■風を謳う 「何見てるの?」  第一声がそれだった。  アーティア=ルーティスはその言葉に応えずに、声の主を見ようともせず に、見ていたものを見続けた。何もない草原に横になり、何もない空を見て いる――だから、何を見ているの、と言われても答えようがなかったからだ。  空を見ている。  雲を見ている。  太陽を見ている。  そう答えるのは容易かった。けれど、アーティアはそのどれもを見ていた し、どれも見ていなかった。何をしている、と聞かれたところで、答えるこ とはできなかっただろう。 「何をしているの?」  案の定、問われた二言目に返す言葉はなく、アーティアはそのまま空を眺 めた。  ファーライト王国、西の辺境。この辺りには魔物すら現れることは少なく 、比較的平和な場所から知られている。魔物が少ないという立地条件故か、 この辺りは遊牧系の村がいくつかあったが、アーティアはそのどれに所属し てもいなかった。  彼女は吟遊詩人である。  のちにルーティス一家、とだけで通じるようになる所業を人魔大戦にて果 たす彼女は、今はただの無名な吟遊詩人に過ぎない。今この瞬間もそうだ。 何をすることもなく、ただ空を眺めている。  何もしたくない、という無気力さ故のことではない。  何もしない時間を、彼女は選んでいた。 「貴方、誰?」  三つ目にして、ようやく返すことのできる言葉がきた。 「アーティア」 「それが名前?」 「ルーティス」 「……どっちよ?」 「両方が」 「ああ――名前と、家名?」 「名前」 「…………なんかずれてるわね?」  女が首を傾げる気配。が、特に言うべきことはなかったので、アーティア はそのまま空を眺める。  流れている時間が違うのだよ――とどこかの学者ならば言ったのかもしれ ない。アーティア=ルーティスは彼女の時間を生きており、その流れは他の ものよりもゆっくりと、穏やかに流れている。  彼女にとって、世界はどこまでも穏やかで――そして、広かった。  背中の翼があれば、どこまでも飛んでいける。  翼が疲れれば、二本の脚で。  それでも疲れたら、歩くことをやめてこうして休む。アーティア=ルーテ ィスはそうやって生きてきたし、これからもそうするつもりだった。だから 、突然隣に現れた少女に対しても、そのスタンスを崩すつもりはなかった。  だから、君は誰、とすら聞かない。いることに対してすら疑問を思わない 。彼女の姿をとらえたのも、アーティアが首を動かしたからではなく、彼女 が回りこんで視界に入ってきたからだった。  ファーライトの鎧をきた、十歳ほどの小さな少女だった。アーティアが立 ってしまえば、胸元までしかその背はないだろう。長く伸びた銀の髪をたら し、銀の瞳でアーティアを見つめている。  背には大剣、腰には姉妹刀。三本の剣を携えた少女は、けれど無警戒にア ーティアの瞳を覗きこんでいた。  瞳を見れば、相手がどんな人間かわかるという――それを実践しているの かもしれないと、アーティアは思った。  思ったが、口から出たのは別のことだ。 「色々なことを」 「……何の話?」 「見ていた」 「――ああ、最初の質問の答え?」  アーティアは頷く。  いろいろなものを見ている。  空を、雲を、太陽を。そして、今は目の前にいる少女を見ている。みてい るだけで何もしないし、何を言うつもりもないが――そういうこともある、 とばかりに、アーティアは手を差し出した。 「…………?」  不可思議げに少女は首を傾げる。何をしたらいいのかわからない、という 顔。アーティアはそのまま手を伸ばし、呆ける少女の手を取り、上下に振っ た。 「握手?」 「握手をしている」 「二番目の答え――にはなってないわよ。ずれてる。うん、ものすっごくず れてる」  眉をよせ、なんともいえない顔をする少女。どうしてそんな顔をしている のかわからず、返答できず、けれど特に何を言う必要もないな、と思い至っ たアーティアは笑みを返した。  エルフの血の混ざったアーティアは、体型とともなってどこか中性的な雰 囲気を備えている。見ようによっては麗人ともとれなくもない笑みに、少女 は僅かに耳を赤くした。  が、そんな反応を一切気にすることなく、アーティアはつないでいた手を 放し、またごろんと横になった。