月華草   03 よるとあかりと  とても暗い場所だ。夜なお明るい灯火に押し込められた、人造の闇が満ちた空間だった。  そういう場所には、まるで吸い寄せられてくるように醜いものが集まってくる。  空の星も街の灯火に吹き消されて霞み、月だけが闇を見ている。  そんな、大きな街には幾つもある通りを硬い足音が進んでいた。誰かは解らない。  道の両側は人が住んでいるとも廃屋ともつかぬ、複雑で粗末な──要するに、人が住む可能性があるだけの廃屋がひしめいている。  こつり、こつり。こつり、こつり。  それは暫く響き、そして止まった。コンコン、と素板のドアを叩く音。  そのドアがはめ込まれた建物も、勿論オンボロな長屋だった。  外灯、などと言う贅沢な代物はそこには無い。まるで人の気配など無いようにさえ思える。  扉は開かない。どころかぴくりとも身動ぎしない。  ドンドン、と次は多少強いノックだ。ぎしぎしと立て付けが軋んだ。  扉はやはり開かない。彼は、扉の前でじっと辛抱強く待っていた。  このような惨めな境遇にある住人は、概して疑り深いものだからである。 「おめぇさん、誰だい」  たっぷりと数分程の時間があって、扉の向こうから答えたのは奇妙にしわがれた声。  それはまるで喉の奥にたっぷりとススを詰め込んだみたいな声だった。  最も、扉は相変わらずぴくりとも動く様子さえない。隔てているのだ。 「冒険者だ。すまんが、ちょっと探し物の依頼があってね。あんたにそれを聞きに来た」  彼は言った。露骨に嫌そうな声が返ってきた。 「他ぁ当たってくれ。こんな貧乏長屋に探し人も何も無いだろう」 「残念だが、その言葉はもう耳にタコが出来るぐらい聞いてきたよ。ついでに言えば、足も棒みてぇだ」 「じゃあ、ここだって同じだろうに。見ての通り、だからよ。いいから帰ってくれ。  ここは余所者の、ましてや冒険者サマなんぞが来る場所じゃねぇ」  そんな、切り出したみたいにお決まりの台詞だ。  当然、と言えば当然の話ではある。第一、見も知らぬ手合いである。  声と声とが暗がりに潜んでいた。その片方が言う。 「良いから開けな。それとも、一見さんはお断りか」 「……誰から聞いたんだ?」  言葉と、きぃん、と言う金属片を弾いた音が呼び水となった。  それは、どんな有難い生き物よりも耳ざとく捕らえられる無意味な現象だ。  どんなに固い口であろうとも溶かしだす、魔性の音色である。 「口が軽いな。まぁ、商売上手だからかもな。……蛇の道は蛇、ってヤツだよ。紙は腐らねぇしな。  消えた人間をちょいと調べりゃいい。ある事が解ってンなら探し出すのもそう手間じゃねぇ」 「……口が軽いのはお互いさまだけどよ。でもよ」 「信用するかどうかはそっちの勝手だがね」  その言葉に、声が沈黙した。何かを考えているようにも、ただ躊躇っているだけのようにもとれる。  だが、どちらにしろ決心を定めかねている事だけは確かだろう。  風が路地には吹いている。晩夏のどこか生暖かい風だった。  扉が開く。現れたのはランタンを提げた男だ。体を貫く背骨が哀れに歪曲した、矮小な奇形の男だった。  茶色のローブは色あせているが醜悪であろうその顔を隠す程度にはその機能を留めているらしい。  しきりに周囲を警戒し、人影も足音もまるで聞こえない事を確認し、そして手にした明かりを彼は掲げ、その冒険者の腕を見た。  皇国銀貨だ。くすんだオレンジの照り返しを見せる銀塊が小石のように跳ねている。 「タダじゃあ、ここまでだ」  冒険者は投げつけるように銀貨を渡すと間髪入れずに「さぁ、これで良いだろう」と言った。  ひひひ、と忍び笑いが聞こえた。どうやら、強欲なこの男は更に銀貨を欲しているようだったが、 冒険者は顎を摩ると「それ以上は出せん。嫌だ、ってんなら金は返しな。もう、俺のモンだ、ってな聞かんぜ」と釘を刺す。  そして、警告とばかりにわざとらしく彼は腰に刺している剣に手をやる。    この街では、名前も無い死体が打ち捨てられるなど、珍しくもない。  だが、ローブの男は随分と頑丈らしい肝機能を存分に発揮し、誤魔化す様に二、三の言葉を述べてその条件を承諾した。  元より、十分な代価なのだ。ただ、男が欲をかいていただけに過ぎない。  ここで不満を述べたとしても、目の前の冒険者が仕出かす事への保障は誰にも出来ない。  