月華草   07 まち(前編)  少年──ウォル=ピットベッカーにとって、彼が今現在握り締めている所の棒切れは酷く憎らしいものだった。  が、一方で彼の最後に支えとすべきものもまた、その木っ端である。  詰る所、何の変哲もないそこらの牧童だの貧しい旅人だのが使っているような杖を丁度半分に切り取ったようなもの。  それこそが今の彼の身を守る盾であり、何にもまして縁とすべき剣なのであった。ウォルは何故だか泣き咽びたい衝動に襲われていた。  彼の価値とは木切れ一つで動揺するものでしかなく、それ以下でもそれ以上でも無いとでも示されているようだ。  だからといって彼にそんな真似が出来ようはずも無い。少年は彼の眼前に聳える現実と相対していたのだった。  真っ正直に、木剣の切っ先のように思えなくも無い部分を向けてはいるが、それはどうにも頼りなく右へ左へふらついている。  蟷螂の斧どころか、さしずめ酔っ払いの千鳥足と言った所であろうか。  それは剣の握りの甘さからくるものであり、無力の端的な表れでもあった。  何れにせよ、それが今の少年の持ちうる札であり、どれ程不利であろうがそれを引提げ鉄火場に立たざるをえない。 「────」  垂れ込めた沈黙。ざり、と土を踏む音が砕いた。それだけで、知らず、跳ね上がりそうな身体を必死でその場に釘付ける。  足りない。彼はそう自分に言い聞かせ、知らず恐怖を振り払おうと歯噛みする。  この距離は、余りに絶対的だ。万に一つの勝機も無い。全くどうにもならない事をウォルは身にしみて学んでいた。  振りかぶれば払われ突かれ、打ちかかった所で容易に叩き落されるに違いあるまい。  故にそれらはそもそも選択の埒外だ。たったの一足。己が最速を実現可能な距離のみが残る。  ざり。じゃりっ。  びっこを引くようににじり寄る。一歩に満たぬ距離にも関わらず脂汗が浮かぶ。  だが、少年は事ここに至っても目視のみで距離を正確に測る術など持ちえていなかった。  致命的な欠如。内臓から喉元へせりあがる恐怖。それが薄氷を踏む蛮行を選ばせしめ、少年は祈るかのように木剣を硬く握った。 「うあっ!!」  短く気合を発し、一息飛び込み突きかかり── 「足らん」  次の瞬間、そんな声と共に二の腕が打ち据えられたかと思うと、取り落とした棒切れが地面を叩き音を立てるより尚早く、 返す刀ですっ飛んできた物体が額へと強かにぶち当たる。  途端、蛙を踏み潰したような叫び声を上げて、ウォルはもんどりうって地面に倒れこんだ。  火花が目の中で踊る。酷く頭は痛む。どでかいタンコブがきっとパン種か何かのように膨れ上がっているに違いない。  その内、妙な形に変形して戻らなくなるのではないかと言う心配さえも脳裏を過ぎる。  目を覚ますと──ひっくりかえった自分の喉下にぴったり木剣の切っ先が伸びている。  その下手人、つまり彼が突きかかろうとした相手はロボ=ジェヴォーダン──彼が同行することとなった年嵩の男であった。  とんとんと粗末な木剣で肩を叩きながら彼は何とも大儀そうに尻餅をついた少年を見下ろしている。  やおら不満げな顔をしつつ、黒服の髭面は座り込んだままのウォルに対して言葉を吐きかける。   「一々やる事なす事安直だな。確かに俺は何も考えず突っ込むのは止めろっつたさ。  けどな、自分でハイ行きますよと教えてやってどうすんだ。構えて、一息入れてと相手は待っちゃくれんぜ?」 「……けど、具体的にどうすりゃいいんでしょ」 「聞く前にちったぁ頭使え。見て真似て自分でコツ掴むンだよ。田舎道場の食い詰め師範相手にしてんじゃねぇんだぞ」 「そんな事言われてもなぁ……」 「俺はしろ、つった。だったら口でクソする前に大人しく首を縦に振っとけ。な?」 「え、ええ……」  黒服の言葉に、しかし少年は釈然としない感情を無理やりにでも押さえ込む事が出来なかった。  そもそもの発端は四日前に遡る。皇都を発った翌日の事だ。道すがらウォルがふと口にした、 『冒険者と言えども少しは戦えた方がいいんだろうか』、そんな大意の言葉にロボが乗っかった形で始められたのが、 この剣のお稽古らしく見えない事もない代物である。但し、そんな言葉で表現されてはいるが、 少年にとってみればどこぞの神話に伝わる軍隊国家の如きであって、文字通り死ぬような思いである。  弱音を吐こうものなら飛んでくるのは拳骨であって、少しでもケチをつけた代償は怒鳴り声と説教だ。  お前は死んだ!今死んだ!たった今無様にオッ死にやがった!だの、仮にも命の取り合いなら云々だの、 甘っちょろい鍛え方じゃ何の役にも立たないだの、挙句の果てには、今まで習ったことがあったらすぐに忘れろ、 相手の手足を狙って斬り付けた後は逃げ回る事も考えろとまで付け加える。絶えざる罵声と怒鳴り声に加えて、 少しでも気に障ろうものなら地面の突っ伏すまで荷物を背負って駆けずり回らせると言うおまけつきだ。  そんな酷く有難い訓示を鼓膜も破れよとばかりの勢いで連呼されれば唯々諾々と従うほか無い。  幾ら怒鳴り声に慣れているとは言っても、絶えざる驟雨の如く貶され続ければ気持ちも沈むと言うものだ。  そんな状況において、頼みの綱とでも言うべき狐耳少女ことツクヤはと言うと始めこそ心配していたものの、 うまく言い包まれでもしたか、或いは単にそんな光景に慣れたのか、この荒行を日常として受け入れてしまっているらしかった。  