――最初に見たのは、白い背中。  それが道楽のマクラミンと呼ばれる賢者の背中なのだと、そのときの私は知らなかった。白 衣が、どれだけの血に染まっているのか、私は知らなかった。ただ、その背中を見て。  ――寂しい人だ。  そんなことを、思った覚えがある。    ■ ライオンハート・クロニクル ■ 《彼》との生活は短いものだった。いや、彼、というのはおかしいのかもしれない。道楽のマ クラミンは、自分の性別も年齢も、忘れてしまうくらいに道楽した人だったのだから。自身に もメスを入れたせいで、元の姿とは変わってしまったらしい。人間の本質は魂だよ、とは彼の 言葉だったが、私にはよく分からなかった。  私は――人形だから。  クロナ―O(Null)。それが、私の名前だった。クロナシリーズの零番目。道楽のマクラミ ンと、皇国研究室が協力して創り上げる戦略兵器、魔道人形クロナ。君はその長女なんだよ、 とマクラミンは笑った。彼はいつも笑っていた。楽しいときも、悲しいときも、いつだって笑 うんだ――そう自分で紹介してくれた。  やっぱり、よく分からない。  なぜ笑うのか、分からない。  人形である私には、分からない。  本質が魂という彼の言葉が。  世界の全てを楽しむ彼の笑みが。  私には――分からない。  だから、真似てみた。人の真似をするのが人形だ、と誰かが言っていたから、分からないま まに真似てみた。楽しくも、悲しくもなかったけれど、マクラミンを参考にして笑ってみた。  道楽のマクラミンは、笑う私を見て。  ――ああ、いい笑顔だね、君。  なんて、まったく嬉しそうじゃない笑いを浮かべて、言ってのけた。  彼との短い生活は、万事がそんな調子だった。道楽のマクラミンは誰とも息の合わない、ち ぐはぐな人だった。変人揃いの皇国研究室においてすら、彼は浮いていたし――浮いているこ とをまったく気にしていなかった。ただの実験品として作られた私に、話しかけてきたことも 彼だけだった。  もっとも、それは私のことを思ってではなくて。  ただの暇つぶしだよ――と、マクラミンは言っていた。彼は正直なので、悪いことも良いこ とも、思ったことは全て口に出す癖があった。他人が自分をどう思うか、まったく気にしてい ないのだという。 「ここはあまり楽しくないねえ」  私の身体を弄りながら――文字通りに腹部を切開し、中身を組み替えながら――道楽のマク ラミンはそう言った。皇国研究室、研究員たちに実験経緯を見守られている中で言ってのける ので尋常ではない。実際、周りにいた研究員たちの顔がひきつることができた。  中身が開かれている私は動くこともできない。  マクラミンに相槌を打つこともできないので、私はだまって首を傾げた。  私は何も言えない。  首につけられた首輪は、私が喋らない象徴だった。  歌声と共に魔力を放出するというコンセプトなのだよ――とマクラミンは笑っていった。戦 歌と共に敵も味方もバタバタ死んでいくなんで愉快じゃあないか、とも言っていた。  そう。  製作者のマクラミンしか知りえないことだったけれど――『歌声』には、敵味方の識別機能 などついていないらしい。敵も味方も区別しないような人間が作ったのだから、当然だったの かもしれない。知らぬは皇国の人たちばかり、ということだった。  実際に歌ったことはないので、私にも、よく分からないけど。  そもそも。  私にだって――よく分からない。  敵と味方の違いが。  敵とは――なんだろう。  味方とは――なんだろう。  研究室から一歩も動けない私には、よく分からなかった。 「退屈というか……退屈を楽しんでいないねえここは。なんで成果を求めるのだろう? 何一 つ結果を得られないとしても実験するべきだよ……全てはダメもとじゃないか……」  ぶつぶつと言いながら、マクラミンは私を創り上げていく。そのたびに身体の内側から痛み が走るが、声を漏らすこともできない。  痛みは消せるのだという。  消せるけれど、消してあげない――マクラミンはそう笑っていた。  これは陣痛なのだという。  産まれるための痛みなのだと、血まみれのマクラミンは言った。 「痛みがあるから楽しいんじゃないか。死ぬから生きるのが楽しいんじゃないか」  彼の言葉と共に、骨が生まれる。血管が生まれる。生まれた骨に肉がつき、血管に血と魔力 が走る。埋め込まれた人工の心臓はどくりと音を立てて鼓動する。  月の欠片、というらしい。  三つ子月の一つが欠けた時に地上へと降り注いだ、貴重な道具だそうで――それが欲しかっ たからに、皇国に協力しているのだと、マクラミンは言った。つまり彼は、皇国研究室なんて 、少しも必要としていなかったことになる。  寂しい人だ、と思った。  