月華草  05 たびだち  もう夜は明けてしまったらしい。雀だの燕だのの空を駆け回り、囀る音が聞こえていた。  ウォル=ピットベッカーが、先ず抱いたのは安堵の念であった。何しろ、もう目覚める事も無かったかもしれなかったのだ。  誰にどこをどのように殴られたのはとんと覚えてはいなかったが、気分云々で言うならば、とかく良い目覚めであった。  朝であるせいもあろう、また、どんよりと蒸し暑い夏には珍しく、雲ひとつ無い日であるせいでもあろう。  涼しいほどの晴れ空だ。うっかりと、欠伸の一つでも吐き出しそうになるが我慢をして、少年は閉じていた目を開く。  そして、龍なる神々への感謝の念も新たに、ふぁと口をあけて、伸びでも一つと両腕を伸ばし──しかし、何やら妙な抵抗感がそれを阻む。    茶色いロープである。戒めの源であるところの少年の手首に巻きつけられたそれは、彼にとっても見慣れたもので、荷を括るのにも良く使われるものだ。  が、一体全体、何故それが自分の手首を縛り上げているというのか。ウォルの寝ぼけた頭は、それが何故か一瞬理解できなかった。  はて、と考え込む。そして可能性がたったの一つしかありえない事に思い至るや、彼は瞬時に絶望へと叩き落される。  まだ、夜は続いている。  間違いは無い。下手人はあいつだ。確信を持ってウォルはそう思った。他に疑いようも無いではないか。  身を捩り、どうにかして立ち上がろうとはするものの、足首にもまた、例の忌々しい戒めが縛り付けられている。  結果として、少年はまるで芋虫か何かのように、もがき、尺取るのみである。立ち上がる事も出来ない。  暫しの悪戦苦闘の後に、忘れていたことを思い出したかの様に少年は、首と二つの目玉を周囲に巡らせる。  一体全体、今の自分はどういう状態なのか?街路に敷き詰められた古い石畳の上では無いらしい。ぬかるんでいない土の感触がそれを教えている。  全身に満遍なく土ぼこりを塗しながら少年が見たのは、彼が目覚めた瞬間から何も変わらない真っ青に晴れ上がった空。  そして、遠くには幾重かに層を成す皇都の外壁と、遠くひしめく街の姿であった。  更にウォルが驚いた事には、今しも自分が簀巻き同然で転がっている場所が、皇都最外郭より尚も外部にある、と言う事だった。  皇都は、繰り返す人口増加によって、過去に幾度となく市域を増大させているのであって、 その結果生じた空間もまた、無秩序な建造と相まって人の足では一日やそこらでは歩き切れないほどの、半ば迷路じみた街路を生み出していたのである。  それにも関わらず、少年はいまや、都市を覆う市壁の外にいる。  背高い雑草の茂る、元々は森であったろう丘の上である。再開発を続ける混沌とした都市の腕も、未だ遠い風情だ。  もしもそうでないならば、少年がこうして皇都の全景を見る事など無かったろう。  しかし、それは彼にとって途方も無く碌でもないだろう事だけは確かであった。  この薄ら寒い街外れに手足を縛られ捨て置かれる。それが問題でないというならば何が問題であろうか。  魔物──人類と家畜、そして人が見慣れた生物以外を指す──さえも現れかねないだろう。  ここが人類圏屈指の安全地帯、とは言っても田舎で言う所の熊だの、鹿だの、イノシシだのが時折出没するのと同程度には彼らの姿は散見されるのである。  常ならばその程度でしかない。だが、哀れにも少年にとってはその程度が大事なのである。  ウォルはこれまでも、そして恐らくはこれからも、この場所に簀巻き同然の状態で転がる事になるだろう。生死を問わずして。  更に悪いことには、彼の数少ない装具も見当たらなくなっていた。 「畜生!殺すつもりなら一思いに刺せ!あのろくでなしめ!」  やられた、そう思う事さえ出来はしない。  そう叫んではみるものの、今の彼は言わば、暗礁に乗り上げた挙句に船底を見事に割られた船である。  残された選択肢と言えば、音を立てて沈み行く人生を嘆くか、無駄な努力とは知りつつも、生き残ろうと足掻いて沈んでいくか。  その二つに一つの貧乏くじであって、更に悪いことには、それには外れが予定されていないのであった。  つまりは絶望である。元より、特別に硬くも無い少年の意思は、いまや塩をかけられたみたいにぐにゃぐにゃと萎み、 その結果として彼は、口の中に土が入るのも気にせずに、地面に伏したまま動かなくなっていたのだった。  去来するのは様々な思考であった。例えば、それは誰かが助けに来てくれないか、と言う切望であったり、 それに引き続いて気づいた街道から、かなり離れているという事実の認識であり、行商や冒険者達などには、ちっぽけな少年に目を留め、 あまつさえ助けてくれるような者が現れる事など殆ど期待できないだろう、と言う、漠然とした予期であった。  