もう一人の女性──クオに到っては言わずもがなである。  が、残念な事にフードの下に表情を覆い隠したクオに連れられ、その少女はこの場にはいない。  或いは碌に整えられていない街道歩きにくたびれ、どこぞ木陰で休みでもしているのだろう。  少年とてそれは似たようなもので、雨でも降ればすぐぬかるみ、轍など踝より深く刻まれている道を歩く羽目になれば当然だった。  何処も彼処もここまで街道の整備が等閑にされているとは無論、少年の予想の範疇外である。  道中、騎馬や馬車に乗った者に何度か奇妙な物体を見るような目で眺められたことを思い出す。  彼らの心中全く持ってむべなるかな、である。もしも路銀に余力があるならば、誰しもが彼らの方法を選ぶだろう。  が、馬と言うのはそれだけでちょっとした財産であり、つまり貴族か懐の暖かい商人でもなければ使えない。  故に徒歩で旅路を行くは貧しい者か、そうでなければ寸貨も惜しむ冒険者ぐらい、と言う訳だ。  が、そんな事は一向お構い無しである。今、まさににウォルの腹は煮えくり返っていたのだった。  棒で殴られればどんな犬だって怒る。ならば、木剣による殴打に腹を立てない道理は無い。  連日からのロボへの恐ろしさも手伝ってか、それはもぞもぞとした愚痴にしかならなかったのであるが。 「……一体全体何だって駄馬荷馬畜生でも無いっつーに、重い荷物を引き引きそこらを駆けずり回って、 その上、足腰砕けそうになるまで打ちのめされなきゃならないんだろう。これじゃ、むしろ前の方がマシじゃないか?」  呟きつつ、一行の助けとなっているつぶらな瞳の動物の事を思い出して、ウォルは何処か悲しい気分になった。  が、黒服がそこらに放り出していた刀を腰に提げ直して旅装を調えているのを見て、自分の元々の荷物の事を思い出す。  曰く、彼の装具はものの見事に質に入り、今では路銀の足しになったそうだ。  そんな碌でもない事実を再確認してぼやきの数を増やしつつも、少年もまたのろのろと準備を進め始める。 「ウォル、ウォルっ!」  と、ツクヤの声が道はずれの木立の向こうからそんな彼の元へと届いた。  席を外していた二人が戻ってきたらしい。ウォルが声の方へと顔を向けると、少女が彼へとぶんぶん手を振っているのが見える。  かと思うと、引き止める暇も無い。少女はひらり身を躍らせてウォルへと駆け寄った。  何がそんなに嬉しいのかと尋ねてみたくなる、或いは思わずその狐の耳を横に引っ張ってみたくなるような笑顔も相変わらずだ。 「わ……」 「あー、うん。またなんだ。ごめん」 「うー……」  一瞬責めるように、僅かな唸りを零して黒服を少女は見遣ったものの、すぐにそこらの荷物から水筒を引っ張り出そうと、 少年が整え掛けていた大荷物の周りをくるくるとする。  正直に言えば邪魔以外の何者でもないのだが角を立てまいと考えて、まるで唖のように少年は言葉を失ってしまう。  と、そこで漸くと後ろで置いてけぼりを食らっていたクオが一歩を踏み出した。 「巫女様、それは必要ありません」 「どうして?だって怪我だもん。怪我はほっといちゃ駄目なんだよっ」 「そう言われましても……」 「ね、駄目かなっ?」  どう答えたものかと、ちら、とクオが少年を一瞥しかけた時だった。  ぽぉん、と突然に皮袋が宙を舞った。かと思うと、ツクヤが飛び上がりそれを捕まえる。  見れば、口端に煙草をくゆらせた黒服がにやにやとこっちを眺めていて、ぴくんと狐の耳が跳ねた。  彼とその水筒とに暫し視線を左右させてから、ぺこり、と少女は頭を下げる。  無論、思考を途中でぞろ中断させられた女性が黙っている筈も無い。   「ね、ウォルっ。手、手」  手、手と連呼されると何となくお手などと言われている気がしないでもなかったが、その言葉に少年は従い、腕を差し出した。  外套の裾を水で濡らすと、少女はそれをウォルの赤く腫れた腕に乗せて、その上から手で軽く抑えなどし始める。  それがどうも居たたまれなくなり、顔──横目で少女をちらちら向けてはいたが──を背ける。  ツクヤは掌を胸の辺りに留め、そんな少年に少し不思議そうに首を傾げてから、興味を失ったのか再び少年の腕に手を乗せた。  それが何となく気まずい。少女は相変わらず謎だらけで、その突拍子も無い無邪気さと言動に戸惑いは増すばかりだった。  そして、一連の惑乱は積み重なり益々訳が解らなくなるばかりで全く解決の糸口さえ見えそうも無い。  第一、少女に懐かれているのか、それともからかわれているのだけなのか。まるで妖精か何かに鼻薬を嗅がされているようでさえある。  しかし。ぶすったれた少年も悪い気はしていない。けれどもどう付き合えば良いのか解らない。  加えて恐ろしい同行者二名を前にして心は完全に萎え、相変わらずヒエラルキーの最下層。カーストで言えば不可触民だ。  詰る所、全く進歩が無いのであった。  ぱっ、と少女が彼の腕から手を離す。ウォルが顔を向けると、ロバの方へと駆けていくのが見えた。  他方、そんなに食って掛かるのが面白いのか、勢いでフードが脱げて狐の耳が覗き、麦色の髪が靡くにまかされているのにも気づかず、 クオが黒服に対して何やらぎゃあぎゃあとやっているのを眺めつつ、少年はそそくさと荷物整理の続きを始める。  