それが――彼が見た、最後の姿だった。  ――ぱちりと、火が爆ぜた。  ワイングラスを持ったアーキィの手が下へと垂れた。零れる中身は何もない。トゥルシィ= アーキィは、彼の人生と同じように、最後の一滴まで味わいつくしたのだ。空になったグラス が手から離れ地へと落ちる。カーペットの上へと落ち、われることなく床に転がった。 「…………」  その様を。  最後の瞬間を、夢里 皇七郎は見届けた。トゥルシィ=アーキィの死ぬ瞬間を、その目に、 その頭に、その心に強く焼き付ける。  そのために彼は来たのだから。最高の友人と、かけがえのない存在に別れを告げるために。  アーキィは動かない。  穏やかな表情のままに。  満足げに笑ったままに。  身じろぎもしない。  身動きもしない。  アーキィは動かない。  ――トゥルシィ=アーキィは、二度と動くことはない。  実感はなかった。喪失感だけがあった。自分の中の大切ななにかが、抜け落ちてしまったよ うな気がした。『夢里 皇七郎』を構成する多くのものの、奥深くにある大切なものが、また 一つ欠けてしまったのだ。  何も初めてのことではない。八十年も生きていれば、否応なくそういう事態には直面する。 歳を負うこともない皇七郎は、友人たちが生まれ、育ち、死ぬ様を見てきた。  恩師であるエル=エデンス。  冒険団からの付き合いであるジュバ=リマインダス。  論を交し合ったガトー=フラシュル。  誰もかもが大切な存在で。  誰もかもが、いなくなってしまった。皇七郎を置いて。誰もが先にいってしまった。生き急 ぐかのように。世界はゆっくりと移り変わっていくのに、皇七郎だけが此処で立ち止まってい る。  ふと、一抹の寂しさを憶えた。迷子になった子供のように、自分がどこへ行けばいいのかわ からない感覚。世界全てから見捨てられたのではないかという不安。  物言わぬアーキィは、何も答えてくれない。皇七郎の疑問に明快な答を出してくれることも 、騒ぎすないでのんびりしようとたしなめてくれることも、もうないのだ。  ――彼は死んだ。ボクは生きている。  それだけのことなのかもしれないと、皇七郎は思う。結局のところ、事象だけ見れば、何の 意味もない。老人が一人天寿を全うした。それだけのことなのだ。  皇七郎は思う。  ――彼の生に、意味はあったんだろうか。  ――ボクの生に、意味はあるんだろうか。  ――彼の死に、意味はあるんだろうか。  ――ボクの死に、意味は――――――  わからなかった。  そして、答を出してくれる彼は、もう何処にもいないのだ。   「――――――」  背後で、扉が開いた。  誰かが入ってきたのが気配でわかる。振り向かない。振り向く必要もなく、それが誰なのか 気配だけでもわかったからだ。人間のそれとは違う、独特の気配。どこか自分にも感ずるとこ ろがある、不思議な雰囲気。  入ってきた誰かは、扉を丁寧に閉めた。扉の閉まる音、そしてカーペットの上を歩いてくる 音。気配も、足元も消していない。足元だけで悲しみが伝わってくるような気がした。  それはきっと、気のせいではないのだろうと皇七郎は思う。  彼女は。  きっと、皇七郎やハロウドと同じくらいに――長い時間を、トゥルシィ=アーキィという男 と、過ごしたのだろうから。 「…………」  皇七郎の横をすり抜けて。  リコは。  エルダーデーモンの末裔であるももっちの少女は、地面に落ちたワイングラスを拾った。丁 寧に、宝物を扱うような手つきだった。三十年前から容姿が変わっていない――高密度の魔力 体、魂の欠片そのものであるようなももっちにとっては、殺されでもしない限りは年月など何 の意味も持たないのだろう。  笑い出したくなった。  アーキィが死んでしまって。残されたものたちは、あのときから変わっていないのだから。  ワイングラスを机の上に置き、リコはアーキィの垂れた手を取った。力のないらないその手 を、膝の上でそろえる。膝掛けを手にとり、アーキィの身体へとかける。  まるで、眠りについた老人の世話をしているかのようだった。  ――まさか、分かっていないんじゃないだろうな。  ふと、恐ろしい思考が皇七郎の頭に浮かぶ。『ももっち』であるリコは、人間の生死を理解 していないのではないか。トゥルシィ=アーキィが、明日の朝になれば起きてくると考えてい るのではないか。