月華草     06 幕間、及びに閑話休題と補足  西国。この国において、教皇の下、実質的な主権を握る者には三つの種類があった。  トランギドールを奉ずる者、ヴァーミリオンを奉ずる者、そして、最後に両者の間で揺れる風見鶏である所の日和見主義者共である。  要は教会内部の派閥であるのだが、老人、イノケンティウス=パウロ=メックトはその一つ目に該当する男であり、 西国騎士団長であり、西国騎士枢機卿──騎士団の長に与えられる、他国で言う所の軍務大臣である。 尚、これは余談ではあるのだが、枢機卿とはこの西国と言う国に君臨する教皇によって任じられる、 大よそ政の全てを所掌し、国家に奉仕する政務の長である。  彼らは、司教枢機卿、司祭枢機卿、この二者の次席であり、その政務を補佐する助祭枢機卿、 そして彼らからは半独立の権力を持つ騎士枢機卿の四者からなる。  尚、司教枢機卿と司祭枢機卿は、その管轄が『聖なるもの』であるかどうかで区別さる──であり、更には聖騎士── 王国連合、即ち、人類世界最強国たる皇国に対抗し、西国を盟主とした国家連合体、 その統合会議によって任命される名誉騎士称号だが、何かに抜きん出て特化している事が当然の要求として慣行化しており、 更に言えば、それは王国連合全体の意思の発露としての任命である。  王国連合全体の名誉に関わるここにおいては例え、西国と言えども迂闊に口出しは出来ない。  更に言えば、彼らに与えられた所属国の旅団長相当の指揮権限が、実質的な権威と威力とを具備せしめている。  聖騎士になる、とはそう言う事なのだ。  最も、殆どそれらの権限が振るわれる機会が無かった事も追記しておかねばなるまいが──であった。  白色に金糸で刺繍のされたズボンと短衣と言う、彼の地位に比せば簡素な服を着た彼は、 色のない靴で石の床を踏み鳴らしながら歩いている。  騎士枢機卿の進む回廊は、西国教皇庁の外れにある軍務省、つまりは彼の率いる所の西国軍部である。  更にここで、少々、この老人の役職、つまりは騎士枢機卿の所掌する権限についても述べておかなければなるまい。  以下、主な物を列挙するとしよう。第一に、無論ながら西国騎士団の統括と運用であり、それに伴う諸々の事務である。  第二には、西国騎士団領、即ち、所属騎士達の所領の一括管理──最も、現在は所領を持たない、 その点で言わば、純粋に職業軍人的騎士も人員の三分の一程を占めているが──及びに、そこからの徴税と税金の管理。  第三には、前記騎士団領より得られた資金や、騎士団への寄進を元手とした金融業務である。  最も、現在では在俗の商人資本による金融が進展しており、その有力な貸金ギルドは、司祭枢機卿の所掌であるがために、 かつてと比較すれば、その絶対的な地位は失われつつある。  そして、最後に聖都──西国の首都にして、西国教会の総本山である──における、司法の一部。  具体的には、市域における軽微な犯罪、西国金貨にして、およそ三十枚以下の係争を取り扱い、 市民の教化、倫理の推進に資するという題目の聖ジョルジュ裁判所、及びに異端審問法廷、 勿論の事ながら、騎士団内における特別法廷を主催するのである。  さて、長々と述べてきたが、ここで問題とすべき事実はたった一つである。  つまり、戦う事ばかりが騎士団の役目では無い、と言う事だ。  やるべき事務が老境に差し掛かったイノケンティウスの眼前に山と積まれ、そしてそれはペンでもって相手をしなければならないのだ。  そしてそれは、この老人をして、千の敵兵よりも手強いと言わしめるのである。  兎にも角にも、古今東西、実に世に机仕事ほど退屈なものは無い。    彼の執務室は飾り気の殆ど無い、石とガラスと照明と、それから数多くの中身を満載した書架に埋め尽くされていた。  騎士たる証の剣は、と言うと抜き身のツヴァイハンダーが一振りばかり、ぽつねんと椅子のすぐ近くに立てかけられているのみだ。  そんな有様の部屋で、イノケンティウスは採光窓の下にある執務机に陣取って、うず高く堆積した報告書だの、 会計の確認書だの、果ては聖ジョージ法廷から上がってきたらしい、肉屋ギルドと菓子ギルドとの訴訟── 果たしてハムのパイ包みは菓子なるや否や?