嘘騎士と瓦礫の国 中篇  男の鼻が嗅ぎ取った物と言えば、鼻が勝手にねじ切れて退避してしまいそうな異臭であり、 我慢できずに残り少ない煙草を口にした所で目にしたものは累々と広がる兵卒フォーリアンの死骸であった。  あれから歩き続けてと言うもの早半日。巨大な、半径1km、深さに至っては数百mはあろうかと言うすり鉢状のクレーターが 小高い丘のようになっているそこからでも見えた。  廃墟は既に無い。そう言えば、ロボ=ジェヴォーダンはここから少し離れた場所で 根こそぎ吹き飛ばされたような横倒しの瓦礫を見た。  ニコチンとタールの染みた唾を吐き捨てたくなるのを我慢しながら、煙草に火をつける。  その時、死体の一つが動いた。それは人の形をしていた。  咥え煙草のまま、何時の間にか自然と抜かれていた剣をだらり下げた男であったが、直ぐにその片方の眉がつりあがった。  予想を遥かに上回る化け物共の大群に、思わぬ援軍が居るとはいえ少々気が抜けていたのかもしれない。  余りにも異様過ぎるその男。忘れられる筈も無いであろうと言うのに。 「フォーリアン共かと思っただろうが」 「ぁぁ?見りゃ解かんだろうが糞が。それに化け物が喋るかよ」  応じた恐ろしく不機嫌そうな言葉は勿論、勇者ガチ=ペドのそれである。  その正体を即座に見抜けなかった男を弁護するならば、勇者の姿が余りにも問題であったのだ。  頭から粘液を被ったかの如く、忌まわしき某の血液を浴びているのはまだいい。  だが、それも付着したまま拭われても居ない肉片やら、肩紐のようにぶら下がっている内臓に至って言い訳など少しも効かなくなる。  これだけの数──優に数百にも届くだろう──をたった二人がかりで壊滅せしめたのだから、その姿は当然と言えば当然であったが。  見れば見る程に、あきれ返る程圧倒的かつ暴力的な光景であった。  異界からの無礼極まる訪問者共には、元より勇者の手によって灰燼に帰すべき運命が定められていたのであろう。  黄金の騎士、ロリ=ペドの姿も見えた。鎧に秘められた偉大な力と言うべきか──黒の男は それが『暁のトランギドール』によるものだと知っている──汚れ一つも無く、燦々たるものだ。  最も、彼とてどれ程の数のフォーリアン共を虐殺せしめたのか。黒服の男にとってみも、感嘆する事しきりである。  さておきロボはガチ=ペドよりはまだ話しが通じようと判断して、黄金鎧に歩み寄って言葉を切り出した。 「援軍遣せって聞いたが?」 「然。魔術不能滅敵。又、魔術師伏病」 「……病ぃ?」 「然」 「ヘイ=ストの野郎が」  引き受けたのはガチ=ペドである。  彼は相変わらずの調子で言う。 「いきなり血ぃ吐いて倒れちまった。ひ弱な野郎だぜ、っとによ、こうなっちまうと邪魔臭くてたまらねぇ──っと」 「……」  じろり、と首を向けたロリ=ペドにガチ=ペドは慌てて言葉尻を引っ込めた。  黄金の聖騎士が居なければ、ひょっとすると気まぐれにあの子供を殺してしまいそうな気さえする。  ガチ=ペドに限ってそのような事は有り得ぬと解ってはいたとしても、 黒服は心中で盛大に呪いの言葉を吐き散らしたくなりつつ、それの代わりに言葉をめぐらせた。  援軍に来たは良いが、互いの仲は最悪もいい所であり背中を見せれば直ぐにでもグサリ、と来るやもしれない現状。  何とも素敵な仲間達だ。思わず皮肉めいた言葉がついて出そうになるが、肺腑の中に押しとどめる。 「他は全部後回しだ。まずはあの餓鬼の所へ連れて行け」 「なんでだよ?」 「ママに困ってる奴ぁ助けろって教わらなかったのか?なぁ、勇者サマよぅ」  へっ、と嗤うとガチペドは答えて。 「いいかっこでもするつもりか?勇者サマに向かってよ」 「違ぇよ」  と、ロボは短く言った。 