月華草     01 はじまり  皇国暦2226年、夏。  乾いた音を立てて本のページを開いた。  黄色く、薄っぺらく、安っぽい本だ。  『ぼく』は、それを見ている。慰めの為にだ。   ぼくは冒険者と言う職業をやっている。十六にもなって仕事をしない訳にもいかないからだ。  でも、それは余りにも大変で辛い。だから、ぼくはしばしば空想や、時には妄想と言ってもいいような世界に逃れてしまう事がある。  だから僕は、その時ばかりはおしゃべりだ。最もそれは上滑りであるのだけれど──それはどうでもいい事だろう。  ぼくは兎に角、自分の慰めと言えば想像や空想しか知らなかった。  /     そのむかし。  冒険は同じクラス(職業)だけでパーティを組んで行うものでした。  価値観が違いすぎるため、誰も他のクラスを信用しなかったからです。  ところが中には、同じクラスの仲間にパーティを組んでもらえない落ちこぼれもいました。  臆病な戦士ジノベルク、のろまな盗賊マロット、愚かな魔法使いコーセリア、奔放な僧侶ラルフォン。  仕方なくパーティを組んだ彼らは、最初こそケンカが絶えなかったものの、やがて、 互いの弱点や短所を補いあえることに気がつきます。  そんなある日。  おそろしい魔神があらわれ、王様の城を乗っ取ってしまいます。  人質にされた姫を取り戻そうと、神殿や戦士団、盗賊ギルドや魔術師組合が城へと向かいましたがことごとく敗れ去りました。  ところが、「あぶれ者の寄せ集め」と馬鹿にされていたジノベルクたちが、姫の救出に成功したのです。  人質の心配がなくなった王さまは、軍隊を組織して魔神を追い返しました。  ジノベルクたちは英雄です。もう誰も彼らを哂うことはなく、逆に彼らの真似をしはじめました。  こうして彼らは、「一番はじめの冒険者たち」になったのでした。  /  ベットに寝転んでいた少年──ウォル=ピットベッカーは、そんな粗筋の小説を読み終え、起き上がった。  幾度と無く模倣され、書き綴られたおとぎ話であり、小説である。平たく言えば、良くある物語である。  そして、今年十六に届こうかと言うばかりのこの少年もまた、物語に語られる冒険者であった。  目に映る物と言えば──皮膚病の温床ともなっていそうな多段ベット、冒険などとご大層な名前に似つかない少ない私物、 朝の日差しが目を焼くようなカーテンの無い窓、個室などと言う贅沢は許されないとでも言うが如しの狭く暗い相室。  そんな、皇国と言うこの国の貧乏人の典型のような生活であっても冒険者は冒険者である。  淀んだ目をしたその少年は無言。頭を掻きながら、抱くようにして眠っていた貴重品用小箱を背負い袋に放り込む。  こういった場所には、当然ながらありとあらゆる不品行が絶えない。その為のささやかな自衛策だ。  幸いにして、少年はまだ比較的この街に来て日が浅くその類の犠牲にはなっていなかったが── その事実は若い少年の夢やら希望やらを枯死させるには十分であった。  ウォルは、気だるげに、ややぎこちない手つきで最も安かった鎧、ウッドアーマーを身に着ける。  それは胸部から腹部にかけてを油を塗りこめられた木で覆っていたが、良く見れば少し乾いているようにも見える。  ブロードソードも同様の安物で、全身これ下っ端の雰囲気を漂わせていたが、ここの住人たちは皆程度の差はあれ似たような物だ。  冒険者、と一口に言っても様々な人種がいる。  彼が読んでいたような小説もそこのけと言った調子で破竹の勢いを示す者。  仕事として依頼を果たし、日々の糧を繋ぐ者。  軍人や傭兵と変わらない者から、変わり者の学者まで、それこそ雑多な人間が一括りに『冒険者』と呼ばれている。  