其は唯ハムをパイの皮で包んだのみであって菓子に在らざるなり。 故に被告、菓子ギルドは抗弁を失し、肉屋ギルドの訴えをば正当とするものである──そんな、実に馬鹿馬鹿しい裁判の 上告申請嘆願書だの、実に雑多な書類の山を老人は、年齢を感じさせない速度と精度で片付けていく。  無論、騎士団の扱う事務の総量から言えば、彼の仕事はほんの一握りである。  彼の数十倍規模の書類を事務方や従者達が片付けているのは想像に固くないのだが、 最終的な許可だの、裁定だの、認可だのは彼らに任せるわけにはいかない。  否、半分程度までの下処理は、騎士団副長を筆頭とした補佐委員が終わらせているのだが、 それでも尚、騎士枢機卿の事務仕事は膨大なものであったのだ。  執務室のドアをノックする音が響いた。  「入りたまえ。副長」 「は、失礼いたします」  そう言って現れたのは、くすんだ金髪を短く刈り込んだ背の高い男だった。  常日頃からのものらしい皮肉っぽい嘲笑が張り付いていた顔を浮かべて慇懃に一礼すると執務室へと入る。  と、西国騎士団副長であるところの彼は、イノケンティウスが書類の海を掻き分けている様をしげしげと眺めてから、口を開く。 「枢機卿、どうやら本日もご壮健のようで何より。私どもも一層、聖務に骨折るべきと──」 「『先駆ける』ロアン。どうも君の底意地の悪さは宿業らしいな。今の私がそのように見えるならばね」 「恐悦至極に存じます」 「宜しい。だが、君がわざわざ皮肉を言う為に私の所に来るほど暇では無い事ぐらいは知っているつもりだ。本題に入りたまえ」  相変わらずの皮肉めいた顔をしたまま短く答え、ロアン──ロアン=ベルモンドと言う名の男は一度、注意深く辺りを伺い、 それから、急に真剣な表情をすると、その手を虚空に伸ばし、何度か握り込むような仕草をした。  その他、何度か手を動かすだの、片言を口にするだの、彼らの居る部屋に奇妙な緊張感が走り、 感覚が高揚するような事がなければ、滑稽にも見える所作を行った後で、男は枢機卿に向き直った。  彼の得手とする一種の霊媒によって、周囲の探査を行っていたのである。 「閣下、相変わらずの清潔ぶりですな。兵共も中々働いてるようです。これなら邪魔も入らないでしょう。では、報告を」 「ああ、クラウデウスめの事と──」 「はい。日和見を決め込んだ連中へのペテルギウシス聖務卿貴下の買収は効果覿面でした。 時期の枢機卿会議では、今回の問題に対して予想される炎狂いの頭どもの追求には組しない、と。 最も、連中のいう事ですから然程アテには出来かねます。まぁ、保険程度でしょうね。 祭務枢機卿の位は日和見なんぞにくれてやるには惜しい地位ですが、 クラウデウス『元』祭務枢機卿を葬りされた事を考えれば、元は取れたと考えるべきでしょうな。 その上、彼らには取り立てるのは我々と解っている以上、裏切りと言う下手な博打は打てないでしょう。 最も、ドラクロワ卿だけは今もって遊歴中でありましたが──兎も角、今頃、ヴァーミリオンの徒共は肝を冷やしているでしょうがね」  うむ、と長々としたその報告に老人は首肯を返して応えた。 「大変結構。続けたまえ」 「それから──皇国東域辺境教皇領の皇国への売却の件ですが──宜しいので?寸土をも惜しむ吝嗇家も少なくは無いと思いますが」 「当然だ。隣に破天を抱える皇国人にとっては重要な地だろうが、我らにとっては何の意味も無い。 それに、今後は資金も必要になる……金策のアテは多い方が良いだろう。それにあの地は元より騎士団──と言うよりも、名目上の私の領地だ。 自らの資産を自ら処分するのに遠慮はいるまい?ただ、相手が王国連合の敵と言うだけだ」 「左様で。精々、魔物に怯えた連中が長々と要塞を築く事を期待する、という事ですね。 まぁ、地図局の連中は難儀する事になるでしょうが」  にこりともしない愛想の無い顔で言葉を連ねるロアンの言葉が執務室内に響いた。  