彼女らが着込んでいるのは耳隠しであり、日差しに雨風から身を守る為のフード付きマントだった。  あの蒼銀絹の長衣は仕舞われて、ツクヤは結局何時か何処かでみたような古い旅装に身を固めていたりもする。  手回しの良いことに、それらは黒服が用立てたらしい。無論、古着である。  人間以外であると言うだけで火あぶりや奴隷扱いが当たり前の国でもあるまいに、少々無駄な出費のようにも少年は思うが、 或いは、それは少年が南方はカーメンの血が混じりでもしたかのように浅黒く日に焼けているせいかもしれない。  クオに到っては、腰の少し下辺りから伸びる尻尾まで布で覆い隠し、一端の人間種に化けおおせているという念の入れようである。  何処か、自分たちの姿を他人から隠したがっているようでさえある。  その癖、ああも油断塗れの有様を示しもするのだから片手落ちだ、などともウォルは思うのだが。 「所で……まだやってたの?この調子じゃそれだけやって日がくれそうね」 「いや、今終わった所。それにもう少しで着くンだ。そう急がなくてもいいだろ」 「そう……ここ最近は野宿ばっかりだったし……巫女様の為にもなるわね」 「ああ。そういや、お前さん達ゃ何してたんだ?」  ロボが何気なくそんな言葉を口にした瞬間、被りなおしたフードの中から覗いていた緑の瞳が木漏れ日を反射して僅かに輝いた。  一瞬顔を上げようとし、それからクオの頭が僅かに動くのが布の捩れから見て取れた。  腰に巻かれた前掛けならぬ腰掛けが尻尾に引っ張られて揺れ、女は顎の辺りに指を当てる。  その表情はウォルからは影になって窺い知れなかったが、相変わらず僅かに険のある声がロボの問いかけに答える。 「いいえ、別に何も。ただ、少し体調が優れなさらないように見えたから」 「そうかい。まぁ、ゆっくり休めばあの子の疲れも取れるだろ、俺も骨折りし続けだからな」 「気安く呼ぶな、と言ってるでしょ?それより、もう少しもう少しって言うけど何時になったら付くのよ」 「もうすぐ、っつたらもうすぐだ。どんなに遅くとも日暮れまでには宿を取れる」 「本当でしょうね」  その問いかけに黒服は首肯し、ああ、と答えた。  時刻は丁度、昼前に差し掛かるか差し掛からないかと言う所。  周囲は眺めるに食傷し始めた森と原野。牧童が羊やヤギを追い回していたり、農夫が畑を切り開いていたり、その程度だ。  時折間抜けな嘶きを響かせながら草を食んでいるロバの頭を撫で始めたツクヤだけが相変わらずだった。  誰にかける言葉も無く、何となく少女に撫でられつつ構わずのんびりとしている動物のつぶらな瞳をウォルは見た。    するとどうだろうか。その鈍い瞳の中に同情しているような光を見出したような気がした。  ひょっとしたら、今の今までこの動物は、虐待される少年を観察して哀れんでいたのかもしれない。   動物に哀れみを受けると言う絶望的な妄想を振り払いつつ、一度声を立て、覚悟を決めると再び酷く重い荷物を背負う。  肩に圧し掛かってくる重圧は騎士か何かの従者を連想させたが、無論、そんな上等な立場であるはずも無い。  しかし、そんな彼に構いもしない。話を切り上げた黒服はロバの手綱を引いて道の先へと進み始めた。  慌てて追いかけると、ロバを追いかけるツクヤをクオが引き留め、その隣に続く。  少女が僅かに少年に振り向き、一番後ろにいる牛馬宜しく荷物の山を背負った彼に視線を向けていた。  最も、当のウォルにはそんな事を気にかけている余裕などなかったのだが。  やがて、森に片側を覆われていた視界が大きく開ける。  かと思うと、幾つもの丘に囲まれるようにして在る遠い影が一つ、少年の目に飛び込んできた。  それは街だった。丁度、彼らが立っているのは高台に当たるのだろう。或いは、単にこの辺り一帯が盆地になっているのかもしれない。  何れにせよ、山道の途中で現れたゆるい崖の上からの視界から見れば、まるで鳥にでもなったようにその街が見て取れた。  くすんだ灰色をした古い石の塔──魔物や外敵を見張る為の──を飲み込んで、家々を取り囲むように低い外壁は伸び、 一方で豆粒のような人影をぽつりぽつりと集めている場所には市外の入る者を閲する門とも関ともつかぬものがあるのだろう。  最も石壁の外側にも耕された土地とともに小屋や人がぽつりぽつりと見え、その防備は最早時代遅れになりかけている事が知れた。  丘陵に這う青々とした麦穂は風に揺られて刻々と色を変え、誰かが菫が生い茂る畑に鋤を入れ始めている。  それが細々と目を移すたびに入り組み、時には緑の野原を挟みながら彼方まで広がる様はまるでキルトのようだ。  街の向こうには大きく緩やかな河が見え、陽光の煌きを返して只中を行く河舟を霞ませる。  名も知らぬその街は大きな野原を切り開いて広がり、旅人を迎え入れようとしているかのようだった。  先導であるロボの足は、曲がりくねりながら街へと続くらしい道の上を淀みなく歩んでいる。  が、自然その道行きはしばしば途切れざるをえなかった。  無論、少年がその原因であった事は最早言う言うまでも無いだろう。    ロバの間の抜けた嘶きが響く。数度の木霊を残しながら、それは空へと溶けていった。  /  ウォルが面食らった事は、街の明るさだった。  