■砂海の覇王(後編)  パシティナ砂海――それを一言で切ってしまえば『墓地』でしかない。砂の海、という名に 相応しく、パシティナ砂海には砂以外には何もない。地平の彼方まで延々と、ともすれば永遠 とすら思えるほどに、砂の世界が続いている。  そこには何もない。 “生”がない。  命を生み出す水も命をはぐくむ緑も存在しない。支えてくれる大地も、猛る炎すらも存在し ない。どこまでも乾いた黄色が続くだけだ。乾いた土、砂の世界。容易に脚を踏み込んでしま えば、飢え、乾き、死に絶えて――その体は風化して砂になる。はるかな昔から存在している この砂海は、多くの冒険者たちと、砂海に住む生物の死骸をその膨大な砂の中に埋めている。  だからこそ、これは墓地だ。  風化した魂の墓場なのだ。  そんな場所にこの私、エル=エデンスが何の用があったのかといえば……実を言えば、特に 用事はなかった。というか、よっぽどの用事があっても、パシティナ砂海をたったの一人で渡 りたいとは思えない。そんな無謀なことをすれば、いくら魔法使いである私といえども――ま ず間違いなく死ぬ。死ななくても死ぬような眼にあう。私でなくとも、自殺志願な冒険者でな い限りは渡りたいとは思わないだろう。  よっぽどの準備をして、複数人で往くのならともかく、たった一人で、歩いて渡れるような なまっちょろい場所ではないのだ、パシティナ砂海という世界は。  確かにあの『西国』へと行くにはパシティナ砂海を通るが、それでも大回りをすればどうに か最小限しか砂海を通らずにいくことはできる。今回私が西国に行くときも、そのルートを利 用して砂海を避けた。なんのために西国にいったのかは、今回は関係ないので省かせてもらう。  ともかく西国での用事を終え、当然帰りもそちらの道を使おうと思ったのだ。  使えなかったのは――邪魔が入ったからだ。  その道を通ろうとしていた私たちを襲い、準備不足もやむなくパシティナ砂海に追い込まれ 、護衛の人間たちを全て殺され、ただの一人で砂海を歩く羽目になったのは――それもこれも 全て、あの魔王のせいなのだから。 「……そういうわけで、追われてるのよ」 「追われてるのは判った! 僕に任せてよ!」  どうしてパシティナ砂海にくることになったのか、どうして一人で歩いていたのかを説明す ると、ジャン=H=サウスバーグはどん、と胸を張ってそう告げた。  なぜだか知らないが、やけにやる気満々だ。自信ありげだ。普通、魔人どころか『魔王』の 名前が出たら人間は慄くものだと思うが……砂海で暮らしていたら人間性は大きく変化するの かもしれない。  そう――私は少しだけ安堵していたのだ。ジャンがどうしてこうも自信ありげなのかは知ら ないが、それでもその全てがハッタリということはないだろう。パシティナ砂海で暮らしてい るということ自体が、ある程度の実力証明にはなっている。この砂の世界には――独自の進化 を遂げた恐るべき生物たちもいるのだから。  その砂海の上を、ジャンの船はゆるゆると進んでいる。砂海、と言っても、下にあるのは砂 でしかない。波打つことはないはずなのだが――帆に風を受けて、船は滑るように進んでいる 。何か、船に魔法がかかっているのかもしれない。 「でも不思議だな!」  ジャンは看板に置かれた樽の上に腰掛けて、やたらと大仰に首を傾げた。どうにもこの男、 さっきから思っていたが行動が過剰気味だ。演技しているように見える。  案外、舞台にでも立たせたら映えるのかもしれないな――そんなことを私が思っていると、 ジャンは「不思議だ、不思議だなあ」と繰り返し、 「どうしてその魔王は君を狙ってるんだい? 君が他の魔王を殺しちゃったとか?」 「まさか!」  私は即座に否定した。生憎と、魔王を殺せるような実力は私にはない。今回逃げてこられた のだって――相手が、魔王の中でもそんなに強い相手ではなかったからだ。  というよりも、弱いといっていい。  魔同盟――あの恐るべき、魔王同士の相互援助組織!――の中でも、最弱に値するんじゃん じゃないだろうか、『彼女』は。もっともまだ私が殺されていないのは、単に実力の問題だけ じゃなくて、彼女の性質によるものも大きいのだが。  私の説明に、ジャンはさらに首を傾げた。