月華草 08   まち(後編)  ウォル=ピットベッカーは知らず、顔を顰めながら天を仰いでいた。  無論、それは絶えず襲い掛かってくる睡魔に抗い、意識を保とうとしている為だ。  目頭を指で押さえ、頭を軽く振って向き直るとドンドン、と二度強く、目の前の木製の扉を叩いた。  やはり返事は無い。その沈黙は数刻ほども続いており、まるで口を閉じた牡蠣のようだ。  時刻は黄昏も過ぎている。見上げた空には蒼白く、少し欠けた月──三つ子月の一つ。蒼褪めた夜天の娘が昇っていた。  そこら中に夜のかけらがわだかまり、その一方で彼の眼前にある古い二階建ての建物は周囲を圧しているようだ。  が、幾ら月が天に昇り、刻々時間が過ぎようとも彼らの現状は何のこと無く相変わらずだ。  強いて変化を挙げるとするなら、溜りに溜った疲れが更に勢いを増しているぐらいである。  丸きり皇都にいた頃と変わらない己に少年とて不甲斐なさを覚えないでは無かった。  が、名誉の為に一言するならば、この事態に関して彼に何か落ち度があった訳ではない。  言い換えるならば、言われた通りに歩いて来た結果がこの有様なのであった。 「……」  それは道端の道標が書き換えられていたにも等しい。ウィルオウィスプ辺りに騙されでもしたか、或いは狐狸の類か。  兎も角、一日駆けずり回ってのこの結果である。疲れ果て、ぐったりとした頭には最早罵声さえ浮かばない。  あの老婆に騙されたのかしらん、と一瞬考えたが、少年はすぐにその考えを打ち消した。  そもそも謀るような理由が無く、仮に騙すつもりならばあのような態度は取るまい。  第一、先刻与えられた問題の精度云々よりも、解決の糸口を失った彼の仕事こそが問題であろう。  前述した通り、とっぷりと日も暮れ家路に多くの人々が家路に着いた頃である。  街住みの商人ならば自宅で帳簿を弄っていると思い込んでいた少年にとって、全くの予想外の事態であった。  幸運に恵まれ、もっと早くに聞きつけていたのならばあるいは想像ぐらいならできたのかもしれないが、 ひもねす繰り返された単調な作業のせいか、知らず思考を枠型に嵌め込んでしまっていたらしい。  努力は報われる、などと少年は信じてはいないが、その実、どうも期待を抱いていたようだった。 「こんばんわ!誰かいらっしゃいませんか!」  振って沸いた不運の味にうんざりした顔をしながらも幾たびも繰り返した紋切り型の台詞を吐くが、矢張り何の音もない。  ひょっとしたら場所を間違えたのかしらん、しかし記憶が確かであり、嘘や思い違いがなかったならば間違は無い筈だ。    だが、事実はそんなの淡い希望など全くもって無視しており、しかもそれは目下当分変わりそうも無い。  何とはなしにきょろきょろと辺りを見回すが通りすがりさえ影も形もない。  更には家中に明かりの気配一つないのが外から見ただけでも察せられた。まるで喪に服しているようだ。  苛立ちを紛らわすように頭を掻き毟り、八つ当たり気味に石段を蹴り付けると、顔に手をやりウォルは言葉を吐き出した。 「たく、参ったな。留守かなぁ……だったら出直さなきゃいけないけど面倒くさいなぁ」  そう言ってはみたものの、見れば解る事だが、どうにも何から何まで様子がおかしかった。  ベアットなる姓の商人の持ち家らしき屋敷はそれなりの大きさである。  先刻まで味わっていた経験と照合するに使用人の一人でも応対に出て良さそうなものである。  そうであるのに、これではまるで売りに出されたきり買い手のつかない空き家だ。  ひょっとすると少年は薄々嫌な予感でも抱きつつあったのかもしれないが、ここで早合点する訳にもいかない。  冒険者としての意地など微塵も無い事は重々承知。しかし、それでも尚彼にとってこの仕事はそれなりの意義がある。  形ばかりであろうとも結果が伴わなければ、あの連中に後々どう言った目に遭わされるか知れたものではないのだった。  ここには居ない二人の同行者が鬼の形相を浮かべて彼は睨みつけている様をありありと想像して思わず身震いする。  是非も無い。それに今は少しでもあの連中に頼っておく方が、着たきり雀で放擲されるより遥かにマシだ。  その為にも自らが適切に仕事にあたった、と言う既成事実が必要なのであった。結果云々は二の次である。 「さて、と……どうするか」  きっと何かの行き違いか、あの老婆の記憶違いか何か、或いはもしかすると何か事件でもあったのだろう。  空転しかけた思考をそう矯正し、欠伸をかみ殺しながらそんな事を少年は考える。  最も、そうだったとして彼にはどうしようも無い。土地勘のまるで無い街を夜中に歩き回って情報を得ようとするなど、 リザードマン氏族の老婆の言ではないが、満月の夜に小船で寮に出るが如し暴挙である。  どうしたって徒労になろう試みを実行するより、後々の保身の為にも今は様子を見るに限る。  そう判断して振り返ると、ツクヤが少し離れた場所で屈み込んで、その格好のままうつらうつらと船を漕いでいた。  何とも器用である。が、見る限りでは別に不自由も無いらしく、ゆらゆらと左右に揺れながらぐっすり眠りこけている。  時折、前髪やら何やらが覗いている。残念な事に鼻提灯を形成している様子はなかった。 「……」  どんよりと曇った目を伏せる。人の気も知らぬげなその様子に少年はうんざりしたようにため息を吐き出した。  丸一日歩き通しで溜め込んだ元気をすっかり使い果たしたのかもしれなかったが、彼とてそれは似たようなものだ。  いや、むしろ、連日の荒稽古と強力業に全身が軋んでいるのだがからより一層、と言うべきか。  うん、と体を思い切り伸ばすとあちらこちらからバキボキと嫌な音が聞こえた。 「畜生め、大人しく宿で待っててくれりゃ良かったのに」  二人して見知らぬ土地の路上で夜中に居眠りをする危険を侵す訳にはいかないが、 必死に睡魔を噛み殺している横でこの有様を晒されたのでは毒の一つや二つ口をついて出ても仕方が無い。  予想通り、と言うべきか。少年は子守を押し付けられてもいるらしい──最も、ツクヤはお守が必要な年にも見えないが、 あの調子で辺りを勝手気侭に徘徊されてはおちおち外を出歩けもしない、と言うのがロボとクオの本音なのだろう。  が、どちらにせよ少女が彼にとっても足手まといである事は変わり無い。  辻を曲がる毎にあれは何、これは何と矢継ぎ早に尋ねられたのでは仕事にならぬと言うものだ。  子守が欲しいならいっそ自分も宿に残してくれれば良かったものを、と内心で愚痴るがやんぬるかな  どちらにせよ、もう歩き回る事も無いのだから放って置いて構うまい。ウォルは再び大あくびする。  酷く重い瞼を擦ると回れ右を決め込んで宿に戻れと言う囁き。欲望が彼の耳元に蜜のように甘く聞こえてくる。  それをどうにか押しとどめ、押しとどめ、その場にくず折れかけたのを更に我慢するに至って、段々と腹が立って来る。  常識外れにも程がある少女の言動もそうであるし、こんな事を押し付けた連中に対してもだ。  嗚呼──思えば、どうして僕はこんな糞真面目に言われた通りにしてるんだか。  無為徒食の輩でもいいじゃないか。そもそも、これは連中の仕事だろう。  大体子守じゃないんだぞ。お前らが探しに来た奴ならそっちで面倒みろよ馬鹿──などと悶々と思うが勿論、口には出さない。  ぼんやりと眼を少女に向けたまま、少年は益体も無い事を考えながら何処か遠くを見やり── 「みゅ!」  かくん、とその頭が急に下がったかと思うと妙な悲鳴を上げて少女が飛び起きた。  ぐしぐしと口元を服の袖で拭っている事からすると、居眠りをしている間に涎でも垂らしていたらしい。  随分と慌てた様子で、彼の方を見てもいない。しゃがみ込んだままそんな事をするものだから、度々バランスを崩しかけていた。  少年からしてみてもそんな事は知ったことでは無い。精々が、また服を汚して後で叱られてもしらないぞ、などと思った程度だ。 「うー……」  寝ぼけ眼で意味不明な言語を発するツクヤから目を逸らし、ウォルはその辺りの木箱を見繕って腰を下ろした。  ややあって駆け寄ってきた少女は、けれども少し離れた所で立ち止まるとそれ以上近づこうともしない。  両手を絡み合わせ、その足は石畳を踏む。緑の目は右往左往、ちっとも真っ直ぐ捉えない。  奇っ怪な距離感はすぐに不審に転化し、怪訝な顔を浮かべた少年は垂れ込めた宵闇の中、表情の窺い知れない彼女を見て問うた。 「どうしたのさ?座りたいなら、箱持ってくればいいじゃんか」 「……いいよぅ。別にウォルの隣に座りたいんじゃないもん」  そうは言うものの、このまま立ち尽くされても困る。一体全体何が困るか、と尋ねられると明確な答えなど返せないのだが。  「でも、疲れるよ?それとも立ったままでも疲れないの?」 「いいもん!ウォルの馬鹿!」  どうした訳か、それきり少女は顔を背ける。ウォルは憮然として鼻で息を吐き出していた。  一体全体何事か。彼には全く理由が解らないけれども、少し前からというものずっとこんな調子である。  気分を害して膝に肘して頬杖を着く。