寂しい、ということが、どういうことなのか、私はよく分かっていなかったけれど。  自分以外に誰も必要としないこの人こそ――それに相応しいのではないのかと、なんとなく 思ってしまった。  声は出ないので、彼にそう言うことはできなかった。  ただ、もし言ったとしても――やっぱり、彼は笑い飛ばしたのだろう。  そんなことはとうに知っているよ、と。  彼との生活は短い間しか続かなかった。  というのは簡単なことで、彼が私を持ってあっさり皇国から逃げたからだ。もとより月の欠 片を手に入れた時点で逃げ出すつもりだったらしい。すぐにそれをしなかったのは、彼曰く 『厄介なヤツ』が皇国に滞在していたからだ、とのことだ。あとは、皇国研究室へのサービス だよ、と笑っていた。  その『厄介なヤツ』が誰かは知らないけれど、その人が皇国から去った夜、道楽のマクラミ ンはあっさりと皇国研究室から造りかけの私という荷物を持って逃げ出してみせた。皇国の暗 部、『研究室』の警戒は並大抵のものではなかったはずなのに――彼は散歩するような気軽さ で逃げてみせた。  ……まあ。  私を作る片手間で、彼が作っていた幾百もの品々が、一斉に爆発すれば、それくらいは簡単 なのだろう。自分の作ったものをあっさりと壊してのける彼は、本当に結果というものを重視 していないらしい。  私も同じように壊されるのかな、と思った。  そのとき、私は悲しむのか、喜ぶのか、分からないけれど。  きっと――笑っているのだろうなと、思ってしまった。  微笑みだけが、マクラミンから貰った、唯一の『私のもの』だったから。  短い生活は、もう少しだけ続く。  道楽のマクラミンの隠れ家――まったく隠れていない巨大な塔――で、私の作成は続いた。 皇国でも作れたらしいが、あそこは楽しくないのでこっちに帰ってきた、とのことだった。  げぇげぇと鳴く首が三つある鳥や、一つの身体になってしまった三つ子の少女とか、手と足 がさかさまについてる龍とか、とんでもないものがいっぱいある塔だった。私も、彼らから見 たらとんでもないものなのだろうか。  よく、分からない。  研究室にいたときよりも、マクラミンは活き活きと造ってみせた。自働回復機能や月の欠片 そのものへの細工など、皇国の研究室員が命を捨ててでも欲しがるような技を、あっさりと実 現してのけた。  本人は、そのことを誇る様子もなかった。できることは全てやる、というだけだった。体内 を弄くられる痛みはあったけれど、痛みもなかったら私には笑みしか残らないので、少しだけ 嬉しかった。  痛いということは――私もまた、生きているのだから。  魂があるのかどうかは知らない。  生きたいのかどうかは分からない。  ただ――生まれつつあるのは、嬉しかった。  クロナ―Oという命が生まれつつあるのを、私は自身で知覚しているのだ  おかしな気分だった。  おかしな気分が、『良い』のだと、なんとなく思った。  そして別れはあっさりとやってきた。 「よし、造り終わった」  そう言って道楽のマクラミンは、踵を返して立ち去ろうとした。その彼の白衣を、私は知ら ずにつかんでいた。彼が去ってしまえば、私は何をしていいかわからなかったからだ。  ――私は、完成した。  開いた腹部は閉じられた。手足もある。服も着せられた。命を持つ人形として作りあがった。  けれど、私にはきっと、魂がない。  私には――意志がない。  何をしたらいいのか、分からない。  何をすればいいのか、分からない。  何を、したいのか――分からない。  目的がない。  生まれてきたのに、目的がない。  それでは――未完成だ。  生まれていないのと、同じだ。  そう目で訴える私に、道楽のマクラミンはつまらなさそうに笑いながら、 「――そんなこと、知ったことじゃない。とりあえず造ってみただけなんだから」  と、あっさりと、私の存在意義を否定してのけた。  まだ――戦略人形として造られた方が、ましだったのかもしれない。  戦うための人形として生まれれば、戦うために戦って、戦いの中で壊れればいい。生き方も 死に方も全て決まっている。  けれど。 『ただ作られた』だけの人形は――何をすれば、いいというのだろう。  愕然とする私に、道楽のマクラミンは、楽しくなさそうに笑ったまま、言葉を続ける。        ・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・ 「クロナ―O。君は最高の失敗作だ。最悪の成功作と言ってもいい」  彼が何を言っているのか――私には、分かっていた。 『クロナ―Oの性能』を、私は彼から教えてもらっている。何ができるのか、ということを。  