月華草 02 であい  彼は、それを見た。ウォル=ピットベッカーはと言うと、一度ならず振り向いた先のそれを否定したい気分に襲われていた。  余りにも場違いだからである。この碌でもない夜に、余りに不釣合いなものと言えば決まっていた。  そんな形容詞に、耳先から爪先に至るまで彩られたモノを見たなら、極々平凡な反応と言える。  その単語は凡そ、この街では水が湯に変わる程度の時間しか持続しない類のものだ。   「───」  緑色をしたその目は少年を、或いは彼の方向の遥か遠くを捕らえていた。  青白く銀色の髪には、純潔の人間種でない事を示す──最も、最近ではわざとそれを切り落とす娼婦も多いが──獣の耳が付いていた。  目をしばだたせている少年の前に居たのは、そんな美しい亜人の少女だった。  「だ──」などと気の抜けたエールのような声がウォルの口から漏れる。  丁度、二枚貝に塩を振りかけたような調子だ。泡を食っているのであった。  名も知れぬ少女はその様子を意に介した風も無く、ただじっと何処とも解らぬ地平を見据えている。  それは寝起きで定まらぬ上、予期せぬ状況に巻き込まれた少年よりも定まらず、胡乱であり、ただ月影の照り返しを移すのみであった。 「……」  異国風に仕立て上げられた服を纏い佇む姿は、ひょっとしなくても梅毒で頭の狂った淫売を少年に思い起こさせた。  けれども、街角で時折みかけるそれらは少年をして目を背けさせる程醜怪であったのが常であり、 異形じみるでも無く、顔が爛れるでもない少女は辻の立ちんぼとも違うらしかった。  ──まぁ、この少女が白痴である可能性は否定できないのだが。  全く。世の中、螺子が緩んだ手合い程厄介な相手はいないのである。  ひょっとするとこれは幽霊なのかしらん。  ウォルはそんな愚にも付かない想像を思い浮かべる。  最も、そんなものが世界一強固な結界で守護されるこの街に易々と入る事など出来ようも無い。  別の可能性を探るべく推理を巡らせる。これは生身の人間なのだろうか?  脳みそが高速回転し、やがて独楽のように球体になるイメージ。  言い換えれば、酷く混乱しているだけなのであるが。  ──ふと気が付けば見知らぬ狐耳の女の子が枕元に。そして知的障害の疑いがあり。  拝啓母上様、僕と言う存在はこんな時一体全体どうすりゃいいんでありましょうや。  訳が解らなすぎて、正義の龍(トランギドール)に中指立てられている気分さえする始末だ。  曰く、『怠け者、放蕩息子、全ての罪人は地獄に落ちるがいい』。  畜生め。僕だって好きで無能な訳じゃない。そう心中で毒づく。まことに意味の無い行為であった。  くぅ、と少女が獣みたいな鳴き声を上げた気がした。その目が像を──ウォル=ピットベッカーをその中に映していた。  歩み寄った彼女は頭一つ程少年より背が低く、丁度見上げるような格好になっていた。  その癖、一言も喋らず顔には感情を表すような調子も無い。  結果的に、ウォル=ピットベッカーは訳の解らん娘に凝視されると言う何とも居心地の悪い状況に陥っていたのだった。  逃れるように下がった少年の目線は少女の胸を捉え、それが僅かに上下しているのを見て幽霊という可能性は打ち消された。  生きている、という事は確からしい。但し、白痴だと言う想像に信憑性を与えるには十分な所作を少女は示していたけれども。   「え、えーとさ。君、名前とか、さ。何時までもこのままでも居心地悪いし」  引き剥がしつつ、少年は言った。が、狐耳はと言うと不思議そうに小首を傾げたのみ。やはり人間と言うよりは小動物の反応である。  まるで何を言われたのか理解できていないようだった。手を差し出してみる。  ぱっ、と少女がそれを捕まえようとする。急いで避けると空を切る。  