壮年のその男性は、どうと仰向けに倒れた。煌びやかな衣服の下から絨毯よりも赤い色 が広がっていく。 「ジャック、何故だ…………」  呟いた彼に影を落としている巨漢は、頭を二つ持ち、片腕もまた鋏のようになった異形 の者であった。しかし男がその異形を呼ぶ声には信頼があった。そしてそれが裏切られた 驚きが。  だがジャックと呼ばれた異形の男が壮年の男性に血を流させたわけではない。ジャック は王に背を向けて立ちはだかるように立っていたし、王のすぐ傍には頭を潰された黒衣の 刺客が先にあの世へ旅立っていた。男を刺したナイフを持ったまま。  力なき男の言葉は、周りにまで届かなかった。突如現れた刺客を邪魔せんと立ち上がり、 そして気付かれぬよう『わざと刺客を通した』ジャックに対する非難の声は。 「王よ!」  男の頭上で声がした。声の主は血まみれで倒れる男よりやや年かさの高いぐらいの男で、 同じように高価そうなマントや上着を着ていた。彼と倒れた男の違いは、倒れた男の頭上 には王冠が光っていたという事ぐらいだろうか。  見上げる王は、霞む視界に声の主を捉えた。駆け寄りながら上げた声とまるで違う、薄 くニヤついたノーサンフリア公を。 「さらばだ前王」 (ゼノ……ビア…………)  公のかすかな呟き。  聡いロンドニア王は、己の娘が窮地に立たされた事を察したが、しかし彼の意識はもは や暗黒の霧に包まれて――――――――そして消えた。             before "ZERO" take-05              鉄と血のロンドニア               Wild Wild WEST                 (中)  会議への刺客乱入の報を受けたマベリア=ティンフォースは椅子を蹴って部屋を飛び出 した。 (くそ――!)  ロンドニア王国軍の司令部に属するマベリアが、氷の魔術を得意とする事はその主義と 無関係ではない。いつも冷静たれ、不動たれとの師の教えを常に心に留めて置く為に彼女 は好んで氷の魔術を使うのだ。己も氷と在れるように。  だから、彼女にとって今回の致命的なミスとは国王襲撃を許した事ではなかった。  常に沈着冷静であるはずの己が、襲撃を防げなかったという事で頭に血が昇ってしまっ た事こそが、最大のミスだったのだ。 「そこを退けドレイク!」  眼前に現れた逆毛の男はその怒号を受けても刀傷の入った頬を歪めてニヤニヤとするば かりだった。  ドレイク・ザ・ハザード。元傭兵で現在はロンドニアの前線指揮官の一人である本名不 明のその男は、『危険なヤツ』という二つ名の通り油断ならぬ相手だった。そんな男を一 人で前にしてしまうその迂闊。そもそも魔族の王国に対する前線守備についている筈のド レイクが何故王都に居るのか、そこからしてオカシな事だというのに。 「退かぬなら……」  バチンと、マベリアは指を鳴らした。もう片方の掌をドレイクへとかざす。  魔術の発動。それを見てもドレイクは相変わらず気色の悪い笑みを貼り付けている。 「退かねぇなら……」  鼻で笑って、はじめてドレイクが口を開いた。  だがその言葉の続きはマベリアの後ろから響いたのだ。 「……どうするって?」  振り向く間もなく、マベリアの背に衝撃が走る。 (――しま……った)  暗転する視界の中で、マベリアは魔術師一人だけで不用意に突撃するなどという愚を犯 した事を悔いた。  同時に、あの師ならば、それでも何事もないかのように越えていくだろうに……とも。    ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 「なんですと!」  野太い声が部屋いっぱいに響く。一番顔に出やすいシャルヴィルトがげんなりしている。  五人……つまり名無しの傭兵を中心とした四人とゼノビア王女は、ウィーザー卿の居る フラティン城に到着していた。彼への面会も、事情の説明もゼノビアとそしてディーンが すぐに済ませた。