月華草   04 にげる    覚醒まではほんの一瞬。  そのまま寝入っているような場合ではない。途切れかけたウォル=ピットベッカーの意識を叩き起こしたのはそんな思考だった。  鉛のような瞼を開こうと努力し──だが、それだけであった。  それが映しているものと言えば切り抜かれた夜空と、彼が突っ伏している街路、及びその両側にひしめく惨めな建物の壁が主であるが、 彼がそう理解しているであろう要素は凡そ一割程度でしかあるまい。  要するに、今現在の所、少年の脳味噌はその程度しか稼動していない、と言う事であった。  最も、割合に少ないと思われる彼の頭脳はこの場合、不幸中の幸いとも言えたのであるが。  優に数十秒程もかけて上半身を引き起こし、続いて更にのろのろと、ふらつきよろめき、千鳥足みたいな調子で立ち上がる。  頭痛が酷い。だが、今尚暖かいと言う事が出来る財布の中身を鑑みると、寝ている訳にもいかなかったのである。  第一、ここらの道端で犬のように眠るなど、間抜けを通り越して生命の危機である。  そう、今すぐにでも宿へ戻るべきだ。  少年の理性はそんな命令を懸命に行っていたのだけども、残念ながら体がそれを許さない。  目は淀み、口元は引き攣り、首は丁度半垂直の方に向き傾いでいる。  少年の顔は一言で言えば、クシャミを我慢しながら虚空を睨み付けている、といった風だ。  古来より人間の内部には天使と悪魔が潜むと言う。  そう、彼の内部では理性と本能が闘争を始めつつあったのだ。  それを端的に表現するならば右に左と、ぐらりぐらり、倒れそうで倒れない、半睡半起の態である。   「……えっと」  ツクヤが目を丸くしてウォルを見ていた。どうにも、少年の行動に戸惑っているようにも見える。  きょろきょろ少し目を動かすと、「まだ頭痛ぃの?」と、再び水桶を差し出したりする。  少年は頭を振った。確かにごもっとも。なのであるが、水ばかり飲んでみた所でどうなる訳でも無い。  大丈夫。大丈夫、と言って彼はその申し出を断った。 「あー……疲れた」  そして、付いて出た言葉と言えば、そんなものであった。  紛れも無い事実である。足先から脳天に至るまで、悪魔の水ですっかり水浸し。  河川宜しく堤防が決壊とまではいかないものの、残り僅かであった気力もすっかり霧消してしまっていた。  少女は彼が面白いのか、それとも心配なのか、ちょこまかと少年の周りを跳ねている。  それを鬱陶しく感じる余裕さえも無く、彼が思う事と言えば、家路と惰眠の二つ事ぐらいであった。  しかしながら、僅かなその道程でさえ、まんじりともせず立ち尽くす今の少年にとっては千里に等しく、 睡魔はと言えば彼の後ろで意識を刈り取ろうとウズウズしている、と言う状況である。  ──どうにか足を動かそう。動かして、戻って寝よう。  その程度の思考であれば、野良犬でさえするだろう。  と、言うか実際していた。 「いぬっ、いぬだよっ、ねぇ、うぉるっ!」  等と言いつつ、少年に呼びかけるツクヤが、彼同様にふら付く哀れな野良公を目で追いながら言う。  相変わらずの元気さで、まるで珍しい生き物でも目にしているかのようだが、少年からの返事は無い。  少女はその後を小走りで追いかけ、一方の野良犬はと言うと、それを気にした風も無い。  薄汚れたブラシみたいにゴワゴワの毛を撫でられるに至ってその場に伏せて丸くなる。  何となく、ウォルよりも鷹揚な対応に見えるのは、恐らく経験の差なのであろう。 「はいはい、犬だよな、犬。うん犬」  全くもって無邪気なものである。まぁ、単なる馬鹿なのだ、と嘯くウォルは思っていた。  ここまでの彼女の言動を見るに、恐らくその考えは正しいに違いあるまい。  まぁ、そうであったとしても、所詮は一期一会。別に問題など無いのであった。  そんな事を徒然考えていると、彼はふと、一体、この正体不明の狐娘は何処で夜を明かす事になるのだろう、と言う事に思い当たった。  皇都の夏の夜は、河川が近いせいもあってか、酷く蒸し暑い。  