さて、西国と言う国においては前述した──即ち、トランギドール同位派とヴァーミリオン同位派が合対立する関係にある。  それぞれの崇める龍の号を採り、端的に暁派、原初派と呼ばれる事も多く、以下ではそのように呼称する。  この国にとっては不幸な事に、それら二つの宗派──否、主神からして既に違っているのだから、二つの異なった宗教、 そう呼んだ方が事実をより正確に表現しているだろう──その二者が、互いに互いを容認しないまま、 数世紀の長きに渡り、その地位を西国の中枢に占めていた事にあった。  右脳と左脳の如くに別々に分かれて思考していた彼らが、少なくともこれまでは平穏無事に過ごせてきたのは、 ある種の国家の未発達が原因に過ぎない。  更に付け加えるならば、西国とはそもそもが、一つの神、一つの教義を中心とした国家などでは『無かった』。  寧ろ、その実態は人類世界の大部分がそうであるように、様々な宗教が混在しているのが元々の姿であった。  龍である神が一つに限られたのは、遥かな昔にこの国を作った偉大な人間が龍は一つだ、そう言い、 学者や坊主共が、その言葉に忠実に従う努力を欠かさなかったからであった。 「さて……事が上手く運ぶと良いんですがね。上手く炊きつけたとは言え、先の一件は市井の者の反感を買うやも知れません。 彼らに自分の私腹を肥やす事意外に考える頭があれば、ですが。寧ろ、聖堂内の有象無象の方が問題ですかね。 ヴァーミリオンの徒共は数だけは木っ端の如く多い。火を付ければむべなるかな、と言った所です」  言い終えた男は、ふぅ、と息をつく。  が、ほんの僅かに無意識に握りこまれたらしいその手を、イノケンティウスの目は逃さなかった。 「ロアン副長。不安かね?」 「ええ、とても」 「ふむ──では、早々に手を打つべきだな。君の臆病が他の騎士にうつっても困る。他の卿等との折衝も数多くあるだろうし」  短い言葉に答えてそう言った枢機卿の前で、これまではどこか冷笑気味だったロアンが表情を硬くして、 彼にしては珍しく何処か緊張した様子で口を開いた。 「──ここからは個人的な意見と取って貰いたいのですが、構わんでしょうか?」  老人は無言の肯定を以って答えを返す。 「閣下は一体この国をどうなされるつもりですか……?西国騎士団(わたしども)は貴方の命令とあれば地獄の底までも従いましょう。 ですが、何のためにあの血を流し、無駄に自らの危機と市井の混乱を招くような真似をしたのです?」 「君とは長い付き合いだと思っていたが、私の間違いだったかな」 「ええ。『私』の間違いで無ければ、閣下はあのような狂信者まがいの真似を仕出かす方では無かったかと」 「だが、神は一つでなければなるまい。私以外の狂信者が表れでもしてみたまえ、西国は二つに割れ、やがては衰えるだろうよ。 それに、皇国も何時までも今代の愚帝が治める訳でも無い。そうなれば、遠からず王国連合は目を覚ました皇国に抗し得なくなる。 君も、彼の国の繁栄と精強を知らぬ訳では無かろう?何時までも時間を無駄にする訳にはいかん」  ロアンはイノケンティウスの言葉に皮肉の表情を隠そうともしなかった。  つまりは、彼も権力を我が物としたい点では一緒なのだ。予想に裏打ちされた危機感が彼を動かしている。  差し詰め、クラウデウスは犠牲に捧げられた獣と言った所だろう。  そも、西国と言う国家の内部は、今や四分五裂しているのだ。  聖俗の分離。社会的エリートとそれに擦り寄る中産層、彼らと半ば以上敵対関係にある下層市民と農民。  そして、その局地たるトランギドールとヴァーミリオンの対立。  皇国の如く、元々からして内部のカオスが承認されている国家とは違う。  つまりは内部統一からの解体である。  そして、かくの如くならば、膿の如く溜まっていたエネルギーが何某かの暴発を起こすのは当然であった。  即ち、農民の反乱。有力都市市民の反抗。血みどろの百鬼夜行たる聖堂内部の政治的暗闘、等等。  今や、西国、その内部は絶えざる闘争の渦の中にあるのだった。 「地獄の蓋を閉じる、と?愛国心は悪党の最後の言い訳と言いますよ、閣下」 「手を汚さぬ英雄など単なる飾りに過ぎんよ。