■学者たちの祭り■                   ■第二話「昇天」  学者にとって一番大事なことですか?  そうですねぇ。  知識とか発想力とか言われます。  でも自分がやってる事に自信を持つ事だと僕は思いますね。  えぇ、自らを信じる事です。  僕も、僕の知り合いも自分のやってる事が正しいと信じてますからね。  あ、それが大好きだって事もありますけど。  魔物を研究する事も、遺跡を研究する事も、神話を研究する事も。  全部そうだと思いますよ。学者なんて。  自分が良けりゃいいとは――あの人達ならちょっとは思ってるかもしれませんが(笑)  そんなところですかね。                            『月刊:学者の生き方』より                   1.ディライトの夢  深い深い森の中。  祭壇を中心として円状に木が途切れ、其処はまるで鍋の底。  暗い暗い夜の底。  其処には良くないものが沢山溜まる。  人は恐れ、疑い、不安になる。  魔物は理性を失い本能に頼る。  暗闇の中では真が偽となり偽が真となる。  過去が現在となり現在が過去となる。  肉体が精神となり精神が肉体となる。  死が生となり生が死となる。  全てがさかしまに映る。  其処にいる人間は気を抜けば一瞬にして闇に取り込まれる。  ディライト達もまた、その例外ではない。  糸よりも細い月の明かり。  夕飯の支度をするための焚き火。  その二つの明かりだけが彼女たちを正気たらしめていた。  しかし、それもこの膨大な闇の前ではあまりに頼りなさ過ぎた。 「……」 「……」 「……」  誰も、何も、喋らない。  どろどろと空気が濁っていく。  アキコはとうとうそれに耐えられなくなり、一言だけ発っした。  あ。という短い声だったが、それは二人の気を引くには十分すぎた。 「どうしたんですか?」  ゆかっちは即座に答える。  きっと彼女も、この空気に耐えかねていたのだろう。  しかしアキコ自身何かがあってその言葉を発したわけではない。  だから、必死になって二の句を探し、見つける。 「ゆ、ゆかっち。あんた右手怪我してるわよ」 「え、あ、本当ですね」  それは、本当に些細なこと。  でも、話を広げるには十分すぎる事柄だった。 「真昼間だっていうのにここは暗かったですからね。全然気付きませんでした」  右腕を見ながらゆかっちは笑う。 「左半身は甲殻で覆われてるからどうにも防御関係に気が回らないことが多いんですよ」 「いつも言ってるのに、ゆかっちはすぐ忘れるのです」 「ディライトには言われたくありません」  ゆかっちは頬を膨らませてそっぽを向いた。傷を治そうとする素振りは全く無く、アキ コはそれを不思議に思った。 「ねぇ、ゆかっち。傷、治さないの?」  そしてすぐに口から出た。 「ゆかっちは自分の傷は治せないのです」  その質問に答えたのはゆかっちではなく、ディライト。  そして、アキコの顔を見て気まずそうな顔をして下を向いた。  ディライトからは教えてもらえないな。と思ってアキコはゆかっちに聞き返す。 「なんで自分の傷は治せないの?」 「それはですね。私たちの治療魔法の構成が普通の治療魔法と全く違うんですよ」 「全く違う……?」 「えぇ、そうなんです。アキコさんは確か医療関係が専門だと聞きましたが、普通治療魔 法ってどうしますか?」 「どうしますかって言われてもねぇ……。私はもう意識してやってないけど、学校で教え てもらった時は代謝機能を早めて、細胞を活性化させるイメージだ。って言われたわね。 あ、右腕出してよ。それ治しちゃうから」  ありがとうございますと言ってゆかっちは右腕を差し出し、話を続ける。 「普通の医療魔法はそうらしいですね。ただ、私たちの魔法は違うんですよ。例えるなら アキコさん達が使う医療魔法の術式は時を早める術式で、私たちの魔法は時を遡るん術式 なんですよ。ですから、傷を受けたら、それを治すために身体の時間だけ戻して、『負傷 していなかったこと』にするんです」 「それってもしかして――」 「えぇ。当たり前ですが私たち自身の命を削る魔法です。ですから私たちの種は短命な個 体が多いんですね」 「だから使いたくないの?」 「いいえ。全然。私たちはその為に生まれてきているんです。他の命を少しでも生き長ら えさせるために、です。っと、脱線しちゃいましたね。で、何の話でしたっけ」 「なんで、ゆかっちは自分の傷を治せないのか。なのです」  ディライトはちらちらと二人のほうを伺いながらそう言うが、アキコがそちらに目をや るとまたすぐに下を向いた。それを見てゆかっちは苦笑いした。 「えっと、私たちの魔法は時間を巻き戻して負傷という事実を無かった事にするんですが、 それを自分自身にかけると時間の前後関係から傷が治らないんですよ」 「時間の前後関係……?」  アキコは眉間にしわを寄せて聞き返す。 「はい。負傷した後にこの治療魔法を使うじゃないですか。そうすると、確かに私たちの 身体の時間は戻るんですが、負傷したのって魔法を使う前じゃないですか。ですからその 傷が治る前にまず魔法を使っていないことになるんですよ。この魔法は負傷していない時 まで一気に飛ぶんじゃなくて、巻き戻すわけですから」 「まぁ、なんとなく分かったわ。簡単に言うと、便利すぎる魔法は自分にかけられない事 と同じってことでいいんでしょ」 「まぁアキコさんが納得しているならそれでいいと思います」  言って、ゆかっちは笑う。右腕の傷はもう塞がっていた。 「ありがとうございました。あ、お鍋の方ももういいみたいですね。そろそろ食べましょ うか」 「うい、了解」 「ほら、ディライト。何やってるんですか。貴方も手伝ってください」 「うぅ、分かったのです」  ゆかっちに言われて、ディライトは目深に被っていたヘルメットを脱いで、食器を取り にテントのある方向に向かって歩き、やがて闇に紛れた。  ゆかっちは人並み外れた視力でディライトが闇の奥でテントの中に入ったのをしっかり と確認して、小声でアキコに話しかけた。 「あぁ見えて結構繊細なんです。もしも気になってる事があるんだったらお空に行く前に ……」 「うん」  アキコはそう頷いてまた黙った。                ■ ■ ■ ■ ■ 「埃っぽいのです……」  ディライトはそう呟いて目を覚ました。  否、目を覚ましたのではない。  起き上がっただけなのだ。  起きてはいるが、覚醒はしていない。  つまり――寝ぼけているのだ。 「んー。あー。うー」  良く分からない言葉を発して枕元に手をやり眼鏡を探す。 「んあ? あぁ……」  ようやく眼鏡を探し当てそれをかける。  世界が広くなった気がした。  ――気がしただけ。  目なんて悪くない。眼鏡をかけても見える世界は変わらない。  でもディライトは眼鏡をかける。  それでも脳は覚醒しない。  ふらふらと起き上がり、途中ゆかっちを踏みそうになりながら、危なっかしい足取りで テントの出口に向かった。  外に出て夜風に当たってようやくディライトは覚醒する。 「ふあぁ……」  一つあくびをしてきょろきょろと回りを見回す。  焚き火は――焚き火だったものはもう随分前に消えている。  残るのは月と星の明かりだけ。  暗闇に限りなく近い其処は、先ほどよりも沢山のものが沈殿しているようだった。 「ん――?」  視界の端が少し明るいのに気付いてディライトはそちらを注視する。  森の少し奥がぼんやりと明るい。  そういえば――と思い起こす。 「泉がありましたっけ……」  月明かりが反射して其処が明るくなっているのだろうなどとぼんやりと考える。  そうしているうちに身体の埃っぽさで目を覚ましたものだからディライトは急に顔が洗 いたくなった。 「まぁ、モンスターも出ないみたいだし大丈夫……ですよね」  誰がいる訳でもないのに、そろそろと忍び足でその明かりの方向へ向かうディライト。  明かりが段々と近くなってきて来ると共に人影が見えた。  一層足音を忍ばしてゆっくりと近付いていく。  そしてそこにいたのはアキコ。  泉の中にぷかぷかと浮かんでいた。 「死んでるみたいなのです……」  ぼそっと呟く。 「――誰ッ!!」 「うひゃひゃひゃひゃっ!」  聞こえないと思っていた呟きに反応されてディライトはつい奇声を上げてしまった。 「あ……。ディライト……」  アキコは、気まずそうにディライトの名前を呼んだ。そしてディライトもまた気まずそ うにアキコを見、 「ご、ごめんなさいなのです」  何故か謝っていた。                ■ ■ ■ ■ ■  アキコは水浴びを続けている。  泉に足をちゃぷちゃぷつけながらディライトはその様子を見つめ、思う。アキコは綺麗 だ。  顔が整っている。というのもあるが、全体的に線は細く出るところは出ているし、夕日 みたいな色をした髪の毛は真っ直ぐに伸びている。それに比べて自分はどうだろうか。あ まり大きくない胸と、ごわごわに強い髪の毛。そして色気の無い作業服。同じ人間という 種のはずなのにどうしてこうも違うのか。いや、同じ種だからこそ違いが際立つのだ。  これは――勝てないのです。  別に何と勝負しているわけではないがそう思ってしまう。  実際のところはディライトとて酷いわけではない。それなりの恰好と化粧をすればアキ コ並――それ以上になるであろう。磨けば光る。というタイプだ。  しかし、彼女は自信を持てない。  自分が今まで学者としてでなく、一人の少女として過ごした時間は圧倒的に少ないのだ。  そして、学者として過ごした時間も、本当に信頼していいものか―― 「ディライト!」  アキコの声でふと我に返る。  アキコは怒っているような、恥ずかしがっているような顔をしていた。 「他人の裸をじっと見ないでよね」  意識こそ完璧に自分のそこに沈んでいたが、目だけは依然、アキコの身体に注がれてい たままだったようだ。  ディライトは苦笑する。  そして、ゆっくりと唇を開いた。 「アキコさん」  呼びかける。呼びかけたはいいが二の句が継げず、黙ってしまう。 「何?」  そんなディライトを見てアキコは不思議そうに首を傾げる。  それでも言葉が出てこない。言いたいことは沢山あるはずなのに。 「あ、あの……。その……。って!」  言葉を口の中で転がしているとぐいっと腕が前に引っ張られるのを感じた。踏ん張るも のも?まるものも何も無かったためディライトの身体は重力にしたがって下に落ちていく。  すなわち、泉の中へ。  どっぽーん! と大きな音を立て、水柱が立った。 「な、なにするのですか!」  水面に思い切り打ち付けてヒリヒリする顔を押さえながらディライトはアキコを見ると 「一応防水なんでしょ、水が染み込んでくる前に脱ぐがいいわ!」  笑っている。笑いながらディライトの作業着を脱がそうとしてくる。 「あー、アンタ埃っぽいわよ。やっぱり水浴びしなかったんだ。馬鹿ねぇ」 「じ、自分で脱げるのです。脱がさなくていいのです。アキコさん手つきがやらしいので す!」 「そんな事無いわよー」  ディライトの服を一枚一枚はいでいくアキコの顔は本当に嬉しそうだ。 「アーッ!」  最後の良心である子供っぽい縞々パンツを剥ぎ取って服を全部岸に投げる。 「うぅ……」  大事な部分を手で隠し俯いていると髪の毛を触られているのが分かった。 「こりゃすごいわねぇ。アンタ本当に何もしてこなかったのね。まぁ、この調査が終わっ たら私が叩き込むとして、とりあえず今は応急処置しておきましょうか」 「だ、大丈夫なのです」  じたばたと暴れてディライトはアキコから逃れようとする。  が、そこに非情な一言が呟かれ、動きを止めた。 「将来禿げるわよ」 「は、禿げる?」 「うん、禿げる。それでもいいなら別に無理にとは言わないけど……」 「お願いします」 「よろしい」  水で髪を濡らした後わっしゃわっしゃと髪を洗う音がする。  なんとなくされるがままにしていたが、頭をいじられるのはとても気持ちよく、穏やか な気持ちになっていた。そんな心持のままそういえば――と思い出す。  小さい頃はこんな感じだったなぁ。  母がいて、父がいて、楽しかったあの頃。  別に今が楽しくないというわけではない。  それに、昔楽しかった事と今楽しい事は比べるべきものではない事も分かっている。  ただ、少しだけ。  本当に少しだけ振り向きたくなる時があるのだ。  わっしゃわっしゃと音がし続けている。 「待つっていう事は――」 「え?」  その音に混じってディライトの口から言葉が漏れた。 「待つっていう事は辛い事なのです」 「……」  その言葉が何を意味するのか。アキコはすぐに分かった。 「私の両親も考古学者だったのです。それなりに有名だったようで色んな遺跡を行ったり 来たりしていて、いつも家にはいなかったのです。でも私はそれを憎んだりした事はあり ません。むしろそんな両親が誇らしかったのです」  そう言ってディライトはえへへと笑った。 「でも、遠方に調査旅行に行くってそれっきり帰ってこなかった時があったのです」  アキコに頭から水をかけられる。  泡が落ちたのが分かった。 「毎日毎日、待ち続けました。明日になったら帰ってくると思わなかった日はありません でした。でも、いつになっても二人は帰ってこなかったのです。でも、少しだけ期待はあ りました。もしかしたら、予定が遅れているのかもしれない。あと少ししたらいつもの顔 して変なお土産片手にふらっと帰ってくるんじゃないのかって。でもそれもただの夢想に 過ぎなかったのです。久しぶりに家のドアが開いたと思ったら、見知らぬ白衣のおじさん がボロボロの格好で私に言ったのです」  この先は、言いたくない。  思い出したくもない。  でも、アキコには知っておいて欲しいのだ。  アキコだから知っておいて欲しいのだ。  だから―― 「――君の両親は帰ってこれない。と」  胸が痛んだ。  チクリチクリと針で刺されている感覚。  それでもディライトは言葉を紡ぐ。 「待つ事は辛いですが、帰ってきてくれればその思いは報われます。でも――」  ディライトは耐え切れず涙を流す。  声が震え、上手く喋れない。 「でも、帰ってこなかったら? その思いはどこに行けばいいんですか? だから私は、 知って欲しかったんです。待っている人がいるのなら、簡単に諦めないでください。死ん でも帰ってください。――お願いです」  そこまで言ってディライトは黙った。  涙が邪魔をして、もう何も言えなかった。  でも、言いたい事は全て言えたはずだ。  水を掬ってじゃばじゃばと涙を洗い落とす。 「つまらない話聞いてくれたありがとうございました。もう大丈夫なのです」  そう言って立ち上がりアキコの方に振り向く。 「――え?」  ふわっといい匂いがした。暖かかった。  アキコがディライトをぎゅっと抱きしめたのだ。 「……ありがとう」  一言だけ呟く。  それで十分だった。                ■ ■ ■ ■ ■  祭壇の上で三人は昼食を摂っている。  ぽっかりと開いた空は真っ青で、雲ひとつ無い。 「いや、二人が仲直りして本当に良かったですよ」  その下でゆかっちはニコニコしながらそう言った。 「昨日の二人は本当にすごかったんですよ? 胃がキリキリ痛んじゃいましたよ」 「それは……悪かったのです」 「ごめんね。まぁ、色々あったから」 「終わったならそれでいいんですよ。新月の夜を待たないといけないなんてとんだ足止め だと思いましたが、一日暇が出来て本当に良かったです」  頬の肉が攣るのではないだろうかというぐらいゆかっちは笑っている。  