季節は最早秋に近いとは言え涼しいとはとても言えない。  恐らくは娼館から迷い出たであろうこの少女はどこぞの軒下か、橋の袂に公園、 或いは港湾オークどもの宿無し宜しく川面に浮かぶ艀の上で眠る事になるのだろう。  少年はそんな事を考えながら、亜麻色の髪を闇でくすませたツクヤの整った横顔を見ていた。   そのせいであったのだろう。下卑た色が、引き攣ったような影を少年の口元に作っていた。  そうしてみると、常であればとてもでは無いが考えられないどす黒いものが少年の腹中でとぐろを巻く。  そうだそうだ、と地虫どもが騒ぎ出す。  彼女の着ていた服は、何十枚かの貨幣に化け、そして少年は金が必要だった。  いや、必要になったと言うべきか。もっと、だ。もっと必要であった。  すると、服にさえそれ程の値が付くならば、彼女自身には一体どれ程の金が積まれる事となるのだろう?  ウォルの目には野良犬にじゃれ付く白痴の娘が、急に一杯に金が詰まった皮袋であるかのように映り始めていた。  が、それも一瞬。  いやいや、待てよ。考え直せ。そんな不埒な事を考えて一体どうすると言うんだ。第一、僕にそんな大胆不敵な真似など出切るもんか。  第一、必要な分の金はもうあるじゃないか。この上欲なんてかくと碌な事は無いぞ。  訳の解らない物にかかわるのは最低限でいいじゃないか。娼館に売り渡すとして、一体誰が『はい、そうですか』と言うものか。  それに、よく自分の行動を考えてみろ。今更、そんな真似なんて出切る訳が無いじゃないか。  僕にはこの子をどうする事も出来ない。それで良いじゃないか。  見れば解る。そんな事をしたって、一体誰が悲しむって言うんだ。  何より、僕には殆ど関係の無い話である事だし──僅かに、ぶつぶつと独語が混じる。 「あっ」  たっ、と野良犬が跳ね起きて逃げていく。ツクヤはそれを残念そうに見送っていた。  辺りは相変わらずだ。明け方と夜の間、中途半端な時間に相応しく静かな癖に空気は生ぬるく、暁の訪れを予期させる。  屋台こそ未だあるものの主人は椅子に座ったままで船を漕いでいるし、 辺りに倒れこんでた少年同様の酔漢どもの姿も見えなくなっていた。  が──見遣れば、ウォルには覚えの無い男がストゥールに腰掛け、杯を煽っていた。  犬は、ちらりとその男の方を向くと一鳴きし、それきり姿を消した。    黒尽くめの男であった。  気づき、その姿を見て少女は身を翻し、少年の元に戻ってくる。  そして、彼女はウォルの服の裾を掴むと、まるで警戒でもしているかのように、じっと上目に男を見ていた。 「おい、あんたら」  果たして。その男はそう呼びかけてくる。まるで射抜くような鋭い目つきをしていた。  妙に苛立たしくもあり、卑屈でもある思考の虜となりかけていた少年が顔を上げる。 「え、あ、えーと……」  しどろもどろに呟き、ややあってウォルは何やら彼が、話を持ちかけよう、としている事に気づいた。 「何か用でしょうか?確か、あなたとは初対面の筈ですし、声をかけられる様な用事にも心当たりは無いんですが」 「勿論。三つともその通り。──ああ、すまんね。一寸、一服させてもらう」  手品みたいにで素早く煙草抜き出し、やおら煙を吸い始めた男を検め、ウォルはその男が爪先に至るまで一つの色で表現できる事を知った。  羽の突き出た黒い帽子に黒の外套、黒革のブーツ、マントの下に着たシャツもまた黒く、 その上に髪も、蓄えた髭も、瞳の色さえ黒一色なのであった。  肌を除いた例外と言えば、僅かに金の柄尻と羽飾りの赤ばかり。  そして、奇妙な程存在感が希薄な男であった。充満する闇のせいであるかもしれないが、 じっ、と見ていなければ全身が夜に溶け込み、あっと言う間に何一つ痕跡が見えなくなってしまいそうですらある。  その癖、奇妙な違和感ばかりが男の在る場所に取り残される、といった調子だ。  少年はその姿に、何時か読んだ小説の透明な魔物を連想していた。  恐らくは同じ冒険者なのだろう。なのだろうが、恐ろしく奇怪な輩である事は間違いなかろう、とウォルは思う。  