広がる砂の海。そこへ、月光を遮って影を落とすものがある。空を突き進むそれはただ ひたすらに西へ、西へ、西へと。  銀鱗龍シャルヴィルトは、夕刻より一晩中そうしている。月に照り返された背は銀に輝 き、その上には四人の男女。二人の男、一人の女、そして鈍色の体躯の四人目には……頭 が無かった。  魔力の壁によって防護された彼女の上では激しい気流も音もなく、ぽっかりとそこだけ が夜の静寂で、何かを磨く布の擦れる音がたまに聞こえるのみである。  起きているのはディーンだけだ。ゼノビアと『男』は既に就寝しており、ジャックスも また転がされたただの鎧のように動かない。彼一人だけが、汚れで機能障害を起こしてい たジャックスの頭部を布でもって拭いていた。  静かだった。  だから彼女は、軽く鼻を鳴らして口を開く。念話のように魔力で声を届ける以上別に口 を動かす必要などないが、ただの癖だ。 <<らしくないな>>  頭に響いてきた声に、月を見ていた青年は視線を落とす。手を動かしたまま、顔を歪め た。困っているような、笑っているような。 「いや…………」  視線を外し、歯切れ悪く言いよどむ。それは彼にしては珍しい事だ。  そうして、外された視線が彼自身左手を見ているのに気付いて彼女は目を細めた。  彼女から見て、ディーンと言う人間の男は多弁だった。いかにも好きになれないタイプ だ。主観を抜いて評せば、社交的ということである。  だから『らしくない』のだ、いくら近くで二人寝ているからと言って、当然起きている 自分を前に黙って月を見るような真似をしている青年が。ブルーになっている彼が。  とある村で『力』を使った後もそうだった。使うと疲れるんだと、むしろスッキリした ような顔で言って、礼の食事もそこそこに寝てしまった。  シャルヴィルトには判らない。持った力を何故そんなに気にするのか。忌むというほど 嫌いもせず、溺れるというほど揮いもせず。  シャルヴィルトには判らない。古代龍や機械兵と共にいながら、そんな力の意味に拘る 男が。それなりに人が良く、それなりに性格の悪い。その人間が。  シャルヴィルトは人間が嫌いだが、ディーンはその嫌いな人間そのものだった。  ――よく判らない、浅い筈の底が見えない相手。  まあ嫌いとはいえ、彼のお陰と思う事も少なくない。先のような移動手段の手配などが いい例だ。己も含めて残る三人はあまり生活的ではない。  前を見ながら二度羽ばたいてシャルヴィルトはまた口を開く。 <<……言わずとも大丈夫だとは思うが、この先はそういうお前に任せる事になるだろうか らな>>  言われて、ディーンは「ふん?」と片眉を上げた。 <<王座がどうとか……ああいうのは私には分からん。人間は本当、分かりづらいことだ>>  それでやっと青年は了解するように頷いた。「そうは言っても」と前置きし、後ろを振 り返る。視線の先には座して眠る四刀の『男』が居た。 「ああいう知識は大概、基本はアイツに教えて貰ったものだぞ」 <<……彼が>> 「二年前までずっと戦場に居た俺に上の事を学ぶ機会などあるわけないだろ。あの男はど こか下級貴族の出身なのかもしれないな」  そうして、青年は立ちあがる。抱えていたジャックスの頭を持って身体側に寄っていく。 「そういう人間が野に下りて機会を求めるってのは珍しい事じゃない。育ちの分何かと有 利だったりするしな。かと言ってぬくぬく出来るほどの余裕はない、っと」 <<しかし別に成りあがる機会を探しているようには見えないが>> 「そういう奴も居るというだけの話だよ……しかし『賢龍』に古代機兵まで連れていれば、 それだけで何かしら出来そうなものだがな」  軽く笑うディーンへ、くいと銀龍の眼が後ろを振り返る。 <<私は彼と約束がある。……お前はどういう目的で彼についてきたんだ>>  銀の視線を受けて、青年は目を丸くした。パチパチと二度三度瞬きしてから頬を崩す。 それは先ほどとは違い余裕のある苦笑だ。 「人間はな、自分の生き方や夢……そういう目的ってモノを簡単に人に預ける事が出来る んだ。いや或いは、それがはっきりしていれば俺はここに居なかったのかもしれない」 <<お前のようなタイプの人間が求めるものが、この旅で見つかるかもしれないと?