まるで雨雲が垂れ込めでもしたかの如き印象しかない皇都とは、街並みそのものがまるで違うようにさえ見える。  きょろきょろと落ち着き無く左右に動かし、少年はもの珍しげに真昼の日常を眺める。  馬車で磨耗した石の道は真っ直ぐに伸び、左右には漆喰壁や石造りの二階建てが並び、 その軒先で果物だの、魚だのパンだの、更には安物らしき装飾品を商っているらしかった。  時折、雑多な人間──冒険者に行商、ハーフリングの職人、そして船乗りらしい蜥蜴人や、猫人の水兵さえもいる──がそれを眺め、 手にとっては店の主人と値切りの問答を繰り広げている。二人組みの冒険者が何やら噂話をしながら彼らの隣を過ぎていく。  かと思えば、態々南方から足を伸ばしてきたのか、蒼海教団の半魚人司祭──海の化身を奉じ、ウォルにも馴染み深い──が 揚げた川魚を挟んだパンに齧りつき、人を待っているのか瞼の無い瞳をぎょろつかせている。  相変らずどうも薄気味悪い外見の彼に、しかし故郷を思い出してウォルが軽く会釈すると、 返事の代わりか、鷹揚な態度で蒼海教団の聖印を切って応えるのが見えた。  と、恰幅の良いオークが魚人の元に駆け寄ったかと思うと、跪いて俺の船を祝福してくれだのと口走り始める。  それも仕事の一つか、頷いてから魚人特有の足を引きずる様な足取りでオークの後ろに付いて何処かへ歩いていく。  彼らを一瞬軽蔑するような表情で見やるエルフ狩人の姿があり、ハーフエルフの客引きがそんな彼に声を掛けて罵声を浴びる。  一方の背後では、融通の利かない街門の番どもめが飽きもせず、街に入る人々を引きとめ黒山の人だかりを作っている事だろう。  よくよく細部を観察すれば、彼らから皇都との様式の違いでも見分けられるのやもしれないが、 無論ながら、少年の如きにそのような真似が出来る筈も無く、傍目には町並みの変化など無いようにさえ思えた。  しかし、彼がかつて感じていたような息苦しさがまるで無いのは一体全体どうした事だろうか。  街路は太陽に照らされ、しかし荷車馬車に人間でごったがえす事も無く、至って静かなものだ。  あるいは、人間やその他の種族の数が皇都よりも少ないせいなのかもしれない。  成る程、人や動物で渋滞を起こさぬ日など一日として無かった事を少年は思い出し、真実に違いあるまいと一人合点する。 「ぼうっ、としてるな。置いてくぞ」 「すみません……」  だが、そんな思考は一瞬にして前からかかったその声にかき消され、肩の荷がずしりと圧し掛かる。  ウォルが顔を上げると、黒服が少年の方を振り返っているのが見えた。  どうやら、また知らない間に距離をあけられてしまっていたらしい。  そのままのろのろしていると置いていくぞと言わんばかりの黒服に反射的に平謝りを返しつつ、ウォルは四肢に活を入れる。  一瞬、惨めさだの、既視感だのを覚えるがどの道、慣れた事じゃないかと少年は自らに言い聞かせ──  ぎゅ、と誰かが少年の手を引いた。  小さな方のローブの人影。今にもぶんぶんと尻尾を振り乱し始めそうな様子──少女は尻尾を持っていないが──で、 ツクヤが少年の手を握っていたのだった。思わずつんのめりながら、何とか踏みとどまる。 「ちょ、ちょっ!危な!危ないって!荷物が!荷物が重い!」 「あ……ご、ごめんっ」  そう文句を言った途端、手を離されたのだから堪らない。  今度こそウォルはバランスを失い、うわぁっ、と悲鳴を上げて地面に倒れこんだ  どうしてよいか解らずわたわた慌てるばかりの少女を他所に、まるで潰れた虫のようにもがく。  それもこれも、少年の背負った酷く重い背負い袋のせいであった。  食料、水、酒、寝具、等々。着たきり雀の旅となれば仕方が無いのではあるが、それとこれとは別である。  周囲の失笑めいたざわめきは間違いなく少年が原因であろう  腕をつき、何とか上体を引き上げた彼の目に、屈み込んで彼を覗き込んでいる少女の姿が映った。 「……ええと」  どのような反応を返すべきか。  一瞬そんな事を考えるが、すっく立ち上がって埃を払い居住まいを正す。  彼とて、矜持ぐらいあるのだ。だが、それはあっと言う間に胡散霧消してしまう。  付け加えるならば、凶悪な魔物に出くわしたでもあるまいに、彼の顔は何故だか色を失っている。  黒服と女とを待たせているだろう事に思い至ったせいだ。 「はやくはやくっ……わっ!?」 「くおおおおーーーーーっ!負けるかド畜生ーーーーーッ!」  立ち上がるなり猛然と奇声を上げて駆け出す少年にツクヤが驚きの声を上げたが悲しいかな、彼の行動は半ば条件反射であった。  よたよたと死に掛けた犬みたいに走り、漸く追いつくなりぜぇぜぇと肩で息をする。  思わずそのまま倒れ付してしまいそうになりつつも、何とか息を整える少年に「体力ねぇなぁ。若者がそんなこっちゃいかん」 などと黒服がのたまった。ならお前も荷物持てとは心底から思いつつも、そんな事は口が裂けても言えない。  ロボから視線を逸らすと、のろまな家畜が少年に何とも慈愛に満ちたつぶらな瞳を向けていた。  同病相哀れむ、である。思わず愛おしさを催し、ロバの頭に少年は手を伸ばして── 「ウォルっ、待ってよぅ」  しかし、その僅かな逢瀬を邪魔するかのように駆け寄った少女が一人と一匹の間に押し入った。  丁度、チークを踊るようなものだ。