牢の中で気付いて、ドレイクが去って五日。  マベリアは焦っていた。もしも首尾よく王都から誰かがガンツなど王への忠誠を篤い相 手へと連絡を飛ばしたとしても、即動くのは難しい状況のはずだった。  それに単純に移動時間だけ考えても伝達が四日・五日ほど。兵を動かせば人が増えるた め出撃には七日近くはかかるだろう。二週間近くもあれば恐らくノーサンフリア公が自領 でこっそり準備しているであろう主兵力が到着してしまう。  魔術師が遠隔連絡の信号を送ればもっと早いだろうが、魔術師は恐らく自分のように真 先に拘束されている可能性が高い。  そしてもう五日経ってしまった。 「……」  マベリアは歯軋りしたかったが、それすら出来ない。威力の高い魔法や複雑な魔法式を 組もうとしても口は使えないし、対魔術師用の牢に散らされてしまう。ドレイクの言葉通 り五日間誰も来なかったので何かの簡易トラップで外に干渉する事もできない。  このままでは拙い。人間とは体のつくりが違うために五日何も食べて居ない事自体は問 題はなかったが、精神的に磨耗が進むのは明らかだった。  ――と、そこで足音が聞こえた。  間違いなくその音は牢への階段を下りてくる。とはいえ牢から階段は見えない。  音の数は二つ。  ドレイクは……あの男は恐らく二度と来ないだろう、とマベリアは思った。未練たらし く前言を撤回する人間ではない。だからこそスカウトされる程度には優秀な傭兵なのだ。 その余計な事への執着のなさが生き抜いてきた証の筈だから。  もし、こんな状態の自分をあざ笑いに来たような、油断だらけの者ならばもしかすると もしかするかもしれない。これはまたとないチャンスかもしれない。  そこまで考えて気付く。  近づいてくる足音から感じる威圧感に。  ――違う。これは違う。  コレはチャンスなどではない。ドレイクよりも、もっと、何か、大変な―― 「おや、居た」  音が止まり、一人が気の抜けた声で零した。 「やれやれ、君ほどの者がどうして捕まったのか、気の効いた言い訳は考えてあるかね?」  牢の前に立つ二人。それにマベリアは目を見開いた。  彼等が牢を開け、マベリアの猿轡を外してくれても、彼女はしばらくぼうっとしていた。  藍色の外套の男を見る。――西の賢者ラーファイ。 「え」  白尽くめの青年を見る。――大賢者メラク。 「え」  そしてマベリアは柄にもなく声を上げた。 「えぇっ!?」  突如十二賢者が二人も現れれば、驚くのも無理はない。そして彼女にはそれ以上の理由 があった。 「お師殿……っ!」 「私は何故捕まったかと聞いているんだがな?」  マベリアをラーファイは冷めた目で見下ろしていて……そしてメラクは、目が点になっ ている。 「EEEEEEEEEEEEEEEE!?」  今度はメラクが叫んだ。 「え、マジで、なに、え?え?師?弟子?えっ!?」  マベリアとラーファイを交互に指差し、メラクは魚みたいにぱくぱくと口を開く。 「女の子だぞ!おっぱいでかいぞ!?」 「胸の脂肪分がどう関係してるんだね……」 「な……ズルいじゃないか!私にも揉ませろ!」 「に、にもってなんです大賢者殿……」 「うぉおおおお、ニャン美!うおおおお!」 「ニャン美?」 「放っとけばいい」  マベリアへ突っ込むのを邪魔をする金属の触手らしき物体と格闘しているメラクを放置 して、それを造ったラーファイは外の様子を伺っている。  それを見ながらマベリアは躊躇いがちに口を開いた。 「あの……」 「何」 「何故ここへ?まさか私を助けに来てくれたわけではない、でしょう?」  マベリアの疑問を聞いてラーファイは鼻を鳴らす。 「何だか信頼されてないね。まあその通りだが」  結局あっさり認めると、そろそろ小太りに入れられそうな中年男は振り返る。 「君もエルフならわかるんじゃないかな?それとも王都に居るうちに人の感覚に慣れてし まったかもしれないがね」  さながら教師のごとく、尊大に人差し指をピッと立てる。ラーファイらしいと言えばら しいし、確かにマベリアとラーファイの関係は学生と教師のそれだが。 「人の世は物忘れが激しすぎる、とね」  やれやれとラーファイが頭を振る。 「一世紀前まで自分達が何と戦っていたのかもう忘れているのだからな」  その言葉と共に、城から轟音が響いた。             before "ZERO" take-06              鉄と血のロンドニア               Wild Wild WEST                 (後) 「阿呆、が」  ロンドニア王都の、王城の、その王座の前で呟いた者がいる。  全身を覆う漆黒の鎧の下に見える肌は明らかに人間のそれではなかった。黒の中に光る 赤い眼も人間のそれではなかった。  そして、今しがたこの部屋に居た警備兵十数人を真っ赤な華へと変え、王座の上に居た 公を椅子と壁ごと吹き飛ばしたその力も人間のそれではなかった。  残ったのは偶然その脇にいた騎士の少女と、呟いた魔人と、そしてその背後に控えた老 人だけだった。 「阿呆、が」  同じように吐いて、チラと少女を見ると眼を細めた。見たのは顔ではない。鎧の上に纏 われた紋章である。 「ノーサンフリアの紋章……三代前と四代前の公は傑物だったが」  そう言うと魔人は突き破った壁から外を見下ろした。肉塊とさえ言えない破片になった 公の方を見て嘆息する。 「……なんてザマだ。ああ、なんてザマだ……」 「お、お前は――」  剣を帯びた少女は……ノーサンフリア公の姪アルマ=ドロックスはそこでようやく呟い た。いや、絞り出した。 「凶嵐だよ。凶嵐。ん?判らないのか?貴様らノーサンフリアの、そしてこの西部大陸の 人間と千年近く戦い続けた我を!」  凶嵐が大きく腕を振る。右手の棒が壁の穴を更に広げた。 「たった……そうたった百年。いや!百年も経っていない筈だな。そうだなアシダカ」  ――たった百年。  無論アルマは生まれていない。今死んだ公や己の父の、その父親すら生まれてもいない。  アシダカと呼ばれた老人は、頭から眼まで隠した布の上を撫でながら頷く。 「そうですな。まァ七、八十年ぐらいですかな……」 「だと言うのに……貴様等ときたら我々が来た事も察知できていない。屈辱にも羅道界へ 戻り機会を待つことにした我々を、こうもたやすく侵入させる」  当然だった。反対者がすぐさま対応をはじめる事のないよう、適当な理由をつけてマベ リアを始めとした宮廷の魔術師達を一時拘束したせいで外との連絡はかなり限定されてい た。王都の状況を覆うためのカーテンは、外の情報を届けぬ障害物でもある。フラティン 城からの一団に気付けぬように。  次元干渉などという事態が起きたならば、通常は強烈な魔力波が観測される。砂漠を出 口に現れた凶嵐とアシダカの事は、恐らく砂漠を越えてすぐの西国や皇国は勿論のこと中 央の東部・北部のファーライトや東国・卑国・バースワーズ・バラネス・グリナデッレ暗 黒、下手をすれば地挟海を越えて北部帝国、東部平原を過ぎて東方破天帝国ですら気付い ているはずだ。  誰が、というのは判らずとも、そもそもそんな事の出来る者は多くない。  無論ロンドニア国内でも多くの魔術師や魔術道具が次元の乱れ、魔力の乱れを確認して いるのである。  それが今判らなかったのは王都だけだ。  現王と公という二者の間では完璧だったプランは第三者によって砂へと消えた。 「お粗末だよ」  凶嵐の一言が全てを表していた。  アルマは動けない。動けるわけがない。圧倒的な魔人を前にして。  従兄弟ほどではないにしろ、亡き父が「男であってくれれば」と惜しんだその剣才です ら何の意味もない。相手はそんなもの歯牙にもかけずに薙ぎ払う旋風だ。  だが、それでも、突如城内に現れた凶嵐に対して隙だらけで罵倒したあげく一瞬で吹き 飛ばされたノーサンフリア公よりは、生き延びるに値する者だったから。  だからアルマは動いた。動けた。  極東の居合い……とまでは言わぬが、右手で即座に抜剣。そうしながらも体は右後方へ 跳んでいる。  凶嵐がぶち抜いた壁。そこから落ちても、下にはベランダが存在する事をアルマは知っ ていた。ならば死ぬ高さではない。それが彼女の見出した活路。  離れながら剣を抜くまま斜めに振り上げる。切っ先が凶嵐の左手首を裂いた。無論踏み 込まぬ剣は手首を断つほどではなく、ただ肌を裂いただけだ。  だが凶嵐の眼がそちらへと一瞬向く。 (佳、――――し)  左かかとが地面に着く。地を蹴る。そして右踵。体勢は後ろに倒れかかりそうだが構わ ず更に蹴る。斜め後ろへ、跳ぶ。  何の反応もしていない老人が蒼い瞳に一瞬映った。  そのまま、更に蹴って、空を臨む壁の穴へとアルマは突っ込む。  ……そうして。  浮遊の感覚はいつまでたってもやって来なかった。  変わりにあるのは逆さまに吊り下げられた自分と、その具足が掴まれている感覚だけ。  首からぼたぼたと漆黒の血を流す左手が、銀の足を捉えていた。 「あ……」 「惜しかったな」  言って、凶嵐は腕を僅か振り上げた。そして振り下ろし終わる時には、その手はもうア ルマを掴んではいない。  ぶどうを踏み潰したような音がして、それで、終わった。  凶嵐は踵を返して扉へと歩き始める。その腕はもう黒を流すのを止めていた。  そうしてあっけなくこの事態の主役の筈だった男も、その姪も薄氷を割って落ちていき、 この状況はただの混乱の渦に変わった。  