「なら何のつもりだってんだ?」 「気まぐれ半分、保身半分てとこだな」 「保身? 手前ぇがか、そいつは下らない冗談だ。思わず、シケたその面にヘド吐いちまいたくなるぜ」  この場にいる誰も彼もが、今更人の世に言う保身などとは全く無縁であろう事は火を見るよりも明らかな事であった。  『勇者』を筆頭に、方や龍の殺し屋、方や正義の守護者。  その誰もがその気になりさえすれば、たった一人で児戯の如く一国を滅ぼしてのけよう。  その気、と言うのに未来永劫なる事が無いと言うだけで。  だからこそ、ガチ=ペドはそう言った。 「さてな。何れ解ろうさね。なぁ、勇者殿。  重要なのは、お前さんは目の前で人間を助けずには居られない、って事だろ」 「俺を馬鹿にする積もりか? なンならこの場でオネンネさせてやってもいいんだぜ、永遠にな」 「そりゃ結構な歓迎ぶりだが……遠慮しとくぜ。命は惜しい──さて聖騎士さんよ、あの餓鬼は一体どこだい?」  いきり立つ風を見せたガチ=ペドから一息で逃げ出すと、 ロリ=ペドを盾にするような位置へと黒の剣士は歩み、黄金の騎士へと問いかける。  けっ、と吐き捨てるような声が、背後から聞こえる。  黒服が、いざとなれば何の躊躇いも無く黄金の鎧を盾にするだろう事は解りきっていたからだ。 「其方」 「あいよ」  その言葉に黒の男が見れば、勇者の言った通りに少年が地面の上へと倒れ付しているのが見えた。  真っ白い顔をして荒い息を吐く彼を見て、男はさもありなん、と一人ごちたる。  ぱっと見た所では、単に魔法に必要な精神を使い果たし、疲れに疲れきって倒れ付しているようにも見える。  激戦に置いては、魔法使が疲労に使い物にならなくなるぐらい良くある事だ。  ロボ=ジェヴォーダンは化け物共の死骸を避けて歩き、ヤクザな座り方をして少年の青ざめた顔を覗き込んだ。  僅かに、謡うような声が聞こえてくる。 「よう、生きてるか?」 「……貴方ですか」  弱弱しいヘイ=ストの声が、男の呼びかけに答えた。  その間も続いている歌声のような響きに、僅かに顔を歪ませる。 「すみませんが、少々疲れていましてね。むさ苦しい顔は見たくないんですよ」  成程。随分とまぁ、捻くれている割には強靭な精神を持つ子供もいたものだ、と男は思った。  先ほどから聞こえて来る歌声。それは一種の防御の呪である。  それだけならばごく在り来たりと言っても構うまいが男が驚いた事には、 ヘイ=ストは更にもう一つの、声とそれに籠められる魔力を二重にせしめる呪を殆ど無意識下で行っていたのだった。  更に、男の知識は少年の唱え続ける歌が毒を打ち消す物である、と教えていた。  勿論、それには想像を絶する才覚と修練が必要な筈であり──それは端的に、少年がどういう存在かを語ってもいた。  率直に言って、黒服の男とてこれ程の才を持つ人間に会ったのは初めてであったのだ。  とは言え。  男は少年の抗議を丸きり無視し、才能があろうが魔法使だろうが結局は唯一の常人である所のヘイ=ストに黒服の男は 何やら腕を取るだの、脈を図るだの、手足をじろじろ見るだの、良く解らない所作をしつつ無遠慮極まりない視線を向けている。    毒、と述べた。  要するに一言で言えば、男がしている事は簡単な診察である。  毎度毎度の死線を越える内に、自然と身に着けてしまった技術であった。  とは言っても、彼のそれはあくまでもただの真似事。  自身の凄まじい体力と粘り強さ、劣悪な環境に順応し多くの毒物への耐性をも持つ、と言う特質もあって、 本業の医師や施療魔法の使い手にはその知識も腕も遠く及ばない程度である。  が、この場所では無いよりは余程マシであろう。  ゼロと一とは天と地程も違うのだ。 「詳しい事は解らんが、毒が回ってる。