>> 「……さあ、な。判らないよ。だからこうしてるんだろ?」  鋼の塊を抱いたまま、青年はいつもより近い月を仰ぐ。 「俺達のように社会という枠からはみ出た最下層の人間は、自由なようで全く不自由なも んさ。己の命を安くして、そうやって掴む金だってそう凄いわけじゃない。それでも帰る 場所があれば何か始められるかもしれないが、それが無けりゃ酒だの賭けだの女だのに消 えるだけ。そこから抜け出そうってなら食うためのはした分じゃなく、大きく、安い人生 を丸ごと賭けてみるしかない。それですら不足もいい所だが……ちょっと変わった『力』 があるなら、レートはいい方だろう?」  快調に舌を回す青年はいつもの彼で、だから銀龍は“その力はむしろ足かせに見える” という言葉を飲み込んだ。食い下がっているようで何となく気に食わなかったからだ。  相手が言葉を続けないのを終わりと見たか、ディーンは鈍色の頭部を押し込んだ。ガキ ンと響く。続いて唸るような音がして、ジャックスが起き上がる。 「これで問題ないだろう?」 「お?お?お〜。調子が戻ったであるな。うむうむ。すまぬである」  起きた機兵は、左右に首を振り、両手を廻し、確認をしてみせた。その肩に手を置いて ディーンは腰を下ろす。 「それじゃ、一晩中頑張ってくれる龍殿の話相手は任せるよ」  もう銀龍は前を向いており、優しげな声に肩を竦める青年を見てはいない。  龍の瞳は月明かりの中広がる砂漠を見ている。  そしてその先、地平の向こうに在る場所。  西方の一大王国、ロンドニアを。             before "ZERO" take-04              鉄と血のロンドニア               Wild Wild WEST                 (前)  パシティナ砂海東西両端の街は、どちら側にしろその砂海を通る交易ルートの要所とし て発展を続けていた。ちなみにその二つの街――つまり西国側のサフラールとロンドニア 側のザネックスは共に砂を語源としている。  どちらの街でも実に労働者の七割以上が交易に関わる仕事についており、そしてその多 くが砂上船や渡砂艦陸の発着する砂港及びその付近を仕事場としているから、朝昼の時分 にそちらの方から少しばかり離れると、街は急激に閑静な姿を見せるのだった。  そのザネックスにある酒場の中も、同様に静かだった。時には乗船を待つ人でごった返 す事もあるのだが、丁度半日ほど前に渡砂艦が出て行ったばかりで今は特に人が少ない。  そこのマスターが迎えている客は一人だけだった。藍色の地味な外套を羽織ったその中 年男性は、不満そうにグラスの中の氷をカラカラと鳴らしていた。マスターには、眉根を 寄せるその表情が深淵なる真理に挑む求道者のようにも、幼い子供が拗ねているようにも 見えた。  当たり前の事だが、マスターは今日はじめて来たこの客の事など知っているわけではな い。ただ、男性は見目には地味だったが、よくよく見るとなかなかどうして身なりのよい 事がマスターには判った。外套の奥からたまに見える服のボタンや、装飾は明らかにそこ らの一般人が着るようなものではなかった。となるとどこかの貴族やそれに仕える者かも しれないし、この街であれば金を持った遠隔商人の使いなども多い。 「……マスター」  突き出されたグラスを受け取りながら、そのうちなら貴族だろうと断じた。理由は簡単 な話で、その男からは尊大さが滲み出ていたからなのだが。どうもお遣いという感じでは ない。注がれていく酒を見るのですら、その視線は何か見下しているような雰囲気がある。 こんな男を下で使おうという人間など居たらよほど大人物だ。  しかし貴族だとするとこんなとこで独りちびちびやっているとうのもどうか。まあ貴族 などピンからキリまであるとはいえ。それならどこかの貴族の庶子の放蕩者、なんてあり がちだし、そういう風はないが破産して自棄酒を煽る大商人というのも無くは無い。  ――まあ、こうも勝手な妄想が走るのは客が一人で暇だからだろう。  そうして、マスターがそんな事はおくびにも出さずに酒を差し出した時、ドアが開いた。 「やあ!