誰もがこの事態を生んだ意志――ノーサンフリア公の欲――の影響でそこに立ちながら、 もはや誰もそんな意志の事を気には留めていない。  そんな小さな意志は悲しいほどアッサリと、それを意識しない濁流に飲まれて消えた。  『状況が選んだ侵略者たちは、招かれざる者を迎え撃つ』  『状況に食われた簒奪者たちは、混沌の中を駆け出す』  『状況へ向かう抵抗者たちは、戦うべき者を探し回る』  だから戦いの螺旋に巴を成すのは三。  『状況を眺める浸透者たちは、静かに立ち尽くす』  ――――いや、四。    ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆  ――さて、王都の外。 「ふむ……」  王城を臨む紫眼の青年が唸った。ディーンである。 「魔同盟、か……というよりは天尊か」 「かの戦車の魔王は己の亜次元で常に戦争をしているという。憎いとか、利潤とかそうい う事ではない。ただ戦う為に戦って、決すれば今までの敵味方関係なくまた適当な勢力へ と別れて次の戦争を始める。それをずっと続けているらしい。まあ命も問わない演習とい う所。あえて言うなら、誰が一番強いか……か」  呟きに銀の少女が告げる。その言葉にディーンは返事をしなかった。  そこに居るのは二人だけだった。王城の破壊を見てすぐ、ジャックスはディーンに言わ れて自分達のリーダーを呼びに行ったからである。  だから返事が返って来ないのにいらついて、シャルヴィルトは更に続けた。 「ノーサンフリア公が魔同盟にそそのかされていたという線?」 「ああ、まあ、……なあ。ノーサンフリアの人間は一世紀前まで最も天尊に近い人々だっ たようだしな……」  明後日の方向を見ながら、腕を組む青年は答える。 「じゃあそれでいいだろう」  返す少女の声はあからさま不機嫌そうだった。自分を見もしないで、ぼんやりした返事 の相手が気に入らなかったからだ。多分見ていたら見ていたで、ジロジロ見るなと思うの が彼女の性格だったが。  不機嫌な理由はもう一つある。  魔人を認めた瞬間に気付いたのだ。己が魔人が付近に現れた事に気付けなかったのを。  まあ二日近く不眠不休で飛び続けていた最中だったのだから仕方が無いに決まっている のだが、それが酷く彼女の自尊心を傷つけた。 「……何にしろ王城に見えた魔人の相手をするのは間違いないんだろう」  急かすように続けるシャルヴィルトに、ディーンは組んでいた腕を解いてくると振り向 いた。 「いや、いや、別にそうとも限らないだろう」 「?」  青年の、なだめるようなジェスチャーをする手を払ってから、シャルヴィルトは眉を寄 せる。 「だって十二賢者が来てるみたいなわけだし、な。相手の来てる数は一人かそこらなんだ ろう?」 「ああ。空間移動や次元移動はそうそう出来るものじゃないからな。一度に大量のものを 運ぶのは難しい。猛吹雪の中と灼熱の太陽の下では炎を起こす魔法の難易度が全く別物な のと同じ事だ。転移先に邪魔するものが多いと出口が繋がらない。物にしろ魔力的なもの にしろな。転移という現象が不自然すぎるんだ。今言った火は……どっちにしろ普通に魔 法を使うまでもなく原始的な道具で火を起こす事は出来る。あと勝手に発火する事もある しな。雷は可能性だけならどこにだって落ちるし、空気中には水分がある。起こりうる事 は起こるし、起こせるんだ。だが自然の中で物が突然どこかに瞬間移動したりはしない。 だから例えば世界有数の魔術師が転移しようとしても、やりようによってはかけ出しの見 習い魔術師一人で防げてしまう。普通、飛ぶ時は出口側にちゃんと扉のようなものを用意 しておくとか……印をつけておくことで妨害を防ぐとか……」 「ああ、だから砂漠なのか」 「干渉が少ない。人工的なものは何もないし、自然的な干渉も……ホライズンは酷く希薄 な存在の仕方だから……転移先に仕掛けをしないという条件なら一番飛びやすいと思う。 次点は海上だ。上空は何気に大気の乱れに乗った魔力の渦なんかがあって結構干渉が多い んだが……月や太陽の干渉もあるし……だが海のすぐ上ぐらいは空白地帯になってる。無 論水の中に行ってしまうとインペラ……」 「ま、とにかく少ないのは間違いないから、その分やってきた奴は超実力者で確定ってこ とかな」  長く続く説明にディーンは何度も頷いて……そして適当に投げた。  ぴく、と額に青筋が浮かべた少女は、しかしとりあえずは何も言わずに答えを変える。 「凶嵐は多分羅道界のナンバーツーだ。異名は黒旋風」 「ブラックゲイルねぇ。強いんだろう?なら尚更、ウィーザーには慎重な行動を進言すべ きってことになるなー……」  こちらも興味なさげにディーンが答えると、シャルヴィルトは目を丸くした。 「え、でも」  声を上げた少女だったが、そのまま言葉が止まった。ディーンががちらと後ろへ視線を 回すと、影が二つ小走りで寄ってきているのが見えた。  ジャックスと『男』だ。 「傭兵」  色の薄い男を認めて、シャルヴィルトが声をかける。その名は彼女がはじめて会った傭 兵というだけの意味だったが、明らかに声に篭る調子が違うのでディーンはヘラヘラと表 情を崩した。 「ウィーザーは迷っている」  ――と、ディーンへ向いた男が唐突に口を開いた。 「だろうな。いきなり公がべしゃべしゃになって飛んできたんだからな。気持ちが宙ぶら りんになってるだろうね」  青年がうんうんと頷く。 「…………」  その様子を年上の男はじいっと見た。 「……何だよ?」  戸惑いがちにディーンが見上げる。男の方が背が高い。 「宙ぶらりん、か」  ぼそりと、呟く。そうしてしばらくしてまたぽつりと。 「何かひっかかっているのか」  その言葉を聞いたディーンは一瞬不快そうに顔をしかめて……そして大きく肩で一息つ いた。 「……そう言うならそうなんだろうな」  投げやりに全面肯定する。 「まあ俺達やウィーザーが直接その魔人どもと戦う必要があるかどうかは別として、王都 突入は急ぐべきではあるんだ、が」  別に、ディーンはシャルヴィルトの話を聞いていないわけではなかった。凶嵐が王都に 居る以上、一刻も早くそれを排除しなければ天尊本隊が現れる『扉』を用意される危険が ある。だから公と魔人の関係がどちらであろうと動かざるをえない。 「とりあえず、じゃあガンツさんのところに行くかね……」  そうして四人はぞろぞろと歩いてガンツらが王都を見ているところまで戻った。  浅黒い巨漢は四人を認めると手招きする。 「おお、来たか。丁度今どうするか相談していたところだ」  横の王女に会釈しながらシャルヴィルトが口を開く。ディーンが言い出すそぶりを見せ なかったせいだ。 「ええと、ウィーザー卿。恐らく王城内には魔同盟の魔人が居ます」 「…………やはりそうか」  疑ってはいたのだろう。ガンツはこめかみに手を当てた。 「しかしどうしてそれが……?」 「ええと、それは……十二賢者が居るようなのです。砂上船が、あって……それにかけら れた術が非常に高度だったので、恐らく……」  ガンツに問われて、シャルヴィルトはやや慌てながら答える。先ほど話した事をほぼな ぞっていただけだが。 「なるほど……十二賢者?ということは彼らは魔同盟を……」 「ええ、恐らく排除しにきたものかと」  それを聞いてガンツの顔にやや明るさが戻る。 「そうかそうか、なるほど。なら今回ばかりは彼らが手伝ってくれるか……一時は焦った が……既に戦闘が始まっているかもしれんのか」  安堵するガンツ。少女は黙ったままぼうっとしている青年を見やって、それから小さく 溜息をついた。 「ああ、その事なのですが……十二賢者が居るとはいえ早く突入したほうがいいと思いま す。彼らが部下を呼べば厄介な事になりますし……こちらはそう多くありませんから」 「確かに……確かにそうだ。まったく君らは皆聡明だな……ありがとう。そうしよう」 「は、はは……ありがとうございます……」  半端な笑いを浮かべて少女は曖昧に濁した。  賢龍と呼ばれる彼女は、だが知識では足りないと知った。それを嫌と言うほど気付かせ た青年の代わりに答えただけなのだから。 (ちょっと、ディーン……)  まだ惚けている青年を小突こうとして、空を切る 「あ、一つ」 (うわっ、うわっ………とっととと……)  シャルヴィルトがバランスを崩しかけている間に、ディーンが前に出る。脇で見ていた 男がシャルヴィルトの腕を引いた。 (あ、ありがとうございます…………ったくううう……)  全く気付いていないのかディーンはそのままガンツとゼノビアへ問いかける。 「救出すべき対象……というか、王都に居るであろうそちらの味方の事を聞いておきたい んですよ。会っても判らないと思いますし」 「それはそうだ……んーむ……」  唸るガンツの横で王女が微笑む。 「そうですね、王都に居る人間で特に重要人物というとまずはティンフォースさんとヴァ ルカン将軍ではないですか」 「おお、そうですな。マベリア=ティンフォースとジャック=ヴァルカン。この二人は王 の右腕と左腕だったと言えるだろう……」    ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆  そして、王城は既に戦場だった。  長い廊下を見えない何かが通りぬけていく。壁にかかる絵画や、脇に置かれた壷や彫像 が道なりに刻まれていく。真っ直ぐ、その先の影二つへと突き進んでいく。 「フン……ッ!」  その衝撃波を黒い風がかき消した。