サイオニクスガーデン 鈴木新太SS     - PSI'NT Valentine II -         02/14 08:30 - 警察署・特殊能力犯罪対策課 『おはよう、にゅー太くん。仕事は終わったから帰宅の時間ですよー』 「なん...?」   僕は、突然鳴り出した音声で目を覚ました。   とかく、それが同僚の神奈川暎子の声である事はわかった。   体を起こそうとすると、隣の席の椅子と自分の椅子を並べて寝ていた所為で、体の節々が痛かった。   毛布代わりにしていたスーツの上着をどけると体を起こし、何が喋っているのかを突き止めた。 『おはよう、にゅー太くん。仕事は終わったから帰宅の時間ですよー』   暎子さんの声の正体は、昨晩(今朝)書類の上に置いた僕の携帯だった。   文字盤には、八時と表示されている。   僕の身に覚えがないのに彼女の声がする。何故だ?   寝ぼけた頭を振りながら、頭を働かせ始める。   特に難題でもなく、すぐに答えが導き出された。   彼女が僕の携帯で勝手に自分の音声を録音して、目覚ましの音声として登録した、という事だ。   全く、人の携帯を勝手に弄るか、普通...? 『おはよう、にゅー』   とりあえず、携帯を操作し、目覚まし暎子さんを止めた。 「ったく...朝の目覚ましメッセージに『帰宅の時間』ですよ、はないだろ...』   にゅー太くん、とは僕の事だ。   僕の名前、鈴木新太、の新(NEW)からとって、にゅー太らしい。   最初は呼ばれるたびに、止めてくれと言っていたが、今では慣れて少しだけ気に入っている。   ...なんて本人に言うと調子に乗るで、言いはしないが。   彼女が朝から帰宅の時間だ、なんて入れるのは、今日のように、  僕が帰宅せずに課内に泊まって仕事をする事がよくあるからだろう。   携帯を除けると、僕は再びデスクに向かって書類との睨めっこを再開した。   それから数分経ち、十数分経ち、課の扉が静かに開く。 「おはようございます...って新太くん、その様子だと...また帰ってないんでしょう?  駄目ですよ、体調管理も仕事の内なんですから」   最初に入ってきたのは、いつも通り、特殊能力犯罪対策課課長、獅子堂真由美。   彼女は、そう言いながら僕のデスクに近づき、袋を差し出した。 「はい。バレンタイン。ちょっと休憩しなさい」 「すみません。ありがとうございます...」   僕が受け取ると、彼女は少し怒った風に歩き、自分のデスクに座った。   袋からして、中身は高価な店のチョコレートであろう事が予想できる。   なんとも彼女らしい"大人"な選択だ。   僕はありがたく受け取った。   彼女に続き、伊東さてら、加瀬 修次郎、レオニード=ベズボロドフが入ってくる。   さてらさんと真由美さんは、その度に男性陣(勿論、僕を含む)に挨拶と共にチョコを渡していく。   そして九時ぎりぎりに、帯縄 省三、通称帯さんが入ってきて、チョコを二人から受け取り、デスクについた。   その銃数分後、勢いよく扉が開き、 「フゥーーッ!ギリギリセーフだぜっ!!」   同僚の真倉瞬が大きな声を上げて入ってきた。   元走り屋で、うちの車両運用責任者だ。   ...とは言え、彼の運転は暎子さんに負けず劣らず絶叫マシーンのようで、嘔吐袋なしでは同乗できない。   運転も問題あるが、彼の乗っている車も、職権を乱用して改造した警察車両という警察の世間体的に問題がある代物だ。   ちなみに、セーフでもなければ、ギリギリでもない。   我々の出勤時間は八時半、それより十五分は早い八時十五分にはデスクに着いておく事が望ましい。   僕はいつも八時には出勤するようにしている。   別に誰に言われた訳でもない。ただ、三十分前から仕事を始めれば、八時半頃には丁度良く頭が働き始める。   よりよく集中して仕事をこなす為の準備時間のようなものだ。   それについては、辛いと思った事はない。   市民の税金から給料を頂戴している一警察官として、公務を効率よくにこなすのは当然の事だから。   ...とは言え、僕はここ数日間帰宅していないので、出勤時間がどう、というのはあまり関係なかったりするのだが。 「真倉さん!ギリギリでもなければセーフでもありません!ちゃんと出勤時間に間に合わせて来てください!」 「おお、本当だ...