綺麗な夜でした。空に浮かぶ蒼い月は満月で、誰もが穏やかに眠りについていました。星す らも静かで、地上は優しく照らし出されていました。わたしたち三人のほかには誰もいなくて 、先生の小さな声がやけに大きく響いて聴こえました。 「月光の影響を受けるのは何も人間や魔物だけでないと私は思うのだよ。青と赤は万物に影響 を及ぼす。私ににも、勿論君にも。無機物や、ひょっとしたら大地にさえ影響はあるのかもし れない。例えばそうだね、無機物と妖精が混ざり合った晶妖精だが、月光だけあてて創り上げ たものはその光の比率によって性質が――」  先生の話は嬉々として脱線していきます。月の話から石の話へと。石の話から光の話へ。め ぐるましく変わっていく話を、わたしはにこにこしながら聞いています。  先生の話は突拍子もなくて、どんどんずれていくのですが、聞いていて飽きることがないの でした。 「先生! こんなものでしょうか」  少し離れたところで作業していたおにいちゃんが、立ち上がって声をあげました。  足許には枯れ木を組み合わせて創り上げた小さな櫓のようなものがあります。火をもやすた めの薪でした。先生がおにいちゃんに作らせたものですが、先生はそれをちらりと見て、 「没」  と、珍しく短く言いきりました。  苦労して創ったものをばっさりと斬り捨てられて、おにいちゃんはちょっと涙目です。 「ええぇええ!?」 「組み方が甘いね。風の通りが不完全で、そのまま火をつけたところで種火のまま消えてしま うよ。燃え上がらせるためにも長く遣うためにも向いていない。火と風の関係を理論だてて考 えることだね。考えるから君は学者なのだろう?」 「で、でも先生、先生の晶妖精があれば種火なんて……」 「私がいなければ使えない手段は技術とは言えまいよ。まずは自分ひとりで出来るようになる ことだ。そのためにアーキィくんは私に君を預けたのだろうしね」 「……はい……」  おにいちゃんは意気消沈して、再び薪を組み立てる作業に向き直りました。口の中でぶつぶ つと理論がどうとか力がどうとか計算とかを呟きながら手を動かしています。  机に向かう者のサガだね、と先生は笑いました。たしかにおにいちゃんもアーキィ博士も、 よくぶつぶつと独り言を言っています。 「彼の理論が構築されるまで私たちはお喋りでもしていようじゃないか。何、幸いなことに私 は喋るのが嫌いじゃないんだよ。好きと言ってもいい。喋りすぎて五月蝿いとよく皇七郎君に 蹴られるのだがね。リコ君はお喋りは好きかな?」  わたしは曖昧にうなずきました。おしゃべりは好きですが、わたしは話すことよりも聞くこ とのほうが好きなのです。  わたしがそう言うと、先生は「それは重畳だね」と言って笑いました。ちょうじょう、とい う言葉の意味はわからなかったのですが、先生が嬉しそうだったので、わたしもつられてわら ってしまいます。  蒼い月の下にはわたしたちしかいません。皇国城壁のそばにある森野中、切り取られたよう にある小高い丘でした。皇国の外ではあるのですが、皇国の“目”が届くここは城壁の外でも 安全なのでした。それに加えてこの森はアーキィ博士の土地で、普通の人は入ってくることも できないのでした。  そうでもなければ、アーキィ博士もおにいちゃんも、そして先生も私をつれてきてはくれな かったでしょう。ももっちであるわたしにとって、『殺されるかもしれない』外は危険すぎる のです。ふだんは研究所の外にさえほとんど出ません。  無理をいってついてきたのは、おにいちゃんがしばらくの間遠くへいってしまうからです。 “極東”というそうです。  地図を見ておどろきました。言葉の通りに、東の果てだったからです。皇国から極東に向か うだけで、何日も何十日もかかるそうです。本当はアーキィ博士がいくべきだったらしいので すが、色々と事情があって、代理としておにいちゃんがいくことになったそうです。  おにいちゃんといっても、わたしの本当の兄じゃなくて――研究所の助手をやっている、人 間の人です。