それを見てアキコもディライトも安心した。  自分たちの事でゆかっちが相当気を揉んでいる事には気付いていたからだ。 「そういえばさ、ちょっと昨日聞きたくなったんだけど。結局なんで考古学者になった の?」  アキコは山菜汁をすすりながらディライトに尋ねる。 「あぁ……。簡単な事なのです。そのおじさんというのが今の私の師匠なのです。その後 詳しい話を聞くと父も母も死んではいないそうなのです。時空の狭間に消えた。らしいの です。だからきっと、こうしていれば父と母にいつか会えると思うのです。だから私は考 古学者になる事を決めたのです。……今では手段が目的になってたりもしますが」  そう言って苦笑する。 「でもそれも数ある夢の一つなのです。考古学者ディライト=モーニングには夢が一杯あ るのです」 「なら、その夢一つでも多く叶えられるために私もお手伝い頑張りましょうかね」  にししとアキコは笑った。 「何の話ですか! 私も混ぜてくださいよ!」  異常にテンションの高いゆかっちがアキコとディライトの間に割り込んで、どしんと座 る。 「みんなで一緒に頑張ろうってそういう話よ」 「そういう事なのです」  全員が笑顔でいられる事。  それはとてもすばらしい事だ。  私はこれを守るためならいくらでも頑張れる。  ディライトは空を仰ぎ見る。  これから行くであろう天空城に思いをはせながら。                                                 2.古代昇降装置  アキコさんは時折ゆかっちに指示を出しながら祭壇の上をちょこまかと動き回り、様々 な場所を調べている。  私は魔法が全く使えないのでそれを見ながら、背で陽がゆっくりと落ちていくのを感じ ていた。  天空城に向かう時間が刻一刻と近付いてくる。  昨日この場所に辿り着いてからすぐに移動を開始しなかったのは私とアキコさんの仲が 変になっていたからというわけではなく、もっと違った、単純な理由。  天空城に行けなかったからである。  ――昇降装置は新月の夜をもってその力を発揮する。  これが私が見つけた祭壇に刻まれていた記述である。  アキコさんが調べたところこの祭壇には月光を吸収するという仕掛けがあるらしく、研 究魂がむくむくと湧き上がってきたアキコさんがよくよく調べてみれば、その吸収した月 光は魔力に変換されて新月の夜に莫大な量で放出されるようで、そのエネルギーを使用し て天空城に移動する。という仕組みらしかった。  私達がここについた夜は新月の一日前、つまり三十日月だったため一日の猶予が出来た。 とそういうわけだった。  そして今の時刻は黄昏時。後少しで陽は落ちて新月の夜がやってくる。  私は暗闇に備え荷物からランプを取り出して祭壇の上に置く。ここが始まりだ。天空城 はもうすぐそこにある。  ふつふつと私の心の奥底から何かが湧き上がってるのを感じる。  それはきっと神が住んでいたその領域に達する事への歓喜と畏怖。  体が震えるのもその所為だろう。  ふっと右手が温かくなる。  ゆかっちが私の手を握ってくれている。 「まったく、まだ天空城に到着してもいないのにびびってるんですか? 手、繋いでてあ げましょうか?」 「な、何を言うのですか! そんな事無いのですよ!」  そんな風に強がってみたけれど、ゆかっちのお陰で私の身体の震えは止まっていた。ゆ かっちの心遣いが嬉しかった。 「ゆかっちー? ちょっと来て欲しいんだけどー」 「あ……」  ゆかっちは私を見た後ちらりと繋いだ手を見た。 「大丈夫なのです。行ってきていいですよ」 「でも……」 「ゆかっちー、早くー」 「ほら、行ってくるのです」  私はゆかっちの手を離す。  ゆかっちは少しだけ寂しそうな顔をして、ぱたぱたとアキコさんの方へと走って行った。 途中で何かの出っ張りに躓いてこけていた。私の事を鈍くさいと言う割りにゆかっちも大 概だなぁと思う。  私は一人で空を眺めている。徐々に落ちてゆく陽はついに地平に沈み、空は紫色を経て、 ようやく漆黒へと至った。双子月はまるでこの世に存在しなかったかのように空から消え 去っていた。  以前、ハロウドさんと話した時、赤い月は魔物が騒ぐ。蒼い月は人が騒ぐ。それが満月 ならなおさらだ。と言っていた事を思い出した。  ならばその逆は、その二つが同時に消えたのなら――。  静寂だ。  暗闇は人を不安にさせる。魔物を不安にさせる。不安を感じたくないのなら、眠ればい い。活動しなければいい。だから、新月の夜はこんなに静かなのだ。  だから――。 「ディライト、ちょっとランプ付けてランプ」  遠くから聞こえたアキコさんの声で私の思考は中断される。  いや、実際そう遠くは離れていないのだろう。ただ、この闇で距離感が分からないだけ なんだと思う。  言われたとおりランプを付けると、ポゥという音がして辺りが少しだけ明るくなった。  ほぉらやっぱり。私は二人からそんなに遠く離れていなかった。 「あと2、3時間で魔力の放出が始まるわよ。ていうかすごいわねこの場所。こんな超々古 代文明の装置が丸々残ってるなんて自然結界様々ね」  アキコさんはニコニコしながら私に話しかけてくる。  どうやらこの装置を調べて相当ご機嫌になったらしい。 「月光に魔力が込められてるってのは知ってたけど、今の技術じゃその魔力の変換方法が 分からなかったのよね。それが、ここにはそのまままるまる残ってる。解析には時間がか かりそうだけど、この仕組みが分かったら学会でも注目の的ねー。しかも、未だに動くな んて。あぁ、神様、ホントにありがとう」  なんて、アキコさんは酔っ払ったよう笑いながら天を仰いで手を合わせる。 「学者が神様に感謝するなんておかしいのですよー」  私が笑いながら言うとアキコさんは大真面目な顔であら、と聞き返してくる。 「学者が神様信じちゃいけないなんて。もう、古い考えね。今時学者も神様に祈る時代よ」 「そうなのですか……?」  そんな話は初めて聞いた。 「えぇ、今時神様の一つや二つ信じてないとこんだけ調査が進んでいる時代に新発見なん てそうそうお目にかかれないんだから」  アキコさんに言われてたしかにそうだなぁ。と思う。  自ら何かを作り出す分野――アキコさんの魔導学なんてそうだけど――ならともかく、 私のような考古学の分野なんかの場合は遺跡の数なんてたかが知れている。それに、考古 学者なんて星の数ほどいるのだからそのうちで新たな遺跡を発見して、さらにそこから新 発見に出会える人間なんて数えるほどだろう。たしかに、そこには実力だけではなく運の 要素も絡んでくるかもしれない。だから、神様に祈るというのも強ち間違いではないかも しれない。 「っと。まぁ、そんな事はどうでもいいのよ。そうじゃなくてえっと……。なんだっけ」  アキコさんはテンションの上がりすぎで私に言おうとしていた事をすっかり忘れていた ようだった。指をこめかみに当ててぐりぐりとやっている。 「儀式のやり方じゃないですか?」  後ろの方からゆかっちがやってきてアキコさんに助け舟を出す。それを聞いてアキコさ んはちょっとバツの悪そうな顔をしてあぁ、そうだそうだ。と言った。 「忘れちゃったからもっかいおさらいしたいんだけども」 「大丈夫なのですよー。これなのです」  そう言って私はつなぎから一枚のメモ用紙を取り出す。  拓本から読み取る事の出来た儀式のやり方を簡潔にまとめたものだ。 「まずは、天空城に昇りたい人間全員が祭壇の上に乗っている事が条件なのです。で、そ のうちの二名がえぇと……」  私はそう言ってランプで祭壇の上を照らし、目的のものを探す。 「あ、あれなのです。あそこにある二つの球体の前に立って魔力を流しながらこの魔法式 を構築することで、放出される魔力が移動用の力に変換されるみたいなのです。此れが構 築式になりますね」  アキコさんにメモ用紙を渡す。アキコさんはぱっと目を通したあと一瞬にして嫌そうな 顔をして、げっ、こんなの長いのやるのと呟いた。 「そうなのですよー。少々長いですけど、アキコさんなら大丈夫ですよね」 「ん。まぁ……できなくも無いけどさ。あ、つーかこれ古代言語じゃん。だるっ。昔の装 置だから仕方ないけどさ……。今の魔法言語に換えたらもうちょい省略できんじゃないの」  そうアキコさんは私に言うが、私に言われても魔法関係の事はさっぱりなのでよく分か らない。傍から見ていても私が頭の上にはてなを飛ばしていたのに気付いていたのだろう。 ゆかっちが私の代わりにアキコさんの疑問に答える。 「たしかに、そうなんですよね。やっぱり無駄が多いところは認めます。ただ、一応今回 は万全を期して記述どおりの構築式を使うという事じゃダメでしょうか? もし万が一こ の装置が今の魔法言語に関しての互換性を持っていない場合、また一ヶ月も待たないとい けないことになりますから」  ゆかっちがそういうとアキコさんは渋々ながらも頷いた。 「まぁ、確かにそうねぇ。ちょっとの時間惜しんで失敗したらその何倍もかかるわけだし ね。今回は安全策をとるということにしましょうか」  アキコさんはそう言ってメモ用紙に書いてある構築式を熟読し始める。その姿は鬼気迫 るものがあり、これがアキコさんの本職であることを再認識した。私は遺跡の調査中にこ の真剣さがあるだろうか。……。分からない。でも、この真剣さが少しでもあればいいな と思った。 「……」  アキコさんがメモ用紙を凝視し始めてからどれくらい経っただろうか。その変化に一番 最初に気付いたのはゆかっちだった。 「……ディライト、祭壇が――」  その一言で私は足元に視線を移す。そこには―― 「光ってるのです……」  祭壇全体が青白い光に包まれ、そこから祭壇を包んでいる色と同じ色の光球がぽつぽつ とあらわれた。それはそこらじゅうを飛び回り、まるで蛍のように光の尾を引いていく。 徐々に数を増やしていくそれは、最終的に私たちを包み込み、辺りを照らした。  そして私はようやく気付く。これが、月の光を変換して作り出した魔力だ。と。  それに気付いた瞬間、ふっと身体が軽くなった気がした。 「はははっ! いいわね、いいわねこの感じ! 力が漲るわ! ディライト、ゆかっち。 天空城まであとちょっとよーーッ!」  魔力の漲ったこの空間でアキコさんはいい感じにハイになっているようだった。ゆかっ ちも極めて冷静に振舞っているが、やはり、魔法を使うものとしての気分の高揚は隠せな いようだった。ではアキコさん始めましょうか。なんて言いながら口の端が少しつりあ がっていた。  アキコさんはゆかっちの言葉に頷いて球体の前に立ってその上に手をかざして魔力の移 動を開始し、ゆかっちも反対で同様の事を始める。 『空の上――』  魔法式の構築が始まる。 『天にそびえる城――』 『月光が我らをそこに導く――』  アキコさんとゆかっちの古代言語による応酬。 『空には星――』 『地には月――』  相手の言葉に自らの言葉を被せ、お互いの詞に含まれる魔力を高めていく。 『あたりは静寂――』 『何も無い――』 『闇は全てを逆しまに――』 『真は偽に、偽は真に――』  ガコンという音が先ほどゆかっちのこけた所からした。 『過去は現在に、現在は過去に――』 『肉体は精神に、精神は肉体に――』  続いてザァァという水の流れる音。 『正気は狂気に、狂気は正気に――』 『生は死に、死は生に――』  私が辺りを眺めると、そこに先ほどまでの緑は無く、水が溢れ、空の星を反射していた。 『地に月がある――』 『そして星も満ちた――』  その一説を唱えると、空を雲が急速に覆い、空の星を隠していく。それなのに水面に映っ た星は消えず、未だ、爛々とした光を放っている。 『此方は天――』 『彼方は地――』 『今、天は地に、地は天に――』 『全てが逆しまに成った――』  ようやく気付いた。これは見立てだ――と。星の光が満ちた池と、月の力を蓄えた祭壇。 この二つが此処を空にする。 『我らは摂理に従おう――』 『上から下へと落ちてゆく――』 『我らは空に生きるもの――』 『土の上では生きられぬ――』 『『我らは空に落ちてゆく――』』  最終節を二人が唱え終わると同時に、祭壇を覆っていた光は徐々に膨れ上がってゆき、 大気を震わせる。  その振動が最大になった時、身体は浮き、まるで重力に従って落ちて行くかのように私 の身体はすごい速度で大地から空に向かって昇ってゆく。  そういえば――と、アキコさんとゆかっちを見ると、二人もまた私の事を思い出してい たのだろう。私たち三人の目線が交差した。  何故か私はその目線をぱっと外した。  その時目に入ってきたのはもう小さくなり、光らなくなってしまった祭壇。そして先ほ ど中断してしまった思考が復活する。  そうだ。だから、誰も気付けなかったのだ。  ――こんなに綺麗だというのに。  そう考えた時、私の目の前は真っ暗になり、意識も――途絶えた。                ■ ■ ■ ■ ■  町の人たちが寝静まった夜。外を出歩く人間は一人もいない。  もともとこの町には娯楽施設が少ない。ということもあるが、それだけではない。この 静けさの原因は今日が新月だからである。  明かりのついている家もほとんど無く――というよりもただ一軒を除いて全ての家が明 かりを消している。その明かりのついている家とは、魔導師トゥルーシィ=アキコの家で ある。といってもアキコ自身は天空城探索に同行しているため家にはいない。いるのはそ の居候である、三人の龍娘であった。 「もーっ! 二人とももうこんな時間ですよっ! 早く寝てくださーい!!」  そしてその家からは銀色の髪と漆黒のドレスを纏った少女。賢龍しゃるびると、通称 しゃるの声が響いてくる。 「むー、いいじゃない今日ぐらい。ねぇとらぎちゃん」  ほっぺたを膨らませながらそれに答えるのは青い髪の少女。蒼のいんぺらんさ、通称い んぺである。 「うむ、アキコが出掛けてから我らとて我侭ばかり言っていた訳ではないであろう。ちゃ んと夜は早く寝て朝は早く起き、しゃるびるとの言う事もしっかり聞いていたではないか。 今日ぐらいはいいと思うのだがね」  いんぺに同調してしゃるに反抗する金髪の少女は暁のとらんぎどーる、通称とらぎであ る。 「ま、まぁたしかに最近は聞き分けもよかったですけど……。どうしたんですか急に今夜 に限ってそんなに起きていたいなんて」  眉をハの字にしながら尋ねると、二人は顔を見合わせてにやっと笑い、しゃるには内緒 と言った。その後二人はぱたぱたと二階へと駆け上がっていく。その後を追ってしゃるも 二階へと上がり、アキコの寝室を抜けてベランダへと出る。が、二人の姿は見当たらず、 きょろきょろとしていると。 「こっちだ、しゃるびると」  とらぎの声が上から落ちてきた。さっと声のするほうを見るといんぺもとらぎも屋根に 昇ってリアス山脈のほうを眺めていた。  しゃるも屋根によじ登りリアス山脈を眺める。自分の故郷を。 「……あんなにちっちゃい」  ぼそっと呟く。それを聞いていんぺはあーと呻く。 「そういえばしゃるちゃんリアス山脈育ちだもんねー。懐かしい?」 「んー、どっちとも言えません」  そう言ってしゃるは苦笑した。  正直なところ、あそこでは様々な事があった。色んな人と出会ったし、色んな人と別れ た。色んな魔物とも出会ったし、色んな魔物とも分かれた。そして、勇者と対峙した事も あった。それら全部ひっくるめていいこと、わるいこととは言えない。  帰りたいかと言えばそうでもない。帰りたくないかと言ったところでそれも正しくない。  だから、やっぱり帰ってきたいと思えるここでの生活は幸せなのだ。 