“西の”!」  開くと同時に良く響くはつらつとした声でそう呼びかけてきた男は、真っ白だった。ま ず高い帽子が白い。ピシッと着こなしたタキシードスーツが白い。先の尖った靴が輝くよ うに白い。同じく輝くような金髪と真っ青に澄んだ眼を擁する白い肌の顔。ニヤリとキザ に笑う口から白い歯が覗いている。  “西の”と呼ばれた男性が振り向くのを見ながら、マスターは彼は正直驚いていた。新 客のその容姿に、というのは少し正確ではない。まあ確かに容姿は関係がある。彼はどう 見ても二十代前半といった風でそんな青年がこの態度のデカそうな中年男性と恐らくは対 等な関係であるという事が驚きだった。 「……遅いよ。“デカイの”」  中年の返答も、それを物語っていた。その声質には、イラつきの中に親しみが混じって いた。  “デカいの”はそう呼ばれると、怪訝な顔をして横に座った。中年の前に置かれたグラ スを指してから、マスターに向かって人差し指を立てる。マスターは頷いて同じ酒を注ぎ 始めた。 「大きいのって何だいそれ」  帽子を横に置いた男は手を開いてオーバーアクション気味に尋ねる。確かにマスターか ら見てもこの白い男は取り立てて巨体というわけではなかった。スラリとしたその体は確 かに長身だが、それはやはり『それなりに』と言った程度でしかない。 「私が“西の”、なら君は“デカいの”だろ?どこか可笑しいかね?」  当然だろと言わんばかりの中年に、青年は一拍考えて、そして頷く。 「……そうだな」  何故青年が肩を竦めているのか、グラスを差し出したマスターには当然わからない。  西の賢者(West Wiseman)と大賢者(the Grand Sorcerer)は同時に酒を呷った。    ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ <<今の、“西の館”ですね>>  龍の声に、ディーンとジャックスが後方を見下ろした。王女が頷く。  広がる森の中、不自然に丸くぽっかりと開けた場所に大きな館がある。どんどん遠ざか るそれを見ながら、ディーンも相槌を打つように何度も頷いた。 「あの十二賢者の住居か。そうか、西の大陸に居るから西の賢者なんだったな」 「ジュウニケンジャとは?」  ジャックスが振り返る。「そんな事も知らないのか」と口を開いたディーンは、そのま ま少し動きを止めた。顎に手をあてて唸る。 「うーん……そうだな……まあ、とりあえず物凄く強い二十四人の集団『二十四時の魔法 使い』というのが居るんだよ。それで、そのうち十二人の導師を十二賢者と呼ぶんだが… …」  そこまで言って、ディーンはついに言葉を切った。ジャックスの問いは明らかに『その 彼らは何者であるのか』と聞いているのだが、彼は自分がその答えを知らない事に気付い たのだ。  彼らが何故そういう集団を形作ったのか。何故それを維持しているのか。魔物にしろ人 間にしろ、よほど隔たったコミュニティにでも居ない限りは子供の頃にその名を知るであ ろう集団の存在意義は一体なんなのか?  しかしディーンがいくら記憶を辿っても、たとえば『世界を守っている』――何から? ――とか、そういう御伽噺のようなものしか出てこない。 「…………」  結局、ディーンは前を振り返った。銀龍の頭を。 <<私にもわかりませんよ>> 「え」  判らないという台詞を吐く事は、シャルヴィルトにとってかなりの苦痛だったが、しか しいけ好かない青年の素っ頓狂な声を引き出せたので少しは気が晴れた。 <<『二十四時』は私が生まれる以前から存在しました。その頃から彼らの存在意義は不明 です。ですから知りません>> 「古代龍のお前より、か?」 <<私より、です。或いは――>>  言いかけて、銀龍は大きく羽ばたいた。無論背に乗る四人に振動はない。 <<……まあ、何故か時の女神に関連した名前を持っていますからそのあたりと関係あるの かもしれませんね。ただの擬装の可能性もあるのですが>> 「んむ……とりあえずはわかったであるが」  言葉は一応理解と言っているものの、ジャックスのその首はかしげている。