傾げすぎて、いまや体ごと反り返って百八十度回 転しそうになっている。ちょいと突けば樽から堕ちてしまいそうだった。 「なら、どうして追われてるんだい?」 「それが……」  説明したくなかったが、言わなければなるまい。一応、相手は私を助けてくれているのだ。  思い切って、意を決して。  私は、魔王に追われている理由を、一言で説明した。 「――惚れた、らしいのよね」 「うん?」  私の言葉の意味がわからなかったのか、ジャンはさらに首を傾げて、案の定樽から堕ちた。 まったく平気そうな顔で「痛いな!」と言って飛び上がり、今度は樽の上に寝転がった。…… なんて器用な。  器用さに内心で感嘆しながら、私はいやいやながら説明を加えた。 「だから、一目ぼれされて、追われてるの。ラブレター持った生徒に追い回されてる気分だわ ……」  もちろん相手は『生徒』なんてほど生易しい存在ではないのだが。  ジャンは「ふうん」と納得したような、疑っているような曖昧な返事を返した。ま、魔王に 惚れられてる、と言われて素直に納得するような人はいないだろう。実際のところ、私だって 彼女が本気なのか、それとも何かの口実にしか過ぎないのか、はっきりと断定できずにいるの だから。 「――おかしら! 変なのがきてますぜ!」  私たちの会話に割り込むようにして、海賊の一人が大声をあげた。船にいたニ十人ほどの海 賊が、私たちより早く声につられるようにして一斉に船尾へと集まる。 「お、おいあれはなんだ!」 「鳥だ!」 「猫だ!」 「いや、牛だ!」 「馬だろ!」 「砂海に馬がいるか! 魚に決まってるだろ!」 「ええいあんたらの目は常に節穴なのか!」  好き勝手なことを言いまくる海賊たちを押しのけて、私は船尾の一番奥へと割り込んだ。私 が作った隙間を通るようにしてジャンも続く……て、こいつが海賊の長なんだから、一言声を 掛けてどかせればいいのに。  そんなことを思う間もなく、私たちは最後尾へと辿り着いて、ソレを見た。 「どうにも僕には」それを見て、ジャンがぽつりと呟く。「人間に見えるね」  彼の言葉はある意味で正しく、ある意味で間違っている。私はそれから視線をそらすことな く、彼に応えた。 「人型には違いないけど、人間じゃないわよ」 「んんん?」  そう、人間じゃない。  人の形をしていながらも、人よりもずっと強い力を持つ存在。魔の道を行く命。  ソレは自力で飛ぶ気がないのか、それとも飛べないのか。空を飛ぶ三人の魔物によって支え られたベッドの上に悠々と横になっていた。なんとも場違いで、馬鹿馬鹿しい姿だ! それを 笑い飛ばせないのは、彼女が魔王だということを知っているからだろう。  ベッドに寝転がる彼女は大アルカナの魔王で。  残る三人は、小アルカナの魔人だ。  あんなふうにこき使われるのも、まあ無理はないだろう。それでも、砂の海の上を飛ぶベッ ドというのはシュール極まりなかった。  空を行く彼女を、瞬く間に近づいてくる彼女を、私は見る。  そして、  彼女もまた、私を見ていた。  柔らかな金の髪をなでながら、その青い瞳で、私を見て、  魔同盟が8――『力』の黒い聖母・魔王クレメンスは、私を認識して優しく微笑んだ。 「見てる。凄い見てるよ! 見てる上に笑ってる! 僕何もしてないのに!」  隣に立つジャンが子供のようにはしゃいだ。図体ばかりでかいが、どうもジャンは、物凄く 子供っぽい。こんな砂だらけの世界で育ったせいだろうか――って、今はジャンのことを気に している余裕はない。  空を飛ぶ三人と一人はこちらよりも速いのか、見る間に近づいてくる。風を頼りにすすむ帆 船では――魔法で飛ぶ彼女たちに追いつかれる! 「ジャン!」 「はい!?」  私の勢いが怖かったのか、脅えたようにジャンは返事をした。……脅えるなんて、ものすご く失礼だと思うんだけど、それはこの際言わないでおく。言ったらもっと脅えられるような気 がしたからだ。 「もっと速度でないの!?」 「出ません!」 「即答すんな!」  つい、跳び蹴り。踵落しをするよう準備のに足を蹴り上げながら上に跳び、ジャンの顎に蹴 りを喰らわせる。いや、食らわせてる暇なんてないんだけど、ついやってしまった。