想像力の限界だよ、と彼は言った。  見下ろしたような言葉だった。主に物理的に。二段ベッドの 上段に寝転がる彼は、机に向かう僕を物理的に見下ろしていた 。馬鹿と煙は高いところがすき、という言葉に嘘はない。問題 児三人組としてこの部屋に押し込められたとき、彼は真っ先に 二段ベッドの上を取った。僕とアーキィさんは、ベッドの下を とった。あまったひとつは全員共通の荷物置き場になった。僕 ら三人は、荷物だけは他の学生に比べてやたらとあったから。  仕方がない。普通の生徒は町に出たら遊び道具や趣味の品を 買ってくる。女の子なら、服や化粧品を買ってくる。僕らの場 合はそのどれとも違った。まずアーキィさんが本を買い、僕が 薬品を買い、彼はなにがなんだかわけのわからないものを買っ てきた。三人とも、新調するのは白衣くらいだった。実験、冒 険、探検。白衣は汚れては新調され、新調されては汚れた。部 屋には本が積み重なり、棚は実験器具が占領し、棚に入りきれ ないものがベッドを侵食した。金に困った覚えはない。買うだ けでなく、僕らは冒険に出てはいろいろなものを拾ってきたし ――その中にはそこそこの金額で売れるものもあった。  ようするに、充実していたのだ。  僕ら三人の、学園生活は。 「想像力? ヤめてくれませんかね、そんな言葉」  はき捨てるように僕は答えて、机の上に組んだ足を置いた。 背もたれに体重をかけ、椅子がぎぃときしむ。視界が上下さか さまになる。長く伸ばした髪が、床めがけて伸びた。  逆さまになった視界の中、ベッドから顔だけ乗り出して、僕 を見ている彼が見える。ハロウド=グドバイ。ルームメイトで 、学者志願で、変人で。  まあ、たぶん、友人。 「おやおや! 皇七郎くん、では君はいったい何だというんだ い? 私たちが失われた過去を模索することを?」  ハロウドさんはからかうように言った。彼の口調は、いつだ ってこんな感じだ。楽しそうに、とても楽しそうに。生きてい るだけで、楽しそうに。そういったものは、きっと、僕には欠 けていることなので、少しだけうらやましくなってしまう。絶 対に、言葉に出して言いはしないけれど。  尖った耳をなでながら――それこそが、僕がごく純粋な人間 種でないことの証だ――僕は答えた。 「想像するんじゃないんですよ。僕らは思い出しているんです 、最初から知っていることを。進化の過程で忘れてることをね」 「ふぅん。成る程、成る程ね――一理ある。真理ではないが一 理はあるね、その考えには。知っていること。覚えていること 。思い出すこと。本を書くのではなく本棚から本を探り出すよ うな、そういうイメージかね、つまりは?」 「そうですよ。だからそこには限界はない。ただ容量があるだ けです」 「最後まで行き着く、か。それもまた、興味深いね」  ハロウドさんは笑った。今度は揶揄するような笑い方ではな かった。本気で、興味深いと思っているんだろう。自分の論を 撤回し修正できる彼の性質は、僕にとってはありがたいものだ った。僕は意固地だし、アーキィさんは柳のような人だったか ら。 「しかしだね、誰がそんなことを知っているんだい? 事象龍 がどこから来たのかなんて、そんな途方もない質問に答えられ るものが、一体全体どこにいるんだい? そのころには、人間 なんて一人だっていなかっただろう」  笑みを浮かべたままに彼は言う。彼の言うことは正しい。そ んな始まりの時代には、人間なんていやしなかっただろう。  事象龍。  事象を司る――そして事象そのものである、龍。  今日の雑談はそれについてのものであり、ハロウドさんの返 事は、それについての答えだった。始まりを知ることができる かい、という問いに、彼は『想像力の限界』と答えた。つまり、 答えは、否、だ。  僕はそう思わない。  