細かい痙攣もでてるしな」  ぴしゃり、と一息で言った。  ピクピクとみっとも無く痙攣しているヘイ=ストの指は彼自身にも十分に理解できよう。  そして、流石に黒服の男とても、すっかり頭の外に追いやっていた事を思い出した。  そう、毒である。  少年に外傷は全くなく、付近には滞留するガスも、古代文明の遺産と思しきものも無し。  となれば発生源として第一に疑わしきは周囲一面の化け物の死骸であろうが、勇者を筆頭に揃いも揃って化け物ばかり。  当然誰一人として常人の感性で動く者などおらず、その結果、人間のフリをし続ける黒服によって漸く現状が認識された次第である。 「そうですか。いやいや、参りましたね」  ヘイ=ストは至って平静なものだ。  この後に及んで、その顔には熱に浮かされたような薄ら笑いが浮かんでいた。  薄気味が悪い、と言っていい態度であるが黒服は全く意に介せず、背負い袋を探ると怪しげな小瓶を取り出す。  それは銅で出来ており──ガラス等は割れやすく高価でもあるから冒険者は普通、容器には金属を使う──その大きさから、 恐らくは何かの薬が入っているように見えた。 「んだよ、そりゃ」  単に暇だったのだろう。ガチ=ペドの投げやりな声が届く。  何時でも退屈を持て余している存在だからこその言葉であった。 「コカの実の汁を水で溶いて、それから煮詰めて濃縮した奴だ。こいつならダルささえ消えれば自分でどうにかするだろうからな」 「オイオイ。言うに事欠いてヤクかよ」 「馬鹿言え。れっきとした薬にゃ違いねぇ。どの道、此処じゃ碌な治療なんざ出来ねぇんだ。  文句あるってなら、お前さんはきっちり薬の一つでも持ってるんだろうな?」 「我等、不要薬」 「そりゃそうだろうな……さて」  黒服は水筒からカップに移した水に、当たり前のようにその液体を半分程溶かしてから少年を見た。 「痛み止めと、それから一時的に体感症状、精神力の回復だ。だが、あくまで一時凌ぎだからな。  自分の治癒は俺の手持ちじゃ無理だから自分でやれ。毒の除去ぐらいなら重ねで出来るだろ。  それが終わったらメシだ。体力回復が第一だからな。良いか?」  一気に捲くし立てた黒服に、ヘイ=ストは実に嫌そうな顔で答えた。  それは、見るからに麻薬そのものの薬剤入り水に対してもそうだし、何より放置してほしいに違いあるまい。  思いの他世話焼きな黒服に勇者が奥歯に物が挟まったような顔をしていた。 「あー……お前、ひょっとしてアレか?マゾって奴か」 「お前と比べりゃ誰だってな。兎も角、飲め。飲め。ぐいっと行け」  切り返しつつ、黒服が有無を言わさぬ強引さでずいとカップを突き出した。  ヘイ=ストは黙ってそれを見るが、その聞くからに見るからに怪しげな液体に口を付けようとはしない。   「置いとくだけ置いとくぞ」    言うと、それで用事は済んだとばかりにロボは勇者と聖騎士へと向き直る。  まるで当たり前の事をするかのように気安げな様子であった。 「さて、ここからはお前さん方──」  そんな男の言葉を、やはりと言うべきか勇者の鉄拳が出し抜けに遮った。  黒服は、と言うと悪ふざけと言うには余りに鋭いその一撃を避けては居たが、 見えぬ舞い上がった布のような風までは避けられず、黒い帽子を吹き散らし頬を浅く切って裂く。 「俺はお前なんざ呼んだ積もりねェよ」 「だが、俺は呼ばれたぜ?」 「知るかよ。失せろ、そうじゃねェなら死ね駄犬。  今まで我慢してやってたからって、これからもそうだと思ったのか?」  如何な意思が脳裏にあるのか、勇者の貌は人間と言うには余りに凄絶な怒りの表情に歪む。 「こんなままならねぇ世界、こんな碌でもない世界に文句も付けず従う犬っコロの癖しやがって。  