あの頃世界は狂気と正気の境が無かったように思う。  人が魔物を憎み、魔物が人を憎み、人が人を憎み、魔物が魔物を憎んでいたあの頃。  全ての者たちが熱に浮かされたように意味も無く人を、魔物を傷つけていた。その中で 特に我々猫人は肩身が狭かった。人に非ず、魔物に非ず。猫と同じ外見を持ちながら人の 言葉を使うどっちつかずの我々は人魔両方から疎まれていた。  街を歩けば人に石を投げられ、森を歩けば魔物に襲われる。信用できるのは自らと同じ 猫人だけだった。  正直、辛かった。  その時私には祖国の為にもう一度剣を振るえと召集が来ていたし、帰ろうと思えばいつ でも帰ることが出来た。  それでも旅を続けたのは、あの時彼女と出会ったのが大きいだろう。                 人魔大戦後SS                『麗しのサブリナ』  荒野に赤いマントに羽根付き帽子、ブーツを履いた猫がいる。  腰にはレイピアをさげ、肩には魔人の目に羽と足の付いたような生き物が乗っていた。 「くそ、もう三日も飲まず食わずか……」  目つきの鋭い猫は歩きながら水筒の中身を覗きそう言った。  この猫は猫人と呼ばれる種族である。猫が二足歩行しているかのような外見を持ち、人 の言葉を操る。その長命から獣人ではなく妖精の一種ではと考えられていることもしばし ばである。  それはそれとして、現在この猫人は窮地に立たされていた。  五日前、街を出る直前にここが緑豊かな土地であると聞いた。だから、水も食料もそこ まで買い込まず、ここで調達しようと考えていた。  しかし、現在彼がいる場所はただの荒野であった。ペンペン草も生えてなければ、川も ただの溝になっている。絶望的なまでに荒廃しているのだ。皇都付近のここは五年ほど前 であれば草原が広がり、泉が点在していたのを彼も覚えている。  が、数ヶ月前皇国の作戦行動によって木は全て伐採され、草原は焼き払われた。皇国第 五軍団「圧壊軍団」の進行路にあった為と思われる。  猫人はそれを知らずここに来てしまい、そして―― 「腹へった」  現在に至る。  空腹とはいえ動けない事は無い。しかし、歩く速度は明らかに満腹時のそれよりも遅 かった。 「ルックー、お前食いもん持ってないのか?」  肩にいる生き物に話しかけるが、ルックと呼ばれたそれは目を閉じたまま反応しなかっ た。 「くそ、こういう時ばっかシカトしやがって……」  眉間にしわを寄せ不機嫌そうな顔をして、前を見た。  目に映るのは褐色の大地と今にも降り出しそうな曇天。その二つしかない。  後ろを振り向いても同じである。  だから、彼は少しだけ心細くなってしまった。 「おい、ルック。ちょっと空から何か無いか探してくれよ」  一つ目の生物を揺すると目を開けて不機嫌そうに翼を羽ばたかせ空に上った。  それはぐるぐると周囲を見回し、降りてこないままどこかに向かって飛び始めた。 「何か見つけたみたいだな」  頭上でゆっくりと飛んでいくルックの後を追う。  ルックがどこかに向かい始めてから十数分後、彼は視界に建物を捉えた。  目を凝らすとその建物には『新緑亭』と看板が掛かっている。どうやらルックはそこに 向かっているようだった。  すきっ腹を抱えつつ、足早にそこに向かう。近付くにつれて建物の細部が見えてきた。 遠目には分からなかったが、建物は吹き付ける風でボロボロになっており、看板がぶら下 がっていなければ廃墟と勘違いするだろう。 「飯……食えるのかな」  荒野にぽつんとあるそれはあまりに怪しかったが、空腹には勝てず扉を開けた。  入ってすぐに見回してみるが客はおろか店主すらいない。