『それは0000年の事であった』  魔の帝都ツォルアファーンの皇宮に激しい足音が響く。  漆黒に虚ろ。ただただ広く生命の温もりが極度に不足したその場所を、ただ歯軋りのよ うに足音が響いて、呑まれて、散った。 「何故だ!」  声は凛として、しかし力強かった。華麗、可憐というには低い音。深紅の髪に囲われた 口より、白き牙を越えてそれは震えた。  赤きビロードをあしらった黒鋼の鎧に、北方のビアンコルドという魔獣の毛皮を使った コートを着ている。首にじゃれつく紫は魔狼ゾイアルデ。その決して大きくはない体一つ が、セインヴァルリアの群れさえ追い散らす脅威である。  その女は再び吼えた。 「何故アタシの要求が受け入れられぬ!」  ひたすらに空虚な残響の中で、その闇より冥い者はただ黙って座していた。吼える女を 真っ直ぐに見つめる。黄金の角を伸ばす黒い兜。中から凍るほど青い双眸がある。  破天帝国の主、破天冥王イツォルは、ただ吼える破天帝国西域方面軍指揮官・血装将軍 ルカを見下ろす。  すでに問いは――いや問いというより叫びは、既に八度になっていた。  息を継ぐ女将軍。  そこでようやく皇帝、帝座に預けていた背をわずか起こした。  ルカも視線は外さない。 「それだ」  簡潔この上なく、そして難解この上ないただ一言。  それ?  それとは?  何が、それか?  魔軍とともに『13人』を追いたてた自分が、報奨を望んだ。それが受け入れられぬ理 由を問うて、それとは何なのか?  ルカはイツォルより視線を外す事なく、相手もまた同様であった。  ならば。  イツォルの指すものは一つしかない。 「その眼だ」  悩むように……もったいぶるかのように……あるいは、ルカ自身が答えをつむぎだすの を待っているかのようにイツォルはわずか押し黙り――――結局、続けた。 「その眼、その言動……貴様は信じている、己の血統を、優位を 己こそ最高の血脈と」 「事実だ!」  己の主の言葉が終わるか終わらぬかの返答だった。  イツォルの指摘した事柄は全く事実であり、そしてそれはなんら疑うべき事ではなく、 そして何よりそれは誇るべきことであった。  ルカにとっては。  はじまりよりも旧きもの――――はるかのち二千の年月のうちにハイエンシェントと呼 ばれることになる貴き血。その血脈を誇り信じる事に何の不思議があろう? 「だからこそ!アタシがそこに相応しい!」  叫びは、嘆きと渇きを帯びて、ルカはただ一所を指した。  皇帝の横の座を。 「他には居まい!貴方の育てたアタシ以外に誰が居る!」  最後の生き残りたる自分を拾い上げ、育て上げ、今ここに在らしめているのは、間違い なく眼前の黒き主であった。  その横に並ぶ事が、ただ一つ娘の願いだったのに。  返ってきた言の刃にルカは驚愕した。 「……貴様を我が帝国から追放する」  ルカの全身が沸騰した。  腰をわずか落とす事もなかった。完全な仁王立ち状態から全力で踏み蹴られた床は煙と 貸し、赤き娘は極音速で父に迫った。  娘は父に届かなかった。  ルカを圧し留めるは一つ黒き六角の棒。一つ燃える黒き炎剣。 「凶嵐!バルトス!」  真白き面を晒す能面のごとき無表情は破天帝国極東方面軍指揮官・鬼装将軍。  深海のごとき蒼肌で憤怒する美丈夫は破天帝国帝都防衛軍指揮官・魔装将軍。 「退 け ェ ッ」  叫べども動かない。  二人とも並みの魔王――たとえばそう、ライエンシアやジルベンリヒター、ヴァニティ スタ――程度ならばゆうに張り合うもののふである。ルカ一人でその二人の阻止をなぎ払 う事など出来ようはずもない。  ただ時だけが刻まれる。  ルカの額より汗が一つ落ちた時、皇帝は新たな言葉を継いだ。 「そして同時に魔同盟初代『女帝』に迎えよう……」  魔同盟とは、ルカに聞きなれぬ言葉だった。 「システムを作る…………一つのシステムを。『大封鎖』を」  ルカの顔に浮かんだ疑問に応えているのか、皇帝は続ける。 「アレイシアは言った。この地には既に一つのシステムがある。強力かつ、難解な」 「事象龍……」 「そうだ。そして今またシステムが生まれようとしている」  苛立たしげに、かの父にしては酷く珍しいほど苛立たしげに、その言葉は吐かれた。 「『13人』はそのシステムを利用し、別の、攻性の、システムを手に入れようとしてい る……我らに抗する為に。