それは、いつかどこかで交わした約束。  それは、二人の魔王が交わした約束。  本来ならば世界にとって重大な問題となるはずで、しかしその通りには永遠にならないであろう約束。  それは、一人の男と一人の幼子が交わした約束。  他に知る者もなき、小さな小さな約束。  それは、約束。  果たされ続ける、約束だ。 ■RPGSS■   〜〜 碧い月 〜〜 「……つまりだな、メジャーな事象龍が揃いも揃って少女の姿を取るのはだな、近年新興勢力に圧され気味の連中の人気獲得キャンペーンじゃないか というのが俺様の自説なわけだ。  人気を気にしなかったりもうどーせ色々無理な連中は、誰も少女形態を取っとらんだろう。  そうでもない? まあ、中には諦めきれずに媚び売るのだっているだろうさ、c8・ルーク」 「a3・キング」  その部屋は暗かった。黒い、だが全てを塗り潰す闇ではない、水底に溜まった泥の様に粘りつく、そんな薄暗さ。  そこは、正に水底だった。重苦しさも、息苦しさも、何もかもが透明でありながら先の見えない薄暗さも。  その部屋で、チェスに興じているのは、男と幼子だった。  男はくつろぎきった態度で足を組んで優雅に駒をつまみ、幼子は彫像の様に幾何学的な綺麗さで鎮座している。  男は美しかった。金色の髪は絹の様であり、紅と緑に輝く双眸は宝石に等しい。  その体は美しさよりも何よりも、何よりも王の覇気に満ちているが、彼はその溢れる覇気をとめどないお喋りという大変に無駄な使い方をしていた。  幼子もまた、美しかった。硬質な青と銀の髪、瞳は水晶の様に透き通り、帽子、メガネ、神官服、その体に大きな衣装は愛らしさをもかもし出して いる。人の形をしているのは上半身だけだったが。  その腰から下は馬のものだった。半人半馬、だけでは表現としてまだ足りない。馬の足と毛並みは後ろに行くに従って、魚の鰭と鱗に変わっている。  人で馬で魚。半人であり、半分は海馬。  異形だが、それもまた美しかった。とは言っても美しいだけでの置物ではなく、その蹄は自在に水中を駆け、その尾びれは自在に宙を泳ぐ。 「…………そこで俺様は言ってやった訳だ。『愚民が。アホドリの調理法は、塩だけでのソテーこそが唯一至高のものだ』とな。b4・ルーク」 「f4・ポーン」  薄い闇がまるで粘りつく様に漂うその部屋は、異様なまでに重苦しい。  が、その海の底の様に物理的な圧迫すら伴う空気を、この2人はまるで問題にしていなかった。 「…………この前、オードリーのやつが久しぶりに顔を見せてな、ああ、オードリーというのは元・ウチの間諜だ。世界中の芸術品や美術品を観たい という事で冒険者になって飛び出していったヤツで、まあ元気にやっとるなら何よりではあるんだが、ヤツが土産に持ち帰って来た連合発行の連合内 要人・有名人肖像画集に俺様が一枚たりと載っていなかったのは一体どういうことだと小一時間問い詰めたい――あ、b8・ポーンだ」 「g6・クイーン」  流れる水のように話し続ける――息継ぎすらしていない――男の勢いは、そんな空気なぞまったく認知していないし、相槌も打たず――身じろぎす らしていない――淡々とチェスの手を進める幼子の纏う気配は、部屋の空気と完全に一体化している。 「…………で、勝負の結果、保険金はジルベンリヒターのヤツめが払うことになった訳だが、いや、あれは正直なかなか紙一重の勝負だった。  奴があそこで奥義『背面十九回転半捻りダイヤモンドダストレボリューション「静粛に!」』をミスってさえいなければ、おそらく結果は違ってい ただろう。  ま、凡夫が天才を追い込むマグレも稀に起こり得るという好い例だな。e2・ナイト」 「なるほど」  と、それまでチェスの手を進める以外にはまばたきすらしなかった幼子が、初めて相槌を打った。 「なら、その好い例がまた一つ増えた訳だ。同、ビショップ。