中は意外と普通の酒場であっ たが、盗賊が元酒場を根城にしている可能性も捨てきれない。 「誰かいないのかー」  呼んでみると、二階からばたばたと音がした。  ――鬼が出るか蛇が出るか。 「いらっしゃいませー」  猫が出た。  尻尾に付いた鈴を鳴らしながら二階から降りてきたのは彼と同じ白猫人の女性だった。 「すみませんニャ、お部屋の片付けしてましたニャ」 「気にしないでくれ。それより、飯は大丈夫か?」 「えぇ、大丈夫ですニャ」  マントと帽子を脱ぎながら彼が尋ねるとにっこり笑ってそう答えた。  彼が腰掛けてツナのマヨネーズ和えサラダを頼むと早速料理に取り掛かった。 「……。あんたはポーニャンド出身かい?」  料理を待つ間あまりに手持ち無沙汰なのでふとそんなことを聞いてみた。 「そうですニャ。十五の時に皇国に出ましたけどニャ。それと、私は貴方の事を知ってい ますニャ。――ニャンス様」  女は料理をしたまま顔を上げない。 「何でだ」 「だって、英雄のニャンス様を知らない国民はいませんからニャ」  彼――ニャルグランド=ニャンスは祖国ポーニャンドの主力重装猫騎士団の団長であり、 その名声は広く国民に知られていた。 「あぁ、そうかそうか。すっかり忘れていたよ」  が、ニャンス自身はその事を重要に思っていなかった。  だからこそ、その地位を後進に譲り今ここにいるのだ。 「俺の話はいいんだ。あんたの名前は?」 「私はエリーナ、エリーナ=ロアといいますニャ」  言いながらエリーナはニャンスの前にサラダを出した。 「エリーナ、太陽か。いい名前だ……。お、美味そうだな。いただきます」  まずはレタス単体を味わい、次にマヨネーズが和えてあるツナを食べる。それぞれの味 は合格点であった。次にツナをレタスではさみ食べてみる。 「……」  ニャンスは言葉を失った。 「ど、どうかしましたかニャ」  エリーナは急に黙ったニャンスに不安を覚え慌てて尋ねるが彼は小刻みに震えるだけで 何も言わない。どうしようかと右往左往しているとニャンスが急に立ち上がり――、 「う、ま、い、ぞー!」  ここが街中であればまず間違いなく近所から苦情がくるであろう大声でそう言った。 「なんだこの料理は。こんなに美味いツナのマヨネーズ和えサラダを食ったのは初めてだ。 レタスやツナマヨネーズ単体はさほどでも無いのだが一緒に食べることによってその旨味 が何倍にも引き出される。しゃっきりとしたレタスに包まれた柔らかなツナの食感、そし て自己主張しすぎない絶妙な加減のマヨネーズ! 今俺は餓死寸前まで腹が減っていた事 を差し置いてもこれは――美味い」 「それはよかったですニャ」  エリーナは嬉しそうな顔をして尻尾を振った。鈴がちりんちりんと鳴る。  最初の上品な食べ方は何処へ行ったのやら、ニャンスはサラダをがつがつと食べる。そ して、食べながら追加で二品ほど頼み、またサラダをがつがつと食べ始めた。 「よう、邪魔するぜ」  そこにガラの悪いスキンヘッドの人間の男が酒場に入ってきた。  最初ニャンスは客かと思ったが、どうやらそういう訳でも無いらしい。男はいやらしい 目つきで酒場の中をじろじろと眺め、最後にその視線をエリーナに向けた。  同族に向けられた視線を不愉快に感じつつニャンスは食事を続ける。先ほどのようにが つがつと食べる気は失せてしまった。 「エリーナちゃん、これが最後なんだけどさ。そろそろ疎開する準備できた?」  そう言いながら男はどっかりとニャンスの隣に座る。煙草の臭いが鼻についた。 「ですから、私はここから離れる気は無いですニャ」  毅然とした態度で男にはっきりと告げる。ニャンスは頼んだ料理を作る手を止めないの はさすがだな――などと考えていた。 