よく晴れた朝だった。  雲は一つとしてなく、青空はどこまでも続いて。  旅立つには良い朝だと――彼と彼女は、そう思った。 ■   カイルのデイシィプリン 最終章3 そしてまた冒険へ   ■  人里の只中にあっても、無人の空間というものは存在する。路地裏、屋上、物陰。隙間はど こにでも隠れている。人の群れの中にあってさえ、空白地帯は必ず存在する。  今、二人がいる場所もそうだった。壮大な城壁に囲まれた街、その中心にある白。  その最奥にある部屋には二人しかいない。その部屋だけでなく、その塔にも、塔を囲む通路 と部屋――百の騎士がつめかけてもまだ余裕がある――場所には、猫一匹とていない。  ファーライト王国、その真なる中央。  城下街は戦災からの復興で賑わっているというのに、その場所だけが、時に置いていかれた かのように静寂を保っていた。誰もいない。誰も見ていない。誰も聞いてはいない。  部屋の中にのみ――二人の声が、幽かに響く。 「久方ぶりですね、『姫君』」  片方の男が、紅色のソファに腰掛けて声を放つ。長く伸ばした髪を後ろでまとめた初老の弾 性は、モノクロームをつけた顔で柔らかく笑んでいる。胸につけられた飾りは、彼がこの世界 でたった三人しかいない、魔物生態辞典を作った男の一人であることを誇っていた。  男は足を組み、膝の上で手を重ね、『姫君』と向かい合う。 「お久し振りです、アーキィ先生」 「そういわれるのは――くすぐったいものだね」男は笑み、「先に生きているのは、君のほう だろう」  その言葉に、女――女と呼ぶには幼く、けれど不思議な気品を携えた少女は――微笑みを浮 かべ、「女性に歳をきくものではありませんよ」と小鳥のようにさえずった。  孫と子ほど歳の離れた二人は、旧知の親友のような親しさで話し続ける。 「ハロウドくんが――きたそうだが」 「ええ。楽しそうにお話していかれましたわ」 「彼は話すのが本当に好きだからね。それが彼の役割ということもあるが……やはり個人的趣 向なのだろう」 「お喋り、と?」 「彼の口を閉ざす方法を見つけてくれたのなら」男は微笑み、「私は所長の座をその誰かに譲 るだろうね」  まぁ、と少女もまた微笑み、 「それでは――アーキィ先生の独り勝ちでしょう」  そうだね、と男は笑みを濃くした。少女もまた、同じように笑う。  彼女のその笑みを見るものは、世界にもそういない。此処まで辿り着くことすら、できない だろう。聖騎士や長い腕のように、正攻法か力づくで対面するか。  あるいは――彼らのように、世界の裏側から知り合うか。  少なくとも、男にとって少女は、大国の姫君ではなく。  それ以前の存在として、扱っていた。  世界の謎に迫る、学者として。 「そういえば」  と。  何気ない風に――少なくとも、何気ない風を装って――男は話を切り替えた。 「先日は、此処まで踏み込まれたそうで」  少女は情報に聡いのですね――その言葉に、少女は戸惑うことなく切り返す。  けれど、男は首を横に振り、 「いいえ、情報ではなく推測ですよ。意図的に広まっている噂は、この国が攻め込まれたとい う所までです」 「ならば」  なぜ――踏み込まれたと言うのです。少女は微笑みながら、問いかける。その笑みを前にし ても、男は態度を崩さない。変わらぬ調子で、男は言う。 「『彼』が此処にいたというのなら、間違いなく君に会いにいくだろう?」 「…………」  その言葉に。  少女はわずかに沈黙して――それから、不敵な笑みをアーキィへと向けた。 「先生は、物知りなのですね」 「安楽椅子探偵を気取っているつもりはないですがね……色々と、耳に入ってくることもある 。それにあらかじめ知っている事実をあわせれば、推測くらいは立ちますよ」 「それも――そうですね」  得心とばかりに、少女は頷く。彼女は知っている。アーキィ――トゥルシィ=アーキィたち がまだ若い頃から、彼らは顔見知りだった。生物学、生態学の観点から世界の謎に迫ったとき に、その延長線上で、彼らは出遭った。  