少女による二度目の衝撃である。  具体的に描写するならば、丁度、ロバと戯れかけたウォルに横手から体当たりを食らわせた格好である。 「どわぁっ!?」 「きゅっ!?」  回る回る。丁度、ツクヤを支点として、彼女の襟元を握りこんでウォルは振り子宜しくぐるりと回る。  重心を荷物を奪われて、碌に体勢を戻す事も少年には適わない。  その一方で、ぐるぐると回るのが愉快になったらしい少女は面白そうに笑ったかと思うと──挙句、少年の手をとって、 文字通りに振り回すようにして旋回の度を更に増したのだから堪らない。  勢いを増して周囲の風景が引き伸ばされ、序に背負い袋の肩紐が遠心力をうけてぎゅうぎゅうと食い込んでくる。  脳みそも見事に攪拌され、その内自分はバターにでもなってしまうのではないかとウォルが心配し始めた頃、ぽつり、黒服が口を開く。 「あれだ。虎の油ってのはバターになるんだってな」  それよりも早く助けてくれ、とは思うが言葉の代わりにこみ上げるのは嘔吐感であって、口からは呻きが漏れるばかりだ。  と、言うか何だこの怪力は。そもそも彼女は自分の手を引いてあれだけ走れるのだからこれぐらいはいやそれ以前に吐く。  本当にゲロしてしまう。もう勘弁してお願い──限界まで伸び切った紐が千切れるようにゆっくりと意識が霧散していく。 「お止め下さい。そのままでは服が汚れてしまいます」 「きゅう?」 「ええ、その死にかけた子供を放って置いてはそうなるかと」 「あ……」  そんな冷静な言葉で、初めてツクヤは眼前で精根尽き果てている少年に気づいたらしい。  が、悪いことは重なるもので、少女が急停止したものだからその結果は明白だ。    番えられた矢は放たれるより他に無いと言う。   つまり、回転の勢いはそのまま受け渡され、ウォルは文字通りに宙に舞っていた。  放物線を綺麗に描き上昇する少年の目には眩しい太陽と空。そして、大道芸と勘違いでもしたのかそこらから聞こえる拍手の音。  残念な事には、これは事故である。一瞬、彼を待ち侘びる地面が視界の隅に映り、続いて少年は何故だか遠い故郷の幻影を見た。  余り良い思いでの無い土地ではあったが、それでもこうやって思い出せる程度には思い入れがあったらしい、といやに冷静な感想。  それが走馬灯なのだと気づく暇も無い。荷物を撒き散らしつつ投げ上げられた少年は、大地に抱かれるべく落下を始めたのだった。  敢えて多くは語るまい。ただ、少年が目を覚ましたのはロバの背の上だった事だけを述べるに留める。  /  ガラゴロと音を立て、どこぞの商会──ギルドに対しての、商人同士の横の繋がりである──の所有らしいハヤテ、 即ち、人間に飼いならされた四足龍の一種に引かせた荷車が石畳を蹴立てて通り過ぎていく。  運んでいるのは大量の樽だった。ビールかそれともラムの類か。  何にせよ港町ではとかく酒が入り用になる。と、言うのも水と言うのは船旅においてはすぐに腐ってしまうからだ。  河船ならばそれも気にかけることも無いのであるが、海を行く商船ともなればそうはいかない。  そして水が貴重であるのは陸であっても同じ事。皇都などは何処もまともな給水を求めて四苦八苦していると言う有様だ。  何れにせよ、何処でも確実に利益が見込めるのが酒であった。最も、それ故に高い税率がかけられていたりもするのだが。  ウォルは、なめし革の様に伸びたままそれを見送っていた。  酷い目に会った。ぐったりとしながら少年は思う。よくもあれで怪我の一つもしなかったものだ。  一つ荷物が増えてしまった事を申し訳なく感じないでもないが、今だけはロバの背を借りていたい気分だった。  ウォルの荷物は、黒服が背負っている。少年をぼろきれみたいにしたツクヤは、と言うと、しゅんとしてとぼとぼ歩いている。  恐らくは貧乏冒険者などより余程いい待遇を受けているだろう龍を見送りっていると、ふとぼやくようにクオが口を開いた。 「ねぇ、まだ?」 「宿は逃げたりしねぇよ」 「でも満室になる事はあるじゃない」 「やれやれ……山出しの世間知らずはこれだから……ちったぁこっちの事情にも慣れたと思ったが」 「煩い。第一、何時もそんな事言うくせに外してばっかりじゃない」  黒服の皮肉に返すクオの言葉は一々ご尤もであったが、仕方の無い事ではある。  もし、何処かのギルドに加入している遍歴職人や暇な貴族の次男坊か何かなら宿のアテの一つぐらい、 ある程度以上の町や村なら簡単に付くのだろうが、後ろ盾も無く、信用も疑わしいような人間はそうはいかない。  例えば、旅歩きの冒険者がそうだ。泊めたはいいが、朝になってみれば宿の中が根こそぎとなるかもしれないのだから無理も無い。  都市に定住する何でも屋まがいや、傭兵団だの何だのに所属している連中が多いのもむべなるかな、である。  皇都程の規模になれば難しかろうが、成る程、街に入る時点で武器の類はすっかり取り上げると言う用心は正しいと言えた。  大人しくしていなければ白い目で見られるどころか、追い出されかねまい。  しかし、それを差し引いてももかれこれ数日振りのまともな食事と寝床である。  寝床がぬかるんでいたり、朝露にくしゃみをするだの、夜風に目を覚ます心配さえもしなくてもいい。  事実、夜半に雨に降り込められもしたのだし、喜ばしい事には違いなかった。