そんな、馬鹿げているとしか思えない思考だった。  愚劣な思考であると、自分でもわかっていた。本当にそうあってほしいと願っているのは、 きっと自分の方だろうから。 「苦しまずに――」  自己嫌悪で死にたくなる皇七郎へと、リコは振り向かず、アーキィの手に自分の手を重ねた ままに、言う。 「苦しまずに、いけましたか」 「…………」  答えに、迷って。 「……ああ、迷わず逝ったよ。大往生さ」  自身に言い聞かせるように、皇七郎はそう言った。  リコの肩が震えているのが分かった。泣いているのかもしれない。アーキィと向かい合うリ コの顔は、皇七郎の位置からは見えない。  きっと泣いているのだろう。  彼女にとっては、父親のような存在だったのだから。  ――彼女は幸いなのだろうかな?  皇七郎は思う。絶滅種であるももっち。人と付き合うももっちは、大抵の場合、他の冒険者 によって――あるいは勇者によって――殺害されることがある。経験値のために。強さのため に。特に、戦争が始まってからはそれが顕著だった。一般の兵士でも、もしももっちを殺すこ とができれば、情勢を動かせるほどの力を得ることができる。  リコにとっては、苦しい時代がしばらく続いていたのも確かだ。  そういう時代を乗り越えて――こうして、アーキィの最後を看取れたリコは、幸せなのかも しれないと、皇七郎は思うのだ。 「迷うことなく逝きやがりましたよ……少しくらい、躊躇ってくれたって、バチぁ当たらない でしょうに……満足げに、笑って……」  言葉は、徐々に掠れていった。声を紡ぐのが苦痛でしかなかった。  泣き出したくなる。  それでも泣かなかったのは、目の前にいるリコのせいだった。彼女に涙を見せたくないと、 何故か皇七郎は思った。アーキィに見せた涙を最後にしたいと、そう願ったのかもしれない。 「……ボクは、また置いていかれた」  しぼり出すように吐き出した言葉は――確かな本音だった。  けれど。  けれども、リコは。 「――違います」  その言葉を――意外なほどの強さで、否定した。 「…………」  二の句を告げずにいる皇七郎の前で、リコは立ち上がった。その肩はもう震えていない。泣 いてすらいない。振り返らないままに、眠るようなアーキィを見たまま、リコは言う。 「置いていかれたんじゃないです。置いていかれたんじゃ、ないんです。背中を押してくれた んです――送り出してくれたんです」 「……何処に」  反射的に返した言葉に、リコは答える。 「――未来に」  未来に。  次の世代に。  笑って――送り出してくれた。  ――これまでは私の番だった。そして、これからは君たちの番だ。  そういうことなのかも、しれない。皇七郎は思う。トゥルシィ=アーキィは、そういう男だ った。彼の最後の言葉は、考えてみれば、そういう意味だったのかもしれない。  皇七郎は、何もいえない。  彼の死に、意味はあったのだろうか――あったのだろう、きっと。  彼の生にも。彼の死にも。  意味はあったのだ。  彼は生きて、死んだ。  ――そしてボクは生きている。  彼に続くものとして。彼の歩めなかった道を、彼の歩みたかった道を、代わりに歩いていく のだ。  ――もう、立ち止まることはできない。 「だから――私は、いきます」  それが、『生きます』だったのか、『行きます』だったのか。皇七郎には判らない。分かっ たのは、リコの言葉に秘められた固い決意。  言葉に答えるように、動かなくなったアーキィの胸元が光った。勲章がつけられた、その下 から――光が、昇ってくる。  光だった。  命のように、眩しい、光の球体だった。宝石のように輝く、光がそこにあった。アーキィの 胸からゆっくりと昇ってきたそれは、リコの目の前で止まる。  その輝きに、見覚えはない。  その光を、見たものなどいない。  けれども――皇七郎は、それが何であるか、知っていた。  恐らくは、生まれる前から。  彼の身体に流れる血が――それが何なのか、知っていた。誰もが持っているもの。誰もが見 ることのできないもの。命の通貨。生きるという概念。  欠片ではない。 「それは――」 「そうです」  リコは、答える。  ――『トゥルシィ=アーキィ』の、魂です。    そっと。  赤子を抱きとめるような優しさで、リコはその魂を受け止めた。