トゥルシィ=アーキィ。  ハロウド=グドバイ。  夢里皇七郎。  三人の、魔物生態学者。  始めに気付いたのは――トゥルシィ=アーキィだった。ハロウドの調査がきっかけだったの か、皇七郎の何気ないひらめきがきっかけだったのか。それはもう本人たちにすら想い出せな い。だが、明瞭とその事実に触れたのは、考察と思考に長けるアーキィだった。  ――繋がっていない。  ――あるはずのないものがある。  ――いるはずのないものがいる。    ・・・・・・・・・・・・・・  ――この世界の生態系は歪んでいる。  人為的に外からやってきたものがある。やってきたのがこちらなのか、向こうがやってきた のか、それはアーキィにはわからない。それでも、おかしすぎるのだ。十万の経験値を持つ少 女は、生態系の環から外れている。そこから発生したものはあっても、それ以前はない。  まるで、  ただいきなり、そこに現れたかのように。 「知っていますか? 我々の友人、皇七郎君にはももっちの血が流れている」 「ええ――存じています」 「恐らくは、貴方たちが連れてきた『13人目』の血が。たった一人死んでいった、名もない 少女の血が」  これもまた、推測ですが。  そう言って、トゥルシィ=アーキィは口をつぐんだ。それは彼にしては、珍しい言葉だった 。推測や憶測の段階で、彼は思考をあまり外へと出さない。それを口にするときは――ほとん ど確信しているときだ。  彼もまた、世界の謎へと迫ろうとしている。  そして、目の前に座る少女は、彼よりはそれに近いところに立っている。  姫君は。  しばらくの間目を伏せ――それから、話を切り出した。 「『長い腕のディーン』――彼は彼のやり方で、世界の謎に迫ろうとしています」 「そこには試練しかないでしょう」 「彼はそれを知っていました。知っていて――挑むのです」  それはもう私たちがなくしてしまったものです――そう、姫君は言葉を結んだ。  それは、時代が移り変わったという意味だろうとアーキィは思う。世界は動き出そうとして いる。新しいものたちの手で。  何処へ向かっているのか。  それは、彼にもわからない。  それでも、  彼らは、歩みをやめないだろう。立ち止まらないだろう。  そう、例えば。  彼らのように―― 「ああ、見てください」  ふいに、  言葉を切り替えて、アーキィは外を見た。王宮で一番高いその場所からは、王宮中を見渡す ことができた。彼の視線は――遠く遠く、『外』へと通じる外壁の傍へと見つめられていた。  豆粒のような視界の中。  それでも、見えた。黒い鎧と、黄金色の剣が。  彼らを見たままに、アーキィは、どこか優しげな口調で言った。 「彼らもまた、世界へと挑もうとしている」      †   †   † 「――行くのかい?」  二人だけだった。  自然とそうなった。始まりがそうであったように――終わりも、二人だけだった。いつもは 賑やかな彼らが、その日の朝だけは不思議なくらいに音沙汰がなかった。城は静かで、街は賑 やかで。世界はいつも通りの朝を迎えていた。  彼らだけが、少しだけ、いつもと違った。 「……はい」  少し迷ったように言いよどんでから、それから、ロリ=ペドは小さく頭を下げた。腰元まで 伸びた長い黄金の髪が音もなく揺れる。その様を、カイル=F=セイラムは城壁に背中を預け たまま見遣った。  内壁ではない。  今二人がいるのは、文字通りに外――ファーライト王国の外へと通じる、外壁のすぐそばだ った。先日の事件の影響か、門は閉じたままになっている。それでも、カイルがいれば門は開 くだろうし、そもそもロリ=ペドが本気で外へと出ようと思えば、こんな門など意味をなさな いことをカイルは知っていた。  だから、これは。  ただの見送りだった。  それ以外の意味は――なかった。 「……そう」  頷いて、カイルはなんとはなしに、空を仰ぎ見る。  蒼かった。  いつかと同じように――空は蒼かった。  ゆっくりと、視線を下ろす。