私も所詮はその手で血を流す者だ」 「はは、確かにその通り──おっと、誰か来たようですな」  そう言って、ロアンは元の冷笑を取り戻すと扉の方を向いた。  ぎぃ、と音がして、ドアの向こうから来たのは大量の書類を腕に満載した何時かの少年従者、マクスウェル=K=クローゼンハイルだった。  堅苦しい麗辞を並べ立てつつ、肩肘張った調子を見せる彼は、どさり、と書類をイノケンティウスの執務机の一角に載せる。  一瞬にして山野を作ると言う書類の奇跡には敢えて目を向けず枢機卿は「ああ──君は確か、あの時の……クローゼンハイルだったか」 と言った。  「こ、光栄です!閣下もご壮健で!」  恐らく、老人が自分の名を覚えている、等とは思っていなかったのだろう。  背筋を伸ばし、姿勢を正して彼はつっかえつっかえ返答を返した。  その様子に、作業の手を止めてゆっくりと首肯してみせる老騎士を見て、副長は内心苦笑していた。  さて、ここで西国における騎士とその従者について述べねばならないだろう。  未だ騎士の殆どが王家により封土される慣行が根強いファーライトや、一応の常設軍備を持つ皇国などとは違い、 この西国においては、騎士は封土を持ちながら常に聖都にあって軍務に付く、少々特殊な職業軍人である。  これは、未だ完全には常設軍を賄い切れず、傭兵や召集民兵、或いは冒険者や征服した異種族の有する武力の供出に、 軍事を依存している西国と言う国の有する事情の故である。  そして、従者は概ね、他国におけるそれと変わらない、言わば騎士見習いと言った立場である。  その点は余り変わりは無いのだが、他国と比較して遥かに正規の騎士として騎士団に編入され易い、と言う特質が生まれていた。  下積みたる従者となる為の基準もほぼ貴族や騎士の家系のみに限られるファーライトなどとは違い、かなり緩いものとなっている。  それだけに騎士としての特権も、年来の者や武功のあった者を除けば、余り高いとは言えないのだが、 それでも年々増加する正規の騎士団員は、ゆっくりと西国騎士団と言う組織を作り変え始めていたのだった。  最も、生まれが問われず能力次第、とは言っても矢張り未だに西国騎士団は狭き門でもあり、 かつ、騎士であるが故にか兵卒扱いを嫌うと言う悪弊もあって何代か前の騎士枢機卿などは兵卒の不足を嘆く余り、 皇国式の軍-騎士団の分離方式を採る、などと言う話をぶち上げ、結局潰えたのであるが、それはまた別の話である。  話は続く。彼の様にもう何十年と軍隊暮らしの続く男と違い、西国騎士団に所属して日の浅いマクスウェルが、 作業の合間の格好の気晴らしを決め込んでいるらしいイノケンティウスに質問攻めにされているのである。  その殆どは他愛の無いものとは言え、面と向かって、自分よりも遥かに地位が上である所の人間と話さなければならないのだから、 唯でさえ恐縮しているらしい従者の気疲れは相当なものだろう。  ロアンは欠伸をかみ殺しつつ、立ったままそれを聞いている。退出しないのはまだ報告すべき事が残っているからだが、 出て行け、そして仕事をしろ、などと言われもしていない以上、久しぶりの休憩時間と決め込むことにしたのだった。  今頃、馬車馬の如く働いているであろう部下達には悪いのだが。詫びに今度、一杯奢ってやるとしよう、などと彼は考える。  老人と従者が話し込んでいる暇がてらに、居眠り半分でロアンは様々な事を思い浮かべていたが、 やがて、押し込んでいた疑念が鎌首をもたげたのに気づき、彼はそれを凝視する事にした。    矢張り、今回の件は──この老人と言えども、流石に『やりすぎ』では無かろうか?  無論、彼の懸念は最もなものであった。もしかしなくとも、枢機卿の公然たる粛清など、騎士団の暴走以外の何者でも無い。  その責は彼は元より、騎士団やイノケンティウスにも降りかかるだろう。  騎士枢機卿もまた言われるまでも無く承知の上だった筈だ。  ただでさえ、権力的な地図で言えば劣位であるのが彼らだ。  ひょっとしなくとも、水面下での原初派との小競り合いが猛烈に激化する事は避けられまい。  