そして王手。このゲームは、エルミューダの勝ちだ」 「……………………。  ……! しまったぁぁぁぁぁぁ!?」  ひいふうみい、と盤上の駒を数える様にして手筋を計算し、ようやく盤面を理解した男が椅子を後ろへ蹴っ飛ばすようにして勢いよく立ち上がり、 頭を抱えて髪の毛をかき回した。ガラガラガラン!と派手な音を立てて、椅子が部屋の端にまで吹っ飛ぶ。  幼子――海馬エルミューダの指摘通りだった。このままでは、どうやっても27手以内に男のキングは詰まれてしまう。 「『待った』するか? 11手前まで戻せばこっちのルークの交換から活路が……」 「いかん!」  エルミューダの申し出に男は尚激しく被りをふった。  右手を前に突き出し、左手で抱えた頭とでリズムを合わせるようにブンブンと振りたくる。  大仰過ぎる身振りは芝居がかっていると言っても良いほどであるのに全くわざとらしさが感じられない、というのは逆にすごい事かもしれない。 「なんでだ? 負けたくないんだろう?」 「それ以前の問題なのだ!  王とは、特に魔王とは、例え敗北しようとも、甘んじて情けを受ける訳には断じて! いかんのだぁぁぁぁ!」 「でも、エルミューダは今までのゲームで『待った』させてもらった事あるぞ?  今までやった1003回のゲームの中で、3回目のと18回目のと281回目のと283回目のと509回目のと774回目のと922回目じゃ2 回したから8回だ」 「そんなどうでも良い事、よくいつまでも覚えておるな貴様は……」  つらつらと過去の例を挙げるエルミューダの言葉に、一転してげんなりした顔で小さく呻く男。  ひたすらに無表情なエルミューダの分まで、という訳ではなかろうが、表情もテンションもをくるくる変わってせわしない事この上ない。   「どうでも良くない。エルミューダも魔王だ。しちゃいけない事したんじゃないか?」 「貴様は良いんだ」  エルミューダの追求――と言うほどのものでもないが――に対して、男はどういう根拠があるのかさっぱり分からない事を力強く言い切った。 「良いのか?」 「良いんだ」 「なんで良いんだ?」 「俺様が決めた事だからだ」  むちゃくちゃだ。マイウェイにもほどがある。 「これは全部俺様のマイルールだ。俺様という魔王はかくあるべしというな」 「アドルファスという魔王は、かくあるべし?」  無表情のまま首を傾げるエルミューダに、男――アドルファスは鷹揚に頷く。 「そう。エレガントな俺様の決めたグレイトなアドルファスというスーパーな王の生き方だ。貴様という凡王が遵守せねばならんルールは別にある」 「それは何だ?」 「知るか。  何が良くて何が悪いか、貴様のルールぐらい貴様で決めろ」 「分かった。自分で決める」 「……本当に分かっとるのか? 不安になってくるな」 「それは良い事だ。エルミューダは不安を象徴する、『月』だから」 「くう。一本取られたか」 「うん。一本取った」  アドルファスは悔しがり、エルミューダは無表情のまま、コクリと頷いた。  それはともあれ、上述の通り。  男の名は狂王アドルファス。そして、幼子の名は海馬エルミューダ。  それぞれ『悪魔』と『月』の称号を持ち、共に魔王の同盟組織・魔同盟に参画する【魔王】である。          ■ 「で? 顔色が優れんようだが、一体何があった?」  そうアドルファスが切り出したのは、チェス盤やら彼が蹴っ飛ばした椅子やらを片付けて一息入れた後だった。  ティーカップに手ずから紅茶を注ぎながら問うアドルファスに、既にコーヒーが入ったカップを両手で抱えるエルミューダは目をパチクリさせた。  余談だが、現在のエルミューダの顔は普段と1ミリたりとも変化していない、と普通の魔王ならまずそう言う。  エルミューダはしばし、コーヒーの水面を覗き込むように視線を落としていたが、やがてポツリと言った。 