【うみがみやみがみ】 「邪魔スルゾ」 王宮の中庭に構えられた池からひょっこり現れた海の髪にヴァジェトは呆然とした。 時刻は深夜。誰もが寝静まり闇の天下となる中を彼女はいつものように悠々と闊歩していた。 ところがどうだ。朧月を遮って突如現れたのは、夜の闇よりずっと陰鬱な海の闇の化身だった。 黒ささえ覚えさせる髪は池の水面に溶けるように広がり、ヴァジェトと同じ人外の存在を象徴する特異な眼は赤い剣呑な光を放っている。 「何の用だ――ナバラ。というよりも、どうやって此処に来た?」 嫌悪というよりも苦手意識を多分に含んだしかめっ面でヴァジェトはナバラをにらみつける。 『生身』だった頃から、こいつはどうにも喰えない。 盟友の闇の魔神や赤の王のように荒ぶわけでもなく、自分のように人の信仰を集めるわけでもなかった。 海の底に引き籠って、ぷっつりと音信不通。 いつのまにか、そこに国ができて奴は守り神になっていたのだ。 そして、今、あっさりと数百年ぶりに自分の前に現れた。 「ナニ、簡単ナコト…」 「その前に話し方を元に戻せ。聞き取り難くてならん」 「アア、オ前ハ龍語ガデキタナ……これでいいか?」 すると、コンピュータの音声のようなナバラの声は、人には発音できそうもない奇妙な声に変化する。 もっとも、ヴァジェトにとっては至極聞き取りやすいものではあるのだが。 「お前と同じく我のこの姿も化身だ。仮にも海の神、水は我が力の媒体なのは知っているだろう」 「…すると、今のお前は本物ではない、と?」 「そうなるな」 「そうか」 言うや否や彼女が手をかざすと、バッと池ごと仮初のナバラが吹き飛ぶ。 月明かりにきらきらと光る水飛沫にヴァジェトは苛立たしげに鼻を鳴らした。 そうこうしているうちに、飛散した水は次々と集まりだし、あっという間に再び仏頂面のナバラが現れた。 「何をする?」 「腹いせだ。何も言わずに消えたと思っていたら、人の国にずかずか上がり込みおって、何様のつもりだ?」 「神様」 「このっ…!」 眉ひとつ動かさない不遜な態度にヴァジェトの額に青筋が浮かぶ。 この国の民が見たら腰を抜かして恐れ戦くことだろう。 しかし、ナバラは相変わらずの涼しい表情で、ようやく用件を切り出した。 「お前の所に出てきたのはほかでもない。釘をさすためだ」 夜気に冷たさと重々しさが籠ったのは、恐らく気のせいではないだろう。 「ほう、しかし何故私を選んだ?」 「お前の国の王と帝国の魔女は我のことを知ってはいない。闇は今の状態では話にならん。だから、お前に話す――リュウグウに手を出すな」 遠目には何の変化もなかった。 しかし、形容しがたい圧力がその一瞬で二人の周囲に迸っていた。 「できん相談だな。全世界の制海権と海底資源の過半数を握る貴様の国は、見過ごすには大きすぎる存在だろう」 そこで、彼女は言葉を区切る。 「お前のことを知らぬ者達にとってはな……古代国家シュリンポス。世界の海を統べんとしたその国もリュウグウにだけは手を出せなかった。 お前と、その「逆鱗」の怒りを買うのを恐れたからだ」 「そこまで察することができるなら、分かるだろうヴァジェトよ。我が来たのはリュウグウのためだけではない……争えば、お前の民も死ぬぞ」 「……」 ナバラの言葉にヴァジェトは黙して目をつむる。 暗闇に隠れ、その表情は読み取りがたい。 「それでも、闇の国は、闇黒連合は止まらんぞ。それがあやつらの意志で、生きるための術なのだからな」 「…そうか」 「行くのか?」 「ああ、会えて良かったぞ、友よ」 「ふん」 そして、ナバラは音もなく消える。 水面には波紋が広がり、直ぐに消えていった。 ヴァジェトはそこに映る夜空を静かに眺めていたが、やがて衣を引きずり宮殿の闇の中へと去っていった。 夜明けは、まだ遠い。