軍務における暁派の優位はイノケンティウスが団長となり、聖騎士に序せられた二十数年前──前対戦の直後に確立されている。  今の平穏は、単に軍事力の優位と教皇を味方に引き入れている故の、一時的なものに過ぎない。  彼もまた騎士団副長であるとはいえども、神経質なまでの秘密主義に隠された枢機卿達の全ての意図を読み取れるような立場ではない。  ──あれはひょっとすると、団長の焦りか?それとも覚悟と予想の上か……  ロアンは老騎士団長の事を信頼はしている。だが、英雄と言えども所詮は人間だ。時間の流れには勝てはしない。  最も、そうでなくともこの状況では早々に既成事実を作り、定着させてしまうに限る。  民衆にせよ、貴族にせよ、悪意が無い者であれば結果の前には過程には目を瞑るものだ。  そこでロアンは思考を閉じる。見れば、何時の間にかマクスウェルとか言う従者が一礼をして立ち去る姿が見え、 それからイノケンティウスが彼の方を向いたのに気づいた。 「所で副長。南方の『はなれ山』『岩室』のドワーフ共との交渉はどうなっているのかね?心ここにあらず、といった態だが」 「失礼、少々考え事を。ええとですね、余り芳しくありませんな。あそこは元々が連中の土地です。 その上、現在でも西国内における半独立自治区、『物は送るが何があろうと兵は出せない』、この一点張りでして。 西国の為に流すドワーフの血は一滴たりと無い、と言う事でしょう。あの名高きSuttlg銀帝の時代から考えれば連中も堕ちたものです」 「──亜人どもめが。先王を火あぶりにされただけでは足りぬと見える」 「お言葉ですが聖騎士殿。どう考えても原因の半分は貴方の上、一応は相手は西国の民です。少しは発言に注意して下さい。その意見には同意しますが」 「考えておこう。それと君、内務卿にも交渉の結果と、ドワーフへの税を上げる提案を伝えておいてくれたまえ。 それと、間者の増員も検討しよう。今、内紛の種に水をやるような真似はできぬ」 「承知致しました」 「あくまで提案、と言う形で頼むよ。どうも内務卿は私のような成り上がりを好まないようだからね」  そう告げると老人は再びペンを取って政務へと戻った。  男も一礼し、背を向ける。しかし、彼の心は晴れやかなものでは無かった。  心労の種はそれこそ腐る程ある。例えば、教会にあって教会ならざる四大諸侯。  所謂俗界の彼らは殆どが日和見主義者ではあるが、その政治的、経済的な位置による発言力は未だ無視できない程に大きい。  それに臆する事は無いが、考えを巡らせておくに越した事は無いだろう。  歩きながら、彼は脳裏に政治と言う名の絵を描く。  ──新たな市街、貿易港の建設を卿に進言すべきか。あるいは、彼の地の綿花流入を制限する必要があるか。気取られぬ程巧妙に。  草案はこちらで描く必要があるだろう。ロアンは脳裏で諸侯の支配する都市の詳細や、根回しの手段について思考する。  受け入れられるかどうかは半々、と言った所だが、二の手三の手を考えておくに越した事はあるまい。  何れにしても一つだけ確実であるのは、今日も忙しい一日になるだろう、と言う事実だけであった。  /  旅立ちは突然に。そこら中の人口に膾炙する陳腐な言葉である。  しかしながら、丸半日歩き通しだった少年、ウォル=ピットベッカーにしてみれば、絶対の真理の如く重く圧し掛かる言葉であった。  付け加えるならば未だ、自分の置かれている正確な状況が一体全体どのようであるのかが彼には未ださっぱり解らないのであった。  同意したのはさしあたって選択肢が他に無かったからであり──無論、脳髄を焼かれる等、断じて御免蒙りたい── この旅の意味など全く知れないし、想像さえもつかない。  放浪している分だけ冒険者らしく見えない事も無いが、来し方はともかく、行く末も解らないのならば、 結局の所、都市に蠢く貧乏人が単なる浮浪者に代わったと言うだけに過ぎまい。  そう考えてみるとあの時は気が動転していたのだろう、と彼は思う。少なくとも、今よりは余程、である。  よくもまぁ早まった事をしでかしたものだ、と少年は酷く胸がむかつくのを感じていた。。  