どうしようも無い状態であった。今度こそ、である。これまでのように、その場凌ぎのやっつけではとても乗り切れそうも無い。  全く、人生とは儚いものであるなぁ、殆ど諦観しつつあった少年は、やがてそんな事さえ考え始める。  冒険者に憧れて田舎を飛び出してと言うもの数年、その終わりは野垂れ死に。  下手人は誰かと尋ねられれば、空腹か、野良犬か、それとも追い剥ぎの類と来る。  そう言えば、朝食も食べていなければ、仕事の予定も無い。勿論、財産などこれっぽっちも無い。  乾いた笑いが零れる。最早涙も出ない。何もかもが嫌になってしまっていた。  少年は空しさと酷いだるさとに体を任せ、身を横たえたままで諦めて目を閉じる。 「は、はははは……あははははは……あはは……」  なんと下らない人生だったのだろうか。心にあるのは、ただその一念だけだ。  冒険者が何だ。その冒険者はこうして野垂れ死ぬような存在に過ぎないじゃないか。  そこにあるのは余りに無力でこっけいな事故への失笑以外には何物も無かった。  一しきり少年は笑い、そして晴れ渡った空を見上げたきり押し黙った。  全て無くなってしまった。もっとも、この少年が余り多くの物を持っていたと言うわけでは無いのだけれど。  彼の視界の隅に、黒い影が差した。ああ、追いはぎか。もう来たのか、早いものだなぁ、少年はそう思った。 「ウォルっ、なにかおかしかったの?」 「……は!?」  そして、全く予期していなかった声が少年の耳へと届く。  見れば月色の──彼の記憶が正しければ、昨晩古着屋に売り払ったはずの服を着て、 それから相変わらずにはやした狐の耳をぴくぴくさせて、少女──ツクヤが彼の事をじっ、と見ていた。  ウォルは一瞬、夢かとも思ったけれども、だが、彼女はそこに居た。しゃがみ込んで、少年を見ていたのだった。  最も、少年が思うことと言えばたった一つだけ。勿論、それは兎にも角にも一刻も早く縄を解いてほしいと言う一事であった。 「つ、つ、ツクヤ!?た、助かった……縄っ!縄を解いてよ!頼むから!」  少々哀願がかった言葉が、どもりを含みつつウォルの口からついて出、しかし一方のツクヤはと言うと困ったような顔をして辺りを見回すのみであった。  そんな、どこか妙な風の少女を見ると、悲しい程に鈍い頭のウォル=ピットベッカーにも、かくも異常な事態のせいで、すっかりと脇へとうっちゃっていた疑問が、 ぽこぽこと泡の様に吹き上がってくる。  そもそも何故自分はこんな場所で簀巻きにされているのか。そして何故、未だ少女がここに居るのか。  それに思い至ったとたん、むくむくと泡のように萎んでいた気力が湧き上がってくる。  あの黒服は『ツクヤを渡せ』、彼にそう言ったのだ。  それに気づけば、次に現れるものは当然、この理不尽な仕打ちへの怒り以外には無かった。 「出て来いッ!居るんだろ!殴るだけなら兎も角、縄で縛って転がすなんてどういうつもりだ!」  先ほどまでの意気消沈が嘘の様に、喉も破れとばかりの大声でウォルは叫んだ。  果たして。ぬっ、と昨晩の黒服が視界の外から現れる。  相も変わらずの姿で、咥え煙草を燻らせて少年を見下ろしている。  単調な罵声を口に唾し、じたばたと暴れるウォルを見るその態度には少々呆れている様にすら見えた。  そして肩を竦めつつ、彼は口を開いた。 「だから言わんこっちゃ無い。つまらん意地を張りなさっから、こうなる」 「あんたが言う台詞か!」 「そりゃそうだ。だが、良く言うだろ?それはそれ、これはこれ」 「言うか!馬鹿野郎!」  それは伝法かつ、実にちゃらんぽらんな意見であった。  頭にすっかり血が上って暴言を吐く少年が、のた打ち回って抗議する様を見て、おろおろと事態を見守っていたツクヤが言う。 「ねぇ、解いてあげてよぅ。もし解いても、きっと逃げたりなんて出来ないよ、だからお願い、解いてあげてよぅ」 「そう言われてもな……勤め人の悲しさだ。どうする事も出来かねる」  ウォルにしてみても、その助け舟は完全に同意するところであり、その援軍を受けてそうだそうだと繰り返す。  男は、と言うとそんな二人の言葉を一方には困ったような、もう一方には呆れたような様子で聞いていたものの、 ただそれだけで、縛を解くつもりは毛頭ないらしく、それどころか少女が隙をついて掻っ攫ったりだのしないよう見張っているようでさえあった。  黒服はと言うと、話にならない少年は捨て置いて、ツクヤの言葉に答えた。 「お前さんもしつこいな。俺の一存じゃ決めかねるンだ。