そして、その中には当然、このウォル=ピットベッカーと言う名の少年のようなクズ同然の物も含まれる。  そう言った人間は、金の都合が付けば諦めて他の道に付く者も居ないでは無いが、 大抵の場合、冒険者のようなゴロツキの代名詞に居つく輩はそんな手段の取りようが無い場合が殆どである。  その上、悪い事には雑多であり、時に途轍もない存在を生み出すが故に、冒険者には同業者組合が存在しない。  それ故に冒険者の社会とはほぼ完全な実力主義であり、ゴロツキ一歩手前という世評に相応しい物なのだ。  少年も、その一人だった。無論、知り合いなど居る筈も無い。  残念ながら、世の中には恵まれている人間と言うのはそう多くはいない。 「仕事かぁ……面倒臭いなぁ。休もうかな……でもお腹空いたし、仕方ないか……」  少年はそんな諦め混じりの呟きを漏らした。  うたたねは終わった。くそったれな朝が来た。愚痴で心があふれそうだ。  ドアを潜る。通りに出る。人の姿。少年は目を合わさないようにする。  背を僅かに屈めながら、人々を伺うような瞳をしている。  見れば、時折同じ『匂い』のする人々がいる。吐き気を覚えそうになった。  そう言う連中を見るたび我慢がならないのだ。さりとて、どうする事も彼には出来ないのだけれど。    空は青く、少し白い。けれども彼は忘れてしまった空を見上げはしない。見ているのは地面だ。ゴミや、汚水の広がる地面だ。  最も、少年はそれを見て何も感じない。そこにあるのはただの物体であり、実体であるからである。  そう。道を行くウォル=ピットベッカーの目は淀んでいた。  「どうだいどうだい!寄ってってよ!採れ立て、新鮮なツブ貝ツブ貝だーよ!」「キャベツー、今日、農家から届いたばかりのキ ャベツー!」「朝はやっぱりパンが一番!パン、パン!焼きたてのパリパリ、パンはいかがー!?」「レーモネード!仕 入れに乾いた喉にレモネードー!!」「さぁさ当店自慢のフィッシュ&チップスだーい!!」  朝の活気を前にしていると言うのに、その口を噤んだまま言葉を忘れている。  びしゃり、と見知らぬ誰か。背格好さえ見えない誰かが踏んだ足に水溜りから跳ねた泥水が被った。  ぼんやりとしたまま歩いていたので、思い切りだ。ちらちらと辺りをうかがってる癖に、この有様。  歩く。歩く。通りを歩く。  見えてきたのは、通りに面しているくせに、一種異様な──客層を省みれば当然であるが、酒場、つまるところ、 ゴロツキ(冒険者)の溜まり場である。   真っ当な人間なら寄り付きもしないような場所ではあるが、少年にとっては馴染みの場所であった。  無言でドアを開けると、酒の匂いが少年の鼻を突いた。  がやがやと話声が聞こえる。それは言うまでも無く冒険者連の物だ。  どこの街にも大抵一つか二つはこういった酒場がある。  それは、冒険者と言う職業の出自の一つからすれば当然でもある。魔物、と言う生物が存在するこの世界は、 人類が生存するにおいて、それらとの戦争が常に付きまとっている。  魔物を狩る者達。人間に比して、あまりに強大なその生命との闘争には、当然ながら人は第一に数を選択した。  しかしながら、どれほど偉大な王であっても、常々それら兵団全てを維持する事など不可能であり、 平和が訪れた時にそこからあぶれた者達が、傭兵、野盗といった親戚を生みつつ、 人類の生存圏に残る魔物の残党供を殺す事を生業として生まれたもの、それが冒険者の一つの始まりである。  最も、皇国の中でも貧困区画で有名な東側に住まうウォルにとっては、冒険者と言えば傭兵以前にゴロツキであり何でも屋なのだが。 「紅茶とパン」  カウンターの席に座り、銅貨数枚を置く。