したり顔して説教したいんなら、俺がくたばってから経でもなんでもあげやがれってんだ」 「お前さんの口からそんな殊勝な台詞が聞けるとは意外だね。こりゃ明日は槍でも降るかぁ?」 「その前に、手前ぇが血の雨だ」 「そこのガキから少し離れちゃどうだい。病人と一緒に居るにゃ不潔すぎるぜ」  落ちていた帽子まで歩いて拾い上げて又それを被った男よりも、よし殺すとばかり柄を握った勇者よりも、 一番早く口を開き、その二人を押しとどめたのは黄金の騎士であった。  「魔術師可、也?」 「ああ」 「灰色。汝、正義?」 「うじゃうじゃ居る糞蟲どもを残らずぶち殺すまでは、そのお仲間って事にしといてくれや。  折角呼ばれたんだし、お前さんとの仲だ。精々頑張ってやるさね」  聖騎士に答え、勇者にそう言ってロボ=ジェヴォーダンは転がるフォーリアンの死骸を蹴った。   /  幾ら毒の熱に浮かされているとは言え、少年──ヘイ=ストだけではなく、誰にとっても事態の理解は容易かろうし、 また無論ながら、ヘイ=ストにとっては特に簡単な事であった。  横たわるのは弱者と家畜。食い尽くすのは強者と悪鬼。  実に解りやすく単純化された世の縮図、と言う奴である。  事情など掃いて捨てる程あったとしても、少年には一切関係が無い。  罪にも気づかぬ愚人など、彼には知れた事でさえない。  そうで無くとも、知った事ではない。  現状の待遇は無力な己が原因とは言え、不愉快な事でもあった。  これでは、まるでお守りをされているようでは無いか。  いや違う。間違いなく、今己はお守りをされているらしい。そう少年は認識していた。  そうして浮かんでくるものと言えば反吐が出る程に愛おしく、熔けてしまう位に忌々しい、狂おしい麻薬中毒者じみた感覚。  内省するにつけ、あの日あの時以来己が狂ったのは間違えようの無い事ではあるらしいが、 それは単に事実を受け止める主体がおかしくなってしまっただけで、神経の一本に至るまで別物に変わった訳ではないらしい。  唇が歪む。思い浮かべるのは裸の女。己の痛みを移し変えぐちりぐちりと弄ぶ退屈凌ぎの幻想を見る。  とてもとても愉しい事ではあり、我が事ながら余りに非生産的過ぎて余計に嬉しくなる。  やがてそれにも飽きて少年は意識を外界へと向ける。聞こえてくるのは声。発している物は三つ。  何時いかなる時であろうとマイペースである所の少年は、彼らの会話に聞き耳を立てていた。  重く軋む騎士の声と、殺気ばかりが篭る癖に投げ遣りな声、皮肉げであざ笑うような声。  どれを取っても一欠片の正常ささえ無くて、恍惚となりそうだった。  そのような思考は、脳を巡る麻薬のせいだけではあるまい。 「作戦ってな──」 「馬鹿か。んな物──」 「唯、正義──」 「馬鹿──」 「我可」 「餓鬼を見殺しに──」 「随分と余裕──」 「役目取られて──」 「滅敵──」 「ええくそ、お前ら──」  ヘイ=ストの考えを肯定するかの如く、聞こえてくる声はまるで噛み合っていない。  おそらく、三者が三者とも、例えば人間の様には誰一人として必要としないのだろう。  まるで木石の如くただそれだけで自存する実存、とでも言うべきか。  余りに愛おしく、余りに憎らしい。  まるで、降りてきた神様じゃないか。  思う。  信じられやしない、余りにも馬鹿馬鹿しく、まるで妄想のようだ。  降りて来たのに助けやしない。  都合良く動いてなんてくれやしない。  ヘイ=ストは思う。  僕は神様なんて信じないと決めた。  じゃあ悪いのは神様に違いない。  何故、助けなかった!!何故だ!!何故、助けなかった!!何故だ!!  ヘイ=ストは考えない。  そも、神(God)とは完全性の具現であり、故にそれは人ではなくそこにある彼らでもなく事象の者共ですらなく。  