でも、それは――何をすればいいか、ではないのだ。 「もっとも、そんなこと興味ないがね――出来上がったものに興味はないのだよ。君は君で勝 手にするといい」  なんなら愛でも探せば――そんなふうに、嘯いて。  道楽のマクラミンは、あっさりと、塔から姿を消した。  驚くべきことに、置いていかれたのは私だけではなかった。異形の鳥も、異形の少女も、異 形の龍も、全て彼は置いていった。出来上がってしまったものに興味はないと言い捨てて、新 しい興味の沸くもののところへと、塔ごと捨てて去ってしまった。  最後まで、振り返ることも、触れることもなかった。  親に捨てられた子供とは、こういう気分なのかもしれない。  それでも、彼を怨む気にはなれなかった。彼はきっと、寂しい人なのだろう。新しく手にい れたものもまた、すぐに捨ててしまうのだろうから。彼のもとには、何も残らない。ただただ 享楽に生きる、世界を捨てる賢者。  ――道楽。  それが、私を生んだ――彼の名前だった。  そうして私は、『彼に初めて名前を呼ばれたな』と思い返して、微笑むのだった。  微笑むことしか、知らなかったから。   ――その塔が、私の墓標だった。  塔のてっぺんで私は死んだように眠った。そもそも、生まれてもないのだから死ぬこともな い。目的がなければ、思考する肉体と同じだ。ただの置物として、私はそこにいた。  誰かが壊してくれるのを、待っていたのかもしれない。  誰かが目的をくれるのを、待っていたのかもしれない。  けれど誰かが迷い込んでくることすらなかった。道楽のマクラミンが建てた塔は、それ自体 が一種の封印に近かったらしく、皇国が私の居場所を探り当てて乗り込んでくるまで、誰も訪 れることはなかった。  だから、“ドクター”が、私に話しかけてきた二人目だ。  道楽のマクラミンとはまた違う笑みを浮かべて、彼は私に話しかけてきた。マクラミンは楽 しくて笑っていたけれど、ドクターは他人と戦うための笑い方だったように思う。そんな笑み を浮かべながら、ドクターは言った。「道楽のマクラミンが盗んで捨てたお前を回収しにきた 」と。そして彼もまた、道楽のマクラミンのように正直に、自分の目的を語ってくれた。  回収して、私を壊すのだという。  異存はなかった。  生きて――やりたいこともない。  墓場から、死ぬために引きずり出されるだけのことだ。  手足に枷をつけられて、ドクターによって塔から出された。異形の鳥も、異形の少女も、異 形の龍も塔にはいなかった。どこかへ逃げたのか、誰かに連れていかれたのか。分からなかっ たけれど、どこかにいるといいなとと思った。  馬車に連れられていく間、ドクターは私に色々と話しかけてきたが、憶えていない。ドクタ ーも、きっと覚えていないだろう。  道楽のマクラミンは、本当の意味で私のことを「どうでもいい」と思っていたけれど。  ドクターは、私のことを解剖対象としてしか見ていなかった。  その違いは大きいけれど、結局は同じことだ。そこに私はいない。『クロナ―O』という製 作品に対する扱いだけだ。  ふと、マクラミンの去り際の、寂しそうな白い背中を思い出す。  一度だけ――呼んでもらった名前を思い出す。  彼は……生きているのだろうか。  そんなことを、ふと、思い出してしまった。  私の思いとは関係なく、馬車は進む。  皇国を目指して。  私の死を目指して、私は進み――  ――そして、彼に出会ったのだ。あの優しい獣王に。  人相の悪い人だった。  クランベルク=ライオネルという人の見かけは、そういう言葉で括れると思う。顔も、手足 も、傷がないところはなかった。自働修復機能がある私には、傷というものは少しもない。だ から、それは少しだけ不思議な感覚だった。  傷がない私と。  傷だらけの彼。  それが――似ていると、思ってしまうなんて。  ――寂しそうな人だと、思った。  道楽のマクラミンを思い出してしまった。多分、目だ。初めて私を見てきた彼の、唯一傷が ない瞳に、私はマクラミンと自身を映してしまったのだと思う。  理性を捨てて戦う狂戦士――だと、ドクターは言っていた。  それはきっと、正しいのだと思う。『獣王』は、理性を持っていては戦えない人なのだとす ぐに判った。戦うこと以外に何も持っていないのに、何故戦っているのか分からない。そんな 、迷子のような人だった。  傷だらけの顔は、泣いている子供のように見えた。  自身以外と分かり合えない彼を――寂しそうだと思った。マクラミンと同じように。  自身すらも理解できない彼を――私は、『私のようだ』と、思ってしまった。  だから、気付けば。  マクラミンにだけ見せた、私の唯一の持ち物を。  微笑みを、彼に向けていた。  