ふとっちょの主人が一瞬だけ彼の方を見ると恐ろしく固いパンと、紅茶のカップを置いた。  彼は特に何も考える事は無い。がじりがじりとパンを咀嚼し流し込むだけ。  ぼろぼろの紙、それもどこぞのあまり物に穴を開けて継ぎ足した代物には、走り書きめいた大量の文字が書かれている。  仲介料だのと書かれたそれ、要はこの酒場の主人がやっている仕事の口利きで、更に貨幣を積んでから流し読みに眺める。  『若い冒険者募集。下水のスライム掃除。パーティでも歓迎』  『女性優遇!臨時ウエイトレス募集。出来次第では正式雇用も考慮』  『雑用募集。連絡はこちらまで』  『荷物配達。力自慢希望。種族差別は致しません』  色だけで味も匂いもしない紅茶を飲む。仕事先には黒インクで書かれた名前がびっしりと。  別に本名である必要性などは無い。要は人手があるかどうかが問題だ。少年の知る限りは。  紙束を読むウォルの格好だけは堂に入ったものである。  そうしていると、どん、と向う脛に傷がありそうな──と言うよりも、既に片目の潰れた獣人種の大男が少年の隣の席を取った。  彼は一瞬、少年を見て──より正確にはウォルの手に取っている紙束を見ていた。 「ボウズ、これから仕事か?」 「ああ、いえ、今探してる最中で」 「そうかぁ。そうだよなぁ」  相槌を打つ男の顔の中、右の目が傷跡も生々しく潰れている様子に少年は肝を冷やしつつ、視線を上下している。  この街ではよくある光景ではある。と、言うよりもありふれた光景であるというべきか。  ウォルは、名も知れぬその獣人の男の事を、何処か森の奥から連れ出され、今や大生産が可能となった各種工場で事故にあったか、 それか逃げ出してきた奴隷なのだろう、と思った。良く見れば、犬のようなその耳にもいくつもの鉤裂きが見て取れる。  大抵、彼らはその原因と同時に職を失い、冒険者になった口である。悪い事には酷く荒くれであろう、と少年は決める。  最善手は仕事を探して回れ右なのだが、生憎と見つかるものは他人のサインか条件に合わないものばかり。  男は世間話の積もりか、それとも愚痴を言えれば誰でも良いのか勝手に話を続けている。 「見てくれよ、この目。酷い街だぜ、ここはよ。おい、オヤジさん、ジンをこっちに頼む。それとボウズ、名前は何だ?」 「はぁ……教えなきゃだめですかね、僕の名前」 「減るものじゃない。いいだろう、別に。ああ、俺は、ドーガだ。黒毛のドーガ。俺が名乗ってやったんだから、さぁ名乗れ」 「トーマス=ヱジスンです」 「トーマス、どこでも沢山ある名前だな。俺ん黒毛並みに賭けて良いぜ。まぁ、トーマス、聞けよ」  出された強いだけの粗悪ジンをぐびぐび飲み下し、いい感じに脳髄がぐらつき始めたらしい男が言う。  周りの連中は、と言うと別段聞いた風も無く、ただウォルと男の席の周りにだけ壁で仕切られてるみたいに寄ってこないというだけだ。 「俺は、ちゃんとした所で働いてたんだよ。ああ、そりゃあもう働いてたさ。一生懸命によ。 働き者だってんで、俺を褒めてくれる人間さえいたんだよ。でも、クビだ。答えは明々白々。 ちょっとした事故で目が潰れて、気味が悪いてんで、ポイだ。勿論、もう稼いでた金も殆ど無い。未来も無い。死ぬだけだ。 救貧所だって、俺みたいな人間以下は助けちゃくれん。盗みでもすれば縛り首で慰み者。 どうやって食ってけばいいか途方に暮れるとはこの事だな。うん。ああ、俺の運が悪かったんだろう。 つまり禍福のラクレイルは俺に死ねって訳だ、くそったれ」  そうやってぞろグダ巻き始めた男に適当に相槌を返しつつ、仕事を見繕う。  店のオヤジはと言うと、早く出てって欲しいとでも言いたげな迷惑そうな顔で酔っ払いを見ている。  