風を起こした――手に持つ六角棒『戒破』を振るっ た魔人が、その黒赤い瞳で衝撃波の道を逆に辿る。  先に見えるのは真っ白な男。その白が眩しいかのように魔人の瞳が細くなった。 「魔術師……?」 「ここと、ここ、と、ここかな……」  遠く相対したまま青い瞳でニイと笑う男が、パントマイムのように適当な中空に手を当 てる。世界の其処が水面のように波打った。 「ベン・リエの後を、墜ちてゆけヴェガ――!」 「む……」  言葉をトリガーとして再び衝撃波が巻き起こる。縦に回転しているのか床と天井を切り 裂きながらまっすぐに。  再び手の棒を構えかけた魔人を、後ろから声が止めた。 「凶嵐殿、しばらく」  ずいと前にでる。浅黒い肌の身体はガリガリで、奇妙な文字の描かれた布で眼まで覆っ たその老人。六本腕の魔人は、そのうちの一つが持つ大きすぎるグラスのような道具を前 へ出した。それは硝子ではなく何かの金属で出来ているらしくやや金色にくすんでいる。  衝撃波は無論、そんな事お構いなしに突撃した。 「怨!」  一喝。突き出された道具が衝撃波を受け止めて散らす。  白い青年が感心するように笑い、老人が何かに気付いたようにピクリと肩を引きつらせ て口を開いた。 「今の風、自然すぎますなぁ……このような魔法使いよるのは恐らく……」 「別に私の術なんて分析しなくたってさあ!」  異常に耳がいいのか、単に何かの魔術なのかアシダカの呟きに青年が声を張り上げた。  そして腰に手をあてたポーズでビシッと背を向ける。  背負うは大賢者の三文字。 「これで判るだろう!」  そのパフォーマンスを見て凶嵐は不快そうに鼻で笑った。 「十二賢者がメラク!」 「その通りさ『破天大聖』凶嵐!『幻老大聖』アシダカ坊!」  メラクは振り返ると、今から殴り合いの喧嘩でもするかのように手首と指をパキパキ鳴 らす。 「まあサクっとやられて貰うよ。さあマベリア君私のカッコイイ姿を眼に……あれ?何処 行った?マベリア君?マベリアくーん?おっぱいさーん?」 「あれならさっさと自分のすべき事に向かったよ」  キョロキョロと騒ぐメラクに答えるように声がした。  だがそれは、凶嵐のすぐ後ろで聞こえたが。 「――!」  驚愕しながらも戒破を豪速で後ろへ振り抜く。凶嵐のその一撃は、しかし細長い棒のよ うな……柱のようなものを折っただけだった。  ラッパの口のようになったその先端が吹き飛んでいく。恐らくそれが声を放っていたも のであろう。それを認めた凶嵐はすぐさま右を見た。左を見た。再び振り返った。顔を上 げた。 「……下だ」  ずぶ、と凶嵐の足元が沈む。彼が視線を下げると床は既に幾何学模様を浮かべて蠢く何 かへと変質している。 「ぐ」  跳ぼうとした足が抜けず黒の魔人は歯噛みした。そのまま、床の向こうへと引きずり込 まれていく。 「凶嵐殿!」  呼ぶ声。手の一つに持った錫杖を振ろうとするアシダカを、しかし短剣が遮った。 「ぬう!?」  それを弾きとばして、アシダカはメラクへと向き直る。純白の男は金髪を揺らして既に アシダカの数歩前まで迫っていた。  残りのナイフを投げつけ捨てると、メラクは虚空へ五度触れる。 「救え、信じる者を。十字を斬るユースフの剣!」  白い手袋をした両の掌が光を帯びる。いや、実際にはそれは光っているのではなく銀色 の粉がぱらぱらと散ってきらめていているだけだったが。 「発!」  迫る者を見てアシダカはさきほど振ろうとした錫杖を構えた。沙爛と鳴らすと、切っ先 より蜘蛛の巣のごとく昏く光る線が浮かぶ。 「判りやすい結界だな!」  ニヤリと笑い白く光る両手を前へ。浮かんだそれを気に留めず、メラクは変わることな く前に出る。  その掌より、巨大な鋼の切っ先が伸びた。 「う、ぬ――!」  それは蜘蛛の巣の紋様を何もないかのように突っ切る。錫杖をカチ割り持ち手へと向か うと、老人は唸った。  小手のようなものがついた一手でメラクの剣を弾き、その姿を幻が消えるかのようにブ レさせると、アシダカは数歩分退いていた。 「しまった……そうか、お主の術には対魔結界が効かん。いや!そもそも使っていなかっ たな魔法を」  言いながらアシダカはちらと凶嵐の居た方を見る。その姿はもう何処にもなく、かわり にやや腹の出た中年の男が一人、ローブを垂らして立っているだけだ。西の賢者ラーファ イが。  一階下に落とすだけならあの魔人が戻ってこれぬ筈はない。恐らく城の最下層まで一気 に落とされたのだろう。そう断じて、メラクとラーファイを交互に見る。 「十二賢者でありながら、大賢者と名乗りながら、唯一、魔法を使えぬ男」  老人の声にメラクはニヤニヤ笑っている。 「世界を騙し、異常現象を自然現象に仕立て上げる。故にそれは魔の術にも魔の法にもあ らず!」 「ただ偶然その瞬間どこからか剣が飛んできただけ、風が……偶然、強烈な衝撃波になっ ただけ。火が――」  受けての言葉の途中で、メラクはタバコに火をつけた。 「でたのはライターがあったからって、だけ」  今まで何も持っていなかった手から、ライターが零れて落ちた。そのままそれは霧のよ うに消えて行く。  川を水が流れるのと、虚空から激流が噴出す違いはそれが世界の理通りかどうかと言う 事だ。魔術師はマナとオドを以って世界に逆らい、その異常を実現させる。種なきところ で火を熾し、風を鋼を断つほど束ねてみせる。  魔法のみ防ぐ為の結界ならば、その異常を指摘するだけに留める事で効率を得るだろう。  しかしこの男にそれは意味がない。  魔法を使えぬ十二賢者。格闘戦に長けた大賢者。 「とはいえ、やりようは……ある」  言ってアシダカはロザリオに似た法具――それが数珠と言う名だとメラクとラーファイ は知らなかったが――を砂利砂利と振った。  メラクがふっと笑う。 「まあね。別にただ騙せるからって十二賢者やれてるわけじゃないし――」  その言葉通り、防ごうと思えば防げないものではない。実際、最初の衝撃波は防がれて いる。  数珠が邪螺と鳴った。空間が歪み、頭の布と同じような奇妙な文字が広がっていく。 「へえ」 「ほお」  賢者二人が声を上げた。 「このアシダカ……賢者二人と真っ直ぐ戦うほど間抜けではないでのう……!」  一気に周囲が文字に包まれる。アシダカは無論、ラーファイもメラクも飲み込んで。 「なら」  不意に、ラーファイが声を上げた。 「一人にしておくがいい」  続くその言葉に応じるように、メラクが後ろへ跳んだ。 「逃がすかァァァイ!」  アシダカが吼える。言葉通りメラクを逃さんと文字が廻りこんでいく。  だがそれが割れた。 「――!?」  砕け散った虚空の文字は真鍮色した金属の縄へと形を変え、うねりながらアシダカへと 反転していく。 「えぃぁやぁ!」  アシダカがそれを切り払った時には文字の空間は閉じその境も見えない黒の異界を為し た。そしてメラクは居ない。  口元を歪めるラーファイを見据えてアシダカは舌打ちした。 「……凶嵐に外から来られては厄介だからねえ。彼にはそちらへ行ってもらう」 「随分な自尊心よのお……ワイズマン……このアシダカを一人で迎えると言うか!」  アシダカの言葉に、西の賢者は薄笑いを浮かべた。 「結界という貴様のフィールドで……」  その前でアシダカの身体がパリパリと肌を剥がしていく。 「貴様の全力……その真の姿を相手にするって……」  ラーファイの言葉が続く間にもその身は崩れていき、そして中からやせ細った肉体では ない、針のような繊毛を生やした黒い剛体が隆起していく。  ぱさりと、頭巾が落ちる。  もはやその姿は人型ではなく、その体躯は三倍近く膨れ上がった。  大蜘蛛である。  それを見ながらラーファイはいまだ薄笑いを止めない。 「ただそれだけの事だろう?」  大口を叩く中年男に対し、蜘蛛は無言でその身を震わせる。すると白い蜘蛛の糸がその 口から放たれた。その切っ先は高速で回転し、ラーファイを穿孔せんと突き進んで行く。  だが。 (さあ、避けるか?防ぐか?出来ぬがのお)  本当はそんなものは、ない。  此処はアシダカの生んだ空間であり、その視界が普通の世界通りとは限らないのだ。  そしてラーファイを襲う糸などない。  あるのは、背中へ伸びる黒い鋏角だけだ。背後から忍び寄るアシダカ本体だけである。  この異界の中に入ったが最後、その者が真実を見る事などない。見るは夢幻だけ。悪夢 を見ながら死んでいくだけ。  そしてラーファイが口を開いた。 「式(formula)……不等(inequality)」  迫る切っ先を見据える。 「構成解析……世界に告げよ、……¬双眼故に双眼:=真理を行う。……∵我が境界座標集 合≠我が現座標集合」  言葉の途中で、突如ラーファイが背後を振り向いた。 「もう一つ……幻影:=具象」  アシダカが驚く間もなく、突き刺す幻影とその幻痛を与える筈の白糸はラーファイをす り抜けた。 (――な)  そして痛みは、アシダカに走る。 「グ、ギ!」  幻の筈の糸の先がアシダカの見えぬ身体に深々と突き立っていた。 「彼眼:=幻影」 「シィイイイイイ!」  鎌のごとき触手が呟くラーファイを横に薙いだ。だがそれは幻のように歪んで消える。 「コ、レハ……」 「お前の結界さ」  声が響く。どこからなのかすら判らぬ残響で。 「結界の中、貴様のフィールドの中……は、はは、ククククク……」  笑い声が響き続ける。  アシダカはじりと下がった。下がっても、何も在りはしないが。 「……そういえば。