暗闇の中を、彼女は一人駆ける。もつれそうになる足を只々前に出し、よろめきながらもひたすらに。  振り向けない。振り向くのが怖いのもあったし、そんな余裕が無いのもあった。  だけど、あいつが迫って来ているのは分かる。自分を殺そうとしている、殺人鬼。  会った事なんて無いが、名前は知っている。確か桐島 叉姫。TVや新聞では、『フェイスイーター』とか名前を付けられてた。  未成年とかで実名公表は無かったけど、どこから漏れたのやらネットでそれが流れて、それがまた別の問題を生んでいた。  朝、コメンテーターがTVでしかめ面してつらつら喋っているのをぼーっと眺めていた時は、地球の裏側より遠い出来事の様に思っていたのに。  何であたしがこんな目に、等と考えすらせず、只ひたすら駆ける。  どうしてこうなったのかなんてどうでも良い。  ただ、助かりたい。死にたくない。生きたい。まだ、逝きたくない。  ひたすらにそれだけを繰り返し、エンジンの様にして回転していた足が遂にもつれた。  頭から地面に突っ込む。痛み以上に、追いつかれるという恐怖が全身を舐めた。    誰か助けて! 誰でも良いから!  そう願いながら這いずり、顔を上げたその先から。二人の男が歩いて来ていた。 ■PG SS■                     〜特対課のおしごと〜 「……ですから、所謂オカルティックな意味での幽霊というものは存在しないんですよ」 「PGにゃイタコみてーな霊能力者もいるっつー話だけどな」 「颪月さんや牧志さんの様な例ですね。 どうでしょう、死に際の残留思念に対して特別に敏感な感応者というだけかもしれませんよ。 霊体の憑依だって、それと自己暗示の組み合わせで説明は出来る」 「まあどっちでもあまり差はねーけどよ。なんで俺にも見えてんだ? 俺は霊能力もPSIも持ってねーんだが」 「神奈川君や伊東君に、日常的に接しているからかもしれません。 強力な精神感応能力者に接し続けていると、その影響で空間上の思念に対するチャンネルが敏感になるという説があります」 「『視え易くなる』ってことかよ」 「砕いて言えばそういう事ですね。精神感応の脳野は、念動力を司るそれに比べて覚醒が容易という研究結果も出ています。 尤もそれ以上の段階に進展するケースは、はっきりそうと確認できた限りでは非常に希ですが」 「け。嬉しくもねえ」 男は二人とも中年だった。ひょろ長い男とやや背の低い小太りな男。 何やら、小難しい話をしている凸凹コンビは傘を広げていた。 雨なんか降っていたっけと思い、そんな事はどうでも良いと思い直す。 助けが目の前に現れたのだ。死なずにすむ、その事で頭が一杯になる。 具体的にどう助けになるのかまでは考えが回らなかったが、二人の持つ落ち着きが、彼女に頼もしさを感じさせた。 とりあえず、より近い方に居たひょろ長い男の足にすがろうと這いずる。  と、その男がいきなり頭を下げてきた。 自分の目線にまでしゃがんだ男と、正面から目が合う。虚ろで乾いた瞳。吸い込まれるような落ち着くような、心かき乱されるような。 「こんばんは」 男が言った。 瞳と同様にその声も乾ききっている。 「二日ぶりですね」 男の言葉に彼女は違和感を覚えた。自分はこの男の事など知らない。今日が初対面のはずだ。 しかし、今はそんな事はどうでも良い。問題は、後ろに死が迫っていることだ。彼らに助けてもらう事だ。 自分の置かれている状況を必死に説明しようとするが、声にならない。漏れるのは意味の無いうめき声だけだ。 「昨日は来れずにすみませんでした。急な事件が入ってしまいまして」 暢気な男のせりふ。噛み合わなさに歯噛みする。 今はのんびり世間話をしている場合じゃないのだ。あたしが死ぬか生きるかの瀬戸際なのだ。 そう叫びたいのに、息切れと恐怖と一度感じた安堵で震え続ける喉はちっとも言うことを聞いてくれない。 「おい、加瀬よぉ」 救いの声。 もう一人の小太りが見かねたように、暢気に話しかけるひょろ長い男、加瀬に声をかけた。 「ちゃっちゃと済まそうぜ。これ以上長引かせても、辛いだけだ。 ……これは元々、お前さんには必須の仕事じゃねえ。出来そうにねえってんなら、俺が代わるぜ?」 「いえ、オビさん」 加瀬が、小太り――オビさんとかいう男にそれまでとは違う疲れた声で返事をした。 「ちゃんとやりますよ。みんな――神奈川君や藤崎君だってやってる仕事ですから」 「……分かったよ」 オビさんは、ため息と共に引き下がった。 彼女の中に怒りがこみ上げる。 こいつらの余裕は何なのだ。いや、この能天気さは。 あたしは死に掛けているんだ。後ろから殺人鬼が迫っているんだ。このままじゃ、殺されちゃうんだ。 死にたくないんだ。死ぬのが怖いんだ。お願いだから、助けてよ。助けて、助けて、助けて! 「ええ。助けますよ」 加瀬の呟きと同時に、彼女の額に冷たい金属が押し付けられた。 一瞬の困惑の後に理解する。黒くぬらりと光る筒。これは、銃だ。 理解した瞬間に恐怖が押し寄せた。やっぱりあたしは、殺人鬼に殺されるんだ。フェイスイーターじゃなく、目の前の虚ろな目の殺人鬼に。 「ただ、その為に僕らに出来ることはもう、これしかないんですよ」 言う加瀬のその瞳はやはり虚ろで、しかし確かに痛みを乗せて、だが全く躊躇をしていなかった。 「一週間以上色々試みて、全て無駄だった。現状の認識どころか、彼女は僕らの事すら覚え続けてはいられなかった。 もう皆と同じやり方しか無いと認めざるを得ない。 諦めたくなどないのですが、それはもう、いたずらに貴女を彷徨わせ続けるだけなんだと理解してしまった」 彼女にはその瞳はもう見えていない。言葉も聞こえてはいない。歯を鳴らし、溢れる涙が視界を濁らせていたから。 涙だけでなく鼻水も涎も撒き散らしながら、ひたすらに助けてと死にたくないだけを繰り返す彼女。 そんな彼女にかけられた言葉は。 「申し訳ありません」 言葉と同時に引き金が引かれた。 何となく気の抜けた銃声をあげて、弾は彼女の眉間へと吸い込まれていく。  鉛の塊によって頭が破裂する衝撃と、その中身がぐしゃぐしゃに掻き回される熱を感じながら。  彼女は仰け反り、倒れ、そして永遠に意識を失った。                ■ バン!  何となく気の抜けた音を立てて、銃弾は少女へと吸い込まれた。  元より、只の銃と弾丸だ。PSIによるコーティングだの何だのがしてある、訳でもない。  こういう武器で殺せるのは生き物だけだ。この少女の様な、世間で『幽霊』と呼ばれる類を殺せる訳は無い。    ……通念上は、そう言われている。  そして、それは正しい。                  ・・・  当たり前だ。只の銃弾で『幽霊』を殺せはしない。……ただし、物理的には。    銃弾を眉間に受けた少女は仰け反り、静かに倒れこんだ。  音は無い。ただ、見開いた目と飛び散った脳漿だけが、彼女の『死』を明確に主張している。  と、思う間もなく、それら全てが消え去っていた。遺体も、脳漿も、見開いた目も。  まるで、元からそんなものは存在していなかったとでも言うかのように。 「死んだか?」 「ええ」  呻く様な帯縄の問いに、加瀬がしゃがんだまま、やはり呟く様にして答えた。  加瀬の顔に今どんな表情が貼り付いているのか、帯縄の位置からはよく見えない。  だがきっと、いつもの虚ろな表情をしているんだろう、と思う。  しばしの沈黙。 「……本当に?」    帯縄が再び呟いたのは、それからどれくらい経ったのかが分からなくなった頃だった。  加瀬が答える。その声は、どこまでも平坦だ。 「大丈夫だと思います。 『銃で頭を撃ち抜かれれば、死ぬ』  ここ一週間対峙した限りでは、『彼女』にもそれを理解できる程度の理性は残っている様でしたから」 「ふん。じゃあ、とりあえず除霊完了、だな。……くそったれ」  いらだたしげにセブンスターを一本咥えようとする。火を付ける前に何気なく呟いた。 「そういや、顔はちゃんとあったな。遺体のツラはきっちり剥がされてたのに」 「顔を剥がされたのは死後の事ですから。認識はしていなくて当然でしょう」 ふん、と軽く頷いた帯縄に、聞かれてもいないのに講義でもするかのように加瀬は続ける。 