結局はわか らないという事しか言われていないし、戦闘機械として生まれた彼には、(彼の心がどう いう構造かは不明だが)意義のない・わからない存在というのは元より理解しがたいとい うのもあるだろう。 「何にしても物凄く強いのであれば助力を乞うてはどうであるかな?」  それを聞いて、ディーンがジャックスの方へ顔を戻した。その頬は苦笑に歪んでいる。 「それは無理だ」 「何故であるか?ものすーーごく強いのであろう?」 「ああ、単身戦力で言えば下手な魔王より強い。聖騎士や皇国の軍団ですらまず手が出せ ないな。彼らはもう人間じゃない。一国を左右できる」 「であるなら」 「人間じゃないっていうのは強さだけの事じゃないんだ。彼らは別に人間の味方じゃない し、そもそも本当に人間以外もまじっている。内輪揉めなら、尚更の事だ」  言われて、ジャックスは再び館の方を見た。すでにそれは豆粒のような大きさになって いる。  今まで聞いていたゼノビアが「それに」と口を開いた。 「西の賢者ラーファイ殿はもう五百年は前からあの場所に住んでおられますから、王家の 進退など些事でしょう」  その顔は苦笑というには辛そうで、ジャックスも乗り出した身を引っ込める事にした。 ディーンが咳で払って、やたらと明るい声を上げる 「どっちにしろ、全部バレバレな陰謀を阻止するのにわざわざ十二賢者の助けなど必要は ないさ。それより状況を整理しよう」  言ってディーンは最後尾の男を見た。さして意味あっての行為ではないが、やはり彼が リーダーであるという意識が青年にはあったからだ。  ディーンの視線を受けて、目を開けたまま寝ていそうなその男は、相変わらずの低いボ ソボソとした声でゼノビアへ確認をとる。 「事は今日の八王会議で……だったな」    ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 「八王……え?ロンドニアって王国だろ?」  ダペタから作った色の薄い果実種を飲み干した白い青年は相手の言葉を復唱し、首をか しげた。  メラク。大賢者メラク。十二賢者が一人にて、西の賢者ラーファイの数少ない盟友であ る彼は、しかしどうも歴史や政治には疎いようでさきほどから講釈するラーファイは何度 も冷え切った溜息をついている。無論、実際のところ講師の要求するレベルが高すぎるだ けで、“疎い”というのはあくまで彼に比較して、に過ぎないが。 「ああ」  頬杖をついて答えるラーファイの目は座っている。特に気にしていないらしいメラクは 広げた左掌を三本立てた右手の指でパシパシと叩いた。 「だのに王が八人居るってのかい?」 「いや、ただの名前だから。……別に今は八人の王が参加するわけじゃない」 「今はってことは」  メラクの指摘に、ラーファイは満足そうに頷く。  ひっかかる程度の物言いで済ませて相手が聞いてくるのを待つというのは、基本的に相 手をこの程度、この程度、と測るように見ているこの男らしい。酷く、失礼な行為だ。  だがメラクはやはり、気に留めていない。 「かつては此処にいくつかの……まあ八つか。それだけの王国やらがあって、会議をして いたものが、今に残っているってわけかい」 「ああ、数は時代によって前後したようだね。王国……部族王国と言ったようなものだっ たようだ。しかし西部は魔族が多いだろう?内輪揉めどころじゃなかった」  ラーファイの問いに、メラクはわずか上目に虚空を見た。頭に地図を描いて、断続的に 頷く。 「そうだな。小さな魔王国が結構ある。それに南に行くとモルカーナ密林地帯があるし… …傍には魔同盟の『女帝』ユリエータが統治する驚天帝国もあるものな。前大戦までは北 西に『戦車』も居座ってたね」  戦車。“世界の半分”とまで言われる東方破天帝国の皇帝イツォルについで、魔同盟内 第二位の兵力を持つ者。  その名前が出るのを待っていたかのように、ラーファイが身を乗り出した。 「今回の問題はそこなのだよ。『戦車』黒雲星羅轟天尊は前世紀の大戦で西部を諦めたの か『羅道界』に戻った。とすると、天尊と今まで睨み合っていた方は一気に肩の荷が下り るわけで……」 「王国内のバランスが崩れた」 「それがノーサンフリア公のドロックス家だ。