先ほど貴様は私に自尊心がどうのと言ったが」  笑いを止めて、ラーファイがふと話を変えた。 「己らの方が強いと私の事さえ忘れている貴様等の方がよほど自惚れが強い、と反論させ て頂こう」  それを聞く間もアシダカは忙しなく周囲を見回した。結界へと働きかけようとした。だ が己の世界はピクリとも動かず、何処にも何も見えず、ただラーファイの声だけで。 「私は壊れた砂上船を改造したりするがねえ。そして今しがた壁を、床を、変質させたが ねぇ。それだけか?それだけだと思うのかね?ん?」  絡み着く言葉の粘着さはアシダカの蜘蛛の糸にも負けぬだろう。 「他人が魔術の式を用意してくれて、それを横から弄るだけなら手間は一気に減る」  簡単に言い放つ。他人が組んだ、狙いも癖も判らぬ魔法の構成を瞬時に解析し、解体し、 改竄し……そして使いこなす。  そんな事を“だけ”と言える者が何人居ると言うのだろう。 「あまつさえ今のこの状態だ。私は貴様の結界の中に――つまり貴様の魔術に取り囲まれ て、居る。魔同盟が魔人の魔術式だ。極上の酒が並んでいるのと変わらんね!」  嬉しそうに声を上げて、ラーファイがアシダカの前に再び姿を現した。  それが本当に、そこに居るのかは分からないが。 「ヒ――――」  アシダカは戦慄する。 「私の前に立ってしまう術者。それのどこが間抜けじゃあないって?」  略奪する賢者は口が裂けたかというほどに笑っていた。  ――静寂の廊下。そこに突如として二つの影が落ちた。  すっと着地したラーファイは背後の黒い塊に手を伸ばし、ぱんぱんと叩いた。先ほどま で幻老大聖・アシダカ坊だった穴だらけの肉塊を。 「Quod Erat Demonstrandum……と、おや?」  まさしく勝敗は“かく示され”、ラーファイは気怠そうに首を回してから窓を見る。首 をかしげたのは階下で起こっているはずの戦闘音がしないからである。  自分が凶嵐が落とした。とはいえダメージにはなるまいし、すぐに動く筈である。追っ たメラクはどうしたのか。 (もう決着がついたのか……?まさかメラクが下手を打ったとは思えないが……)    ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 「チッ」  ラーファイに落とされた凶嵐は、城の一階で上を見上げた。ご丁寧に自分が掴まれた階 からここまで、先んじて床が全部抜いてあった。更にラーファイが床で作った触手を全て 薙ぎ払う羽目にもなった。  とはいえこのようなこと時間稼ぎとしてもそう役には立たない。とりあえずさっさと上 に戻ろう。そう考えた凶嵐の視界の隅で何かが動いた。  城内に居た兵士たちである。完全な公の犬も居たし。普通の兵も居る。どちらにしても 先ほど城の壁をぶち抜いた轟音などで混乱しているようだった。 「何だコイツ……」 「魔物じゃないか」 「おい、止まれ!」  彼らは凶嵐の姿を知らないのだ。名前は知っていようが、凶嵐がロンドニアと戦ってい たのは百年近く前で、彼等は生まれても居ないのだから当然と言えた。  だがそれが凶嵐の気に障った。  ピクリとその眉が動いた時には、戒破がぐるりと一周している。数歩分以上離れていた 兵達の首が全て飛んだ。  黒い風が巻いて一階ホールを駆け抜けて散る。 「フン……!」  首の断面を口にして成った血の噴水を見て、鼻を鳴らす。溜飲が下がったのか凶嵐は再 び上を見て――。 「ん?」  視線を下げ直した。  開きっぱなしの門扉の向こう。王城の外を凝視する。 「…………」  しばらく沈黙すると、突然凶嵐は外へと飛び出した。メラクはまだ降りてはいない。  まさしく旋風となって躍り出る。庭でうろうろしていた兵達の首を刎ねながら。無論そ んなもの見もせずに。  城門を抜け、橋を渡り、城下街へと飛び込む。  この事態に、完全な偶然と入り込んだ者達の前へ。  風に銀髪が揺れる。  赤い光が明滅して迎える。  そして透明な眼に凶嵐の姿が映った。  だが――。  だがこのブラックゲイルとロングアームは出会わない。  だから、銀色と鉄色と無色が、黒い嵐を取り囲む。  シャルヴィルトと、ジャックスと、『男』の真ん中へ凶嵐は着地した。 「な――『破天大聖』凶嵐!?」  少女が声を上げる。同時にその手は名を呼んだ相手へとかざされた。  凶嵐はぐるりと三人を見回す。 「賢龍か……楽園の引篭りが今更こんなところに居るとは」 「う、うるさ……!」  その言葉に血がのぼったのか、そのままシャルヴィルトの右掌は赤く燃える文字を吐い た。真っ直ぐに進む呪を躱し、風が突き進む。  それを、斧が遮った。 「……!」  ジャックスである。戒破を弾きシャルヴィルトをその背の向こうへと導く。それを見る 凶嵐は、怪訝そうな表情をした。 「……なん、だったか、機工アカデミー……とやらの発掘はセルバンデールがチェックし て居た筈だが……決戦用巨重機の中枢ユニットが再起動したとは聞いていないぞ。あの鳥 頭め……」  ブツブツと呟く。ジャックスの瞳が明滅しても、凶嵐は動かない。 「むう……」 「やってしまいましょう。味方が居たら厄介です。今のウチに……」  シャルヴィルトの言葉に頷き、ジャックスが斧を構えて前に出る。 「所詮、演算用の貴様に……」  振りかぶったジャックスの懐へ、凶嵐の身体が入った。振り下ろすのも間に合わず戒破 の先が鈍色の腹をしこたま叩く。 「――!?」 「わ…………うえっ」  しこたま殴られジャックスが吹っ飛ぶ。十歩分近く後ろへ押し飛ばされて、巻き込まれ た少女は変な声を上げた。  突き飛ばした凶嵐はすぐさま後ろを振り向き、棒を回した。飛んできた青い剣二本を弾 き飛ばす。  視線の先には色の薄い男が一人。弾き飛んだ剣も彼の元に戻り、四本の剣が頭上でくる くると廻っている。 「ザ・ブレイドか……四本も……ん?」  冷めた眼で見つめ、感嘆しているのか馬鹿にしているのか判らないような様子だった凶 嵐が、台詞の途中で言葉を止めた。  訝るというより、全く理解できないというように眼を白黒させる。 「……………………ソ、ソラリス……?いや、違う、のか」  呼ばれた男は変わらず寝惚けたような眼のままで駆けだした。 「知らない名だ」  一言。そして眼を見開く。 「アルタイル!トゥレイス!ベラトリクス!フォマルハウト!」  呼ばれた四剣が男より速く駆けた。弧を描き、上下左右から突きかかる。 「えぇぇぇい!」  戒破で一剣を弾き、左手で一剣を横殴り、身体を回して一剣を躱し、円を描いて一剣を 蹴り飛ばす。  視線を戻す凶嵐の前にあるのは二剣を掴んだ男の顔。 「くゥ――」  戒破を切り返すのが間に合わず、左腕を差し出す。  振り下ろされた剣が手首と肘に食い込んだ。 「舐ぁぁぁめるなぁぁぁ」  痛みの声も上げず咆哮する。 「四剣舞う以外単調極まる!大道芸の木偶がぁぁぁああ!」  食いしばる凶嵐の腕が剣をそこで止めた。そのまま剣ごと腕を振りぬき、男の身体を弾 き飛ばす。  そこへ。 「サイクロォォォォオオオン!」  輝いて巻く風が突き進んでいく。  男への追い討ちを諦め振り返る凶嵐の瞳に銀の少女が映った。 「衝!崩!荒!呼!」  回転する戒破。そこより生まれた黒く燃える風と打撃が受け止めて、拮抗する白黒が地 面を抉る。両の風は回転を上げて、絡み合い、膨れ上がり、消えていく。  その芯を縫って飛ぶモノがある。 「!!?」  鉄色の弾丸。  ジャックスのライフルが火を吹いている。 「うおおおおぉおおおおおッッ!」  叫び声に意味はなく、凶嵐の腹部目掛け飛ぶ鉄塊が黒い鎧を貫いた。  黒いものが流れ落ちる。 「こ、の……」  背後から更に飛んでくる魔剣をなんとか弾いて、黒の魔人は跳び退った。 「……き、貴様ら……………」  憤怒の形相の凶嵐。しかし不意に視線を外す。  道の向こうに白いものが近づいているのが見えたからだ。 (メラクか……くっ)  ちらと三人を見る。その眼はすでに血走ってはいない。 「十二賢者にイレギュラーども、…………言い訳は立つか」  その言葉と共に、脆い土器を砕くような、乾いた音がした。 「……!?逃げるか!」  音の意味に気付いたシャルヴィルトが吼える。  だが音は幾度も続き、どんどんとその間隔を狭めていく。 「…………………チッ」  舌打ちと共に、凶嵐は消えた。 「おや?」 「次元移動です。戻るのは簡単なんですよ。自分の陣地にならいくらでも出口を用意出来 ますからね……ってまあ魔王にとっては、程度の話ですが……」  首をかしげるジャックスにそう告げて、シャルヴィルトは息を吐いた。  そこへ明るい声が響く。 「そこの可愛い娘さん!」  半眼で少女が見やると、真っ白な男が走ってきていた。 「…………メラク、か」  聞こえない程度に呟く。  すぐに寄ってきたメラクは白い歯を見せる。 「一つ聞きたいんだが……お、怪我をしているな?」 「大丈夫ですよ……大賢者。凶嵐なら帰りました」  ジャックスごとぶっ飛ばされた時にすりむいた手をさすりながら睨むように見上げる。 その赤い瞳を見てメラクは何かに気付いたように笑った。 「まさか、そうなのか?へえぇぇ……で、味方だと思っていいのかな銀の隠者(シルバー ハーミット)」 「どうぞ。…………にしてもジャックス、傭兵!アレは何処行ったんですか!一緒に来た じゃないですか」  大賢者にぱたぱた投げやりに手を振って、思いだしたように少女は叫んだ。 「……………」 「そう言われてもであるなあ……」  呼ばれた二人は反応が薄い。  