まあ、私 はただの魔法使いなので、そこまでけりに威力はない。海賊の長たるジャンなら痛くも痒くも ないだろう――  なんて思ってると、ジャンはぐらりとよろめいて、そのまま砂海に落ちていった。 「ああ物凄く弱い!?」  ふらはらへらーと落ちていくジャンを見て私は頭をかかえてしまった。ひょっとして、ひょ っとしてとは思うが――ジャン=H=サウスバーグはバカなだけじゃなく物凄く弱いんじゃな いだろうか。 「ああお頭が落ちていったぞ!」 「諦めろ! お頭はもう砂になったんだ!」 「くぅ! 俺たちはお頭のこと忘れやしませんぜ!」  方々に勝手なことを言い出す海賊たち。そうこういっている間にも船は進み、当然堕ちたジ ャンは置いていかれていく。  ……思うんだけど、本当に、人望あるんだろうか……? 普通船をすぐさま止めて救出にい ったりするものじゃないんだろうか。  そんなことを思っていると、 「あら――随分と楽しそうね」  なんて、真上から声がした。 「――!!」  弾かれたように私は真上を見た。いつの間にか――なんて言い訳はよそう。私たちがバカな ことをやっている間に――クレメンスたちは追いついていた。  船尾に集まっている私たちの上を通りこし、ベッドごと、船の真ん中にクレメンスたちは降 り立った。ベッドを抱えていた三人の魔人が、クレメンスを守るように前に並び、 「ギター担当楽鬼エルギータ参上ゥウウウゥウゥッ!」 「同じくドラム担当のドーラ様の登場だあああああああ!!」 「…………………………!」 「おっとこいつはベース担当のベス、照れ屋な演奏家さぁ!」 「三人合わせてェェェェェェエエエエェッ、ルナナーナ近衛音楽隊ッ、登☆場ッ!!」  ばーん、とどこかで爆発音がしたような気がした――もちろんそんなのは幻聴で、実際にし た音楽は、彼女たち三人が鳴らした楽器だけだ。  地面に届くほどの長さの髪を持った女悪魔――ギータがギターを掻き鳴らし。  豚鼻を持つ女オーク――ドーラがドラムを打ち叩き。  尖がり帽子を被って俯く陰気な女――ベスが、ベースを奏でた。  三人はポーズをとって気持ちがよさそうに演奏し、演奏した姿勢のまま、余韻を楽しむかの ように動かなかった。  ……やばい。  これは、やばい。  新しく現れた味方もバカだと思ったら、まさか敵までバカだとは。これは――かける言葉が まったく見つからない。  私にとって唯一の救いは――真面目に相手をしてくれるのは――悲しいことに敵だった。ベ ッドに横になったままの魔王クレメンスが、音に浸っている三人に向かって一言、 「静かになさいな」 「「「はっ!」」」  ざっ、身を伏せ、と先ほどの煩さからは信じられないほどに静かになる三人の魔人。上下関 係がきっちりしているのは素晴らしいことだ。少なくとも、このお気楽海賊隊よりはまともな 組織だ。  静かになった船上で、魔王クレメンスは、じっと私を見ていた。その姿からは、とてもでは ないが――魔王には、見えない。美しいただの女性だ。 「お姉さん本当に魔王なのかい!」  私の疑問を代弁するようにジャンが言った――って、ちょっと待った。 「ジャン!?」 「何だい!」  横を見ると、さっき落ちていったはずのジャンが何事もなかったかのように立っていた。そ れどころか、にっかりと笑顔を向けて親指を突き立てている。誰がそんなアピールをしろと言 った。 「落ちたんじゃなかったの!?」 「落ちて戻ってきたのさ! 僕を誰だと思ってるんだい。砂と海に僕より詳しい奴なんてちょ っといないぜ!」  はっはっは、と高らかに笑うジャン。  ああ……そうか。海賊たちの態度になんとなく納得してしまう。彼らは知っていたから、心 配も何もしなかったのか。どういう手段でかは知らないが、ジャンは毎回こうやって落ちては 、易々と復帰してくるのだろう。心配して損した。  と。 「――どなたかしら?」  魔王クレメンスが、私ではなく、隣に立つジャンを見てそう言った。  その言葉に――ぞくりと背筋があわ立つ。笑い顔も、口調も、何一つとして変わっていない のに――雰囲気だけが変わっている。見定めるような。攻撃する一瞬前の動物のような。不気 味な威圧感をともなった言葉だった。