何度も言わせるなよ」 「……きゅう」  不満げに一鳴きする少女にも男は何を言う風も無く、少年同様に少女もまた黙り込んでしまった。  この男には何を言っても無駄だろう、その事実をウォルは渋々ながら受け入れざるを得なかった。  けれども、少年はこの黒尽くめにはさしあたって自分への害意は無いのだろう、と推理し、その結論をそうと思い込むことにした。  第一、もしも殺すつもりであったのなら、態々彼の前に姿を現す必要自体がありはしない。  少年の推測を裏付けるような時間が過ぎる。  ややあって、不貞腐れて寝転んでいた少年の目に、一つの人影が映った。ぴくぴくと、ツクヤの耳も聞き耳を立てている。  街の方からやって来るそれは、何やらロバを引いているようだった。遠目からでも、どうにも慣れぬ事でもしているらしく、 その人物はその人物は背に様々荷物を乗せた動物に振り回されているようだ。更に言えばその都度ロバに向かって何やらぶつくさとぶっている様で── それは少女の狐耳の反応から少年にも知れた──どうにも、一目見て癇癪持ちだと理解できる。  しかも、その足はと言えば、ウォル達の方に向いているらしかった。 「……一体なんです、アレ?」  眺めていた少年がぼやく様に呟いた。見るからに精神的に不安定な人物が接近してきているのだ。  勿論、彼にそんな手合いを相手にしているような気力などこれっぽっちもあろう筈も無い。  ヒステリー質の通りすがりだ。ロープで縛られたままで陽気な笑顔などをし、こんにちわ、などとはとてもいくまい。  第一、それでは少年でなくとも丸っきりの馬鹿である。 「俺の連れだ」  別に少年は答えなど期待しては居なかったのだが、その言葉にウォルははぁ、と気の無い返事を返した。  そして、ツクヤに相変わらず、縋る様な視線を向ける。すると、その視線を知ってか知らずか、 男が彼方の人影を見遣り、「お前の処遇を決めるのはアレでな。それまでは悪く思わず我慢するこった」と言った。  ならば、その後の事は悪く思えとでも言うのだろうか。ちっとも言う事を聞かなくなった挙句、文字通り道端の草など食み始めたロバに向かって、 ローブを着ているその女性がヒステリックに叫び始めたのを見て──それは甲高く、女性であることが知れた──暗惨とする内心を少年ははっきりと自覚していた。  そして、ウォルは今更ながら、先日までの起伏の無い日々を懐かしく思っていたが、今となっては完全に後の祭りである。  ぷかぁ、と黒服が吸っていたタバコの煙を吐き出す。 「所で、お前さんの名は?知る必要が出来たんでな」 「そう言う時はそっちから名乗るのが筋、って聞いてますけどね」 「それは生憎だ、が、俺は何時もこんな調子でな──と」  言いかけ、ツクヤに睨まれている事に気づいたらしい男は、ばつが悪そうに顎鬚を摩った。 「ロボ=ジェヴォーダンだ。お前は?」 「気乗りがしませんから、お断りします」  ちょっとした意趣返しである。しかし、ロボなる黒尽くめはあっさりと「そうか」、と答えたのみ。  それで会話は途絶えた。少なくとも、男が彼らとの会話に注意を払っているような様子は無くなった。  少年にしても、特に話すべき事が無い、ツクヤだけが何時もの調子で辺りをちょろちょろとしているばかりだった。    そして、おおよそ十分ほどが経過しただろうか。  不意にもぞ、と少年が何とも見っとも無い顔をして体を揺り動かし、黒服の男を見上げ、言う。 「ね、ねぇ。お願いだよ。縄を解いてくれよ」 「駄目だ」  全く取り付く島も無い即答であった。が、何やらその口端がにやにやと歪んでいるのはウォルの気のせいではあるまい。  それでは堪ったものでは無い。どうにもこうにも、急に落ち着かない風にごろごろと転がったり、じたばたとのたうってみたり。  それは酷く少女の興味を引く挙措だったらしいが、少年にとっては知った事では無い。  何かを我慢しているらしい事は容易に見て取れるが、詳細は彼の名誉の為に伏せておく事にしよう。  我慢の限界に至ったのか、半ば悲鳴のような声が迸るまで然程の時間はかからなかった。 「ウォル!ウォル=ピットベッカー!それが僕の名前!我慢の限界だよ!頼む、解いてくれ!」  ──こうして、彼の戒めは解かれる事になったのであった。    /  王国連合、と言うものがこの世界にはある。  皇国に対抗すべく、西方の国々が作り上げた一大連合、と言えば通りも良いだろうか。  そして、その盟主が、西国と言う国であった。    時計は少々遡る。  彼方では、未だ空に月のあった未明。  煌々と、炎の舌が音を立てながらその館を舐め尽くしていた。  元々は、さぞかし立派であったろう威容も、こうなってしまえば最早何の意味も無い。  