貴方は、聖騎士に『成る』ことができる。これは、な るかならないか、貴方が自身で決める『最期の試験』。 「つまり……」カイルは少しだけ考え、「意思次第で、もう聖騎士になることができるんです か? あとは、僕が選ぶだけだと?  ――そういうこと。これを見て、貴方は、選ばないといけない。  ――どちらかを、選ばなくてはいけない。 「…………」  その言葉に含まれた妙な気配にカイルは気付いていた。脅されているわけではない。脅され ているわけでもないのに、奇妙な圧迫感があった。因幡 ましろの言うべきことが、まるで世 界の運命を握っているかのような、そんな錯覚すら憶えた。  錯覚だと、良いのだけれど。  とても錯覚だとは思えなかったけれど、ここまできて立ち止まるわけにはいかない。カイル は恐る恐る、足元を確めるような足取りで、鏡の前に立った。  覗きこむのには、覚悟が要った。  それでもカイルは、真正面から、逃げることなく姿見を覗き込んだ。  鏡の中には――カイル=F=セイラムがいた。  当たり前だ、姿を映すのが鏡なのだから。自分自身が映らなければ、それは鏡ではない。  そう、それは正しく、自身を映す鏡だった。  ただし―― 「…………」  違和感には、考えるまでもなく気付いた。鏡に映っているのはカイルだったが、鎧が違った 。黒い鎧、黒い剣と白い剣の双剣。ただし、先ほど戦った「黒い旋風」ほど歳をとってもいな い。顔つきは、まだ若い。今からそう何年も立っているようには見えなかった。  カイルの見ている中で、鏡の中の景色はゆっくりと動いていく。どうやら静止画ではなく動 画らしい。鏡に映る景色は、殺風景な塔の部屋ではなく、どこか外のようだった。町か――王 国か。人工物が並んでいるのが見える。そこを、若き黒い旋風は胸を張って歩いていた。  どこか誇らしげな表情をしているのは、何か、大きな仕事をやり遂げたからなのだろうか。 「これは……?」  未来を映す鏡――なのだろう。12の時といい、この場所といい、時の女神イナヴァといい 、そのことは予想がついた。ただ――何のために、それを見るのかが、分からなかった。  ――しっ、よく見て。  真顔のまま因幡が言う。強い口調に逆らうことができず、カイルは鏡の中の自身を注視した 。  鏡の中。  若き聖騎士は、黒い旋風は、カイル=F=セイラムは、胸を張って、誇らしげに歩いている 。その足が、急に止まった。  後ろから、誰かが来たのだろう。若き聖騎士は立ち止まり、振り返った。 「――ッ!?」  鏡の中の光景に、カイルは息を呑んだ。  振り返った、その、腹に――深々と。  剣が、突き刺さっていた。  その光景を最期に、鏡の中の光景は途絶えた。鏡自体が放っていた光すら消え――もはや普 通の鏡としてしか残っていなかった。  鏡には、カイルがうつっている。未来のカイルでも、死んだカイルでもない。生きている、 聖騎士の塔に挑んでいる、カイル=F=セイラムの姿が。  その顔は、真っ青だった。  蒼を通り越して、白にすら見えた。  今眼にした光景が、いったいどんな意味を持つのか――考えることすらできなかった。  そのカイルを、どこか悲しげな目でみながら、因幡 ましろが言う。  ――それが、あなたの未来。あなたが戦った、「未来の可能性」としての姿とは違って…… 絶対に、訪れる未来。  そこで因幡ましろは、ひと呼吸置いた。カイルが理解するための時間を空けているかのよう だった。  ゆっくりと、因幡は言葉を続ける。  ――確実な、あなたの『死』の姿。  それは――明確な、死刑宣告だった。  カイル=F=セイラムは、この日、このように死ぬのだと、はっきりと運命を告げられたに 等しかった。人はいつかは死ぬ。けれど、いつ死ぬかは分からないからこそ、今日という日を 生きている。自分の死を明確に知るものなど一人もいない。  ましてや画像の中のカイルは、まだ若かった。それはつまり―― 「僕は……少なくとも、数年のうちに……、」  ――うん、死ぬ。  嘘をつくことなく、因幡は告げる。  その簡素さに、カイルはどこかすっきりしたものを憶えた。誤魔化すよりも、わかりきって いることをわかりやすく言ってもらえた方が嬉しかった。  自分が、死ぬ。  そのことに、実感を持てるはずもなかった。