朝霧の晴れつつある時分である。シャルヴィルトはアレから更に一夜飛 び続けた。 「なるほど……判りました。すぐに手配致します王女」  逞しい浅黒い肌に輝くようなスキンヘッドのウィーザー卿は、幾分か落ち着きを取り戻 した後ゼノビアの願いを承諾し、すぐさま部下を兵舎へ遣る。  政権奪取を目論むノーサンフリア公ドロックスを鎮圧する為に出兵して貰いたいという 願いを、である。  そうして、一段落したところで彼はソファで待っていた四人へと歩み寄ってきた。 「諸君、私からも礼を言わせてくれ。君達のお陰で国が必要助かったようなものだ」  言う彼の顔はいかにも厳つかったが、その表情はそれに反して柔らかい。 「ありがとうございます。しかしまだ助かったと言ってしまうには早いでしょう。クーデ ターの鎮圧、我々も同行し協力致します」  すぐに立ち上がり答えたのはディーンだった。シャルヴィルトの言う通り、こういう事 は社交的な青年が一番弁えていた。  ディーンの申し出は勝手なものであらかじめ決めていたわけではなかったが、移動中の 話は続けて協力するという方向で進んでいたので今更誰も不平はない。  それにシャルヴィルトにしろジャックスにしろここでお別れというほど薄情になる気も なかったし、元々西部大陸を目指してきた以上ロンドニアの行く末は気になった。  ウィーザー卿は少し驚いた様子で、目を見開く。 「よいのか?」 「ええ。ただし我々は旅行者で、傭兵のようなものですから」  青年の控えめな言葉に、卿は得たりと頷いた。 「ああ、報酬はたっぷりと出そう。王女救出だけでも大儀であったのだから当然だ」  その表情には絡むようなものは見られない。『男』がかつて王女に恩を売ったという事 もあるのだろうが、それにしても『男』とディーンはともかく、場違いな少女一人にやた ら挙動不審なガチガチに完全武装の男(に見える者)である。下賎な傭兵であるし、微妙 な顔をする者が居たとてさほど不思議ではない。だからそれはこの男の性向によるものな のだろう。 (まあ――――宮廷のお歴々には好かれそうにないよな)  そうディーンは心中で呟いた。実際のところ、彼のその精力的な肉体は宮廷より戦場の 方が似合いに見える。司令部の長も亜人の女と聞いた事があったし、恐らく王自身割合と 革新派というか実力主義的な人間だったのではないだろうか……、とも。ならばこそ叛意 を受けやすくもあろう。  しかし、典型的な貴族の方が何かと愉しかったかもしれないと思う自分は歪んでいるだ ろうか――ふと、そう浮かんでディーンはチラと残り三人を見た。男は相変わらずぼうっ としており、ジャックスはキョロキョロしており、シャルヴィルトは冷めた目でこちらを 眺めている。  気持ちの中でだけ肩を竦めて、青年は卿を見上げた。とは言え、話が早いのは佳い事で ある。 「そのあたりは終わってからに致しましょう」  自分から婉曲に切り出しておいて、青年はとりあえずそう切った。 「ああ、そうだな。私から報償ではなく王より授封を受けるという事になるやもしれんし ……」  そこまで聞いたところで、ディーンは笑顔を浮かべるわけにもいかず、やや引きつった 顔で「まあ」とだけ応じた。はたと気付いたウィーザー卿がごほごほと咳払いをする。 「いや、王女になるのかもしれんが……う、うむ…………」  ややうろたえた卿に、ディーンは再び連れ合いを流し見た。『王』の言葉に反応したの か、ジャックスがこちらをふいと見遣る。その兜の……いや正確には頭部か、その奥で幽 かに輝く赤い光の明滅が、青年には不満そうに見えた。  ――王を救出する。ジャックスのその言葉に首を振った王女は間に合わぬ、と下唇を噛 んだ。  わざわざノーサンフリア公が王女の立ち往生させようとしたのは何故か。王都をしっか りと制圧した後にロンドニア側に着くようにする事で、己らに反する者に王女を確保され づらくする為である。敵対者に別の神輿を渡さぬためである。  