「エルミューダはもうすぐ滅ぶ。事象存在に、討たれて」 「滅ぶ? それはまた唐突だな。いや、とうとう、というべきなのか否か。  ああ、しかし合点はいった。ラ・サルザがあちこち飛び回って血眼で防護を固めているのはそれでか。んで、ソースは何だ?」  世間話のように気軽に返事をしたアドルファスに、エルミューダも無表情のまま、それが何でもない事のように続ける。 「予言だ。『星』の」 「ヴァニティスタの?」  エルミューダの言葉に、アドルファスは露骨に胡散臭げな顔を見せた。  彼らと同じ魔同盟大アルカナが一柱、『星』のヴァニティスタはある意味で、『月』たるエルミューダの対とも言える存在だ。  彼らは別に、本当に空に瞬き輝く星々や闇に寒々と映える月を司っている訳ではない。それらはあくまでも暗示、シンボルとしての名である。  魔王として未来への【希望】を司るヴァニティスタと、未知への【不安】を司るエルミューダ。  『何もかもを確かにする絶望』として全てを見通すのが魔同盟の『星』なら、『何もかもが不確かな事への恐れ』として全てを呑み込むのが『月』 であると、かの悪名高きフリードリッヒ=ツァール・トリストラムは語ったという。  不確かなはずのものが確かに定められた故の絶望と安らぎ。確かなはずのものが陽炎に過ぎないが故の不安と希望。その意味では確かに対なのかも しれない。  可能性に対し心が抱くものを真逆に映しあった合わせ鏡。  とは言え――― 「そんなもん、週刊晶妖精の『今週のラピシー占い』より当てにならんだろうが」  そうなのだ。  ヴァニティスタの能力は「未来予知に基づいた予言」という触れ込みだが、その的中率はまさに「当たるも八卦、当たらぬも八卦」である。  その原因は、ヴァニティスタという魔王の実力ではなく、性格にあるのだが。  彼が自分の視た未来を告げるのは、つまるところ他者の運命を弄ぶ為である。当然ながら、彼は自分が視た未来を馬鹿正直に告げはしない。  優越感たっぷりに勿体ぶり、肝心な部分には口を閉ざし、誤解を招く言い方を選び、平然と嘘も吐く。  それは当然だと、アドルファスに限らず魔王のほぼ全員が思っている。皆、自分が『星』だったなら、自分にそんな能力があったとしたら、必ずそ うしただろうから。  或いは、その態度は、彼が知る『確定された未来』の絶望を世界に撒き散らさず己でせき止めようとする堤防であると唱える者もいるが、アドルフ ァスに限らず魔王のほぼ全員がそう思ってはいない。ありゃ単に性格が最悪なだけだ、と。  しかし、「当たるも八卦」――真実を告げる場合もある、のもまた事実である。 「ま、心配なら、しばらく俺様ンちに来るか? そうすれば、滅多な事もあるまい。  ああ、ラ・サルザも一緒で良いぞ……俺様的には少々苦手だがな、あの過保護教育ママンは」  大アルカナが大アルカナを囲い込む。  魔同盟内部のみならず、世界そのものを揺らがすかもしれない申し出を、明日遊ぶ提案でもする様に気軽に言うアドルファスは、果たしてアホなの か大物なのか。  そんな色んな意味でギリギリの提案に、エルミューダは静かに首を横に振った。 「いや、それは良い」 「ん? そうか? ま、当たるかどうかも分からんしな」 「いや、そうなる」 「ほう?」  断言するエルミューダの無表情を、アドルファスは面白そうに眺めた。 「またキッパリと断言したな。根拠は?」 「予感がする。そうなるという予感だ」 「素晴らしく曖昧だが、貴様のマイナス方面での予感はそれこそ外れんしな。そこら辺は流石『月』と言うべきか否か」 「マイナスがどういう意味かは分からないが、エルミューダが滅びるという意味なら大丈夫だ。大アルカナに空きは出来ない」 「さっき「もうすぐ滅ぶ」とか言っとらんかったか?」 「滅ぶ。