暖炉にくべられた薪と代わりは無く、最後の奉公とばかりに燃え盛っている。  古き時代の形式を模した、浮かし模様の柱や、遠くカーメン王国のものと思しき絨毯や、ボレリア経由で極東から齎された陶器が熱に耐えられずに崩れていく。  代々の館の主らしい僧衣を着た人物達の肖像も、惜しげもなく用いられた大理石も、栄光の陰さえ残さずに一切合財の容赦無く、焼け落ちていく。  今しも巻き起こるそれは、正に栄華を極めたであろう者の凋落を克明に描き出した絵図に他ならなかった。  そして、夜なお明るく周囲を照らす巨大な炎から目を移せば、この邸宅の庭らしい空間が見えた。  見えた、と言うのは、そこは既に庭と言うには余りに薄汚れていたからだ。  植えられていたらしい木々は折れ、地面は深く抉れ、そこかしこには武装した兵士の屍や、人間の死体が転がっている。  その上に、二組の集団があった。  一つは白金の甲冑を朱色に染め上げた兵団であり、一つには煌く刃に脅かされ、身動き一つ取れずに怯え、竦んだ僧形どもであった。   兵らには、随分と呵責の無いらしかった。  ある者は血に汚れながら談笑し、あるものは捨て置かれた死体──女や子供のそれもある──を運んでは、庭の一角に掘られた深い穴に投げ込んでいる者もあった。  骸の中には、邸宅に詰めていた僧の私兵らしい武器を帯びたものがあった。  だからと言って、縮こまった僧侶らが良からぬ事を企んでいた、等とは邪推が過ぎるであろう。  元より、国家に対する大逆は万死に値する罪である。そうであるが故に、滅多には起こりえない事は言うまでも無い事である。  国家に服属する事によって、自らの領土を安堵されてきた、聖職貴族ともなれば尚更である。  今尚多大な権勢を誇るかれらとは言え──いや、だからこそか、彼らもまた、西国教皇権に癒着する、と言う言い方が拙ければ、 その内部における権謀術策に限ってのみ争ったからこそ、国家における権力集団でありこそすれ、内患とはなりえなかったのである。  兎も角、その邸宅の、全ての戦おうとする者は容赦の無い刃によって殺されていた。  それだけは確かであった。    作業が終わったのであろう。  死体を運んでいた騎士の一団が、死体を満載した穴に、油を撒き火を放つ。  生を終える際の儀式も、聖歌も、臨終に際しての祈りの言葉も無い。それは埋葬でさえない。  純然たる廃棄であり、捨て置けば疫病を撒き散らす厄介な死体の処分に他ならなかった。  西国とは、王国連合随一の大国である。そして、その政体は、簡略に述べるならば、教皇を主君とした聖俗一致の王政であった。  そして、直接の叙勲で結ばれた西国騎士団や官僚僧侶達、その権力体制の外側に、王政と緊張を孕みながら並存する諸侯がある。  その中でも特に大きな力を持つものを四大諸侯と言い──この邸宅は、その一たる、メディス家の別邸であった。  金融と、それから政治的技能を持って西国社会に隠然と在る大貴族である。  だが、彼らは不幸にも、組織化された軍隊など持っては居らず、せいぜいが冒険者や傭兵からなる私兵を子飼いにしている程度であった。  血の気の失せ、唇を青くした僧──寝巻きだったのだろうか、ごく薄いローブで、緋色の糸で龍の姿が表されていた──枢機卿クラウデウス=ド=メディスが 彼の周囲を取り囲む騎士達を前に、呻く様な声を絞り出した。 「何故……だ。何故……?教皇は、気を違え遊ばれたのか……?おお、龍よ。我等が朱の──」  ぶつぶつとうつろな表情で呟く老人の胸にある言葉はたった二つだった。  何故こんな事に?そして、何故私が?その二つである。  老人は、原初のヴァーミリオンと言う御名の龍を奉ずる司教枢機卿の一人だった。  そしてまた、西国においては広く流布したその神の信徒であると共に、押しも押されぬ大貴族の当主であった。  その彼が、今やその地位も人生も、全てがつまらない嘘であったとでも言うが如き惨状を目の前にしているのだった。  柱が崩れ落ち、天井が落ちた。耳を聾する轟音が響き渡る。 「御下命である。お覚悟めされい」  居並ぶ騎士達の中で、一際背の高く、精緻な鎧姿の者が兜の面頬も上げぬままそう言った。  その手は、封蝋を解かれた羊皮紙が広げ、周囲を圧するような重々しい声でそれを読み上げ始める。  今となっては、老司教にとって聞くまでもない内容であった。  事実が既に、何よりも明白にその意図を示している。  教皇より直々に、異端審問官長たる西国騎士団長にして聖騎士が第一位、即ち、西国騎士枢機卿に手渡された破門状であり、異端認定の書状に違い無かった。 「──よって破門を宣告する。