こりゃあ、愛車の更なるスピードアップカスタムが必要か...」 「これ以上改造しないでください!それよりあと十五分早く起きる努力をしてください!」   真由美さんに言われながら、彼はデスクにつく。   それから少しして、藤崎 アレクサンドラ...サーシャ(アレクサンドラ、というロシア名の愛称)が入ってくる。 「Привет!(プリヴィエートと発音、ロシア語の軽い挨拶。彼女の性格を考慮に入れて意訳すれば、オーッス、と言った所だろう)」 「藤崎さん!大幅に遅刻しながら堂々と入ってこないでください!」 「ダーい」   サーシャは、黙っていれば男なら誰もが振り返るような日露ハーフの美人だが、性格は男らしいというのか、おっさん臭いというのか、  とかく色気がない。   ちなみに、ダーい、というのはロシア語のДа(ダー、と発音、肯定、はい、の意味)と日本語のはいを合わせた彼女の造語だ。   言語に対して大雑把な所も、彼女らしい。 「おはよーございます!神奈川暎子、今日も一日頑張ります!」   頑張るなら時間通りに来てくれ、と即座に心の中で突っ込みを入れる。 「神奈川さん!頑張るならまず勤務時間厳守を頑張ってください!」   同じタイミングで、真由美さんが突っ込む。    「イエッサー!」   ...返事だけはいいんだから。   彼女は、神奈川暎子。僕の大切な相棒だ。   破天荒で突拍子もなくて子供っぽい。でもどこか、女性らしい。   それが僕の彼女に対するイメージだ。    「じゃあとりあえず、チョコ配給!」   暎子さんが、チョコを皆に渡していく。   彼女らしい、可愛らしい袋に包まれたものだ。   帯さんは受け取ると、ふん、と鼻息を立てた。 「別に俺はチョコなんぞ...」 「言うねぇ、帯さん!娘さんからのチョコが楽しみでずっとソワソワしてるクセに!」 「真倉、おめぇ!!」   真倉さんの冗談に、帯さんが怒鳴り返す。   どうやら図星らしい。   帯さんには娘さんがいる。   でも離婚した奥さんが引き取る事になった為に、週一で週末にだけしか会えない。   彼はいつも、その日を楽しみにしている。   おそらく、今日は会う日なのだろう。   二人のやりとりを尻目に、仕事をこなしてゆく。   まぁ、チョコを貰った事を覗けば、日常の風景だ。 ──────────────────────────────────────────────── 02/14 17:15 - 警察署・特殊能力犯罪対策課      就業時間となり、皆が帰宅の準備を始める。   真由美さんが椅子から立ち上がり、まだ仕事を続けている僕を見た。 「新太くん、今日はもうこれでお仕舞いにして帰ってください。  暎子さん、無理矢理にでも追い出して下さい!」 「合点言われずとも!にゅー太くん、今日はデートしよう?」   暎子さんが真由美さんの声に反応して僕の腕を掴み、無理矢理立たせた。   デート、という単語に少し僕は照れ、腕を振り解いた。 「...今日は帰りますので、大丈夫です。あと、えーこさん。  デートのお誘いはありがたいですが...今日は約束があるので、このまま自宅に帰ります」   それを聞いてほ、とため息をつく真由美さんとは逆に、暎子さんは不満の声を漏らした。 「なんで?酷いよ。こんな日くらい付き合ってくれてもいいのに」   暎子さんは、どうやら本気で怒っているらしかった。   いつもは冗談ばかりだというのに、ふとした事で彼女は本気になる。   僕なんかがこんな事を言うのもなんだけれど、女性というものはよくわからない。   ...とは言え、口を窄めて子供のように拗ねている暎子さんは、妙に可愛らしかった。 「約束があるんです。未来と、映見がうちにきて晩御飯を作ってくれてるそうで」   未来――唐練未来とは、元NEXTに所属していた少女で、僕と同じ再生能力者だ。   僕と違うのは、僕は成長が阻害され、彼女は成長が促進される、という事。   僕の外見は齢二十台半ばにして子供、彼女は十台前にして大人の女性。   ある事件をきっかけに彼女はNEXTを抜け、PGの庇護を受けながら、研究員として働いている。   実年齢で言うと初等部に入るのが筋だけれど、精神年齢は高いし、知識・身体能力についても、  年齢以上なので、研究員兼教師的な立場として扱われる事になった。何より、本人がそれを望んだ。   