先と同じ位置にロリ=ペドは立っていて、同じようにカイルを 真っ直ぐに見つめていた。黄金の瞳。カイルよりもずっと身長が低いせいで、見上げるように なってしまう。けれど、その瞳は揺れていない。不安げに揺れることもなく、真っ直ぐに、カ イルを見つめていた。  背には巨大な黄金の剣。  身に纏うのは、カイルが買い与えた、白き服。  それだけだった。始めから少女は何も持たず――今もまた、それだけしか持たなかった。今 から旅に出るとは思えない軽装。それでも、彼女はそれだけで十分なのだろう。  旅に出る。  いつかのように。  何処へ行くとも知れない――世界を救う放浪。  長い別れになるような気もしたし、すぐにまた会うことになる気もした。二度と会えないか もしれないし、次は敵かもしれない。  少なくとも、  次にあうときには、今のような関係ではいられないのだろうと、カイルは思う。敵でも味方 でもない、あやふやで、けれど、居心地のよかった関係。  少女のことを怖いと思った。  少女のことを危ういと思った。  少女のことを可愛いと思った。  そのどれもが、カイルにとっては、偽りならざる感情だ。 「行っちゃう――のか」  それしか、言葉は出てこなかった。そもそも、別れの言葉は、昨日の夜に済ませていた。そ れでも、何かを言い足りない気がして、気付けばカイルは此処にいた。街を去ろうとするロリ =ペドのもとへと。  何を言いたいのか、自身ですらわからなかった。  引き止めたいのか、  見送りたいのか。  そんなことさえ、わからずに。  カイルはただ、ロリ=ペドを見つめる。  ロリ=ペドもまた――同じように。 「……はい」  もう一度、ロリ=ペドは小さな声で頷いた。早朝の外壁に人の姿はほとんどない。警邏の兵 がいるくらいで、聞こえはじめた街の喧騒はどこか遠かった。  二人きりだった。  世界に二人きりのように、思った。  言葉はなかった。カイルは言葉を見つけることができず、ロリ=ペドは言葉を必要としてい るようには見えなかった。何も言わず、ただ、満足そうにカイルを見つめていた。これが見納 めとばかりに。最後に来てくれて嬉しいと思っているのだろうか。頬は、幽かに朱に染まって いた。  どこか嬉しそうに。  どこか楽しそうに。  ロリ=ペドは、カイルを見ていた。  ――いいかな。  それだけで、そう思えた。何かを言う必要はないのかもしれない。何も言わなくていいのか もしれない。彼女のそんな顔が見れただけで、それだけでいいのかもしれない。初めて会った ときからは、考えられないようなロリ=ペドの態度。  彼女は、変わったのだろう。  ――僕は、どうだろうか。  ふと、そう思った。ファーライト内乱――そう呼ばれる戦を経験して。自身の試練と直面し て、果たして自分は変わったのだろうか。思い悩むが、それこそ自分ではわからないことだっ た。  案外――全ては、そんなものなのかもしれない。 「君は、」  気付けば。  言葉が出ていた。悩んでも出てこなかった言葉は、悩むまでもなく、口を割って外へと出て きていた。問いかけられたことに気付き、ロリ=ペドが首を傾げる。瞳だけは、カイルの言葉 を待ち望むかのように、外れることなく向いている。  カイルもまた、視線を外さない。  彼女の黄金色の瞳を見つめたままに、カイルは言う。 「正義がわからないと――僕にそう言った」 「はい、カイル様」  惑うことなく。  迷うことなく。  ロリ=ペドは、頷く。  その仕草を見ながらに、カイルは言葉を続けた。  始まりとなった問いに、  問い返した。 「それは――見つかったのかい?」  その問いに。  ロリ=ペドは。  黄金鎧の聖騎士、暁のトランギドールの騎士、ロリ=ペドは―― 「――わかりません」  今までに見たことのないような笑みを浮かべて、はっきりと、そういった。 「…………」 「でも、」  そう、前置いて。 「それを探し続けようと、私は想います。それこそが――私の試練なのでしょう」  ロリ=ペドは言う。  