少し離れた席からは、何やらこっちを見ながらさも愉快げに笑ってる冒険者の一団がおり、彼らは男に向けて 「それは災難!じゃあ、毛皮屋にでも行ったらどうだ獣野郎!その暑苦しそうな皮でも剥いで売りゃ、絶対いい金になるぜ」。  馬鹿笑いが続き、酔っ払い──ドーガががギロリと睨み返すが、それを見てその冒険者達はさらに笑い声を大きくした。  ひっく、と酔っ払いは言う。きっと、今の彼でも思ったままに行動すればどうなるかぐらい解っているのだろう。  ウォルはいい加減この男に見切りを付けたくあった。半分は男の言葉にうんざりしつつあったからでもある。  彼は、ただ愚痴を言いたいだけなのだ。少年自身は勿論違うのだけれど。  一つのサインが突いていない、尚且つ都合の良い仕事を見つける。ざっ、と自分の名前を左で書き連ねる。  席を立った。声がかかる。今の男だ。 「おい、俺の話はまだ終わって無い」 「すみません。今から仕事に」 「終わって無いんだよ!」  明らかな怒気を孕んだ声は、八つ当たりと言う目的もあるのだろう。  嫌な人に絡まれたもんだ、とウォルは思う。そして、その光景を見て、男を嘲笑っていた冒険者連がまた笑い出した。  少年はそんなもの聞きたくもなかったが、どうやら今のやりとりが面白い、と言う旨の事らしかった。  店の主人が明らかに不機嫌そうな顔で「喧嘩をするなら他所でやってくれ」と言う。  無視を決め込んで足早に立ち去ろうとするものの、しつこく声、声、声。  よたよたと不器用に歩く男に冒険者達がまた馬鹿笑いする。堪忍袋の緒が切れたのか、ドーガと名乗ったその男が怒鳴り返した。  獣人特有の力強さでもって殴りかかろうとする彼の姿を少年は最後に見たけれども、彼には関係の無い事だ。  「おいアーレフ!手加減してやれよ!?」「言われるまでも。まぁ、事故までは責任は──」  今更、死体の一つや二つ増えた所で誰も気にしない事だけは確かだったが。  /  斡旋されたのは大した仕事では無い、半分は単なる雑用である。それは冒険者なる職業の実体を示してもいた。  ウォル=ピットベッカーは別にそれに関して思う所は無い。思考停止とも言うが、世の中には考えない方が良い事もあるのだ。  そうして少年は船着場と船の間を何度も何度も往復している。  皇都の外れ、この街を貫き遥か海まで通じる大河川であり、都市への物資輸送の多くを担っている。  少年冒険者が請け負った仕事とは、それら河川輸送船舶からの荷下ろしの補助であり、もう半分が前述の通りの雑用だ。  南海で取れたニシンの塩漬けを満載した樽は酷く生臭い。汁が漏れていないのは幸いではあるが、 出入りしている船自体が生臭いのだから結果は大して変わらない。  見ればゴブリンやらオークやらと言った人類圏では爪弾きにされる種族が人間種達の中にまばらに混じっている。  確かに、肉体労働と言う面からすれば人間の倍ほども役に立つし、何より彼らは悪食で、強靭だ。  たとえこんな掃き溜め同然の区画でも、追い出されさえしなければ食っていけるだろう。  事実、ウォルとて羽振りが良さそうに夜の街を闊歩するオーク・ギャングどもを見知っている。  集団で寄り集まり人間社会の知恵をつけた彼らは皇立の合法、非合法を問わないシーフギルド、 要はヤクザどもと日々凌ぎを削っている事だろう。そのお陰かは知れないが、事実、 別に波風立てる積もりの無いデミヒューマンの都市内集落とでも言うべき場所が皇都にはいくつも点在している。  無用の諍いが無いは実に良い事であるが、少年のように混じり気なしの人間種の下層階級からしてみれば迷惑この上ない。  市場経済の原理と言うやつで、そいつらが増えれば増える程、賃金が鰻降りに下がっていくのだ。  