で、あるならばいくら龍に乗れたとは言え、ウィーザーのフラティン城に寄ってなお首 都での謀略に間に合うわけがない。それはもはや渡砂艦に乗る日程の時点で決まっていた 事なのだから。そして四人と王女だけで突っ込むわけにも行くまい。  クーデター側は王女の現状を知らない。混乱状態の所へウィーザー卿の兵が不意打ちを 喰らわせ、現王家派を助けていけば鎮圧も出来よう。それが最善で、ほぼ絶望的な王の命 自体に賭けを打つわけにはいかないのである―― (……だが、そう言える事は強さだな)  ディーンは昨日のシャルヴィルトの上での会話を思いだして目を伏せた。そしてつい先 ほど王女がウィーザーと話していた時の事を。  王がもう助からない、というかクーデターの決行日時である会議は昨日に終わっている のだから当然だが……という話を聞いて取り乱したのはむしろ卿の方であった。二度目と は言えそれを口にする実の娘より、である。実の所最初は人当たりがいい程度にしか感じ なかったのだが、今となっては聖王女などと持てはやされるのも分からないでもないなと ディーンは思う。  あるいは――それ故にノーサンフリア公も王女の確保に気を遣い、簒奪を避けたのかも しれない。 「……とりあえず、私は準備があるのでな。ええと、ディーン君だったか。今のうちに休 んでおいてくれたまえ」  青年が回想に沈んでいたのを疲労ととったか、卿はそう言って肩を叩くと踵を返した。 その背へ一礼し、己も振り返るディーン。見ればシャルヴィルトは『男』に寄りかかって 眠っている。 「ま……確かに休むべきだな」  ここまでの功労者である賢龍殿の寝顔を眺めて、青年は軽い調子で零した。  シャルヴィルトを部屋に送ってきたディーンが外に出ると、ジャックスと『男』が中庭 の方を見てなにやら喋っていた(、というよりジャックスが一人で喋っていた)。  そちらを見れば早速ウィーザー卿の兵が集まり始めている。無論、今城に居る数などそ う多くはないが、それでも五十名は越えているようだ。道中も加えれば最終的に数百程度 にはなるのだろう。  無論兵の殆どは傭兵かそれに近い者達だった。会戦をするわけでもあるまいし、まさか 今募兵するわけではない。元より魔物の国への警戒から常備されている兵が多いのだ。常 備軍と呼べるほどではないにしろ。 「どうしたんだ」  ディーンが二人に寄っていってそう声をかけると、ジャックスが振り向いた。 「おお、いや……人が集まってきたであるからな」  はしゃいでいる……というわけでも無かろうが、普段と少し違うジャックを見て、青年 は「ふむ」と片眉を吊り上げる。そうしてから、“まあ指揮官用の戦闘機械兵なのだから かもな”と思い当たり、一人で頷いてそわそわするジャックスから視線を外した。  ディーンの視界に映った『男』は『男』で、さっきからじーっと一点を見ている。見て いると言っても、ただ動いていないだけかもしれないのだが。 「おい?」  視線を追って、そうではないと判った。『男』の先には、同じく彼を見返す一人の兵士 が居たからだ。  その兵士は結局、すぐにこちらへとやってきた。  視線は攻撃的で、猛禽類のような目の男だった。歳はディーンと同じぐらいだ。雑な装 備を見るに傭兵かもしくは付近の住人かだろう。 「なあ」  ディーンをまるっきり無視して、兵士は『男』一人に声をかけた。男は相変わらず特に 返答もしない。 「お前、変な剣を持ってるな」  さっきまで『男』を凝視していたのはそれが理由なのだろう。顔より両の肩と腰に計四 本在る蒼い剣をしげしげと見ている。 「アンタも王都に行くのか」  そうディーンが声をかけると、はじめて気付いたかのように兵士はディーンを見た。 「いや。俺は行かない。この城を空けるわけにはいかないからな。ロウギュスト隊長と一 緒に城主の留守を預かる側だ。」  言ってその兵士は振り返った。視線の先に目深にバンダナを巻いた弓士らしい男が一人 居る。 