それを感じたのは私だけではないのか、ルシャナーナ近 衛音楽隊の三人も、肌をびりびりと震わせていた。  唯一――ジャン=H=サウスバーグだけが、何も感じていないのか、いつも通りのとぼけた 顔をしていた。 「うん? 僕の名前はジャン=H=サウスバーグ! 見ての通り善良な海賊さ!」  場の空気をまったく読まずに、ジャンははつらつと挨拶をした。  ある意味、魔王より強いのかもしれない。  魔王クレメンスは、ジャンの挨拶に、「ジャン……ジャン……? 聞いたことが、あるよう な、ないような……」と考え込むように指先を唇にあてた。その仕草が、どうにも艶かしい。 「それで、サウスバーグさん? あなたはその子とどういった関係で?」  つい、と細い指先で私を指して、魔王クレメンスは言う。  恐ろしいほどの、威圧を込めて、彼女は言う。 「まさか――私と愛し合う大切なその子に、手を出したのかしら?」 「誰が愛したあった誰が!」  恐ろしいが突っ込まずにはいられなかった。そんな不名誉な、見逃せそうにもない発言をさ わやかに流せるほど立派な人間ではない。 「あんたが一方的に惚れただけで、私は指一本触れちゃいないわよ!」 「失礼。言い直すわね、私の惚れたその子に、手を出したのかしら?」 「言い直してもあんまり嬉しくないわね……」  あまりの事態に私は肩を落し、その私の前に。  まるで、私を守るかのように、ジャンが一歩踏み出した。 「僕は――」 「僕は?」 「この子の父親だ」 「嘘をつくな!」  迷わず、蹴り飛ばした。  背中を向けているということもあって今度は船から落ちなかった。代わりに、ハイキックを 背中で受けたジャンは勢いのままに突っ伏して、顔面から床にぶつかった。  うわあ……痛そう。 「…………」  なんとなく、魔王クレメンスまで、沈黙。ちなみに海賊団のメンバーは、船尾から動こうと しない。そりゃ、魔王がいればそうなるか。  女に見ても。  弱そうに見えても。  相手は――魔王なのだ。この迫力の通りに。今はちょっと、なんか、唖然としたような顔で 私のことを見てるけど。  蹴られて突っ伏したジャンはしばらく動かなかったが、やがてむくりと身を起こし、ぱん、 ぱんと服についた砂を落として、肩越しに私を見返して言った。 「痛いじゃないか」 「痛いように蹴ったのよ」 「それじゃあ仕方ないな!」  納得したように笑って、ジャンは魔王クレメンスに再び向き直った。  うーん……あの三人組もバカだと思ったけど、やっぱり、こっちの陣営も大差ないらしい。 その証拠に、膝まづいている三人組がひそひそと、 「ヤベーチョーヤベーあいつあたしらよりバカじゃん」 「だよなーやっぱり。すっごいバカだよなー。ブタよりバカだよなー」 「……………………。……! ……!」 「ベスもそう思うのよな。バカ・オブ・バーカって感じだな、アイツ」 「あんたたち、五十歩百歩って言葉知ってるの……?」  私がそう云うと、エルギータとドーラとベスは一斉に「ふん」と顔を背けた。あまり触れら れたくないことらしい。まあ、バカ比べなんてされて喜ぶ人はいないだろう。人じゃないけど 。 「ともあれ――僕の名前はジャン=H=サウスバーグ、砂海賊だ。そういう君は何なんだい?」  ジャンが問うと、魔王クレメンスは微笑み、 「魔同盟の八番――愛の魔王クレメンスよ」 「さらりと大嘘吐いたわね……」  あんたは『力/黒い聖母』じゃなかったのか。 「あら、嘘ではないわ」  魔王クレメンスは心外そうな顔をして、 「誰よりも誰かを深く愛する魔王。魔に属し黒く染まった聖母――それが、私。だから、エル =エデンスさん。私は貴方にこういうのよ、愛してるわ、と」  深く深く深く、慈愛の笑みを浮かべて、魔王クレメンスはベッドの上を立ち上がった。かつ 、かつとピンヒールで足音を立てて、三馬鹿の横を通り過ぎる。  こうしてみると、女性にしては背が高い。豊満で清楚な身体は、確かに『聖母』に相応しく はなる。  ゆっくりと、ゆっくりと近寄りながら、魔王クレメンスは言う。 「君は何、と聞いたわね。教えてあげるわ。私は愛の魔王。世界の全てを愛する情熱の女」  かつり、かつりと、足音と共に近づいてくる。 「エル=エデンスさん。貴方はとても――美しい」  魔王クレメンスは、私へと、近づいてくる。 