そんなに座りたく無いのならそのままでいるがいいさ、と心中で毒づいた。  しばし二人して同じにそっぽを向き、しかし、段々とバツが悪くなってくる。  何を言うでもなかった。少年がもう一つ箱を探してきた時もまだ立ったままのツクヤは、促されて漸く腰を下ろす。 「……」  話す事も無いのか、それとも矢張り疲れているのか。ただ足をぶらぶらとさせるツ少女はそれでも何処かしら不機嫌に見えた。  が、その反面、何を事を考えているのか全く窺い知れない。分厚いフードに閉ざされ、ぼんやりとした輪郭だけが幽かだ。  つい一日前まで、ウォルからしてみればつまらない事にさえあれ程はしゃぎ回っていたと言うのに、今は言葉一つ口にしない。  その事実が、酷く少年を落ち着かなくさせていた。それに、こうなってしまった原因がさっぱりわからない。  ツクヤは馬鹿だから訳のわからない事で怒っているのかもしれない、そう考えて考えを押し込もうとする。  いかにもそれらしい理由であった。しかし、自分自身を納得させようとした合理化の根拠が何処か引っかかる。  確かに、訳が解らないかもしれない。だが、訳の解らない事が、取るに足らないとは限らない。  ──ひょっとしたら、さっきの大悪魔云々が原因か?  降って沸いた突拍子も無い推察に、瞬時にがぶりを振った。  ありえない話だ。ツクヤに当て嵌めて思考するよりも先に少年は自らを訝った。  一体全体何処をどう見ればそんな結論が出てくるのか。百歩譲って的を得ていたとて、少女はむしろ哀れな生贄の側だろう。  それにそんな連中は薄気味悪い穴倉の中にいると相場が決まっている。  ドナドナと荷馬車に乗せて食肉屠殺場もどきにそいつらは女子供を引っ立てて──  恐らく、彼女の不機嫌な調子が気に食わなかっただけだろう、とウォルは自らの思考に蓋を被せた。  どうも己はまたぞろ馬鹿な空想に取り付かれたに違いない──彼はそう一人ごちて俯く。  酷く静かだった。遠く誰かの声や街のざわめきが届いてはいるのだろう。  だが、それはただ右から左へ通りぬけるばかりで音としては認識されていないらしい。  何気ない身じろぎさえどこか不自然だ。意識と思考とがゆっくりと深みへ沈み込んでいく。  少年の疲れた頭は余り多くを考える事が出来なかったけれど、それでも酷くもの狂おしい。  口は言葉を吐きたがっていたが、縫い付けられてでもいるかのようにぴくりとも動かない。  どんな言葉を喋りたいのか、一体何を伝えたいのか、どう思っているのか。  ──否、そもそもそうするべきであるかどうかさえ解らない。  ちら、と傍らを見る。ツクヤは彼の方を向いてはいない。  このままじっとしていれば、きっと何時もそうだったようにやり過せるだろう。  別になんて事も無い筈だ。むしろそれが望ましいに違いあるまい。  けれども、どうして己は妙な負い目のような、不満のようなものを胸中に溜め込んでいるのか、とウォルは黙考する。  何か買ってやればきっと機嫌など如何とでも──そう打算して持ち合わせなどまるでない事に思い至る。  それに一体全体少女が何を買い与えれば喜ぶなどと言う事は彼は知らない。  それらしい素振りは示すのかもしれないが果たして、少年は自分の贈り物に本当に嬉しそうにする少女を思い浮かべられなかった。  一方で頭が酷くぐらぐらするのを少年は感じていた。火花の様な細かい光が視界の中で微かに踊る。  スペクトルを描く。一つの光が万色に分解され、万華鏡めいた妄想が頭蓋へと満ちる。  瞳を通り、入り込んで来る世界は隅から隅に至るまで一切合財が意味であり現象だった。  そこには何らの秩序も見出せず混沌としているか、ただそれだけと言う代物であって、敢えて矮小な少年の思考に力を貸すものも無い。  ただ、一つだけ確かな事があるとすれば、その思考は唯一つ、ツクヤと言う中心を取って回転しているという事だけだった。  そうして拡大し続ける物思いを続けるが、どうにも取り留めなく建設的とはいえなかった。  気がつけば周囲はもう真っ暗で、思わず誰かいないのかと眼を見張った己に彼は自らの疲労を実感する。  感覚は泥のように鈍磨し、まるでカーテン一枚隔てた向こうから透かしているようだ。  瞳は開いたままであると言うのに、意識が水泡のように萎んで消失していく。 「誰よ、人の家の前に勝手に上がりこんで!」  だが、女性のけたたましい声が横合いから響き、それが少年の綺想めいた感覚を一瞬で掻き消した。  睡魔など一瞬で意識から逃げ去った。はっ、として顔を上げる。聞き覚えの無い声であった。  突然の事に頭が回らない。まるで阿呆のように口をぽかん、と開けて前を向いたまま動きを止めてしまっていた。  見れば、いかにも不機嫌そうに眉根を寄せた中年の女がこちらを睨んでいる。  勿論、見も知らない相手だ。十派一絡げに出来る様な性格である事だけは確からしい。  半分眠りこけた脳味噌を叩き起こそうと人知れず躍起になるウォルなど女は知ったことではないようだった。  少々離れた場所に突っ立っていた彼女は無遠慮に歩み寄ると、まるで権利を主張する人間のように醜く怒鳴り散らしていた。 「失せな!宿無しに貸すものなんて軒先だって無いんだよ!」などと、出るわ出るわ、遠慮会釈の無い言葉にツクヤが目を白黒させている。  突然の闖入者に呆然とする二人に向かい、何が気に食わないのか口角泡を飛ばすと言った調子で女性は更に喚き続けていた。 「今度はどこの乞食だ!ああもう、どいつもこいつも金、金、金!犬畜生みたいにガツガツしてたかりに来やがって!」  確かに、二人して所在も無く漫然と座り込んでいる様はそのように見えない事もないだろう。  が、それが的外れである事は言うまでもないし、幾らなんでも常軌を逸した物言いだ。  ウォルは思わず後ずさり、ツクヤはと言えば驚いた猫のように飛びのいてその人物から距離をとる。  何か、新手のキチガイか。条件反射的に罵声を返しかけた己を少年はぐっと堪えた。  一々感情に流されては冒険者や手間仕事、日雇いの類など、とてもではないがやってられない。  女性の格好を改めると、彼女は野菜だの魚だのの入ったカゴを抱き、得体の知れない汚れで染みを作った前掛けをしていた。  くすんで傷んだ飼い葉色の髪は在りし日の面影、とでも言うべきものが薄っすらと伺えないでは無い。  だが、骨が浮かぶ程に痩せ細った腕や、その気性によるだろう皺の刻まれた顔がそれに接ぎ木されている。  そのせいで過去の年月と日々の生活で磨り減らされた心身と、胸の悪くなるような病気めいた影が際立ってさえいた。  ウォルは思わず皇都での忌わしい日々を思い出したが、現状もまたそれと同じぐらいには愉快な事態ではない。  こういう手合いは関わらないに越した事はない。が、物言いから察する所、女性はどうもこの家の人間であるらしかった。  馴染み深い粗末な身なりからして、恐らく雑役婦辺りに違いあるまい、と少年はあたりをつける。  そうであるならば、来客に挨拶の一つでもするのが当然である。教育が行き届いていないに違いあるまい。  一瞬躊躇いを覚えるが、仮に予想の通りであったとして、何も言わずに立ち去ったのでは後々話が厄介になる。  依頼を受けた相手の飼っている人間に対して、木っ端冒険者に過ぎない所の己が不信を買えばどうなるかなど解りきった事だ。  例え、皿洗いしか出来ない家事手伝いだろうと、浮浪者同然の己と比べれば遥かに立場が上である。  どのような相手であれ、深入りさえしないなら下手に出た者を無碍には扱うまい、そんな打算を少年は働かせる。  顔はにこやかに、かつ努めて丁寧に立場を弁えた言葉を。それは彼の心身に知らぬ間に染み込んだ処世術でもあった。 「ああ、いえ、その……僕はこの家のご主人、タップ=ベアットさんに御用があって、それでです。別にお金がどうとか、そんな事は」  卑屈な言葉にどうしてか女性が口を噤む。はて、と少年はその様子に内心で首を傾げた。  ちら、と顔色を伺うものの、相手は彼の方を向いてはおらず、フードを被った少女を怪しむように見るばかりだ。  嫌な予感がした。思い浮かんだのは、ツクヤの日頃の言動である。ぞわ、と思わず悪寒が走る。  まさか何かしでかしたか、そう危惧するウォルを尻目に女性は言葉を投げていた。 「……ちょっと、さっきから人の顔ジロジロ見て?」  そして、彼の内心を見て取ったかのように、ツクヤは不思議そうに小首を傾げてその問いかけを受け取っていた。  唐突なその所作に、女はというと益々癪の虫が暴れだしたらしいが、止めに入るにも切っ掛けが見つからない。  顔をそらすだの、靴の爪先を細かに上下させるだの、彼女の身振りの端々から苛立ちが滲んでいる。  一方の少女はと言えば落着き払ったものだ。僅かな身じろぎの他には、真正面から悪意を向けられていると言うのに動じもしない。  その様にウォルは心配も忘れて己と少女が始めて出合った時の事をふと思い出していたた。 「ね、怒ってる?」 「……!?」  女性の顔が引き攣った。それは少年も同じである。  どんぴしゃり。