いやな笑顔だ、とドクターは言った。それはその通りだと思う。これはマクラミンの焼き直 しにしか過ぎなくて、私が自分で見つけたものではないのだから。それしか渡せるものがない から、笑っただけだ。  笑うだけで、何もいえない私。何もできない私。何も持たない私。  そんな私を――彼は、嫌っていたのだと思っていた。三日間、彼は私に話しかけてくること はなかったのだから。嫌われて当然だと思った。何も持たない私を、笑うだけの私を、好いて くれるはずがにないからだ。  自分が、獣王に好いて欲しいと思っているのだと――そう気付いたときには、驚いた。  そんな感情が、自身の中にあることに。  だから。 「…………暇……なのか……?」  そう彼の方から話しかけられたとき、私はきっと――喜んだのだと思う。喜び方なんて知ら なかったから、首を傾げることしかできなかったけれど。  言葉が使えたら、彼に、そう伝えられたのだろうか。  血塗れの彼は、それだけでなく、いくつも話しかけてきてくれた。  怖くないのか、と彼は問うた。  そんなこと――考えもしなかった。私こそ、彼に怖がられているのだと思っていた。強い彼 は、全てを怖がっているように見えたから。  そんなことないよ、と言いたかったけれど。  声が使えない私は――精一杯の気持ちを込めて、微笑んだ。  傷の奥にある瞳が――少しだけ、嬉しそうに笑っていたような、気がした。  そして彼は――私を連れて、逃げ出した。  どうして彼がそんなことをしたのか、私には分からなかった。きっと、彼にもわかっていな かったのだと思う。彼は悩みながら、それでも私をつれて逃げた。  私を殺したくないと、彼は思っていた。  なぜ殺したくないのか、分かっていなかった。  私は生きたくも死にたくもなかったけれど、それでも抱きかかえられた獣王の腕が心地良く て、逃げることもしなかった。もとより逃げられる手足ではないけれど。  きっと――嬉しかったのだろう。  誰かに、必要とされたことは。  もっとも。  真に、私が『嬉しい』と感じることは、その後にきたのだが。 「……クロナ―O」  初めて。  彼は――私の名前を、呼んでくれた。  あの日、二度と会うことがなくなった、マクラミンのように。  私の名前を――呼んでくれた。  それだけではなかった。彼はそのごつごつとした、傷だらけの手で、私を撫でてくれた。誰 かから、こんな風に優しく撫でられたのは初めてだった。喜びが過ぎて、何を言っていいのか も分からなかった。  もし。  もし私に声が使えたのなら――彼をそこで、引き止めるべきだったのだ。  初めて、生きる目的を見つけ出した彼は。  獣王は、私のために。  己はお前のためにある、と言い残して――魔刃とともに崖へと身を躍らせたのだから。  そうして、私は。  誰もいなくなってしまった崖の上で、ようやく悟ったのだ。  私は、獣王が――好きになっていたのだと。  そんな小さな事実を、私は彼を失って、初めて知ったのだった。  マクラミンから、笑みを貰ったように。  あの優しい獣王から、胸に宿る温かな感情を貰ったことに――彼がいなくなって、私は気付 いた。 「……あ、」  口から声が漏れたのは、どれほど時間が経った頃だったろう。  茫然と――何も考えることもできずに、私は崖を見ていた。彼を失ったという事実を、私は 認めたくなかった。ずっと、ずっと、崖を見ていた。崖から、目を逸らすことができなかった 。  だから。  後ろから近づいてきていた人間に、私は――まったく、気付いていなかった。 「……クロナ」  後ろから自身の名を呼ばれて――私は死んでしまいそうなほどに驚いた。聞き覚えのある優 しい声。私の名前を呼んでくれた、たった二人の男性の一人。 「あ……」  振り返れば。  獣王、ライオネル=クランベルクが、そこに立っていた。 「良かった……無事、だったのだな……」  ライオネルはそう言って、一歩、また一歩と、私へと近寄ってくる。斧を杖代わりにして、 歩いて寄ってくる。  私は、何も言えない。  声が出ないからではなく。  彼の姿を見て――何を言うことも、できなかった。 「心配、だった……」  ぽつりと、零れるように聞こえる彼の声に力はない。  当たり前だ。  どう見ても――彼は、死にかけている。  死んでいない方がおかしいのだ。片手と片足は完全にもげているし、残る手足も曲がってい る。鎧はあちこちがへこみ、流れる血は止まっていない。彼が歩いてきた道にはずっと血のあ とが続いている。  普通なら死んでることは、人形の私にも分かる。  彼はただ――その信念だけで、歩いているのだ。  私の無事を確認したいという、それだけの理由で――死んだ身体を動かして、ここまで戻っ てきたのだ。 