奇人変人には事欠かない職であるからして、或いは知識の少ない少年が知らぬだけで、こういう輩は多いのかもしれないが、 何処からどう見ても強盗か追い剥ぎの如くであり、もう少し柔らかく言っても胡散臭い事この上無い。  ウォルの思考を口に出すならば、まるで死人のような目さえしているのだ。  最も、彼は死体などを直視した経験は無いが、街路に時折転がっている犬猫の死体などのように、酷く不気味だ。  こんな奴ばかりであるのならば、冒険者などもっと早く辞めておけば良かったなどと、あらぬ後悔が吹き上がって来る。 「おい、おい!聞こえてないのか?」  男の声がウォルを呼び起こす。はっ、として意識を呼び戻された少年がまず最初に見たのは、紫煙を吐き出す黒服の男だった。  次に気づいた事には、ツクヤが男と少年の間で視線を往復させている事だった。 「は、はい。聞いてますって」 「なら良いンだがね。あらぬ方を向かれたままじゃ、説得力もねぇ。……さて、少し時間を取らせるが、構わんか?」 「えっ、そりゃ、ちょっと待ってくださいよ。そりゃ困ります……いきなりそんな事言われても。  僕ァ、とても疲れてるし、明け方ともなれば早く帰って休みたいんです。それ以前に、まだあなた、名前も名乗ってないじゃないですか。一体誰なんです?」 「冒険者だ。名前は、必要じゃなけりゃ名乗らん事にしてるし、お互い知らずにいた方がいいだろ」 「そんな無茶苦茶な……」 「俺の名前もお前の名前も、今ここじゃ大して問題じゃねぇだろ?これからする話にもな──さて」  皇国常用語としては僅かに古臭い癖のある口調で強引に話を進めていた男は一旦言葉を切り、じろり、と少年と、それから少女を見た。  目の前に立っている黒尽くめは、言葉通りにウォルに、ツクヤに用があるらしかった。  最も、少年にはどう考えても、こんなヤクザ紛いの男に用事を作った記憶など無かったし、 少女にしてみれば尚更である、と言うよりあったとしても覚えていないに違いあるまい。  そもそも人付き合いの「ひ」の辺りで立ち止まっている事は間違い無いだろう。 「ああ、そう構えてくれるな。取って食やしねぇさ」  大げさに手を広げ男は言う。一方のウォルは矢張り、冒険者であるからには、これは依頼されての事かもしれない、などと考えていた。  単に、この都市に駐留する貧弱な治安当局の代わりに罪人でも追っているのやもしれず、 或いは、単に調査でもしているのかもしれない。足を使って、である。  が、何れにせよ少年にして見ればはた迷惑な事この上ない。  やはり冒険者を装った盗人かもしれず、或いは副業が追い剥ぎであるかもしれない。  油断は禁物であった。何にせよ、早く退散するに越したことは無い。 「やっぱ、信用出来かねます。行こう」 「待った。待ってくれ。すぐに終わるンだ」  そう言う話ほど往々にして長く続くものであるのだが、余りにも強く引き止める男に、ウォルは仕方なしに首肯する。  結局、断りきれなかったのは彼の性格であると言えた。  そんな少年と男を、先程までの様子が嘘であるみたいに静かに、注意深い目でツクヤは見ていた。  屋台から適当に持ってきた椅子に座ると、男はもう一本煙草を口にくわえた。  その目が今度ははっきりと立ったままのツクヤに注がれていた。  ゆらゆらと煙が踊るように立ち昇り、指でそれを持った男が言う。 「その女の子の事だな、話ってのは。ああ、確かに可愛い子だが、別に疚しい目的じゃねぇ、とは先に言っとく」  馴れ馴れしげなその言葉に、ウォルは心臓にいきなり冷や水でも浴びせられたような心地だった。  一番考えたく無かった、寧ろ、意図的に思考の外に追いやっていた可能性を、黒尽くめは気負い無く言ってのけたのだ。  目が泳ぎ、手は所在無く動く。体は凍りついて心臓だけがまるで他の生き物みたいに動き出し、眩暈にも似た感覚が襲い掛かってくる。  なんてこった。なんてついていないんだ、僕って奴は!大よそ、星の彼方程の距離から少年の思考がそんな事を叫ぶがどうしようもない。  