彼女は、よく僕のアパートに来て、家事をしてくれている。頼りになる妹の様な存在。   映見とは、PG中等部に通う、父親違いの妹。   念写能力を持ち、カメラマンとして鈴木念太、というペンネームを持っている。   未来もそうだけれど、彼女は彼女で発育がいいというのか、小さな僕に反して、大きい。   彼女は未来とも仲がよく、二人で僕の家に押しかけてくる事もある。   その二人が、今日はバレンタインだからチョコを作るついでに晩御飯も作ってくれるとの事で、  うちに来る(学校はもう終わっているだろうから、既に部屋にいるだろう)との事だった。    「...じゃあ、私はお邪魔かな?」   ...どうしてこの人はいつも強引なのに、こんな時に限って遠慮するんだ。   そこも含めて、可愛いとは思うけれど。 「あれ、もしかして来ないんですか?」   それを聞いた瞬間、暎子さんは顔をぽかんとさせた。   次の瞬間には顔を左右に激しく振り、顔を綻ばせて、 「行く行く!!」   と頷いた。   僕は普段電車通勤だけど、暎子さんは車なので、彼女の車でアパートまで行く事になった。   街中はバレンタインで浮かれる恋人達で溢れ、  その間をそんな事ちは無関係と言わんばかりにせかせかとサラリーマン達が歩いていた。    「うーん」   運転していた暎子さんが、突然、唸った。 「どうかしましたか?」 「今日、未来ちゃんや念ちゃん(映見の事だ)ってどうするのかな?」 「どうする...と言うと?」 「えっと、にゅー太くんちでお泊りなの?」   どうなんだろう。帰る時もあれば泊まってゆく事もある。 「うーん、わかりません。泊まっていくかもしれないですね」 「むむ...そっかぁ...」   そう言って少し走り続けた。   何だったのだろう?二人が泊まりだと何か都合が悪かったのだろうか。 「あっ!!ちょっと用事を思い出した!!」 「え、ええ?今日ですか?それじゃあ、やめておきます?」 「いやいや、違うよ。ほら、私はおねーさんじゃない?  だから、未来ちゃんと念ちゃんの二人にもチョコをあげようかと思って」 「それって用事を思い出した、になりませんよね」 「まぁ、いいじゃない。というわけでちょっと寄り道するよー」 「はい、僕は構いませんよ」 「るんるるー♪」   難しい顔をしていたのに、突然上機嫌になった。   ...これは何か企んでそうだなぁ。   聞いても多分応えてくれないだろう。   でも、何を企む必要があるのかわからず、僕は頭を捻り続けた。   彼女は少し高級そうなスイーツ店の前に車を寄せると、一人で店の中に入っていった。   そして大き目の箱に入ったチョコらしき物を買って戻ってきた。 「おまたせ〜」 「...やけに多めに買いましたね。  彼女らも一応年頃の女の子だし、気にしてそんなに食べないと思いますよ?」 「まぁ、残ったら私が処理するから大丈夫」 「...そうですか」   案外、偶には高級なお菓子を未来や映見に食べさせてあげようと考えているだけなのかもしれないな。   と、その時は思った。 「じゃあ後、もう一軒寄るよー」 「はい、どうぞ」   と言うと、車を走らせ、次は酒屋に止まった。   ...嫌な予感がしてきた。   店から揚々と出てきた彼女は、予想通り、お酒を大量に持っていた。 「おまたー!」 「...そんなに大量のお酒、どうしようって言うんですか?」 「うん?飲むんだよ、勿論」 「あなた一人で?」 「ふふふふ、まぁ、余ったら私が持って帰って処理するし、大丈夫」   ふふふ、ってなんだ。   明らかに何かを企んでいた。 「...妹達には、飲ませないで下さいね」 「るんる〜」   彼女は僕の刺した釘を、聞き流して車を走らせ続けた。   ...あぁ...胃が痛くなってきた気がする。 「到着ー!」   アパートに着くと、僕は自分の荷物と、彼女の買ったチョコを持って中にに入った。   エレベーターに乗り、自分の部屋がある4階まで上がる。   チンと音がなり、扉が開くと、二人で降り、自分の部屋までゆく。   その間中もずっと、彼女は鼻歌を歌ったりなどして、上機嫌だった。   ...妹達にお酒を飲ませないようにしないとな...。   部屋の前まで行くと、やはり先に来ていたようで(合鍵を渡してある)、部屋の電気はついていて、  良い匂いがもれていた。   