「……ああ、安心していい……アレは、己が……倒したから……」  ずり、ずりと、歩くたびにいやな音が聞こえる。彼の動かない足が、土を引きずる音。身体 ふらふらと左右に揺れ、そのたび盾と斧で無理矢理身体を起こす。  立ち止まらない。  獣王ライオネルは、決して――立ち止まらない。  橋の前で立ち尽くす私へと、歩み寄ってくる。  私は――何も言えない。  今にも死ぬ彼に、何も言葉を、かけられない。 「もう、お前を脅や、脅かす……ものは、な……い」  立ち尽くす私に、彼は死にそうな――けれど優しい声で言って。  歩み寄ってきたライオネルは――私の頭を、撫でてくれた。  安心していいと、言うように。  そっと、頭を撫でてくれたのだ。 「あ……あ、あ……」  私は、何も言えない。  何も――言うことが、できない。  それでも、彼は笑ってくれた。ライオネルは、立ち尽くす私を、そっと抱きかかえた。手足 に枷がついている私は逆らえない。逆らうつもりもない。何をする気なのか、問うこともでき ない。  ライオネルは、左手で私を抱いて。  橋を、渡り始めた。 「離れ、よう……ドクターが、くるかも、しれないからな……」  自身の命が尽きようとしているこの瞬間でさえ、ライオネルは私の心配をしてくれた。それ が彼の生きる理由なのだと、命が続く限り戦い続けるのだと――彼はその全身で叫んでいた。  私に、何が言えるはずもない。  抱きしめられた腕から抜けていく命を、感じとることしかできない。  死人の足取りで、ライオネルはそれでも橋を渡りきる。ふらめきながらも、さらに山を登ろ うとする。  ――もういい。  そういいたいのに。  ――もう、止まって。  そういいたいのに。  私の口から――言葉は出ない。  言葉が出ても、彼を止めることは……きっと、できないだろう。  ライオネルは。  ライオネル=クランベルクは――笑っていた。  満足げに、笑っていたのだ。  そうすることで、幸せだと言いたげに。  こうしているのが――幸せだと。  獣王は、笑っている。  私は。  私は。  私は―― 「……ああ、ちょうど、良かった……あそこに、か、隠れよ……う、」  ライオネルの足取りが変わった。明確な目的地を見つけて、軌道を修正しながらライオネル はさらに昇る。顔を上げてみれば、行末に小さな小屋があった。遠い昔に役割を終えて、捨て られて軋んだ古い小屋。隠れるには、ちょうど良いだろう。けれど、たとえ隠れたとしても、 ライオネルはもう―― 「……どうした、クロナ、……」  その不確かな足取りで、けれどライオネルはついに小屋にまで辿り着いた。斧を手放し、扉 を開けて、中に入る。  小さな、何もない小屋。  その中心に、ライオネルは私をそっと降ろして――ついに、力尽きたかのように倒れた。  そのまま、起き上がらない。  倒れたまま、顔をあげて、ライオネルは霞む瞳で、私を見ていた。 「なぜ、お前は……」  私は。  私は―― 「なぜ……泣いて、いるんだ……?」  私は――泣いていた。  水晶で出来た瞳からは、後から後から、とめどなく涙が流れていた。止めることができない 。なぜ泣いているのかも、分からない。分からないけれど、涙は止まらない。瞳からは堰を切 ったように、次から次へと涙が零れ落ちてくる。  人形の私は。  人間のように、泣いていた。 「泣くな……泣くな、クロナ。己は……嬉しいんだ、お前に会えて……」  言いながら、ライオネルが震える腕を伸ばし、そっと私の頬を拭った。彼の手が、血に濡れ る彼の手に、私の涙がぽたりぽたりと振り堕ちる。  それでも、涙は止まない。  なぜ泣いているのか、分からない。  なぜ泣いているのか、分からない。  なぜ泣いているのか、人形の私には、分からない。  ――けれど。  胸の中にいる、温かい何かが囁くのだ。彼のことが好きだから。その温かさが、涙の理由な のだと。  人形も――泣くのだと、心が囁く。 「笑って、くれクロナ、己は……お前の、笑顔が……好きなんだ……」  失われていく力。  失われていく命。  死に瀕した彼の願いを――私は、かなえたかった。  涙は止まらない。  それでも、それでも。  私は、彼のために。 「ラ……ライオネル――」  名前を呼んで、微笑んだ。  それはきっと、涙にまみれた、ぐちゃぐちゃの微笑みだっただろうけれど、私に浮かべらる 唯一の笑顔だった。マクラミンの笑顔でも、ドクターの笑顔でもない。私の胸のうちから生ま れる、泣く笑顔だった。  ライオネルは。  ライオネル=クランベルクは。 「ああ……いい笑顔だ……」  初めて――己の名を、呼んでくれたな。  そう、笑って。  