「そうは言ってもさ、ここもまた戦場になるらしいし大変だよ。君の事置いてった旦那な んて放っておいてさ俺のとこおいでよ。こないだの戦は大変だったって聞くよ。もう死ん じゃってるかも知れないじゃない」 「あの人は死にませんニャ」  旦那がいたのを知ってニャンスは少々ショックであった。おそらくは皇国で知り合った 猫人じゃ猫系の獣人であろう。それにしても男はしつこく話し続ける。 「いつまで旦那を待つんだい? それにお金とかさ。ねぇ」  エリーナはこの男に借金でもしているのであろう。だから、そこまで強く出られないの だ。 「私はあの人が生きて帰ってくると言ったのを信じていますニャ。だから、すぐにあの人 が分かるようにここにいなきゃならないのですニャ」  ニャンスにパスタを出しながらはっきりとそう言った。 「だからさぁ、信じてる信じてないの話じゃないんだよ」  パスタを置き、カウンターの奥に引っ込めようとした手を男が握る。 「――痛ッ」 「俺はあんたにいくら金かけてっと思ってんだ。あ? 大人しく俺のところに来りゃ――」  カラン……。  男の言葉は最後まで出ることは無かった。ニャンスがパスタを食べようとしてフォーク を落とし、その音が酒場中に響いたからだ。 「あぁ、ごめんごめん。エリーナ、代わりのフォークをくれないか」  ニャンスがそう言うと男は仕方ないとばかりにエリーナの手を離した。 「……今日で最後だって言ったよな。残念だよ」  そう吐き捨ててスキンヘッドの男は酒場から出て行った。 「あの……、ありがとうございましたニャ」  代わりのフォークをニャンスに渡しながらエリーナは頭を下げる。 「いや、ただフォークを落としただけさ。それと今日は泊まってくよ。上はその為だろ?」 「でも、悪いですニャ……」 「何勘違いしてるんだ? 雨が強いんだ。濡れたくないだけだよ。最大の理由はエリーナ の飯が美味いからだしな」  エリーナがちらりと窓を見ると外では雨がざあざあと音を立てて降っていた。  ちりん――と鈴が鳴った。  部屋に入り窓を開けると物凄い勢いでルックが入ってきた。ニャンスが下にいる間ずっ と屋根にとまっていた所為でびしょびしょに濡れていた。 「このアホちん! 風邪引かす気か!」  部屋に入って開口一番ニャンスを罵倒する。 「いいか、俺が風邪引いたら折角録画したもん全部消えちまうんだぞ馬鹿が!」 「悪かったってば。ほれ、拭くからこっち来い」  バックパックから手ぬぐいを取り出してちょいちょいと手招きするニャンス。まったく このアホが……とぶつぶつ言いながら大人しくニャンスの手元にすっぽりと収まった。 「ま、大体の事は聞いてたけどさ。あの男どうするんだよ。今晩あたりまた来るぞ」  ニャンスはルックをふきふきしながら先ほどの男を思い浮かべる。いやらしい目をして いた。かといって性的なことを考える目でないのは確かだった。 「どうもしないよ。俺は宿の客なんだからさ、ゆっくり寝て明日雨が上がったらここを出 るよ」 「……そうか」  ルックを満遍なく拭いたあと、ニャンスは布団に横たわる。  薄暗い室内では何もすることが無かった。 「寝るわ。起きたら俺も起してくれ」  ルックから返事は無かったが、ニャンスはそのまま目を閉じた。           ※  夢である。  ポーニャンドのパレードだった。  これは確か魔物駆逐三ヵ年計画が完遂された時だったと思う。  私は馬に乗り――猫の外見をした我々が馬に乗る姿はあまりに滑稽だったろう――城下 の大通りをまっすぐ王城に向かっていた。  左右には喇叭を吹きながら歩く猫人たちがおり、後ろには私の部下総勢三二四五人がい た。元々は八五六二人いた。