それ故にこそ誰も助けないし、誰をも助ける。神は誰をも省みず、誰をも省みる。  誰かが死ぬ以上、誰をも死する事こそが神の平等だ。  無意味でありながら、何よりも重い。何人をも肯定し、何人にも否定されざる物こそが神だ。  ヘイ=ストは、そうして己をエデンより追放せしめたのであるが、彼自身すらそれに気づきはしない。  僕は。僕の世界は僕だけの物だ!!僕こそが神だ!!  神!!神!!  ガチガチと漸く生き物である事を思い出した様な肉体と反比例して思考は熱を帯びて加速する。  体を丸め、凍えた様に背筋を震わせ、言い聞かせるように。  神!!神!!神!!  その為ならば、何をしても良い。少年は少年を肯定する。ヘイ=ストは彼自身を自存させる。  それは何より優先されるべき事だ。  自由よりも。勇者よりも。事象よりも。愛よりもだ!! 「何うわ言──」 「放っとけ、それより──」  言いたければ、何とでも言うがいい。  ヘイ=ストは心中でそうあざ笑った。  脳味噌は拡大し視界が拡大し、しかる後収縮し振動した後、ぐるぐると攪拌されていく。  泥か何かで出来ているかの如く筋肉が弛緩し、意識が石鹸の泡みたいに消えていく。  そして、ぶつんと何かが途切れた様な音がして、ヘイ=ストの意識はそれっきり断絶してしまっていた。 /  予想通りと言えば確かにその通りだが、紛糾するばかりで何の進展も見せなかった一連の会話に辟易しながらも、 ロボ=ジェヴォーダンは無性に暖かい食事が取りたくなっていた。  と、言うのも彼が今齧っているのは最早とうの昔に食い飽きた保存食であり、 焚き火はしたくとも、それは化け物共に居場所を教える事と同義であったからだ。  ガチ=ペドは当の昔に死体の群れの中で寝ている。良く眠れるのだろうな、などと彼は考える。  ロリ=ペドは相変わらずだ。そもそも、あの男に睡眠など必要なかろう。    その様な連中と比較してみると、彼は随分と中途半端な存在ではあった。  そうであったとしても、やる事は決して変わるまいが。  決まった事、と言えば戦闘での役割分担程度。  それだけでも男にしてみれば随分お粗末な代物ではあるが、まさか勇者サマに真っ二つになってくれ、などとは言えまい。  聖騎士は彼の隣から離れる事はなかろうし。  つまり攻撃手は二人だけの軍勢で、黒服の男は病に臥せったヘイ=ストの護衛と援護。  こう言うと聞こえはいいが要するに手出し無用で蚊帳の外、と言う訳だ。  文句は無い、が色々と考える事は矢張り尽きない。  頭の中に、記憶した巨大なクレーターを思い浮かべる。  大きさは、およそ半径にして3kmだろうか。  その内部には文字通りに死の荒野。正体不明の建造物やら船に似た何かやらが転がり、潜んでいそうな場所には事欠かない。  龍の一つや二つでも協力的ば、徹底した制圧射で地面を耕してから進むのが常道だろう。  要するに、何処に何が潜んでいるのか、更にその数も解らないのだ。  黒服の男に、勇者様のように魔物の餌箱に自ら飛び込む趣味などあろう筈も無かった。  個人での処理が難しいなら、彼としては敵の敵を引っ張り出して戦わせるのが上策だったのである  そのやり口など幾らでも思い浮かぶ。  奴等は昆虫と同じだ。蜜を撒くなり誘き寄せる方法だけでも良い。  それが乱暴であるのなら、もっと穏便なやり方を模索しても良いだろう。  時間はたっぷりある。奴等は未だここから動こうともしていないのだし。  何処に潜んでいるか全く解らず、知りようも無く、その癖何か居る事だけは絶対確実。  人間であろうが無かろうが、普通は慎重にもなると言う者だ。  苛々するのは単に手持ちの煙草が切れてしまったからだけではあるまい。  黒服の男が思い浮かべているのは単なる愚痴。  