実に面白い反応ではあるが、何一つ役に立ちはしないのであった。  ただでさえ寝起きである。その上真夜中。当然思考は鈍く、機嫌は最悪。  段々と少年が腹を立て始めたとしても無理は無かろう。   「ああもう、頼むから何か喋ってくれよ。黙られたままじゃ困るだろ」  そうは言っても、その少女が返すのは「きゅう?」などと言う要領を得ない返答ばかり。  ファーストインプレッションは大失敗であり、無論少年にはこれ以上精神異常者と関わり合う程の睡眠時間は残っていない。  異文化コミュニケーションなど糞食らえなのであった。そのような物は金も暇もある物好きに任せておけば宜しい。  最早対話が成り立たぬ事が解った以上、少年は無視を決め込みベットに潜り込む。  ……寝返りを打つ。寝返りを打つ。寝返りを、打つ。  目を瞑る。硬く瞑る。布団を頭まで被る。何も居ない、そういう事にしようとする。 「……」  が。視線を感じた。無論、少女の、であろう。  彼がベットに横たわってから何分立ったかは問題では無い。  じーっと、それはまるで暗闇に居る猫のようだった。  ウォルは思った。もしもこの状況で平然と眠りこけれるなら、そいつは将来有望に違いあるまい、と。  眠る人間を夜通し身動きもせず凝視し続ける娘。物語は物語でもこれでは不出来な怪談である。  このまま放置していたならば朝までそうしていそうであった。  困るのである。少女の生死など無関心極まりないが、その行動が自らの仕事に差し支えるならば話は別だ。 「出てけ。邪魔だよ」  毛布に包まり、背を向けたまま言葉を投げ捨てた。これで良いのだ。  何の因果かは知るところでは無いが、今や誰にも省みられない存在となっていた少年は又、自ら誰とも関わる気など無かった。  自らを肯定出来ぬ人間に他人と関わる資格など無いのであった。  それに第一、デミヒューマンの上にこんな所に寄り付く女にロクなのは居ない、そうウォルは決め付ける。  間違いなく明日も早い。こんな反吐が出るような出会いなぞお呼びでは無いのだった。  ──目を瞑っていた彼の肩に誰かの手が触れた。  あまつさえ、それはまどろみさえ許さないかのようにウォルを揺さぶってさえいた。  実に腹立たしい頑固さであった。殺意を覚える程だ。 「……」  闇の中で尚輝く人間以外の目が少年をそれでもじっと見詰めていた。  突然、ウォルは舌打ちを隠しもせずに立ち上がる。少女を突き飛ばすように荷物を纏め始める。  そうして振り向きもせず、足早に部屋を出た。原因は言うまでもなかろう。  眠ることさえ出来ないなら、この安宿など文字通りの掃き溜めでしかない。  ざわめき。ざわめき。足音。ざわめき。  夜の街にもウォル=ピットベッカーの居場所など在ろう筈もなかった。  無理もない話であった。彼は薄汚い寝床での泥みたいな眠りと奴隷じみた労働以外は何も知らない少年だったので。  しいて言えば、万事につけ逃げ出したい、そんな思いだけが彼を突き動かしていた。  逃げる場所などもう何処にも無く、縋り付くものはとうに捨ててしまったというのに、である。  喧騒だけが耳に届く。──いや、一定の間隔で小さな足音が、彼を追いかけていた。  思わず、眩暈に似た感覚が少年を襲っていた。  振り向く、などという選択肢は最初から存在しなかった。  何れにせよ、夜が明ける頃の安宿での深い眠りと一日が無駄に終わる事だけは約束されたようなものだったが。  なんて事だろうか、とウォルは思う。こんな訳の解らない奴に付きまとわれて、日々の糧が台無しになるなんてあんまりだ。  畜生。この街で、最下層へ転落するには日々の仕事を捨て去り、安酒に溺れるか飢えて動けなくなるのが最も早い道筋であるのに。  僕はまじめに日々働いてたじゃないか。何でこんな理不尽で台無しにされるんだ。  