わたしにとっても優しくしてくれます。少し変な人ですが、わたしは好きでした。  だからこそ、心配でした。アーキィ博士や先生ほど、おにいちゃんはすごい人ではないから です。冒険は、とても危険なものだとみんなが言います。  わたしの不安に、“すごい変な人”である先生と博士は『これも修行だよ』と言いました。 おにいちゃんはおにいちゃんで『リコに相応しい男になる!』と萌えています。変です。かなり 変です。先生たちに影響を受けてるのかもしれません。  そういうわけで、わたしは修行をかねたキャンプについてきたのでした。  先生は丘の上にごろりと横になり、わたしの顔を見上げながらおどけたように言います。 「いいなぁ。いいなぁ。アーキィ君にはリコ君みたいな可愛い娘がいていいなあ。私も結婚す るべきだったかなあ」  アーキィ博士も結婚してませんよ? 「そうだねその通りだ。そういえば皇七郎君も結婚していないね。……ふむ? 魔物生態学者 は結婚しにくいのかな。まあどことも知れぬ場所を飛び回っている人間と結婚する奇特な者は 少ないだろうし、そもそもシステムの面から考えると向いていないからね」  あれ、でも先生って結婚していないのですか? 「そうだが?」  でも、アーキィ博士が先生には子供がいるって言っていました。  わたしの言葉に、「ぐ」と先生の表情が固まりました。 「彼はそんなことまで話しているのかね――いったいどこまで話して……いやいい、聞くのが おそろしいからやめておこう」  しばらくそんな独り言を呟いていましたが、やがて何かの結論がでたのか、身体をおこして 私の瞳を間近で覗き込んで言いました。 「話は変わるのだが」  すごい勢いで話を変えてきました。  有無を言わせない勢いにわたしはこくこくとうなずきました。  でも――  わたしは知っています。先生がわたしと同じようなももっちを何人も保護していることを。 けれど、そのももっちたちを、決してそばにおこうとしないことを。そして――時々、懐かし むような、錆氏がるような目で、わたしを見ることを。  それがどういう意味をもつのか、わたしは知りません。アーキィ博士にきいても、それを教 えてはくれませんでした。先生に直接きくのははばかられたので、ずっと謎のままです。  先生は、わたしを通して、向こう側に誰かを見ているような気がします。もう二度と会うこ とのできない誰かを。 「まぁそんなに心配することもないよリコくん。昨年からファーライトのあたりがびりびりし ているがね、あそこも結構な大国だ。身体が大きすぎて動くのには時間がかかるものだよ。む しろ、最近危ういのは西の辺りじゃないかな。特に西国だ。あそこはまずい。何があったのか 知らないが、ここ数年で生態系が激変しつつある。何かに影響されたかのように、それも人為 的に。しかも恐ろしいことに、それはなにかの二次被害でしかないということだ――っと閑話 休題、話がずれたね。ともかく、東の果てはむしろ平和なはずだよ。さすがにホツマの中まで はわからないがね」  わたしの表情を別の意味でとらえたのでしょうか、先生は少しおどけたようにそういいまし た。心配してくれたのかもしれません。  と。 「先生……終わりました」  よろよろとした足取りで、おにいちゃんが近寄ってきました。見れば、綺麗な櫓が完成して いました。先生はそれを見て、 「あれならば及第点をあげてもいいよ。次はもう少し薪を多く集めて、予備として用意してお くことを心がけるといい」 「ああ……よかった……」  よたよたと、おにいちゃんは座りこみました。薪を集めるところから何までおにいちゃんは 独りでやったのです。わたしはよくがんばったねと褒めたかったのですが、それよりも早く先 生が、 「だらしがないね君も。一度学院にでも入学して鍛えてもらうかい? 君は専門分野では確か にずばぬけてはいるが、それ以外はからっきしだからね」  呆れているのか褒めているのかよくわからないことを言いました。  多分、両方だと想います。 「学院って――先生たちが通っていたあそこですか?」 