考えてみても仕方の無い事ではある。結論を出しうるのが彼で無い以上、幾ら考えてみた所で確固とした答えなど見出せまい。  今はただ彼等に従う事しか出来ないだろう。とは言え、そう思ってみた所で圧し掛かる不安が消え去ると言う訳でも無いのだが。  ──この旅の価値は、果たして『かもしれない』と言う言葉で図り取れるものなのだろうか?  考えるべきことは幾らでもあった。例えば、矢張り、この旅だ。    皇国は、大国である分だけ当然ながら他国に比してもその領土は広い。  しかし、少なくとも少年の知る限り、狐耳の少女がどうだの、白い三角頭巾がどうだのと言う奇天烈な噂はとんと聞いた事が無い。  最も、彼の事であるから、その知識の正確さには疑問を付さねばなるまいが、兎も角、 少なくとも皇都の近くでは狐耳の種族の事など見た事も聞いた事も読んだ事も無いのであるし、 変わった仕立ての服を着ていることからして何処か遠く異国に旅立つのかもしれない、などとあらぬ想像を逞しくもするが、 どうしたって女子供を連れた足で、たった二ヶ月では王国連合に差し掛かる前に、日程が過ぎてしまう事は間違い無い。  その程度の時間で一体全体何処に行こうと言うのか。また、その行き着く先で一体何をやろうと言うのか。  それらは一言もウォルには伝えられてはいない。学者や賢者でもあるまいに、たったそれだけでは何も導き出しえない。  つまり、現状を正確に考察するには諸々の矛盾が山積しているのであって、さっぱりその絡まりを解きほぐす事が出来ないのだった。  案外近場なのかも知れないな、と仕方が無いので彼は無理やりそう考える事にする。  だが、その一方でウォルは益々思考の海へと自らを埋没させていった。  馬鹿の考え休むに似たり、それは少年にとって一種の慰めではあったのだろう。  寝付けないまま無為に浸っているよりは答えの出ない問題と向き合っていた方がまだしも気は休まる。  ──あの二人の目的は一体全体何なのかしらん?  ウォルは黙考する。唯々諾々と彼等に従ってはいたけれども、内心酷くあの連中を疑っていた。  黒い男──ロボ=ジェヴォーダンの目的は明白だ。彼は自らが冒険者である、と述べた。  ならば、依頼を果たす事こそが彼にとっては重大である事は疑いようもない。  社会的信頼が低い冒険者と言う存在故に、そういった筋は必ず通さなくてはならないのである。  ましてや、靴屋や肉屋といった職業と違い、神と同胞の誓いの元に結束した同業者組合(ギルド)による後ろ盾さえ、 冒険者たちには存在しないのであるから、依頼を反故にする事は即ち、これまで培ってきた仕事の人脈を捨てる事とほぼ同義であるし、 都市部であるならば兎も角として、旅歩きの冒険者にとっては仕事に対しての誠実さは正しく生死の問題に直結してしまう。  だからこそ、信用に応えることこそが冒険者にとって最も重要だった。  ならば、彼の受けた依頼とは何か?一つには、彼自身の言葉から、ツクヤを探し出す事が含まれていたのだとは知れる。  だが、それだけではあるまい。それだけならばこのような旅路に付き合いはするまい。  少年が思い浮かべたのは、あれは予想外の出来事ではあるまいか、と言う可能性だった。  元々はあの意地の悪い女から何がしかの依頼を受けていたが、その中で予想外の事実が起こって──  しかし、その想像はすぐに壁にぶち当たる。あの女──クオ=イーファは少年に目的など何一つ伝えてはいないのであった。  口にしていたものと言えば罵声と警告ぐらいである。恐らくは黒尽くめに仕事を与えているのが彼女なのだろう。  昼間、ヒステリックに喚き散らしていた彼女を思い出し、ウォルは思う。  だが、彼女は少年に敵意さえ覗かせていた。ツクヤの懇願が無ければ同行する事さえ許可せずに彼を殺していただろう。  あの少女が大切である事は確からしいが──ウォルは再び嘆息した。結局、手がかりは無しと言う事なのだろうか?  だが、何かが引っ掛かっている様な感覚がある。丁度、喉に魚の小骨が突き刺さっているような感覚。  