そんな、自らが散々叩いていた亜人労働者の事を棚に上げた台詞を心中で叫ぶが、彼と同様、少年の状況がそれで改善する筈も無い。  ざわめき。哄笑。乱痴気騒ぎ。それから、嬌声。  惨めに背を丸め惨めな夜道を歩いていると、全く、今度こそ、己が正真正銘の浮浪者に堕ちたような錯覚をウォルは味わっていた。  それは崖っぷちで踏み止まっていた所を後ろから面白半分に突き落とされたようなものだ。  事ここに至って。ウォルの苛立ちは最高潮に達していたし、 同時にどれ程早く歩こうとも全くの付かず離れずで付いてくる足音に恐怖を覚え始めていた。  もしもこの足音が、全く少年の気のせいであったならば少々誇大妄想の気がある、割と愚かな少年の妄想で片付けられよう。  だが、その音は続いていた。  ここはもう路地だ。商店が軒を連ねる通りの喧騒は遠く、僅かに犬猫や彼と同じような連中が立てる物音が耳に付くぐらいである。  そんな場所であってさえ、足音は矢張り彼の後ろ。ご丁寧にも、距離も保ったままだ。  逃げるように歩く。まるで魔物に追われているかのようだ。  歩く。歩き続け──やがて、疲れた少年の足が止まった。  すると、まるで調子を合わせているみたいに背後の足音も止まる。  ぜえぜえとだらしない呼吸を繰り返す少年は丸きり野良犬のようであった。前かがみになりながらも後ろを向く。  ──そこには、矢張りあの少女の姿があった。  相も変らぬ幽霊みたいな様子。思わずウォルは数歩後ずさる。 「な、何のつもりだよ!さっきからっ、ずっと人の後つけてきやがって!」  少年は叫ぶ。彼は肩ほどまでしか背の無い娘一人に怯えている自分に気づかざるをえなかった。  幾つもの想定が脳裏を過ぎる。良くある所の筆頭は美人局。果ては異界からやってきた魔物と言うところまでだ。  が、一方の少女はと言うとあからさまに不信がっている少年の様子には一向に無関心であるようだった。  数少ない手荷物を庇う様に抱えている様は、傍目からは完全に一人相撲の観があった。  ウォルの背中に冷たい建物の石壁が触れた。 「来るのか!?やるってなら、僕だって!」  腰に挿していた貧相な剣を抜き、構える。  最も彼の構えは全然なってはいなかったし、どちらかと言えば屁っ放り腰でさえある。 「何するの?」 「……おい、聞いてなかったのかお前は!僕の言葉が耳に入ってなかったのかよっ!クソ!」  きょとん、とした顔がそんな彼を見ていた。意に介した風も無く近寄るときょときょと少年を見ているだけだった。  ウォルの手は震えている。彼は人殺しなどした事がなかったし、第一脅した時点で逃げ去るだろうとばかりに思っていたからだ。  背中に触れている壁が一段と大きくなった気がしていた。どうもこうも無く目が泳ぐ。  その癖、心臓は火でもついたかのようだ。 「ちゃんと聞いてるよ?」 「何をだよ!」 「全部聞いてたよ」 「じゃあ何でそんな風なんだよ!絶対変だぞお前!!」 「変って、なぁに?どこか変なのかなぁ……」  じっ、と少女が少年の目を見て言った。ぐっ、とウォルは思わず息を飲んだ。  元より珍妙な少女である事は理解済みとは言え、こうも常識やら理解の外にある言動ばかり繰り返されると返答に困る。  と、言うか何を言っているのだ。ぐるぐると言葉は乱舞するばかり。  だが、『どう見ても脳みそが悪い』などと正直に述懐できるような度胸は少年には無い。   「……普通の人間は夜中に宿で寝てる奴の顔を覗き込み続けたり、逃げ出したそいつの後を延々と付回したりなんかしない」 「でも、そうしないと逃げて逃げて、その内どこにもいなくなっちゃう」 「いや、だから……一から十まで言わないと解らないのかよ。僕が言いたいのは一言だけ。邪魔だからとっとと失せろ、それだけだよ」  そうすればまた明日が始まるんだ、とは言わないでおく。