我等が福音を汚し、異なる教えを流布する者に、車輪と炎とをもって答えるものである」  さらに騎士は死刑宣告を続けていく。老人の膝はがくがくと震えていた。 「卿──イノケンティウス卿。こちらは仔細整いました」  薪と油とを荷馬に引かせていた年若い従者が、書状を読み終えたイノケンティウスと呼ばれた騎士長にそう呼びかけた。  年は、未だ十台も半ばと言ったところであろうか。腰に細剣を携え、略式の胸甲を身に着けた若い騎士見習いは言葉を続ける。 「執行につきましては、どうぞご随意にお申し付けを。何時でも準備は出来ております」 「承知した。……君、名を何と言ったか」 「は、マクスウェル=K=クローゼンハイルであります、閣下」 「ではクローゼンハイル、下がってよい」  それから向き直り、イノケンティウス──西国枢機卿にして、西国騎士団の団長たるその男は平伏した僧達を睥睨していた。  そして、兜の奥から、まるで雷鳴のような声が響いた。 「権威ある法に基づき、私は異端らに罪状を申し渡す」  無論、騎士の口から出るべき言葉は一つであり、それは恐らく以前より決められていた事を述べているに過ぎなかった。  詰まり、西国の四大諸侯が一人は、眼前の異端審問官どもによって罠にかけられていたのである。 「判決、死刑」  途端、クラウデウスの目が見開かれたかと思うと、太い指を伸ばし、騎士へとにじり寄った。 「それは……それはあんまりだ!イノケンティウス卿!私が貴方に何をしたか!」  振り向いた彼の先にいる幼子や女などは、恐怖に震え口も利けぬ態であった。  司教は彼らに目をやり、騎士に哀願する。 「……何故だ!何故私の一族まで根絶やしにされねばならない!」 「もう遅いのだ。貴君とて、自らの罪を知らぬ訳でもあるまい?領民への搾取、飽食、姦淫、あまつさえ、教皇陛下への反逆の企図……十分では無いか」 「下らぬ!私が一体何をしたか!!搾取?飽食?馬鹿を言え!私は私の土地を治め、民を従えていただけではないか!言いがかりだ!」 「貴君も、仮にも貴族たるならば、そんな言い訳は聞き飽きているのでは無いかね?」 「……そうか、貴様……そうか、そう言う事なのだな?」  俯いて肩を震わせていたクラウデウスが、不意に顔を上げ、イノケンテイゥスを睨んだ。  ぱちぱちと、遠くでは彫り抜かれた穴底で油を注がれた薪が音を立てて燃え盛っていた。 「あの龍の為だろう!自らの権勢を伸ばそうとしているからだろう!イノケンティウス=パウロ=メックト! 貴様と我等、やっている事など何も変わらぬ!貴様はただ、西国が欲しいだけなのだろう!神と教会に弓引く背教の徒め!」 「始めよ」  イノケンティウスは言う。すると騎士達は囚われ人を捕まえて、彼らを拘束したまま燃え盛る炎の穴へと引きずりはじめる。  そして、実に呆気なく彼らを次々と灼熱目掛けて投げ込み始めた。無論、火達磨になって穴底から這い上がろうとするものが殆どだが、 西国と神に仕える騎士達は、そんな彼らを槍で突き、再び業火の中へと投げ落としていく。  耳を聾する悲鳴。誰かが聖印を切り、聖句を唱える声が朗々と響き苦痛の叫び、断末魔とに唱和する。  無論、彼らとて蠢く火達磨を眺め、気分が良い訳では無いだろう。当然である。彼らとて、同胞を、それも貴族を手にかける事への罪悪感はあろう。  だが、騎士団長は彼らにそれを命じた。そして、彼らを率い、この館の生きとし生けるを残らず滅ぼす意思に揺らぎは微塵も無かった。  騎士団長がその兜の面頬を上げる。彼は、既に齢六十を数えようかと言う老人だった。  引き摺られていく者達を絶望的な顔で見ていたクラウデウスの両腕を、遂に騎士が掴み、その時巌の様な声で老騎士団長は言った。 「背教の徒よ、望むならば慈悲を与えよう」 「貴様の慈悲など、例え神の命であっても受けるものか」  ぎり、と歯噛みし、老司教は言い放つ。しかし、イノケンティウスは眉一つ動かさずそれを聞く。 「それも良かろう。何れにせよ、貴君の望みは叶うのだから」   そして騎士枢機卿は言う。  老人は、自らの両腕を掴む騎士を振り払い、叫んだ。 「触れるな!トランギドールの犬どもめが!余が炎に身を晒すを拒むと思いしか、下郎!」  それは恐らく、彼に残された最後の矜持であったのだろう。  足は震え、しかし司教は自らの足でもって刑場へと歩む。  そして、振り向き、遠くは最早見えぬ目でイノケンティウスを睨み、呪いの言葉を吐き出した。 「覚えておくが良い!トランギドールの徒よ!貴様は必ず、必ず我等がヴァーミリオンの炎で焼かれる事となるのだ!」  自ら煉獄へと飛び込むクラウデウスを眺め、騎士長は言った。 「無論、承知している」  /  風が吹き始めていた。