何を作ってくれているのか、楽しみだ。   鍵を開け、中に入ると、先に映見が僕を出迎えた。 「お帰り、お兄さん。あ、暎子さんこんにちは」 「ただいま」 「おっひさしー、念ちゃん」   軽く挨拶を済ませ、靴を脱いで部屋にあがる。   キッチンを覗くと、未来が料理を作っていた。    「未来、ご苦労様」 「新太こそ、お疲れ様」   エプロンを着け、振り返って微笑む姿は若奥様、といった風に見えなくもなかった。 「おひさしー、未来ちゃん!」 「あ、暎子。お疲れ...様?」 「なんで疑問符なのよー、私もお仕事ちゃんとしてきたんだからね!」 「ふーん...」 「なんでこんなに信用ないの!」 「...自分の胸に手を当てて考えてみたらどうですか?」 「むっ...今日もよく働いた...と思う」 「仕事中、隣の席から鼾が何度も聞こえたんですが」 「もーっ!にゅーた君のいじわる!」   そんな会話をしながら、スーツの上着をクローゼットにしまい、食卓につく。   暎子さんがテレビをつけ、それを見ながら暫くすると未来が料理を運んでくる。   パスタ、グラタンにサラダと洋風のものだった。   美味しかったし、気がつけば腹八分目以上に食べていた。   晩御飯が終わると、未来がケーキを冷蔵庫から出した。   どうやら、チョコではなくケーキを作ったらしい。   濃厚な味のガトーショコラ。これも美味しい。   まぁ、ここまでは良かった。 「じゃあ、おねーさんからもいい子にしてた二人にプレゼント!」   と、買ってきたチョコを出した。   ちなみに暎子さんだけ、既にお酒が入っていて少し酔っ払っている。 「...高そうなチョコですねぇ。わざわざありがとう、暎子さん」 「ありがとう、映子」   そう言って二人は箱を空け、中のチョコを口にした。 『あれっ!?』   二人は口にしたとたん、声を上げた。 「ど、どうしたんだ、二人とも...暎子さん、何を食べさせたんですか!」 「な〜に怒ってんらよう、にゅーたくん...ただのチョコレートだよ〜」 『美味しい...』   二人は、そう言ってチョコをさらに食べ始めた。   美味しいなら、問題はないか?   所が、そんな事はなかった。 「...そんなに美味しいなら、僕も貰っていいかな?」 「いいよ、新太。はい」   未来から受け取ったそれを口に含み、噛んだ。 「んっ!?」   中から液体――お酒が飛び出した。   濃厚で甘いアルコールが口の中に広がる。   確かに、美味しい。   これは...ウイスキーボンボンだ。   確かに学生はあまり口にする機会がない、大人のお菓子だけれど...。   お酒は、お酒だ。身体年齢が二十歳を過ぎている(と思われる)未来はともかく、   映見にはあまり食べさせたくなかった。 「暎子さん、これは確かに美味しいし、ありがたいですが...  映見はまだ未成年...中学生なんですよ?  ほら映見、そんなにばくばく食べないように」   食べ続ける映見にそう言って、顔を見ると気のせいか、既に頬が赤く、酔っているように見えた。 「うるさいなぁ、お兄さんは。子供じゃあるまいし、そんな事注意しなくていいですから」   ぶっきら棒なのは前からだけど、ここまでとげとげしかっただろうか?   ...やっぱり、酔ってるのかもしれない。   そう思って、兄として取り上げる為に立ち上がろうとした時、横から手が引かれた。 「あらた...私も未成年なのに...心配してくれないの?」   ...完全に酔ってる。ウイスキーボンボンだけで酔えるモノなのか?   もしかしたら未来は身体異変の影響から酔い易いのかもしれない。    「未来はほら、体は大人だろう?だから大丈夫かと...」 「酷いじゃない...身体が大人なのは私の所為じゃないのに...」   そう言って、未来派めそめそと泣き始めた。   僕はどうすりゃいいんだ...。 「酷い、にゅーたくんが私を放って未来ちゃんばっか相手してる。  じゃあ映見ちゃん、私達は共に杯を交わそうか」 「ちょっと、さらっと何言ってるんですか!」 「小姑お兄さんは放っておいてそうしましょう」 「映見!子供がお酒なんて飲んじゃだめだ!暎子さん、警察官が犯罪幇助してどうするんですか!」 「私は秘密警察だから表の法律あまり関係ないもんね〜」 「なんて事言ってるんですか、関係大有りですよ!