それを最後に――頬にふれていた、手が落ちた。優しい瞳が、命の色を失う。  獣王、ライオネル=クランベルクは――その命を、失ったのだ。  そして、私は。 「あ……あ、あ――」  私は―― 「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」  喉の奥よりも、更に奥。身体の深くにある何かから、大声で悲鳴をあげた。彼の死が、彼の 死が、彼の死が、彼の死が、ライオネル=クランベルクの死が、私を壊していく。  叫びは止まらない。  かつてマクラミンは言った。お前は最高の失敗作で、最悪の成功作だと。  マクラミンは言った。  ――お前は喋ることはできる。  マクラミンは、言った。  ――ただしその口から出る声は、全て『歌』になるだろうよ――」  その言葉の通りに――私の悲鳴は、私の意志に関係なく、歌へと変わった。  悲鳴が、歌へと変わる。 「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」  叫びに音階が交ざる。音程が交ざる。リズムが、メロディが生まれる。自分では意味のない 叫びにしかすぎないそれは、確かな音楽となって外へと響き渡る。  クロナ―Oは、魔道人形だ。  歌と共に魔力を放出し、歌の聞こえるものを敵味方関係なく砕いていく、破壊兵器だ。  最高の失敗作。  最悪の成功作。  その意味を――私は思い知る。 「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」  泣きながら私は叫び、叫びは魔力となり、魔力は壊していく。  ――一番近くにいる、私自身を壊していく。  敵も味方も、自身も区別しない兵器。  それが――クロナ―Oだ。  それが分かっても、私は歌うのを止めない。  それが分かっても、私は自壊を辞めない。  なぜならば―― 「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」  身体が壊れる。  腕が壊れる。  足が壊れる。  瞳が壊れる。  ライオネル=クランベルクと同じように、壊れていく。歌の強さに再生能力も間に合わない 。再び構築された手足が治りきるよりも早く自身を壊していく。  ――それでいいのだ。  ライオネルは、私を守るために死んだ。  だから、私は。  彼を一人に――したくないのだ。  ライオネルの側を離れたくない――だから足は必要ない。  ライオネルとは手をつなげない――だから腕は必要ない。  ライオネルはこの世界にいない――だから世界を見ない。  唄うだけだ。  死んだ彼に聞こえるように、私は大声で、泣きながら叫び続ける―― 「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――!!」  喉が壊れて、叫びが消える。それでも『歌』は空気を震わせて外に出続ける。  何も見えなくなった視界の中。  零れる涙と一緒に。  私の『心』が。  私の『魂』が。  ソレが芽生えるなら、その中にこそだろうねとマクラミンがいった――魂の欠片を保持する 魔力に満ちた魔道具、『月の欠片』が、動かなくなったライオネルと、触れ合って――  唄い続けたまま、私の意識は、途絶えた。  恐らくは――永遠に目覚めることのない、眠りだった。         †   †   †  殺気を感じた。  否、殺気などと言うべき生易しいものではない。明確な死を側面から感じて、私は思い切り 前へと跳んだ。攻撃を受け流そうなどという気はなかった。もしかすりでもすれば、その瞬間 私はただのひき肉になってしまうだろう。  伏せた頭の上を――斧が通過していく感触。風が渦を巻き、伏せた私はそのままごろごろと 転がって壁に叩きつけられた。肺の中の空気が抜けていく。立ち上がらなければ死ぬ、と分か っていても、身体は言うことをきいてくれない。 「――ハロウドさん!」  私の命を救ったのは、やはりカイル君だった。いつの間にか、私の後ろに出現していた狂戦 士めがけて彼は剣を振った。ニ刀が鎧の中に食い込むが、狂戦士は身じろぎもしない。やはり あの中身は完全なる空洞なのだろう。いくら斬ろうが刺そうがあの中に魂はない。やるだけ無 駄、というのだろう。それでも、カイル君のような人間にそんな道理が通じるはずもなく―― 「双剣――開門ッ!」  突き刺された剣が、高速で左右に開かれた。狂戦士の鎧が三つに分断され、宙に浮いた両手 をさらに斬り落とし、結果五つに別たれた鎧が床に落ちる。がん、と重い音がするだけで、血 飛沫が飛んだりもしない。それどころか、床に落ちた鎧は、ぐにゃりと歪んで再び立ち上がろ うとしていた。 