我らを撃滅する為に」  表立った苛立ちはすぐに消え、ただ底冷えする冥い重さが皇帝の声にまとわりついた。 「故に封鎖する。『13人』と『事象』を『システムアルカナユニオン』によって封鎖す るのだ」  魔同盟。  システム、魔同盟。 「『世界』『悪魔』と結びし『皇帝』イツォルが告げる。貴様を『女帝』に迎えると」  そんなものは要らぬと、声を張り上げる喉を凶嵐の棒に押さえつけられていた。  その娘の瞳を真っ直ぐ射抜き、皇帝は更なる言刃を振り下ろした。 「だが忘れるな――――貴様はその座もすぐに追われるだろう」  怒る事すら出来ない。  負ける!?  アタシが負けるのか!?  皇帝でも!眼前の二人でもない女に!?  そして言葉の終わりに黒い風が渦巻いた。黒い炎が押さえつける力を緩めたのが判る。 凶嵐がひときわ強くルカを圧した。  同時に。  ルカの眼より、もはや何かもわからぬ感情とともに血涙が噴き出す。  血が迸りとなって、憤怒と憎悪と殺意と絶望と渇望と恋慕と情欲と敬服とそしてすべて の激情のままに槍と化した。  奔る血槍はそのまま密着状態の凶嵐を、貫かず、槍とルカは爆速で後方へ吹き飛んだ。  虚ろな宮殿に嵐が巻く。 「去ね」  吹き飛ばされたルカは、それが己の激情より速き凶嵐の一振りによってのものだと気付 いた。そして同時にその声を耳元にて聞いたのである。  真っ赤な瞳がルカを見ている。  ルカとて認識していた。  それが、その敵が、その強さとその完全さ故に――――イツォルの居る首都でも、駆逐 し蹂躙する西域でもなく、その背後東を守る事を務めとする者だと認識していた。  意識がゾイアルデをけしかける。すぐそばにある凶嵐の首元めがけて飛ぶ牙。同時にル カの手には血の剣があり、足が認めた床を踏んで斬り返す。  その時の敵の動きを、ルカは認識していた。  いや認識していたつもりだったのだろう。ルカが本当に認識してしたものはその敵の強 さと速さであり、動きはそれによって予想されていたに過ぎない。  ゾイアルデより遅く起こり速く届いた血剣の腹を暗黒の棒にて受け止めた敵は、狼の牙 が届くより速くルカごと突き飛ばした。受けが既に攻撃の中にあった。  やはり、という電光がルカの体を奔った。  そう、ルカはやはり敵の強さを認識していたのだ。  腕、いや指の一つが動きかけたその瞬間、ルカは叩きつけられた。床を認識する前に今 度は掬い上げられた。  四十二度打ち込まれ、血塗れのルカはしかし思う。  ――――アタシは間違ってなどいない。  ルカは、己の身を壊滅せしめた敵を認識している。  敵は今、あらゆる制限を取り払い全力にある。  鬼装将軍・凶嵐。帝国の極東方面を任せられ、凶一族と名付けられた一団を率いる鬼神 のごとき者。最古にして最高の、メタルバイト第一号機。  ルカをなぎ払ったはその最高速である。  ――――やはり、旧きは偉大なはずだ。 「然らばだ、傲慢なる最高血統」  ――――何より貴方こそ旧きはずではないか。私を拾い、彼らを作り、作らぬ彼らを集 めたならば、何より貴方が旧きはずではないか。  心中である意味勝ち誇る娘は、しかし最後の言葉だけは笑えなかった。     イキモノ 「一個の下等存在よ」  空間が鳴動した。  凶嵐の打ち込みがルカだった肉塊を払い、それは宮殿を突き抜け彼方へと運ぶ。  それでもあの最後の言葉を、娘は拒絶した。 「皇帝よ、貴方こそ忘れるな!いつか帰ってくる、アタシはいつか帰ってくるぞ!!」  そう叫んだはずが、言葉になったかどうかは判らない。    ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 「……己を最高と思う者に上はない。勝利しかない者に次は見えない」  皇帝は彼方を見る。  ただ独り、頂点に立ち、  ただ独り、果てに立ち、  皇帝は娘を見た。     ルカ 「負けよ義娘」  はたして、西域の軍から己が腹心と兵を連れ離脱したルカ・アテラは西に西に進み一つ の国を作った。  そしていくばくかの年月ののち、泥に塗れた黒き鬼にルカは負けた。これ以上ないほど、 完全に敗北した。  王冠はその頭に掲げども、ルカはそれより国を持っていない。                                       end.