「自立した美しい女性だわ。人の身でありながら、魔道を追求し続ける、叡智ある女性。だか ら私は――貴方を気に入ったの。」  魔同盟。人類の大敵は、けれど、微笑みと共に、私へと近づいてくる。 「貴方に、惚れたの」  私は動けない。  蛇に睨まれたように、動けない。声すら出せない。   甘かった。バカ騒ぎなんて無視して全力で逃げるべきだったのだ。  相手は――魔王なのだ。  あの青い瞳は、私を取り込むように、私を魅了するように。私の瞳を捉えて、少しも揺らぐ ことがない。優しい、優しすぎる微笑みと共に、近づいてくる。   私を。  私を―― 「このまま行けば、貴方は間違いなくあの憎むべき24時に組み込まれる。それは、あまりに も悲しいわ。だから、エル=エデンスさん? 私の――仲魔になりなさいな。  魔同盟の小アルカナ、『杖』を貴方に、差し上げるわ」  ――私を、向こう側へ誘おうと、魔王クレメンスは近づいてくる。  かつん、と、最後にそれだけ聞こえて。  魔王クレメンスの、足音が止まった。  すぐ間近に、魔王クレメンスが立っている。私を優しく見下ろしている。包み込むような眼 差しで、誘い込むような眼差しで、魔王クレメンスが立っている。   そして――魔王クレメンスと、私との間に。  守るようにして、ジャン=H=サウスバーグが、立ちはだかっている。 「どきなさい、少年」  母親のような声で、魔王クレメンスが言う。 「退きなよ、お嬢ちゃん」  子供のような声で、ジャンが言う。  その顔は、後ろに立つ私からでは見えない。でも、彼はきっと、さっきまで変わらない楽し そうな笑顔を浮かべているのだろう。それが声だけでもわかった。  彼の声は、何も変わっていない。  私とバカをしていたときとも。  魔王を前に立っているときも。  彼の声音は――一切変わっていない。 「……おいたが過ぎる子は、叱られるものよ」  魔王クレメンスは、『仕方がないわね』という風にため息を吐いて、指をぱちんと鳴らした 。エルギータとベスとドーラが同時に立ち上がり、一斉にその武器たる楽器を構えて、  ジャンが、楽しそうに叫んだ。 「おいたが過ぎる子は――昔から、痛い目にあうものだ!」               ・・・・・  ぱぁんと、魔王クレメンスが弾け跳んだ。 「……………………え?」  呟いた声は、私のものか、それとも、音楽隊のものだったのか。  判らない。そんなことも判らないほどに、私は混乱していた。  なぜって、それは――私の前の前で。正確に言えば、私の前に立つ、ジャン=H=サウスバ ーグの目の前で。  一歩も触れていないにも関わらず、内側から膨脹して――魔王クレメンスが、爆発したのだ から。  即死とか、そういう問題ではない。爆発した魔王クレメンスの身体は、もう何も残っていな い。魔同盟。魔王。人類のごく一部でしか対抗できないような強大なる集団、強力なる魔性。  それが――一瞬で。  文字通りに、一瞬で……死んだ? 「僕は何かと君は聞いたね。答えてあげよう。僕はジャン。砂海賊、ジャン=H=サウスバー グだ。この子は、エル=エデンスは困っていて、助けを求めていた。そして砂海賊である僕は ――このパシティナ砂海で困っている全てのものに手を差し伸べる。相手が魔王だろうが勇者 だろうが、この僕が退くことは決してない!  エル=エデンスは僕の手を取った。だから僕は彼女を助けた。それだけだ!」  ぱん、ぱんと、服についた砂を払いながらジャンが言う。その声はやっぱりいつもと変わり はない。その言葉からすれば、魔王クレメンスを殺したのは、殺してのけたのは彼だというの に――何事もなかったかのように、言う。 「くくくクレメンス様ァ!? オマエ何した!?」 「バカなバカな! 魔王だぞ? 大アルカナが!?」 「…………! ……!」  近衛音楽隊が慌てたように言う。それも当然だ。彼女たちにとっては、手の届かないほどに 強力な存在が、わけもわからず葬られたのだから。騒がない方がどうにかしている。  平然としているのはジャンだけで、私も同じように混乱していた。  けれど。  本当に驚くべき自体は、次の瞬間に起こったのだ。 『静かになさいな、貴方たち』  そう、何もないところから声が聞こえた。 