それに、解らないものは恐ろしいのだ。  事実、少年はまだ剣を納めてなどいない。  だが、名も知らぬ少女はまた不思議そうに首を傾げてから、言った。 「怖がってる?」 「……やっぱ人の話聞いてないだろ、お前」 「ううん。聞いてる。でも、手が震えてる」  ちらり、と少女の目が剣を握る手を向き、再び目へと戻される。 「私、怖いの?それとも、別の何かを怖がってるの?」  もう恐ろしくは無い筈であった。と、言うのもウォルは最早確信を覚えていたからである。  だが、それでも尚、妙な不安は収まってはくれない。一歩を踏み出すのを恐れている態であった。  全ては簡単な筈だった。そう、彼の採りうる全ては行いうる事だった。  運が良いのか悪いのか、迷う事など何も無い。彼とて知っているし理解している。どうすればどうなるかなど余りに明かだ。  だが、出てくるのは強がりにも似た言葉ばかりで──手が触れた。  柔らかくすべすべしてる、などと言った言葉が思考のハレーションの中を光速で通過し、 それから遥か遅れてびくん、とウォルの腕が無意味に痙攣し、剣を取り落とす。  驚いたのか、少女が少し離れた。  それでも矢張りその目は少年の目をはっきりと捉えていて──それは彼を見透かしているみたいだった。  ウォルの唇の片方が僅かに釣り上がり、脱力したように肩が下がった。結局、彼がとったのは譲歩と言う選択だった。  剣を拾い上げる事もせずに、彼の口からは言葉が吐き出される。 「そりゃあ、怖いよ。怖いに決まってる。まるっきり幽霊だ」 「幽霊じゃないよ、だって私はここにいるもん」 「それに気づいてないって事もあるよ。あ……そう言えば、結局聞くのがまだだった」  剣を拾い上げると、少年は問うた。 「ねぇ君、名前は何なのさ?」 「名前?」  いい加減解って来た事だが、この少女は一々全ての事を説明してやらなければならないらしい。  それはとても面倒ではあったが、放置していた所で積み重なるだけだろう。 「知ってるだろうけど、いや、人間なら当たり前の事なんだよ。例えば、僕はウォル=ピットベッカー。  僕の事そのものを表すのが名前なんだ。こういうと大層に聞こえるけどさ、誰だって生まれる時に貰ってる物だよ」  ウォルがそう説明してやると、少女が困ったような顔をして言った。 「私、名前持ってない……」  少女はそう言ったが、恐らく少年は彼女が嘘をついているのだと思った。  大よそ、こういうのは名前を明かせない手合いの常套句なのだ。本にもそう描いてあるのを彼は思い浮かべる。  長い付き合いになるでも無し、少年は気楽な風に空を見上げる。すると、輝く月が見えた。  白い月だ。この世界の空に浮かぶ三つ子月。それを見ながら少年は言った。 「じゃあ、僕が名前をつけてやる。そのままじゃ呼びにくくってしょうがない」 「本当?」 「勿論。丁度、今浮かんでた所。良し、今から僕は君の事を──」  すうっ、と息を吸い込み少年は言う。 「ツクヤ。そう、ツクヤって呼ぶことにする。僕のことはウォルでいいよ」  ツクヤ、そう名づけられた少女はエメラルドの目をぱっちりと開いて、それを聞いていた。  少年は満足した気分になる。怯えていた相手とは言え、改めて見返してみれば可愛いものである。  よくよく観察してみれば美人局と言う訳でも無さそうである。おまけに、何処か抜けている、と言うより頭の弱そうな調子だ。  そう思えば一転して幸福な気分になれると言うものである。  漸く僕にもツキがの一つも廻って来たか。そう思いほくそ笑む。 「つくや……ツクヤ……うんっ、私はツクヤ」 「僕はウォル、だね」 「うぉる、ウぉる……ウォルっ!」  自分と、それから少年の名前を何度も何度も繰り返してツクヤは月を仰ぐ。  