途端に堰を切って女性の口から耳にするのも憚られるような汚い言葉が溢れ出てきた。  曰く、「あんたに何が解る」、「怒ってない訳が無いだろう」、「あいつが全部悪い」等等。  一々取り上げればきりが無い。枝葉末節はともかくとしてその大要は全て溜まりに溜まった鬱憤の表出に他ならなかった。  何らの呵責も無い言葉は月並みなものばかりであったが、ともかく何か酷く腹を立てているらしい事は一目で見て取れる。  だが、そんな事は知ったことではなかった。ウォルとて堪忍袋の緒がある。  礼儀を失した相手はそれなりに扱ってやるのが作法というものだ。  単に悪罵を浴びせかけられる相手がいさえすれば構わないのかもしれない。  けれども、余りに矢継ぎ早かつ一方的な女性の言葉に対して、少女は返事を返す暇も無いという有様である。 「少し落ち着いてくださいよ……これじゃあんまりだ」 「は、あんまりだって?あんた等みたいなのが何言おうが聞いて貰えると思ってるのかね!」 「はぁ、解りましたから……いえ、こっちも悪いけど、でも、この子ちょっと病気で──」 「だから?病気がなんだって!?それにその口の利き方は何!?」  ウォルが割って入るが、一向状況は改善の兆しを見せない。  少年にとってはこの程度の罵声など日常茶飯事で聞き飽きる程だったが、目の前の少女はそうはいくまい。  仮に彼女が正真正銘の白痴で、何を言われているのかも理解出来なかったとしても、見ていて愉快な様では無い。  見捨てて一人だけで逃げるなどという選択は論外である。  兎も角も矛先を逸らさねばなるまい。少年は少しでも女性を落ち着けようと言葉を発した。   「とにかく……少し口を閉じて下さい。それで息をして──」  変わらず目を剥いて肩を怒らせている女を前に、一方のウォルはどうしたものかと考える。面従は慣れたものだ。  全く話にならないだろう事は火を見るよりも明らか。それに向かっ腹が立たないではなかったが、 出会い頭に礼儀もへったくれも無く噛み付いてくるような輩相手にはかけるべき言葉など既に尽くされていた。  今更機嫌をとろうとした所で、酷く理不尽な要求か何かを一方的に吹っかけられるに違いあるまい。  ここは尻に帆をかけて退散すべきか。思い、何も言わずに彼が踵を返しかけたその時、少女が一歩前に歩み出た。  止める暇も無く、気配も前触れも何も無かった。事実は、彼女がそこに在る、ただそれだけだ。 「あの──」  それでもツクヤはツクヤだった。拍子抜けする程にぼんやりとした声音が口に上る。  かくてウォルの努力は一瞬にして水泡と帰し、かくて再び口角泡とする見苦しい言い争いが始まるかのように思われた。  放り出された買い物籠からはパンやら野菜やらチーズが顔を覗かせている。  ころころとリンゴが転がるが、誰もそれに気をとめない。 「ああ!?何だい!!」 「その──」  やんぬるかな。苛立ちを通り過ぎ、明確な敵意を孕むに至った女性の声が少年の危惧を裏打ちしていた。  しゃしゃり出たまでは良かったが、どうにも少女は相変わらず言葉を上手く紡ぐ事も出来ないらしい。  口を扱う事まるで唖の如くならいっそ、ずっと押し黙っていた方がまだしも平穏無事であるのに、 ツクヤは少年からしてみれば愚か極まりない事に、どうしても口を出さずにはいられないようだった。 「言いたい事があるならはっきり言いな!」 「きゅう!?」  大声に驚いたのか短く声を漏らし、しかし促され、口を言葉を選ぶようにもごもごさせると少女は言葉を続ける。 「えっと、大丈夫ですかっ?」  発した言葉の意図を掴みかねたらしく、女性はたじろぎ鼻白んだ。  恐らくは弁解や謝罪の類と予想していたのだろうが、少女の言葉はそのどれとも違う。  一体全体何が大丈夫だと言うのか。確かに女の格好は明らかに不潔で、ヒステリーやら肺病みに特有じみた風貌をしてはいる。  だが、あれほどの暴言を投げつけられた後にはいかにも不釣合いな一言であった。  呆けたように二の句が告げないでいる女を他所にツクヤははっ、としたような顔をする。 「あ……ごめんなさいっ、えと、私、ツクヤって言います」  そして、いきなり自分の名前を口にすると、いかにも何処かの誰かの見よう見まね、と言った風にぺこりとお辞儀をした。  返事も返さず怪訝な顔を浮かべた女性に向かって、相変わらずの要領を得ない言葉が投げかける。 「とっても疲れてますよっ」 「……はぁ?」    意味不明である。ウォルにとってもそうであったし、女性にしてみれば尚更だろう。  全く脈絡が無い。その上、受け取りようによってはある種の侮辱とさえ解釈されかねない発言だった。  純正の人間以外──例えばゴブリンの類ならば別段、泥と汗と汚物の中を這い回って疲れない人間などいよう筈もない。   「訳の解らない事を言う子だね。あたしが疲れてるって?病気も無いし、怪我だってこの方してない」 「でも本当ですよ。えっと、疲れてますっ」 「あのねぇ……人の前でいい加減な事をお言いでないかい。理由を言ってごらん。 ただ見て、それで勝手に病人扱いされるなんて真っ平ごめんよ」  問われ、何かを見出したかのようにツクヤは相手の目を覗き込む。その明緑の瞳がきらきらと光っていた。  その視線は睨んでいるでも、泣き出しそうという訳でもない。ただ凪いだ海のように静かだ。  じっ、と事物の深遠を遍く照らさんとするばかりに、また薄暗がりを測り出そうとしているかのようだった。  しかし、それはまた何時か少年が見たのと同じように底知れず、異様でもあった。  罵声に怯む所か意に介した風もない様子に女性は鬱陶しげ顔を歪め、目を逸らして立ち去ろうとする。 「──欲しい物があるんだよねっ?」  だが、その一言が女性を釘付けた。どういう手品か、ぴたり、と女性の歩みが止まる。  ツクヤは朗々と言葉を続ける。全く自らの言葉を疑っていない、はっきりとした声だった。 「でも、手に入らなくて、困って、疲れてる。それは元々持っていた物。けど、今はもうなくなっちゃった」  一体全体何を言い出すのか、余りに奇天烈なツクヤの言動にウォルは思わず頭を抱えたくなる。  ただでさえ厄介な状況だというのに、嘲りまがいの言葉を吐くなど考えられない事だ。 「ひとはくるくるくるくる。浮いたり沈んだり、喜んだり悲しんだり。でも辛いことは辛いことだよぅ」  第一、言っている事など見れば解る。要するにこの女は何がしか必要な金が無いのだろう。  そして、恐らく取るに足らない理由に違いあるまい。例えば少々の贅沢品だとか、酒であるとか。  だが、当人にとってどれだけ大切であっても、少年からすれば重要なのは日々の糧であって他は全ては余計である。  こういう風体をしている人間の考える事など判を押したかのように一緒であるものだ。  そして、往々にしてそれは最も触れられたく無い部類の事実でもある。  必要の他には何も無いのだ。だのに、身の程以上の物を求めようとする者は後を絶たない。  所詮人間扱いされないと言うならば元より期待など抱かなければいいものを、どうもそうはいかないらしかった。  暗い嘲りが心中を走る。誰しも殺せば死ぬ。だと言うのに何故、金貨袋の重さで命の価値が決まると言うのか。  人間やお高くとまった数多の種族の体には血液の代わりに金でも流れていると言うのか。  勿論それが気に食わない人間も数多居る事は確かである。何も彼らに限った話ではないが必要なものは殺して奪えばいいという訳だ。  かくて、皇国中の都市には絶えず人殺しが何処かにうろついているのであって路地裏では何時も死骸が量産される事と相成る。 「どうしてそう思うのさ?」  相も変わらず不毛な思考を走らせる少年を他所に、肩越しに振りかえった女性が口を開く。  少女はと言えば足取りも軽げに、相手の言葉を待っているようだった。 「だって体も、頭も、心もへとへとだよっ。まるで暗くて家が解らなくって迷ってるみたい」 「関係ないじゃないの。疲れてたとしても、こっちの事情には関係なんてないわ」 「そんな事ないよぅ。だって、ここの人なんだもん。家がへとへとで、住んでる人もへとへとだもん。  足りないものがないと、そんな風になんてならないよ。足りないのがずっとだから、何時かずっとこのままになっちゃう」  ぶすったれた女性は、無言で家の扉を閉ざせばいいものを律儀にも少女の物言いに耳を貸していた。  確かに、ツクヤの声音は不思議と透き通り、耳に心地よくはあった。  岡目八目。一方のウォルからしてみれば酷く胡散臭い物言いである。 「何が足りないっていうのさ?」 「そんなの解らないよぅ。足りない、それが欲しいって事が解るだけ」  はて、と少年は聞いている内に首を捻る。  どうも彼の予想と異なった方向に会話が転がっている気がしたからだ。  ああも怒鳴り散らしていた女性は今や少女の言葉に引っ張られるように話し込んでいる始末。  言葉を追っているだけではその理由が少しも見えない。だが、下手に介入した所で場が拗れる事は必定だろう。  無知の知という奴かもしれない。