それは当然少年の懐事情も直撃しており、更には── 「何さぼってやがる!働け!オークやゴブリン以下か!!」 「はい!!只今ッ!」  ウォルはヤケクソ気味の声で叫び返し、作業の速度を更に速める。  そんな彼の横では、それよりも更に力強く肩に刺青をいれたオーク種の青年が塩漬け入りの樽を運んでいた。  要するに、働くからには彼ら並の効率が要求されるのである。仕事の親方の怒鳴り声はその証明であった。  願いが叶うならば今すぐ魔物を絶滅して欲しい、と思わず少年は金色の神龍に祈りを捧げそうになる。  しかしながらそんな奇跡なんぞ起こらない事は彼自身良く自覚していたので、代わりに奥歯をかみ締めて抱えた樽の重みに耐えていた。    冒険者とは人々の口、特に中流から上流階級の人々に時に羨望の念を持って語られるが、現実はそれほど甘くはない。  そう言えば必ずと言って良いほど改革論、各個の責任論を論う者達が現れるけれども、 もしも彼らのごときが言う言葉が全面的に正しいのならば、元より全ての冒険者は大富豪となっているに違いあるまい。  結局の所、この世界では生まれと周囲の状況、それからほんの少しの努力と運が全てを決定するのだ。  ウォルが指示に従って幾つも船を行き来しつつ荷下しを始めてから、六時間程が経過しようとしていた。  昼食は一向に片付く気配が見えない船の群れに一段落がついてからと仰せつかっていたけれども、 明らかに過剰なコスト削減を目的としているらしいそんな話を糞真面目に聞く積もりなど微塵も無い。  あくせくと移動し、代わり映えの無い単純作業を繰り返しつつも、人目を盗んではポーチに突っ込んでおいたビスケットを口に投げる。  真っ当に働いてる人間が何故に盗人よろしく他人の目を気にしなくてはならないのか。  どう考えてもそれは貧乏のせいであったが、悲しくなるので思考停止。  更に数時間が経過する。  そうして日もとっぷりと暮れ始めた頃、好き勝手に罵声を浴びせかけるだの、上役と思しき人間に媚を売るだのしかしていない 羊頭狗肉も甚だしいインチキ広告を打っていた仕事の監督官が、漸く終わりであるらしい言葉を告げるのを聞き、 ウォルはいい加減痙攣を始めていた四肢に最後の渇を入れる。待ちに待った給金の時間だからだ。  最後の一樽を巨大な荷車に載せる。足は棒。腰は粉砕。腕はまるでハムにでもなったみたいな気分だ。  ゾンビー宜しく這いずり歩きをして、僅かな給金を受け取った。  目を見返してはいけない。どういう額の給料を払うかは相手次第で、機嫌によりゼロにも減少しうるからだ。 「ええと……ウォル=ピットベッカーか。金だ。受け取ったらとっとと失せろ」  その糞在り難い言葉に頭を下げつつ、勿論他のオークやゴブリンと同額の日当が入った皮袋を手渡される。  文句を言う気力など全く残っていない。根こそぎ消滅してしまっている。  勝手に開き感情の無い礼の言葉を連ねる口はそのままに任せ、少年は背中を向けた。  結局昼食は固焼きのパンを数個口に運んだだけだった。    少年はそのまま朝通った街を反対に、帰路へとつく。  もう夕暮れ時で、誰もが家路を急いでいるが、彼らでさえその人種は二種類だ。  身なりが良くて足取りの軽い者と、貧相でふらついている者。  勿論、ウォル=ピットベッカーはそのダメな方だった。  見れば嫌でも解ると言う物だ。夜に見る幸せな夢さえ、金や力で得る物であるのだ、と。  それは何時の世もピッタリと張り付いて、決して逃さない強い強い概念であった。  彼の一日は、何時もこんな風に過ぎていく。  道沿いの屋台で極めて遅い……と言うよりも、忘れかけていた昼食にフィッシュ&チップスを買った。  