開いていた扉が閉じる。そうして、再び闇が訪れる。  崩れかけた外観に違わず、長屋の内部もまた酷いものだった。  かつては椅子だったらしい木切れが埃に塗れて転がっているし、床の敷物は染みと解れと裂け目ばかりが目立つ。  ランプの光を恐れるように、おぞましい油虫どもが平べったいその体を物陰へと逃げ込んでいったし、 何よりも目を引くのは、部屋の隅に全くの無造作に打ち捨てられた死体だった。  それは酷く痛んでいて、多くの虫が集っている。更に奇妙な事には、酷く欠損が激しくもあった。  「へへへ。まぁ、掃除をするにもそれなりに銭ってものがいるからな」と、ローブの男が言った。  彼は続ける。すっかりと持て成すつもりになっているらしい。  「汚い所ですが、こっちに来て下せぇ。ここは俺が取り仕切ってますから」  そう言うと、彼は手招く。  通された部屋は、矢張り酷くすえた匂いが染み付いていた。汚濁と腐敗とがそこら中に堆積しているのも変わらずである。  ローブの男は壁に立て掛けられていた鉤付き棒を手に取ると、床の一部にそれを引っ掛けた。  引き戸らしいそれが、鈍い軋みを上げながら持ち上がる。  そこには階段があった。抉り抜き、固定したそれは人口の口腔のようだった。  一体何をそこに飲み込んでいるのか。まるで正体も知れない。  冒険者は何も言わず、男に導かれて階下へと降りていく。  驚くべき事に、地上とは違いそこにはしっかりとした明かりが灯っていた。  じめじめとした地下室は意外な程広い。  石と漆喰でくみ上げられた壁と床。  見えるのは地上とは打って変わってしっかりとした作りの家具。そして、ランプや松明の火の光、という訳だ。  だが、貯蔵庫として使われる筈にしては入り組んでいるらしく、 本来そこにあった筈の壁を掘りぬいた蟻の巣のような横穴がそこかしこにあった。  「グエン、お客様にお茶を入れろ」と、ローブの男は地面に座り込んでいた襤褸を着たきりの少年に言う。  少年は行きがけに椅子を冒険者に勧めると、テーブルを挟んで二人は座った。  湯気を立てるポットが運ばれてくるのもそこそこに、冒険者は懐から一枚の絵を抜き出し、机に置く。  そこには、一人の娘の似顔絵が描かれていた。  それは稚拙ではあったけれども、はっきりと特徴を写している。 「この娘を──ああ、茶はそこに置いてくれ。兎に角、ここ最近、こう言った特徴の娘が売られていないか?  或いは、ここに置いてある、だとかな。同業さんにも、それとなく尋ねて欲しい」 「この子が冒険者様の言う探し人で?うーん……見たような、見なかったような」 「必要な資金は都合するよう計らおう。しっかり頼むぜ」 「ええ……でも、他言は無用ですよ」   身を屈めながら、ローブの男は嘗め回す様に絵を見ていた。恐らく、彼の脳裏に納まっている帳面を開いているのだろう。  彼を他所に、冒険者は「中を見せてもらって構わないか?」と問うた。  すると「ええ。どうぞどうぞ。御用があれば声を」と答えが返ってくる。  「……こちらへどうぞ」  そう言ったのは、グエンと呼ばれていた少年だった。どうやら彼はローブの男に奉仕する生き物であるらしい。  手にはランプを握り、素足のままで冒険者を先導する。  暗がりを灯火が照らした。薄ぼんやりと輪郭が浮かび上がり、そして幾つか光芒が照り返すのが見えた。  真っ先に目に付いたのは鎖と鍵で固く戒められた牢だ。その奥には光るものがある。  闇は駆逐されるけれど、そこに居た何かは恐れるように暗がりへと這う。  グエンからランタン受け取り、それを掲げた冒険者の目に映ったのは、酷く惨めな人間だった。  唯人が見たのならば、それを人間と認識するまでに数秒の間を要するに違いない。  名も知れぬそれは、グエンと同じようなボロを纏っていた。足には逃げられぬようにと、重く分厚い木の枷が嵌められている。  手足は痩せてはいないけれども、その顔は酷いものだった。  恐らくは何度と無く、己の命運を呪い泣いていたのだろう。  その脳髄は何故と言う文字の洪水に溢れ、しかしながらその答えは残酷にもその心を抉っているようだ。  それは奴隷であった。そして、ここは差し詰め、奴隷市の商品倉庫、と言った所であろうか。  