「ふうん……同業者とお見受けするが」 「ああ、俺はここ出身だがな」  答える間も兵士は剣をジロジロ見ていた。構わずディーンはほうと声を上げる。 「ならばそこそこ状況にも詳しいのか」 「そう言われてもな」  兵士は怪訝そうに顔をしかめる。 「いや、王女の話ではね。ウィーザー卿の他に、マベリア=ティンフォース、ジャック= ヴァルカン、リディア=レーベルトって面々が王に親しいと聞いてるんだがね。あとディ ラン=サンダース……だったかな」 「王女が言うならそうなんだろう…………。いや、まあ、そうだな。確かにその辺りはそ うかもな……」  一旦肩を竦めた男は、少し考え込むようにして口を開いた。 「マベリアってのはな……」 「ダークエルフ」 「そう。ジャックってのも魔法使いに改造された化け物らしい。そういうのでも実力があ れば取り立てるってのが現王だからな。俺もそれを夢見てここに居るとという部分もある か……今言ったティーダ=ロウギュストと言う男もそうだ。ウィーザー卿と王が口説き落 としたらしいし」  それを聞いてディーンはへえと頷いた。王に対してではない、意外な上昇志向を持った 相手にである。 「ノーサンフリア公は?」  ディーンの言葉に、男は眉根を寄せた。王都に向かうというだけでまだ細かい話は聞い ていないのかもしれない 「ノーサンフリア公……?そうだな……あまりいい話は聞かないな。五年前はマンジアの 公が裁きを受けたらしいが、一枚噛んでたって話もある」  そこまで言ってその口が止まる。数拍の後、彼はディーンの眼を見た。 「……この召集は、そうなのか」  ディーンがやや頬を歪めた。 「…………チッ!ついてないな」  兵士の男は苦々しげにそう吐く。すぐに諦めたように頭を振って、口を開いた。 「お前等、名前は?」 「ディーンと、ジャックスと……」 「名は……別にない」  やっと口を開いた『男』に、兵士は一瞬怪訝な顔をするがすぐに「そうか」と言って頷 いた。傭兵に名など深い意味もないし、変な相手だったので聞いてみたものの、名を知っ ているような有名人でもないようだったからだ。 「ただの旅人さ。たった四人だぜ?」  察したディーンの言葉に相手は曖昧に頷き、ふと気付いたように 「俺は、キルツ……キルツだ」  だがキルツは――いやキルツも、その出身を言わなかった。それは故郷の村か街を捨て たプライドだろう。傭兵は二種類居る。戦場にのみ生きるつもりの者と、小金をためるな りしてからどこかで生活を始めようとするものだ。どちらにしろ、故郷に戻る事はほぼな い。好んで人殺しになって村社会を裏切った人間を迎える村などまずないのだから。 「キルツ、か。まあ色々答えて貰ってありがとうよ」 「フン……ま、王都で下手打たんようにな」  そうして後の『伝説の傭兵』・『レギオンの灰色頭脳』・『長い腕』と、“傭兵団レギ オン最速最強の剣士”の名を以って皇国第十二軍軍団長になる『無刀』は一旦、別れた。    ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆  エルフはその深く地に根ざした知識と優れた身体能力や知覚、魔力容積によって自分た ちの縄張りを守ってきたし、人間も“深い森の奥に住み強力な番人である彼らとわざわざ 戦うなんて得がない”という極めて政治的な判断からエルフの独立を尊重してきた。  しかしダークエルフは別である。彼らは堕ちたるエルフであり、故郷を追われた者達だ。 魔族の王国ならばマシな場合もあろうが、誰もが自由にどこまでもいける世ではない。だ から人間の世界で暮らさねばならぬ者も多く、そして人の世はエルフの世界に劣らぬほど 異物に厳しかった。  堅苦しい故郷を飛び出してもやっていけると思っていた。しかしどんな魔法が使えよう と、気に要らぬ人間にぶっ放してしまえばたちまち捕まってしまう。どんな優秀な頭脳を 持とうと、仕事をもらえなければ発揮も出来ない。そこに居るだけで視線が突き刺さって くる。  寄る辺無き彼女には何のコネもツテもない。