『エルミューダ』がだ」 「……ワケ分からんが」 「転生するんだ」 「ああ、そういう事か」  言い切ったエルミューダに、アドルファスも得心顔で頷く。  普通ならば妄言此処に極まれりではあるが、何せ魔王である。それぐらいはある。普通にあり得る。  「ふーん」と適当に頷いたアドルファスに、しかし幼子はここで始めて動きを見せた。  両手で自分の体を抱きしめるその仕草で、エルミューダが初めて外見相応に見える。 「怖いんだ」 「怖い? 何がだ。とりあえず生まれ変われるなら問題無かろうが。『月』は健在で、世はなべて事も無し」 「でも、『エルミューダ』はそこにいない」  声が震えた。見やれば体も小さく震えている。  面白くもなさそうに、『悪魔』はそれを眺めている。 「『エルミューダ』がいなくなる。いや、エルミューダはそこにいる、いる、けど」 「いるけど、それは『貴様』ではない」  アドルファスがぼそりと洩らすと、エルミューダの体がびくりと一際大きく震えた。 「そうだ。それはエルミューダだけど、エルミューダじゃない。『月』がいる。『月』のシステムの体現が。そして、『エルミューダ』はどこにもい ない。必要とされない」 「くだらん事悩んどるな」  呆れた顔で手を振るアドルファスに、エルミューダは詰め寄るようにして言葉を被せた。 「怖いんだ。死ぬのとは違う。エルミューダがいなくなるのに、エルミューダはそこにいる。  じゃあ、『エルミューダ』って誰だ? 今ここにいる『これ』は一体何なんだ? 教えてくれ、今ここにいるこの『エルミューダ』って一体何なん だ? 何があれば、どうすれば『これ』は『これ』なんだ?」 「そんなもん、俺様が知るか」  いい加減嫌になったのか、しかめ面で返したアドルファスの言葉に、幼子の目に明らかな傷が浮かぶ。  それに気づかず『悪魔』は続けた。 「貴様が『それ』だと思うものがあるなら、『それ』がそうなのだろうよ」  毒気を抜かれた顔でエルミューダが聞き返した。  「そうなのか?」 「だーから知らんわ。自分で決めろと何度も何度も言うとろうが。ま、決めたからと言って他の奴が頷いてくれるとは限らんがな。  そいつのとっての他人が何か、それを決めるのもそいつの勝手だ」 「そうか……」 「だが、俺様は王様的に度量が広いからな。貴様が決めたものに付き合ってやるに吝かではない」  目をパチクリさせて、エルミューダは聞き返す。  「付き合ってくれるのか?」 「他人の決めたものに従うというのは面白くないが……ま、マブダチだからな。特別だ」 「マブダチ……?」 「親友という意味だ」 「親友? エルミューダとアドルファスは親友?」 「違うのか。俺様はそのつもりだったのだが」 「親友。うん、そう親友だ」  頷くエルミューダに、念を押すように『悪魔』は付け足す。 「だがな、言っとくが俺様は貴様とマブなんだからな。貴様でないものはマブダチでも何でもないぞ」 「そうか、アドルファスはエルミューダと親友なんだ。えへへ」 「そう言っとろうが」 「うん、分かった。エルミューダとアドルファスは親友だ。アドルファスと親友なのが、このエルミューダだ」 「ん? ん〜、まあそうだな」 「だから、このエルミューダな限り、アドルファスとエルミューダは親友で親友だからエルミューダで……」 「おい待て、段々ワケが分からなくなって来た。貴様がワケ分からんのはいつもの事だがな……」 「『これ』が『これ』だってものが見つかったんだ」 「…………?」 「えへへへ。だから……」               ■  その日はあいにくの雨模様だった。  雨音だけが鳴り響く午後の静寂をぶち破る痛烈な足音が、自室へと一直線に向かってくるのをアドルファスは聞いた。  ノータリンでがさつ極まりない、不細工なリズムの足音。そのくせカサコソと妙に速い。  ヤツがこっちにやって来たか、と嘆息したアドルファスは何気なく扉の前へと立つ。  