未来、離しておくれよ」   未来から離れようともがくと、彼女はさらに自分に引き寄せた。   彼女はNEXTの戦闘員だったけれど、攻撃的な超能力の持ち主ではないので、  戦闘訓練をつんでいるし鍛えている。   僕より身体が大きい事も相俟って、僕の力では振りほどく事など到底できなかった。 「新太、私の事が嫌い?」 「なんでそうなるんだよ」 「今、離れろって...」   そう言って泣き始めた。   そうこうしている間に、暎子さんと映見の酌が進んでゆく。   暎子さんがどんどん飲ませ、映見はすぐに酔っ払い、寝込んでしまった。    「暎子さん、映見が急性アルコール中毒にでもなったりしたらどう責任を取るつもりだったんですか?」 「無理して飲ませたりはしないもん」   と言ってそっぽを向いてしまった。   ...まったく、困った人だ。   僕はため息をついた。   ふと気がつくと、未来も寝てしまっていた。   時計を見ると十一時だった。   未来を起こさないようにゆっくりと地面に寝かせながら離れると、僕は仕事鞄の元まで歩き、   中から暎子さんから貰ったチョコを取り出して、彼女の隣に腰掛けた。   一人、酒を呷り続ける彼女の姿が、どこか寂しげで心配になったからだ。   僕が隣に腰掛けると、彼女は一度視線だけこちらに向けると、またそっぽを向いた。 「そういえば、僕はまだ暎子さんから貰ったこれ、食べてませんでした。  バレンタインデーが過ぎる前に頂きますよ」   包装を破いて箱を開けると、中から出てきたのは小さな熊達――の形をしたチョコだった。   なかなか可愛らしい。   それを掴んで口元に持っていくが、可愛らしいので口に入れるのを少し躊躇した。   舌を出して、熊を乗せる。舌の上にチョコの香ばしく甘い味が広がってゆく。   僕がそうして、三つ目の熊を舌に運んだ時だった。   暎子さんが、僕の方に身体を向けた。 「実はもう一つ、プレゼントがあるんだ」   そう言った暎子さんの濡れた艶やかな唇に、僕は目を奪われていた。    「なんです――」   言い掛けた時には既に、彼女の顔は眼前にあった。   箱が手からこぼれ落ち、熊が地面に散らばった。   部屋には暖房が効いてるし、カーペットは温い。   早く拾わないと溶けてしまうな。   そんな風に冷静に見ている自分と、彼女の感触、かかる鼻息に自分が酷く興奮している自分がいる、  という不思議な感覚に襲われた。   長い口付け。   彼女の発するアルコールの匂いが妙に艶かしい。   徐々に浸入してくる舌は、チョコレートの所為か、甘かった。   舌が絡み合い、唾液と甘い媚薬が絡み合う。   少し汚らしくも感じる唾液の交じり合う音が耳の中でじんわりと木霊する。   舌は僕の口の中をゆっくり動き回ると、離れていった。 「続き、しちゃう?」   暎子さんが悪戯に言う。   横には映見も、未来もいる。   そんな事できません、と言おうとしているのに、暎子さんの女性としての魅力やこの雰囲気が、  僕を息詰らせた。   否定しないという事は、肯定するという事だ。   暎子さんが僕のシャツに手をかけた―― 「いたぁあっ!?」   暎子さんが突然、叫んで僕の胸に顔から突っ伏した。   彼女の背後には、未来が足をかざして立っていた。 「...何してるの?」 「大人の時間...?」 「暎子が新太を取って食おうとしてただけでしょ!」 「誰が襲うって!?愛し合ってたの!」 「愛し合って、って...」 「どうなの、新太?」 「えーっと...」   何とも言いづらい状況だった。   どちらと答えてもどちらかが怒る。 『はっきりしてよっ!!』 「う、うう...」   僕が頭を悩ませていると、二人がまた襲っただの襲ってないだのと言い争い始め、  なんとかその場は切り抜けたものの...。   言い争いは深夜まで続いた。   その後もよく眠れず、僕は寝不足のまま出勤する羽目になった。   バレンタインに一人で過ごす男性が結構いると聞く。   しかし、僕は女性に囲まれて凄しながらも、素直に喜んでいいものかどうかよくわからない、  そんなバレンタインを過ごした。   どちらにせよ、来年からは――トラブルを避ける為に、  暎子さんとデートする時間も設ける必要があるな、と思いながら、書類との睨み合いを始めた。。       ―――END