晴れ渡っていた空には僅か雲が流れ始め、草靡く大地にその影が落ちていた。  ウォルが戻ってみれば、そこには彼の見知らぬ人物が一人増えていた。  ロバを引いていたあの人物である。少年は、何故だか無性に逃げ出したくなったが、我慢してその歩を進めた。  ローブを纏った彼女は、何やら酷く不機嫌な様子だった。最も、神経質な女性に機嫌が良い日などあるのかどうかウォルは知らないのだが。  黒服の男に詰め寄り、酷く刺々しい声音で、まるで詰問するかの様に言葉を浴びせかけている。  浴びせかけているのだが、余りにも違う背丈のせいで、傍目には丁度、子供が父親にすがり付いているようにも見えた。   「ちゃんと見ていて、って言ったじゃない!勝手に縄を解くなんて!」 「まぁ、そう言うなよ。逃がしゃしねぇんだから」 「そう言う問題じゃない!私の指示をどうして仰がなかったのよ!」 「そりゃお前、居なかったンだから仕方ねぇだろ。第一、ロバぐらい用意出来る、っつたのお前さんだろ?幾らなんでもそりゃねぇぜ」 「……ッ!ああ言えばこう言う!意見ぐらい札を通して聞けたでしょうにっ!貴方、ひょっとして蒟蒻でも食べ過ぎたんじゃないの!?」 「んなモン、皇国からこっち見もしねぇ……止めとけ止めとけ。あんま怒鳴ると姫さんが怖がるぜ?」  一瞬、言い合うその二人に背を向けて走り出そう、と言う誘惑が少年を襲い、そして、危機を告げた本能に忠実に、今が機会とばかりに彼は駆け出し── 「!! 疾ッ!」  駆け出した途端に、ひょう、と音を立てて飛来した石つぶて──何やら文字の書かれた紙切れの張られた──が少年の後頭部を直撃。 「痛ッ!?何すんですかッ!……って、何だこれっ!?」  突如走った鋭い痛みにウォルは悲鳴を上げるが、何故だか体は動かない。指先一つに至るまで、である。  何か、かさかさとしたものが張り付いているような感覚はあるのだけれど、それが何かは彼に見ることは叶わない。  そして、背中に猛烈に嫌な気配が急接近してくるのを知覚して、少年は総毛を粟立たせる事しか出来なかった。  足音が聞こえる。けれどもそれは、少年の少し前で止まった。 「──巫女様、邪魔立てをしないで下さい。始末は今からつけます。然程、時間は取らせませんし、着物を汚す事もありません。心配は、無用です」  始末、その言葉にウォルは息を呑んだ。始末、始末である。まさか、掃除だの、そう言った意味で放たれた言葉ではあるまい。  何せ魔法使い、である。木っ端冒険者の彼のような苦労など無い、冒険者で無くとも階級の高い存在である。  少なくとも、少年の乏しい知識の中では、魔法使いとはそう言う存在であったし、冒険者として共に仕事をした事などもまるで無い。  そうであるならば、易々と消しさられてしまう、などとあらぬ想像をしたのも無理なからぬ話しであった。。  全身に血が巡り、心臓は早鐘を打つ。だらだらと嫌な汗が滴り落ち、迫りくる死を彼はただ座して、もとい、身動ぎ一つできずに待つのみだ。 「それは……私も巫女と言えばそうですが。でも、どうしてですか……こんな薄汚い子供を生かしておけ、などと。それを我侭だ、とは責め申し上げませんが──」  きゅう、とツクヤの鳴き声が聞こえ、「殺さないで。お願いだよぅ」という言葉が続き、それに女性の物らしいため息が応える。 「あ……あれ?」  果たして──少年の死は来なかった。  びっ、と何かを引き剥がすような音が聞こえて、自由を取り戻した五体を自覚するなり再び脱兎の如く駆け出そうとした少年の足を誰かが払う。  情けない悲鳴を上げてすっ転ぶ少年が仰向けになって見たのは、あのローブの女性だった。  太陽と雲を背に、見慣れぬ仕立ての長衣を着たその女が汚い物を見る目で少年を見下ろしていた。  フードに覆い隠された素顔は一向少年には見て取れない。 「ほぅ、助かったかウォル=ピットベッカー。実に運が良い」 「茶化すな。冒険者なら冒険者らしく、黙って従ってなさい」  からから笑っていたロボに、刺すような声が飛ぶ。一方のウォルは、と言うと尻餅をついたような格好で立ち上がれもしなかった。  更に付け加えるならば、腰がすっかり抜けてしまっていて、物理的に不可能なのであった。  じり、じりと浅い呼吸を繰り返して尻で地面を拭きながら、少年は歯の根の合わぬ声を発する。 「ま、まま……まさか……ひょっとして……」 「残念だけど、殺しはしないわ。巫女様に感謝なさい」  その言葉に安堵して、しかし止せば良いのに少年はふっ、と浮かんだ疑問を口に出していた。  巫女、と言えば神、つまりは事象龍に仕える女性であり、教会に所属しているとは限らないものの、一般的には神職と同義である。  