「助かったカイル君!」  その僅かな隙に、私は人形の側を駆け抜け、狂戦士の横を抜けて小屋の外へと抜け出す。私 を後ろを守るようにして、カイル君も続いた。狂戦士が追ってくる気配があるので、止まるこ ともできない。 「私ではあの戦士には勝てないだろう――いやはや、本当に死ぬところだった」 「いえ、行かせてしまった僕が悪いんです。アレ、ハロウドさんが小屋に向かった瞬間いきな り駆け出して……」 「アレを守るためだろうな」  先ほど駆け上がった道とはまた別の道を一気に駆け降りる。後ろからひしひしと殺意が追っ てくる。全力で降りなければ、まず間違いなく追いつかれるだろう。 「アレって……小屋の中にいた、あの人形ですか?」  私より比較的余裕のあるカイル君が、併走しながら問うてくる。 「そうだ。彼は彼女を守っているのだろうね。亡骸になった今でさえ」 「でも――」  カイル君は言いよどんだ。こういうところで言いよどむあたりが、彼らしいと思う。だから 代わりに、私は言った。 「そう。小屋の中にいた人形は――とうに壊れていたね」  小屋の中の光景を思い出す。  壊れた人形。  あれを――壊れていないと、言えるはずもない。          あそこで――いや、彼と彼女に何があったのかは知らないが、その物語はとうに終わりを告 げて、その結果があそこに残っているだけなのだろう。  手足も、瞳も壊れた人形だった。  とうに壊れているはずなのに、何かを抱きしめるようにして、ずっと小声で唄い続けていた 。歌は破壊の力があるのか、自身の身体を砕いていた。そのくせ人形には再生能力があるのか 、壊れたところが治り、治ったところをまた壊すように少女人形は唄っていた。  そこにはいない誰かに届かせるように、少女は優しく、唄い続けていた。  その歌声は、きっと。  あの狂戦士へと、送られる歌なのだろう。  確信はないが、そう思った。 「ハロウドさん、先に――!」  前方にある長い一本のつり橋を見つけてカイル君が叫ぶ。彼の意図を素早く察知し、私は橋 を駆け抜けた。カイル君は私と併走するのを止め、橋の入り口で立ち止まる。後ろからやって くる狂戦士を止めるためだ。  かぁん、かぁん、と鋼が打ち合う音。いくらカイル君が強いとはいえ――死なない相手では 分が悪い。ここは逃げの一手だ。  全速で渡り終えて振り向くと、カイル君と狂戦士が切りあっているのが見えた。その後ろ姿 に向かって、私は叫ぶ。 「カイル君、やれ!」 「了解――!」  叫ぶと同時に、カイル君が風のように舞った。くるりと回りながら狂戦士の鎧を二つに切り 裂き、結果も見ずに走り出す。橋に足を踏み入れると同時に、剣を一周振い――  橋が、堕ちる。  縄と板を斬られ、崩落する橋の上をカイル君は走り出した。重力にひかれて堕ちる橋の上を 、それよりもさらに早く走る。黒い旋風、という名は伊達ではない。不安定な足場を、文字通 りに彼は疾走する。それでも一手足らず、長い橋を渡りきるよりも早く、橋は崩落し、 「掴まれ!」  橋と運命を共にしかけた彼へと、私は袖口から伸ばした鞭を振った。迫る鞭をカイル君は器 用にもつかみ、二度、三度崖を蹴るようにして対岸へと駆け登る。ぐ、と腕にかかる衝撃を、 足に力を込めて堪えた。  さしたる苦労をした様子もなく、カイル君は崖上へと昇ってきた。まったく、なんて男だ! 「あいつは――」  再び剣を構え、カイル君が振り向く。私も彼に順じて対岸を見た。  狂戦士は。  崩れた橋の向こうで、仁王立ちしていた。私たちが戻ってくるとでも思っているのか、途切 れた道の向こうで立ちふさがっている。  きっと――いつまでも、そうしているのだろう。  あの人形を守るために、あの戦士は、いつまでも立ちふさがるのだろう。  死して、尚。 「……一体何だったんでしょうね」  狂戦士を見ながら、カイル君が呟く。もう戦う必要がないことを分かっているのか、剣を下 ろしている。どこか悲しそうな顔で――狂戦士を見ていた。  彼もまた、誰かを守るために生きる騎士だったのだから当然だろう。 「さあね、私には分からないよ。全ては私たちが関わる余地もなく終わってしまっているよう だしね――そして、そんなこととは全く関係なく、彼らは続いてゆくんだろう」  言って、私は踵を返す。もうここには用はなかった。  彼らは、彼らだけで完結している。  関わる必要はない。墓を荒らす趣味はない。  カイル君は納得がいかなさそうに、それでも私のあとをついてきた。  去る私たちの背に――――人形の歌声が、届いたような気がした。         †   †   †  ――そして、彼は目を覚ました。 「……ここは、何処だ……?」  