「そうだとも。もし君が望むのなら、私とアーキィ君と、ついでに皇七郎君は喜んで推薦状を 書くだろう。そうすれば――」 「そうすれば?」  おにいちゃんの瞳が輝きました。わたしはあまり実感がないのですが、学者にとって先生た ち三人の名前は特別な意味をもつそうです。  先生はにやりと笑って、 「……たちまちのうちにブラックリストいりだろうね」 「一体昔何をやらかしたんですか!?」 「特にエル=エデンス先生には注意だ。私たちの頃から現役の先生でね、目があわなかったと いう理由だけで魔法攻撃を放ってくる素敵な女史だ」 「明らかに先生たちの方に非がありそうですが……エデンス先生って、“24時”ですよね?」 「その通り。世間知らずの君でもさすがに知ってはいるか。本にもよく出てきているからね。 恐るべきブラックストマックではあるが、素晴らしい方でもある。私たちも多くのものを学ん だ」 「…………」 「具体的には夜警備をごまかして酒場にのみにいく方法とか」 「やっぱりろくでもないじゃないですか!」  突っ込むおにいちゃんに、先生は「ははは、そんなことばっかりだったよ」と楽しそうに笑 いました。わたしたちの知らない先生や博士の話。  わたしが心の中で思ったように、おにいちゃんは「いいなあ」と呟きました。その言葉を、 先生は聞き逃しませんでした。  おにいちゃんも、心の中では学院に通ってみたいのです。そうしないのは、 「リコ君は学院へはいけないから――かね。それにあそこに一度はいってしまえば、数年間は 戻ってこられない。だから君は、ずっとこの研究所にいるのだろう?」  私の思ったことを、すべて先生は口にしてくれました。おにいちゃんは言葉につまりうつむ きますが、先生の言葉はとまりません。 「やはり君はもう少し世界を知り、多くを知り、そして強くなるべきだよ。アーキィ君の心配 もわかるというものだ。私としても君に期待している部分があるし――やれやれ、仕方ないね 。食事の後にでもと思ったが、人生は思い立ったが吉日だと言うものだ。練習用のレイピアは 持ってきているのだろう?」  そう言って、先生は立ち上がりました。わたしとおにいちゃんの視線が、突然立ち上がった 先生に向けられます。四つの瞳に見られて、先生は不敵に素敵に笑いました。  そして、両脚を軽く開いて、右手を前に突き出して――構えて、言いました。 「かかってきたまえ――このハロウド=グドバイが本気で相手をしてあげよう」  本気の言葉でした。そもそも、先生はいつだって本気なのですが。本気でふざけて本気であ そぶのが先生たちなのです。今度もそうでした。おにいちゃんに指先を向ける先生は、たしか に本気でした。  わたしは座ったままずりずりと後ろにさがります。先生が本気になった以上、近くにいたら 邪魔になるからです。  とめるつもりは、ありませんでした。  それは逃げなのかもしれません。わたしは、どちらも選べなかったからです。おにいちゃん にいって、とも、いかないで、とも言えませんでした。気持ちはぐるぐると混ざり合って、何 も選ばないことを選んでしまいます。  おにいちゃんの意志を尊重する、といえば聴こえはいいのでしょう。でも、そうでないこと をわたしは知っていました。そして、決めかねている以上、中途半端な言葉は邪魔になるだけ でした。  わたしは黙っています。そんなことは、先生はとっくに気付いているでしょう。それなのに 先生は、わたしのほうに軽く笑みを向けるだけで、何も言おうとはしませんでした。 「稽古……ですか」  おにいちゃんが立ち上がります。その姿に、さっきまでの疲れはありません。心の疲れは、 気を引き締めることでどこかへいってしまったのでしょう。はじめから稽古をするのが目的だ ったので、そこまで戸惑いはないようです。用意していたレイピアを構えました。  けれど、先生は。 「稽古? それは違うよ助手君。よりにもよってアーキィ君と同じレイピアを使う君がそんな ことを言ってもらっては困る。