そのうち半数がこの計画中に散っていったのだ。彼ら全員の 名前を今でも覚えてる。ニャイア、ニャメリア、ニャーロット……。彼らは祖国の為に死 んでいった。私は英雄と呼ばれているが――違う。ただ臆病だっただけだ。  国王の為に死をも厭わないと言いながら、死ぬのが怖かった。怖かったから武芸を学び 法を学び、力をつけ、嫌いな重装備で身を固めた。ただ、それだけの話だ。  真の英雄というのはこの計画で死んだ五三一八名がそうだ。  英雄扱いは、苦痛だ。  当時の私はそんなことばかりを考えていた。  ふと、場面が変わる。  その時の私は城下町でぶらぶらしていた。非番の日だったのだろう。  酒場に入り、酒を飲む。  計画が完遂し、ポーニャンドが一時的とはいえ平和になったこの頃は諸国からの冒険者 が多く入ってきた。  酒を飲み、我々猫人を愚弄する人間の冒険者も多かった。それを片っ端から黙らせてい た気がする。無視してしまう今とは大違いである。  また場面が変わった。  赤いマントに羽付き帽子、今まで使っていたツヴァイハンダーに別れを告げ、レイピア を取った頃。私が王に国を出ることを申し出た時だ。  見送りは無くひっそりと、逃げ出すように国を出るつもりだった。マントを口元まで上 げて、帽子を目深に被り、顔を見られないようにしていた。  しかし、外壁の門が開くのを待つ間一人の少女に見つかってしまったのだ。  白猫人の子供だった。  少女は私が何故逃げ出すようにしていたかが分かっていたようで、囁く様にニャンス様 大好き、と言ってキスした後四葉のクローバーのお守りを渡した。  そのお守りは今でもバックパックの中に大事にしまってある。  私の宝物だ。  素敵なものを贈ってくれた礼を言って、私は国から出て行った。  国から逃げたという負い目がないのは彼女のお陰かもしれない。           ※  目が覚めた。  直前まで何か夢を見ていた気がするが、とんと思い出せない。  外はまだ暗く、ルックは枕元でいびきをかいて寝ている。目玉だけのはずなのに何処か ら音を出しているのか毎度不思議になる。  もう一度目を瞑っても眠たくならないので、仕方なくベッドから這い出して、窓から外 を見るとすっかり雨は上がっていた。  ――これなら明日は出られるか。  安心した。  が、その前に一仕事があるようだった。  視界に男が入った。夕方のあの男だろう。スキンヘッドが月光を反射しており、口から はだらしなく涎を垂らしている。  おそらくはここに押し込み、エリーナを攫おうという腹づもりなのであろう。  エリーナに力は無い。それは先ほどの会話や身のこなしで分かった。彼女は根っからの 守られるべき者なのだ。だからそれは成功する。  ただし、男には一つの不運なことがあった。  それは――今日この場にニャルグランド=ニャンスがいること。この一点に尽きた。  窓から飛び降りて音も無く着地し、男の後ろに回りバックパックからナイフを抜いた。 「――動くな」  男の股下に刃を突きつける。直前まで挙動不審だった男はぴたりと動くのをやめた。 「大事な物をぱっくりやられてもいいんだったら動いてもいいけどな」  ニャンスの高さから男の喉下には届かない。しかし、男にとってここは有効な箇所であ ることを知っていた。 「金なら俺が返してやる。さっさと帰れ」  王国連合の金貨が入った袋を男の前に放るが、男はそれを取ろうとしない。 「俺が欲しいのは金なんかじゃねぇ」 「……なんだと」 「俺が欲しいのはエリーナ――だッ!」  男は後ろに足を蹴り上げた。ニャンスは反応が遅れモロにみぞおちの足を叩きつけられ て地面に膝をつく。 