その態度を見て少女は頬を膨らませる。  くるくると変わる少女の顔と、穏やかなアーティアの態度は対照的で、け れどその場に流れる雰囲気は二つが混ざり合い、和やかなものになっていた 。  頬を膨らませていた少女は――ため息をひとつ吐き、それからアーティア と同じような笑みを浮かべた。 「――変な人。ね、何してるの?」 「それは違うよ」 「……何もしてないの?」 「変じゃない」 「そっち! でも気付いてないのは貴方だけ、というヤツよ、それ」  少女は笑い、  アーティアは笑わなかった。  穏やかな顔つきで――けれど笑うことなく、起き上がる。いきなり動き出 したことにびっくりする少女の前でアーティアは立ち、大きく伸びをした。 背中から伸びた羽がばさりと羽ばたく。腕を大きく上にあげ、深く息を吸い 込んで、吐き出す。  新鮮な空気。  風の味がした。 「……どうしたの?」 「変じゃないよ」  再びずれた回答。アーティアは空を見て、それから――彼女にしては珍し いことに、自らの意思で少女を注視した。ファーライトの鎧をきて、三本の 剣を携えた少女。  背が違いすぎて見下ろす形にしかならない。それでも決して見下すことな く、まっすぐに見つめて、アーティアは言う。 「違うだけさ――みんなね」 「――――なによ、それ」  少女の顔がむくれる。その理由を、アーティアは知っている。否、気づい ている。彼女の横に浮かぶ小さなものが、その理由を話していたから。  エルフとバードマンのハーフであるアーティアは、精霊という存在を理解 することができる。吟遊詩人にして吟遊精霊魔法遣い――それがアーティア =ルーティスの肩書だ。  精霊はどこにでもいるが、誰かにつく、ということは珍しい。本人の自覚 に関係なく、精霊を伴うものはどこか世界からずれている。  アーティア=ルーティスは精霊から話を聞く――少女がどういう存在なの かを。どうしてここにいるのかを。どうして彼女がむくれているのかとか、 気をまぎらわせるためにこんな平原まで散歩にきたのかとか、もうすぐ王都 いきが決まって不安がっているとか――その力ゆえに自領に居づらいとか、 そういったことに「なんとなく」気づいている。  気づいても、何も言わない。何もしない。  それは彼女の事情であり、彼女の人生だから。  ――風は一瞬だけ、触れるように流れていく。  人魔大戦のあと、誰かはこう記した――アーティア=ルーティスとは風で ある、と。災害をまき散らす暴風とも、悪を切り刻む黒い旋風でもない、穏 やかに流れる風のような存在だと。 「気にすることはない、かな」  言って、羽をはばたかせる。「わっ、」と巻き起こった風を受けて少女が 慌ててスカートを抑える。アーティアの身体が浮き上がり、  ふと、ようやくそれを思い出したかのように、アーティアは言った。 「名前は?」 「――今更それを聞くのね」  スカートを抑え、少しだけ涙目で――それでも笑みを浮かべながら、少女 は答える。 「――フォーセリア。フォーセリア=ヒルベント=リッター」 「はじめまして、フォーセリア」  言って――それが最後の会話になった。アーティアは一気に浮き上がり、 吹く風に乗るようにして跳び上がる。下から「そこはさよならじゃないの!? 」という声が聞こえるが、もはや耳に入っていない。飛びあがり、羽を力強 くはばたかせ、アーティアは風にのってさらに高くへと舞い上がる。  先までは、空を見ていた。  雲を見ていた。太陽を見ていた。  今は違う。空の高みから、下を見ている。どこまでも続く草原と、どこか すっきりしたような顔で手を振る小さな少女を。そしてそのはてに続く景色 を。  何を見ているの、と聞かれた。  もう一度問われれば――アーティア=ルーティスは、こう答えただろう。 「――世界を」  翼がはためく。抜けおち、舞い上がった羽根が風に乗り、奇跡のようにフ ォーセリアの足元に落ちる。幼き騎士はそれを拾い、少しだけ考えて、それ から微笑んでその羽根を剣の鞘にさしこんだ。  そして彼女は歩きだす。王都へと。彼女自身の人生を歩むために。  風がその旅立ちを見送るように、穏やかに吹いていた。 (了)