「――え」  今度の声は、私自身のものだった。そう自覚できた。言いながら、一歩、二歩と後ろに下が る。ジャンは退かない。ジャンの肩越しに、驚きと喜びが入り混じった音楽隊の顔が見える。  そして――何もないところから。  ずるりと、水から丘にあがるように、空間から死んだはずの魔王クレメンスが踊り出てきた のだった。  怪我をした様子もない。さっきまでと――死ぬ前と、何も変わりが無い、微笑みを浮かべて いる。  私の驚きを見てとったのか、魔王クレメンスは私に笑みを送り、 「心配してくれて有難う、エル=エデンスさん。でも大丈夫よ。私は――死なないのだから」 「死なない……」 「そう、私は、死なない。だからこその、魔王よ」  死なない。  それは――不死ということか。  魔王クレメンスは弱い。魔同盟の中でも最弱なのかもしれない。強力な力もなく、多彩な魔 法もなく、膨大な破壊もせず、極悪な呪いもつかわず。たった一人で、空を飛ぶことすらしな い魔王。  その彼女が、なぜ魔同盟の八番に席を置くのか、今わかった気がした。  人類が未だ到達しえない極地――不死。  殺しても、死なない。  身体が内側から爆発しても――死なない。 「そんな……そんなの、有りなの?」 「在るのよ、此処に」  にっこりと、魔王クレメンスは、不死の女性は頷いた。  頷いて、彼女は、私から視線をずらした。その瞳が見据えるのは、自身を一度殺した、ジャ ン=H=サウスバーグだ。 「驚いた?」 「驚いた! 凄いな!」  母親のように微笑む魔王クレメンスに、子供のようにジャンははしゃいだ。 「貴方にも驚いたわ。まさか、あの一瞬で――身体の中に砂を詰められるとは思わなかったも の」 「……砂?」  私の問いに、ジャンは振り返ることなく「そうさ」と答えた。 「口だけでなく、皮膚からも砂を無理矢理に吸引させて、パンクさせたのよね? その速度が あまりにも速すぎて、見えなかっただけで」 「そういうことさ」  肩を竦めて、ジャンは頷いた。  それは――私からしてみれば、とんでもないことだ。  砂の魔法使い。  いくらこの場所に砂が満ちているとはいっても、そんな素振りはまったく見えなかった。魔 王クレメンスの中に砂が入りこむところなんて、見えなかった……  ――いや、違う。  魔法使いとしての私の知能がそれを否定した。見えなかったのではない。見えているのに、 気付いていないのだ。ここは砂海であり、あたりには砂霧が吹いている。私たちに見えないだ けで、大気中には砂が満ちているはずだ。今服を脱いで洗えば、きっと服からは砂が山のよう に出てくるだろう。  けれど、それを一瞬でやってのけるのは、並大抵の腕ではないはずだ。  私は今更ながらに、このジャン=H=サウスバーグという、子供のような男に対して疑問を 感じずにはいられなかった。  一体、彼は何者だと言うのだろう――?  その、問いを。  ジャンではなく、魔王クレメンスが、教えてくれた。彼女は微笑んだまま、正面に立つジャ ンを見据え、はっきりと言ったのだ。 「『集会』で話題に出たことがあるわ。貴方――『砂海の覇王』ね」  魔王クレメンスの問いに、そらとぼけるようにしてジャンは答えた。 「そうよばれたことも、あったかな」  そう肩を竦める彼の後ろ姿を見ながら、私の脳は高速で動いていた。  砂海の覇王。  ジャン=H=サウスバーグ。  どこかで聞いた名前だ、と初めて出会ったときに思った。そのときはただの勘違いだと思っ ていた。  違うのだ。  私は間違いなく、その名前を、聞いたことがある。いや――読んだことがあるのだ。 「思い出した! 貴方は――」  彼の名前を思い出せなかったのも当然だ。彼は二つ名のほうがよく通っているような人間で あり、その名前は、歴史書や伝記――あるいはおとぎ話の中で語られるような存在なのだから !  ・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・  今から三十年も前に、魔同盟と決戦をやらかした、パシティナ砂海の覇王! 「砂海の覇王――『蜃気楼』船団のジャック――ジャン=ホライズン=サウスバーグ!」 