ただ、今や彼の知らぬ事柄を軸にこの二人の会話が回転している事だけは理解できる。  つい、とツクヤが屋敷の方に顔を向けた。表情は窺い知れなかったが、話し振りを見る限り特段感慨深げという風も無い。 「でも、大切なものなんだよね。きっと」 「だったらどうなんだい。他人の助けなんて期待できないわ」  女性の言葉に、少女はくるっ、と踵で向き直ると見透かしたような声で言う。 「──ほら、やっぱり困ってる」  それで拍子抜けしたのか丁度狐に摘まれたような顔を浮かべ、しかし直ぐに居住まいを正すと女性は毒づいた。 「困ってない。助けはいらないって言っただけ」  「それなら慌ててないのにあんなに怒ったりしないよぅ。それに私解ったよっ。困ってるのは大変な事があるからだっ、て」 「……それで一体全体、知った風なあんたがその困ったあたしに何かできて?」 「出来るかもしれないし、出来ないかも。だって、どんなものかも解らないもん。それに、怒ってばっかり。何も言ってくれない」  あれこれと言い合う二人だが、ツクヤの言葉が聞き捨てならず、ウォルが口を挟んだ。  とんとん拍子に進む話を傍で聞く分にはいいが、このまま放っておいて訳も解らない内に安請け合いでもされては堪らない。  そもそも彼らには何をするにも元手が皆無なのであって、妙な期待を持たれでもしたなら迷惑この上ない。  そして、必要事を済ませてしまうなら会話の流れがこちらにある今だった。   「ええと……済みません」  何か言いかけた少女を遮って、女性の前に出る。 「それで、ベアットさんとのお取次ぎについてなんですが──」 「夫が何か──ああ、さっき言ってたっけ」 「……は?い、いえ、済みません。失礼ですが、お名前を伺ってよろしいでしょうか?僕はウォル=ピットベッカーって言うんですけども」  鸚鵡返しに尋ね返したウォルに女性は眉を顰め、呆れた様な顔で口を開く。  酷く嫌な予感がしていたが、ことここに至って少年は己の誤解をはっきりと自覚していた。  つまり、この人物は彼が考えていたような雑役婦などではなかったのだ。 「ヴィオラ=ベアットよ。主人に会いに来たのに、名前も知らないなんて抜けてるわね」  途端、脂汗が噴出してくる。戯言か何かに違いないと信じたかったが、嘘を言っているようにも思えない。  それが目の前の哀れななりの女の妄想だと願いたいが、だとすれば、もっと早く自慢げに口にしていてもいい筈だ。  少年の様子に気づいたらしく、女性は自嘲じみた笑みを浮かべ、言う。 「そりゃ信じられないでしょうよ。こんなナリだもの」 「ま、まさか。でも、その……」 「何かあった、って言いたいんでしょ?」  ウォルはすぐさま首肯した。何があったのかは凡そ予想できるが、どういう理由かはまるで解らない。  ただ、何かしら破滅的な出来事にこの商家が襲われた事だけは明々白々だった。  今や、残った財産は伝来の家と土地ぐらいで、他の物は全て売り払うか抵当に入れてしまったに違いなく、 ひょっとすると、この屋敷でさえもはやベアットという家の持ち物ではないのかもしれない。  そうでなければ、これだけの店を構えた商人の妻が粗末ななりで買い物籠を下げているなど考えられまい。  何れにせよ確かであるのは少年が抱いていた当初の淡い期待は最早音を立て崩れ去ったろう事だけだ。  老婆の語った情報は正しかったかもしれなかったが、余りに遅すぎた。  結局、今日一日は何もかも無駄足であった、と言う訳だ。  これならばいっその事、何も見つからなかった方がまだしも楽であったに違いない。  酷い徒労感に落胆の色を隠せない彼をに、女性は息を一つ吐き出すと言葉を続ける。 「そうね……まずは、さっきは御免なさい。また何時もの連中かと」  そう言ったヴィオラの横顔には最早敵意は無く、その代わりに色濃い疲労の色が浮かんでいた。  冒険者という名のごろつきやごろつきと言う名の収税吏、或いは金貸し連の子飼いに押しかけられでもしたのだろう。  文字通り畜生にも劣る連中の振る舞いをありありと想像して、少年はげんなりする。 「そうですか。ええと、何かあった訳ですね。──ええくそ、もっと上手く話せないもんかな」 「いいわよ。別にお世辞を言ってもらった所で出せるものもないし、変わるって訳でもない。それで、夫に?」  ウォルは頷いて訥々と言葉を紡ぎ始める。自分達が冒険者である事、路銀が心もとなく安く足となる河舟を探している事、 ヒューダイン族の老婆にベアットの事を教えられた事、どうも妙な様子であったので様子を伺っていた事を述べ、 知らなかったとは言え庭先に勝手に上がりこんでいた非礼を漸く詫びる事が出来たのだった。  地面に放り出した籠を拾いなおした女性が、それを聞いて何事か考えるような素振りを見せた。  それをいきなり会話の腰を折られた挙句、横から掻っ攫われた格好のツクヤが少し離れた場所でそれを見ている。  ややあって、ヴィオラが口にした言葉は少年にとって予期せぬものであった。 「ついていらっしゃいな。どうせ今頃また酒でも飲んでるでしょうし、残念だけど私にはあんたの話をどうこう出来ないからね。 それにもしかしたら今からでも如何にかなるって事も。主人と話をつけて、それで決めて頂戴」  彼は二の足を踏んでいた。それは先刻までなら渡りに船の申し出であったろう。  だが、少年がそうしなければならない理由は最早無く、余りに夜遅くになればいらぬ嫌疑を招く恐れもある。  郷里を追い出され皇都に着てこの方、他人の家に招かれた事などなく、どうすればいいかをすっかり忘れてしまっていたせいでもある。   「……」  ウォルは足を止めて黙考する。いや、実際のところそれは単なる躊躇でしかなかった。  断る理由など無数に思い浮かぶ。第一、破産した相手である。時間の無駄に過ぎないのではないか?  下手の考え休むに似たり、であった。ぞろ思考の迷宮をそぞろ歩きしかけた彼の手を、その時誰かが引いた。  それはフードの少女だった。ツクヤである。少しうつむいて、無言でぐいぐいと強引に彼の腕を引っ張っている。 「ちょ!……解ったよ。解ったって。ちゃんと行くから引っ張るのを止めてくれないかな」   頑なに拒絶した所で根こそぎ引っこ抜かれる事は確実であった。  彼女が一体何を考えているか知れないが、どうにも少年に拒否権は無いらしい。  ヴィオラが、まるで泥まみれの子犬が水溜りでもがいているのを見るような顔で押し黙っている。  早くしろ、と言いたいようだった。前のめりに崩れていた体勢を正し、腹を括った。  槍でも弓でも持って来いと言う心地だ。  もう一仕事。済ましてしまわなければならないなら最早待った無しである。    かくて、駆け出しのひよっこ冒険者どころかどれ程老練していようが鼻にも引っ掛けないか、 そもそも文面を見たとたん依頼を放り出すだろう難業に向かって少年は歩みだす。  金は世間の回り物。そして羽が生えたように飛んで消えていく。ついでに金が無いなら物や利権も同左である。  そして目の前の状況は、言わば巣立った後の鳥かごに何とかして渡り鳥を呼び戻そう、と言うに等しい。  基本的に冒険者の仕事と言うのは言ってしまえば鉄砲玉、言い換えれば、左程の専門知識を必要とするものは回ってこない。  パンはパン屋であり、付け加えるならば事務だの商売だの手続きだのは子飼いの人間にやらせるのが一番手っ取り早い上に、 情報の漏洩も防げ、更には冒険者に仕事の領分を蚕食されなくて済むと言った具合である。  要するに、他の誰もが片付けたがらないような仕事を請合うのが冒険者なのであって、 そういうどこの馬の骨とも知れない連中に、職業の精髄とも言える部分を任せるのは異例なのである。  それこそ破産した商人や、零落した貴族、余りに戦死者の多い騎士団の類、 そんなゴロツキに侵食されかねない爆弾を抱えているような場合でもなければ、だ。  背筋を伸ばし、ウォルは出来うる限りの礼儀正しさでもって、すぐ傍に待ち受ける厄介ごとの鼻面を叩いてやろうと画策した。  が、傍目にはどうにもぎくしゃくとしていて不恰好であった事は言うまでも無いだろう。  きゅう、と少女の幽かな声が終わりかけの黄昏に染み込み、そして消えていった。  /  二人が通された部屋は、窓が締め切られた物置のような場所だった。  昼の日差しに熱されて、むっとするような空気が室内にはたちこめている。その癖、妙に物は少なく、がらんどうだった。  目立つもの、と言えばどこからか運んできたらしい蝋燭とその受け皿ぐらいだ。  後は箪笥だの、布蓋をかけたまま埃を被っている木箱だのが薄明かりの橙に照らされて縮こまっている。  その一つ一つが陰鬱に破局の気配を辺り構わず振りまいている。  ヴィオラは、と言うとさっさと姿を消し、ここにいるのは彼らのみだ。  何とはなしに二、三、独り言を口にする。落ち着かない。気だるさと鈍い緊張、そして退屈が充満していた。  ただ待たされる間にはよくある事である。そうして待たされる事しばし。  少年が背もたれに崩れ落ちかけていた頃、再び姿を現した女性が準備が出来た旨を告げる。  