果たして予想通り扉の前で足音が止まり、無遠慮に勢い良く扉が開かれて影が飛び込んできた。 「アドちんアドちんアドちん!! ニュースニュース大ニュースっすよ!」 「ドやかましいわ、この珍獣が」  とりあえず最初の叫びだけは聞いてやって、無駄だったと判じた瞬間には、後悔と共に振り上げた右拳を打ち下ろされている。  ゴシャリッ、と。  硬い鈍器で人の頭を殴った様な、と言うかそれそのままの鈍い音が室内に響いた。 「げぶはっ!?」  珍妙な悲鳴をあげて顔面から絨毯にめり込む、小柄な影。何かを捧げ持つように前に伸ばされた両手と、エビ反りの様に高々と上げた片足がピクピ クと痙攣している。   傷害事件、勃発。  加害者、我等が狂王アドルファス。被害者は……謂わずと知れた、この暗黒帝国が誇る珍獣型ニート、ももブルである。 「ほんっと〜っに、つまらぬものを殴ってしまった……俺様の芸術的な右手がももブル菌に冒されてしまうところだ」 「人様のドタマはたき倒しといてその言い草は何じゃ〜っ!!」  遠い目をしたアドルファスの呟きに、ももブルが即座にガバと頭だけ起こして噛み付くように叫ぶ。 「む、俺様のチョッピングライトからあっさり復活するとは、流石ゴキブリをしのぐ生命力」 「誰がゴキブリっすか誰が!」 「誤解だ。もしも貴様と同列に扱ったら、ゴキブリが種の尊厳をかけて全面戦争を仕掛けてくるわ」  ちなみに、今のももブルの地べたに這いずったエビ反り体勢は、まごう事なきシャチホコである。もしくはエビの味するツインテール。エビだし。 「で〜、大事件って何よ? ブルっち」  部屋にある応接セットの長椅子に優雅に寝そべった羊が気だるげに聞いてきた。  寝姿と言い、声の抑揚と言い、指し示す手つきと言い、いちいち貴族の退廃的で耽美な雰囲気に満ち溢れているが、羊っぷり溢れるその外見だけで その雰囲気を全て打ち消し、牧歌的な空気に変えてしまっている。  アドルファスはその羊に向かってわざとらしく渋面を作ってみせた。 「オーディス、どうせつまらん話をいちいち聞くな。こいつにかかれば、自分の鼻を蜂が刺した些事とて史上に残る大事件になるんだぞ?」 「この美貌が損なわれる事が世紀の大事件じゃなくって何なんすか! つーか――あたしの鼻ほどじゃないとは言え――ホントに大事件なんですよ!」 「貴様の大事件は大事件だった試しが無いつーとるんだ。と言うか、いい加減起きたらどうだ。俺様の偉大さの前に這いつくばりたくなる気持ちは良 く分かるがな」 「はん! 思いの外ダメージ深くて起き上がれないんすよ!」 「珍獣の肩を持つ形になるのは癪だけど……今回の報せは、確かに大した事件と言える代物ですわ」  そう言ったのは、水の青さと氷の白さを持つ少女だった。  ゆったりとした動作で部屋に入って来る肢体は、幼さこそももブルとどっこいだが、その仕草の端々に珍獣では到底真似できない艶がある。  彼女は、女王の様な仕草でアドルファスの目の前まで来ると、衣の裾をつまんで、彼とその背後で長椅子に寝そべるオーディスに華麗にお辞儀をし てみせた。  その瞬間頭一つ高くなったような気がしたのは気のせいでも浮揚の術でもなく、上がっていたももブルの背中を台替わりに踏んだからだ。  ぐぎょへーっ!と妙な悲鳴をあげて、珍獣の体が更にエビ反る様に逆くの字になる。 「ごきげんよう、このクソ詐欺……じゃなかった、狂王。それにアリエス卿も。相変わらずご健勝そうで何より」  挨拶と同時に、踏みつけたももブルの背骨を、ナチュラルかつ念入りに踏み躙る。  げごぶっという轢かれたヒキガエルの様な声がその足元から聞こえたが、全員が華麗にスルーした。 「イーヴェか、貴様が言うのなら……ふむ、少しは聞く価値もありそうか?」  顎を撫でながら問うアドルファスに、イーヴェは微笑む。 「ええ。