地方部族の中でも最も王国編入が遅かった そこは、天尊と直接対峙しているから、中央としてもあまり締め付けをキツくして崩れて 貰っちゃ困るんで結構強い権力を許されていたのだよ。それでも彼らが『戦車』の魔王と 戦わねばならない以上は暗躍を警戒する必要はなかったのさ。そんな余裕あるわけないか らね」  ラーファイが言葉を切り、メラクが大きく頷く。それを見ながら、マスターはどんどん と大きくなっていく話に背筋が妙に寒くなってきていた。  元々中年の男に呼ばれたらしい青年がその理由を聞いたのが発端だった。すると何故か 中年は突然宮廷の話をしはじめたのだ。マスターは彼が貴族ではないかと思っていたので それはある意味しっくり来るものではあったが……しかしこれでは、八王会議で何かある と言っているも同じではないか。  そんなマスターのハラハラをよそに、メラクは軽い調子で唸ると指を広げた。 「ふうむ、気になるんだが、前大戦なんて前世紀の話なのにどうして揉めはじめたのはや 最近やっとなんだ?話を聞く限り五年前ごたごたしていたのもそういう流れのせいなんだ ろう?」 「ああ、現王には嫡子が居ないのだよ。第一王女のゼノビアだけだ。そして今回の会議で 恐らく王はゼノビアの結婚相手を発表するか、もしくは後継者としてロンドニアの分家筋 の人間を指名するはずだ」  そしてついには、ラーファイはマスターの心配を肯定した。どう解釈しても彼は『今日 の八王会議において次の王がほぼ決定し、そしてノーサンフリア公はそれを防がんとなん らかの動きを見せる』と言っている。  マスターはグラスを落としそうになる手を必死に落ち着かせた。  その耳にメラクのいやに明るい声が響く。 「なるほど……状況は理解したよ。しかし珍しいな、貴方がそんなゴタゴタに興味を持つ のは」 「理由があるのだよ。私達が十二賢者である以上は、な」  流石にマスターは「え?」と声を上げてしまった。更にはグラスも手から滑りおちた。  しかしその声もその割れる音も、外から響いてきた大声に混ざって消えてしまう。 『渡砂艦が事故ったぞーーーーーーーーーーーー!!』  ザネックスの住民にとって砂海の貿易こそは生命線であったから、そこに何か問題があ れば一大事である。こと渡砂艦に何かあれば住民の何割もが突如として路頭に迷う可能性 すらあるのだ。  だからその声は街中に響き渡らされ、マスターも当然――何の意味もないが――反射的 に声の方を振り仰ぎ、そして…… (あ……!)  と思い振り返った時には、カウンターに在るのは空きのグラス二つと代金だけだった。  驚くべき報せを受けて砂港に向かう人々。騒ぎを聞いて窓からそちらを見る人々。その 逆方向に歩く影が二つある。 「そら、事が大きくなってきた。権力者どもめ、内輪でごちゃごちゃやるのはいいんだが すぐに大事な事を忘れるから困るのだよな」  ぼやく男は、藍色の外套から出した手で先を指差す。 「アレで行こう」  それは壊れた砂上船だった。底とマストに特殊な魔術紋章を刻む事で滑るように砂漠を 疾走する小型の船だ。  一足先に乗り込んだ白づくめの青年はその船体をつま先で軽く蹴りながら肩を竦める。 「しかしこれじゃ抵抗の薄い砂以外走れないな。というか壊れてるからここに置いてある んじゃないか」 「何を判りきった事を……」  言って、後から追いついた男は外から船体を二度三度叩いた。その度に、火花のような ものが接触部で弾ける。 「これ、で、よし、……っと!」  最後に一際大きく叩くと、船体が低く鳴動した。  震える船底の紋章は書き換わり、帆が千切れてマストが捩れあがった奇怪な柱へと変貌 する。すぐさまその柱の後部から唸るような音と風が巻き起こり始めた。 「おおう♪」 「さて行こうか」  廃棄船が一つ、首都へ向けてブッ飛んで行くのをその時見ていた者は居ない。    ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 「会議にて王を暗殺。その後素早い対応で……まあ自作自演だから当たり前だが……暗殺 者をひっ捕らえ、彼らを雇った人間として邪魔な現王家の者達の身柄を拘束する」 「その上で、護送されてきた私をそのまま軟禁状態に。