「ところでなんでリアス山脈なんか? 何か見れるんですか?」  しゃるがそう問うたもののやはり二人は笑うだけで答えはしなかった。 「少し待て。見ていれば分かる」  とらぎはそう言って腕を組んだままリアス山脈を見つめている。いんぺも同様だ。だか ら、しゃるもそれに見習い、特に何をするでもなくリアス山脈を見つめる。  見始めてから数分後、しゃるは大気の中に微量の魔力粒子のゆらぎを感じ取った。 「――?」  疑問に思ったのも束の間で、そのゆらぎは次第に大きくなり、ノイズが走る。 「こ、これは――?」  しゃるはいんぺととらぎの二人を見る。二人はゆらぎを全く気にせずにおー、始まった 始まったなどと嬉しそうに言っている。そしてしゃるは森の一部が大きく光っている事に 気付いてようやく、二人が見ていたのはリアス山脈ではなく、その麓――帰らずの森だっ た事に気付いたのだ。帰らずの森の光はまるで饅頭のようにゆっくりと膨れていき、ノイ ズが一際大きくなった時、その光の饅頭から一筋の光が天に昇っていった。 「――アキコちゃん気を付けてね」 「うむ」 「あ、あの……」  とらぎは見ていれば分かると言ったが結局、しゃるにはアレが何か理解する事が出来ず、 二人に尋ねてみた。 「あれー? しゃるちゃんなら知ってると思ってたよ。あれ、毎月新月の夜に見れるよ?」 「うむ、昇天の光と言ってな。月光を取り込んでそれを新月の夜に変換する装置なのだが な……」 「し、知りませんでしたよ。それにあんな魔力粒子のゆらぎとノイズ今まで感じた事無い ですよ?」  賢龍って呼ばれていても知らない事とはあるのだな。ととらぎが言う。  しゃるはなんとなく恥ずかしくなってしまった。 「あれは魔法式の構築に成功した時だけに現れる現象でな。まぁ、新月ではあるし感覚が 鈍るのも致し方なしだな」 「それで結局アレは……」 「つまり、あの光の中にアキコちゃんとかディライトちゃんとかゆかっちがいたって事」  いんぺの要約を聞いてやっと、しゃるは理解した。  つまりこの二人はアキコ達の見送りをしようとしていたのだ――。 「三人全員――無事に帰ってこれるといいですね」  しゃるの呟きにいんぺもとらぎもうんと頷いた。                                                 3.天空城考察 「ふむ、この高度でも植物はほとんど下と同じような形状をしているな。私の推測として は薄い空気をより多く取り込むために気孔がもっと発達して、もしかしたら酸素ではない 何か――たとえば魔力なんかを取り込んでいる可能性も高いと踏んでいたんだがね。まぁ、 唯一の違いを挙げるとすれば、大きさか。まずこちらの方が最低でも1、5倍ほどは大きい なぁ。何でだろうね」 「分かりませんね。ただ推測でいいんなら言いますけど、たぶんここ、魔物はほとんどい ないと思いますよ。なんというか……気配がないです」 「確かに皇七郎君の言うとおりだね。魔物の気配……それ以前に生物の気配すらしないの だよ。それからアーキィ。ここの植物が下の植物と変わらないで、大きさだけが大きいと 言っていたがね。それは多分この城全体に張られている結界に関係しているんじゃあ無い かな。どうもこの結界、自然結界に近いみたいでね。自然結界の中では植物が巨大化する というのは知っているだろう? それと同じ原理なんじゃないかな」 「なるほどね。つまり……」  二人の魔物生態学者と一人の魔導師は大きな樹の根元でこの場所について話し合ってい る。この場所――つまり天空城の内部についてである。その話し合いは傍から見ていると ただ子供があーだこーだと騒いでいるようにしか見えず、まさに傍から見ていたグレイシ アは苦笑してしまった。 「へぇ、ならガトーさんは魔素によって巨大化した生物も魔物とみなすべきだ。と」 「そうだね、実験でも魔素にさらされ巨大化したラットの子孫がウェアラットと同じ性質 を持っていたのだよ。私は魔物生態学については門外漢なのだがね……」 「それはなかなか良いご意見だね。すると何かな。君はただ巨大化しただけの生物が魔物 とでも言いたいのかな。彼らは彼らなりの進化を遂げて今の姿になっているのだよ。それ がたかが魔素に一世代さらされただけでその進化の代用になるとでも?」 「そんな喧嘩腰にならないでくれよアーキィ。私は何もそこまでは言っていないだろう。 私が言いたいのは将来的にその分類が必要になるかもしれないというだけであって……」  三人の議論が白熱した頃、グレイシアはそっと窓の外を見る。  外は暗く、眼下には灰色の雲の海が広がっていた。  ――良い頃合だな。 「お三方、議論は程々にして移動を再開してもいいですか?」  ゆっくりと三人に近付きながら声をかけるが、学者というのは因果なもので、議論が白 熱すればするほどそれ以外に頭を動かす事をしない。と、いうよりも頭を動かす事ができ ないと言った方が正しいかもしれない。だから、声をかけられてもお構いなしに三人の議 論はヒートアップしていく。 「だから、この天空城に魔物がいない可能性が無いとは言っていないでしょう? ただ、 ここは神々が住んでいた城ですからね、彼らが去る際に全ての生物の痕跡を消し去ったと 言う可能性もあります」 「そうだとしよう。しかし、いくらこの高度とはいえここに何らかの生物が入ってこない と言い切れるかね? その証拠として植物があるじゃないか。特にこの樹なんてこの部屋 全体を侵食している。木の下に石畳が飲み込まれている。これは元から意図して作られた ものではないはずだ。ならどういうことか。それは下の植物の種子が、風に乗ったのか何 なのかは分からないが何らかの方法でこの場所に辿り着き、根を張ったということだろ う? それに魔物とてこの高度を飛べない。と言うわけではない。ならここに住み着き、 独自の進化を遂げたものがいると考えてもいいはずじゃないか」 「アーキィ。ここには結界が張られているのだよ。さっきは詳しく言わなかったが、どう も物理的な物はほとんど遮断するようだ。その植物の種子が入ってこられたのは一定以下 の大きさのものは遮断しきれないという穴があったからだろうね。ただね、その物理的な 物をほとんど遮断するという事実はまた別の仮定を紡ぎ出す事が出来る」 「……つまり、神代の遺物が全てそのまま残っているとでも?」 「その可能性が無いとは言い切れない」 「たしかに。ガトーさんの言う事も強ち嘘とは言い切れないかもしれませんね。生物の気 配は先ほども言ったように全くありません。ただ、僕の索敵にもひっかからない人工生物 、ゴーレムのようなものが――しかもあの宿り木の機械龍クラス、或いはそれ以上の者が そのまま丸ごと残っている可能性は無くもありません。ただその場合――」 「あのッ!!」  そこでようやく三人はグレイシアの存在に気付いた。  実際、グレイシアは彼らに対して再三呼びかけており、十五回目にしてようやく気付い てもらえたのだから哀れと言うしかない。 「あぁ、グレイシア君どうしたのかね、そんなに声を荒げて」  トゥルスィは顔を上げて問う。 「どうした、じゃありません。そろそろ移動を再開したいんですが。と言っているんです」  グレイシアは十四回も無視された苛つきを隠そうともせず、つっけんどんに言い返す。  それを見てガトーは眉をハの字にして謝った。 「あぁ、それはすまなかった。どうも夢中になりすぎたようだね」 「別に分かってくれればいいんです。ここ――永遠の安らぎの間はクズ石、玉石、輝石な どの身分を問わず天空人たちの憩いの場になっているんです。今日はいつもより遅いです がそろそろ天空人が来てしまうんですよ。貴方たち一応密入城なんですから姫に会うまで はバレない様に大人しくしていて下さいよ」  グレイシアはそう注意して、三人の準備を急がせる。  三人はてきぱきと再出発の準備を進める。が、急にトゥルスィの手がピタリと止まった。 「……」  トゥルスィは地面をじっと見つめ始めた。それに皇七郎も気付いたようでトゥルスィの 目線の先を見る。そして―― 「蟻じゃないか!!」  そう叫び、皇七郎は半狂乱になってその黒々とした蟻を捕まえた。 「トゥルスィさん、蟻ですよ蟻。こんなとこでもいるんですね」  トゥルスィは嬉々として皇七郎の指に挟まれている蟻を観察し始める。 「……ふむ。なるほどね。脚部の機構がどうも我々の知っている蟻とは違うみたいだ。と いう事はやはり、小規模単位でありながらも独自の進化の過程を辿っていると考えていい みたいだね。詳しく調べたいが時間が無い。フラシュル、君の魔法でこれ保存しておいて くれないかな」 「任せておけ」  そう言ってガトーは皇七郎からその蟻を受け取る。 「でもトゥルスィさん。この蟻が独自の進化をしていると言うのなら、もっと他の生物も いて良いと思うんですが」 「そこなんだよね。私が思うに……」  そうしてまた議論は再開された。  それを見てグレイシアは怒り半分、呆れ半分に思う。  ――やってられないなぁ。                ■ ■ ■ ■ ■  時間はトゥルスィ達四人が絃魔館の女主人孤伯によって天空城に入城するよりも少し前 に遡る。  天空城とはその名の通り天空に浮かぶ城である。成層圏を漂うそれは決まった順路を持 たず、まるで城が意思を持っているかのようにふわふわと移動するためその場所を掴む事 は至難の業に近く、また、その順路が分かったとしても幾重にも渡る光線撹乱結界によっ て知覚する事は出来ない。また物質の通過とその通過しようとする存在を『拒否』する結 界によって偶然そこに入り込んでしまうという事なども無い。  それ故天空城は幻の存在とされ、未だにその存在の是非が問われ続けているのである。  そう、だから本来は単独での侵入などは不可能である。  そのはずであった。  しかし、それは覆された。  幾重もの結界を潜り抜け、存在拒否の結界の存在すらも拒否し、たった一人の男が乗り 込んだ。昇る朝日を背にして、その男はかろうじて残っている土を踏みしめ天空城の門前 に立った。  見た目は二十代前後で、顔以外はすっぽりとローブで隠れている。そしてその唯一外に 露出した顔は、まるで何かのお面を貼り付けたかのようににやにやと笑っている。その顔 は、崩れない。その優男はにやにやと笑っている。笑い続けている。これから起きる事を 想像しているのか、それともたった数時間前に見ていた夢を思い出しているのか。  ――違う。  この男はただ嗤っているのだ。この世界を小馬鹿にし続けているのだ。どれほど巧妙に 天空城を隠したとてこの男には通用しない。この男は世界を知っている。比喩でもなんで もなく、この男は世界の根源に唯一触れた人間なのだから。  だから、全てを知っているのだ。それなのに世界はその悪あがきを止めない。  だから、嗤うのだ。唯一世界が騙しきれない男――大魔導師ヘイ=ストは。 「……全く、神様なんてのは暇なんですねぇ。こんなもの作って」  そう言ってヘイ=ストはこの巨大な建造物をちらりと見上げる。下の方は城門で隠れて 見えないが上部の方、天守の辺りは白亜で囲まれている。そして、そこから大きな力を感 じた。24時の魔法使いなぞ比ではないほどの力がそこから発せられている。 「……」  ヘイ=ストは舌で唇を舐める。歓喜で疼く身体を押さえて城門を開け、内部に入る。  かつん、かつんと歩く音が天空城の廊下に響く。  内部には照明の類は無く、窓も無い。しかし、明るい。所々侵食している植物の中に光 ゴケの亜種でもいるのだろうか――。そんな事を考えながらヘイ=ストはただ、まっすぐ に歩き続ける。まるでその先に何があるかを知っているかのように。  かつん。  かつん。  かつん。  ヘイ=ストの足音は響き続ける。  この長年誰も使っていなかったはずなのに全く風化していない天空城の廊下に。  かつん。  かつん。  か――。  ヘイ=ストの顔のにやつきが顕著になった。足音に混じって何か他の物音が聞こえたか らだろう。  かつん。かつん。かつん。  心なしかヘイ=ストの足音が少し早くなった。  一歩進むごとにその物音は大きくなり、やがてそれは多くの話し声だと言う事が分かる。 廊下の角を曲がり、目の前に広がった光景を見てヘイ=ストは笑った。  これこそが――私の求めていたものだ。  目の前に広がった光景は、街だった。天空人が闊歩する街。ここが城の中だと言う事も 忘れるくらい大きな街がそこにはあった。石畳は敷かれ、レンガ造りの家はあり、ヘイ= ストがいる場所がメインストリートの始まりなのだろう。視線の先には広場、そして噴水 まである。正直なところ、ここまで巨大なコミュニティが形成されているとは想像してい なかった。が、そんな事は関係ない。ヘイ=ストはその足を止める事なく歩いてゆく。に やにやと笑いながら歩いてゆく。  外部からは切り離されたこの社会で、未だかつて見た事のない彼は異物と判断されたの だろう。ヘイ=ストに気付いた一人の少年が疑念と、少しの恐怖を持ちながら近付いてく る男に声をかけた。 「ど、何処から来たの?」  ヘイ=ストは一瞥して答えた。 「うるさい」  答えて、少年が聞いたことの無い言葉を発した。 『弾けろ』  途端、少年の身体は徐々に膨らんでゆき、皮は伸び、その臨界点を超えた時に、弾けた。  呪文の詠唱しない。彼が使用するのはそのプロセスなんて要らない、その一音節で全て 足りてしまう神代言語。  だから、彼が呟いただけで少年は弾けたのだ。  パンという間抜けな音を立て、「え」という間抜けな声を出しながら。  内側から破壊され、少年の中身が飛び散る。血の様なもの、肉の様なもの、臓器の様な もの。それらのいくらかがびちゃりと音を立て、ヘイ=ストのローブにもかかる。  彼は本当に汚らわしいものを見るような目でそれを見て、舌打ちをした。 「模造品め――」  一瞬だけ不快感を顔に表したあと、すぐにいつもの表情に戻り、少年のそばにあった青 く光る石を拾った。 「なるほどね、所詮はクズ石か。まぁ、少しは足しになるだろう」  そう言ってそれを――飲み込んだ。  そしてまるで何も無かったかのようにまた歩き始める。 『弾けろ』 『弾けろ』 『弾けろ』 『弾けろ』  彼の視界に入った天空人は先ほどの少年と同じように破裂していく。  何らかの魔法でも使っているのだろう。天空人が死んだ後に様々な色をした宝石が彼の 口の中に納まってゆく。  殺された天空人の妹だろうか、一人の少女が悲鳴を上げる。さすがに天空人たちもその 声で異変に気付いたのだろう。わらわらと家から出て、ヘイ=ストを取り囲んだ。 「ど、何処から来た」  ヘイ=ストは嗤う。にやにやと嗤う。彼らの無知を。少年と同じ事しか言えない大人を。 そして、必死に人間の真似をする彼らを。中身は所詮人間ではない。それなのに人間ぶろ うとする彼らがおかしくておかしくて。そして彼は、彼らを殺したくなる。 「死にたい奴から殺してやろう。クズ石どもめ」  彼は、世紀の大魔導師は、勇者パーティーの一人ヘイ=ストは人を殺す。怨恨で、嫉妬 で、情欲で。ありとあらゆる負の感情を全ての人間に向け、そして、殺す。でも、彼は人 間だ。かつて一つの国を滅ぼした時、彼は人と人以外の大きな欠落を埋めたいと言った。 そして、その望みは叶い、確かにその欠落を埋め、人間を辞めた。しかし、彼は本質的な ところでは人間のままだ。大好きだった彼の育て親、ユーリとの決別は出来なかったから。 そして、彼は人間でありながら勇者と共にあれる事を誇りに思っているから。また、彼は 自分自身がユーリを救えなかった事を憎んでいる。置換すれば、人間と言う存在を憎んで いる。