自然、少年の顔には笑みが浮かぶ。   「ウォルっ、笑ってるっ」 「あああ……もう、巫女様、勝手に動き回らないで下さいな。それの事ならきっと気でも狂っただけですよ。  ほら、確か、ロバに乗って風車に投げ飛ばされた狂人の話もありましたし」  全く持って配慮と言う概念が根底から欠如しているクオの言葉に機嫌を損ねたらしく、ぷい、とツクヤがそっぽを向いた。  ロバの背でずた袋同然に揺られつつも、何気まずくなってウォルは大荷物を背負って尚、まるで淀みなく歩いている黒服に声をかける。 「そういえば……」 「やれやれ……生半可な知識で墓穴を掘る、とはこの事だな、っと、何だ?」 「ああ、いえ。今日はここで泊まるのは解るんですが──」 「船だよ」  と、少年の言葉を遮るように黒服が言った。  鸚鵡返しに「船?」と聞き返すウォルに振り向きもせずに男は言葉を続ける。 「船か艀で河を下って、そっから交易船に乗り換える。ここは、丁度中継地だからな。  あっちが海で向こうが都──川の流れが緩ぃし、しょっちゅう海の水が遡って来るから上るのに帆も馬もいらん。  他所からの荷を動かすにゃ丁度おあつらえ向きの場所、ってとこさね。無論、人間もそうだな」  ああ、成る程。その言葉で漸くウォルの抱えていた疑問の一つが氷解する。  やけに旅に要する時間が短い理由は船足を使う為らしい。きっと、それならば徒歩よりも余程遠くに行ける事だろう。  薄ぼんやりと考えるが、彼も余り多くを知っている訳では無いし、ムース同然の脳みそも冷えて固まるまでまだ時間がかかるだろう。  例えば話に聞く海賊だのを遠くパティシナ砂海に潜むと言う偉大な者と比較しては、そんな人間が海にもいるのかも知れないなどと、 想像力に翼を与えては愚にもつかない与太話をあれこれと考えるばかりであった。 「船って……またアレに乗るの?」  と、ツクヤを宥める事を諦めたらしいクオが口を開いた。何やらその声は完全に苦りきっている。  また、という事は彼らはきっと皇都に訪れる時も海路を使ったに違いなかった。  しかし、何故これほど憎憎しげな、呻きにも近い言葉が漏れるのか。 「成る程。お前さんの気持ちはよく解る。が、諦めろ。それ以外の方法が無いからな」 「何かあったんですか?」 「ああ。ちょっとした事件が──と」 「……」  言いかけてクオの逆鱗に触れかけた事に気づいたのだろう。ロボが言葉を切る。  ウォルはある事に気づいて彼に問いを投げた。無論、火中の栗から話題を逸らす為でもあるが。 「でも、船って言ってもどうするんです?まさか買う訳じゃないですよね」  この男が船など持っている筈も無いだろう。海のそれともなれば尚更だ。  それなりに裕福な貿易商でさえ、建造には同業者に声をかけ、資本を募るのが普通であるし、 使い古しであったとしてもとても個人の財産で賄えるような額ではない。  ぽん、とそんなものを何の脈絡も無く用意できるような人間は余程の大金持ちかその国の王族ぐらいであろう。 「馬鹿言え。そんな金ある訳ねぇだろ。荷を運ぶ船に便乗するんだよ」 「船に、ですか?でも、船頭でもあるまいし……」 「駅馬車と違って定期でやってねぇからな。都合をつけるにゃ足の勝負だ。お前さんにも一働きしてもらうからそのつもりでな」 「はぁ……」  そして、彼らが宿に着いたのは、その会話が途切れてから凡そ半時間程後の事であった。  商館を探す、と言って荷を背負いロバを引いて出て行った黒服が戻って来るまでの時間を加えると、正午を少し過ぎた頃になる。  戻ってきた黒服は手ぶらで、クオなどは思わずそれに顔色を変えた理由を問うた。  が、そんな彼女の様子はウォルさえ呆れさせ、口ぶりの割には世間知らずなのか、と言う印象を与えるには十分であった。  少年とてその仕組み内容までは知らずとも、存在ぐらいは知っている。いわば、冒険者にとっての常識のようなものだ。  背負ってきた荷を預けに行ったのだ。宿に置いていた荷を盗まれでもしたら堪ったものではない。  冒険者にとってのお得意さまの一つであるところの商人連の相互組合──所謂商会は、 お互いに所属商人の便宜を図るのもその仕事の内であり、その一つが荷の保管である。  その機能のおこぼれに預かる、と言う訳だ。行商のみならず、陸路で荷を運ぶ商人には殆ど冒険者と変わらぬ様な者も多い。  と、言うよりも彼らは半分冒険者のようなものであり、方々で手段を選らばず手に入れた品を商っていると述べた方が正確だろう。  街に住む商人などとは全く違う立場ではあるが、その齎す文物は街の住人や、時には国家にとっても重要である。  更には、冒険者まがいの不良商人どもに首輪をつける意味もあって、 商う品の値を定めるだのと言った正規の加入者とは違う立ち位置ながら、ギルドによって管理されている。  言わば冒険商人と言った所である。一方で冒険者は彼らと行動を共にすることも多く、 時には大商人や国家主導のキャラバンを伴って、未踏地域を探索や、人類圏外の探検さえする事がある。  つまりは、そういった人間の為に街住み商人に課された慣行上の義務である。  尚、余談ではあるが、街に入る時点で預けた武具の管理も彼らが行う事になっている。  最も、これは皇国、及び、その勢力下にある国での話であって、王国連合などではまた別の仕組みがある云々。  