お父上の遺言とでも言って私とど なたかを結婚させる……そうなると中央の外に居る現王家派もまともに動けずに乗っ取り は完了します」 <<なんだか結構単純なような>>  おさらいされたおおまかな流れを聞いて、シャルヴィルトは冷めた声を上げた。ジャッ クスが何度も頷いている。  気怠そうに首を回しながら、ディーンがぱたぱたと手を振った。 「まー、別に完全犯罪をするんじゃないんだからな。そんな綿密な計画は必要ないわけだ。 大事なのは状況・風向き・建前……そんなところだ」  またも頷いていたジャックスが、ふと動きを止める。しばらく考え込んで、慌てるよう にバタバタガシャガシャと諸手であがくようにする。 「け、結局暗殺は起こるのであるか?暗殺に正義はない、と昨日言っておったような」 「ああ。ないよ。だがそれが問題になるのは王と王女を殺して、無理矢理玉座を奪うよう な動きをすればの話だ。そんな事をすれば現王家派の人間は一丸となって抵抗するだろう し、大義のない簒奪者からは人が離れていくだろう」  流石に余り楽しくなさそうな風で、ディーンが答える。ゼノビアを一瞥し、その後息を 深く吐いて言葉を繋ぐ。 「しかし例えばだな。正体不明の暗殺者によって後継者を指名しないまま王が死に、更に 王女がドロックス公の甥と結婚したとしたらどうだ?婿殿は王位を手に入れる事が十分可 能だな?ロンドニア王家の忠臣たちも、分家筋の誰かに継がせる派と王女の婿派に分断さ れるだろうさ。まあ当然だが、暗殺したのはドロックス公だと噂は流れるかもしれない。 あまつさえ後になって証拠らしきものが出てくるかもしれない。だがそれは、ただそれだ けだ」 「むう、しかし暗殺が露見しても、というのは何か納得が」 「証拠と言うのは、それをちゃんと権力が支えていなければ真偽など意味をなさないので す。例えば皇国は無理矢理前教皇を選出しましたし、その教皇が死んでここ数年も渋る教 皇庁に早く次の教皇をと圧力をかけています。これは明らかに越権行為ですがそれを咎め る事は誰もしない。何故なら皇国が強いからです。そして……かつて存在した聖王朝の後 継として聖教会を庇護する、という建前も掲げているからです」  ディーンを継いだゼノビアの説明に、ジャックスは唸る。 「大義は先王の第一王女であるゼノビア殿が居る以上そちらにあり、それ故に風は公爵側 へ吹く。となれば証拠があっても力の差で潰せてしまうというわけであるか……しかしゼ ノビア殿はその甥殿と結婚すまいに」  呆れたディーンが肩を竦める。予想通りだったのがその突っ込みは早かった。 「何の為に昨日まで王女が拉致されてたと思ってるんだお前は」 「あ」  ジャックスが上げた声にシャルヴィルトとゼノビアは苦笑し、ディーンは首を振る。全 く反応しない『男』は相変わらず起きているかすら怪しい。 「ふうむ、となると我々が為す事はその暗殺を防いでゼノビア殿のお父上を助け出す事で あるな」  やっと得心がいったという風にジャックスはゼノビアを見た。しかし彼女は困ったよう に笑って言葉を躊躇う。それに、ジャックスが怪訝そうに首をかしげる。 <<それは……>>  少し遅れてシャルヴィルトが口を開きかけた。それを、制すようにゼノビアは声を重ね て。 「いえ……、違います」  目を伏せた彼女は何かに耐えているようだった。    ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆  辛くも流砂を抜け出した渡砂艦から少し離れた岩陰に、その男達は座りこんでいた。  流砂を抜け出したのはいいが、まだ機関部のチェックや乗客の確認が終わっていない為、 朝日を受ける渡砂艦は未だその場で停止している。疲れきった乗客たちの殆どは中で寝て いるだろう。しかし彼らはそれどころではなかった。 「拙い事になった……」  その台詞はもう六回目ぐらいだった。頭を抱えた男は、いや周りの男もだが、上等そう な軽装の鎧と上着に身を包んでおり、腰に下げた剣にも銀の装飾があった。 「だがあの部屋から流砂に落ちるなんてことは考えられないぞ」  その台詞ももう六回目ぐらいだったが、彼らは大分参っている様子で全然気付いていな い。 