だから人を殺す。そして、彼自身も気付いてない事ではあるが、彼は自分自身がユ ーリと同じ人間であるということを愛している。置換すれば、人間と言う存在を愛してい る。だから嫌う、人間でないものが人間の真似をする事を。魔物が人間の暮らしに混ざる 事も嫌いだし、人間の擬態をする事も嫌いだし、生まれた時から人間の形をしているのも 嫌いだし、そして人でない模造品も嫌いだ。  だから、壊した。  人の真似をする模造品を――天空人を壊してやった。  ヘイ=ストは天空人であった残骸の山で一人笑った。声も無く、にやにやと。  全ての石を回収し、さて、次に行こうと思った時、カタっととても小さな音がした。  ヘイ=ストはそれすらも聞き逃さず、その音がした家に入り込む。 「……」  家をじっくりと見るまでもなく、彼は隅の方でカタカタと震えている少女を見つけた。 彼女は何も言わない。ただ震えている。 「君以外は全員死んだよ」  その少女に何よりも残酷な真実を伝えると、彼女はて、ヘイ=ストの横をすり抜けて外 に出る。そこにあったのは残骸の山で、何も動かない。誰も喋らない。きっと、彼女はそ の残骸が、誰であったかを知っているのだろう。それが動き、彼女に接してくれた事を覚 えているのだろう。だから、彼女はその場にへたり込んだ。そして、顔をぐしゃぐしゃに して、声を上げて泣いた。 「――模造品ごときが喚くな」  その瞬間、少女は背に衝撃を受け、そのまま前にごろごろと転がっていった。それをし たのはもちろんヘイ=ストだが、彼は魔法を使ったのではない。ただ単純に、少女を蹴り 飛ばしたのだ。そして何処から取り出したのか、右手には砂時計を模した杖が握られてい た。にやにや笑いは消え、彼は酷くまじめな顔で言い放った。 「死ね」  杖で少女を殴る。ガツン。殴る。ガツン。殴る。ガツン。殴る。ガツン。殴る。殴る。 殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴 る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。 殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。  ひ弱な大魔導師の力では勇者や聖騎士のように一撃で殺す事は出来ない。だから、殴り 続ける。ガツン、ガツンと骨と杖のぶつかる音がし続ける。少女は動かない。ただ殴られ ているだけ。生きているのか死んでいるのかは分からない。大魔導師が確認しないから。 しかし彼にとって少女の生死なぞは些細な事なのだろう。気が済まないだけだ。イライラ するだけだ。少女が人間の真似をした事が。自分は人の為になんて泣かないのに。泣けな いのに。自分よりも人間らしい真似をした事が腹が立った。といっても彼はこの苛つきの 原因に気付いてないだろう。だから、殴る。殴り続ける。その苛つきが引っ込むまで。  そして少女がミンチのようになった頃、ようやく彼は殴るのを止めた。  飽きたと呟いて。 「次を殺そう。玉石の連中は、こいつらよりもまだ殺りごたえがあるかな」  そう言って彼は入ってきた側の反対側に向かってメインストリートを真直ぐ歩き出した。  トゥルスィ達はこの事実を知ろうはずもない。                ■ ■ ■ ■ ■  延々と続きそうな議論に嫌気が差したグレイシアがトゥルスィを引っ張って移動を再開 すると、皇七郎もガトーもそれにつられる様に移動を開始した。もちろん、議論は続いた ままであるけれど。 「ちょ、いい加減にしてくださいよ! こんなに五月蝿いとばれちゃいますって!」  グレイシアが注意しても三人はそんなものは聞こえないかのように議論に熱中している。 いや、もしかしたら怒られ慣れているのかもしれないが。 「……はぁ」  グレイシアは溜息を吐いて、この人たちをここに連れてきたのは間違いだったかな。と 思った。今の天空城内は何か異様な雰囲気があり、それに対して何か気付いてくれるかと いう期待があったのだが、どうもそれは外れていたようだ。この三人は……ただの馬鹿だ。 観察眼は確かに鋭いのだがどうにも自分たちの興味の無い事にはとことん興味が無い。勉 強が出来る出来ないではなく人間として、何か欠陥しているのではないかと本当に疑いた くなる方の馬鹿だ。 「ちょ、ちょっと待ってくれないかね」  ちょうど、馬鹿だと思っている時に声をかけられたものだからグレイシアは少々ビック リする。 「どうしたんですか?」  振り向くと三人は一つの彫像を見つめていた。 「これは……。ガーゴイルでいいのかな?」  嬉しそうな顔でトゥルスィがグレイシアに尋ねてくる。 「え、えぇ。そうですね」 「ふぅむ……。動いているところを見た事は?」  あるはずが無い。元々ガーゴイルとはその主が外敵と判断したものがそれの索敵範囲内 に入ることで動き出す代物である。守り人であるはずのグレイシアに対して動くはずもな く、また、グレイシアが居るからこそ三人も外敵と認識されないのだ。  そう伝えるとトゥルスィはそうか、そうだよねと残念そうに答えた。 「や、これは珍しいね。魔法銀製の彫像だよ」 「あー、ホントだ。なかなかこれはお目にかかれませんねぇ」  ガトーがそう言うと皇七郎もぺたぺたと触りながらその感触を確かめていく。 「うん。これは本当にいい彫像ですね。ガーゴイルが本来象るべき悪鬼の姿というよりも 今我々が神と考えている姿の方に近い。つまりこれは、神と悪魔の区別がはっきりしてい なかった頃のものと考える事も出来ますね。それに、これが動くんであるとすれば今まで 僕達は『ガーゴイルは悪鬼を象るべきだ、象らなければいけない』と考えていましたけれ どそれも根底から覆されますね」 「たしかに……そうだね。しかしこういった例を見てみると何故私たちはガーゴイルは悪 鬼を象っていなければいけないと思っていたのかね。……。学者にとっては忌むべき固定 観念というやつか。第四版を発行するまでにはそれについての考察と実験を行わないとい けないな。いや、しかしそう言った事は置いといて。いいなぁ……是非これが動いている ところが見てみたいなぁ」  トゥルスィもぺたぺたと触りながら言う。  その言葉を聞いてガトーは「近々、動くかもしれないね」  そう――言った。  グレイシアは首を傾げる。  何故、動くのだろうか。外敵はいる筈がない。  グレイシアの疑問は顔に出ていたのだろう。それにガトーは気付いて答えた。 「なんだか、ここは様子がおかしいからね。いつもの様子は知らないけど、こういう時は 大抵良くない事が起きるんだ。ただの勘だけどね。それとも、いつもこんな感じなのか い?」  グレイシアは突然の話題展開についていけず、ただ頭を振るだけだった。 「たしかに、入った時から感じていたんですけど空気が澱んでますよね」  皇七郎もガトーに続く。 「どうも、変な感じなんですよね。耳がぴょこぴょこするし」  確かに、言われて見てみると皇七郎の長いエルフのような耳が上下にぴょこぴょこ動い ている。それを見てガトーは少し笑ってしまった。 「ふむ、そういえば、私たちを呼んだのもそれが原因だったね。いや、申し訳ないつい夢 中になり過ぎてしまったね」  そう言ってトゥルスィは謝罪の意味を込めて恭しく礼をした。 「で、私たちはどうすればいいのかな」  ようやく、グレイシアは状況が飲み込めた。  この人達は、馬鹿ではなかった。自分の言っていた事をしっかり覚えていてくれたのだ。 「あ、頭を上げてください。その……大丈夫ですから。とりあえず、事後承諾ではありま すけど入城の許可を姫に貰いに行きましょう。そうしたらいくらでも調査してもらって構 いませんから。それに、最上階まで、あとはこの階段を上がれば終わりですから」  グレイシアは先にある階段を見る。そこにあったのは―― 「長ッ!」  思わず三人が声をそろえて言ってしまうほど長い螺旋階段だった。                                                    4.空間の獣 「あいたたた……」  ディライトが頭をさすりながら目を覚ますと、まず目に入ってきたのは様々な色の絵の 具をぶちまけて造ったようなマーブル色。それらは不規則に動きながら模様を替えてゆく。 壁はなく、ここはどこまでも広がっているようで、その果ては判然としない。また、床も ――床といっていいのか分からないが――そうだった。上に飛んでいっているような、下 に落ちているような、はたまたその場に浮かんでいるような不思議な感覚。  ――ここはどこだろう?  見たこともない場所だった。ディライトは職業柄様々な場所に行くことがあるが、この ような場所にきたことは一度たりとてなかった。だから――落ち着いた。このような時に こそ落ち着くものだ。という彼女の師の言葉に従ったのだ。  まずは辺りを見渡してみる。  先ほどと変わらず自分がどこにいるのかは分からない。しかし、一つ分かった事がある。 それは、自分の周りには誰もいない事だ。アキコもゆかっちもいなかった。また荷物も、 身に着けていたいくつかのサバイバル道具以外は全て綺麗さっぱりとどこかに消え去って いた。 「えぇぇええぇえ!?」  もう一度辺りを見回すが、自分以外の人影は無い。  ディライトはこのどことも知れない場所に一人で放り出されたのだ。 「ちょっ、え、何なのですか!? えぇぇ……」  そう言ってへたり込む。このような場所で一人ではぐれる事はディライトにとって死に 等しい。彼女は戦う手段を持たない。もしもこの場で魔物にでも襲われたら――。ディラ イトは頭を振ってその考えを打ち消す。絶望は最大の敵。これもまた彼女の師の言葉であ る。まずは自分のおかれた状況とそれに至るまでの経緯を考えてみる。 「アキコさんとゆかっちと一緒に天空城探索に――ってこれは当たり前なのです。で、ア キコさんと喧嘩して……ってこれもいいのです。どこから? どこから私の記憶は曖昧な のですか?」  そう自問自答する。何かを深く考える時のディライトの癖だった。 「えぇと。祭壇の準備していた時……。はしっかり覚えているのです。アキコさんとゆ かっちが儀式をしている時。……も覚えているのです。じゃあ――、天に昇る時?」  そこから、ディライトの記憶は曖昧になっていた。  彼女が昇天の光について考えていた時にぷつりと記憶は途切れたのだ。 「で、目覚めたらここ……」  先ほどと変わらずぐにょぐにょと、じっと見つめていると酔いそうなほど模様は絶え間 なく変化し続ける。  でも果てが無ければ見えないはず。それなのに、この色は認識できる。ならそれはどこに 存在しているのだろうか――?   ……どこかで見たことがある。ディライトがそう思い出すのに時間はかからなかった。 今度は注意深く辺りを観察する。どこでこの風景を見たのか、それを思い出せなくてもい い。似た風景でもいいから思い出そうと必死になった。何らかの取っ掛かりがつかめれば と。 「えぇと、えぇと……」  ――本で読んだ?  違う。  ――第一遺跡?  違う。  ――第五遺跡?  違う。  ――東国の遺跡だっけ?  違う。  ……。 「あぁ、思い出したのです……」  それは師匠である教授にくっついて王国連合管轄の遺跡めぐりをしている時の事だった。  調査済みの遺跡はトラップ等が解除されている事が多く、教授もゆかっちも安心して ディライトに色々な所をぺたぺたと触らせていた。調査済みの遺跡といっても新米である 彼女が勉強できる事も多く、彼女たちは最深部へと向かったのだった。その途中でディラ イトがとある場所を触れた時に、トラップが発動してしまった。普通の人間ならば引っか かるような事も無く、またその遺跡の調査隊ですらその存在を見逃してしまうようなト ラップ。しかし、ディライトは特別なのだ。彼女は『遺跡の誘爆装置』のあだ名をほしい ままにする女性である。そんなわけで教授共々そのトラップに巻き込まれてしまった。  その時に彼女たちが閉じ込められたのは空間と空間の間に存在する隙間で、バグとか世 界の見落としなどと呼ばれる空間。その景色と今の景色がとてもよく似ていたのだった。 「じゃあここは――空間の狭間?」  そこにようやく思い至り、そして芋づる式にその時の教授の講義を思い出す。  バグと呼ばれる空間の狭間がある――。  ここはただの世界の見落とし――。   魔術的な力を持っているものもある――。  その場合は気をつけたほうがいい――。 「何を気をつけたほうがいいのでしたっけ……」  目を閉じて指をこめかみに当てて思い出す。  ――マモノガイルヨ。  ぞくっと悪寒が体中を走った。全身総毛立つとはこの事を言うのだろう。  先述したようにディライト自身に魔物と戦う力は無い。その為の努力をしなかった訳で はない。ゆかっちと共に教授の手ほどきで格闘術を教えてもらったりもしたのだが、いく ら練習しようとも成果が出なかったのだ。  だから彼女は自ら戦う事をやめ、ゆかっちと共に遺跡を回り、ゆかっちがいない時は冒 険者にくっついて調査をしていたのだ。  ここが魔術的な力を持った空間の狭間かどうかは分からない。しかし、魔物がいるかも しれないという状況にたった一人でいる事を考えてとても恐ろしくなった。 「ま、まずは装備品の確認をしなくちゃなのです」  現状は把握できた。後は自身の調子と手持ち品の確認である。  安全ヘルメットなどのいつも身に着けているものは全てある。それから茂みを切り開い て行く用の鉈。あとは作業服の中に入っていたそれほど刃渡りの長くないサバイバルナイ フが何本かと腰から下げていたいくつかのステンレス製のコップ。それから気付け用に 持っていたスピリタスと必需品のロープ。戦闘に使えるようなものはほとんどない。それ に鉈にしたってサバイバルナイフにしたってディライトは本来の用途以外に使った事は無 い。 「た、大変なのです……」  先程よりも危機感を募らせて、地面に並べた道具をまとめて立ち上がる。 「まずは、アキコさんたちと合流しなくっちゃ」  そう言ってディライトは周囲の探索を始めたのだった。  彼女の動向を見つめるものがいることには気付いていなかった。                ■ ■ ■ ■ ■  アキコさんは辺りを見回したあとで溜息をつき、床に座って胡坐を掻いた。それを見て 私も同様にする。ただ、床のマーブル模様がぐにょんぐにょんと動いているのでどうにも お尻が落ち着かない。  面倒臭いわね――。  アキコさんはそう呟いた。 「面倒臭いってどういうことですか?」  私は少々語気を強めて言うと、アキコさんはあぁ違うわよと言って言葉を続けた。 「私が面倒臭いって言ったのはディライトがいなくなった事じゃなくてこの場所の事を 言ったのよ」  アキコさんは床を叩いた。  何も無くってどこまでも続いているみたいなのにコンコンと音がした。落ちているよう な昇っているようなこの変な感覚も幻覚で、見えないだけでしっかり床があるのだ。 「ここって――空間の狭間のことですか?」  私がそう問うとアキコさんは頷いた。 「あら、知ってるみたいね」 「えぇ、一度ディライトに巻き込まれて遺跡のトラップに引っかかった時に似たようなと ころに閉じ込められた事があったので」  たしか王国連合管轄の遺跡を見学していた時だったと思う。連合の調査隊の調査もザル だなと思ったものだ。 「その時は確か教授が遺跡の入り口を転移石に記憶させていたので何とか戻れたんですけ ど、今回はどうするんですか?」  私の疑問にアキコさんは笑って答えた。 