が、この場ウォルが見慣れた装束の聖職者など一人もいないし、女性の言葉など少年は信じていなかった。  第一、動転しきった彼の頭には、そんな事を一々考える事など出来なかったのである。 「巫女……?巫女、って誰さ。もしかして、ええと……貴女の事ですか?」 「気安く呼ぶな。駄弁るその口を縫って止めるぞ」  そう言われては黙るしかない。下手な事を口にしようものなら、そのまま頭から食べられてしまいそうでさえある。  が、その言葉を鈴のような、しかして場の雰囲気が理解できていないとさえ思える妙に能天気な声が覆す。 「私がそうみたいだよっ」  ツクヤであった。その瞬間、ウォルは自分を睥睨していた女性の顔が狼狽に歪むのを確かに見た。  少女の言葉を聴いた途端、それまで黙っていたロボが堰を切ったように急に笑い出す。  何事かと少年が顔を向けるのも気にもせず、彼は吸っていた煙草をその辺りに投げ捨てて口を開いた。 「ははは、名付け親を目の前にしちゃ、流石の外道巫女も形無しか。いやいや、実に滑稽だな」 「……冒険者、貴様、今何といった?」 「だから名付け親だよ名付け親。そういやぁ、これもあんたにゃ言ってなかったっけな。失礼した」  少しも申し訳なさそうには聞こえないロボの言葉に、即座に女性が食ってかかる。 「嘘おっしゃい!どうして黙ってたのよ!」 「お前さん聞かなかったろ?これぐらい大方は予想できたこったろうにさ」 「予想できなかった事だから驚いてるの。こっちの事は殆ど知らない武辺風情は黙ってなさい」  再びぎゃんぎゃんとやり始めた女性を呆気にとられたような様子で見ていた少年であったが、 少々の時間の後に何やら言い合っている二人の指している『名付け親』なる単語がが自分である事に今更ながら気づいていた。  しかし、一体全体それがどう言う意味を指しているのかウォルにはとんと解らない。  第一、それが何を意味するのか理解できる程に彼に知識があったのならば、今現在の如き自体は回避しえたに違いあるまい。  解らないとなれば、何とも手の出しようも無いのであり、彼としては未だに、事無きを得ないか、などと打算を打とうとしてみたりもするが、 そもそも同じ議論の土俵に立っていないのだから、交渉すらもままならないのである。 「……ええと、そのぅ。良く状況が飲み込めないんですが僕ぁどうすりゃ良いんでしょうか? と、言うかあんた等どうしてそんな名付け親名づけ親繰り返してるのさ」  思ったことをついつい口にだしてしまうのは、少年の最もどうしようもない悪癖であるに違いない。  その言葉に振り向いた女性のフードの下からは、恐ろしく不機嫌そうな緑色の目がぴかぴか輝いて彼を射すくめた。   「聞く必要は無いわ」 「しかし、コイツの処遇をどうするかは決めにゃならん。違うか?」  「人が話してる時に口を挟むな」、そう言って女性は黒服を睨み返すが、その言葉自体は彼女にとっても正論であったらしい。  仏頂面をして口を噤むと、ブツブツと突然何やら考え込み始める。  その姿を見るや、ウォルは改めて自らの生殺与奪が彼女に握られていると気づいて身震いしてしまっていた。  思わず忘れてしまいそうになっていたのだが、この瞬間において彼の処遇をどうするのか、その実質的な決定権は間違いようもなく目の前の女性にあるのだ。  少年は、といえばただその決定をじっと待つしか出来ないのであって、他には如何ともしがたい。つまりは手詰まりである。  時間にすれば、丁度乗り合いの駅馬車が視界の端から端まで過ぎる程であったろうか。  フードを取りもしないで、女性は少年に向き直った。 「……ええと、決まりました?」 「黙れ。私が良いと言うまでは無駄口を叩くなと言っているだろう」  相変わらず、何とも高圧的な態度であったが、兎も角意思決定は終わったらしい。  ウォルにとってみれば、丁度裁判官の目の前に立った被告人のような心境であった。  最も裁判は裁判でも、女性の言葉を信じるならばこれは一種の宗教裁判であり、 その上弁護人も──ちら、と彼はツクヤを一瞬だけ見るが、彼女が状況が飲み込めていない事はすぐに理解できた──不在である。  耳の中で、冷静ぶっている、何処か酷く遠くに住んでいるらしいもう一人の少年などは、『知ってる?魔女裁判って、男でも審理の対象になるんだってさ』などと、 ぞろ碌でもない事を彼に囁く。それは何か。ひょっとしなくても火あぶりって事か、等とそれに答えるウォルの脳裏には、 逆三角形の頭巾を被った目の前の女性が、怪しげな文句を唱えながら自分をローストする様がまざまざと浮かび上がっていた。  無論、それが緊張の故の勝手な幻覚である事は言うまでもない事だ。  