ウォルはたっぷりとビネガーをかけて胃に叩き込んでいく。酸っぱく、脂っこいだけだ。旨いとも不味いとも思わない。  哀れな乞食同然の物売り、中古品売りの声は未だ絶えず、それから街娼が辻に立ち始めている。  勿論、夕方と夜の境目は冒険者が最も騒ぎ出す時間帯だ。道沿いの酒場では、誰かがビールと一緒にガラス越しの影絵となっている。  時折、色とりどりの光がそれを彩るのは魔法のせいだろう。  ヤクザは通りすがりに因縁を付け、酔っ払いは幸せそうな鼻歌を口ずさみ、当て所なくふら付く浮浪児はネズミ宜しく追い散らされる。  頭の悪い若者夫婦は夫が妻を死にかけるまで殴り、不良共は賭け事を間抜けに持ちかけてはカモにしている。  闘犬ならぬ闘モンスターに沸き立つ人々と、それらの上げる異様な叫び。  路地は、全く持って猥雑、混沌、無秩序と不潔の極と言う様相を示していた。  一言で言えば、魔女の鍋が沸き立つようだ。誰しもが、忌わしい明日と糞みたいな今日を忘れようと乱痴気騒ぎに精を出している。  ただウォルと言う少年には、そんなものに混じる気も、体力も残ってはいなかった。  この皇都にやってきた時からそうだし、疲労の極みにあっては大抵の感情と言うものは鈍磨してしまう。  そうなれば、必然的に彼の足は真っ直ぐと根城にしている安宿へと向かう事になる。   ……が、その足取りはカタツムリみたいにのろい。ついでに言えば、少年は最早何も考えられない。  ぼろ雑巾のように擦り切れれば、後は眠るだけだ。  何人かが声をかけてきた気もしたけれど、耳に入ってはこない。ウォルの頭は酷くぼんやりとしていた。  それでもスリにだけは気をつけ──最もスリは皇国でなくとも、腕の切断と言う刑罰が課されるから数は多くないが── がっしりとサイフをポケットの中で握り締めつつ、漸く、辿り着いた。  それは朝、この家を出たときと相変わらずのボロで半分傾いていて、宿とは名ばかり、 単に小金を稼ぐために意地悪な老婆が空き家を貸し出してるだけと言う代物に違いなかった。  勿論食事は出ないし、プライバシーもへったくれもあった物ではない。完全に寝る為だけの場所だ。  皇都には、この手の安宿は至る所にあって、たいていの場合、まともな家も無い連中、例えば炊事婦だの、安淫売だの デミヒューマンだの、小役人だのが蜂の子宜しく鮨詰めに暮らしている。  ついでに、大勢の人間が秩序も衛生も無く一つ所なものだから、良くて悪の巣、悪ければ廃墟同然と言った施設でもある。  この宿だってそうだ。  彼が今朝読んでいた小説では無いが、悪罵を山盛りにした所でとても足りないような連中が、少年を含めて雁首そろえている。  その、総安物製建築物の中に入ると、真っ暗だった。  外からも全く明かりは見えず、まだ誰も帰ってきていないのだろう、と少年は判断した。  幾らボロ宿とは言っても、蝋燭の一つも付かぬ日など余り無い。  ……真っ直ぐ帰ってきたお陰で、まだ誰も戻らない内についてしまったのだろうか、とウォルは思う。きっとそうであろう。  どの道、そのまま眠ってしまうつもりだった彼には余り関係の無い事ではあるが。  兎にも角にも少年はそのまま床に付いた。  朝とはまるで逆の手順に装具を解き、価値の無い装備なんかより本当に大切な貴重品を抱きしめて眠りにつく。  誰もいない。誰一人としていない。  ベットの中、丸くなり目を閉じたウォル=ピットベッカー以外には。  彼は母の名を呟き、目を閉じた。  少年は余りに孤独であった。  /  ガチガチと体が酷く震えているのを少年は自覚していた。  酷く、苦しい。余りにも、恐ろしい。  真っ黒い夜闇を孕む窓の外、遠く煌く火とざわめき。