「あぁ、それ無理」  とても簡潔に答えたためにちょっと時間をおいて「はい?」なんて間抜けな返事をして しまった。 「簡単に言えばその空間とは微妙に種類が違うのよ」  アキコさんはごそごそと白衣を漁って何枚かの紙とペンを取り出して説明を始めた。 「まずこのAとBっていう空間があるとするでしょ?」  そう言って二枚の紙にそれぞれA、Bと書いて私に見せる。 「で、このAからBに行く為にはA、B間にあるこのCという空間を通らないといけない 訳。つまりAが出発点でCがその道でBが目的地ってことなんだけども……」  Cと書いた紙をAとBの間に置いて、アキコさんが私の顔をちらりと見たので、頷いて 話の先を促す。 「普通ならCを通るために馬車だの船だのあるいは徒歩だったりするでしょ。で、私たち は時空転移を使って天空城に行こうとしたって訳。時空転移って言うのはね、このA、B 間にあるCを取り除いてAとBをくっつけちゃう魔法なの。ここまで大丈夫?」 「一応……」  私はアキコさんと違って本職の魔法使いではないので少々混乱が残るが、なんとなくは 理解する事が出来た。 「ゆかっちたちが経験したのはねこのCの空間から脇道から逸れたような感じでこのDに 来たわけ」  Cの紙の隣にDの紙を置いていつ描いたのやら、アキコさんは私とディライトの似顔絵 が書かれた紙をDの上に置いた。結構巧い。 「でもね、その時と今回はちょっと話が違っていて。今回はA、Bをくっつけるはずが接 着不良でA、B間に隙間が出来ちゃってるのよ。で、私たちはそこにおっこちた訳。この Dみたいな場所じゃなくて何にも無い場所にね。だからDみたいに自分たちのいる場所が 固定されてないから転移石を使用するのは不可能なわけ」 「はぁ。なるほど……って、じゃあどうやってこのBに行くんですか!? 私たちこのまま どことも知れない場所で野垂れ死ぬんですか!?」  アキコさんの肩を握って前後に揺する。 「お、落ち着きなさいよ。こっからが私が面倒臭いって言った理由なんだけど、この空間 から抜け出すためには魔物退治しないといけないのよ」 「魔物……退治?」  私はアキコさんを揺する手をぴたりと止める。 「そ、この狭間の空間には狭間の獣ってのがいるんだけどさ、こいつ倒さないといけない のよ。どういう仕組みか分からないんだけど、こいつらを倒すと接着不良が治って目的地 に着けるから」 「なるほど。で、その狭間の獣って言うのはどうやって見つけるんですか?」  魔物退治とは……少々気の乗らない話であるがここから出られなくなっては仕方が無い。 「えっと、狭間の獣は転移魔法を使った術者。つまり私とゆかっちを襲うはずだからここ でこうやって待ってるんだけど……。来ないわね」  アキコさんは頭を掻いて笑った。つまり私たちを餌にして、狭間の獣が来るのを待って いたのだ。 「わ、私そんな事知りませんでしたよ!? 話している間に来ちゃったらどうするつもり だったんですか!?」  私がそう言うとアキコさんは悪い悪い、なんて笑っている。 「ゆかっちは鋭いから分かるかなぁ……と思って。それにディライトを探すよりもそっち の方が早いんだけど。ここまで来ないと逆に不安ね。私達の方じゃなくってディライトの ほうに行ったとか……。だったら危ないわねあの子の荷物は何故か全部こっちにあるし」 「いやぁ、さすがにそんな事は――」  ないでしょうと言おうと思った時だった。  ぎゃあと聞きなれた声がとても遠くから聞こえてきたのだった。                ■ ■ ■ ■ ■  それは長い長い時間この場所で過ごしていた。  何故ここにいるのか。  そんな事はそれ自身とうに忘れてしまっていた。  覚えている必要も無かったのだろう。  不必要な部分は全て切り捨てた。犠牲も沢山払った。  それだけそれは自らを昇華する事だけを考えていたのだ。  それの起源を知るものはもうほとんどいない。  時折、本人すら忘れてしまったこの場所にいる意味を――それの起源を知る奇特な友人 が訪ねてくる。  そういう時は決まって邪険に扱ってしまうが本当は嬉しくもあった。  ここに尋ねてくるものは大抵自分の力を使わずに他者の力を利用しようと考えるものが ほとんどだ。だから、軽口を叩けるようなものがきてくれるのは――嬉しい。  それは考える。  何も無い時は考え続ける。途切れる事の無い研鑽はこの思考し続けるところにあるのだ ろう。  いつか、自分も朽ち果てる日が来るのだろうか。  それは分からない。  世の中は分からない事だらけだ。  知らない事だらけだ。  そして、思考はいつもと同じ場所に辿り着く。  そして、それはいつものように呟く。  ――アァ、知ラナイ事ヲ知リタイ。  そう呟いて、誰かが自らの領域を侵したことに気付いた。                ■ ■ ■ ■ ■  ゴンッといい音を鳴らして鼻を押さえながらディライトはその場にしゃがみこんだ。 「痛いのです……」  天井がある。床がある。それならば壁があっておかしい事など何も無い。  ディライトはその事を失念しており、調子に乗ってずんずん進んでいた時に顔面から見 えない壁に突っ込んでしまったのだ。 「これは……」  鼻を押さえていた手を離して、ディライトは目の前の壁をぺたぺたと触る。  その壁は冷たくつるつるとしていた。  そこにあるのに見ることが出来ないという不思議な感覚。  ディライトはこの壁がどこまで続いているのか気になった。どこからどこまで存在する のだろうか。その時点でアキコやゆかっちと合流するという考えは頭の中からすっぽりと 抜け落ちてしまった。学者の悲しい性である。  右手を壁に当ててそれに沿って歩き続ける。まっすぐまっすぐ右に曲がってまたまっす ぐ。10分ほど歩いたところでようやく壁の端に辿り着いた。歩数にして512歩。  ディライトの歩幅が約60センチなので300メートルほど壁が続いていた事になる。 「うーん、何のためにこんな壁なんか……」  一応回りも確認してみようと壁にサバイバルナイフのうち一本を目印代わりに壁に突き 立てる。刺さらないという事も考えたが、まるでバターにナイフを差したかのようにさっ くりと突き刺さった。突き刺さった部分は壁の中に埋もれたため折れたナイフが空中に浮 かんでいるような変な光景ができた。 「えぇと……」  手をあたりに伸ばして壁がないかを確認してみる。  ナイフの刺さった壁の端から約三歩分の所にまた壁が。それを辿っていくとすぐに折れ 曲がり、ナイフの向かいにも壁がある事が分かった。 「なるほどなるほど」  ディライトはうぅんと唸って先ほどと同じように右手を壁に当ててまた歩き出した。  右に曲がってまっすぐまっすぐ左に曲がって左に曲がってまっすぐまっすぐもう一度左 に曲がる。すると先ほどのサバイバルナイフが目に入った。なるほどこれは―― 「――迷宮なのですね」  まがりくねった通路と行き止まり。こんなものがあるのは迷宮ぐらいであろう。それさ え分かれば後は簡単だ。壁に手を当てて、それに沿って歩き続ければよい。そうすればい つかこの迷宮から抜け出す事が出来る。それが入り口側なのか出口側なのかは分からない けれど。  ディライトは右手を壁に当てたまま左手は何があってもいいように鉈に手をかける。 「……」  特に異常は無く、ゆっくりと歩を進める。壁はまるで濡れているかのようで、当ててい る手がつるつると滑っていく。大理石のようにひんやりと冷たく心地よい感触を楽しみな がらディライトは歩き続ける。 「それにしても、こんな空間の狭間になんで……」  歩きながら、その疑問にぶち当たった。  そもそも何故自分はこれを迷宮だと思ったのだろうか。迷宮の定義は諸説様々あるけれ ど私自身は迷宮とは迷路が建物の中に入っている状態のものだと思っている。つまり私は 無意識のうちにここを建物の内部だと認識していたのだろう。  ――違う。  そんな訳は無い。こんな天井も床も壁も見えないここを建物だなんて認識するはずが無 いに決まっている。なら一体どういうことなのだろうか。 「むぅ……」  唸って、その考えをはしに追いやった。  ディライトは自分が延々とまっすぐ歩いている事に気付いたからだ。 「もしかしてこれは」  一応、今自分が手を当てている壁にサバイバルナイフを突き立てる。そして、その後で あたりを探ってみる。ディライトの予想通り壁が無い。  うだうだと考えている間に迷宮脱出は済んでいたのだ。 「うーん、迷宮脱出は完了なのです。でも脱出したからといってアキコさん達と合流でき るわけじゃないんですよねぇ」  溜息を吐いてサバイバルナイフを壁から引き抜く。ずぽんと間抜けな音がした。 「えぇと……」  ディライトは目を凝らして壁の無い方を見つめる。  何も無い。  何も無い。  何も―― 「あ」  先ほどからずっと見ていた気持ち悪くなるほどぐねぐねと動くマーブル模様。そこに黒 い点を見つけた。 「ゆかっち達なのですかね?」  眉間にしわを寄せてみるがよく見えない。 「とりあえず行ってみるのです」  一歩踏み出す。  ギィ……。  背後から奇怪な音が聞こえた。  腹に底に響く重低音、ディライトがそれを魔物の唸り声と気づくまでにそう時間は掛か らなかった。 「ぎゃあ!」  気付いてからの行動は早かった。ひとまずその魔物から距離をとるために後ろも振り向 かず走り始めた。目指すはあの黒い一点、おそらくアキコとゆかっちがいる場所。  走る走る。  走りながら後ろを確認する。  肩越しに見えたその魔物は異形だった。生物特有の粗さというのが無く、どちらかとい えば魔法生物のそれに近い。お盆に三本の足が生えたような不細工な恰好、そしてお盆の 上からはストローのようなものが伸びている。おそらくあれが口代わりなのだろう。どの ように使うのか興味があるものの、細かに観察している状況ではない。ディライトの何倍 かはあろう大きな体で、どすんどすんと鈍重そうな音を立てながら走っている割りに、か ろうじてディライトの方が足が速いぐらいで、中々その魔物を引き離す事は出来ない。  後ろを向いたままでは走りづらい事にようやく気付き、ディライトはまた前を向いて走 り始める。どすんどすんという音がだんだんと小さくなってゆくのが分かった。  走りながら前をよく見てみると、先ほどは米粒のように小さかった黒い点がだんだんと 大きくなってくる。あちらもこっちに気付き、走ってきているようだった。 「ハッ、ハッ……」  山登りや足場の悪い森などで走る事には慣れているつもりだったが、段々とディライト の息が上がってくる。先ほど引き離したはずの魔物の足音がまた近付いてくるのが分かっ た。  後ろを向いては走る速度が落ちる。  先ほどならいざ知らず、今振り向けば追いつかれるのは必至。  しかし、どすんどすんと背後に迫ってくる音の恐怖に負け、ディライトは振り向いてし まった。  目に入ったのは二本の足で直立し、迫ってくる魔物だった。それは残り一本の足を高く 掲げて折り曲げ、ディライトに向かって思い切り突き出した。  スプーン状の爪が物凄い速さで迫ってくる。  ディライトは前を向きなおし、残る力を振り絞って、それから逃れようとする。  前へ、前へと。 「ディライト! 前に転がって!!」  不意に聞こえた声。聞き慣れた声。  言われるままにディライトは右手を地面につけて前回りの様に地面を転がった。 『――隔てろ』  そして聞いた事の無い言語が耳に入る。  瞬間、バチンと電気が弾ける様な音がした。恐る恐る後ろを振り向いて確認してみると、 見えない壁に阻まれるかのように魔物の足が空中でぴたりと止まっていた。  前を見るとすぐ近くにディライトとゆかっちがおり、そこに向けて走った。 「こ、怖かったのです!」  ディライトが走った勢いのままゆかっちに抱きついてそう漏らすと、ゆかっちは「はい はい、偉かったね」と言ってヘルメットの上からディライトの頭を撫でた。 「あれは一体何なのですか。は、早くここから抜け出すのです」  ディライトは魔物を指差す。  アキコとゆかっちは微妙な顔をお互いを見合い、アキコがその質問に答えた。 「あれは狭間の獣って言うんだけど……。詳しい話は後にして、あれ倒さないとここから 抜け出せないのよ」  アキコがそう言うと、ディライトは絶望した顔になった。 「あんなでっかいの倒せるわけ無いじゃないですか。勿論他に方法はあるのですよね?」  希望を求めるようにゆかっちを見るが、ゆかっちは気まずそうに顔を逸らした。 「ぜ、絶望したのです!」 「ほらほら、そんなアホな事言ってる暇は無いわよ。そろそろ魔法の効果切れるからね」  空間の獣の方を見てアキコは詠唱を始める。ゆかっちは手甲『カグツチ』を嵌めて軽く 準備運動を始め、ディライトを見て言った。 「ディライトは危ないから後ろに下がっていてください」  頷いて、ディライトは後ろに下がった。  少し後ろの方から、アキコとゆかっちが肩を並べるのを見て、すこしアキコがうらやま しかった。この探索が終わったらもう一度、しっかりと戦いの訓練をしようと思った。  その時、パリン、とガラスが割れるような音がして、見えない壁が消え、狭間の獣は自 由に身体を動かし始める。 「ギィ……、ギイイィィィィッ!!」  それは雄叫びを上げて行動を再開した。 『――光よ貫け』  アキコはまるで計ったかのように、自由になった狭間の獣に向けて雷の槍を放つ。  掌から放たれた閃光は狭間の獣に向かい、当たる瞬間――消えた。  それを見てゆかっちはすぐさま狭間の獣と間合いを詰め接近戦に持ち込む。こちらに向 かっている間に打ち合わせを済ませておいたのだろうとディライトは思い、ますます強く なりたいという気持ちが強くなる。 「チッ」  アキコは舌打ちをする。  狭間の獣の厄介な点は二つある。一つ目は非常に硬い甲殻による防御力と魔法無効化で あった。それは異常と言ってもいいほどの高度を持っており、通常の攻撃では歯が立たな い。そのため、狭間の獣と戦う際には属性攻撃によりその甲殻を剥がし、生身の部分に魔 法なり、攻撃なりを与える事が重要となる。  そして、二つ目。これが重要なのであるが、この狭間の獣という種族には一貫した弱点 属性というものが無い。なので、甲殻を剥がすためには基本三属性を使い分けなければな らない。運がよければ一発目で弱点を当てる事が出来るが、運が悪ければ三発目にしてよ うやく。という事もありえる。  狭間の獣は記憶を食事にする。  三つの属性を試す前に狭間の獣に襲われ、記憶を吸い取られる術者は多かった。  ゆかっちがいるものの、初撃の魔法で弱点を当てられない事は相当痛かった。  ――とりあえず、残りの二属性を試さなければ。  アキコはそう思って次の詠唱を始めた。                ■ ■ ■ ■ ■  アキコの魔法攻撃が不発に終わったのを確認してゆかっちは狭間の獣との間合いを詰め、 接近戦に持ち込む。ドスドスと音を立てている足の間をすり抜けて、ちょうど、お盆の下 に入り込む。  狭間の獣は、足元に虫がいるかのように慌てて足を動かすが、ゆかっちのいる中央付近 までは届かない。 「ていっ!」  ゆかっちは掛け声と共に拳を振り上げながら勢いよく跳んだ。  拳が狭間の獣に食い込むのが分かった。  そしてそのまま拳を思い切り振りぬくと、勢いを保ったまま狭間の獣は裏返しになった。 「全く、何であんな不自由な進化したんだろ」  ゆかっちはひっくり返った状態で足をじたばたさせる狭間の獣を見て呆れる。 『――氷よ貫け』  後ろからアキコが最終節を唱え終わるのが聞こえ、飛び退いて狭間の獣から距離をとる。  