他の横穴に一体何が詰め込まれているのかも容易に想像が付く。  皇国では法律において公的機関以外の奴隷取引──主に戦乱によって捕らえられた魔物や人間──以外の人身売買は禁止されている。  そして、個人に対する財産刑、身体刑の代替処置として奴隷の身分へと貶めるのは重罪とされている。  更に追記するならば、その上で許可された奴隷が発生する可能性は僅少であり──皇国は、魔物の数も少なく、 ここ数十年の平和を謳歌しているし、13日戦争と呼ばれる王国連合との戦乱では捕虜交換条約も早々に行われた── その上、皇国は道義以前に、その経済・産業構造が既に、かつて最大の需要であった労働が為の奴隷を必要としなくなっていたのだ。  人とてタダでは無い。その住民達や様々な種族の移民達の労働により必要な産業が維持されうる以上、 過剰な奴隷の確保による労働力の維持は余りに非効率的なものとなっていたのだった。 「ここには獣人はよく来るのか?」  その言葉に、グエンは首を横に振った。  最も、所詮は下働きに過ぎない彼が知るような事ではなかったのだろう。  知りうるとすればローブの男であろうが、彼は今やうんうん唸りながら、帳簿をめくっている。  有難いことだ、と冒険者は思った。少なくとも、誤魔化しを押し通すつもりは無いらしい。    彼が見下ろしているそれは恐れ、怯えていた。  生き物としては雌に該当する。まだ若い、人間であった。  元々は愛らしかったのかもしれないが、口を引き結び、目の下には酷い隈が浮き上がっていて、まるで幽霊だ。  だが、それでも飾り立てれば手を引く者は必ず居る。或いは、哀れっぽさ自体が人目を引くのだ。  そして、もう諦めてしまったに違いなかった。無理も無い話だが。  恐らく、それはこういった界隈で一番多い類の奴隷であろう。  労働が為の奴隷が必要とされなくなったとしてもそれが即ち、奴隷と言う存在の消滅では無い事を目の前の物は如実に示していた。  貧しい者や、騙される者が減った訳では無いのである。  勿論、そういった物を買いあさる人間が根絶された訳でも無く、魔法学の発達は多くの被験体を要求してもいる。  じろじろと無遠慮に観察すると、すぐに足を動かし別の土牢へと移る。  少女が多く、その次に少年、大人は少なかった。見た目の珍しさ故か、それともその立場の故か種族は獣人や亜人達が多い。  そして、概ねそれらは無力と言う一点において共通点を有していた。  一度たりとも長い間足を留めず次々と進む。 「……見つかりましたか?」 「いや。居ないな」  グエンの問いかけに否を返すと、ローブの男の所へと戻る。椅子に腰を下ろす。   「すみませんね。どうにも、こういう子は入って無いみたいでねぇ。他はどうだか知りませんけれども」 「解った。それと、もう一つ良いか?」 「へぇ……ああ、煙草は止めてくだせぇ。地下は篭って煙たいんで」  冒険者は火を付けかけた煙草を懐に戻し、マッチを払って火を消す。 「そうか」 「ええ、左様で。……しかし、可愛い子ですねぇ。こっちが紹介してもらいたいぐらいだ。きっと引く手数多、良い所の貴族様が引き取ってくれますよ。  ま、そっちも仕事ですからね。無理に、とは言いません。ええ、ええ。お互い、踏み込み過ぎない、って言うのが大切さぁね」  へへへ、と奴隷商は唇を歪めて笑う。何事か切り出したいらしく、グエンに「おい、入荷表持って来い!早くだぞ!お前はウスノロだからな!」と声をやった。  少年が持ってきたのは、上質紙の束だった。それを受け取り、彼はぱらぱらとそれを捲り、何度か手を止め、商品の質や状態を確かめているようだった。  まるで堅気の商人のようだ。扱うものが何であれ、利を求める為に理をいじくる彼らの本質は変わらない。  ややあって、その内の一枚を抜き出した。それは、どうにも細々とした項目に埋め尽くされた、丁度、契約書のように見える。   「健康良好、但し、前勤務による怪我有り。獣人、良体格、男。入荷予定は──どうです、きっと、安くしておきますよ。  ほら、一人旅より二人旅。信用できる仲間ばかりでも無し、冒険の道連れにゃ一つあっても損は無いでしょう?」  それを読み上げ、勧める彼に冒険者は「そうだな……」と返すが、やや考えてから「ただ、今すぐ必要って訳じゃないな」と続ける。  