無意味に楽しそうにメラクが少女を覗き込む。 「あれって?」 「……一人とはぐれた……というか何処か行ってしまっただけです。貴方には関係ないで す」  突き放されて、メラクは「ふむ」と頷いた。一度王城を振り返って、また「ふむ」と声 を上げる。 (あの相手でラーファイが負けるわけないか) 「よし、探してこようか?どんな男だい?」 「……ディーンは、茶髪に紫色の瞳の男です。二十歳ぐらい。中肉中背ぐらいの」  胡散臭いものを見るような眼で、シャルヴィルトが答える。  その向こうで、ジャックスが地面を弄っていた。  魔人の消えた辺りである。 「…………黒い、水銀……?」  機兵はそう言って、凶嵐から噴き出していたそれを拭った。    ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆  ――少し、遡る。 「おいショーティア、どうなってるッ!?」 「判るわけないじゃんかよォー!」  凶嵐より少し前に王城を飛びだした影が二つあった。  片やマベリアを捕らえたあのドレイクである。逆立った赤髪を持ち頬に刀傷を刻んだそ の男が連れているのは高い靴を履いた背の低い女だった。ショーティアと呼ばれた彼女は ドレイクと同じく赤い髪――恐らくは二人とも大陸中央部の卑国かその周辺出身なのだろ う。あの辺りは赤みを帯びた髪が多い――で、ドレイクと同じように三日月斧を担ぎ全速 力で王城から離れんとしていた。 「クソッ、なんだよッ!ワケわかんねーッ!」  わめきながら、ドレイクがちらりと後ろを振り返る。王城からはひっきりなしに破壊音 が響いていた。時折わけのわからない珍妙なトゲが飛びだしたり、突然壁が紋様だらけに なって蠢いたり、風が巻き起こったりしている。  十二賢者と魔同盟が居るのだ。一介の傭兵の知ったことではなかった。 「あ、ドレイク隊……っどうわっ!?」  何事かと棒立つ兵――暗殺首謀者捜索の名目で展開していたノーサンフリア公の取り巻 きである――を突き飛ばしてまで、逃げる。一目散に逃げる。 「あ……にしやがんだこの野郎……っ」  そんな声もドレイクの耳に届いてはいない。 「とにかくよォ!」  並走するショーティアを横目で見て、ドレイクはこれでもかというほど顔を歪めた。 「あんのタヌキオヤジがしくじりやがったってことだよなァ!」 「知んねーーつーの!アタシはアンタの言う通りやってただけだし!コーシャクと色々相 談してたのはそっちジャン!」  ショーティアもドレイクと同じ傭兵である。一応彼女はドレイクの部下とはなっている が、二人とも傭兵の仕事にかこつけて殺しすぎて中央あたりでは日向を歩けなくなった者 だった。更に同郷でもあったので、たとえばマベリア捕縛の際にドレイクが引きつけた彼 女をショーティアが後ろから昏倒させるなど、組んでの行動も多かった。  反対勢力につきそうな重要人物は大体拘束し終わって、あとは公の主力を待つばかりだ と一息ついていたところに突然の轟音と、アルマ=ドロックスの肉塊である(公爵が王都 の遥か彼方に吹っ飛ばされたのは流石に彼等の知るところではない)。すぐさま彼等は逃 げ出した。逃げ脚の速い事は傭兵としての美点である。  理由は判らない。状況も判らない。  だが拙いと思ったら、即逃げる。後悔も苦悩もとりあえず逃げてからすればいい。  ――全く優秀な傭兵だった。  そして、どうせ凶嵐・アシダカにしろ、ラーファイ・メラクにしろ、ガンツらにしろド レイクらをわざわざ構う理由はなかった。  だが。 「ったくあんだけあちこちブッ壊しながら暴れやがってよぉぉお!あの女が逃げたらどう すんだよおおぉぉッ!畜生ッ!がッ!」 「誰が逃げたら……だって?」  たった一人。彼等を許さない者が居た。  降って来た声に、二人は急停止する。  直後、その眼前で真上から落ちてきた氷の槍が地面を貫いた。 「ぎああぁぁっ!?」  ここはまだ王城を出てすぐの通りである。公の取り巻きがうろうろしている。今氷撃に 巻き込まれた者のように。 「マベリア……」 「ティンフォースッ!!」  濃緑のローブと頭頂でまとめた銀髪をなびいている。目元から頬へ刻まれた呪印を歪ま せて浅黒い肌の女が一人、氷柵の向こうに立ちはだかっていた。 「私ならここに居るぞ、ドレイク・ザ・ハザーーーード!」  その叫びと共にマベリアは両手を前へかざす。一瞬身構えかけたドレイクが、声を上げ た。 「跳べェっ!」  言葉通り二人が横に飛んだのと同時に、二人の居た場は地面から突き出た氷の針山と化 した。 「ぐ、打ち込んだ先端を地中で伸ばして……ッ」  腹ばいのドレイクは舌打ちしながらすぐさま立ち上がり、更に走った。反復横幅跳びの ように、だが規則性なくジグザグに跳びながらだ。  その足元を氷の切っ先が突き出てくる。 「こ、の、クソ、エルフ、ゥウウウッ!」  それは罵倒の叫びを上げるショーティアの側も同じだった。斧で柵と化した氷槍の『尻 尾側』を薙ぎ払いながら、飛び出てくる先端に追われている。 (二人同時にって、マジハンパじゃねえよなあ、あの女はよお……!)  ドレイクは一瞥で視線を戻す。そうして、この状況で苦笑した。  彼の瞳に映るマベリアは、激怒の声を上げながらもその瞳は真っ直ぐ冷徹に自分達を見 つめている。  その瞳が、氷のように美しかったから。 「うおおっ!?」  一瞬見とれたドレイクを氷の槍は無慈悲に襲った。なんとか躱すドレイクの板金鎧が抉 れて銃創のような傷を作る。 「んな、ろが、よお!」  体勢を崩しながらもバルディッシュの斧刃を盾のように構えた。  鋭い音が響く。  追撃の氷が頭を出したところを、ドンピシャで斧が抑えたのだ。氷の槍も、流石に真正 面から鋼の板を打ち抜くほどではなかったわけである。 「調子、乗ってんじゃネーーんだよっ!!」  片翼では氷から逃れつつ、怒号を上げるショーティアが旋回接近していた。 「城では世話になった……後ろから」  マベリアは、烈火のごとき怒りを冷ややかな言葉で抑えてショーティアを見る。 「咲け、零下の華よ!」  そして迎える言霊と共に、宙に氷の盾が生まれる。それをショーティアが唾棄せんばか りに睨み付けた。 「そんなものでッ!」  だが斧を振り上げ飛びかかるショーティアは、その盾のせいでの忌むべきエルフが『式 (フォーミュラ)』『不等(インイコーリティ)』と呟いたのを見なかった。  口の動きに気付いたドレイクが声を上げる。 「避けろショーティア!」  言われて、地を離れかけていた足が向きを変える。左へ身体を捻るショーティアの前で 氷の盾がひとりでに割れた。そしてその破片が、真っ直ぐ弾丸のように前へと。 「っくあ」  端の氷弾が顔を背けるショーティアの右目を掠り、抉り取った。 「ぎゃっ」 「う、うおぁぁぁ!?なんだ!?」  外れた流れ弾が、遠く、騒ぎに近づいてきた兵をも向こうで貫く。  それを流し見ながらドレイクはマベリアへと駆けた。  今のマベリアがやったのはラーファイと同じ術だった。魔術改変は相手の魔法を防いで 返すだけではない。己が使った魔術を途中で弄る事でより早く、より柔軟な対応をとる事 も出来る。 (しかしよ、通りで氷の散弾だぁ?) 「見境なしかよダークエルフよぉ!」  倒れたショーティアの背へと手をかざしかけたマベリアが、ドレイクへと振り向く。 「見境?」  その顔は微笑みを浮かべていた。凍るほど程に硬い微笑を。 「裏切り者の……人間など……」  呟いて、膝を折ったマベリアが地に右手をついた。  あちこちから飛び出し、割れ散っていた氷が一瞬で消える。 「 私 が 知 る か !! 」  怒声というより、咆哮。  その音に乗るかのように巨大な氷柱が地を走る。 「あ、お、お、お、お、おッ!?」  石畳を薙ぎ払う硬い波に飲まれる事から、ドレイクは間一髪逃れた。  通りを爆走していく氷の柱をわずかに一瞥しその足ですぐさまマベリアに迫る。 「チッ」  バルディッシュを手にしたドレイクへ、マベリアは左手をかざす。 (やべっ、間に合わ……)  それを見てドレイクは顔を歪めた。  だが、その腕を。 「アタシ忘れてんじゃないンだよぉッ!」  ショーティアが掴みとる。 「貴様っ」 「しゃったあァ!」  マベリアの掌がドレイクを逸れ、ドレイクが斧を振り下ろす。  だから 「フォーミュラーー!」  マベリアは再び唱えた。  ドレイクを貫く為だった氷の刃は、その頭を引っ込めて立ち消えた。そして何も起こら ず、三日月の刃がマベリアの左腕を肘下から断ち切った。 「勝っ」  肉と骨にしては甲高い音が響く。  ドレイクの顔につめたい欠片が飛び散った。 (――氷?)  斧は砕いていた。氷を。一瞬前までマベリアの腕だった氷をだ。 (クソ、こいつ……)  真っ直ぐ己を見るマベリアの瞳。 (ああ、すげえ女だよなぁ、いいよなあ、クソったれえ……)  マベリアの左腕は断絶のために起こる激痛を、意識を飛ばし得るか、そうでなくとも動 きを止めるに十分だろう激痛を伝えなかった。一瞬にして氷結させられた腕は全神経を麻 痺させている。そして凍りついた傷口は血の一滴も流さない。  だがそれは、斬られると気付いた瞬間に一片の迷いなく腕を捨てる決断を下し、魔術を 書き換え発動したと言う事だ。  ドレイクの頬が引きつった。  それは多分、笑いだった。 「マジにキレてやが……」  その言葉を言い終わる前に、マベリアの右手がドレイクの顎を掴みとる。 「ニンゲンと同じにするなァ……ッ!」  