しかし、これもまた当たる直前に消えてしまった。  といっても、狭間の獣はすでにひっくり返ってじたばたしている状態である。何の心配 もいらないだろうとゆかっちが思った瞬間である。  だらんと足を伸ばし、そのスプーン状の爪を地面に突き刺して、狭間の獣は二本の足で ゆらりと起き上がった。 「うわお……」  その様子は圧巻だった。ゆかっちの背丈の五倍はあるかという高さ。前に見た巨人族も 目じゃないほどの大きさだった。そして、狭間の獣は残ったもう一本の足を折り曲げ、先 ほどディライトにやったように高速の突きをゆかっちに放つ。 「くぅっ」  手甲を使ってガードするが、衝撃は凄まじい。しっかりと踏ん張らなければ今にも吹き 飛ばされそうだった。  狭間の獣は絶えること無く突きを繰り返す。  ゆかっちは耐えてはいるものの、少しずつガードが甘くなってゆく。  それを見越してか、狭間の獣はここぞとばかりに大きく振りかぶり、先ほどの数倍もの 速さでゆかっちを突いた。 「いい加減に――」  ゆかっちは少々大振りなったのを見逃さず、その速度を見切り、半身にして迫る足を紙 一重で避け、足が伸びきった瞬間に両腕で抱え込むように足を掴む。カグツチに火が宿り、 「――しなさーいっ!!」  狭間の獣を投げ飛ばした。 「黙って受けてれば調子に乗って!」  またもやひっくり返った狭間の獣は学習能力が無いようで、先ほどと同様に足をばたば たと動かしている。両方の手甲から炎が発し、幽鬼のようにゆかっちはゆらりと動く。 『――炎よ貫け』  ちょうどそこに追い討ちをかけるかのようにアキコの放った炎の矢が今度は消滅するこ となく、狭間の獣に炸裂した。やはり、この狭間の獣の弱点は火であるようだった。 「ギイィィィィッ!!」  炎の矢が当たった部分の甲殻がぼろぼろと剥がれ落ち、中身が露出する。  人の筋繊維のようなグロテスクな中身。  ゆかっちは、カグツチを炎を一段と強くさせ、狭間の獣に迫りよる。  アキコは詠唱を急ぐものの、他の二属性と違って火属性は少々苦手なため、次弾までに 少々時間が掛かる。甲殻がはがれてからの狭間の獣の攻撃は凄まじい。それまでにゆかっ ちになんとか頑張ってもらわねば――。  そう思った時、狭間の獣に向かって何かが投げ込まれる。透明な液体の入った四角い瓶。  勢いよく投げられたそれは、狭間の獣にぶつかって割れた。 「ゆかっち、早く殴るのです!!」  投げた人物はディライト。ゆかっちが振り向くと先ほど後ろに下がったはずなのに、何 故か今はアキコよりも前に出ていた。 「何してるのですか、早く!」  ディライトに急かされ、ゆかっちは狭間の獣の懐に飛び込む。  先ほどと同じように立とうとしていたその瞬間を狙って、ゆかっちは炎に包まれたカグ ツチで中心を思い切り殴りつけた。  炎はその透明な液体を伝わり、狭間の獣の広範囲を燃やす。 「ギ、ギイィィィ……」と狭間の獣が呻き、のた打ち回る。 『――炎よ昇れ』  そこへ駄目押しとばかりにアキコは詠唱の最終節を唱え終わった。  すると、一つの小さな炎が、狭間の獣を囲むように大きな円を地面に描き、火柱が立つ。 「ギイィィィィィァァァッ!!」  断末魔をあげて狭間の獣はその火柱の中で朽ちていった。                ■ ■ ■ ■ ■ 「ディライト、なに考えてるんですか」  狭間の獣が死亡したのを確認した後で戻ってきたゆかっちがまず最初にした事は、ディ ライトを睨みつけたことだった。 「あ、あの……。その……」  怒っているゆかっちが本当に怖いらしく、ディライトは怯えて上手く話せていない。  手を下の方でもじもじと動かしてなんとかはぐらかそうとしている。 「なに考えてるんですか」  ゆかっちの顔は怒っていない。むしろ満面の笑みだ。だからこそ逆に怖い。 「私も……かったのです」  ディライトがぼそぼそと呟く。 「え?」 「わ、私もゆかっちと一緒に戦いたかったのです!」  ディライトは大真面目な顔でゆかっちにそう言った。  言われた当人は「――え」なんて言って赤面している。  アキコはそれを見てにやにやしているだけだ。 「私も、ゆかっちと一緒に、戦いたいのです。後ろで隠れているだけで傷つくゆかっちを 見るのは……もうやなのです」 「そんな事言ってもだめです! 足手まといになるんだから……」  ゆかっちはディライトから顔を背ける。 「でも……。この調査が終わって帰ったら、もう一度一緒に訓練しようね」 「〜〜〜〜ッ!」  ディライトはそのままゆかっちに抱きつく。 「大好きなのです!」 「ちょっと、ディライト離れ……」  その会話にアキコが割り込む。 「なんかね、邪魔するのは申し訳ないんだけどさ。あれ」  二人はアキコが指差した方を見る。そこにいたのは、狭間の獣。  それも一匹ではない。  最初に確認できたのは五匹。しかし、それは徐々に数を増やしていく。 「クソッ、通りでここから出られないと思った」  悪態を吐いてアキコは地面を蹴る。 「逃げるわよ!」  言うが早いはアキコは荷物を持って、走り始める。  ディライトとゆかっちも、それに続く。 「げ……」  しかし、逃げだした方向にも狭間の獣がいた。  四方すべてにずらっとそれは並んでおり、そうしてようやくアキコたちは囲まれている 事に気付いた。                                                   5.古代昇降装置  焚き火の爆ぜる音がしている。  揺らめく火の向こうにハロウドの顔がぼうっと浮かんでおり、彼はハヤテに乗ってから 先ほど降りるまでずっと話し続けていた。  というよりも未だに話し続けている。 「天空城の記述は古くは創世神話の対本である裏創世神話に登場する。しかし、創世神話 と違い裏創世神話には完本がほとんど存在しないため、何故天空城が作られ、内部はどの ようになっているのかは未だに定かではないのだよ。それゆえ、天空城は存在するのかし ないのか。長い間学会でも意見が交わされた。しかし、一つとして存在するという決定的 な証拠は出なかったし、また、裏創世神話、アグナストリア等の古代書の要所要所に出て くる記述を無視することが出来る学者もいなかった。そして極めつけは蒼の塔の存在だろ う。あれは天空城を模して造られたものだという。あれほど巨大な証拠が残っているし、 それにしたって六千年以上も前の遺跡なのだから、何百年経っても天空城は世界中の学者 を魅了してやまなかったんだろうね。所謂ロマンというやつだ。雪が一面に積もった時は まず自分の足跡をつけたいだろう。それと一緒だ。ただ、私は魔物生態学者。興味本位で 遺跡を渡り歩く事もあるけれど、他の学者と同様に天空城に興味を持っているかと言えば 答えはNOだ。たしかに古い遺跡にロマンを感じるということはあるけれど調べてみたいと は思わない。なぜなら新しい遺跡を発掘、調査するぐらいならその時間をもっと魔物の観 察の時間に当てた方が有意義と考えるからだ。自分で言うのもなんだが、わたしは、その、 魔物狂いだからね。さて、それでは何故私が天空城に行けるかもしれない。と思い、また、 天空城に行こうと思ったのか、というところに疑問がいくと思う。それは簡単。そこには 『空に落ちる命』が関係しているからだ。以前私がアーキィや皇七郎君と『空に落ちる命』 の幼体を調べた時に思ったのだよ。『空に落ちる命』の死体はその幼体を見るまで見たこ とが無かった。ならば成体の死体はどこに消える? と。そこまで行けば仮説が出来るま での道のりは簡単だった。きっと空に落ちる命は昇降装置なのでは――と」  あまりの話の長さにハイドはいい加減うんざりしていた。だというのに彼女――ティル は飽きた様子もなくハロウドの話を聞いてはうんうんとずっと頭を振っていた。  よく飽きねぇもんだ――と思ってハイドは立ち上がった。 「だから――と、ハイド君どうしたね」 「うんこ行ってきます」  言って、そのまま茂みへと分け入った。チラッと見たティルが頬を赤らめていたのを考 えて、少し気恥ずかしくなってしまった。そうだ。女もいたんだった。  気恥ずかしさを抱えたまま川を探すがどこにも見つからず、結局そのままする事にした。  魚の栄養になるのも木の栄養になるのもたいした差はないだろう。  二日前から体の中に入っていたエネルギーの残りかすをひり出して、そこらの葉っぱを 適当にちぎり取る。ひりひりと痛むが、まぁズボンが汚れてしまうよりはよっぽどよい。  そんな時、ふと女の冒険者はどうしているのかな。と思いついて、少しの間思案した後 自分は女じゃなくてよかったなと思う。荷物が増えただろうし、何より恥ずかしさは男の 比ではないだろう。 「ふぅ……」  すっきりしてズボンを上げる。最後に自分を動かしてくれていたエネルギーの成れの果 てに感謝をしてハイドはその場を立ち去った。  茂みをかき分けながらハロウドの元に戻ろうとする途中、マントの下で何かがごそごそ と動いた。   マントを捲ると、リセッタが飛び出した。 「んだよ。勝手に出てくんなよ」 「いいの 私は ハイドに 使役 されてる 訳じゃ ない もん」 「そりゃそうだけどよ」  どこか諦めた様に言って、いい機会だとその場に腰を下ろした。 「どうしたの?」 「エネルギー補給」  マントの奥から紙巻タバコを取り出して、紫煙を胸いっぱいに吸い込んで吐き出す。 「ハイド 臭い」  リセッタは鼻をつまんでハイドに非難の視線を浴びせかける。煙草ぐらいゆっくり吸わ せてくれと思いつつ彼は口元から煙草を離した。 「ほんで、何か用があって出てきたんだろ。どうした」  大体予想はついていたが、形式として一応聞いてみる。 「あの子 変じゃ ない?」  予想通りの答えを発したあと、リセッタは木々の奥にいるであろうハロウド達の方に目 をやる。ハイドもつられて目をやった。おそらく向こうではハロウドの演説がクライマッ クスに達している頃だろう。邪魔するのもなんだから少し意見の交換をしてみるのもいい と思う。 「それは俺も考えてた。ありゃなんだ。人らしさがどこにもねぇ」 「……。 分かって たんだ」 「わかんねぇのは相当の馬鹿だけだ。ありゃハロウドさんも気付いてるな」 「分かってるなら 言いたい」 「何が」  いつになく真剣な顔でリセッタはハイドの顔を見据え、 「あれに関わらない方がいい」  はっきりとそう言った。ハイドは何も言わずリセッタを見つめ返す。 「……」 「……」 「あれは 本当に駄目 関わっちゃ 駄目」  数秒の沈黙の後、もう一度リセッタはそう言った。  それでもハイドは何も言わない。ただリセッタを見つめ続けている。  そしてリセッタも。  幾許かの沈黙の後、ハイドはようやく口を開いた。 「言いたいことは分かった。お前がそこまで止めるんだ。めんどくせぇことに違いねぇ。 俺は面倒なことは大嫌いだ」 「じゃあ……」 「でもそれ以上に――面白そうだ」  ハイドのその答えを聞いてリセッタは「はぁ!?」と大声を出してしまった。 「私の話聞いてた? 関わっちゃ駄目って言ったんだよ?」 「あぁ、でもそれ以上に面白そうなんだよ。暇だ暇だとつぶやいて、色々な所を無意味に 歩き回るよりも全然有意義じゃねぇか。俺は着いていくぞ」  先ほどよりも強い口調でリセッタにそう言う。その目には確然たる意思が宿っていた。 それでも彼女は不満そうな顔をしている。 「別に俺はお前を使役しているわけじゃない。ついて来なくてもいいぜ」 「もう! 私 自分の 結晶 持ち運べないの 知ってて 言ってるでしょ!」  リセッタはそう抗議するが、ハイドは意地の悪い顔まま笑っているだけだ。 「ウルトラ馬鹿 ハイパー馬鹿 帝王馬鹿!」 「何言ってやがる。俺が馬鹿なのは今に始まったことじゃねぇだろうが。そんな馬鹿でも いいからついて行くって決めたのはリセッタ――お前だろ?」  頬を膨らしたままリセッタは――頷いた。 「本当に 行くの?」 「あぁ、面白そうだからな。で、お前はどうすんだ?」  そう聞かれ、少しの逡巡のあとリセッタは二度目の頷きをハイドに返した。 「よし、決まりだ。大丈夫、お前は死なせねぇよ。ま、俺が死んだらハロウドさんにでも 持ってってもらえ。あの人は殺してもしなねぇだろうからな」 「やだ やだよ ハイド ひとつだけ 約束」  小さなリセッタが小さな小指をハイドに向けて突き出す。 「絶対に 死なないって 約束」  先ほどと同じようにリセッタはハイドを見つめている。違うのは瞳。  彼女の赤い瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。 「……ったく。そんな顔したら断れねぇだろうが。あぁ、約束だ。死なねぇよ」  そう言ってその大きな小指を、リセッタの小さな小指に重ねる。リセッタの顔には笑み が浮かんだ。 「さて、話もまとまったことだし戻るかね」 「うん 戻ろう」  指に挟んでいたタバコは全て灰になっていた。                ■ ■ ■ ■ ■ 「すまんリセッタ、俺――死ぬわ」  ハイドは震えながらそう言った。 「情けないこと 言わないの」  リセッタはハイドの肩に乗ったままあきれたように返した。 「そうだぞハイド君」  リセッタとハイドの会話にハロウドも混ざる。四方を濃霧に囲まれているためハロウド の姿は確認できないが、声の場所からすぐ近くにいることが分かる。 「皇七郎の魔法が失敗した時に極北にこの格好で投げ出されたことがあるが中々人間生き れるものだなぁと思ったよ」 「何言ってんですか」  ハロウドの言葉を聞いてハイドは自分のマントをめくると内側にハロウドの首が飛び出 していた。傍から見ればハロウドの生首がマントから生えているようである。 「ハロウドさん俺のマントの中にいるだけじゃないですか」 「はっはっは! いいじゃないか。使えるものは使うべきだからね」 「はいはいそうですね……。よっと」  ハイドは掛け声をかけて皮製の綱を動かす。すると、彼の座っていた場所がぐらりと傾 き、一瞬にして霧が晴れた。雲から抜け出したのだ。  眼下に広がるのは田園風景。頭上に浮かぶのは大きな太陽。  そしてハイドの持っている綱はクラウドシェイカーの口先へとつながっていた。 「ハロウドさん、場所の確認お願いします」  ハイドがそう言うとハロウドはよっこらせといった感じでマントから這い出し、どこか ら取り出したのか、マーカーでカラフルに彩られた地図を取り出して下の地形と地図を交 互に見比べる。 「えぇと、あそこにあるのがリアス山脈で、あっちに海が見えるから……今ここか」  一人でつぶやきながらハロウドは一つの場所を指差した。そこは緑色のマーカーで線が 引かれたところのすぐ近くだった。 「うん、順調だね」  ハロウドはハイドに笑いかける。 「そりゃ良かったです。にしたって空に落ちる命の回遊ルートを良く知ってましたね」 「数年前に間近で見たことがあってね。それからちょっと調べることにしてみたんだよ。 で、調べてみれば五年に一度の周期で同じ場所で確認されることが分かって、ある程度の 法則持って空を飛んでいることが判明したのさ。ただその法則は個体ごとに違って……」 「あ、ところで。あの子はどうしてます」  長くなることを悟り、ハイドは強引に話を変える。 「む、ティル君か。あぁ、元気だったよ。マントの中のもので遊んでた」 「そうすか……」  少しだけ、いやな予感がしたが気にしないことにした。 「さて、後ちょっとで空に落ちる命の回遊ルートだ。まったく風が冷たいね。寒いから私 は戻ることに……」  しようか――。ハロウドがそう言おうとした時、ハイドにコートを捕まれた。 「な、なんだい。