結局受け入れてくれるのは夜だけで、毎晩 のように腰を振った。振るたびに壊れていくと判っていても他に出来る事はなかった。  朝去っていく背に呪文を唱える。撃つ事など……出来ないのに。 「哀れな敗北者か」  それを見咎めた者がいた。 「それだけの力を持ちながら……理不尽な『世の中の仕組み』とやらに敗北して、そして そんな情けない慰みと粘膜の誤魔化しで死んだように生き延びるだけに堕してどうする?」  立て続けに、好き勝手言われた。目の前に立つ男。中肉中背……いやそれよりやや太り 気味か。藍色の外套のその男。見知らぬ男。一体お前に何が分かるというのか。 「さっきのような男の上で何もかもさらけだしてまで続けたい人生なのか?そんな価値が あるのか?豚の生活に?」 「……私が……望んだわけじゃないッ」  久しぶりだった。甘い声以外を上げたのは。目の前のソイツがグリグリと芯を抉るから、 私は手をかざした。  詠唱は必要ない。毎日毎日繰り返し続けた魔術の略式だ。一瞬で私の身体に呪紋が浮か び、最後の一押しを除いて全工程が完了している。  それでも、その人間はふてぶてしく鼻で笑って。 「なら本当を望んでみたまえ、世界を敵に回したって己が誇るチカラを見せてみろ」  だから、目の前が白くなった。 「ニンゲンごときが偉そうに……!」  叫び声と共に、何もかもを吐き出した。魔力を糧にして、世界を理外へ変えていく。空 間を侵蝕し、光の刃が真っ直ぐソイツへ伸びる。  でも炸裂音は、焦げた肉塊を作りはしなかった。 「ふむ、上手く変換できなかったかな……なるほど」  消えた光の向こうに居た男は、その指先に光る縄のようなものを持っていた。それをく るくると回してから無造作に放り投げ、呟く。  そこで初めてソイツが笑んだ。と言ってもそれは酷く陰気なものだったが。  そして次を撃とうとして気付く。私の服が私の服ではない何かになって腕と喉を締め付 けている事に。  そうやって動けない私を、ソイツは真っ直ぐ見た。 「エルフだから……というだけじゃない。確かな努力の積み重ねが判る。なまってはいる ようだが……ク、まあ錆びはすぐに私がとってやるさ」  喉を締め上げられながら、私は泣いていた。苦しいからではない。その言葉が、私がし てきた事が無駄ではないと言ってくれたから。 「ただし」  バチンと指を鳴らしてソイツは大仰にかぶりを振った。私の頬を指差す。 「それ、それだよ。すぐに感情が表に出るのは良くないな……?万事を鼻で笑って乗り切 れる、氷の心を持ちたまえ。そう出来るチカラは、私の下にいればすぐに身につく」  一から十まで勝手に話を進められあまつさえ縛り上げられたその出会いが、マベリアの 再出発だった。  彼女が再び人の世に戻る、その百年近く前の話である。  あの時の事が夢に出たのは多分縛られているせいだろうなと思った。マベリアが目を覚 ますと、手足は縄で口は猿轡で絡めとられており、牢の向こうに誰かがいるのが見える。 勿論彼女が中だ。  ただ対魔術師用の牢に入れるだけでは安心できないと言うわけだろう。  笑う事も出来ないので、彼女はただ真っ直ぐ前を見た。はっきりしてきた視界に映るの は薄汚れた元傭兵の男。 「なァ、マベリアさんよ」  ドレイクは己の得物である三日月斧の柄を手持ち無沙汰に弄りながら口を開いた。 「アンタは強力な力を持つ魔術師で、優秀な頭脳を持つ参謀だ……」  マベリアは聞くだけだ。それ以外殆ど何も出来ないのだから。 「それを失うってのはどうも賢くないと思わないか?アンタの事だから状況は予測出来て るだろうが、新しい支配者は恐らくアンタを残しはしないぜ。ダークエルフだしな」  お前がダークエルフだと言うだけでお前は殺されるだろう、とドレイクはあっさり言っ た。そしてマベリアもそれを当然の事と聞く。  しかしドレイクは、斧をぐるぐる回しながら「だが」と続けた。 「アンタを失うのはリスクが大きいと思わないかァ?