そして招かれた部屋には机に肘をつき、顔の前で橋を作っている男がいた。  ツクヤがぴくん、と何か異臭でも嗅ぎ付けたのかフードを揺らす。  対面に座るとすぐに解った。ぷぅん、と漂う香り。酒の匂いだ。それも、かなりの深酒らしかった。  思わず眉を潜めそうになるのを堪える。むしろうまい条件や情報を探りだせるかもしれないと言い聞かせる。  一つ、二つ。数を数えて相手の出方を暫し窺う。単刀直入に切り出すのは気後れしていた。  男──ピッチ=ベアットは何度も瞬きを繰り返し、ふらふらと首も据わらず、いかにも酔漢といった風情であった。 「君達かね?……用が、ある……っと言うのは?」  どこか間延びした声でベアットが口を開く。その口端が引き攣るような笑みを作っていた。  様子がおかしいのは一目瞭然である。真っ当な商人であれば、こんな醜態を、しかも客の前で晒すなどありえまい。  どうも拙いところへやってきてしまったらしい、内心でそんな事を考えながら、ウォルは彼の言葉に首肯を返す。 「あ、はい。危うく帰ってしまう所でしたけど」 「……正直その方が良かったかもしれませんねぇ。何せ、私は見ての通りの有様で」  そう言って男は杯を軽く掲げ見せる。適当に相槌を打ちながら、少年は蝋燭で照らされた薄暗い室内を見回していた。  がらん、とした物の少ない部屋。床には何事かを書き付けた紙が散乱している。  帳簿はと言うと本棚の中で引っくり返り、中身の無い小箱だの、ぺしゃんこになった皮袋がちぐはぐな場所に引っかかっていた。  そして、酒瓶だ。ワインらしかったが、既に何本も床に転がっている。    正しく破滅を味わっている者の乱雑さであった。しかし、今更になって退散する訳にもいかない。  どうしたものか、と思案する彼にしゃっくりをしたベアットが「それで、一体何かね?黙ってては解らない」と言う。  赤ら顔を通り越して酷く悪い顔色を晒している男が正気であるかは疑わしい。  切り出すべき言葉を選ぼうとするが回りくどい言い回しでは理解されまい。口内で言葉を糸にした。 「──実は、さる商店の店主さんから、こちらで河荷を扱ってらっしゃると聞いて」  切り出した言葉の河荷の『か』辺りで、ベアットの顔色がさっ、と変わった。  目が泳ぐ。眉が吊り上り、生じた苦痛を紛わせるように彼は更に杯を干す。  それも何杯もだ。げほげほとアルコールに喉を焼かれて咳き込む。机に突っ伏し、腕を枕に少年を睨む。 「見れば解るだろう。あれはもう止めだ」 「アレ、ですか?」 「察しが悪い。商売はもうやめ、廃業だ」  矢張り、か。  改めて本人の口から聞かされたその言葉にウォルは酷く空虚な気分だった。  徒労感に襲われ、思わず顔に掌で覆う。しかし、それでも続いた。  話していたのは主にベアットだ。聞いている限り、今更彼が出来る事などほぼ無いだろう。  曰く、今では昼間は借金取りから逃げる為、知り合い連の家やぶらぶらと他所の土地をうろついていたらしい。  これではあの女性が気違いじみてしまうのも無理なからぬ話である。  さておきとりとめも無い話題は続くが肝心の糸口が見つからない。少年は早々に当初の目的を情報収集へ変更していた。 「……事情は解りました。ですが、その、知り合いやご同業で、この頼みを聞いていただけるような方はいらっしゃいませんか?」 「はっ、私が頼りないと見える!この私が!そんな望みの一つや二つ、もし成功してたなら幾らでも叶えてやったんだがな」 「その際は是非ともご贔屓に……でも、必要なのは」  必要なのは、今だ。  当然であった。少年は知らず、拳を固く握り込む。老婆の言そのものは正しかった。もう少しで手に入るかもしれなかったのだ。  縋り付く様な目でベアットを見る。彼は息をつき、それに答える代わりに少女を見る。  ややあって少年に向き直り、器を机に置く。顔は傾き、丁度ウォルを睨み上げているように見えた。 「それでだ。君らは一体全体どういう目的なのかね」 「え、いや……こっちの事は奥さんから伝わっているとばかり」 「言い換えよう。言う通り便宜を図る事が私にとってどんな利益になる?──累も及ぼしたくない」  返す言葉も無い。如何にかなる、と思っていたが見通しが甘すぎたようだ。  確かに利はベアットの方にあった。紹介をするにも逃亡の身では自らの名前も出せない。  勿論、紹介書などといったものにしても、破産した商人のそれがどれ程の意味を持つのか疑問が残る。  更に付け加えるならば、間違っても自らの居場所を見も知らない人間に対して吹聴する気にはなれないだろう。  途切れた会話に、ベアットがまた酒を飲みぐだを巻き始める。  はた、気づけばツクヤの姿が忽然と見えなくなっている事に気づいた。  周囲を探るものの姿がどこにも見えない。思わず少年は席を立ちそうになるが、思い留まった。  まさかここまで常識知らずであるとは思いもよらなかったが、仕方が無い。  彼女の事を頭の中から早々に追い出し、向き直った。 「──それでだね、知らせを聞いたんだよ」 「ええと……失礼ですが、どういった?」  話半分に聞き返すと、ベアットの腕がぶるりと震えるのが見えた。それを堪えるかのように手を握りこんで顔を逸らす。  別に真実を知ろうとも思ってはいなかったが、その様子だけで一体何が起こったのか予期することが出来た。 「いえ、別に言いたくないのなら……」  が、何れにせよ絶望的な事実である事には変わりあるまい。 「そういう訳じゃないんだよ。うん、ああ……くそっ、私だってまさかあんな事になると解ってたら貿易なんかに手なんて付けない。  大人しく北の織物と家業にだけに専念してれば良かった。くそっ」  そう言うとやおらぶつぶつと独り言をぶち始めた男にはぁ、と少年は生返事を返す。  ベアットが口にしているような商売上の術策などウォルの知る所ではない。  だが、何か投機的な取引に手を出した挙句大失敗したのだろう。  度々言葉の端に上る船だの、見込みどおりならも財産は増える筈だっただのからは当然過ぎる印象であった。  だからどうした、と言った所である。ぐるぐると同じところを回り続けるうわ言と酒臭さに少年は顔を顰めそうになるのを堪える。  けれども少年は念押しにもう一度男に尋ねかけた。 「あのですね。それで、結局どうなんでしょうか?やっぱり、もうダメになってます?」 「無理だ。何をしたいのかは知らないが、私は自分の事だけで精一杯だね。見てのとおりさ」 「それでも、船足が必要なんです。町中当たって、それでも……」  嘘だった。散々に門前払いを食らったとは言え、一日やそこらで網羅できる程、人間の生活圏は狭くは無い。  だが答えも無い。それが何よりも雄弁に事実を物語っている。  そこで少年はありもしない蜃気楼にすがり付く事をあっさりと放棄した。 「すみません。いきなり押しかけて、しかもこっちの都合ばっかりで」 「いえ……私こそ力になれず。そちらも、頑張って」  ひっく、とベアットがしゃっくりと共に酒臭い息を吐き出すと何か思いついたかのように再び酒を注ぐ。 「そうだ、一杯どうでしょう?借金取りの残り物にしては中々ですよ」  そう言って差し出された酒盃にウォルは皇都での忌わしい記憶を思い出すが、無碍に断るのも礼を失する。  「ハクカスとニライカナイに」、そう無類の酒好きと伝わる二柱の名を口にすると、意を決して満ちた葡萄酒を飲み下した。  成る程、言葉に嘘は無いらしく血の様にさらりとして薫り高い一品だった。  何をするでもなく少年の様子を眺めるばかりの男に杯をつき返すと、再び酒を傾け始めた。  気付けの一杯にぼんやりと霞む意識。途切れた会話の代わりとばかりに男は機械的にゴブレットを口に運ぶ。  何とも不毛であった。類は友を呼ぶという所か。  だが、役立たずは幾ら集まった所で役立たずの群には違いなく、現実は何ら変わる事も無い。   「──?」  憂鬱な気分で頬ひじを突き、視線を泳がせていると奇妙な二人組が視界の端に映った。  一人はツクヤだった。それはいい。どこを歩き回っていたのかは知らないが戻ってこの有様では無理もない。  そこに、金魚のフンみたいに十かそこらも無い小僧がくっついていた。 「ちょっと!何してるのこの子は!」  前掛けを派手に汚したヴィオラがその子供を怒鳴りつける。 「うわっ!?ご、ごめんなさい!!」 「邪魔しないの、って言ったでしょうに!」  どうも、ウォルと自分の父親がどんよりとした雰囲気で酒を酌み交わしているのが気になったらしい。  それにしては少女がまるで姉か何かみたいにくっついているのが気にかかった。  が、すきっ腹と疲労が溜まった体に染みこんだアルコールはその疑問をすぐさま氷解させる。  要するに、どうでもいいや、とやおらまた飲み始めたのであった。 「でも、お姉ちゃんが教えてくれたことお父さんにも教えてあげよう、って思って……」 「きゅう……」 「ああもう……何やってるのよ、全く」  女性は苦虫を噛み潰したような顔をしてツクヤを見る。  が、思い通りにならないからと言っていきなり怒鳴るつもりにもなれないらしく、やり場の無い憤りに苛立たしげだ。 