ハイド君、もしかして手綱操るの代われって言うんじゃ……」 「しっ。ハロウドさん。あれ――なんだと思う?」  ハイドはクラウドシェイカーの真下を指差す。そこには数匹の飛竜が隊形を組んで飛ん でいた。 「騎竜兵……だね」 「ですよね。どうしましょうか」 「よくよく考えると我々は密入国の形になんだよね」  そう言って大声で笑う。 「笑ってる場合じゃないですよ。見つかったら天空城どころじゃないですよ?」 「そうは言うがな、今我々が出来る事はそう無いだろう。急に速度を速めたって怪しまれ るだけさ。クラウドシェイカーが飛ぶ高度としては少し高いかも知れないが、あれはこち らに気付いてないだろう? 空に落ちる命がつかまるまでばれなければいい話さ」  ハロウドの言う通りではあるが、ハイドはなにか焦燥感にも似たものにとらわれていた。 そんなハイドを見てハロウドはマントに潜り込みながらそんなに心配ならまた雲に隠れれ ばいいと提案した。なるほどと納得し、ハイドは手綱を操り、雲の中に隠れようとした。  ――が、 「あ」  ハイドはそう言って、冷や汗が体中から流れ出ているのがわかった。  雲に入ろうとクラウドシェイカーを横に動かした時、影が飛竜のひとつに被ってしまっ たのだ。影の中、兵がこちらを見上げていた。  次の瞬間、その飛竜は翼を一打ちして急上昇する。  おそらく、確認のためだろう。  ハイドは舌打ちをした後、ハロウドがマントに入りきったのを確認してバンダナで口元 を覆った。後ろで縛り終わると同時に飛竜がクラウドシェイカーと同じ高度に至った。  騎竜兵はハイドを睨みつけ、 「貴公はわが国の領空を侵犯している。即刻退き帰し、正規の手順を踏んで入国していた だこう!」  そう怒鳴りつけた。  ハイドも言い返す。 「こちらに敵意はない! ほんの少しでいい。見逃してはくれないだろうか!」 「何を言うか、敵意がないと言う証拠がどこにある! それに、見逃したとすれば以降わ が国の領空は招かれざるものが溢れるだろう。それだけは認められぬ!」 「……」 「……」  騎竜兵とハイドは睨み合いを続ける。十秒ほどの沈黙を経て、騎竜兵は口を開く。 「最後にもう一度尋ねよう。貴公は退き帰すか否か。もしも退き帰さないのならばこちら にも考えがある」  そう言って、鞍からランスを取り外した。 「さぁ、答えろ。貴公は……どうする」 「……ちっ!」  ハイドは何も答えないまま手綱を操り、クラウドシェイカーの速度を速める。ゆっくり と飛んでいた先ほどまでと違い、クラウドシェイカー(雲掻き)の名前の由来となった雲 を引き始める。 「どうしたね」  マントの中からハロウドの声が聞こえる。 「ばれました。速度を上げて逃げてますが……」  肩越しに後ろを覗く。追いかけてくるのは先ほどハイドに勧告をした騎竜兵だけである。 「野生のクラウドシェイカーと訓練された飛竜とじゃ持続的な速さが違います。いずれ追 いつかれますよ」 「あと早くて十分、逃げられるかな」  手綱をぎゅっと握りなおした後、ハイドは――逃げれます。そう答えた。  それに安心したのかハロウドは何も言わなかった。  マントからゴーグルを取り出し、装着する。 「リセッタ。後方確認」 「距離 千七百 追いつかれるまで 約六分」 「四分以上かせがねぇといけないのか」  ハイド自身は振り向かず、舌打ちをした。あちらの主装備がランスである以上それほど の脅威であるとは思えないが、追いつかれることだけは避けなくてはならない。 「よし、気流を掴んだ」  クラウドシェイカーは主に風の流れに乗って飛行する魔物である。気流を掴むことでま た速度を上げることが出来る。  懐から時計を取り出して時間を計る。一分、二分、三分と時間が過ぎていく。  追いつかれなければ大丈夫。そう思っていた。  しかし―― 「距離 四百 ハイド 後方から 火球」  すっかり失念していた。魔法を使うこともあり得るのだ。  手綱を操りクラウドシェイカーをぐるりと横回転させ、所謂バレルロールで火球を避け た。数秒前までいたところを三つの火球が通り過ぎていく。  安心したのも束の間、火球はハイド達の前方で停止したかと思うと、Uターンをしてこ ちらに戻ってきた。 「追尾式か!」  そう言って手綱を引いて急上昇をかける。  風に乗るだけのクラウドシェイカーにこの動きは酷だがやってもらう以外に避ける方法 などは無い。ぐんぐんとほぼ垂直に上がっていくクラウドシェイカーとそれを追ってくる 火球。問題の騎竜兵は―― 「調子に乗りやがって」  悪態をつきながら舌打ちをした。ハイドたちを追ってくることも無く悠然と先ほどの高 度のまま飛んでいた。もうこれで終わったと思っているんだろう。 「そうはいくかってんだ。リセッタ!」 「はい はい」  リセッタはハイドの肩から降りて両手を前に突き出す。ハイド自身も準備をする。 『貫け氷柱――アイシクルエッジ』  そう呟くと両手の前で魔法陣が展開され、魔法陣の中心からリセッタの倍以上ある大き さの氷柱が十二飛び出し、ふぃんふぃんと音を立てながらリセッタの周りで浮遊する。 「ワン、ツー、スリー、フォー。アサルト。ファイブ、シックス、セブン、エイト。アサ ルト。ナイン、テン、イレブン、トゥエルブ。アサルト」  自分の周りで浮遊している氷柱一本一本に指示を与え「ゴー」と指示を出すと、今まで ふわふわとしていた氷柱が火球に向かって勢いよく飛んでいった。  四本ずつのグループに別れ氷柱が飛んでいく。自分の方に向かってくる氷柱を察知した のか、先ほどまでこちらに一直線に向かってきた火球は方向を変え氷柱を避けようとする のだが、 「トレース」  リセッタがそう唱えると氷柱も火球に向かって飛んでいくようになる。  スピードはリセッタの氷柱の方が速いようで、十数秒後に氷柱が二つずつ火球に着弾し 爆発した。 「接触弾だったのか」 「十二も 出す 必要 なかった つまんない」  リセッタは頬を膨らませながらため息を吐いて、残った六つの氷柱を消した。 「つまらなかったって……」  苦笑しながらハイドは下のほうを覗き見る。  騎竜兵は未だに悠々とハイドの真下を飛んでいる。魔法が不発に終わったことにすら気 付いていない。  気付いて――いない?  そんなはずは無い。魔法をかじった程度の俺だって知っている。遠隔魔法は命中したに せよ落とされたにせよ消えた瞬間にそれと分かる。じゃあなんであいつはあそこにいるん だろうか。 「……ふぅ」  その時に気付いた。  相手は騎竜兵――空中戦のプロだ。  舐めていたのは奴の方じゃない。俺のほうだ。 「……私としてもね。心苦しいのだよ。空中戦を知らない人間を相手にするのはね」  後ろから声がする。  あの真下にいる騎竜兵はフェイクだ。     ・・・・・・・・・・・・・・・   ――奴はすでに俺の後ろに回っていたッ! 「さようならだ。名も知らぬテロリストくん」  騎竜兵がランスを構える。  飛竜が翼を動かす。  すべてがゆっくり動いていくように見えた。  そしてランスがハイドの左胸を貫く。  ハイドは吐血し手綱を握ったままびくんびくんと痙攣した。 「仕方ないだろう? 君は犯罪者なのだから」  騎竜兵の男はは誰に言うでもなくそう呟いてランスを引き抜いた。  血が糸を引いて風穴とランスの間に血の橋が架かる。  それがぷつりと切れたとき、まるでその糸で繋がっていたかのようにうつ伏せに倒れた。  もう、動かない。 「君の竜繰りはとても巧かった。生まれる場所が違えば私の部下になっていたのかもしれ ないのにね。あぁ、残念だ」  操るもののいなくなったクラウドシェイカーが惰性でそのまま真っ直ぐ飛んでいき、雲 の中に入っていくのを見送ったあとで男はその場を離れた。  正確には離れようとした。  しかしそれは叶わなかった。 「十五秒ぴったりだ」  どこかから声がする。 「な――」  そこでようやく自身の身体の異変に気付いた。  身体が―― 「金縛りってのはよォ、魔法じゃねーんだな。浅い眠りの時に意識が覚醒すると筋肉が動 いてくれないんだよ。肉体的なものにはレジストが効かねーからな」  動かない――!?  手綱を動かそうとしても動かない。だから、その場を離れることも出来ず、飛竜はそこ に滞空し続けているだけだ。 「俺の幻術は十五秒しかもたない。でも逃げるにゃそれで十分だし、たまに今みたいに金 縛りのおまけもつくぜ」  今殺したばかりの男――ハイドはそう言って笑った。 「ど、どこにいる」  男はそう叫ぶが声は四方から聞こえてき、ハイドの位置を特定することが出来ない。す でに雲の中に隠れているのだ。 「言ってもいいけど追ってこれねぇよ。その金縛りは十分以上続くからな。ま、効果範囲 から外れれば関係は無いけども、その頃には追いつけねぇ距離だろうさ」  今のは確実に前から聞こえてきた。  目の前にある雲の塊の中にやつはいるのだ。  そう思ってじっと目を凝らすが、見えない。 「じゃあ、さよならだ。俺のことは見なかったことにしておけよ」  そう言ったきり、声は聞こえなくなった。                ■ ■ ■ ■ ■ 「っひょー、危なかったぜ」  雲の中で口元のバンダナを外しながらハイドは独りごちる。  ハロウドが魔法の双眼鏡で確認すると前方五百メートルの所に先ほど追い詰められた騎 竜兵の背中があった。 「金縛りが解けたようだね。って十分も経っていないようだが……」 「ブラフに 決まってる ハイドに そんな 高度な技 使え ない」  リセッタが呆れた顔のままハロウドの質問に答える。  彼女の言うとおりハイドは十分以上も拘束していられる技は結界術だろうが幻術だろう が何も習得していない。長くて今使ったばかりの十五秒間持続する幻術だけだ。 「まぁ、あちらさんも効果範囲が切れたんだと思ったろう」 「それにしても折角入った雲から出た時には何を考えているのかと思ったよ」  ハロウドは前方から視線を外して苦笑したままハイドを見る。 「前方から声がすれば前見ちゃうのは当たり前でしょう。しかもその声の主が追ってる相 手ならなおさらですよ。人間一ヶ所に集中している時って視界に入ってても気付かないこ とが多いんですよ。念を入れて雲から出るときは高度下げましたけどね」  ハイドが自慢げに講釈するのを聞いて、ハロウドはまた苦笑して「たしかにそうだな」 と頷いた。その後で、右後方を眺めてハイドのマントから這い出す。 「そろそろ時間だね。ほら、出ておいで」  懐中時計を見ながらハロウドはマントからティルの手を引っ張り出した。  三人の体重でクラウドシェイカーが苦しそうにクケェと鳴いた。ハイドはそれを聞いて 頭を撫でてごめんなと呟く。  その時、ふっと大きな影がクラウドシェイカーごと覆った。それを見てハロウドは心底 嬉しそうな、子どものような顔をして話し始めた。 「どうだねティル君。これが空に落ちる命だ。私が前に見た個体よりも少々小さいが立派 な成体だね。この大きな翼で飛び上がり、尾羽でバランスを取りながら飛行するのだよ。 それからこの巨体の下についている小さな羽は方向の微調節に使われる羽だ。これで進行 方向を変えるんだ。しかしだね、前々から学者たちの間ではこの巨体をこの程度の羽だけ で浮かび上がらせることが出来ないと言われていて、何故この大きな身体がどうして浮く のかは今までまったく判明していなかったのだよ。現にこうして飛んでいるんだから単に 羽の力が強いんじゃないかという説と、それ以外の何かがあるんじゃないかという説の二 つが対立していてね。結果としては後者の説の方が正しかったのだよ。我々があの石を見 つけたからね。魔力を流すと浮力を生み出す石が空に落ちる命には組み込まれていたのだ よ」  延々と話し続けるハロウド。ティルはそれを聞きながら 「これに――乗るの?」  そう、クラウドシェイカーの横に寄り添うように飛ぶ巨体を指差した。全貌は雲に隠れ ていて見えない。 「そうさ。これしか我々がこれ以上空高く上がる方法はないからね。それにしてもなんて 事だ。私が生きている間に彼らの背に乗せてもらうことがあるとは!」 「あのー、ハロウドさんそれ以上喋ってるとおいていきますからね」  ハイドはティルを抱きかかえ、さっさと乗り移ってしまった。 「む、むぅ……。仕方がない」  ハロウドは話もそこそこにしぶしぶといった感じでその巨体に乗り移る。  全員が乗り移り終わったのと同時にその巨体はぐんと上昇し雲海から体を出す。  空に落ちる命は――彼らは自分が何をするべきなのか知っていたのだ。  離れてゆくクラウドシェイカーにハロウドは何かを放った。 「ここまでありがとう!」  ハロウドの投げた肉をクラウドシェイカーは見事にキャッチしクルルと嬉しそうに鳴い たあと、雲の中に去っていった。 「さて、行こうじゃないか。天空城に! ……多分」  最後に小さく呟いた一言をハイドは聞き逃さなかった。 「多分……?」 「多分」 「え、どういうこと」 「だって空に落ちる命が本当に天空城いくか知らないもん」  そう言ってハロウドはハイドから目を逸らした。 「もんじゃねーよ!」  そんなハイドの叫びも雲の海に消えてしまった。  そして三人ともが確信していた。この空に落ちる命は迷わず天空城に向かうことを。                                                6.つなぎ目  私たちの旅はここで終わりか――。ディライトはそう思ったあとで、まだ終わりじゃな い。そう思い直した。諦めなければ可能性は消えない。アキコもゆかっちもそう思ってい るのか体勢を整える。が、狭間の獣は襲ってくる様子はない。静かに三人を囲んでいるだ けだった。おかしいな――。とディライトが首を傾げると狭間の獣はにわかに騒ぎ出した。 ディライトは何か悪いことをしただろうかと慌てたが、すぐにそれが自分のせいではない ことに気付く。圧倒的な重圧感。ともすれば本当に押しつぶされかねないようなそれが、 この騒ぎの原因だった。それは威圧感を増しながらゆっくりと近付いてくる。自分でも気 絶しないのが不思議だった。 「――」  狭間の獣で出来た壁を割りながら――正確には狭間の獣が退いているだけだが――それ は現れた。光り輝く魔力で出来た身体。王冠を戴き、マントを羽織り、世界の狭間で生き る、人の身から事象に至った魔獣。あまりのとんでもなさにディライトは思わず口にして しまった。 「迷宮よりガレヴァントゥーナ……」  伝説級の生き物が今ディライトたちの前にいる。だというのにディライトは興味を惹か れなかった。その生き物は、ただただ恐ろしかった。 「汝等、何ヲ望ム」  威圧感を保ったままガレヴァントゥーナはそう問う。彼――もしくは彼女――は狭間の 世界に作った自らの迷宮において永遠に近い時間研鑽を積み続ける生き物である。ガレ ヴァントゥーナに出会ったものは代償と共に知恵を授かると言われている。何の因果か昇 降装置はそのガレヴァントゥーナのいる空間の狭間に繋がってしまったのだ。 「汝等、何ヲ望ム」  だから、ガレヴァントゥーナは三人に質問する。自らこの空間に来た者たちと同じよう に。そしてディライトは考える。望むもの。沢山ある。知らないことをたくさん知りたい。 誰も足を踏み入れない所に自分が一番に入りたい。でも、それは自分で手に入れるものだ。 誰かに貰うものではない。だから私は―― 「――欲しいものはないのです」  思ったことそのまま答える。  それに反応してガレヴァントゥーナはディライトを見る。一人に向けられる視線は、威 圧感を増す。しかし、ディライトはもう怖くなかった。