「『あれ』は只の残滓ですよ。本人は既に死んでいます。  この場に焼き付いて残った思念。  死への恐怖と、助かりたいという欲求、それを導き出す為の知識以外、何も持っていませんでした。  何も、です。  既存の生物学に照らして観て、彼女は人間ではない。  哲学的に観ても、微妙です。  法的には既に死亡した存在なんだから、当然に人権も存在していない。  故に、どの見地から見ても、これは殺人には当たりません」  煙草に火をつける手が一瞬止まり、老刑事の眉が跳ね上がった。  確かにその通りではある。彼女は、アレは既に一個の人間、いや『存在』としてすら扱われていなかった。  只の『現象』。  今回の排除命令も、『彼女』を救う、楽にする等の目的ではない。 「不気味な幻影を放置すれば、付近の関係者の迷惑になる」というのが上からの指令理由だった。  それが常識的な考え方だ。そして賢明だ。  だからこそ、この『ゴミ処理』には、PGの生徒ではなく自分達が駆り出されているのだ。  PGの上層もそんな事で貴重な人材を潰したくはないだろうし、自分達も多感な青少年にこんな重荷を背負わせたくはない。  ああいう、もうどうしようもないものを真正面から見て、まして背負ってしまえば、その重さに押し潰されてしまう。  だが。  それが道理だろうが、いや道理だからこそ、それを言ってしまったらお終いなのではないか。 「本気で言ってんのか?」 「学術的・法的には、という話です。無論、人情は全く別の問題ですよ。……でしょう?」  淡々と返す加瀬の目から微妙に目線を外しつつ、やっちまった、と思う。  誤解されがちだが、そして帯縄も誤解しがちだが、加瀬 修次郎という男は、虚ろに見えても決して感情が無い訳ではない。  そもそも今回、直接手を下す役を果たしたのは、加瀬なのだ。  普段の彼からすれば異常とも言える今日の饒舌は、ひょっとしたら自分自身に聞かせる言い訳かもしれなかった。  本来なら自分の方がフォローすべき立場なのに、八つ当たっていたら世話が無い。 「……わりぃ。お前に当たるつもりはねえんだよ」 「お気になさらず。それよりも、報告がまだでしょう?」    気にするな、とばかりに肩をすくめた加瀬の言葉で、思い出す。  すっかり忘れていた。確かに、任務終了の報告は必須だ。  指に挟んだ煙草を改めて咥え、懐から警察無線機を取り出した。  が、気の無い仕草で弄繰り回しただけで、スイッチも入れずにまた、懐へとしまい込む。 「帰ってからで良いだろ。ちゃんと達成はしたんだ。便りの無いのは良い便り、ってな」  ふいに、雨を意識した。  ジワジワと突き刺さってくる様な雨音が、煩しい。 「……帰るか」 「ええ」  いつも通りの加瀬の声に、帯縄は呆れたように小さく溜め息をついた。  彼の声が僅かに震えている様な気のせいは、耳と脳から締め出す。 停めてあった車に乗り込もうとした時、加瀬が帯縄の口元を指差した。 「それ」 言われて気づく。何とはなしについつい火をつけ忘れていた煙草。 「おっと、しまった」 「僕にも一本いただけませんか?」 「は?」 思わず聞き返す。 帯縄の知る限り、加瀬が煙草を吸っていた事は一度たりとしてない。 「駄目ですか?」 「いや、まあ、そりゃ一本ぐらい良いけどよ……」 言いながら一本渡してやる。咥えた様子は意外と様になっていた。 火をつけてやり、ついでに自分の咥えた分にもつける。 「吸い方わかんのか?」と聞く間もなく、加瀬は勢い良く煙を吸い込み、「おい!」と言う間もなく、激しくむせ込んで、一通り咳を吐いた後、 「……まずい」 「そりゃそうだろうよ」  涙ぐむ加瀬に、思わず呆れた声を漏らした。 「初めて吸った様な奴が美味く感じる代物じゃねえよ。お前、これまで煙草とは縁無さそうだしな。無理はすんな」 「その、美味しくない煙を吸いたい気分だったんですよ」 「さよか」  今日何度目になるか、呆れた顔でため息を吐く帯縄と、軽く涙ぐみながら煙を吸う加瀬。  しばしの間、黒く暗い雨の中を追悼の線香代わりの様にして、二筋の紫煙がくゆっていた。 end.