「で、でもっ。その、役に立つかな……って思ったんだよぅ」  そう言うと、少女は何やらヴィオラに向けて話し始める。  曰く、お金が無いなら集めればいい、と言うのがその概要であった。  つまり、彼女はどうしようも無いほど借金まみれだろうベアット家に乾坤一擲のアイディアを、と言いたいらしい。  それだけならば単なる妄言と一蹴できるが、ツクヤの言葉には続きがあった。  大金が必要で、そのままでは誰も貸してくれないなら細かく分けて色んな人から借りればいい。  例え、一つ一つの金額は小さくとも集まれば沢山になる。  成る程ご尤も。だが、単に借金を申し出にやってきた人間に商人連が構ってやるとも思えない。  むしろ、疫病神扱いの挙句に叩き出されるのが関の山だろう。  だが、それにもツクヤが反論を返し、喧々囂々、問答を繰り返していた。  そんな事を口にしていたのだが、あれこれと単語が前後左右している上に相変わらずの話し振り。  殆ど女性に対して意図が伝わっていないのは明白で、少年とてそれは同様である。 「何やってるんだか……」  思わずそう呟いてベアットに向き直る。が、当の男は飲みかけの杯さえ投げ出して、何やら思案している様子だった。 「ええと……僕の連れに何か粗相でも?」  しかし男はウォルの言葉に答えずに告げた。 「すみません。ツクヤさん、でしたか?出来れば詳しくお話を伺いたいのですが」  打って変わって真剣な表情を浮かべるベアットにウォルは何か不興を買いでもしたかと考えるが、どうもそうではないらしい。  が、何れにせよ酒で冷静さを欠いている事は間違い無く、招かれるままに差し向かいに腰掛けた少女に男は静かな声で続ける。 「それで、さっきの話なのですが──確かに一度に大金を借りられないというなら少額に分けてしまえばいいのは道理です。  ですがそうした所で必要な金額が減るでもなし、第一借り入れる為に必要な担保がないでしょう。  妻も言っていましたが、第一単に借金だけを申し込むのであれば、誰も取り合ってはくれません」  ツクヤは頬に手をやり、言葉を選ぶかのように口元をもごもごさせる。 「んとね。それならあると思うよ。それに、それさえあれば借金だけを申し込まなくてもいいの」 「……何処に、ですか?」 「えっと、これから借りたお金で沢山設ければ大丈夫だよっ。……えっと、単に借りたお金を返せばいいんじゃなくて」 「確かに必要な借り入れは商売では必須ですね。が、あくまでそれは予定です。  もしも、儲けるアテも無いのに金だけ巻き上げたのでは、単なる詐欺師や山師まがい。商売人としては致命的です」  確かに、大言壮語を吐き吐き小金持ちから金を巻き上げようとする輩は何時の世も絶えない。  言うは安し行なうは固しであって、作話師、山師の世迷言に海千山千の連中がそうそう引っかかるとは考えにくかった。 「うんっ、予定に過ぎないよ。でも、お金が無くちゃ何もできないんだよねっ?」 「ええ……それは」  ベアットの疑問には答えず、確認するように言った。  「仮にベアットさんがこの先やっぱり駄目になっちゃったとしても、ベアットさんがしてた事は別な人がしはじめます。  でも、もし私がこれまで色々ベアットさんに関わってて、いきなり何処の誰とも知れない人がその後に出てきたら躊躇うし、 他の人が引き継ぐにしても、今までと同じように信頼できるかどうかは別だよっ」  早口でまくし立てるツクヤは、そこでいったん言葉を区切ってフードを軽く揺らしながら、じっ、とベアットを見る。 「それに、お金は無くても色々残ってますっ。私、来る前にお婆さんに聞きました。  でも、その人はベアットさんの事は詳しく知らなかったんです。信じてる人だっています。だから──」  ついさっきまで深酒をしていたとは思えないような冷静さで話を聞いていた男が、少女の言葉に一度大きく息を吐いてから口を開いた。  ぱぁっ、とツクヤの表情が明るくなったような気がした。 「つまり、将来出るであろう利益とこれまでの信用を担保にした出資、と──」 「それでね、借りるお金もね。ただ細かくするんじゃなくて、同じようにとっても細かくするの。  山を作るとき、一度に沢山の土を持ってくるのは大変だけど、色んな人が少しずつ同じだけ持ってくればそれだけ簡単だよっ  それに運ぶ人だってそれだけ疲れたり、怪我したりしなくてもすむもん」 「しかし、それだけで事業をしようと思えば多くの人数が必要になるし、その個々にも利子をつける必要がある……ああ、すみません。  細かくするのは良いんですが、どうして同じ単位でないとならないんでしょう?」 「んとね、そっちの方が簡単だもん。全部違ってると、全部違うようにしなくちゃいけないもん。あ、でも利子って何ですかっ?」 「利息というのはお金がつける果物で──兎も角、そんなに上手くいくんでしょうかね」 「それはベアットさんのこれまで次第だよぅ。えっと信用と、それからベアットさん次第だよっ。  お金を出してくれるかどうかは出す側がベアットさんをどう思ってるかだもん。  使わせて、駄目だって思ったら駄目だし、大丈夫だ、って思ったら大丈夫」  その言葉にふむ、と嘆息し──ややあって、ピッチ=ベアットは酒瓶を机の引き出しに仕舞い込んだ。 「ツクヤさん、でしたね。この考えをどこかの商人から?」 「ううん、自分で考えたの。だって、どうやってお金を手に入れたらいいのか解らないみたいだったもん」 「そうですか──おい!」  彼は呆然と事態の推移を見守っていたヴィオラに紙とペンを準備するよう突然、言葉を飛ばした。  慌しくも忙しく、突然に止まっていた時間が動き出す。  が、すっかり会話から置いてけぼりを食っていたウォルには一体全体どういう状況なのか全く理解できない。 「あの──すみません。何が何やら」 「君、まだ居たのか。すっかり忘れてたよ」  何とも酷い物言いであったが、最早少年に構っていられないらしく、ベアットは机に向かい何やら猛然と書き付け始める。  ツクヤは静かに席を立つと、彼の邪魔をしないためか少し離れた場所に動いた。 「……あんまりだ」  一方の少年は思わずそう呟く。話を横から掻っ攫われた上に、何やら少女は自分よりも余程の成果を上げたらしい。  保護者の面目丸つぶれである。己が勝手にそう思い込んでいただけだった、と言う可能性には敢えて目を瞑った。  思わず部屋の隅で三角座りをしたくもなったが、じっ、とツクヤがこちらを向いているのに気づく。  その意図する所を察するのに少々時間を要したが、忘れかけていた当初の目的を思い出す。 「ええと、それで結局、こちらの頼みはどうなったんでしょうか?」  ──結論から言えば、今度こそベアットは少年の頼みを聞き入れた。  とは言っても、彼自身が口にしていたように今すぐとはいかなかった。  知り合いのツテを頼ってみるから後日改めてやってこい、と言う訳である。  が、だからと言って丁寧な対応をされた訳でもない。  ヴィオラはかけっ放しだった焜炉に気づいて悲鳴を上げていたし、彼女の代役に急遽借り出された小僧は右往左往、 飲み過ぎで急に動いたせいで全身にアルコールが回ったベアットは手洗いに駆け込んでから腹一杯水を飲み干していた。  彼に出来ることはもはや無く、家路を急ぐ他は無い。  すっかり暗くなった道を歩きながら、しかし少年は黙然と考え込んでいた。   頼まれごとは思いもよらず成功裏に終わったのであるが、それはそれとしてのっぴきならぬ疑問がまたも姿を現していた。  その名前は勿論ツクヤと言う。議題はと言えば彼女の示した思いもよらぬ思慮である。  が、ただでさえ訳が解らない所に今ひとつばかり謎が加わったところで何一つ好転はしない。  あるいは、少女自身から聞き出せばそれでいいのかもしれなかったが、ああも無様を晒した後では気後れする。  結局、少年のわだかまりは解消される事無く、宿に戻ると事の顛末を他所に動いていたクオとロボに告げた。  あからさまに驚いてみせた所からして、最初からウォルに期待していなかったことは明らかであったが、 黒服やイヤミ女の鼻を明かしてやった事に胸がすっ、としてもいた。  ただ、ベアット家の一件でツクヤが喋った事については話さず、適当に誤魔化しておいた。  子守を任す以上は、彼らとてそれについては知らないかもしれなかったし、 クオなどは少年がその事実を知った事に明らかな不満を表明するかもしれなかったからだ。    /  月明かりの差し込む部屋。ウォルはベットに横たわり天井を見上げていた。  久方ぶりのまともな寝床にまともな食事に幾分だるさは薄らいでいたが、しかしウォルの心は晴れない。  人間、余りにも疲れすぎるとそもそも眠くもならないと言うが、あるいはそのような状態であるのかもしれない。  嘘を付け、と彼は瞬時にその考えを否定した。勿論、ツクヤのせいである。  と、一口に言っても思いつく事は多々ある。  