一瞬、その魔獣の目に怒りでも脅 しでもない、彼女の慣れ親しんだ好奇心という色が浮かんだからだ。まるで知り合いの学 者たちが見せるようなそれを見ただけでディライトは安心してしまったのだ。 「望ムモノガ無イ――トナ」  ガレヴァントゥーナは鼻筋をぴくぴくさせながら問い返す。 「そうなのです。私は――私たちは何も望まないのです。いや、本当は望むものは沢山あ るのです。でもそれは他人に与えられるものではないのです。先人がやったどんな研究で あれ自分で検証することを忘れないこと。そして得られた答えに納得がいかないなら納得 がいくまで自分で検証し続けること。そうやって自分で見つけて掴んでこそ自分のものと なるのです。お下がりは――まっぴらなのです」  事象の存在からすればあまりにもちっぽけなディライトは、臆することなくガレヴァン トゥーナにそう言った。ゆかっちはおろおろとしているが、アキコはよく言ったといわん ばかりに、満足そうな顔をしていた。 「自ラ――手ニ入レルト言ウノカ」  ディライトは黙ったまま頷く。そして、まっすぐとガレヴァントゥーナを見据えてたま ま告げた。 「それが――学者の使命なのです」  ガレヴァントゥーナも目線を外すことなくディライトを見返す。そして―― 「フ、フフフ。ハハハハハハハハッ!」  笑った。  心底愉快そうにガレヴァントゥーナは笑った。 「ソウダ、ソウダッタ。我ハ――」  ――学者だったのだ。  そう言ったと同時にガレヴァントゥーナは魔獣の姿から急激に変化を始める。まず、三 メートルはあろうかという巨体が縮み、ゆかっちと同じぐらいか、それ以下になった。そ して獣の顔は人間の顔に戻っていき、四足歩行から二足歩行に変わった。そしてそこにい たのは、王冠と戴き、マントを羽織った十二、三歳の少年だった。  迷宮よりガレヴァントゥーナ。  知らないことを知り続ける彼は、遠い昔に捨てた自分を今再び――知ったのだ。 「礼を言う。我は今一番知らなければいけないことを知った」  そう言ってガレヴァントゥーナは笑う。その表情は魔獣の頃からは想像も出来ないよう な可愛らしいものだった。それにアキコが悶えているのも知らず、ガレヴァントゥーナは 先ほどまでの魔獣の声とは違う、外見相応の声で話を続ける。 「我はこの空間の狭間を作った。真理を追究するために。そして、この空間を開放し、空 間移動の魔法の中継地とした。ただ、力のないものが使うのは許せない。だから我の作り 出したこの獣をここに放ったのだ」  ガレヴァントゥーナは子どもを慈しむような手つきで狭間の獣を撫でる。センスが悪い ――とアキコは思ったがそれは口に出さないでおいた。誰だって自分の子どもは可愛いも のだ。たとえどんな奇形だったとしても。 「そうか、汝等は天空城に向かう途中だったのか」  そんなことを考えているうちにガレヴァントゥーナは狭間の獣から聞いたのかなんなの か。三人の目的を知っていた。 「ふむ、我の子も倒していることだしよかろう。――とその前に」  言って、先ほどディライトたちが倒した狭間の獣に手のひらを向ける。 『――戻れ』  ディライトもゆかっちも、そしてアキコですら何を言ったかが分からなかった。戸惑っ ているうちに倒したはずの狭間の獣に変化が現れる。アキコの火柱が燃やし尽くし、黒焦 げになっていたは狭間の獣は時間が巻き戻っていくかのように元の姿に戻ってゆき、数秒 後には何事も無かったかのように動き出した。それを見届け、ガレヴァントゥーナは安心 した顔をする。 「すまぬな。さて、天空城だったか」  腕を上げて指を一本出すとその先に光が宿る。それを回すと光は軌跡を描き円を作る。 その中心をガレヴァントゥーナが蹴ると、ばこんと音がして外れた。  ――空間に穴が開いた。  ディライトは驚く。ガレヴァントゥーナの力とはこれほどのものだったのかと。 「それが本来の出口だ。そこから出て行くといい」  その穴は真っ暗でこちらから向こうは見ることが出来ない。本当に向こうが天空城なの だろうか。しかし、疑っても仕方が無かった。ディライトたちがここから抜けるにはガレ ヴァントゥーナの開いた穴を通るしか選択肢はないのだから。  ディライトたちは互いに目を合わせ頷き、穴に向かう。今まさに穴をくぐろうとした時 ガレントヴァレーナが呼び止めた。 「アキコ。汝は酷い裏切りを受けるだろう。ディライト。汝は近々強い力を得るだろう。 これは礼代わりの予言だ。すまぬが、魔の者の未来だけは見れなかったがな」 「ありがとう」「ありがとうなのです」  アキコとディライトは振り向いて礼を言い、穴をくぐった。最後にゆかっちが穴をくぐ ろうとした瞬間、 『振り向かず聞くが良い』  ガレヴァントゥーナは魔物にしか聞こえない高さの声でゆかっちに話しかける。 『エルダーデーモンの血脈よ。汝は――』                ■ ■ ■ ■ ■  トゥルシィ=アーキィが紅茶を一口含んで窓の外を眺めると、星明りの下で雲がゆらゆ らと波打っていた。なるほど、雲海というのは言い得て妙だと一人で頷いた。  しかしこの景色もリコの笑顔には勝てない。  なんだかんだで魔物には会えずじまいで実りの少ないこの旅よりも研究所でリコや助手 と遊んでいた方が良かったのではないかと思える。  助手の場合は「助手と」ではなく「助手で」であるが。  それに、なにより自分のいない間にリコと彼が乳繰り合ってるのではないかと思うと気 が気でなかった。 「リコ、いいじゃないか」 「お兄ちゃんダメッ!」 「はぁはぁ、リコ可愛いよリコ」  ……。 「私は研究所に帰るぞッ! 皇七郎くんッ!」  机を両手で思い切り叩いて叫んだ。 「何馬鹿なことやってるんですか」  先ほどまで月を眺めていた窓枠にアーキィがちょうど足をかけた瞬間、皇七郎は素早く アーキィに近寄り、窓枠にかけた足を払う。その足にかかっていた体重は行き場をなくし バランスを崩してアーキィは背中から倒れた。 「ここの高度どのくらいだと思ってるんですか。僕がリアス山脈から落ちた時とは比べ物 にならないんですよ」  呆れた顔をしながら皇七郎はアーキィを窘めるが、そんなの知った事ではないとばかり に必死の形相でリコが危ないんだと叫ぶアーキィに、危ないのはあんたの頭の中だと辛辣 な言葉を返す。  一見すれば仲が悪そうに見える彼らだが、ここれはお互いの心中がなんとなく分かって いるからこその応酬であろう。  そういえば――とアーキィは仰向けに寝転がったまま話す。 「皇七郎君のバリツはいつもキレがいいね」 「えぇ、そうでしょうとも。最近は型の修練とかしなくてもアーキィさんとハロウドさん にツッコミ入れてればそれで十分ですからね」  ふてくされてそう答える皇七郎。頬を膨らませ、唇を尖らせた姿は可愛らしかった。そ ういう仕草を見るたびにガトーは皇七郎が女だったら良かったのにと思う。 「ガトーさん何にやにやしてるんですか。気持ち悪いですよ」  ガトーが掛け合いを見ているのに気付き、皇七郎はいつもと変わらず毒を吐いた。それ を聞いてガトーは苦笑する。本当に君たちは仲がいいな――と。 「仲がいいですって? 違いますよ、この人たちとは腐れ縁なだけです。仲がいいなんて これっぽっちも無いですよ。変なこと言わないで下さい」  そう言って皇七郎は顔を赤らめてそっぽを向く。それだけで彼がハロウドやアーキィの ことをどう思っているのかはすぐに分かった。 「いや、それにしても羨ましいよ。学生の頃からの友達が今でも友達だなんてね」  そんな風に言うガトーを見て友達いなかったんですかと皇七郎が茶化すと、少しだけ寂 しそうな顔をしていたことにはいたんだがねと呟いた。 「今は生きてるのやら死んでるのやら。奴の性格からして野垂れ死にしていると思う。も し生きていたとしても――僕が殺してやるけれど」  手を口の前で組んだままのガトーは、いつもとは違った迫力を帯びていた。 「まぁ、しかしあれだね。私ももう少し早く君らと出会っていればよかったよ。専門が 違っていたとはいえ同じ敷地内に住んでいたんだからね。君たちが思い出話をしているの を見ると少し羨ましくなってくるよ」  手を解いてガトーは底抜けの明るさでそんなことを言った。まるで直前に言った事を打 ち消すかのように。それを聞いてアーキィはまた笑う。いつの間にか先ほどの場所に戻っ て紅茶を飲んでいた。 「いいじゃないか。あれは一緒にいないほうがいいと思うような体験の連続だったからね。 それに私たちだって知りあってそろそろ二十年ほどになるじゃないか」  そう言われてみればとガトーは指折り数えてみると、たしかにそのぐらいであった。 「いつの間にやら私もアーキィも年取ったものだ。学生の頃四十ぐらいの人を見るとすご い大人のように思えたが、実際なってみると中身はほとんど変わらない、若いままだと勘 違いしてしまうね」 「その気持ちは分かる。身体が思うように動かないこともままある。でもまだまだ若いも のに負ける気はしないな」  うむ、その通りだとガトーは頷き二人して笑った。一笑いして、 「皇七郎君は変わらないね。秘訣はアレかい。さっき言っていた日々の修練という奴かな」  そう言いながらガトーは皇七郎に目をやる。 「そうですねぇ、バリツは極東の気という概念が取り入れられていてそれが若さを保つと も言われていますからそれも一つでしょう。それ以前にボク自身が歳を取りにくいという のもありますが」 「じゃあ私もやれば若返るということかな。というか格闘技何ぞやったこと無い私でもで きるものなのかね」 「他のものに比べればそこまで難しいものではないですからね。実戦で使うとなると別問 題ですが、他の格闘技と比べると型とかは覚えやすいとは思いますよ」  自分の体験を思い出しながら皇七郎はそう答えると、ガトーはうーむと唸り、 「帰ったら一つご教授願えないかね」  そう申し出た。ガトーはがっしりとした体格をしているが実は根っからの魔法使いで、 武器も学院時代にナイフを手にしてぐらいであった。 「いいですよ。帰ったらと言わず今簡単なものを一つ二つ教えましょうか」  皇七郎がガトーの方に向かうと嬉々として立ち上がる。が―― 「その前にお客さんだよ」  ドアの方を見ながらアーキィがそう言った。二人がアーキィの視線の先に目をやるとそ こにはグレイシアが立っていた。 「どんな感じですか。掃除はちゃんとしていたのですが、客間を使うこと自体は相当久し ぶりなので不具合とかあるかもしれません……」  頬をかきながら申し訳なさそうにするグレイシアに三人は異口同音に快適だよと答える。 「ベッド、シャワーが完備してるだけで十分すぎる。普通の探索だったらどんな煎餅布団 ですら恋しくなるくらいだからね」  アーキィは紅茶を口に含んで微笑した。それを聞いてグレイシアは晴れやかな顔になる。 「そう言っていただけて嬉しいです。いつ使うかも分からない部屋を頑張って掃除してい た甲斐がありました」 「あぁ、じゃあ君は何時来るか分からない客の為にここの掃除をしていたのか」  上着を着込みながら皇七郎がそう聞く。 「えぇ、天空城の管理が仕事ので。それで――どう思いました」  皇七郎の問いに答えた後、心なしか声を小さくしてそう尋ねる。 「どうと言われてもなぁ。私は魔物以外にはからっきしだし」 「ボクは興味なかった」  二人の魔物生態学者は全く頼りにならなかった。そして唯一まとも――にグレイシアに は見える――ガトーはというと、 「すまない、階段のぼりの疲れでそれどころではなかったんだ……」  グレイシアは肩を落とした。                ■ ■ ■ ■ ■  遡る事数時間前。  三人はグレイシアの先導について長い螺旋階段を上っていた。 「今……何段ですか……」  疲労の色を露にして皇七郎がそう問う。 「六百まで数えたが……もう覚えていない……。ガトーは?」 「私は……八百十三段まで数えたが……もう無理だ」  三人は息も切れ切れにそう話す。だというのに、前にいるグレイシアは息も切らさずど んどんと先に行ってしまう。さすが天空城の雑用係をしているだけはある。 「私のことはいいから二人とも先に行ってくれ……。研究所のみんなにはアーキィは潔く 散っていったと言ってくれ……」 「何……馬鹿なこと……言って……るんですか……」  さすがの皇七郎の突っ込みも長い階段のぼりの所為で随分と弱々しい。しかしそれが冗 談ではなく本当になってしまいそうなぐらいアーキィの息は切れており、それ以上に、ガ トーの息は切れていた。 「部屋に篭っていると……本当にろくなことがない……ね……」  そう呟くとガトーはガクリと頭を垂れた。 「ガトー……? ガトーーッ!!」  アーキィはガトーを抱きかかえ、叫んだ。そしてその叫びは空しく響くだけだった……。                                  ■つなぎ目(終) 「あのー……」  やりたい放題やる三人に見兼ねてグレイシアは思わず口を挟んでしまう。 「そろそろ謁見の間なんで大きな声出されると困るんですが……」 「む、そうか。なら……もう少しだけ……頑張るか……」  アーキィの胸に抱かれたガトーがひょこりと頭を上げて立ち上がる。アーキィも気が済 んだのか黙って階段上りを再開した。  グレイシアの言うとおり、数十段上ると果たしてそこに扉があった。大人三人分の高さ はありそうなそれにはびっしりと細工が施されており、それを見ると同時にアーキィは皇 七郎君が喜びそうだな――と思った。皇七郎にちらりと目をやるとやはり、目を輝かせて 細工を調べていた。 「しかし、あれだね。こんなに大きな扉どうやったら開くのかね」  ガトーは扉を見上げながら質問すると、グレイシアは扉の前に立ち細工をいじり始めた。 「ここの赤い石を右に三つずらしてその間に青い石を二つ挟みます。残った穴にこの緑色 の石をはめ込むと――」  ずずずと重たい音がして大きな扉が奥に開いた。  扉の先には赤い絨毯が伸びており、かすかに玉座のようなものが見えた。そして、その 向こうからやけに通る女性の声が響いた。 「グレイシアか。何用です」  女性の声はただ平坦に言葉を紡ぐ。 「はっ、下界から学者がいらしたので姫様に面通しをと――」 「あなたの好きにしてください。天空城の名に恥じぬもてなしをすることです」  グレイシアが言い終わらないうちに声の主はそう答える。  まるで、三人に興味がないかのように。 「分かりました。それから、この方たちに城内を見てもらっても?」 「構いません。回る場所は貴方の裁量でどうぞ決めてください」  その答えを貰って、グレイシアは女王に背を向け、部屋から出ようとする。三人もそれ に続いた。四人が部屋から出ると扉は自動的に閉まり、何事もなかったかのようにそこに は大きな扉が残っていた。そして、その後で三人は客分用の部屋に通されることとなる。                ■ ■ ■ ■ ■  ガレヴァントゥーナの開いた穴を通るとディライトたちはぐにゃりぐにゃりと変な感触 を受けたあとで、正に地に足が着いた。  下は土と草。後ろは空。そして前には、世界中の学者が夢見て止まなかった天空城がそ びえていた。  ディライトもアキコもそれを前にして声を失う。二人は思わず叫んでしまいたいほどの 感動を覚えていた。しかし、ゆかっちだけは違った。  彼女はガレヴァントゥーナの予言を反芻し続けていた。  エルダーデーモンの血脈よ。汝は――                            ・・・・・・・・・                          ――近いうち死ぬだろう。                               ■第二話「昇天」(終)