漸く危機に気づいた鈍い理性は『美人局!美人局!』などと繰り返し祈祷のような警告を吐き出し始める。    僅かに引き攣った様な表情になると俄かにふら付き始めたウォルは傍目には泥酔者かキチガイに相違なかったが、 当人にしてみれば眼前にあるものが直視する事さえ恐ろしい事実に他ならないのだから仕様が無い。  目の前の男が何者であれ、絶望的な予測が正しくさえあれば、少年に対し何ら手心を加える必要などある筈もないのであり、 冒険者とは須らく何でも屋であると同時にどうしようも無いゴロツキ連で、荒くれどもだ。  そうであるからには、今しも逃亡奴隷を掠め取ろうとした彼に対し、どのような未来が待っているのかは想像するまでも無い事だった。   「そのぅ、僕はですね。冒険者さん、決してそんな事はですね。何もしてません、本当にです。何もしてないんです」  まるで、町外れの屠殺場から投げ捨てられた屑肉よろしく川面にぷかぷかと浮びやがて腐臭を上げ始めるか、 さもなければ、この貧困地区には未だ存在する、数世紀も前に作られ、汚物に満ち満ちて詰まった排水溝に転がった己を思い浮かべ、少年は哀れな表情を浮かべていた。  ああ、やっぱりな。僕って奴はこういう運命なのだ。掃き溜めの底で圧死する運命なのだ、などと己が人生を悔いるが時既に遅し、である。  煙草をふかしながらにやにやと厭な笑いを浮かべている黒服は、少年に何やら煙草を差し出す。  ぷかぁ、と盛大に煙を吐き出し、一言。 「一本どうだ?落ち着くぞ」 「あ、ええ……僕は、煙草はちょっと」 「男の嗜みなんだがね。んな事は兎も角、話を戻すぞ」  少女が「そんなのウォルはいらないよ。煙たいし、臭いもん。きっと良くない物だよ」などと声を投げるが意に介した風も無い。  黒服は半ば程まで短くなった煙草を地面に捨てて踏み消した。  何故だか少し残念そうにも見える。 「で、だ。色々と事情があるンだ、こっちにもな。こんな朝っぱらからすまんが聞かせてくれ。  お前さん、その子と一体どんな関係だ?どうして一緒にいる事になったンだ?  ああ、いや何。俺も冒険者だがね、アレだ。そのお嬢ちゃんを探してる奴がいてな。それが俺の仕事って訳だ」  口火を切った黒服は、少々ばつが悪そうに「是が非でも連れて行かないと、俺も飯の食い上げでね」などと口にするけれども、どうにも胡散臭い事には代わりが無い。  何度も述べた事であるが、見慣れない相手には用心するに越した事は無いのだ。  それに、どうにもツクヤはその言葉に酷く警戒しているようだった。  最初の数句の内にウォルの後ろに隠れてしまう始末である。   「でも、彼女怯えてますって」 「見れば解かる。こんなご面相じゃ、強盗とでも思われてもさもありなん、だ。が、こちとら信用がかかってンだよ。  それがどんなにか重要かぐらい、お前さん解かるだろう」 「そりゃそうですが……あのですね。あなた、何処の誰とも知れない上に、名乗りも素性を明かしもしないじゃないですか」 「お互い様、だろ?その子の事を俺は知っている。で、何処の馬の骨とも知れん奴が付きまとってる。 理由はどうあれ、人様の物に手ぇ出しといて居直るのは盗人猛々しい、ってんだ。どうかは知らんがね」 「別に僕は……」 「ははぁ、さては情が移りでもしたか?」 「違います!」  煙草の煙を宙に撒き、灰を地面に振り落として男は言葉を続ける。 「話は変わるが、俺の聞いた話──ああ、これは依頼した旦那からだが──どうにも、その子の着物が聞いてたのと違うンだよなぁ。  まぁ、こんな街だ。その理由にゃ事欠くまいが。ああ……所でお前さん、身なりの割に羽振りが良いらしいな。ここのオヤジから聞いたぜ」  彼の言葉は一々強圧的だったけれども、全く持って正確無比に少年の臓腑、特に胃や肝臓の辺りを抉り抜いてくる。 「し、仕事ですよ!仕事を終えたばかりなんです!ハメ外したくなったって、別に変じゃないでしょう!?」 「ふぅむ……そう言う事にしとこう。勿論、それなら何時、何処でこの子を拾ったかも言えるだろ?