それは例えば彼女がベアット家で見せた一幕であったり、どうにも収まらない彼女の不機嫌でもあったし、 どうしてそんな状態に陥ってしまったのか──言い換えれば、今後の円滑な人間関係の維持の為にも不和を解消 ──さんざ回りくどい思考でごまかしてはいるが、要するに彼は一体どうやって仲直りしたものかと考え込んでいるのだった。  率直に考えられないのは妙に捻くれた少年らしいとも言えるが、正に誰かを説得しようとしている状況においては有効な手法ではない。  ごろごろと寝返りを打つ。旅籠のシーツには太陽の匂いがまだ残っていた。  だが一向に考えは纏まらず、掴みかけたと思ったアイディアの束は指に掛かった途端靄のように掻き消える。  ぐずぐずと燻るもどかしさに思わず所構わず八つ当たりしたくもなる。  とは言え、今はそんな物患いの他に何が出来るという訳でもない。  言うまでも無く、こんな真夜中に寝室に押しかける訳にもいかない上──ちら、と少年は視線を部屋の隅に向ける。 「……」  そこには、真っ黒い帽子を辺りに引っ掛け、刀を抱いたまま寝入っているロボ=ジェヴォーダンがいた。  これまでの経験からして、もし部屋から出ようと試みたものなら、ベットから足を下ろした時の床の軋みだけで目を覚ましかねない。  と、言うよりも一度手洗いに出た時に正しくそんな反応を返された。  一体全体何時眠っているのか首を捻りたくなるような男である。単に警戒心が獣並みなのかもしれない。  夜警だの見張りだのには役に立つのかもしれないが、今現在この状況では忌々しい事この上無い。  大体、寝込みにまで武器を抱えたいかにも見張り然としたその態度が気に食わない。  見張りが正しい事を証明する為に一体全体誰が見張ればいいというのか。  それが無ければ見張りなんてものは、単に見境無く吠え立てる頭の悪い番犬と変らない。  閑話休題。とまれ、黒服に幾ら毒づいた所で不毛であるのは確かだった。  寝返りを打つ。眠れない。おまけに酷く蒸し暑くて寝苦しい。目も冴えていた。  綿の布団の綿埃が気になり、ざらざらした胴衣の毛羽立ちが肌を刺す。  酷く不快だ。汗がじっとりと浮かび上がる。がば、と跳ね起きて、どんよりとした表情で周囲を見回す。  幾度それを繰り返したろう。突然、窓辺の月影が逆しまの人型にくりぬかれた。  慌てて振り返ると、ツクヤがぶらん、と外にいた。逆さまにぶら下がってである。  これだけをとってみれば、一種のちょっとした怪談であるのだが、何の事は無い。  ただ、少女が窓の外、屋根の上から上半身だけを降ろして部屋の中を覗き込んでいるだけだ。  彼女の髪はぶらんと垂れ下がり、顔が影になって隠れている一方で狐の耳はぴょこぴょこ動き回って例のごとく自己主張している。  が、運の悪い事にウォルはそれをまともに見てしまった。  それも、唐突に顔を出した瞬間から、彼に向かって少女がぶんぶん手を振っている所までだ。 「──!?」  一言で言えば、死ぬ程驚いた。無理も無い。当の相手が、全くの突然に意味不明なやり方で現れれば誰だってそうなる。  飛び起き前のめりになり何してんだ危ない今すぐ降りろいや降りるな今からそっちに云々──混乱した意味不明な叫び声を上げかけて、 ウォルが四つんばいの格好のまま何とも情けなく、ぽかんと口を開けたままベッドの上で停止している。  が、そんな事など一向お構い無しにツクヤは窓の桟を掴むと、くるり意外な程軽い身のこなしで体を躍らせ、部屋へ踏み込んで来た。  用心深そうにきょろきょろ辺りを伺い──殊に黒服が起きはしないかと気にしているらしく、 抜き足差し足忍び足、慎重に慎重に足を下ろして上げ、また下ろしゆっくりゆっくり近づいてくる。    そうして彼の目の前で立ち止まり、くるり、と窓の方を振り返る。かと思うと、今度は少年にまた向き直る。  ウォルは頭上に大量の疑問符を浮かべる羽目に陥っていた。思わず目をしばたたせる。  言葉も無いが、ツクヤは手招いていた。こっちに来い、と言う事らしい。  しかし素直にはいそうですか、とはいかないのが百戦連敗の腐れ落伍者である。  と言うか冷静になってみればおぼろげながら状況が見えてくるような気がしていた。  目尻を押さえて再確認してみる。うんうんベットの中で唸っていた所、問題の人物が軽やかに窓から侵入してきた。  因みに、彼らが取っていた旅籠の部屋は二階である。恐らく、屋根の上によじ登ってこちらにやって来たのだろう。  どういう意図か解らないが、可能である手段と言えばそれぐらいしかない。  とまれ、非常識な事態である事はすぐ理解できた。 「──あのさ」  少年はしかし、少女の方を向いていない。それ以前の問題が今も毛布を引っかぶって狸寝入りをしているからである。  ウォルは確信していた。この底意地が螺子曲がったサディストは間違いなく目を覚ましていて、薄目に見ていたに違いない。  案の定、と言うべきかそいつは片目だけで彼らの方をじっ、と見つめていた。  が、彼が思わず背筋に鉄骨を入れて予想していた反応──怒渇だの、拳骨制裁だのと言った反応は返ってこない。  ちらりちらり、と少年少女をぬばだまの目玉が数往復し、めんどくさそうに持ち上げた手をひらひらとやっている。  煩くて眠れないから行くならとっとと行っちまえ、前門の虎後門の狼の状況下、ウォルはそう楽観的に解釈する事に決めた。 「上でぎゃーぎゃー喚くなよ。筒抜けだからな」  矢張り起きていた。しかも、憎たらしい事に少年の思考を本か何かの如く読みきった捨て台詞まで残している始末だ。  返事には心の中で中指を立てておく。声には出さず、窓に向かって歩き始めたツクヤの後に続いた。  ここで少年が忘れていた事実について付け加えておく。  昼間の一件、彼が少女の手による暴力的な旋回と大地との熱烈なキスをした事である。  あの時、少年が担いでいた荷物の加重は、彼の体重の半分以上という碌でも無さであった。  凡そ、金属甲冑に全身を包んだ騎士だってここまで酷い重量を背負ったりはしない。  だと言うにツクヤは楽々それを振り回していた。  それが導く結果はと言えば。  足を桟に掛けると少女は張り出た屋根の端っこを引っつかみ、両腕の力を器用に使ってするすると屋根の上へ苦も無く上っていく。  馬鹿みたいに口を開けてそれを見ていたウォルを、先刻と同じ格好でツクヤが見下ろすに至って引っ込みがつかなくなった。  そして、蛙宜しく跳躍して少女の真似ごとを仕掛けた時点で手が届かず、まっさかさまになりかけた所で大根抜きに引き上げられる。  相変わらずの馬鹿力であった。開いた手で何とか視点を保持し、ずるずると芋虫のように這い登る。  疲れ切っていた少年にとっては矢張り難業で、終わった途端に大の字に倒れこんだ。    風が頬を撫でる。河から吹く風が涼しい。  少女に肩も外れよと遠慮なく引っ張り上げられた少年は、上体を起こしてスレートの屋根瓦を尻に敷いた。  しかし、どうにもやる事なすこと締まらない。房を解き、ばらけていた髪を似合いもしないのに手で撫で付けている。  遠くを眺めようとして眺めた彼方の丘の輪郭は小麦の髪を風に靡かせ、ぼんやりと煌いている。 「ええと──何か用?」  そうして、彼方を眺めたままぶすったれてつっけんどんに言葉を吐くのが精一杯であった。  少女は答えず──なんとも優美にくるりと回ってみせると、そのまま上の方へと歩いていく。  黙ってついて来い、という事らしい。薄暗闇の中、足元に注意しながら慎重に上っていく。スレートの軋む音。  既にそうしていたツクヤに倣って天辺に腰掛ける。一番高い場所から見下ろした町には人っ子一人見えない。 「ねえ」  ぴくん、と狐の耳が揺れた。少女はそっぽを向いたままだ。  この期に及んで無視を決め込むとは度胸がいいのか何も考えていないだけか。  構わずウォルは言葉を続ける。何のつもりかは解らないが、何かを話せと言いたことぐらい解る。 「ツクヤ、聞こえてないの?」 「……」  どうにも間が持たない。少女も先程の彼と同じく遠くを眺めていて、華奢な相貌からは染み一つさえ窺い知れない。  息を吐く。言葉一つも無い。しかし、力の限り少女に振り回されていた一日だったと言うのに、不思議と心は落ち着いている。  吹いていた風が凪いだ。空に浮かぶ明暗の雲に麦畑と茫洋たる河の細波に、それから彼らの声を遮るものは無くなった。  好い夜であった。 「ウォルっ!」 「うわぉっ!?」  だが、それも長くは続かなかった。絶妙に会話の間を外して発せられた大声である。 「むー……何で驚くかなぁ……」 「い、いや、そんな事言われてもなぁ」 「じゃあ、驚かないようにもう一回、だよっ」  そう言うと、ツクヤはもう一度、「ウォルっ」と言ってくすくす笑った。  どうにも毒気を抜かれる。これが悪ふざけなら怒鳴り返しもするだろうが、至って真面目な面持ちでやられると堪らない。  やっぱり計算づくでやってるんじゃあるまいかとも思うが、こうまで完璧に化けられるなら寧ろ頼りになる味方と評価していいだろう。  心をわくわく躍らせて彼の言葉をじっ、と待ってる影を見て思う。 「あ、うん。それで、一体何?