両手ですくい取った魂は、 土にしみこむ水のようにリコの中へと入っていく。  異変は、目にも鮮やかだった。  いや――皇七郎は否定する。それは異変ではないのだ。むしろ正常。本来あるべき姿へと戻 っているに過ぎない。  ――思えば、その説を言い出したのは、皇七郎だった。 『エルダーデーモンは美しい容姿と神聖さをもった偉大な魔人種と神話に唄われたのだ』と。 直感から言い出したその言葉を肯定したのは、トゥルシィ=アーキィだった。  アレは違う種だ、と。『ヴァナヘイムの魔人』は、エルダーデーモンに足りえないと。  誰からも相手にされなかったその学説は、今、皇七郎の前で証明されていた。  滅びてなど、いなかったのだ。  エルダーデーモンは滅びてなどいなかった。彼は。彼女たちは――変わっただけなのだ。不 意の隣人である人間と、共生するために。同じ地面に立って生きるために、滅びることではな く、変わることを選んだのだ。  そして、今。  リコは――愛し、愛された人間の魂を受け。『心』という膨大な魔力を称えた魂によって。  真の姿を、とりもどす。  大きく伸びた二本の角。背中からのびるのは、夜よりもなお暗い漆黒の翼だ。細かった悪魔 の尻尾が大きく伸び、短かった髪が熱放射のために長く伸びる。  美しい容姿と。  神聖さを持ちあわせた、その姿。 「エルダー――デモーン……」  呟く皇七郎へと、リコは振り返った。瞳の下に、かすかに涙の後があった。  それでも――彼女は、笑った。  トゥルシィ=アーキィと、同じように。  ――ああ、そうか。  ようやく、わかった。  そういうことなのだ。  誰かの意思を継ぐということ。  誰かのあとを継ぐということ。  死も、生も。全ては――繋がっているのだと、彼女の姿は物語っていた。  トゥルシィ=アーキィは、死んでしまった。  けれど、彼は今、リコの中にいる。リコの中で、彼は生きている。  ――皇七郎の心の中で、今もなお、色褪せることなく彼がいるように。 「私は――いきます」  リコは繰り返す。ああ、そうだろうと皇七郎は思う。彼女はいくのだ。『兄』のもとへと。 『お兄ちゃん』としたう、トゥルシィ=アーキィのあとを継ぐもののところへと。己の意思の もとで、歩き出すのだ。  二度と、戻ることはなく――彼女はいき続けるのだろう。  ――ならば。 「ボクも――いくよ」  言って、皇七郎は言葉の通りに踵を返した。背後で翼のはためく音、窓からリコが飛び出す 気配。  けれども皇七郎は振り返らない。  リコは、リコの道を歩みだす。  そして、彼は彼の道を歩むのだ。  その先に、何が待つとしても。  振り返ることなく、皇七郎は告げる。  別れの言葉だった。 「――ありがとう」  この日より、夢里 皇七郎は世界から姿を消す。彼が数年後、再び世に姿を現した時―― 『システム24』が、発動する。         †   『夏への扉』 END   † ・特設会場にて 「…………」 「…………」  言葉もなかった。会場の中は静寂に満たされていた。誰も言葉をあげない。無言で泣いてい る者が見られたが、けっして声を出そうとはしなかった。  誰もが、別れを惜しんでいた。  会場の中央、椅子に座り、紅茶を呑むトゥルシィ=アーキィだけが、何事でもなかったかの ようにのんびりとした雰囲気をしていた。机には学者三人組や、彼らに関係する者たちがあつ まっているが、当事者である彼らは一様に微笑みを浮かべていた。  司会者である八神 夜智が涙を触手で拭いながら、 「トゥルシィ=アーキィさんの、お別れの話でした……うう、うわああん……」  拭いた側から涙が出てくる。どうもこういう話に弱いらしい。  若干さめたところのある那智ですら、瞳の端がかすかにうるんでいた。それでもマイクを握 り、姉に代わって進行をする。 「トゥルシィ=アーキィさんは、人気上位キャラでありながらも、直接的には『大戦』に関わ ることなく天寿を全うした珍しい人物――とのことです」  視線がアーキィにあつまるが、アーキィは微笑を返すばかりだった。見た目はまだ五十かそ こいらだが、歳に似合わぬ落ち着きがそこにはあった。 「その代わりに『娘』や『弟子』は大活躍したとか――まあ、これは他の話ですね」 「うう、那智ちゃん、那智ちゃああん……」 「あーもーうっとうしいわね。次いくわよ次」 「うう……次はね、第四位の――――」