「そんなに長い名前で呼ばれると照れるね! ジャン、でいいよジャンで」  あはは、とジャンは笑う。  私は――まったく笑えなかった。『砂海の覇王』といえば、そのとんでもなさだけで言うな ら、魔同盟にすら劣らないものなのだから。魔王を相手に幾度となく互角以上に渡り合い、砂 海を埋め尽くすような『船団』を率いる覇王。その力は、勇者にすら匹敵するかのような―― 間違いなく、人類最強の一人だ。  だからこそ、私の頭の中に、疑問がわいた。  目の前に立つジャン=H=サウスバーグは、どう見ても、二十台の青年にしか見えないから だ。 「僕はただの、砂海賊だ」  言って、ジャンが一歩を踏み出す。逆に、魔王クレメンスは大きく後ろへ退いて、再びベッ ドの上に立った。その魔王クレメンスを守るようにして、近衛音楽隊の三人が立ちふさがるが ――先とは違って、腰が引けている。  それも当然だ、話が本当ならば、魔同盟の大アルカナでしか対抗できない存在なのだから。  ……間抜けな後ろ姿からでは信じ難いけど。  私と違って、魔王クレメンスは確信を持っているのだろう。微笑む眼差しは、いまやジャン にのみ注がれている。 「……黒雲星羅轟天尊が、貴方と決着をつけたがっていたわよ?」 「そうだね。彼とは引き分けたままだったな!」  黒雲星羅轟天尊。魔同盟の七、戦車・不敗将軍。彼もまた、伝承でしか聞かない名前だ。そ れと――この、目の前の男は、戦ったというのだろうか。 「こんなところで出合うとは思わなかったけれど――」  魔王クレメンスは微笑みを強め、 「――魔剣王シュナイデン!」  叫ぶと同時に、再び爆発が起きた。今度は――魔王クレメンスの足元のベッドが避けたのだ ! 同時に、ベッドの下に棺桶に収まるようにして入っていた巨大な鎧がクレメンスを守るた めに纏わり付く。 『承知』  重い声と共に、鎧はクレメンスと一体化する。その存在もまた、私は伝承で知っていた。  魔同盟小アルカナ、剣の王、『汝の敵に害なすモノ』、魔剣王シュナイデン! こんな奴ま で同行していたのか!  魔同盟が五人に砂海の覇王! いったい、こんな僻地で何が起きているというのだ! 「――魔王クレメンス!」  黙っていられずに、私は叫んだ。怒号に近い叫び声を受けても、魔王クレメンスは平然とし ていた。 「なぁに、愛しい貴方?」 「ルシャナーナ近衛音楽団は、貴方の部下ではなく、魔王ルシャナーナの部下。魔剣王シュナ イデンは貴方の部下ではない上に、限りなく魔同盟に近い存在!」 「その通りよ。よく勉強しているわね」  微笑む魔王クレメンス。その微笑みが、今は苛立たしい。魔王が一ヶ所に集まるなんて、本 当はあってはいけないことなのだ。それがあるとすれば、そんなものはもう、災事の前触れに 他ならない! 「魔王同士が集まって――何をするつもりなの!?」  切実な、私の問いに。  魔王クレメンスは――これまでで一番優しい笑みを浮かべて、答えた。 「新しい仲間と――新しい宿敵の誕生」  宿敵。  ――勇者?  その言葉は、ふと、何の理由もなく、私の頭に浮かび上がってきた。それが何を意味するの か、今は分からない。判らないが――何か、とんでもないことを、言われたような―― 「話はすんだかい? じゃあ――」  先からずっと、私が喋り終わるのを待っていたのだろう。黙ったのをこれ好機と、さらにジ ャンが一歩を踏み出した。魔剣王シュナイデンはもはや凶悪な攻防一体となって魔王クレメン スと一体化している。魔王クレメンスの魔力――あるいは執念や情愛を――吸い取って、鎧は 見る間に巨大化しつつあった。もう少し大きくなれば、船を叩きつぶせるだろう。それに加え て音楽隊の三人。普通に考えれば、勝ち目はないというのに。  そんなことはまったく気にせず、ジャンは、高らかに宣言した。 「――さよならだ!」  同時に――魔王クレメンスが、配下の三人ごと、横合いから殴られて吹き飛んだ。 「えええええええ!?」  あまりにも馬鹿馬鹿しい光景に私は声をあげてしまった。前触れもなく、横から伸びてきた 巨大な亀の手が、魔王クレメンスを思い切り殴り飛ばしたのだから。  百メートルうは――跳んだに違いない。  見事なまでの飛びっぷりだった。それを可能にしたのは、船を一口で呑み込んでしまえそう な、巨大すぎる亀だった。