思わないからこそ、こうして、会話がなりたっている。いつ もどおりの、とりとめのない会話。思考を遊ばせるような、つ まりは、雑談だ。流行の占いや好きな女の子の話題の代わりに 、事象龍や魔人や生態系の変化について語る、ただそれだけの ことだ。 「決まってるでしょう」僕は答える。「彼ら自身が、それを知 っているに決まってる」  人間はしなくても、当事者である事象龍自身が知っている。 そう僕は反論し、ハロウドさんは興味深げに二、三度うなずき、 それから例の、意地の悪い笑みを浮かべて、 「では皇七郎くん、ひとつ問うが――われわれは、我々が生ま れた瞬間を知っているのかね?」 「…………」  手痛い反撃に、僕は黙らざるを得なかった。それは、確かに 、彼の言うとおりだからだ。僕は、自分が生まれた瞬間を知ら ない。ハロウドさんだってアーキィさんだってそうだろう。誰 だってそうだ。人間は、自分が生まれた瞬間を知らないし。  人間が始めて存在した瞬間も、知らない。  知らないままに、生きている。  多くのことを、  知らないままに。 「事象龍が万物に到達する存在であったとしても――そうある がゆえに、意外と自身のことはわかっていないのではないかと 、私は思うがね」 「ハ! 自身のことを知らないようなモノなら、きっと積極的 に人間世界にぶつかってくるに決まってますよ。知っているか らこそ、彼らは動けないんだ」 「全知全能の無知無能かい? そいつはナンセンスだ!」  ハロウドさんは両手をあげて『バンザイ』のポーズをした。 降参、という意味よりは、この話は平行線だと匙を放り投げる ような行為だった。その意見には僕も全面的に同意だった。は じめから、結論を出すつもりもない。  が、同意しないものが、約一名いた。 「答えを出すには、まずそれを定義しなければなるまい」  がちゃんと。扉が開いた。閉ざされていた扉がノックもなし に開く。そもそも、この扉をノックする人は存在しない。ノッ クをするような常識人は、まずここに近寄ろうとはしないから だ。遠慮のない人間と常識のない人間が、この扉を開けて中に ずかずかと入ってきたりする。ついでにいえば、プライバシー とデリカシーもない。ないものずくしで手があふれそうだ。  僕とハロウドさんの視線が一斉に向けられる。開いた扉の向 こうにいたのは、他の誰でもない、この部屋の三人目の主、ト ゥルシィ=アーキィさんだった。両手で抱え込むようにして紙 袋を持っている。紙袋から突き出たバケットが、彼の長ったら しい前髪を押しのけていた。 「それ、どうしたのさ」 「拾った」  僕の質問に、アーキィさんは率直に答えて、それから「ああ、 いや」と首を振った。 「間違えた。貰った」 「それは間違えていい種類の言葉ではないと思うがね。それで ? どこのだれからそんな素敵なハナタバを貰ったんだい?」  顔どころかベッドの上から上半身をすべて乗り出して、逆さ になったハロウドさんが言った。すぐ上につむじがきたので、 ぐいと押してやる。頭蓋骨の硬い感触と、短く切った髪の手触 り。 「これが花束に見えるというのなら」アーキィさんは口の端に、 冷ややかな笑みを浮かべていった。「君には良い解呪師を紹介 しよう」 「花でもパンでもいいんですがねえ、結局拾ったんです? 貰 ったんです?」 「だから、貰った。冒険学科で野外調理実習があったらしくて ね――根類や木の実でパンを作ったそうだ」 「女学生からの差し入れ、ってわけですか」  僕の声にははっきりとあきれが混じっていた。彼、トゥルシ ィ=アーキィさんが、そういったものを貰うのは珍しくもない。 三日に一度は贈り物が届いて、一週間に一度は恋文を貰って、 その数日後には当然のように変人ぶりについていけずに別れて いたりする。そういったことの繰り返しだった。繰り返し、繰 り返して、決してやめない。