「カハッ」  一瞬息が止まり、動けなくなったのを見て男はニャンスから距離を取る。 「あぶねぇな……、こちとらまだ一度も使ってないんだよ」  色々と問題のある発言をして男は構えを取った。  ニャンスが態勢を立て直す前に距離を詰め、もう一度蹴り上げた。  今度はかろうじてみぞおちからずらすが、その衝撃は皮鎧を突き抜けてくる。 「猫をいじめるのは嫌いなんだよ。でもおいたしたら躾が必要だよね」  そう言って男はニャンスをあちらこちらに蹴り飛ばす。  急所は全て外しているが、ダメージは徐々に身体に蓄積していく。 「ほれっ」  何も出来ないままぐったりとしてしまったニャンスを真上に蹴り上げる。男の頭上高く までニャンスは上り、重力にしたがって落ちてくる。そして、男の胸辺りまで落ちてきた 時、思い切り正拳突きを打たれて吹き飛んだ。  メキと嫌な音が鳴る。男は手ごたえからニャンスの肋骨を折ったことを確信した。その 証拠に吹き飛ばされたニャンスは吐血した。 「よし、これでいい子になったはずだ。ほら、腹見せろ」  男は本当に動物を扱うかのような顔をする。それがニャンスを苛立たせてしょうがな かった。 「……死ね」 「あ? なんか言ったか? 今俺には死ねって聞こえたんだけど。猫はニャーとしか鳴か ないよな。ほれ言ってみろ。ニャー」  男の言葉を無視して、ニャンスは男を指差す。 『――爆ぜろ』  ニャンスの魔法言語と共に男から少し離れた場所が小規模ながら爆発した。 「……は?」 「魔法ぐらい……使える……」  呆けた顔をした男に向かってニャンスはそう呟いた。 「お前が……一歩でも動くなら……、爆発させてやる……」  息も絶え絶えになりながら男に警告を発するが、男はそれを理解できず一歩踏み出す。 『――爆ぜろ』  先ほどより男に近い場所で爆発が起きる。 「ふ、ふん。当たってないじゃねーか」  男がまた一歩踏み出す。 『――爆ぜろ』  指はふらふらとして定まらず、また男から離れた場所が爆発した。 「……。そうか。分かったぜ」  男はにやりと笑った。 「お前もうふらふらだよなぁ。いいぜ、俺は動かねーから当ててみろ」  そう言って両手を開いて立ち止まる。  ニャンスはふらふらの指を男に合わせて魔法言語をつむぐ。 『――爆ぜろ』 『――爆ぜろ』 『――爆ぜろ』  しかしその悉くが当たらず、ただ空しく地をえぐるだけだった。 「やっぱりな! お前は魔法が使える訳じゃない。お前がやってるのは爆発種が爆発する 時間を見計らって魔法言語を使っているだけだ! その証拠に爆発が起きた場所は全部お 前が俺に蹴り飛ばされた場所だもんなぁ」  嫌らしい顔をして男はにんまりと笑った。 「全く、手癖のわりぃ猫だ。家で調教してやるよ」  笑いながらニャンスに近付いてくる。ニャンスが魔法を使ってないのに爆発が背後で起 きた。ますます男は確信した。あれは魔法じゃない――と。 『――爆ぜろ』 「おいおい、もうタネは分かって――」  男は寒気がしてその場から飛び退いた。すると、直前まで男がいた場所が爆発する。 「な――、てめぇ本当に魔法使えたのか!」  爆発が巻き上げた粉塵の向こうにニャンスを見るが、そこにニャンスはいなかった。 「誰も使えないとは言ってないぜ」  ――後ろだ。  男がそう思った瞬間、身体に痛みが走る。  ニャンスのレイピアが男の太ももに突き刺さっていた。 「ポーニャンドきってのトリックスター、ニャルグランド=ニャンス様を舐めちゃいけな いぜ」  笑ってレイピアを引き抜くと男は跪いた。 「ようやく顔が狙える。死ぬのと金貰って帰るのどっちがいい」  ぴたりと男の額にレイピアを当て、ニャンスは尋ねた。 「……。一つ聞かせてくれ。