やましい事は何もねぇンだから」  少年がしまった、と思う暇も無い。まるで掴んだ手首を捻り上げるみたいに言葉を返して男が言った。  だ、大丈夫だ。大丈夫の筈だ。何もこの男は知らない筈。確証が無かったから、僕が、ツクヤと一緒にいるのが予想外だったからこそだ。  ウォルはそう自分を励ましたが、同時に黒服の心証がかなりの部分、少年を黒と決めてかかっている、と言う事も認めざるをえなかった。  が、びくびくしているウォルに黒服の男がふと相好を崩し、ばつが悪そうにも見える表情で顎鬚を摩った。 「別に、だ。最初にも言ったと思うが、俺にとって重要なのは、その子を連れてく、たったそれだけだぜ。 乱暴な言い方だがお前さんの事なんぞ俺にはどうでも良いンだ。殺すだの奪うだの、物騒な手段に出る気はねぇよ。第一、俺が縛り首になるだろ?」  そう前置いてから、男は言った。 「何故か、は残念ながらお前にとっては知らなくても良いし、知る必要もねぇ。が、もう一度言うぜ。その子を引き渡してくれ。それで全部が済む」 「……」    眼光は鋭く、物腰は柔らかに。  そんな暴力で裏打ちされた説得だ。解かり安すぎるほど解かりやすい、ヤクザ者や冒険者の論法であった。  だが、それでも申し出を断る理由は無い。無い筈だ。  もしもこの状況と確実に縁切りが出来るなら一も二も無く飛びついたに違いあるまい。  決断を鈍らせていたのは二つ。目の前の男が信用できないということ。そして── 「ウォルっ?」    じっ、と少女がウォルを見上げていた。その顔は、と言うと相も変わらず。  男に向けていた警戒が嘘であるかのようだ。まるで、ほんの数瞬前まで彼が何を言おうとしていたのかが解かっていないようでさえある。  少年はツクヤの顔を見る。瞳が月影色に揺らめく彼自身を写していた。  それが背中を押して、足を踏みおろした。  いっそ気分は清々しく。自暴自棄か、それとも開き直りの境地か。  我ながら何と馬鹿な事をしているのだろう、少年は思うが、からからに乾いた喉はまるで自動機械のように言葉を弾く。   「ツクヤの事だったら、その、全くの偶然で。何もかも、出会った事もそうですけど、第一、会ったばっかりですし……  でもですね、あなたの碌でも無い申し出は受けれません。絶対にです、絶対に」  言葉を吐いた次の瞬間襲ってきたのは勿論、猛烈な後悔であった。  ともあれ一度吐き出した言葉を訂正は出来ない。  何かが彼に向かって大声で『謝れ、早くだ。今ならまだ間に合う』などと叫びたてるが最早知ったことではないのであった。  果たして。黒服が眉根を寄せる。僅かに表情を変えた顔に埋め込まれた目が、煌く刃のような色を帯びる。  まるでその瞬間、黒い影を従えた男の背丈が、それ諸共何倍にも膨れ上がったかのように見えた。  彼が腹を立てているのか、それとも自分を処分する百通り程の方法を考えているのかすらも少年には解からなかった。  ともすれば、すぐにでも背を向けて逃げ出してしまいたくもあったが、まるで蛇に睨まれた蛙である。  互いの距離など無きに等しい。  彼が一歩も後ずさらなかったのは、単に背中にいるツクヤのお陰に過ぎなかった。   「お前──まさか、名を付けたのか?」  だが──黒服が口にした言葉は少年にとっては全く予期しないものだった。  名前?ツクヤの?一体何故そんな事を聞いて来るのか。理由が全く解からない。  なのであるが、今しも一歩を踏み出した黒服の目を後一秒でも直視していたら、あるいはそうでなくとも尋問と言う表現で表される悪意に晒されれば、 きっと少年は車輪にひき潰された蛙か何かのように、知っている事を自ら残らず絞り出すだろう事は間違いない。 「そ、それがどうしたって言うんですか!渡しませんよ、この子は!このきれいなものは、僕の物だ!他の誰かに渡すなんて、出来っこ無い!」 「俺も同じ言葉を返すぞ。それが一体どうしたと言うんだ。今ならまだ間に合う。その娘を渡せ」 「煩い!」  まるで、熱病にでもかかったかのようだった。今や、ウォルの頭脳は一つの柱を中心にぐるぐると永遠に回転する車輪だった。  