すると、奴隷商人は少々残念そうな顔をしていたけれども、すぐに持ち直し、紙束を整えた。無理強いをした所で、意味が無い、と踏んだのだろう。  彼はグエンを呼びつけると、腹いせにか一度足蹴にし、それから「元のところに戻しておけ」と告げた。  椅子が動いた。立ち上がったのは冒険者だった。見れば、ランタンの中で揺らめく炎が細くなっていた。  それは、短くない時間が過ぎ去った事を示していた。 「帰られるんで?」 「ああ。夜分、済まなかったな」  そう答え、冒険者は商人に背を向けた。明かりが小さくなる。階段を昇ると、そこにはもう光は無かった。  耳を澄ませば、這いずり、うごめく者共の気配のする黒だ。冒険者は明かりを付けない。その癖、酷くまっすぐに歩いていた。  鈍い音の他は、存在を示すものとてないが、それでも扉は開かれ、彼は敷居を跨ぐ。  そうして、暗闇の他に現れる物があった。それは夜だった。  薄く淡い影が、漸くまどろみ始めた街を染めている。空泳ぐ三つ子月達は何時の間にか姉が眠って一つになり、 残った最後の一つもまた明日の為に、と地の底に沈もうとしている。  また、暁が来る。今は、そのどちらにも属さないまどろみの時間のようだ。  長屋を後にし、路地を歩く冒険者はそれを見ていた。  最も、彼には影が届いてはいないようだった。そんな物など発生し得ない、とでも言いたいようでさえある。  何れにせよ、彼のさしあたっての目的だけは確かだろう。それは足取りを見ても理解できるし、あまつさえ欠伸などこぼしてさえいる。  要するに酷く眠いのである。  辻を曲がる。最早、街娼さえも寝入っているのだろう。街は奇妙な程人気が無かった。  そして、流れているのは全く異なった時間であるらしい。  冒険者は、しかしそれでも真っ直ぐに歩く。全体としてみれば、酷く理路整然とした足取りであった。  一定の調子をとり続けていた、冒険者の足取りが急に間隔を狭めた。  ゆっくりと過ぎていく有象無象の棟々が、はっきりとした流れに変わり始める。  冒険者は駆け出していた。  風を切り、敷石を蹴って。その目が映した物へ、その鼻が嗅ぎつけた物へ。  外套が風に閃き、街頭は真横に流れていく。  最早、眠気などどうでも良いのだろう。  まるで、追いかけているようだ。いや、追い立てているようでさえある。  過ぎていく。どんどんと。多くの物が後ろに置き去りのままだ。  未だ明かりが付いたままの部屋もある。消えてしまった部屋もある。露店に人の姿は無く、箱には幌が掛かっている。  それらは彼にとっては価値の無いものであり、それ故に一瞥さえも向ける事は無かった。  ──やがて、冒険者も立ち止まる。  彼は、恐ろしく酒臭いその場所で次のような言葉を聴いた。年老い、恐らくは疲労困憊しているであろう男の言を要約すると以下の通りであった。  曰く、「今日はもう看板だ。酒も飯も残って無い。こいつ等が皆飲んじまいやがったからな」  そして、彼の目に映った物と言えば、辺り一面に倒れ付した酔漢どもの群れだった。  /    ウォル=ピットベッカー、と言う少年が夢現に誓った事を一行で表現すると以下のようになる。  僕が皇帝になったら、即日付で酒と言う酒と酔いどれどもを根絶してやる、畜生。  以上である。そして、その呪いの言葉は彼の置かれた状況を端的に示してもいた。  さて。彼は当然の如くまだ少年と呼ぶべき年齢であり、そうであるからにはエール酒やサイダーなら兎も角も、辺りに散乱している密造ジンだの、 どこから仕入れたか、或いは店の主の秘蔵だったのかもしれない命の水だのは少々強すぎる酒だったらしい。  そんなものを浴びるように飲んだならば、彼の元に恐ろしい頭痛と吐き気が徒党を組んで訪れる事は物理法則のように約束された事実であった。  更に言うなれば、酒と言う奴はそれ自身が液体である癖に、その親戚である所の水が大好きな存在である。 「あああ……うううう………」  地獄の底から搾り出した、あるいは亡者どものような、と言えば一番しっくりと来る形容であろうか。  そんな呻き声がウォルのカサカサに乾き、干からびた唇からは漏れていたのだった。  全くもって、見るも無残に、完膚なきまでに二日酔い、と言う病の症状を呈している。  