そう言えば、あの二人は名付け親、と言う言葉に固執していた事を少年はそれを思い出した。  だが、それが何だと言うのだ。本当は、あの愚かしくも麗しい少女にも別の、もっとぴったりとした名前があるのだろう。  まるで異国のお姫様か何かのようにうやうやしく扱われていた光景を思い出し、思う。  最も、そうだとしても、決してその名で呼ぶ事は無いだろう。単なる幼稚な反抗心のあらわれでしかないが、それでも完全に従ってやるつもりなど微塵も無い。  少年には旅に同行はしても、彼らの奴隷として扱われる事を約束したような覚えなど無いのであった。  とりとめも無く続けていた思考を切り替える。  それよりももっと現実的な問題として、この旅での身の振り方、と言う事実が彼の前には立ちはだかっていた。  まるっきり下男か何かのように振る舞えとでも言うのだろうか?いや、どちらかと言えば、彼等は彼が速やかに消えてなくなる事を望んでいるのだろう。  ならば、いっその事、この三人を皆殺しにして、盗賊か何かにでもなってしまおうか。そんな思考が一瞬湧き上がり、少年は僅かにがぶりを振った。  人殺しなど、自分に出来る訳は無い。その為の意思も覚悟も全く培われていないのだから当然だった。  第一、彼女は今しも二人の護衛に囲まれている。  もしも何かしようものなら、連中はそれこそ一切の躊躇無く少年を解体して魔物どもの餌にしてしまうだろう。  結局、思考がウォルにもたらしたものと言えば、自分が邪魔者でしかないと言う事実であり、それは少年を酷く惨めな気分にさせた。  全てが馬鹿馬鹿しく思える。結局、ここにも彼の居場所は無いと言う訳だ。  一瞬、ツクヤは己を必要としてくれているのか、ひょっとしたらあの綺麗な娘を自らのものに出来るのではないか そんな思考が電光のように閃くが、僅かな一瞬の後に彼は思い上がった己を戒めた。  それはありえない可能性だった。ぎり、と歯をかみ締める。  彼女にも決まった居場所と言うのはあるらしい、それはあの二人の態度を見ただけで少年にも理解できた。  一方の彼には、そんなものは何処にも無い。少なくとも彼自身はこの地上の何処にも見出せなかった。  それが決定的な差だった。  胸の中にぽっかりと穴があいたような気分がしていた。ウォルは初め何故なのかが良く解らなかったが、 少し考えてみればすぐに理解できた。つまり、糠喜びだったと言う訳だ。  ごろん、といい加減、気が滅入りそうになる益体も無い考えを頭の外に放り出すと、少年は寝転んだまま天を仰ぐ。  焚き火のほの暗い明かりが星空に陰りを落としていた。  月影は世界を照らし、遠く広がる丘に疎らに生えた立木の影を霞ませている。  それらは皇国の片田舎、と言った風情ではあるが、少年にとってはは余り馴染みの無い風景だった。  無論、先日まで彼を押し潰していた碌でもない掃き溜めと比べれば天と地ほどの差はあるが、 そこには彼にとって血が通っているように思える風景は何処にも無い。放たれた心は遥か旅立ち、霞む空を繋ぎ止める。  きっと、これが放浪の道を歩む事を選んだ人間が誰しも見るものなのだろう。  そう思うと、少年は旅行者にでもなったような気分になり、同時に自分にこれほど里心が付いている事が意外に思えた。  目を移せば、きっとすぐにでもあの陰鬱な顔をしたロボ=ジェヴォーダンが不寝番をしているのが見える。  彼もまた、少年にとっての厄介事の一つだったから、直視すれば苦痛の種になるに違いなかった。  クォ=イーファはツクヤの隣で彼女を守るかのように毛布を被って丸くなっている。少女が一度寝返りを打つのが見えた。  彼のちっぽけな頭脳で考えうる事は全て考えつくしてしまった  ウォルは大人しく目を瞑る事に決める。全身に隈なく行き渡った疲労は、きっと心地よい眠りを彼に約束してくれるだろう。  明日は彼の事など気にも留めずにやってくる。これ以上起きていては、余計足手纏いになるだけだろう。  そうして全身の力を抜いた彼に、睡魔が忍び寄るまでには然程の時間は必要でなかった。  空の月だけが彼を見つめていた。  next