ウォルは、と言うとそれを見て哂っていた。考えている事は勿論──  兎にも角にもあの安宿ともついにおさらばに違いない。元手はあるのだ。  どこぞのギルドにでも徒弟として入ればいい。支度金の充ては出来た。  漸くとまっとうな定職に就ける。こんな浮浪者同然の日雇いモドキなんてもう二度としてやるものか云々。  冒険者として名を上げてやろう、などと言う野心なぞ一欠けらも存在しない。  だが、彼の思考をぐぅ、と言う音が遮る。腹の音だ。それは少年の物でもある。 「……」 「?」  酷く、間抜けな音だった。こずるい打算を働かせているような時は尚更である。  ややあって、誤魔化すように口を開いたのはウォルだった。 「何処か、食べに行こうか」 /  夜の街とは言っても、その素性を問わないのであれば出歩く者はそれなりに居る。  無論、そんな連中を当て込んだ店、と言うのも少数ながら存在するのは前述の通りである。  塩と僅かな香辛料を塗した魚が香ばしい匂いを漂わせている。それを見つめる瞳がきらきら輝いている。  むっつりとした顔の老人が背中を見せて、何やら生魚にソースを塗りたくっては焼いている。  老人にとっては、これもまた概ね何時もの光景であった。  最も──ある一点を除いて、だが。  何にしてもそうであるが往々にして夜の街を出歩く人間と言うのには種類が決まっている。  老人にしたってそういう連中ばかりを見慣れているのだ。  だが、この真夜中に少年と少女と言う取り合わせはちょっとした珍客でさえあった。  むっつりとした顔の下で下世話な勘繰りをする辺り、この老人も又、夜の街にふさわしい人材ではあった。  木の皿に魚、それから酒を杯に、更には巻貝(皇国の港町では良く採れるのだ。淡水性の物もおり、親しまれている)を満杯にした器。  安煙草を巻くのに一服置き、それを無作法に彼らの前に置く。  そしてそのまま椅子に座ると、読み古しの冊子を読み始める。  が──彼のぼんやりとした眼は、ちらりちらりとその珍妙な二人連れを見ていた。  彼の見た所、どうやら冒険者であるらしい。二人揃って着古した服に大荷物。  それは各地を放浪する連中に共通した格好だ。最も、確実であるのはそれぐらいで、後は服装から境遇に至るまで千差万別だが  行商人、と言う可能性も有り得たが、そう言った連中ならここまで無駄な出費はすまい。  何れにせよ客は客。しっかり代金を頂戴した以上それなりに扱わねばなるまいが、 こうも貧相ななりの餓鬼が皇国銀貨で一枚も支払ったとなれば話は別だった。  どう考えた所でこの二人連れにそんな支払能力があるとも思えない。    不釣合いであるならば、それなりの勘繰りでもしてみない事には面白くないことこの上無いのである。  彼が浮かべた想像は第一には依頼の帰り、それも、それなりの事をこなして来た後だ、と言うもの。  これならば銀貨にも、月とジェラードグミと言う様子にも説明はつく。  裏づけのしようが無い為にどん詰まりの結論ではあるが。  小娘の方は、と言うと老人が作った料理を何やら世界で一番美味しい料理でも食べているみたいな様子だ。  皇国では余り見ない、小娘が亜人である事を示す狐の耳が忙しく動いていて、まるで小動物のようだった。  彼とて料理人の端くれ。嬉しくない筈は無いのだが、その様子を見ているとムクムクと別の想像が鎌首をもたげて来る。  酷く月並みな想像ではある。要するに、駆け落ちした若い恋人、もしくは人攫いと言った所か。  冒険者どもには良くあるのだ。なりは良くとも、武装し定職も持たずうろついていると言う時点で盗賊と大差は無い。  と、言うよりも場合によりけりで盗賊、山賊、傭兵、そして冒険者、これらの職業を行ったり来たりしていると言うべきか。  