悪手を前に、座して決行を待たねばならぬのが口惜しいせいもある。  何にせよ宮仕えの悲しさよ。動き出してしまえば、彼などには止めようも無い。   「だからこそ膿は今の内に吐き出しちまえ──か」  決行は明朝。ヘイ=ストの体調を鑑み夜明けを待って開始される。  昆虫並みの脳みそしか無いのかも知れぬが、フォーリアン共もこちらには気づいているだろう。  防御程度は固めるだろうが、それは勇者サマへの貢物、と言う事にしておこう。  ロボ=ジェヴォーダンはそうして考えるのにも飽き、荷物の整理と武具の準備を開始した。  大降りの短剣が二。投げナイフが山。西洋拵の刀が一。砥石を引っ張り出すと、先ずはナイフから研ぎ始める。  短剣は柄から外し、刀だけは劣化の無い魔法の品である為に投げ出しておく。  続いては炸裂弾。袋に入れポシェットに収める。組み立て式のボウガンの部品を引っ張り出し、埃を振り払い組み立てる。  痛み止めに魔法薬。軟皮鎧の上下を身に付けナイフケースを巻きつける。  金属製の衝角を帽子に、手袋は皮を金属で強化した篭手へと付け替える。  武装の重ったるさと暑苦しさに背負い鞄に突っ込んでいた品々だが、準備万端にしておいて損は無い。  必要でない荷物はここに置いていく事になる。  多数の相手が予想される以上、いらぬ掠り傷とて出来うる限り避けたいのが人情と言うものだった。  そんな雑多な準備も、一時間もかからなかった。夜明けまでには、まだたっぷりと夜が残っている。   「起きたか。調子はどうだ?」  振り向きもせず男はヘイ=ストに言った。少年の返事は無い。  くそみたいな気分なのだろう、と思った。 「まぁ、ゆっくり休むこった」  返答は期待していなかったので、それきり黙る。  彼自身お喋りではないし、共に居るのも利害が一致しているだけの事。  しかし、どうにも気に食わぬ餓鬼だと黒服は認識を反芻した。  ならば助けなければ良かったのだろうが、そもそもそんな考え自体がこの男には存在しなかったのだから仕方が無い。  黄金の聖騎士も、この黒服も矢張り根本的な在り方は同じ、と言った所か。  その代わりに、ロボ=ジェヴォーダンは果たして目の前の子供は一体何であろうか、と言う事について暇潰しに思考する。  将来有望な魔法使いの卵?どちらかと言えば、夜に彷徨う水子か何かに違いない。  有体に言って、こんな子供が係わり合いになるにしては勇者と言う存在は危険過ぎる。  あの勇者は人間は殺すまい。そう言う物だ。  が、見も知らぬ、何処の誰ともわからぬ子供を連れ歩く、と言うのも一種出来の悪い冗談だ。  だからと言って、己が身元引受人になるでもなし。それは余計なお節介以外の何者でも無い。  何やらクソやくたいもない偶然が積み重なった結果、と言う事以外は全く解らぬ。  尋ねた所で答えはしないだろうし、そうなれば適当な推論と想像のみが頼りとなろう。    一番適当と思われるのは、単なる気まぐれであろう、と言う予想であった。  最も、そこにも何らかの作為が働いていない、とも言い切れないが彼の主とて全知全能では無い。  無いのだが、この世は実に複雑怪奇。何処にどんな思惑が吹き溜まっているのかも判然としない。  彼はその上滑りを進む連中ではあるが、全く気にも留めない訳にも行かない。  が、どうあがいても知りようの無い事であるし、知ったとしても無意味な事であろう。    そんな当たり障りの無い思考に頭を落ち着けると、何か用事を思い出したように黒服は立ち上がった。 「斥候に出る。要望があるなら聞いてもいい」  返事は無い。小石が投げられる気配を感じ、男はぱしっ、とそれを受け止める。  見れば、遠見の呪印が刻まれていた。それを帽子の装甲の間に挟みこむと、黒マントの兵隊は深い夜へと入っていく。  