見覚えのないところだった。というよりも、何もない。ただ白い、何もない空間がどこまで も続いている。ライオネル=クランベルクがその光景を見たことがあるとすれば、夢の中にし かないだろう。それくらいに、何もない世界だった。  白い世界が、どこまでも続いている。  地平の果てまで続いている。果てすらも見えない世界だった。  どこにいるのかも分からない。  どこへ行けばいいのか分からない。  何もない世界の中心で、獣王、ライオネル=クランベルクは立ち尽くしていた。 「クロナは……」  見回すが、クロナの姿はない。クロナどころか、最後に入った覚えもある小屋も、ザーラス やドクターの姿も何もない。  何も、ない。  ――ああ、そうか。  納得が沸いた。いつかは来ると思っていたところに、来ただけのことらしい。  ――己は、死んだのだな。  実感はあった。悲しみはなかった。  いつか死ぬと思っていた。  いつ死んでもおかしくない生き方をしていた。ようやく死んだか、という納得があるだけだ った。  ただ。  最後に見れたのが――最後の最後で惚れた少女の、泣きながらとはいえ、笑顔だった。  それだけで、十分な気もする。  生きてきて――良かったと、言える気がした。  クロナを置いていくことを考えれば、心が痛かったが、あれで助かろうなどとはむしが良す ぎる。  ただ、願わくば。  ――死しても、己の妄執があの少女を守ってくれると良いが。  ずっと自身の理性を預けてきた、あの魔盾に向かってライオネルは心の中で言った。理性を 預ける――それは、人格を預けるのに等しい。あの魔盾は、盾自身の意志こそ感じさせなかっ たものの、意志あるように自分の命を守ってくれた。盾がなければ、狂戦士たる己はとうに死 んでいただろうとライオネルは思う。  だから、自分の死後。  盾が、クロナを守ってくれるだろうと、幻想のように思ってしまった。  そして彼は歩き出す。  死後の世界だ、歩いていればどこかへ辿り着くだろう――それくらいの心構えだった。  心は、穏やかだった。  もう、戦わなくていいのだ。  戦う必要は、ないのだ。  ――本当に?  心のどこかに、ちくりと、棘が刺さった。  その棘は。  歩くライオネルの耳に、小さく、囁いた。  ――お前は、クロナのために、命を捧げたのだろう。  ライオネルは足を止めない――けれど、何も見えなかった世界に、変化が起こった。いや、 それは初めから気付いていなかっただけで、ずっと、ずっと――人が生まれるずっと前から、 それはそこにいたのかもしれない。  龍だ。  ――巨大な銀の龍が、白い靄の向こうで、ライオネルを待っていた。  死者の魂を待ち受けるように、穢れのない銀の龍が、彼方で待っている。  あれが、彼岸なのだと、ライオネルには分かった。  だから、彼は龍を目指す。  死後の世界で――果てを目指す。  けれど、その耳に。  ――ならば、クロナを置いてなど、いけるものか――  ささやきと共に。  ――――――少女の歌声が聞こえた。 「………………」  ライオネルの足が止まった。彼方にいる銀の龍が、こちらを見ているような気がした。それ でもライオネルは、歩き出すことができない。  なぜなら。 「……クロナ――」  歌が、聞こえるからだ。  銀の龍がいる方向とは逆、彼が歩いてきた方角から、歌声が聞こえるのだ。  彼の魂を癒すように。  彼の死を嘆くように。  あの優しい少女人形の歌声が、彼方から聞こえてくる―― 「……ならば、己は」  決意に、時間はいらなかった。  ライオネル=クランベルクは踵を返し、龍に背を向けて歩き出す。  向かう先は、歌が聞こえるところだ。  一歩歩くたびに、それだけで死んでしまいそうな激痛が走る。自然の摂理に逆らうためか、 黄泉の比良坂を逆走するものがすべからくそうなるように、ライオネルにもまた重圧がかかっ ていた。足がもげそうになる。心が折れそうになる。今すぐに引き返して、あの龍のもとへと いきたくなる。苦痛は続き、どこまで道が続くのか分からない。  先にあるのは、ただの白い、何もない世界だ。どこまで歩けばいいのかなど、分かるはずも ない。その上、進めば進むほど、痛みは激しくなる。  それでも。  それでも、歩みを止めるわけにはいかない。  この歌声が聞こえる先に――彼が愛する少女がいるのだから。  彼女が、ライオネルを待っているのだから。足を止めるわけには、いかなかった。 「待っていろクロナ――己は必ず、お前の元に――」  ライオネルはそう呟いて、永く永く永く永い道のりを歩き出す。  歌声に、導かれるままに。  彼は、歩きつづける――――――  ライオンハート・クロニクル   獣王 の物語は、終わらない。