おおよそそのような大意のロボの説明に、狐耳の女は 「便利な仕組みね。武器を持ってうろつく連中が溢れてるのに放ってる時点で、単に失敗の取り繕いとしか思えないけど」と述べた。  ウォルはそんなやりとりを耳にしつつも、ベットに身を横たえ、死んだようにぴくりとも動かなくなっていた。  眠っている訳では無いのだが、疲れに腫れ上がった手足を休めておく事以外何らの考えも浮かばない。  頭の中はほぼ完全にまっさらな一方で全身くまなく筋肉痛に襲われている、と言う表現さえも大げさではない。  それにしっかりと乾き、ふかふかの綿まで入っている布団に包まれるなど、実に数年ぶりなのだからこの有様も無理も無い話であった。 「休んでる暇はねぇぞ、ピットベッカー。飯食ったらすぐに出かける。準備しとけ」 「……ふぁい」  何でこの男はこうも元気なのだろうか。黒服の無尽蔵とも思える体力に聊か辟易しつつ、片手を挙げ、答える。  起き上がる、ただそれだけの行為に少年が随分と骨を折ったのは言うまでも無いだろう。  /  どこの馬の骨とも知れない若造が、しかも子供連れで飛び込んでみた所で相手にするものは誰一人としていない。  そんな当たり前の真実をいまさらながら思い知らされて、少年は思わず、ひざを抱えて座り込んでしまいたくなる気分に襲われていた。  世間の風は相変わらず冷たく、少年は波間で漂う小船同然の存在に過ぎない。  一軒、二軒とすげなく袖にされ、三軒、四軒と何とか食い下がったものの、迷惑がられこそすれ話を聞いてもらえる風もなかった。  もしも彼が一人であったのなら、いい加減こんな無駄な行為は止めにして、そこらをぶらつきでもし始める所ではあるが──   「ウォルっ、元気出して。次はきっと大丈夫だよっ」  などと、特に根拠のある訳でもないツクヤの励ましがあっては、ああ、うんと覇気の無い返事を吐かざるをえなかった。  これではどうにも逃げられない。ロボとクオは、と言えば二人を置いてめいめい勝手に探しに行ってしまっている。  クオは少女に対して幾らか名残惜しそうな所作をしてみせていたのだが、 ひょっとすると連中に体のいいお守りでも押し付けられたのではあるまいかと勘繰ってしまう。  見れば、ツクヤは少年が先程までやっていた事が一体何かさえ理解できていないように思える。  一言で言えば、完全に足手まといであった。最も、役に立たないと言う意であれば彼とて変わりはない。  馬鹿の考え休むに似たり。駄目な奴の行動は何もかも徒労に終わる、と言う寸法である。  これでは少年のため息が益々深くなるのも無理なからぬ事であった。  はぁ……と、更にもう一度息を吐いて膝を支えに頬杖を付いた。   「うー……」  一方のツクヤは、と言えば己の無力をかみ締めてでもいるのか、ぐずつくような声を出し出し、ウォルを見上げている。  慰めてみた所でどうにもならない事を漸く悟ったのであろうか。  或いは、単に少年がずっと塩を振られたジェラードグミみたいになっているのが気に掛かるだけか。  何れにせよ、始めから彼女の真意を確かめる気力さえないのであるからしようがない。  緊張感は完全に弛緩し、士気は限りなく皆無に近い。単に疲れていると言うだけではない。  昼食を文字通りの餓鬼宜しく貪り食ったお陰で、彼に取り付いた睡魔の勢力が以前に増して襲撃を繰り返しているのだった。  少しでも気を抜けば、座ったまま眠り込んでしまいそうだ。  が、無為徒食の輩などと烙印を押されでもすれば、唯でさえ悪い彼の立場が更に危うくなろう事ぐらいは自覚している。  どんよりとした目で通りを眺めながら、脱線しがちの思考を何とか一本の線にすべく奮闘する。 「どーしようかぁ」  やることなすこと普段の日常と余り変わりは無い、という事はつまり、少年の身の丈とはその程度でしか無いという事だ。  いきなり異郷に放り込まれ、慣れぬ仕事をしてみた所でただ戸惑うばかりとなるのは自明の理であった。  そんな中、フードの少女がうんうん唸り始め、最初ウォルは腹でも壊したのかなどと思ったのだけれど、 よくよく眺めてみれば、その様子は何か彼女が頭を捻って考え事をしているように見えない事もなかった。  が、その思考能力が全く頼りにならないであろう事は彼女が口を開くまでも無く解りきっていた。  それは、このまま漫然と二人してどこぞの借家と思われる集合住宅の、入り階段に腰掛けていたってどうにもならぬ事ぐらい確かだ。 「行こう。このままこうしてたって仕方ないや」  それから。  更に一軒二軒。ええいままよ、と比較的大きな商館に何度も飛び込み、その都度見事に門前払いを食らうに到って、 足元見やがって銭ゲバどもめ、借金で首が回らなくなってしまえ、などと荒んだ心持ちでウォルが呪詛の言葉をに吐き始めた頃、 漸く妥協の二文字を思いつき、これは名案とばかりに早速、とかく商いを掲げた店と言う店、家という家を訪ね歩き始めた。  けれども宿無しヤクザは失せろとの暴言を幾たびか、彼同様の貧乏冒険者をけしかけられなどしている内に、 少年同様にすっかり元気をなくした少女がとぼとぼ後ろを付いてくるばかりと相成る。  そこら中を歩き回り、幾度と無く戸を叩く。思考回路は完全に麻痺し、半ば同じ言葉を吐き続ける人形にでもなったようだ。  