流し込まれた魔力が、末端の四肢よりドレイクの身体を凍結させ始めた。 「は、はは、ははは…………」  口を掴まれたドレイクは力なく吐くのみで。マベリアが手を離し、ショーティアが居な い事を認める間も氷結が続いた。 「貴様ら本当に……優秀な傭兵だな」  体の一部を中から瞬間凍結させたのだ、流石に蒼い顔のマベリアが吐き捨てるように言 う。血の跡を作るショーティアの背はもう遥か道の向こうで、彼女に追う力はない。  ふらふらと膝をついたマベリアを見ながら、もはや残るは胸と頭部のみで動く事も出来 ないドレイクが笑った。 「クッ、褒めて貰ってありがとうよ。礼に一つ……遺言をやるかな」  一気に襲ってきた精神疲労と身体の変調に朦朧とする意識の中で、マベリアはその声を 聞いていた。 「ノーサンフリアのオヤジ程度が、何故ここまで出来たと思うよ――――」    ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆  あちこちで怒号や騒ぐ声が響いている。  『男』らだけではなく、既にガンツの兵が王都で展開しているのだ。不意打ちを受けた 公の取り巻き兵は混乱していたこともあって簡単に制圧されているに違いない。  だがそれは少しばかり遠い。  将軍ジャック=ヴァルカンは誰も伴わず裏路地を駆けていた。  ジャック=ヴァルカンは、王の信頼篤い男だった。付け加えるならば王以外からはあま り好まれぬ男だった。  彼はかつて、『道楽』の名を持つ魔術師の実験体となりジャック=ヴァルカンという個 体に混ぜ込まれてしまうまでは双子であった。今や胴体に乗る首は二つで、今の自分が兄 の意識なのか弟の意識なのかは覚えていなかったが。  彼はどこから見ても異形だった。そして二倍の頭脳を持つ彼は異才だった。  だから人は彼を避けた。  だからジャック=ヴァルカンの元には誰もいなかった。  それは王によって取り立てられてからも変わっていない。  確かに王はジャックを信頼しただろう。だが彼は異形ではない。  彼が王宮へ迎えられた時既にその辣腕をふるっていたマベリアとて、本来人目をはばか る者ではあったろう。しかし彼女には同族が居るではないか。いくらでも居るではないか。  ジャック=ヴァルカンには居ない。  だが彼には頭が二つある。ならそれでいい筈だ。  己が身は兄と弟なのだ。  だから信頼を置いてくれたロンドニア王だろうと、己の姿を嫌悪しつつも手を回してき たノーサンフリア公だろうと、どちらだっていい。  より上へ。より上へ昇れる方に賭けただけだ。  己の仲間は己の中に在るのだから。 「――――ジャック=ヴァルカンよ」  不意に、彼の前を影が遮った。  巨体の彼からすれば小さな影。双頭の彼からすれば少ない、たった一つの頭。  薄汚れた武装の男が一人。ジャックの脚を止めさせた。 「やっと会えたな」  そう言って、紫の瞳が真っ直ぐ彼を見る。知らぬ顔だった。 「ウィーザーの連れてきた兵か」 「その通り。流石、状況を把握していたか」  ジャックの呟きにディーンは嬉しそうに笑んだ。一人の雑兵が、ロンドニアの将軍を褒 めるように頷いた。  ジャックという男はあまり激昂する事がない。それはマベリアと似た理由がある。つま り劣等人種に……頭脳一つだけの者に何を言われようがどうでもよいと言う事だ。  だが次の言葉を聞いて、ジャックの二つの顔が同時に歪む。 「あの女に……ゼノビアに聞いていた通りだ」  無論その表情は怒りではなく困惑だ。見た事もない、ただの傭兵か何かであろう若造一 人が王女の名を出してくるというこの状況。そして何より、この混乱からすぐさま脱出せ んとするジャックを先回りしてこの青年が現れたというこの状況。  だから彼は青年を二倍睨んだまま、慎重に口を開いた。 「……何者だ。まさか魔王の」 「いや、いや、いやいやいやいやいやいやいや」  軽い調子で左手を振って青年はまた笑った。 「王女から中心的な部下の何人かの話を聞いて俺は思った。とりあえずジャック=ヴァル カンという男は間違いなく裏切るだろうとね」  名乗る事なく、突然話を変えた相手をジャックはじっと見ている。  どこまで知っているのかは知らないが、クーデタを知れば重臣の何人かに叛意があるだ ろうというのは当然の考えだ。 「異形と聞いた。うんお前は異形だよなジャック=ヴァルカン。いや、化け物だよ」  続ける青年は、ジャックがいつも見る人間どもと違った。つまり皆が口を閉じ目でそう 言ったのとは逆。口でそう語り、目は真っ直ぐに輝いている。 「だから、お前は裏切ってるって思った」  言葉の様相とは裏腹に、その響きには侮蔑とか非難はない。ただ事実を述べているだけ という感じだ。 「何故」 「だって、そうだろう?お前は化け物だ。お前を理解してくれる者など誰もいない。お前 が理解出来る者など誰もいない。人を襲うから化け物ではない。優れるから化け物ではな い。お前は理解されず理解できないから化け物だ」  出かけたジャックの言葉を、ディーンの舌が遮った。爛々と瞳を輝かせるそいつは饒舌 だ。酷く、饒舌だ。とても機嫌が良さそうだった。  だがその台詞が終わるまでにジャックは全然関係のない一つの結論を出していた。  この男は始末しなければならない。  細かい事は判らないが、眼前の相手は自分を裏切った事を知っており、かつ味方ではな い。  王は殺した。ノーサンフリア公もドレイクも死んだ。  だからこのまま存ぜぬ顔でガンツに合流する事も可能なのだ。最大の庇護者である王は 死んだとはいえ、今のうちに現王家に戻ればノーサンフリア公側が総崩れな以上は、権力 争いで追い落とされる事もまずない。  この男さえ取り除けばだ。  眼前の青年は一体何を言いたいのか。一体何が目的なのか。ジャック=ヴァルカンには さっぱり理解できなかった。彼の言葉通り。  だがそんなものはどうでもいい。ここでこの男を消して、ジャックは再び野望の階段を 登り直すだけだ。  彼我の距離は、数歩以上離れている。  とはいえ、相手が化け物と呼ぶようにジャックの肉体は改造を受けているのだ。傭兵一 人逃がしはしない。そう決めて双頭の将軍は腰を落として脚に力を溜めた。 「だが一つどうしても気になる事がある」  青年のその言葉に、ジャックは地を蹴った。言葉ではなくその行動で「俺にはない」と 答えた。  跳びかかり、振り下ろした異形の腕でただ押し潰す。  その前に。  チカリと、ディーンの前で何かが光った。  石畳が鎧とぶつかり音を立てる。  ジャックは二つの顔を上げ、そして自分が吹き飛び倒れている事を知った。 「異物は理解されない。だからそれは恐るべきものだ。化け物だ。賢龍は俺を理解しない だろう」  そう淡々と続けながら歩み寄ってくる青年を認めてから、ジャックは肩に痛みを感じた。 見れば左肩からその二の腕の上部あたりがごっそりと抉り取られている。 「う、ぐ……」 「なのに何故『あの男』は理解出来るんだろう。俺を、シャルヴィルトを、ジャックスを だ……」  唸る異形は、そして気付いた。青年は自分の返答など望んでいなかった。何故なら青年 は彼自身が言ったのだ。化け物は理解されず理解されないと。  その腕の長さは、明らかに左だけが長かった。 「お前、も、か……」  遅れて猛烈に襲ってきた痛みに息を切らしながら、双頭は左腕の長い彼を見上げる。  覗きこんでくるほどに近づいた相手を見て、ジャックは己を吹き飛ばしたモノの、肩を 抉りとったモノの、その正体に気付く。  変じた腕の、冷たい肌の上にはびっしりと紋様があった。  それは例えばマベリア=ティンフォースが己の身に刻んでいるような魔法式ではない。  それは道具のように洗練されてはいなかった。  だから青年は恐らく魔術などを使えないだろう。術だとか法だとか呼べるほどに綿密に 構成されたものは使えないだろう。先の一瞬の光は、ただ己の中のものを爆ぜさせただけ だ。体外に迸るほどの、ただの、生命力(タマシイノカケラ)だ。  それで多分、十分なのだ。 「だが……ッ」  弾かれたように双頭の巨人は跳ね起きた。動く左手を払うように振ると、相手は跳び退 る。  三歩ほど距離を開けて、再び二人は相対した。  高濃度の圧力を持って立つディーンを前に、ジャックの顔には汗があった。だがそこに 諦めはない。 「なるほど確かに貴様のその力はただものではないが……我等はそう簡単にやられはせん ぞ……。貴様にはここで死んで貰う。結論は変わらん」  我等、とジャックはそう言った。  双頭であるからこそ異形であり、双頭であるからこそ優れ、双頭であるからこそ他を恃 む必要などない。誰も独りでは弱いとしても、ジャック=ヴァルカンは一人で独りではな いのだ。  その単語に、その自信に、ディーンは目を丸くした。  そして数拍惚けた後に、笑う。 「は……ははは、はははははははあははははは」  不敵な笑みではない。狂笑でもない。ただの爆笑だった。 「そう、そうか、そうなのかジャック=ヴァルカン。お前はそういう事なのか。あははは ははははっ!やはり俺はお前を理解しなかったな。そして先ほど、確かにお前は俺を理解 しなかった」  そうして、その左腕が閃いた。明らかに垂れ下がげられていた時の長さより長く、手は 真っ直ぐジャックへと伸びる。  だがそれは空を切った。ジャックが巨体に見合わぬ素早さで左に躱す。  その顔へ向けて、更に右手が遠くかざされる。