私は本気で相手をするといったんだ」 「――――」  険しい顔をして言う先生に、おにいちゃんは口をとざします。けれど先生は構うことなく喋 り続けます。 「私がバリツを使うのは多様性をもつ魔物を無傷で取り押さえるのに最適だからだ。騎士や剣 士や戦士のように強くなるための目的ではなく、あくまでも手段としての戦闘なのだよ。皇七 郎君が失われた魔法を使うのは使うことができるという単純な理由からだ。さて、そこで考え てみたまえ。どうしてアーキィ君がレイピアを使うのかを。ああ答えなくてもいいよ、私は話 すのが好きなんだ。彼がレイピアを使うのはそれが殺害のために最適な手段だからだよ」 「――――」 「レイピアの特性は言うまでもなく突くことだ。ダメージを重ねるためでも動きを止めるため でもなく、ただ一点、初めから急所を狙うことによって相手の動きをとめるためのものだ。手 足の筋でも命を奪う場所でもいい。問題はね、そちらではないんだ。それを使うアーキィ君が 優れているのは技量ではない。結局のところ、求められているのは学者として大切なもの―― 観察眼と判断力だ」 「観察と――判断」 「そう。観察し、判断する必要がある。不定形で急所がどこかわからない魔物に対して。突如 として現れた奇抜な男に対して。それが対峙しなければならない敵なのかを観察し判断し、ソ レの急所がどこなのか観察し判断する――その冷静さこそがレイピア使いに求められている。 成る程、確かにアーキィ君のためにあるような武器だ。彼の観察眼は私たちの中で一番優れて いるからね。  さて――助手君」  長い長い台詞を言い終えて、先生はこほんとひとつ息を吐きました。あまりにも長いのです が、直接言葉を向けられていたおにいちゃんは完全に呑まれていました。ごくりと、唾を飲み 込む音がわたしにまでとどきます。  先生は、目を細めて言いました。 「私は本気でいくといったのだよ。ならば君も本気できたまえ。君の本気を私に見せるんだ。 観察し、判断する。それこそが君の力になるだろう」 「…………わかりました」  おにいちゃんは、頷いて。  レイピアを、構えました。目でしっかりと、先生を捉えます。  そしてその瞬間―― 「そりゃっ!」  電光石火。両腕の袖の中に隠してあった袋を先生は投げつけました。お兄ちゃんは「!!??」 と声にならない驚愕と共に片方を払うのですが、払った片方も残った片方もそろって袋がほつ れ、中身がまるごとおにいちゃんにかかりました。白くくすんだ粉が、おにいちゃんを包みま す。  そして、 「くぎゃがげげがっがががえげっっっっっっっっっっつつつつつ!?」  今度こそ言葉になっていない悲鳴をあげて、おにいちゃんが地面をごろごろごろごろごろご ろごろごろと転がり始めました。レイピアを放り出し、苦しそうに息を吐いて、目から涙を流 しながら激しく咳き込みます。毒でも盛られたかのような有様でした。  先生は、丘をごろごろと転がりながら去っていくおにいちゃんを見つめながら、 「観察眼が足りないね。バリツは手段に過ぎないといっただろう――間合いが違う相手に誰が 素直にバリツをつかうものかね。だから観察眼が必要なのだと前置いたのだよ。ちなみに今使 った粉は数種類の薬草を混ぜ合わせて粉末状にして乾燥させたもので、本来は火竜の体皮と混 ぜて敵の肺腑を――って、助手君はどこにいったのかね?」  苦しそうに転がっていきました。 「…………」  先生は気をさがれたように頬をかいて、 「……リコ君は彼を迎えにいかなくていいのかね?」  いいんです。おにいちゃんは、ちゃんとわたしのところに帰って来てくれます。 「ふむ。それが強がりでなく言えるようになったら、私も何の心配もないのだがね」  …………。  わたしは先生からそっと目を反らして空を見上げました。視界のはしで、先生も同じように 空を見上げたのが見えます。  静かな夜でした。頭上では蒼い月がわたしたちを穏やかに見下ろしています。  こんな夜がいつまでも続けばいいのにと、わたしは願わずにはいられませんでした――    了