だが、ウォルの予想とは全く異なり、女性はその顔を覆っていたフードを一息に脱ぎ去った。  すると、少年にとって最早見慣れた、即ち、亜麻色の髪に狐の耳がその中から現れていた。  彼女はローブの中に納まっていた髪を掻き揚げ、整える。 「……」 「……」  流れるは沈黙。そして、それを破ったのは勿論、救いようのないウォルであった。 「ええと、ツクヤのお姉さんか何かですか?」 「黙りなさい」  矢の如き瞳がウォルを射抜き、その口を閉ざさせる。  彼女は酷くきつい目つきをしていたけれども、底意地の悪い、どうしようもない鉤鼻の鬼婆などといった少年の予想とは真逆に美しかった。  豊かに蓄えられた長い髪は緩く波を成して流れ、唇はきっ、と気が強そうに引き結ばれている。  そして、何より、その緑玉の瞳が少年にあらぬ想像をかきたてさせた。  が、目の前の女性は、狐耳の少女とは何より違って、酷く張り詰めており、彼はすぐさまそれが根拠の無い空想に過ぎない事を認める。  最も、腹の底で彼は、僕が一体何をした、或いは、ひょっとするとこれは魔法使いが化けているのかもしれない、などと想像力を逞しくしてもいるのだが。  一方で女性もまた黙し、しばしの間、視線をさ迷わせる。それは、少年にしてみれば、まるで何か新しい死刑執行法を考えている物語の悪役のように見えた。 「貴方にも一緒に来てもらうわ」 「は……?ええと、いや、ひょっとして僕の聞き間違いかな……まさかなぁ……」  が、彼女の口から出た言葉は、あけすけに言って、少年が思っていたような事──水攻め、車輪裂き、鞭打ち等等、彼が知る限りの拷問である──とは真逆であった。 「嫌なら別に良いわよ。それならお望みの通りに脳を焼いてあげるけど」 「それもう、選択肢でも何でも無いじゃないっすか……それに来る、って一体何処です。少しぐらい時間をくれたって……」 「駄目ね。どうせ決められないわ」  どうにも、この短時間で少年の優柔不断の性質はすっかりと女性に見透かされてしまったらしい。  第一、行き先もわからないのでは同意のしようも無いのが本音ではあるが、是非も無いのであった。  故に少年は何とか時間を稼ごうと、話題を変える。 「まさか長旅になるじゃ無いっすよね?まさか……僕ぁ、そんなお金なんて無いですよ」 「なぁに、何も無ければ二月もあれば着ける筈。最も、路銀に余裕が無いのはこっちも同じだから、食い扶持ぐれぇは稼いでもらわにゃならんが」 「……」 「お前さんも冒険者だ。草枕と洒落込むのは本懐だろ?」  それとこれとは話は別だ。そう言い返したかったが、事ここに至って、きっと自棄でも起こしたのだろう。少年の脳裏には別の思考も浮かび始めていた。  ──仮に、このまま皇都に残ったとしてどうなる?ここに来てから、良いことの一つでもあったか?そんなものは無かったんじゃないのか?  思い出すものと言えば、不潔な宿と、苦しい生活と、先の見えない未来ばかり。  ウォルは、昔本で読んだ冒険者たちの話を思い出していた。それに書かれていた始まりは、何時だって唐突だったものだ。  冷静な理性は、止めろ止めろと彼に必死で叫んでいたが、よく考えてみれば、そんなものは少年にとって唾棄すべきだった事を彼は忘れていたのだ。  それに──少年は、彼を見つめているツクヤの方を見た。彼女は、少年の決断をじっ、と待っているように見えた。それが背中を押す。 「……解りました。着いてきますよ。一緒に行けば良いんでしょ?」  腹は決まったのだ。言葉に出すのは一瞬だった。 「そう。解った」 「ちょ、ちょっと。着いてくんだから名前ぐらい言ってくれてもいいじゃないっすか」 「クオ=イーファ」 「ウォル=ピットベッカーです。ええと、宜しく」  クオと名乗った女性はしかし少年に会釈も返さず、少年の返答が予め決まりでもしていたかのようにさっさと荷物を纏め、ロボに驢馬の手綱を渡し始めていた。  黒服は、少年の方を向き、「改めて宜しくな」などとあっさりと決定を受け入れたらしい態度を示すばかりで、 一人立ち尽くす少年は、自らの人生を左右する様な決定が羽毛の如くに扱われている事に思わず呆然とせずにはいられなかった。 「うぉる、ウォルっ!元気ないよぅ、でも一緒に行くんだよねっ。嬉しいよぅ!」 「は、あはは……ははは……ええと、うん。そうだよ、ツクヤ。これからも、宜しくな……」  ぽむぽむと慰める様に頭を触ってくるツクヤに、少年はそう返すのが精一杯であった。  だが、空は晴れている。風も吹いている。幾らちっぽけな決断と言えども、旅立ちには酷く似つかわしい日である事も、また確かなのであった。  next