「王女が消えたなんて……言えるわけがない」  別の男が溜息と共に天を仰ぐ。そう、彼らはゼノビアの護衛であり――つまりノーサン フリア公によって買収された誘拐犯であった。  龍笛を鳴らしてライノサラスを呼び寄せ渡砂艦を止めたまでは良かった。あとは予定よ り遅れて到着すれば、その時には首都を制圧しているであろうノーサンフリア公へ、王女 の身柄を確実に渡す事が出来る。  しかし運悪く渡砂艦が流砂に脚をとられ、落ち着いたと思ったら何故か王女が忽然と消 えているのに気付いて彼らは呆然となった。  このままでは王女と公の甥を結婚させる計画が水泡に帰してしまう。というかこのまま 帰ったらどう考えても自分たちは殺される。  が、彼には別に帰ってから心配など必要なかった。  いや、必要なくなった。と言うべきか。 「ん?」  最初に気付いたのは天を仰いでいた男だ。自分たちの上で何かが弾けた。何もない虚空 で何かが。  絹を引き裂くような音が響いて、やっと彼は何が弾けたのか理解した。  何もない虚空で何かが弾けたというなら、その虚空が弾けたに決まっている。  空間が、割れた。 「な……」  次の言葉は出てこなかった。  彼の身体は上から振ってきた六角の棒によって上から叩き潰されたのだから。  着地音と共に漆黒の杖が唸る。残る四人は、何が起こったのかを理解する前に脳漿をブ チ撒けた。  ――先に述べたがが空間を渡るというのは、超難度の魔術である。たとえばかの十二賢 者や大魔導師ヘイ=ストですら、特定地点に限定するかよほど回りくどい方法を以ってし かそうそう自由に空間を渡る事は出来ない。  とすれば、当然だが自在に次元を渡るなどという芸当は殆ど不可能と言っていい。魔王 の中の魔王である魔同盟の構成員ですら、アンティマとそして黒雲星羅轟天尊だけがその 真似事を、あくまで真似事を出来るに過ぎない。正確には、アドルファスを含んで三人の みとなるが。  アンティマの(そしてアドルファスの)次元干渉はまさしく次元の門を開く力だがそれ は酷く出力不足のもので、不安定な力だった。  もう一つ、黒雲星羅轟天尊の次元干渉は更に低位のもので、そもそもまともな次元移動 は不可能である。元々彼は『戦車』のアルカナを司る通り戦闘的な魔王で、行動・突破と いった特徴が次元干渉に昇華したに過ぎない。  しかしその半端な力は、彼にとってはアンティマの次元干渉より余程使い道のあるもの だった。天尊ははるか昔に極東の一部を抉り取って『羅道界』という出来そこないの次元 を生み出しそこを拠点としたのである。  ただし半端な力ゆえに『羅道界』とこの世界を行き来出来るポイントは大分限られてお り、その一つはパシティナ砂海周辺だった。数百年前に彼が砂海より更に西、ロンドニア 側へほぼ全軍をもって出現した際の事がある古文書には以下のように記されている。                 叫び声が響いた              それは空の割れる音だったが        黒い雲と共に現れた魔王に世界が絶叫しているようだった 「フン……人間の肉はやはり手ごたえがない」  そして今、微かな微かな叫び声と共に降り立ったそれは漆黒の武者だった。鎧の奥に見 える肌は明らかに人間のそれではない。  武者は砂の上に咲いた真っ赤な花を見回し、鼻を鳴らす。  続いてまた空間が割れた。武者の横に、六本腕の奇怪な老人が音も無く落ちる。 「ほほう……面白いものがありまするな」  髪のない頭から目までを布で覆った老人は、しかし特に何の問題もなく見えているかの ように岩の向こうを仰いだ。 「アレはサバクイノシシか」  苦々しげに武者が呟く。  前世紀の大戦にて西国側より出撃し砂漠を越えてロンドニアを包囲する天尊の軍勢へ突 撃した渡砂艦の事をそう呼ぶのは、当の渡砂艦に背後から襲撃された者達だけである。  黒い杖を一振りし、一歩踏み出す。 「しかし何故かまともに武装していないようだな」 「そのようで」 「まあ、いい」  そうして地を蹴った黒武者は、旋風となって艦へと突撃していった。  世界に三隻しかない渡砂艦の一つが修復不能なまでに徹底的に破壊された事をザネック スの住民が知るのは、首都に吹く嵐のせいでいくらか先になるだろう。