どの道、貴族や大商人以外なぞ人にあらずとばかりの都市では、人一人が居なくなった所で誰も気に止めはしない。  『人間以外』ともなれば尚更である。  老人の目は、こんな時ばかり嬉々として働き一挙手一投足を無遠慮に観察しようと再び眼を向ける。  そして眼を疑った。 「おかわりっ!」 「早!?ちょっと待って、痩せの大食いっても限度が!と言うか、ちゃんと噛んでるのかお前!絶対丸呑みだろ!」  皿、イズ、エンプティ。時間にして僅か十数秒程の早業である。綺麗に平らげられた骨だけが遺留物、と言う訳だ。  一瞬何が起こったのか理解出来ず──長い一秒の後で少女が一瞬で魚を丸呑みにした事に気づいた。  いやいや。数は少ないが、魔法使い様にも冒険者などやっている変人がいるのだから彼女もその類かも知れない、等と老人は考え、 恐らくはその事情を知っているであろう少年の顔をうかがうけれども、彼も又呆然とした顔を浮かべているばかりだ。  想像を縦糸とし、周辺状況を横糸としたカオス──と言うよりは、寧ろ出来の悪い寸劇といった所か。  いやはや、井戸の底に居たとしても、見上げた世の中とは実に広いものだった。  そうして、魚を一飲みにした娘は物欲しげに老人を見ていたけれども、少年が無言で貝の入った皿を彼女に差し出す。  これが洒落た酒場の一幕ならばそれなりに絵にもなるのだろうが、こんな場末の安屋台では貧相さばかりが目立つと言う物だ。  地面に捨てた吸殻を踏み消しつつ、老人は眼を泳がせ、それががっちりとした体格で、黒い毛並みの獣人を捕らえる。  ぎしり、と音を立てて椅子に座り、料理を注文した彼の顔には喜色が浮かんでいた。 「お、今朝の──トーマス・エヂスンだっけか?いいねぇいいねぇ、そんなイカすスケ引っ掛けるなんて羨ましい。  ああ、オヤジ、ジンも追加してくれや。上物だぞ。不味い密造ジンなんざ混ぜやがったらただじゃおかねぇ」  空元気かそれとも躁病か判断に困る物言いにトーマス某だの、ウォル某だの呼ばれていた少年は少々面食らったようであった。  少女が「トーマスって誰?」などと言葉を添え、少年が言いにくそうに答える。  曰く、「ええと……実は、それ嘘の名前で。正直、あの時割ってはいる勇気は僕には」、と言う事らしい。  成る程、偶然の再会なのだろう。有り触れた言葉だが、縁とは奇なるものだ、と老人は思う。  獣人の男──ドーガと言うらしい、は何やら凹凸と青痣がが多そうな頭をさすりつつ、ガハハと大笑する。  狐耳の少女が「何か嬉しかったの?」などとたどたどしい口調で言った。  ぐびぐびとジンを飲み干し、酒でしわがれた声でドーガが叫ぶ。 「それは良い事聞いてくれたお嬢ちゃん!捨てる神あれば拾う神あり、まだまだ世の中すてたものでも無かった!  禍福のラクレイル様トランギドール様万歳三唱っとくらぁ!」 「で、どうしたって言うんです?んな大声で……」  ちまちまと楊枝で貝の実をほじくりつつ、ウォルが言う。 「仕事だよ仕事。仕事が見つかったんだよ。それも前金まで出やがった。もう、ホクホクだ!冒険者になって見るもんだな!」 「そりゃまた……運が良かったッスね」 「あんまり嬉しそうじゃねぇなぁ、いかんぞぉ。もっと喜べ。さぁ!」  一口エールを飲んでふらふらしているツクヤを無視しながら、馴れ馴れしい様子のドーガにウォルはため息を付いた。 「いや、僕の方は本当不景気で……ははは」 「そりゃ悪い事話しちまったなぁ!まぁ、今日は飲みな!お嬢ちゃんもだ!オヤジ、じゃんじゃん酒と飯持って来てくれ!  初仕事の祝いだ!盛大にだぞ!」 「子供に酒は体に悪いって本に……」 「ばぁけ野郎!俺がお前ぐらいの時はもうだな!兎に角飲まないと背も伸びねぇんだよ!」  老人は、恐らく一緒に飲めるならこの獣人は相手は誰でも良いのだろうな、と至極まっとうな結論を下した。  