王が死んだと言ったって反対派って のが残ってていつ何をするかわかんねーわけだし、別に敵は内部だけでもねぇし。アンタ がこっちについてくれれば、すんげぇリスクが下がる……と、思わないかァ?」  いかにも興味なさげにあっちを見、そっちを見ながら話すわりには、その言葉は絡むよ うにねちっこい。 「当然直接司令部に戻せるわけはねぇが、俺が飼うと言えば別に反対もされねぇだろう。 どうするよマベリア。生き延びたいなら這いつくばってみろ」  言って、やっとドレイクはマベリアを見た。マベリアはそれが本音かと唾でも吐きたい ところだったが、無論できない。  だから女は目を鋭くして睨み返した。やおら男の顔に不快感が浮かび、カツカツと牢へ と歩み寄る。だらんと下げた斧が石畳をひっかいて鈍い音が断続する。  屈さぬのだからすぐさま処分すべき相手である。彼らとてマベリア一人にそう構ってい る暇もない筈だ。この会話は余分。昏倒させた際にそのまま殺さなかったのは先ほどの言 葉通りドレイクの欲だろう。  ――だから例えば、ドレイクが彼女を処理せんと牢に手をかけた瞬間、その鉄棒から一 気に彼の身体を凍結し拘束しかえすという事も出来る。この程度の魔術妨害何という事は ない。  今までの猶予さえあれば、詠唱など出来ずともその程度のトラップをかける事は造作も ない。両の五指が動き触れ得るものがあるのなら――師と同じように――彼女は魔術師と して死にはしない。拘束までしたのは正しかったが口と手首のみなのが運のツキだ。  檻のすぐ前でドレイクは足を止める。マベリアの視線を返して見下ろす。 「残念だなァ」  下げられた手が持ち上げられ、そして、ドレイクは口元を歪めた。 (――?)  マベリアが疑問を形にするまでもなく、斧を肩で担ぎくるりと踵を返す。カツカツと石 畳が鳴る。 「俺はリスクの高ぇことはしたくねぇー。頭のいいアンタの事だからどんな事考えてるか わかりゃしねーし、今俺一人ってのも良くねえ……と思わないかァ?」  そこまで言って振り返ったドレイクは、もう先ほどまでのヘラヘラとした表情に戻って いた。 「メシはでねーからよ……ま、アンタが適度に弱ったらちゃんと始末しにきてやるさ」  その言葉を最後に、あっさりとドレイクは去った。あの男への感情は変わらないにして も認識は改めねばならないだろう。欲や怒りにくらんですぐ自滅する程バカではないと。  人を軽んじて見てしまうのは彼女の直らない癖だ。種族の差というものは歴然としてあ るならば、こればかりは仕方が無いだろう。  そうだ。ロンドニアに頭脳を置きつつも彼女はやはり人間を見下してはいる。だがそれ でも、いやそうやって己が高等だと意識しているからこそ、恩義を忘れるような真似はし ない。誰が相手だろうとそんな真似は出来ない。  だがそれを裏切ってしまった。  師の元を離れた後、己の力を認め召し上げてくれた相手が死ぬのを看過してしまうとは!  歯噛みする彼女は気付いていないだろう。その感情は十分に忠義であろうと。  冷たい牢の中で彼女は震えた。  寒さにではなく、怒りに。    ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆  にわかに騒ぎ立つ王城の中で、アルマ=ドロックスは考える。  伯父は何故にこの行動を決意したのだろうかと。  確かに会議を利用して王を殺す事は出来たようだ。王女も砂漠という通常奪取しようの ない場所で足止めしたと言う。事は上手く運んでいると思う。半ば外部者であるドレイク や王の信頼を得ていたジャック=ヴァルカンと言った面々を早々に抱きこむ事が出来た。 そして最も厄介であろう助言役のマベリア=ティンフォースは、ドレイクとその部下の傭 兵によって捕らえられた。刺客を放ったものを探し出すと言う名目で、公の手勢が手筈通 り王都を制圧しはじめているし、その上で確保した王女を迎えれば、あとは手打ち次第だ。 王都を脱出したり、もとより王都に居ない現王派とて勢いづく事もないだろう。  