その腕も既に肌も小手も見えない紫色の 何かに変わっていた。  それをジャックの片顔が、その双眸が捉える。直後に起こる光もだ。  かざされた右手から爆ぜて向かう気をはっきりと視認し、身体を切り返す。今度はその 巨体が吹っ飛ぶ事はなく、路地に面した石壁が拳大ほど抉り抜かれた。先ほどは不用意に 跳びかかったせいで直撃したが、撃ってくる事さえわかれば何とか躱す事は出来る。  二手いなしたジャックは前へと踏み込んだ。ディーンがその異形の脚で以って後ろへ跳 ぶ。めくれ上がる石畳を気に留めずにジャックは更に前に進み……そして右へと振り返っ て、斜め後ろから薙ごうとしてきた長い腕を払い飛ばした。 「お」  狸な青年が声を上げる。双頭の彼に死角はない。  舞い上がった石畳が音を立てて落ち、土煙が収まるとそこには紫色の何かが立っている。 もはや先ほどの青年姿はどこにも残っていない。戻した左腕だけが少し長い、アンバラン スな人型のなにかだ。 「ふん……っ」  その剣のように尖った左腕の先端を見ながらジャックは鼻を鳴らした。  それを真っ直ぐ見て、青年だった異形は頷く。 「確かに、頭脳が二つあればそれだけ並行した判断が可能だし、周囲の把握も容易だろう な」  語る声はどこか呑気ですらある。 「だが」  その語気が、突如冷たく変わる。 「だが、それはただ頭が二つあるだけだ。お前は独りだ、ジャック=ヴァルカン」  冷えた言葉。  聞いたジャックの表情が、初めて憤怒を見せた。 「な、んだとぉッ!貴様等一つ頭が、浅はかに語るな!」  ジャックという男はあまり激昂する事がない。異形だと言われようと、それは事実であ り、そしてそれこそが己の優越を表していたのだから。いくらそれで侮蔑されようが彼に とってそれは侮蔑ではなかったのだ。  その彼が激怒した。  腰の剣を抜き放ち真っ直ぐに紫へと突っ込む。  気撃を放つ間もなく、ディーンは後ろへと逃げた。 「違うのか、なら双子だったというお前は兄なのか!弟なのか!」  下がりながらも、紫の異形はその言葉を止めようとはしない。 「その名前は……一体誰の名前なんだ、“誰か”(ジャック)!」 「うおおおおおおおおおおッ!」  我武者羅に振り回される剣が紫を捕らえる事はなかった。  だが――。  攻撃を躱すディーンの手から数度光が閃いても、巨躯のあちこちが裂けても、ジャック は動きを止めなかった。 「チッ」  舌打ち。此処で初めて、ディーンは不快を露にした。  先ほどジャックが考えた通り、彼に魔術は使えない。気の弾丸も、やってみたらできた からという程度のものでしかない。そもそもこの姿で一体何処までの事ができるのか自体 を彼が分かっていないのだから。  ジャックは使用不能になったかと思われた片腕さえ動員しはじめていた。もう一本下げ られた剣をその手で使い、二刀で対する。  その血走った眼はもはや自分のダメージなど気にしていない。長い左腕も幾度と襲いか かるが、大振りのそれは簡単に払い返されてしまう。  異形と姿を変えた青年の動きは凄まじく速いが、ただそれだけだった。そもそも彼本人 は別に特筆して戦闘に長けた者ではない。達人だとか戦闘のプロではない。長く戦場に居 ただけなのだ。だからそこを渡るプロではあったが。  その左腕の太刀筋も右手からの射線も双頭が見切っている。 (身体能力差は、経験と技術と怒りと気合で埋められてしまってるわけだ……なら、どう する?)  間合いの中で策など無意味だ。ただ強い方が勝つ。武運ある方が勝つ。  襲いかかる刃を躱しながらディーンは相手を真っ直ぐに見据えた。 (なら、もっと速く――――――もっと、速く!)  相手の攻撃を全て躱し、相手へ攻撃を全て叩き込む。それが答えだ。たった一つの、シ ンプルな。  考えても出来ないと言う事を除けばいつもと同じなのだろう。一手先を、二手先を、三 手先をとれば勝つに決まっている。そのために戦士は肉体を鍛え技を磨く。  だが今は本番だ。そんな手順全て“すっとばさ”なければならない。 (こ、の…………)  心中でだけ苦虫を噛み潰したような顔を浮かべて、紫の異形は一歩踏み込んだ。それは 隙をついたというよりは苦し紛れに飛びこんだというのが正しい。このまま退き続けても、 ジャックが失血で動けなくなる前に自分が捉えられてしまう。  怒り狂う双頭だが、それを見逃しはしなかった。振り下ろした剣を切り返して、切っ先 を前に真っ直ぐ突き込む。  横薙ぎに払われた長腕の剣は、明らかに出遅れていた。無理矢理に前に出たせいでそれ 以上踏み込めず、大きく踏み込みながら腕を突き出すジャックとは比べるべくもない。  だがもはや止まることあたわず。 (もっと速く―――!) (貰ったッ!)  突き込まれた切っ先が紫の外殻を砕き、長腕が空を切り、気弾が顔面を直撃し、それで も追撃する第二剣は振り下ろされて――  そして、それらは、全て、起こらず。 「な……?」 「――え?」  突き込んだ双頭の視線から、紫の姿は消えていた。  振りぬいた紫の視線から、双頭の姿は消えていた。  二人は同時に気付く。 (うしー―) (……ろ!?)  双頭が振り返るよりも、紫が逆手にかざす方が遥かに速い。  詠唱も印も集中さえ不要。タイムラグゼロで爆ぜた気はジャック=ヴァルカンの腰を打 ち抜いた。 「が……っ」  こうなっては忘我も我慢も無意味だ。背骨を砕かれ巨体が地に崩れ落ちる。  己に背を向けたまま倒れたジャックを、ディーンは振り返り見て、そしてその視界がぐ にゃりと歪む。一歩、前に出した左足で踏みとどまろうとして……すぐにぐらりと揺れた。  荒れ放題の石畳へと倒れ込む。わずかな土埃と共にその外殻が蒸発するように煙と消え た。 「判……らない」  痛みの中でジャックが絞り出した声を、蒼白の顔で青年は聞いた。 「いくら、思いだそうとしても……俺が兄だったのか、弟だったのか、覚えていない」 「意識が一つになった時点でお前はお前だ。ジャック=ヴァルカンを成した双子はもう死 んでるのさ……」  玉のような汗を流しながら、無理矢理皮肉げに笑って、青年は身体を起こした。荒すぎ る息は掠れて途切れる。 「なら俺は一体何者だ」 「知るか」 「お前は一体何者だ」 「知るか」 「今のは何だ……!」 「知るか」  震える足で立ち上がったディーンはいつものように不敵な態度を見せる事をしなかった。 いや出来なかっただけなのか。 「独りは、二人になったって独りさ」  両腕を力なく垂れ下げ、びっこを引くようにしてディーンは歩き出す。 「理解しない……だが知る事は出来たなジャック……同じような化け物が、だがやはり違 うという事は」  なげやりに、淡々と歩く。 「そしてやはり自分の事ってのは判らないものだ……まぁ判らなくても困らないがな」  その声は、だが呼びかける相手に届けようという意志が感じられなかった。もはやお前 に用はない。全ては終わったと言わんばかりに。  いや、確かに終わったのだ。  それを伏したジャックは流し見た。片頭の眼が細められ、わずか口が開く。  それは何となく、ただ何となくだ。 「王女が、拉致された事を知っているのなら……、何者がそうしたか判っているか?王女 は中央大陸で拉致された、ぞ……」  それが最期、ジャックがディーンへ遺した言葉だった。 「なるほど……俺が引っかかっていたのはそれだったのか……」  唐突なそれにも、青年は呟くだけで振り返らなかった。 「今、自分がそれを告げた理由をお前は分からないだろう?ジャック=ヴァルカン……俺 にも分からないさ」  そうして路地裏には誰も居なくなった。  ただ一人を除いて。 「――――バカな」  その見開かれた眼は、驚愕では済まぬ戦慄だった。 「オーバードライブ……いや、いや……違う。炎が、杖が不完全なだけだ、多分」  屋根の上で金の髪と白の上着をなびかせるその男。 「し、『始祖の逆円』(システムトゥエンティフォー)……」  呟く大賢者メラクは、表へ消える背中をただ見ていた。 「え、あ……ディ、ディーン……?」  結局、それを見つけたのは銀の少女だった。  白い顔で通りに転がっている青年を見て、シャルヴィルトは慌てた。 「ちょ、ちょっと、どうした!?ね、ねえ。ディーン?ディーン?……よ、傭兵!ジャッ クス!」  駆け寄った少女を認めて青年は起き上がろうとし、彼女に寄りかかる。 「傷は……ない」 「それは――見れば――、わか――るが」  普段なら突き飛ばしもしただろうが、流石にそれは憚られてシャルヴィルトはディーン を覗き込んだ。確かに酷い出血などは見えない。 「大丈夫……なのか?」  眉根を寄せる少女を見て、青年は掠れた笑いを漏らした。 「ああ………なん、だか珍しいな」 「捨てるぞお前っ!」  軽口に、シャルヴィルトが牙を見せる。  それに変わらずディーンは薄く笑ったままで。 「捨てていいよ。それより……お前は早く、その、二人を乗せて……飛べ」  遅れて駆けてきたジャックスと男を見ながら、突然そんな事を言い出した。 「は、はあ?」  少女がその眉を歪める。 「天尊と公は繋がっている……ようだったか?」 「いや」  怪訝な顔をするシャルヴィルトの代わりに冷めた眼の男が応じる。 「だろうな。だからフラティン城だ……ジャック=ヴァルカンが教えてくれた」  荒い息を抑え込むように矢継ぎ早に言葉を繋ぐ。 「俺達が渡砂艦に乗った時、既に王女は拉致状態にあった。