そして、太陽もすっかり傾き始めた頃、漸く少年は親切な言葉を聞いたのだった。 「ああ……ベアットなら船の一隻に乗るぐらいはなんとかなるかもしれないねぇ。ここを下って、海までのしか無いだろうけど」 「本当ですかっ!?」 「ああ、本当さね。あそこは海からの荷を皇都まで運んでる所だからね。尋ねてみるといいよ。  力を貸してくれるかは解らないけれどね。親切な人だから、事情を聞くぐらいはしてくれる」  もぞもぞとした、特徴的な声が少年に告げた。  ウォルは安楽椅子に腰掛け、店の軒先でのんびりと夕日に当たっていたリザードマンの氏族──ヒューダイン族の老婆に礼を述べる。  が、彼女はそんな彼には構わず、傍らに居たツクヤを見ると、丸々と太った指先で小さなパイプを口元に運びつつ口を開いた。  どうにも、もう今日は店じまいでもしているらしかった。或いは中々訪れない客に暇を持て余しているのかもしれない。 「坊や。冒険者かい?」 「あ、ええ……まぁ、そうですね」 「そうかい。どんな理由かは知らないけど、そんなやくざな稼業からは早く足を洗いなさいな」 「はぁ……」 「そっちのがお嬢ちゃんの為だよ。それにアンタ、どう見たって冒険者なんかにゃ向いてないさね。  それに駆け出しの内が一番後戻りがしやすいもんさ。ねぇ、ええと──名前は何だい?」  急に問いかけられて、少女はぱちくりと数度、瞬きをしてから「ツクヤだよっ」と答えた。  老婆は頷いて、それから言葉を続ける。小さな丸眼鏡の向こうで薄い皮膜が何度かその眼球を覆った。 「いい名だね。インペランサ様の話を思い出すよ」  それは、皇国南部から、その又南にかけて伝わる、海に纏わる有名な昔話だ。  曰く、月の出る晩には船を出すな。蒼い龍にひっくり返される。蒼い龍は海の神。それを妨げてはならない。  そんな他愛もない昔話を歌うように口ずさむ。それからぷかぁ、と紫煙が立ち昇った。 「娘っ子に好かれてるなら、それなりに実入りのある仕事をしなくっちゃ駄目さね。一番駄目なのは、悲しませる事」  薄々予期していた事だが、彼女はどうやら勘違いをしているらしかった。  苦笑いを浮かべそうになるのを我慢しつつ、放って置けば暗くなるまで話を続けそうな老婆に今度こそ少年は謝辞を述べ、立ち去った。  そして再び、道の上を歩く。しかし、その足取りは軽い。   「ウォルっ、良かったねっ」 「ああ。歩き回った甲斐がある、ってもんだよ。捨てる神あれば拾う神あり、だ」 「きゅう?」 「ああ、ええと……」  小首を傾げ、言葉の意味を図りかねているらしい少女に少年もまた考え込んでしまった。  何の気無しに使った言葉とはいえ、改めて説明するとなれば中々難しい。  あれこれと言葉を組み合わせようと試みて、しかしぴったりとした物言いが思い浮かばない。  四苦八苦する彼をツクヤは暫く眺めていたけれども、やがてウォルは笑って誤魔化し前を向いた。  三々五々と言った調子で、家路を急ぐ人々が目に映る。  それを眺めて、ふと少年は不思議な気分になっていた。まどろむ様な黄昏の中で、人々の顔がはっきりと見える。  今まで一度も味わったことの無いような風景だった。  その理由ははっきりとは解らなかったが、よくよく考えてみれば、その原因の一端はこの旅空のせいに違いなかった。  ほんの数日とは言え、思えば遠くまで来たものだ。或いは、それは黒い龍の見せる幻なのかもしれない。  だが、こんな気持ちであるのならば、名高きかの悪龍の仕業だとしても悪くは無い。 「ねぇ、ツクヤ。黄昏のレギナブラーフって知ってる?」  全くの気まぐれから出た言葉だった。けれども、予期していなかった事に少女はすぐに彼に言葉を返してくる。 「うん、知ってるっ」 「へぇー……じゃ、どんなのか言える?」 「えーっと……おっきくて、三つの首があって、えと、真っ黒なの」 「うん。それで、とっても悪い奴。暁のトランギドール様の第一の敵だよ」  その言葉に、どうした事だろうか、少女が言葉を詰まらせた。  何かに気を取られでもしているのかとも思ったが、そういう訳でも無いらしい。彼らの進んでいる街路にはめぼしいものも無い。  はて、何か不味い事でも言ってしまったか。しかし、まさかこの少女が彼以上に聖典の文句に通じている筈も無い。  理由が解らずあれこれ思案をしていると、やや不機嫌そうなツクヤの声が耳に入る。 「悪口は駄目だよぅ」 「いや、悪口も何も……一番有名な悪魔じゃないか」 「悪口は駄目っ!だって、黄昏は夜の始まりだもん!」  いきなりの剣幕に思わずたじろぎ、一瞬、もしかして悪魔崇拝者か何かなのか、などと言う想像が脳裏をよぎる。  だが、ローブの下から睨み上げている少女がそんな高尚な思考が出来るとも思えなかった。  釈然としないものを感じながら謝ると、ツクヤはそれきり俯いてしまう。  夜の始まり、ねぇ。そうウォルは思う。何でそんな事で怒るのかがさっぱり解らない。  無理に問い正すような事も出来ずまぁ、飴か何かで機嫌を直すだろう、などと考え気を取り直す。  ツクヤはツクヤであって、狐の耳を生やした少し螺子の緩い少女だ。それ以上でも以下でもあるまい。  疲労の余り朦朧とする頭でそう結論付け、少年は歩を進めたのであった。  今目指すべきは、タップ=ベアットと言う男の営む水運屋だ。それ以外には何一つあろう筈も無い。  next