べらべらと多弁をする癖に、脳裏は酷く冴え渡って、あるいはそうとも知れない程狂気じみて夜の影のようだ。  むくむくと心の底からえも知れぬ何かが少年を突き動かしている。  それは一言で言えば魔力とでも言い表せるものであったのかもしれない。 「ウォル……ウォルっ!」  がくん、と。肩も外れよとばかりの凄まじい力が背後から少年の腕を引いた。  彼がその犯人に気づいたのは、前を向き、少女がウォルの腕を引き、彼を引きずりながら駆け出そうとしているのを見た時だった。 「待て!おいこらッ!糞、釣銭取っとけ!」  引き千切るように財布から銭を投げつけた黒尽くめの声が、尾を引くように遠ざかっていく。  捻ったか、それとも実際に間接が外れでもしたか、肩が酷く痛んだが、それよりもウォルはいきなりのツクヤの行動に驚いていた。  無論、その思わぬ力にも、だ。  一体全体、この小さな体躯の何処にそんな力能が秘められていたと言うのか。  疑念は膨れ上がるばかりであるが、何よりの問題はその速度だった。  まるで風だ。吹き抜けるように石畳を蹴る。そして、それを成しているのは今も手を握り少年を引っ張っている少女である。  ウォル=ピットベッカーと言う名の少年はそれでも矢張り、何処にでもいる貧民の子供に過ぎない。  足はもとより全身の筋肉と言う筋肉、骨と言う骨が悲鳴を上げはじめるまでさして時間はかからなかった。   「痛い!痛いってば!」  そんな叫びにも、ツクヤは聞く耳を持っているとも思えない調子だ。  そう、走ったのは僅かな時間、である。だが、その間に、少年は眠りかけた月が照らす幾つもの光景を見た。  そして、それらが流れ去っていくのを見た。雑踏も殆ど聞こえず、まるで誰かが紙に書いた落書きのようだ。  それは、例えば彼が朝な夕なに重い足取りで歩いた街路であり、 また、騒がしくも少年同様哀れな身の上の物売り共がたむろする、しかし今は主も無く、残骸か骨のようにその身を晒すのみである屋台の群れであった。  棟々の屋根を超えた遠くには一瞬、巨大な化け物か、塔のように林立する帆船のマストが見えた。  あの忌まわしく騒がしい黒毛の獣人に出会った酒場も、ボロ宿へと繋がる小道も、つま先も向けずに通り過ぎる。  本当に、僅かの間であった。その僅かの時間に、少年が毎日を過ごしていた場所は呆気無く過ぎていった。  少年が常々そう思っていた通り、そう、まさにその通りであった事が、これ以上無く明快に示されていた。  その事実を認識した途端、少年は酷く高揚していた。  思わず、走りながら狂人の様に馬鹿笑いを上げたい気分であった。  どうだ!どうだ!ざまぁみろ!!僕は、お前らに、お前らなんかに捕まりはしなかったぞ!僕は違うんだ!お前らなんかとは!  ウォル=ピットベッカーは過ぎ去っていく日常に、そうとだけしか思う事は出来なかった。  彼に問う者は居ない。誰も。  /  気がつけば、何時までも続くとさえ思われていた街の建物の姿は消え去っていた。  随分と走ったらしかったが、月明かり以外には碌に明かりも無く、そこが一体どの辺りなのかウォルには判別する事が出来なかった。  少年の行動範囲自体が皇都と言う全体からすれば、そのほんの一部でしかなかったのだから当然と言えば当然であった。  宮城を囲む幾重もの壁の一つを越え、それでどうにも公園のような場所に出たのか。彼はそんな見当を付ける。  確かな事はたった一つ、空に在る、僅かに白を残し、今や蜂蜜色をしている沈みかけた三つの月だけだ。  丘のような高台であるらしい。視線を動かすと薄ぼんやり幻のような街の姿が少年の目には映っていた。 「し、死ぬ……死んでしまう。本当に……も、もう駄目だ。僕はもう一歩も動けないぞ、畜生。もう駄目だ」  が、当のウォル=ピットベッカーはだからと言って急に体力が何倍にも増す訳も無く、繁茂する草むらに倒れ込んで情けない言葉をひぃひぃ吐いている。  狐耳の少女が息を切らせもせず立っているのとは正反対である。     