いや、亀ではない。コレのことを、確か、誰かがこう呼んでいた。  ライノサラス。  パシティナ砂海にのみ住む、巨大な竜。主食が竜種や龍種だという、信じられない巨大生物 。まさしく、砂海の覇王と呼ぶのに相応しい生き物だ。ただし、その存在は砂海にのみ限られ ている上に、絶滅しかけていると生徒が言っていた様な―― 「でも……ウソでしょ」  もはや、偶然でも、何でもなかった。  必然以外の何だというのだろう。  その絶滅しかけているライノサラスが、何十頭、何百頭と、砂海の地平を埋め尽くすかのよ うに魔王クレメンスを囲んでいたのだから。いや、彼等だけではない。火龍ラーバクリムゾン を初めとする龍や――もう数え切れないほどの人間の船が、吹き跳んだ魔王クレメンスを取り 囲み、一斉に襲い掛かっていた。  その間に、船は先ほどのまでの遅さからは考えられないほどの速度で走り出す。  これでは、いくら彼女が不死でも――追ってこられるはずがない。  一瞬前までは、砂海の上には船以外には何もなかったというのに――  これが。  これが、砂海の覇王の。  どこからともなく現れ殲滅していく――『蜃気楼』船団。  船は猛スピードで走っている。それは風を受けているのではない。見れば、砂たちが船を前 へ前へと押し出しているのだ。  魔王クレメンスたちが――あっという間に、砂霧の向こうに、見えなくなる。 「もう大丈夫だろう。約束どおり君を助けた……僕もお別れだ」  振り向かずに、ジャン=H=サウスバーグが言った。 「お別れ……」  彼の言葉を繰り返す。そう、出会って、分かれる。いつものことだ。冒険をしていればいく らでもめぐりあうことだ。  でも、なぜか、その背中が寂しそうに、私は思えたのだ。 「そう、お別れだ」  ジャンは繰り返す。どこか寂しそうに。  そして――私の見る前で。  ――海賊たちが、砂になって崩れ落ちた。 「――!?」  さっきまで賑やかに談笑していた海賊たちが一人残らず砂になって崩れ落ちた。《さっきま で海賊だったもの》は、あっという間にパシティナ砂海の一部になってしまう。それどころか 、船を守るようにして併走していた龍やライノサラスまでもが、砂になって崩れ落ちてしまう 。  全てが、蜃気楼だったように。  まさか。  まさか、さっきの『船団』が、全て――  砂の魔法使い。  砂海の覇者、ジャン=H=サウスバーグ……いったい、何が、どうだというのだろう。  全てが、蜃気楼のように――曖昧で、幻のようだ。 「……お別れだ。長い旅の中で、君に会えることを、僕は願う」  彼はそう云うと同時に、船が二つに分かれた。船もまた砂で出来ていたのだろう――彼が乗 る船と私が乗る船が、まったく別の方へと、走り出す。  お別れ、なのだ。 「――ジャン!」  無意識で、私は去っていく彼の名前を呼んだ。呼ばずにはいられなかった。遠ざかっていく 彼の背中は、彼の肌は、彼の姿は――ぱりぱりと、砂が崩れ落ちるようになっていたのだから 。  ――砂海の覇王。  その意味を、私は――遅すぎるほどに、ようやく理解したのだった。  ジャンは。  ジャン=H=サウスバーグは、そんな私に。  振り向かないままに、ひらひらと手を振って、砂霧の向こうに消えていった。  また会えるさ――何も言わない背中は、そう物語っているようだった――  砂海の覇王 ―― 完 ・登場人物 エル=エデンス http://www23.atwiki.jp/rpgworld/pages/100.html 魔王クレメンス http://www23.atwiki.jp/rpgworld/pages/157.html ルシャナーナ近衛音楽隊 http://www23.atwiki.jp/rpgworld/pages/241.html 魔剣シュナイデン http://www23.atwiki.jp/rpgworld/pages/194.html ライノサラス http://www23.atwiki.jp/rpgworld?cmd=upload&act=open&pageid=7&file=P27.jpg 設定+絵なし ジャン=H=サウスバーグ  最後まで読んでくれてありがとうございました。