僕の見るところ、彼、アーキィさ んは、僕ら三人の中でいちばん冷徹で――いちばん純情だった。 真理に対してそうであるように、魔物に対してそうであるよう に、恋人という存在についても、彼は求道者だったのだ。  求めるものが見つかるのか、僕もハロウドさんも知らない。 けれど、いつかは見つかることを、僕らはこっそりと祈ってい た。彼の魂を満たしてくれるような女性が。たとえ、それが人 間でなかったとしても。 「そいつはすごい!」逆さまのハロウドさんが歓声をあげた。 「野外実習でそんなバカみたいな大きさのバケットを作るのは、 ナイトライト女史だね? 他の誰でもそうはいかない。彼女の 探査能力はすばらしいものがあるよ」 「限度というものもある」  アーキィさんは言って、扉を閉めて中に入ってくる。そして 僕らの横を過ぎ、机の上に紙袋の中身をひっくりかえした。長 いバケットがまず転がり出て、次に袋の奥から、 「……こげているね」 「……こげてるねえ」  焼け焦げた、明らかに失敗作と思しきパンがいくつか入って いた。成功作品と思しきパンも入っているのだが、割合が半分 半分といったところのため、ありがたみはまったくない。むし ろ真っ黒にこげたパンが異様な存在感を放っていた。 「伝言を正確に伝えることにするよ。『せんぱぁい、みんなで 味わって食べてくださいね!』だそうだ」 「…………」 「…………」  沈黙。僕とハロウドさんは沈黙して、互いに顔を見合わせて、 それから視線をそろえて、机の上に広がったパンらしきものの 残骸を見た。  しばらく、沈黙。 「……アーキィくん、ひとつの可能性として言い出すのだがね ?」 「なんだ」  冷たく答え、アーキィさんはベッドに腰掛けた。ハロウドさ んは身を起こして、それからベッドから飛び降りる。ひざをま げて音を殺して、床に着地。僕の肩に手をかけてよりかかりな がら、 「私たちはナイトライト女史に憎まれるようなことをしたのか ね?」 「僕は何もしてませんよ!」 「私もだ。一緒にするな」 「それじゃあまるで私だけが悪いようじゃないかね! これは 陰謀だよ!」  ぎゃわー、とわめくハロウドさん。ああもう、うっとうしい。 「まあ、それはないと思うぞ。アレは、純粋な好意だ」 「好意に殺されそうですね」 「本望だろう。私はごめんだが」  はぁ、とハロウドさんと僕は嘆息した。それを尻目に、アー キィさんがパンへと手を伸ばす。なんだかんだいっても食べる つもりらしい。  伸ばした手は、焦げてないパンをつかんだ。 「あ」 「あ」 「ん?」  アーキィさんがつかんだ焦げていないパンと、まだ机の上に 残っているパンに、僕らの視線が集まる。当然のことながら、 アーキィさんが焦げていないパンを食べれば、こげているパン のほうが多く残ることになる。  ――早い者勝ち。  そんな言葉が、一瞬僕の頭を飛来して、 「悪いねアーキィくん!」 「ごめんねアーキィさん!」  飛来したときにはもう僕らは動いていた。ハロウドさんがア ーキィさんの手にチョップを食らわせ、堕ちたパンを空中で僕 がつかむ。そのままこげてないパンをニ、三掴み、 「く――三等分しろ三等分! おいハロウド、より分けるな! お前も逃げるな!」 「残りは全部あげますよ!」 「私は焦げたパンを食べ過ぎると死んでしまう病気なのだよ」 「誰でもそうだ!」  アーキィさんが怒鳴りながらハロウドさんを蹴りたぐり、ハ ロウドさんはパンを口に咥えてベッドからベッドへと飛び移る。 焦げたパンとこげていないパンが空中で交差し、部屋は賑やか さを増していく。笑いまじりの怒声が飛び交う、いつもの光景。  これが僕らの日常だ。少しだけ変てこで、楽しくて仕方がない、 いつか終わるとしても――かけがえのない僕らの青春。  別れの日は、きっとまだ遠い。 <END>