ただ、時の女神イナヴァがいう以上、それは嘘 でも冗談でもなく、本当のことなのだろう。  カイル=F=セイラムは。  後ろから、味方に刺されて死ぬのだ。  それがどういう経緯でそうなるのかは知らなくとも、それだけは鏡に映った光景から分かっ た。そう遠くない未来に、敵ではなく、味方に殺されるのだ。 「…………」  悲しいのか、怒りたいのか、分からなかった。  死ぬことが怖いのか、怖くないのかすら、よく分からなかった。  心にあるのは、『――そっかあ』という、奇妙な諦めにも似た納得だけだった。  戦いに身をおく以上、いつ死ぬかなど最初から覚悟しておくべきことだ。そもそも、今日こ の聖騎士の塔で命を落とすとすら思っていた。明確に記されたところで――戸惑いだけがあっ た。  けれど、次に因幡が言った言葉に、カイルは更に戸惑いは覚えた。  ――でも、この未来はまだ確定してないよん。 「……どういうことです?」  ――あなたの選択次第では、回避することができる。  選択。  その言葉に、カイルは思い出す。因幡ましろは、確かに、選び取れ、といった。この状況で 選びとることなど、考えるまでもないだろう。  即ち――生きるか、死ぬかだ。  カイルの表情をつぶさに観察しつつ、因幡は言う。  ――あなたの選ぶ道は二つ。『聖騎士になって死ぬ』か、『聖騎士を捨てて生きる』かの二 つ。 「…………」  ――聖騎士になるためには、この階での記憶を置いていく必要があるの。全てを忘れて―― 鏡に映った通りに、確実に死ぬ。 「…………」  ――剣を捨てれば、記憶を持って帰れる。自分の死を回避できる。でも――聖騎士にはなれ ない」 「…………」  因幡の言葉に合わせて、真っ黒の鏡の中に浮かび上がるものがあった。  剣だ。  闇よりもなお暗い、漆黒の剣。黒い旋風が使っていたものとまったく同一のものだった。  黒いオリハルコンの剣、イグニファイがそこにあった。  鏡の中に浮遊する剣はたしかに現実感を伴っている。手を伸ばせば、届きそうなほどに。  カイルは、剣を見ている。  剣を見るカイルを見て、因幡は言う。  ――剣を取るか、命を取るか。サァ、どっち?  考える――までもなかった。  だからカイルは考えなかった。考える代わりに、今までに出会った人のことを、走馬灯のよ うに思い出した。死を目前にして思い返すように、すべての人たちのことを思い返してみた。 父と母に始まる家族たち、騎士の友人、騎士の仕事で出会った人々、奇妙な魔物生態学者たち に魔物、数多くの仲間と、同じ数の敵たちを。  そして、最期に。  姫君のことを、思いうかべた。 「……まあ、ほんとに、考えるまでもないんですけどね」  ――んん? 「剣を捨てて逃げ帰ったら――二度と、騎士にはなれませんよね。聖騎士でなくとも騎士を続 ける……なんて、そんなことが、できるはずもないです」  ――まあね。  因幡の頷く通り、そんなことはできるはずもない。  守るべき剣を捨て――逃げ帰ったものが、戦うことなどできるはずもない。生きることはで きても、生きること以外に、何ができるというのだろう。  前に進めば、待つのは確実な死だ。  だからこそ、カイルは思うのだ。  それがどうした、と。  そんなことはとっくに――そう、あの幼い日、姫君から名もないロングソードを授かったと きから、覚悟している。  剣を捨てるときは、死ぬときだ。  死ぬことが、守らない理由に、なるはずもない。  死ぬことは怖くない。怖いことは、守れないことだ。  守るために死ぬのではなく。  いつ死ぬとしても、守るために生きるからこそ――騎士なのだから。 「……。心は姫君のもとに、剣は信念のもとに」  声に、奮えはなかった。  声に、惑いはなかった。  真っ直ぐに――真っ直ぐに、視線を逸らさず、カイルは剣を見る。  黒い剣が、カイルを待っている。  死が、カイルを呼んでいる。  けれど。  死では――風を押しとめることなど、できるはずもなかった。 「カイル=F=セイラム。いざ――参ります」  そしてカイルは剣を取った。      †   †   †  黒い旋風と呼ばれた聖騎士カイル=F=セイラムが王国の味方によって裏切られ、死亡する のは、この三年後のことである。 選ぶべき道・END。