近くに聞こえるものは蠢く音。  それは敗残者どもの足音だ。まるで怨霊か何かのように都市の闇に蟠る、少年も何れそうなるだろう種族の群れだ。  彼らは、負け続けると言う当然を得ている。汚物を作り続けるメガロポリスの滓。  その事実を許容し、了承し、そうである事て生き延びている。  だが、不幸にもウォル=ピットベッカーはそうではなかった。  故に、彼は自らの緩やかな変質とこの都市なるものを恐れ、苦しんでいた。  僕は酔うものか。酔ってたまるものか。酷くにおう、この空気に。  少年は念じた。しかし、歯の根が合わない。心臓は今にも潰れてしまいそうだ。  恐ろしかった。理解できぬカオスの坩堝と、暗い未来は少年を心底恐怖させていた。  ベットの中、しかし少しも眠れそうもない。  半ば妄念と化している拒絶の意思が少年の脳を支配しているからだ。  そうして、少年は真昼をただ一人で拒絶するかの如く、祈りと呪いとを吐く。  ──孤独とは心と知恵とを枯死させる、魂の老衰を招く病である。  それは絶望ととても仲が良い。彼らは大抵の場合、手を取り合ってやってくる。  ちくちくする毛布から少年が顔を覗かせる。蒼い月。三つ子の月の一つが、満月となって大地を照らしていた。  僕はひょっとすると狂い掛けているのかもしれない。  ウォルはそんな突拍子も無い事を考えた。けれども、その癖今の状況を一番手っ取り早く説明できる気さえする。  人が本当に狂っているかどうかなどは、少年の知りうる所ではない。  だが、そう思うこと。それそのものが事実を事実とする。  ウォルはそんな事を考え、途端に奇妙な笑いが込み上げて来るのを感じた。  不思議と不安が消え去っていく。最も、彼が浮かべている顔はとても人に見せられたものではなかろうが。  そう思えば、気持ちが楽になる。その代わり、意識は冴え渡り、眠気は相変わらず訪れなかったけれども。  そうして、どれぐらい時間が経っただろうか。  まどろんでいた少年の意識はドアの音で再び覚醒し、しかし起き上がるのも億劫とばかりに私物入れを抱き締めて体を丸める。  物音が彼の耳に障っていた。  それは柱が腐り、床が抜けてこの安宿が倒壊するその日まで何ら変化の無かろう痙攣的な住民たちの行動にしては、 少年の空想共々、少々奇妙な出来事であった。  ここに辿り着いた住民はそれこそ泥のように眠りに付く。物理法則と同じくらい確実にそう決まりきっていてもおかしくは無い。  だから今の状況はこれ以上無いと言う位、妙だった。  そう言えば、妙に今日は月が明るい気がする。  おかしい位に頭がさえている気がする。  いや、考え直せ。ぼくは、これまでだって何一つ起こらなかったんだ。  何も無くなった人生は、それでも何も無いものだ。その筈だ。  そんな事を考えていた癖に、少年は薄く、目を開けた。  言葉も口に出来ないで、少年はよろよろと窓辺へ歩み寄る。  薄汚い部屋、町の街頭。そんなくだらない物共を圧し、蒼い光が夜に君臨していた。  シルエットとミラージュ。その二つに満ちた部屋は、文字が読めそうなぐらいに優しい夜だ。  僅かに欠けた蒼い月が彼を見下ろしていた。  少年が、魅入られたようにそれを見上げていた。  月は、全てを染め上げている。  それが何者であろうとも。変わらず、揺らがず。  見上げる者が例え彼一人であったとしても、大地は月の色に染まっている。  ウォル=ピットベッカーは、そこに普遍なるものの姿を見た気がした。  ──がたん、と。背後でいきなり誰かが躓いたような音を聞いて、そんな幻想は少年の内から逃げ去っていった。  振り返る。そして誰かの姿をウォルは見た。  next