貴方の青ざめた顔が見られると思うと少々愉快ですわね。  何せ貴方と同じ大アルカナ、『月』のエルミューダが討たれた……ってちょっと!?」  台詞の途中でイーヴェが悲鳴をあげたのは、アドルファスがコキコキと首を鳴らしながら背を向けて歩き始めていたからだ。 「くだらん。聞いて損した」 「ちょっとちょっとちょっと、何ですのその反応は!?  仮にもお友達だった相手でしょう!? もー少しこう、反応の見せ方ってもんがあるでしょうに!  言っときますけど、妙な強がりかまして延々尾を引くぐらいならここでぶちまけて貰っといた方がこちらとしてもまだマシって言うかベ、別に貴方 をし、しんぱ……」 「『心配してるんですのよ! ああ、もう、そうですわよ、悪い!?』」 「ひゃあっ!?」  慌てて追いすがる様に手を延ばし掛けたイーヴェの台詞を軽快な男の声が引き取る。  彼女が驚いて振り返ると、その肩を、いつの間にか真横に回り込んでいたオーディスがポンと叩いた。  訳知り顔で首を振って来る。 「いや、イーヴェちゃん。気持ちはわかるけど、本音はきちんと晒さないと、この朴念仁にツンデレは通じないよ?  「私は貴方が心配なんですの」ってさ」 「な!?」 「まあ、不安と心配に胸をざわつかせながら報告持って来たらこの反応じゃあねぇ、怒鳴りたくなるのも分かるけど?」 「な、何を仰っているのですか、アリエス卿!? そ、それではまるで、わたくしがこの詐欺師が落ち込むのを心配していたみたいではないですか!」 「だからそう言ってるじゃん。違うの?」 「違いますわよ!  こんなクソ詐欺師、凹んでるのを見て気分が晴れる事はあっても、そんな、何で心配なんてしてやらないとなりませんの!?」 「そっか〜、なんだ〜。  僕はまた、『どうしよう、自分と同格の魔王が滅ぼされたとなればあの傲岸不遜がステキな彼もやっぱり不安になるかもしれないわ。ああ、それで なくても友人が討たれたと聞けば落ち込むかもしれない、一体どう慰めれば良いのかしら。……でも、ここで上手い事慰められたら、彼の心も少しは あたしの方を向いてくれるかしら……いいえ、駄目よ、駄目! そんな人の不幸と悲しみに付け込むようなことを考えちゃ! ああでも……』」 「ひ、ひ、人の考えを勝手に覗……もとい捏造しないでくださるっ!?」 「なんか面白い事になってるんですよ!」 「わひゃっ!?」 と、そこで唐突にももブルが復活してきた。  イーヴェに踏んづけられたまま、にゅっと首だけ伸ばして話に割り込んで、いや、それまでの話を全て無視して自分の言いたいネタだけをわめく。 「あの冴えない自称交渉人が確認しに行ったらしいんですけど、そこにいたのはなんとでっけえアメーバだかスライムだかってぐぎょば!」  白い顔を真っ赤に染めつつ、苦虫を噛み潰した様なイーヴェに再び背骨をグリグリされて沈むももブル。  念入りに念入りに珍獣の背骨を磨り潰す事で、何とか落ち着きを稼いだのか、白い精霊は体勢を立て直して報告の先を続けた。 「ま、そ、そういう事ですわ。伝え聞きで曖昧ですけれど、どうも転生したとか何とか。何がどういう原理になってるかはさっぱりですが、流石は大 アルカナというべきでしょうか。  尤も自我だの記憶だのどころか知能があるかどうかも怪しいという話で、海魔太母なんかは半狂乱らしいですけど、ってだーかーらー!」 「アドち〜ん、流石に少しちゃんと相手したげた方が良いんじゃないかなぁ?  君を心配してくれてる純情なツンデレ乙女心を前にしてその態度は、流石にイーヴェちゃんが可哀想だよぉ?」 「違うって言ってるでしょう、このウール100%!」  机に座って頬杖付いて舟を漕ぎ始めたアドルファスと彼を嗜めるオーディスに、地団太を踏むイーヴェ。  ちなみに一足ごとにその足元から弱弱しい断末魔が聞こえてくるが、誰も気にしない。  