正義を探し続けようと。ソレに明確な答えなどなく、問いかけることにこそ正義はあると。  だから、これは彼女にとってはじめての旅だ。  自身の意思で、  自身の手で、  自身の足で、  自身の剣で。  正義を模索する――彼女にとって、本当の旅。  真実のディシプリン。  終わりではない。  何もかもが、始まっていく。  遠い昔に止まっていたはずのものが、ようやく――動き出しただけなのだ。勇者の妹でもな く、黄金鎧の聖騎士でもなく。ロリ=ペドの試練が。  彼女の戦いが。 「カイル様が、教えてくれました」  少し俯き加減になり、恥かしそうにロリ=ペドはそういった。身体の後ろで指先をもじもじ と絡ませている。何が恥かしいのかカイルには全くわからなかったが、彼女もまた女の子なの だと、可愛らしい仕草を見てそんなとんちんかんなことを思った。  カイルは肩を竦め、 「何も――教えたつもりはないんだけどね。僕、いつだっていっぱいいっぱいで。正直役に立 ったんだかどうかすらわからないよ。今回だってよく考えたら負け続けだし、いいところはジ ュバさんに奪われるし」  その言葉もまた、嘘偽りのない事実だ。  彼はいつだって、一生懸命で。出番が少なくて、不運で。  けれど、  逃げることなく、試練と向き合ってきた。  それがカイル=F=セイラムなのだと――ロリ=ペドは、知っていた。だからもう、それだ けで十分だった。彼のように。逃げることなく、思考をやめることなく、今度こそ自身に向か い合おうと、彼女は思う。  だから――別れだった。  彼は彼の試練を。  彼女は彼女の試練をいく。  お互いの道を、歩み続ける。  いつかその道が交差することを――再びめぐり合えることを願って。   彼女は再び、旅に出る。 「――――、」  風が吹いた。スカートがはためき、黄金色の髪が宙に舞った。強い風は、内から外へと、世 界へと臨むかのように吹き抜けていく。  どこまでも。  どこまでも。  風が通り去るのを待って。 「カイル様――有難うございました」  深々と。  礼の言葉と共に、頭を下げた。つむじが見えるほどに深く。小さな身体が、くの字に折り曲 げられる。その姿を見ながら、カイルは背を城壁から離す。一歩、二歩と、ロリ=ペドの傍ま でゆき、通り過ぎかけたそこで足を止めた。  そして、  その頭を、いつかのように、撫でた。 「また、どこかで会おう――そのときは、味方だと嬉しいかな」  言葉に答えるように、ロリ=ペドは顔を上げて。  はい、と。  彼にだけ見えるような笑顔を見せて。彼にだけ聞こえる声で頷いて。  そして、言った。  ――貴方の正義が、此処にあることを願っています。  別れの言葉だった。  それ以上の言葉はいらなかった。頭を撫でていた手が離れる。ロリ=ペドは、振り返らずに 去っていく。後ろで城門が開く音。彼女のために門が開く。そうして、開いた門から、彼女は 去っていく。  否――  彼女は、旅立っていく。彼女の試練へと。  いつか再開するときまでの、長いお別れ。  カイルは振り返らない。その時はいつかくるだろうと、カイルはそう信じた。彼が彼の試練 に立ち向かい続ける限り、彼女が彼女の試練と戦い続けるかぎり、道はどこかで交差するだろ う。彼女と再びめぐり合うだろう。そう信じて、振り返らずに彼も歩き出す。  行く手には王宮。事件は全て終わったわけではない。彼もまた、やることが山積みになって いる。  立ち止まらない。  互いに振り返ることなく、  互いに立ち止まることなく。  歩き出す。  歩きつづける。  何処へ行くとも知れずとも、  何処までも、何処までも――――――――  そうして、一つの事件は終わり。  そしてまた、新たな冒険が始まる。 ■   カイルのデイシィプリン 最終章3 そしてまた冒険へ  ... END ■  ……そうして。 「……………………」 「やぁやぁやぁ――待っていましたよ、勇者殿の妹サン?」  彼女は、最初の試練と遭遇する。