数十分と進まない間に、絶壁めいたクレーターの淵へとたどり着いた。  空に月は無く、そのせいで覗き込むとまるで奈落まで続いているようだ。  滑り降りる、と言うより飛び降りるのは手間でしかない。辺りを嗅ぎ回ると、やがて比較的傾斜のゆるい場所が見つかる。  マントを押し付け音を出来るだけ立てずに慎重に降りていく。  底までのおよそ幾十メートルかを下りると、風に乗って生ぬるく肉の腐ったような匂いがそこかしこからするのに気づいた。  糞とも腐肉とも付かない物体が、瓦礫と闇に紛れて僅かに見える。  ぎちりがり、ざり。これはブーツが瓦礫と砂とガラスの欠片を噛んだ音だ。  ぞり。くち。がり。ぼり。これはフォーリアンがその辺りに転がっていた物体の正体──男は、漸く確信したのだが── である所の骨と肉、魔物のそれだったり人間のそれだったり動物のそれを咀嚼する音らしかった。  不快ではあるが、足音が消えてくれるのはありがたい。呼吸をする必要も無いとは言え、こればかりはどうしようもない。    歩いている内に気づいた事ではあるが、どうにもクレーターの中にどっちゃりと積もった瓦礫には幾分の規則性があるらしかった。  男はそれで、ありっちの巣を思い出した。要するに、ここは連中の巣なのだろう。解りきった事だが。  その思考を証明するように、あちこちの地面にぽっかりと何者かが掘ったらしい穴が開いている。  余りの数に一々場所を記憶する事を止め、適当な目印──特徴のある瓦礫や残骸が主だ──を付けながら、 天文学的に跳ね上がりつつあるフォーリアン共の物量に辟易する。  女王のようなものが居るのかもしれない。  あの巨大ナメクジモドキの親玉を想像し、何にせよここまで膨れ上がった害虫共(めんどうごと)への殺意を新たにする。  更に歩く。四辻を曲がり、徘徊する兵卒フォーリアンやら、巨大ムカデモドキどもをやり過ごし、 蚊よりも息を小さくして石ころ同然の存在になったまま探りを続ける。  すると、『口』を男は見た。勿論ながら比喩だ。  ぽっかりと。瓦礫とゴミの山の中に巨大な口が開いている。底は見えない。  底冷えのする空気と、地獄の底から響いてくるみたいな音が聞こえるばかりだ。  ぱっ、と一瞬その底が輝くのを彼は見て、片目を瞑りつつ大慌てで背を向けて逃げ出した。  次の瞬間響いたのは、一個大隊程も魔法使いを集めた挙句、遠慮なしに魔法を撃たせたみたいな大轟音。  衝撃波めいた烈風のお陰か、はたまた単にあわてているのか一目散に逃げる男の逃げ足はそれはそれは見事であり、 一方で大地に穿たれた大穴から発射された何かは、遠く王国連合本拠や南国からでも見えるに違いなかった。  とんでもない大質量が、とんでもない速度で発射されたのだ。  状況を一言で言い表すなら障害物競走。その障害物と言うのは彼を無視して巣穴に走りはじめたフォーリアン。  走る走る走る走る。飛ぶ。また走る。クレーターの端にへばり付く。  ちらっ、と今頃間違いなく勇者サマと聖騎士さまは目を覚まして動きだしてんだろうなとか思うがそれどころでは無い。  そして、彼の予想は都合五秒後に実現する事となる。  ガチ=ペドが先ほどの轟音に驚いて跳ね起きるのに一秒。  ロリ=ペドが立ち上がり、剣を抜き放つのに一秒。  ロボ=ジェヴォーダンが大地をけって、それからフォーリアンの頭を蹴って跳躍するのに二秒。  文字通り狂声を上げる暴走列車になった勇者と黒服が交差するのに一秒。 「ええい、くそったれ!!」  藪を突いて蛇を出したと言う訳ではない。黒服の男の行動など無関係にこの事態は起こっていただろう。   兎にも角にも始まった以上は仕方が無い。呪いの言葉を吐きながら、ロボ=ジェヴォーダンはクレーターの縁を駆け上がっていた。 next