俺はお前の肋骨を折ったと思った。吐血もしていた。なんで そんなにぴんぴんしている」 「簡単だ。肋骨だと思ったのはただの枝。血だと思ったのはケチャップだ」  懐から折れた枝を取り出し、男の前に投げ捨てた。 「そうか。あー、俺の負けだ。エリーナちゃんは欲しいけどこんなんがいるんだったら手 なんか出せねぇわ」  笑いながら男は寝転がって大の字になった。 「本当か?」 「しつこいなぁ、本当だよ。これからはエリーナちゃんをモフモフする為に正々堂々とア タックするよ」 「それなら――いい」  ニャンスはレイピアを鞘に収め笑った。                 † † † † 「そうして私はレイピアを鞘に収め笑ったニャ」 「嘘だっ! 絶対嘘だ!」 「いや、さすがにこれは嘘でしょ。このぴーもそう思うよニャ?」 「え、私ですかニャ。……うん、ニャンスさん嘘つくならもっとリアルな嘘吐いた方がい いですニャ」  ポーニャンド王国の宿で異国の冒険者と王国の第八王女相手にニャンスは笑っていた。 「まぁ、本当かどうかはご想像にお任せしますニャ」  鋭い目つきは健在のまま、ニャンスは物腰が柔らかくなっていた。 「いや、これは嘘だと思うけどニャー。ね、刀子ちゃん」 「もう、ビスカさんたらわざわざ私たちの為に来てくださったのにそんな事言っちゃ駄目 ですよ……ニャ」  刀子と呼ばれたセーラー服を着た黒髪の少女は恥ずかしながら語尾をつけ栗毛の女性を 宥める。 「いや、でも正直刀子ちゃんはどう思ってるのよ」  ビスカと呼ばれた栗毛の女性とは別に、全身真っ白――白い服を着ているとか色白では ない。色がついてない白さ――の女性がそう聞くと、刀子は逡巡した後、 「嘘だと……思います」  そう答えた。 「やっぱりニャー。そもそもニャンスさん言葉遣いからして違うニャ」  ビスカが笑いながらニャンスの背中を叩くと左胸についていた鈴がちりんと鳴った。 「はっはっは、歳を取ると共に言葉遣いは変わっていくものだからニャ。それは仕方ない 事だニャ」 「途中まで信じてた私が馬鹿らしかったですニャ……」  猫人の女性、コノピは額に手を当てた。ニャンスはそれを見ながらただ笑ってるだけ だった。                 † † † †  朝、ニャンスはルックに文字通り叩き起こされた。  眠い目をこすりながら一階の酒場に下りると、エリーナが朝食の支度をしている所だっ た。 「おはよう」 「あ、おはようございますニャ」  そう言って昨日と同じカウンター席に座る。  エリーナは心なしか嬉しそうな顔をしていた。 「何かいいことでもあったのか?」 「えぇ、今朝仕込み中に昨日の方がいらっしゃいましてニャ……」  彼女の話を聞く限りでは、男は本当に改心したようであった。 「ここで、旦那を待ち続けることが出来ますニャ。あの人は、図体が大きい割りに寂しが り屋ですから、私がここで待っていてあげないと駄目なんですニャ」 「はいはい、ご馳走様。惚気話は勘弁してくれ」  手をひらひらと振ると、エリーナは顔を真っ赤にして照れた。  朝食は昨日のサラダに負けず、美味しかった。  一泊の代金を払い、数日分の食料を分けてもらい日の高いうちにニャンスは出発するこ とにした。 「ニャンス様」  酒場から出て、二、三歩あるくとエリーナに呼び止められた。 「旅の無事をお祈りしていますニャ」  そう言って尻尾についていた鈴を外して、ニャンスの左胸に結びつけた。 「あの頃と違ってキスする事は出来ませんニャ。でもランス様、今でもエリーナは旦那の 次ぐらいに大好きですニャ」  そう言ってブルーの瞳の猫はにっこりと笑ったのだった。                 おわり