目も空ろならば、立ち上がる事さえ出来そうも無く、論理的な思考など地平線の彼方辺りに置き去りのままであった。  ゾンビか、はたまたジェラード・グミかと言った風に少年は冷たい石畳の上を這い回っていた。  ウォルが求めているものは、酷く有り触れたものだ。勿論、水である。  この渇き切った体を癒してくれる一滴。だが、彼の手が触れたものと言えば投げ捨てられた瓶やら、生えているコケ、それからミミズぐらいだ。  無様に振り回していた手も、すぐに止まった。動かすと、それだけで酷く頭が痛むのだ。  水の事など早々に諦め、冷たい地面に倒れ付す。  兎にも角にも、酷い有様であった。  意識を保つのがやっと。頭は脳髄が反乱を起したかのように痛み、内臓と言う内臓は直ぐにでも口からぶちまけられそうな按配だ。  恐らく、丸々半日は立つ事さえも出来ないだろう。  常ならばその恐るべき事実そのものに対し、思いつく限りの罵声を浴びせていたのだろうがそうも行かない。  そうして、目をつむっていたままの彼は、何故だか自分が冷たく心地の良い物の上に寝そべっている事に気づいた。  意識と記憶、その両方が霞でもかかったかのように曖昧だ。何とか思い出そうと、思考の独楽を回転させる。  断絶する直前に、彼にとって忌むべきモジャモジャ耶朗に半ば、否、完全に無理やりジンの瓶を口に突っ込まれた事までは覚えているのだった。  ──ああ、ツクヤ、だっけか。くるくる踊ってるあの娘は可愛かったなぁ、などとまったく取り留めの無い思考を彼の脳みそは連想していたので、 恐らく、多分、と言う二つの接尾語が付く程度の信頼度だったのだけれど。  彼の鈍い脳は何度か横転して回転を止めつつ、たっぷり数分程の時間をかけて安定した軌道を描き始めた。  そうして、辛うじて考えたのは、今日、一体どうしようか、と言う事だった。  何をすべきか、何をやりたかったのか。そんな事どもは酒に綺麗さっぱりと洗い流されて跡形も無い。  指一本動かす事さえも億劫だった。さしあたって、彼が出した結論は一つ。  今はただ、この冷たい心地よさに身を委ねていたい。それだけだった。  まるで、全てが夢だったかのようだ。  遠く、彼方に見えていたものがこの手の内に触れた、そんな夢だ。  悪夢か、そうでないかはもう一度、目が覚めた時までお預けだった。  ゆさり、ゆさゆさ、と。  それを、何かが遮った。夜に見た白く細い手の平に違いなかった。  信じる物は自分以外には何も無かったので、少年はこれが夢などでは無く、きっと事実に違いあるまい、と思わざるをえなかった。 「うぉる!ウォルウォルっ!お水っ、お水だよっ!」  声、だ。目を開くと、少年の目が一番最初に捉えたのは、水が入った樽を胸に抱えた、あの娘だった。  一も二も無い。まるで、パティシナ砂海の遭難者のようにウォルはそれを奪い取ると、顔を突っ込んでぐびりぐびりと良く冷えた水を飲み下す。  それは皇国に幾つも据えられている上水路を引いた噴水、兼水場から汲んで来たものらしい。  どうにも先ほどまで彼女の気配が無かったのはこのせいだったのか、と遅まきながら少年は気づいていた。 「あ、ありがと……う」  息も絶え絶えに吐いた言葉はたったそれだけだ。水は乾きを癒し、僅かながら病を拭ってはくれるが、全てを癒す筈も無い。  それでも、随分と楽になった。少年は遠慮も無く地面に大の字に寝転ぶ。狐耳の少女はと言うと、座り込み、少年を眺めていたのだった。  よくも飽きないものだ、とぼんやりと考える。視界は相変わらず闇が支配的だったが、 寝転がる客どもをそのままにしておく訳にもいかないのか、記憶の中にある光景と同じく、屋台には未だに明かりが灯っていた。  恐らく、あの店主は傍迷惑そうな顔に違いあるまい。そう、一瞬思ったのだけれど、どうやら遅い客が居たらしかった。  陰気そうな人影が、煙草を肴に酒を飲んでいる。どうやら、あれだけ飲み明かしてあの屋台にはまだ備蓄があったらしい。  その輪郭は判然としなかった。何故なら、それは人型に押し込められた黒い服の集合だったからだ。  関係は無い事だ。自分には。それにこれだけ人が居たならば、スリは兎も角、命を狙われる事もあるまい──  今や恐ろしく鈍くなったウォル=ピットベッカーの頭はそう結論を下し、押寄せる睡魔に少年は再びその瞳を閉じたのだった。  next