だが違和感はある。彼女はノーサンフリア公の姪にあたる。その姪は思うのだ。 (伯父はこんな事の出来る者だっただろうか……?)  何も、性格の事を言っているわけではない。もとより伯父は野心に溢れる男だったとは 思う。しかし、しかしである。魔王・黒雲星羅轟天尊が失せて一世紀近く。その間バラン スの崩れた王国内で、それでも現王家が立っていた理由は何ぞや?数年前には一度似たよ うな窮地にさえ見舞われた王家が、それでも君臨したのは主人の能力であろう、カリスマ 性であろう。酷く単純に、現王家>ドロックス家だったのだ。  失礼な話だが、アルマは伯父は器ではないと思う。  確かに王と諸侯との関係は良いとは言えなかったし、確かに嫡男の居ない現状はチャン スであるとは思う。だが、数年前に一度失敗し諸々の痛手を受けた諸侯や一部の高官達を、 伯父がそう簡単に丸め込めるものだろうか。二十歳に満たぬ小娘である姪の自分が頼りな いと思うような、そんな人物の言葉でそう簡単に上手く動かせるものなのだろうか……。  そこまで言わずとも、このまま上手く行っていいのだろうか。何事にもアクシデントは つきものであるし、伯父はどう考えているのか……。  実際はクーデター側にとって致命的なアクシデントが一つ、もはや起こってしまってい たのだが、アルマらがそれを知る由もなく――もう二つのアクシデントが、砂を走る船と 旋風として向かってきていた。  そして、何よりも――    ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆  本来ならば王の暗殺が起きて後、いくらガンツ=ウィーザーが独断で動くとしても、王 都より誰かが向かって状況を伝えていなければならない。となれば、王都で事件が起こっ てそう経たぬうちに王女がガンツを動かした以上、彼等の速度はノーサンフリア公の最速 予想のおよそ半分で展開するわけである。  ノーサンフリア公は最速、あくまで最速で二週間と見た。普通ならば王暗殺の報を受け ただけで即刻兵を連れて王都に向かいはすまい。  だが六日でウィーザーと王女、そして四人は王都のすぐそこまで来ていた。無論連れる 兵の数は五百ほどで、戦支度ではないからこそだが。 「アレは何だろうか、クロウス」  都を望むガンツが傍の兵に声をかけた。クロウスと呼ばれた騎兵は、クローズドヘルム のバイザーを上げてそちらを見やる。 「砂上船……の残骸に見えますがねぇ……」  彼の視線の先にあったのは魔術的な紋章を刻まれた砂漠用の舟であった。ただしマスト の変わりにねじれあがった奇妙なトーテムらしき物体が突き刺さっていたし、そもそも船 は壊れて打ち捨てられていたが。  結局それだけで注意を外したガンツらの大分後ろで、それを眺める者が二人居た。  ディーンと、シャルヴィルトである。 「賢龍殿よ」 「元の紋章を捻じ曲げているな。普通なら既存効果を消してから新しい効果をつけるとこ ろだろうが…………あんな術を使えるのは三人ぐらいだと思う」  ディーンの呼びかけにシャルヴィルトはすぐに、だがぶっきらぼうに答えた。 「一人は」 「ヘイ=ストという魔導師だ。…………勇者一行の一人」 「なるほどまさに最高の魔法使い、か」  かつて会った事がある、という言葉を結局シャルヴィルトは発しなかった。 「二人目」 「かつて魔法学院最良のカウンターウィザードと呼ばれた……魔王が居る」  さほど興味なさ気に更にディーンは言葉を継ぐ。 「では最後は」 「西の賢者ラーファイ。そして恐らくこんな面倒な術をわざわざ実際に使うのは彼ぐらい だ」  その言葉に満足そうにディーンが笑んだ時、後ろからジャックスがやってきた。 「結局、王様は亡くなってるのであるかねぇ」  振り返ったディーンは頭を掻く。 「俺達は所詮、手遅れになってから偶然入り込んだ要素だ。何もかも助ける事など不可能 だよ」 「割り切れという事であるか」 「まあそうなるかなしかし……機械に割り切れと人間が言うのもなんだな。