公が護衛の全てを買収出来た とは思えん……な」 「なら他は公の息がかかった者に始末されたんだろう」  話に乗る事で、いつも余裕ぶっていけすかない男がうなだれている混乱を忘れたシャル ヴィルトが口を開く。 「ああ……そうだ。だとして、覚えているかな……ゼノビアの言葉を。彼女はどこ、から 帰る……っ、……途中だったって?」 「“皇国からの帰路、護衛の多くが正体を現し私は軟禁状態にありました”と言っていた である」  今度は一字一句相違なくジャックスが答えた。  口をぽかんと開けて、シャルヴィルトがその一語を抜き取る。 「皇国……?」    ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆  ――ノーサンフリアのオヤジがここまでの全てを上手くやれると思うかい?  ――アンタだって思わないだろう?多分自分の姪や甥にすら思われてねえぜ、クク  ――皇国だよ……あのオヤジは皇国に後押しされたのさ  ――皇国は西国が邪魔だと思ってる  ――砂漠の両端にある西国とロンドニア  ――ロンドニアを押さえ貿易ルートを抑えれば西国に関税をがっぽりとらせる事もない  ――アイツは既に皇国と結んで王女を誘拐してあるんだぜ…… 「…………はっ!?」  マベリア=ティンフォースは飛び起きた。目の前にドレイクは居ない。あるのは豪奢な 本棚と机だった。  手をつこうとして、バランスを崩す。見れば左の下腕があるべき場所は虚空だった。包 帯がしっかり巻かれており、傷口の心配をする必要はなかったが。  それを見て一瞬動き止めたマベリアの後ろから声がかかる。 「城。西の賢者が運んできてくれたんですよ」  青年は数時間前も彼がそうだったように転がっていた。  だがそこは道端ではない。レースのカーテンがかかった窓のある壁。羽毛のソファ。言 葉通り、そこは王城の一室だった。 「お前は……?」 「名前はディーンと。お初にお目にかかりますねマベリア=ティンフォース」 「そ、そうか」  マベリアは曖昧に応じ、一瞬惚けた。 「あ!し、しまった」  ドレイクの最後の言葉を思いだす。そしてかぶせられていた布団を剥ぎ取ると、立ち上 がろうとして、そこで横の声にまた止められた。 「フラティン城へなら連絡はもう入れてありますけどねー」  その言葉にマベリアは目を見開いた。 「何?」 「ジャック=ヴァルカン将軍がね……教えてくれたってことです。ノーサンフリア公が結 んだ相手をね。まあ彼はお亡くなりになったが……」  ディーンはジャック=ヴァルカンの裏切りを告げなかった。 「そ、そうか……いや、ダメだ!王女が」 「その王女を偶然助けたもんで、こんなところで下っ端傭兵が休んでるわけですわ」  青年はへらへらと笑う。そのふざけた表情に反して、全て先回りされている事にマベリ アは違和感を感じはしたが、未だ混乱の方が大きかった。 「つまりそれで君等は王都を奪還しに……」 「今ウィーザー将軍が王都中をかけ廻ってるはずですよ」  ウィーザーの名が出て、マベリアは幾分安堵した。そして信じた。 「なるほど。しかし何故今フラティン城と……?」 「だって皇国、絶対攻めてきますよね」 「んな――」  当然だという風に青年は言い放つ。 「公と結び公のクーデターを支援し影響力を強める……?まさか。あの国がそれだけで済 ませるわけがない。公は済むと思ったんでしょうが」  じっと、マベリアは聞いている。 「王女を誘拐させたのは単に公のクーデター後に反対者を黙らせる為じゃない……」  そこまで聞いたマベリアが、確信したように口を開く。 「……王族……王女誘拐を理由として皇国が介入する為か」 「ええ」 「王女は皇国とも王国連盟とも繋がりがありどちらの勢力でもない。もし皇国が連盟を出 し抜いて王女救出を掲げれば連盟は何も言えない……連盟とも友好関係のある王女を助け るなとは言えない。それが本当かどうかに関わらず、その建前が通る以上は連盟は各自の 思惑によって割れる。そういう事か」 「ええ」 「最初から公は皇国の捨て駒だった……という事か」 「ええ」  三度短く答え、ディーンは息を吸った。 「でも、いきなり皇国軍団が何個も一気に攻めてくる事は不可能です。砂漠がある。そも そも砂漠の逆側……つまり皇国に近い方には西国があって、それが邪魔だからこそロンド ニアを傀儡化したいわけで」  ディーンの言葉にマベリアは何度も頷いた。だがすぐに目を険しくする。 「その通りだ……だがあの国は底が知れない。我々の国とは全てが違うからな。特にその 兵は……」  今度は逆に、マベリアの言葉にディーンが頷き続ける。 「あの国は……一応、騎士団などが申し訳程度にありはするが……基本的に強大な常備軍 が主力。そしてその十二軍団の兵は傭兵や各指揮官の私兵ではなく、皇国に直接雇われ続 ける『皇国兵』。故に強い」  王は諸侯や都市と出兵の契約を結んでいるが、これはやたらと制限が多いから、代わり に免除料として金をとる方が多い。諸侯や都市の兵も一段下がって同様となる。  結局傭兵や雑兵は、彼等を集めてきた指揮官か傭兵隊長の部下である。  部下の部下は、部下ではない。  だから傭兵は簡単に逃げるし裏切る。普段から戦闘訓練をしている者ばかりでもない。 こと不利な状況において弱い……というか役に立たないのだ。ドレイクやショーティアが そうだったように。  それでも傭兵を使うのは、必要なときに必要なだけ雇うのが一番安くあがるからだ。  そこをいくと人の国で皇国のような軍は他にまずない。よほど規模が小さく、その割に 裕福な国や一部の都市同盟ぐらいだろうか。東国騎士団は騎士団本体の数は少ないし、西 国騎士団は教会の金が入っている。ファーライトや他の王国も基本的にその財布で全軍を 養い続ける事など不可能だ。それは海上貿易で潤うこの国ですら変わらない。  それはひとえに、皇国が税制改革を為していたという国制上の優位だったが。 「……兵士は指揮官に食わせてもらってるわけじゃないから指揮官が何か企んでも誰もつ いていかないし、だから足並みが揃っている」  続けるディーンの言葉に、『だから皇国なら今のような事態は起きない』という言外の 意味をとってマベリアは眉根を寄せた。  失言だった、という風にわざとらしく首をすくめ、ディーンは続けた。 「でもまあ、そういう事ですよ底が知れないっていうのは。確かに皇国軍は練度が高く、 キチンと管理されてはいますが……奇跡を起こすわけじゃない」  言って青年は顔の前で手を振る。 「が、先ほど貴女が仰ったように貿易都市のザネックスに近いフラティン城。もしここを 抑え、橋頭堡と出来ればどうでしょう?」 「大軍で西国領を廻るのは大変だ。更に砂漠を越えて、その上で戦うというのは流石の皇 国兵士と言えども無謀極まる……しかし、その先が味方の陣地だとすれば確かに大分違う な」 「ザネックスも抑えれば補給も問題なし」  二人して頷く。「だが」と声を上げたのはマベリアではなくディーンだった。 「だが、です。そもそもここまで来るのが大変なのに最初に誰が城を落とすんです」  言われて、マベリアはやや機嫌を損ねたように口を尖らせて答えた。頭のいい人間とい うのは得てして他人に誘導されるのを嫌うものだ。 「……第四軍か」  ニヤリと紫の眼が笑って。 「ええ、無論ここまではヴァルカン将軍が教えてくださったわけですよ?まあ、それで私 も合点が行ったわけで」 「そう、か……確かに彼の頭脳なら……」  ディーンが軽く言ったその言葉は、マベリアを納得させるのに十分すぎた。ジャック= ヴァルカンとは本当に優秀な男だったのだと、彼女の態度が示していた。  それを見てディーンが再び口を開く。 「……強い強い十二軍団の中でも、誰もが戦いたがらない軍団というのがある。とびぬけ て強いわけでもないし、多いわけでもない。いやむしろ少ない軍団です。だがその名を聞 けば誰もが嫌がる……こっちもガキの時分から傭兵をしてたが、同業者に聞けば大体“会 いたくない相手”の五指内に数える……」  そこまで聞いてマベリアが言葉を継いだ。 「確かにあの軍団は兵力としては微妙なんだろう……その在り方故に限界がある。だがガ ンツ殿がこちらに来ていて、城を守っているのは少数の部下だけ。しかも攻められるのに 気付いてから召集しようにも、すぐ集められるだけの兵は既に連れてこちらに来ていると なれば……」  マベリアは目を細める。 「クーデターが成功しようがしまいがほぼ確実にフラティン城の守りは薄くなる。それが 狙い。それだけが狙い……全て、ただその一点が為だと…………」 「その軍団は十二軍の中では恐らく最も異質だ。色んな意味で」  ディーンが続けた声は、詠うようだった。 「それは唯一、軍団長の私兵のみで構成されるという事と」  そして吐き捨てるように、マベリアが最後のピースを、嵌めた。 「たった一人……軍団長がそこに居るだけで、即座に展開出来るという故にか……!」  フラティン城を臨む小高い丘に影が一つあった。この辺りは砂漠ではないが、とはいえ やはり砂地が多い。沈む夕陽の光を受けて、砂が硝子のように光って、また光っている。  その輝きに照らされながら。  かつて、十二賢者が八時『死の森の』アクの盟友だった男。  かつて、魔同盟XIII『死神』アグニデスに敗れた魔術師。  いまや、皇国十二軍団は第四軍『死鋼軍団』を率いる長。  ブラックバーン=アームはたった一人で立ち尽していた。                          『How the West Was Won』へ続く