兎も角、これで一種のご破産となったのは間違いの無い事だった。あの黒服についても、それから彼自身についても、である。  少年は知り、そして逃れ得たのだ。故に、爽快でもあり、同時に不安でもあった。  草のざわめきと、僅かな虫の羽音以外には少年の掠れた呼吸の音が聞こえるばかり。  ぴくぴくと耳をそばだてている風のツクヤがを彼の目には映っていた。  暫くして、恐ろしく冷静さを欠いていた思考が漸く、自らの決断についての思考を巡らせていた。曰く。  一体、何だってあんな馬鹿な事を口にしてしまったのだろう?僕に人一人を扶養する資力なんてある筈も無し。  常識的に考えれば、あの言動は一種のヒステリー的な欲望の発作に違いない。  けれども、こう、面食いなどでは無かった筈で。それに、そんな事は良くない、と自分に言い聞かせた。  と、なると、更に恐怖と緊張とで僕の頭はおかしくなっていたのだろう。  そして、その原因はあの黒服野郎だ。  以上の思考からも理解出来る通り、彼は言い訳の上手い少年であった。  それは要するに、最早どうしようも無い事実を、つらつら己自身に説明しているだけに過ぎない。  論うのにも疲れ、一つの事実に彼は突き当たる。   「兎も角、僕は一体これからどうすればいいのかしらん?」  あれでもない、こうでもないと幾つもの可能性が堂々巡りを繰り返す。  それらへの想像はあれこれ、頭の中を錯綜しているのだけれど、そのどれもが可能であるとは少年には思えなかった。  冒険者、その職業自体に必然的に含まれているとは言え、投機じみた要素の無い選択など一つも無い。  出来る仕事の程度も質も変わるまいし、定職への道も立たれたも同然。  自らの生活拠点を失ったも同然であり、直視するには余りに辛い事実であった。 「ウォルっ、何考えてるの?」 「別に何も。考えてたけど、頭の中身がお粥みたいになってるから止めた。良い考えが出るよう、冷やして固めてる所」 「そうなんだ」 「いや、そう首を傾げてまじまじと見られても困るんだけど……」 「良い考え、浮かんだ?」 「早いよ。多分、まぁ、浮かぶんじゃないかな……きっと」  そうは言うものの、それは少年が考えるには余りに荷が勝ちすぎる事だった。余りにも、疲れるのだ。  だから彼はそれをとっとと放擲し、思考の対象を黒服の男に移していた。 「ねぇ、さっきのあいつの事、知ってたの?君の事をどうとか言ってたけど」  尋ねると、ツクヤは首を横に振った。 「ううん、見た事も無いよぅ」 「でも、知ってる人から聞いた、って」  しかし、矢張り首を縦には振らない。嘘を付いているのだろうか、などとも思うが、そうであるならこの場に至るまでの全てが真っ赤な嘘だ、と言う事になる。  そうする必然性があるとも思えず、ウォルは会話の切り口を変える事に決めた。 「えっと、それじゃあ、ひょっとして追われてたの?」  すると今度は頷く──が、よくよく考えれば当然だった。何せ彼も今、黒服に追われているであろうからだ。 「ごめん、変な質問した」  そう言って、愚問に頭を振った。じっ、と見ていたツクヤがぽつり、と呟く。 「あの人、凄く厭な感じがした」 「え、まぁ、確かにどう見ても係わり合いにはなりたくなかったけど、でも、いきなり何で?」  少々面食らったようなウォルを前に、彼女が更に言葉を続けようとしたその時だった。  背後に、藪を掻き分ける気配を感じ少年が振り向く。 「さて、どうしてだろうな?」    そこにあの黒服の男が立っていた。  唐突に、そして理不尽にもそれは何の前触れも無くであった。  絶叫めいた疑念が口を付いて出る暇など無かった。  男の片腕が一瞬ぶらり、と蛇のように垂れ下がったと思うと、鈍い衝撃が脳天から爪先まで少年の体を貫く。  何故ここにその男が居るのか、一体何時から追いつかれたのか。  それらへの結論を出すことも無く、少年の意識は呆気無く闇へと溶けていく。  薄れ行く意識の中、少年が最後に知覚したのは自分の顔面が真横から地面に叩き付けられる、その瞬間だけだった。  next