変なもんだ」 「貴方は機械より冷たいと言う事ですね」  冷やかすようなシャルヴィルトに肩を竦め、ディーンはわざとらしく口を尖らせる。 「冷たい?ふふん、そうかな?会った事も無い相手を助けようとするのもどうかと思うが ね。やっぱり人命は守るってことになってるのか?……それに、これでも色々と思う所は あるんだが」  ディーンの言葉を真に受けて“ケンサク”とかブツブツ言い出したジャックスは放って、 少女は身を乗り出した。嫌味なしに意外だったらしい。 「思うところ……例えばなんです?」  それを見てディーンは微妙な面持ちで顔をゆがめ 「次……というか自分の周りで似たような事が起きないためにはとかな」 「で?」 「やはり手遅れはダメという事だ。挽回というのは現実そうないだろうよ」  青年の言葉に、少女はつまらなさそうに視線を外した。 「なんだかありがちですね」 「お前の言の通りってだけさ」  やや拗ねたように言い返された言葉にシャルヴィルトの指は自らを指す。 「私の?」 「先んじて……」  ああ、と頷いて銀の髪が揺れた。 「考えよ、ですか。プロメテオ、つまり<原初>の呪名ですけど。火は知恵と文明の象徴 でもあります。それを創る事と――――そして焼き尽くす事と」 「流石だよね」 「貴方が言うと何かバカにしてるように聞こえますね」  銀の少女の突き放した言葉に、紫の瞳は笑う。 「酷い言い草だ。まあ何歩も先を見てやっと実際に追いつけるもんだろう。情報は不確実 で、条件は不確定で…………故に状況は不安定なものなんだから」  そして何時ものように、気付けばその視線は鋭いのだ。  言うだけ言うと、手招きしながらディーンは歩き出した。 「さて、だ。ぷりちー☆しゃるちゃんの、まあさほど不確実さとは関係のなさそうなあり がたい情報によると王都に十二賢者が来ていると言う事になるな」  突然ふざけられたせいでシャルヴィルトは混乱し、曖昧に頷いた。間髪入れずディーン が二の句を継ぐ。この青年は、こういう事を意味もなく良くした。 「何の為に?クーデターを阻止してくれるのか?何の意味がある?」  一タイミング遅れて抗議に口を開きかけたシャルヴィルトは、その言葉に動きを止めた。 ラーファイが居ると、そう言ったのは自分だ。だが、何故か。確かにそれこそが重要で。  だから自分はどうも、知識を判断に変換するのが下手なのだな……と賢い龍は思う。 「十二賢者が動くとしたら、なんだ」  それはただシャルヴィルトに己の思考をなぞる事を求めての行為ではない。確認であり、 要求であった。  ディーンはそこまで、人のレベルを離れた世界に詳しくはないのだから。  全てはシャルヴィルトが伝える事だ。  『男』がディーンらに世界を教えるように。  ディーンがジャックスらに戦場を語るように。  シャルヴィルトはディーンらに超越を謳う。 「彼等は人間の味方ではない……廻り続ける時計を象徴にしながら、しかし彼等は円環す る<原初>より停滞の<灰色>に近いのです。均衡をとりたがる……」 「であるならばー……」  合いの手に入ったジャックスの硬質な声は、しかし王都より突如響いた炸裂音によって 途切れさせられる。  驚いて顔を上げた二人の視線の先に、王城の壁が吹き飛ぶのが見えた。  直後にこちらへと放物線を描いて飛んできた何か。地に叩きつけられ、グシャグシャに なったそれが、服についた紋章からノーサンフリア公であるとすぐさま認識できたのは王 女とウィーザー卿のみであったが。 「まぁたかだか百年程度。魔族からするとちょっと休憩しただけ、なんだろうさ」  皮肉げに表情を歪めるディーンの横で、シャルヴィルトの赤い龍眼は真っ直ぐに黒い影 を捉えている。人の眼に見える距離ではないが、破壊された城の壁の中から外を覗くその 影。  魔同盟・杖の王。破天大聖・凶嵐。         Black Gale  異名は――――黒 旋 風である。