だが、景気が良いのはそれだけで結構な事だ。老人は儲かり、彼らは楽しむ。どちらにも損にはならない。  そんな事を思いつつ、酒瓶の封を切る。何やら真っ赤になった笑い顔で──片手に木のコップを持っている事からして、 恐らくは渡されたジンをそのまま飲み干したのだろう──何やら妙な歌を歌いながら踊っているツクヤと呼ばれていた少女が眼に入った。 「こいーこいー ひとども こいーこいー ひとども。 きょうは つきがきれいなひ。  とってもつきがきれいだよ。 一緒に笑って騒ぎましょ。ひっく」  何を言いたいのかはさっぱり解らないが何を言っているのかは理解できる。  要するに、酔っ払いの戯言だった。そう切り捨てる。と、言うのも遠く、ふらつく足取りで近寄ってくる一団が見えたからだ。  仕事明けの港湾労働者だろう。薄ぼんやりとした月明かりのせいで人相までは解らないけれども、 老人は経験からして、辺境からやって来て重労働を生業として皇国で繁茂しているオークの一族だろう、と思った。  が、その認識をどすん、と椅子に座った気配が打ち消す。  見れば、爬虫類の異相がそこにはあった。サーペンタイル族、皇国の辺境に暮らすリザードマンの一氏族である。  恐らく、河荷を運んでいた帰りであるのだろう。多くは無いが、時折見かける屈強な種族だ。  彼は流暢な皇国一般語で「主人、魚と酒を」と言った。先程の黒毛の獣人がその彼を見て、長々とぐだを巻いていた所の少年を解放し、 標的を彼へと移す。リザードマンの表情と言うのは老人には解らないが、実に嫌そうな顔をしているだろう事は容易に想像できる。  最も、彼にもそれほど余裕がある筈も無く、どんどん魚を焼き始める。  勿論、オークどもに対しては調味料の量は誤魔化して、だ。彼らの舌は石ころと変わらないのである。  そうして、取り合えずとばかりジンの瓶を置いて厨房に引っ込んでいた老人はややあって、 しわがれ声やら豚のような声やらの大合唱を聞いた。  皿を片手に戻ってみると、そこは乱痴気騒ぎだった。  十分予想された光景ではあったけれども、しこたまジンを流し込んだ酔っ払いどもが周囲の迷惑なぞ知ったことでは無いとばかりに、 歌い、騒いでいるのだ。と、言うか、更に客は増えていた。品書きを読んだらしく、こんもりと銅貨の山がカウンターには積もっている。  そうした後に、各自好き勝手に酒を痛飲しているという按配だ。  オークの他に見えるのはオーガだろうか。ゴブリンだろうか。  前者は腕力を頼みにオークを従えていた過去からは決別し、今や知恵をつけたオーク達に使役される連中であり、 後者は相も変わらず、哀れな知性と体力を持って他種族に隷属している連中である。  「飯はまだか!」「酒はまだか!」「オれのサかな、先に注文しタぞ」「きゅう!」「いいから俺の話を聞いてくれよ!」  因みに、最初にやって来た少年はと言うと、口にジンの瓶を突っ込んだまま、冷たい街路にくずおれていた。  老人は「喧しい!エールでも飲んで待ってろ!人数が多すぎる!」と活を入れ、酒樽と、それから蜥蜴男に魚を置くと、 再び魚を焼き、貝をいい塩梅の塩水で煮始める。  正に皇国と言う街の縮図であり、近隣種族の駄目人間代表の集いと言っても良かったが、 老人にとってはそんな事よりも目の前の魚を焼き、貝を荷、酒瓶の封を切る事ばかりが今の関心事であった。 「おお、アレが見えるか戦士殿!あれこそ我等ドワーフ憩いの地、酒樽と肴の──」  恐らくドワーフの冒険者らしい声が聞こえ、今や渦となった酔漢共が口々に歓迎の言葉やら調子はずれの歌やらを歌うのを聴きながら、 生涯で一番忙しいであろう、名も無い屋台を引く老人の夜は更けていったのだった。  嗚呼、そんな事よりも今は、目の前の仕事に集中しなければ──  next