鼻ちょうちんをぱちんと割って、狂王はぶーたれた。 「と言われてもなあ。くだらん話を延々聞かされてれば、眠くもなろうというもんだ」 「でも、実際気になるなあ。その無反応ぶりは」  口を挟んできたのは、羊だった。 「君って残虐(自称)で冷血(自称)ではあっても、酷薄じゃあなかったと思うんだよねえ。  こういう場合だと「ふん、易々と討たれおって、あの……馬鹿めが」みたいなツンデレ系台詞の一つも出てるとこだと思うんだけど」 「貴様の脳には、ツンデレ以外のボキャブラリーは存在せんのか。  別に、くだらんからくだらんと言ったまでよ。『月』が墜とされただの、エルミューダが滅んだだの、アホくさい。  『月』のエルミューダは健在なり。世はなべて事も無し、だ」  明後日の方向に視線をやりながら言い放つ狂王を見る、精霊の瞳の気温が何度か下がった。  「……貴方が、友人の死も受け入れられぬ程に脆弱な精神の持ち主だとは知りませんでしたわ。少々、失望しました」 「『ああ、そこまでショックだったなんて。どうしようどうしよう、どうすれば彼を励ませるのかしら、ああいっそ抱き締めてあげたいぐらいなのに こんな言葉が言いたい訳じゃないのに何でこんな時まであたしは』」 「だ・か・ら! 違うって言ってるでしょうが! あたしはそんな事1ミクロンも考えてませんわよこのジンギスカン!」  胸に手を当てて詩でも朗読する様に滑らかに紡ぎ出すオーディスにイーヴェは牙を剥くが、羊は全く動じずニヤリと笑う。 「あれ? 誰もイーヴェちゃんの事だとは言ってないけど?」 「キーッ! ムカつくムカつくムカつくムカつくほんっとムっカっつっくこの羊〜〜〜〜〜!!!」 「え? んじゃ、あたし? あたしもンな事カケラも考えてませんが?」 「うん、ブルっちがそんな事考えてたら僕も驚く。ってゆーか、ヒく」 「それはそれで何か釈然としないっすね……」 「あのな貴様等……」  ため息の様にぼそりと零したアドルファスの言葉に、それまでじゃれ合いを続けていた3人の動きがピタリと止まった。  同時に向けられた3対の視線を受けて、彼はどうしても種明かしせざるを得なくなったマジシャンの雰囲気で、自分の胸を指差してみせる。 「俺様はあいつに言った。「貴様が貴様である限り、俺様と貴様はマブダチだ」、と」 「「「はあ」」」 「で、現時点でも俺様の中で奴はマブであり続けている。それが証拠だ」  どうだ、とばかりに胸を張るアドルファスに、残りの三人は一様に「えー」、と首を傾げたが、やがて珍獣がポンと器用に手を打った。イーヴェに 踏まれたままで。 「『契約』ですね! 『契約』でしょ! あの根暗が意識保てるようにかアドちんの制御下に入る様にとか、そういう『契約』結んでましたね!?」 「ああ、なるほどねぇ。意外と小悪党だねぇ、アドちん」 「災い転じて、大アルカナを傘下に収めたって事ですか。腐っても『悪魔』と言うか、抜け目無いですわね」 「アホか貴様ら」  得意顔の珍獣と、納得顔の羊と氷華にアドルファスは冷たく言い放つ。 「ムキーッ! なんですか、その言い草!」 「まあ珍獣にしては珍しく小知恵を働かせたと言えよう。或いはこれは奇跡と呼んでも良いかもしれん。  が、奇跡に縋ってこの程度なのが、所詮は珍獣だな」 「違うのかい?」  無論だ、と。  羊の問いに、彼は鷹揚に頷いた。  自らの心臓を叩いて、契約の『悪魔』は堂々と言い放つ。 「そんなものより確かな事など、この世に幾らでもある」       ■  ――それは約束。  万物を『約束』で縛り得る男の中でのそれは、約束などするまでもないほどの当然であり。  万物を碧い闇で呑み尽くす事しかできない幼子の中でのそれは―― 「えへへへ。だから、この気持ちがある限り、エルミューダとアドルファスは、ずっとずっと『親友』だ」  ──きっと、小さくて綺麗で、大切な大切な、宝物。 END