こんな真夜中に……」 「中々来ないんだもん。駄目だった?」  じっ、と緑色の透明な瞳が上目遣いに彼を見ている。   無論拒否権など存在しなかった。独り者の悲しい性である。 「……そんな事はないけどさ。ああ、でも今度からもうちょっと方法を──というかちゃんとドアから入ってきてよ」 「だって、あの黒っぽい人がいるんだもん」 「あー……そうか」  ドアを開けた瞬間に『誰だ』などと叫びながら青筋立てて跳ね起きるロボを思い浮かべて少年は思わず苦笑した。  いかにもありそうな話である。だからと言って、窓で逆さ吊りになることもあるまいとは思うが。 「ウォルっ、えっとね」  最初に切り出したのは、意外な事に少女の方だった。  無い知恵絞って言葉を選んでいるらしく目はあちらこちら泳いでおり、ついでに両腕が意味不明な手旗信号をし始める。  仕方が無いので、ウォルは自分が先に言おうと思っていた事を済ましてしまう事にした。 「……ごめん、夕方は言い過ぎた」  効果は抜群だった。言うべき言葉を横取りされて、ぶっつけ本番でやってきたらしい少女は見るも愉快に慌てだす。  彼に見せた糞度胸は何処へやら。すっかり臆病になってしまっているらしい彼女はややあって、漸く頷いてその言葉を受け取る。  それから更に言葉の意味を租借するようにこくこくと首肯らしきものを繰り返す。 「ごめんなさい……」  蚊の鳴くような声であった。それでよろしい、とふんぞり返る。  しかし解らない。少年が胸の底に沈めていた疑問がふつふつと湧き上がって来る。  狐耳の少女。いきなり人の部屋に押しかけて来て、訳の解らない旅に彼を巻き込んでくれた張本人。  白痴みたいに抜けてるかと思うと妙に饒舌になって初対面の人間を説き伏せたり、妙に鋭かったりする。  ベアット家での一件でウォルは彼女に再評価を下していたのだけれど、その氏素性は益々意味不明なものに変っていた。 「そういえばさ。ツクヤって何処から来たの?どういうのか全然知らないや」  そんな事を思って何の気無しに呟いていた。だが、聞くなら今しかなかったろう。  あの黒服が黙認し、口うるさい御局は眠りこけ、誰一人として聞き耳を立てている今しか。 「……えっとね。じゃあ、ウォルは何処から来たの?どういう人なの?」  そっくりそのまま、同じ問いかけが少年に投げ返されてきた。  意外であった。いくらあの連中が緘口令を布こうが、彼女は知ったことでは無いとばかりに口にすると思っていたのだ。  しかし、そんな事なら簡単だ。幾らでも泥を吐ける。ははは、と冗談めかして笑いながら言葉を継げる。 「僕はほら、しがない冒険者だよ。荷物運んだり溝浚ったりとかさ」 「嘘だよねっ」  真っ直ぐで、何処までも透過するような瞳の色が少年の言葉を遮った。  何もかも照らし出し、一切合切逃がさないとでも宣言してるかのようだ。 「ウォル、誤魔化しても駄目だよっ。私、解るもん。目が動くんだよね、それで、少しほっぺたや顎がぴくぴくする。  汗だって出るし、鼻じゃなくて口で息をする。嘘ついてるとすぐ解るもん」  石のように少年の顔が強張った。引き結んだ口のまま顔を突き合わせて押し黙る。  また愚にも付かない事を言ってほしかった。そうすればきっと無かった事にしてしまえるだろう。  だが、そんな逃げの一手を少女は許してくれそうにもなかった。  少年は気づいていない。  彼が何の気なしに口にした一言は、誰でもないただの人間として関わる最後の一線を飛び越えてしまう一言だった事に。  少女もまた気づいていない。  彼女が問い詰めている事は彼にとって、誰にも明かしたくない忌まわしい記憶であると言う事に。 「煩いな……」 「うんっ。そういうと思った」 「ほっとけよ……知ったような口で」 「じゃあ、私も言わないもん」 「……俺が聞かないっていったらどうするんだ?俺が嫌でも聞き出すって言ったら?」 「ウォルはそんな事できないし、しないもん」  寝転がって顔を背け、後頭部で手を組み、眉を歪めていかにも全身これ不愉快と言った風にウォルは装う。 「いいか、これ秘密なんだぞ。思い出したくも無いし、誰かに言うなんか真っ平御免なんだ。  だからお前も絶対話せよ。誤魔化したら本気で怒るからな」 「うん。私も嘘はつかないよっ、でもウォルもだよ」  少年はおぼろげな記憶を探り始めた。それは彼が皇都にやってくる以前の出来事だ。  皇国の片田舎。荒れ果てた領土。朽ちかけた館。死に掛けた村──こう言ったイメージとは少しズレるけれども。   「僕は、そうだな、皇国の南の方の土地貴族の出だよ。血だけは古くってね。糞爺はよくそれを自慢にしてた。  何の役にも立ちゃしないのにな。借金ばっかり嵩んで持ってる領土も碌すっぽ使えないよな家なんざに」  語るべき事など掃いて捨てるほどあった。だが、思い起こすことと言えば何時も一種類だ。  からから乾いた笑いだけを吐き出す。ずきずきと米神が痛んだ。 「で、僕は爺が妾に面白半分産ませた子だった。母さんの顔も見た覚えが無い。多分産褥で死んだんだろうけど、よく生き残れたよ」  自嘲めいたその言葉は、酷く多くの意味を含んでいた。  織布だの、羊だの、酒だのの為に諸々の地主どもが土地の囲い込みを始めた昨今、小金を持った田舎者にはありがちな話である。 「色々あったなぁ。少なくとも人間扱いされた覚えは無いけどさ、ああでも多少の学をくれたことだけは感謝してもいいかもな」  囲い女に生ませた子供など、いい所が召使扱い、そうでなければ単なる無駄飯食らいか厄介者である。  だが、少年の場合さらに事情が込み入っていた。黙って聞いていたツクヤにウォルはやけっぱちな言葉を投げつけた。 「問題、五十も超えた狒々爺が必死こいて跡継ぎ作ろうと奮闘してやっと生まれたのが売女のガキ。  その後も一向手前ぇの女のガキは生まれない。そういうクソッタレはどういう行動に出るでしょう?」  人間扱いされなかった、と言う少年の言葉に嘘は無い。少なくともそういう連中へ下る所業を世間並みには味わってきた。  そして地主が従えてる土民連中も勿論ウォルが言う所の狒々爺とグルであった事は言うまでも無く、 文字通り居場所は何処にも無かった。それだけでも大抵の子供は捻くれるだろう。  それだけであればよかったのだ。精々片田舎の偏屈爺がくたばった後、どうしようもないボンクラが不精不精後継ぎになるだけである。  想像の範疇を超えているのか少女は耳も動かさずじっ、と聞き入っている。  喉が酷く渇いていた。エールの一杯でもあればもっと滑らかに口が動くに違いない。   「答えは簡単──年追うごとに思い通りにならないから、ってイカレていったのさ。随分怒鳴られたし、殴られた」  皇都でどれだけの苛立ちや屈辱を覚えようとも、手足をもぎ取られた上で嬲られるようなあの記憶には及ぶまい。  言葉は酷く淡々としていた。世の中には不幸が溢れている。だが、だれしも自らのそれが最悪であるように思えるものだ。  ──逃げ道はどんどんと潰されていった。好きだった本は焼き捨てられ、これまで話し相手だった乳母は暇を与えられ、 おまけに道を歩いているだけで後ろ指、石こそ飛んではこないが陰口は良く聞こえてくる。  勿論やることも無い。手を伸ばす端から梯子が外されていく、と言った具合だ。  何も無い。何処まで行っても空っぽだ。 「……きゅう」 「勿論逃げ出した。金も持ち出して。もしそれがばれてたらきっと今頃人殺しだったろうな。  何もする事がなかったから冒険者、なんてのになった。昔、本で読んで格好よかったから」  間違いなくそれは愚かな選択に違いなかった。だが、誰にも責められるような云われは無い。  話すことは全部だった。言えなかったし覚えてもいない枝葉末節はそれこそ山のようにある。  だが、これだけ伝えてしまえば少年のつまらない前半生がどのようなものであったかの説明には十分だろう。  沈黙が流れる。否定の言葉か、慰めの言葉の一つでもかけられていたら癇癪を爆発させていたかもしれない。  じろっ、とウォルの目がツクヤを捉えた。次はお前だ、と視線が語っていた。 「えっとね。遠くから来たの」 「遠くから?そんな事知ってるよ」 「ううん。そうじゃないの。私、お月様から来たんだよっ」  鯨が空を飛んでいた、と言うぐらい突拍子も無い話であった。  月、と言えば果てしなく遠い夜空に浮かんでいるものであって、付け加えるのならば皇国圏にあっては その光はひとえに太陽の威光の照り返しに過ぎず、最高位の事象龍の恵みの一つとしてしか語られない。  ならば己は天使か何かだとでも言いたいのだろうか。何ともふざけた物言いだった。  反応が返らないのを不振がってかツクヤは小首を傾げていた。 「……ほんとだよ?」 「それこそ大嘘だろ」 「ほんとだもん!」 「嘘付け!人が話したってのにはぐらかすのか!」  我慢ならなかった。少し気を許したかと思うとこれだ。客観的に見てみれば、それは少年の一方的な思い込みではあった。  だが、ウォルは残念ながら冷静ではなかった。少し狂気じみていたと言ってもいいかもしれない。   それが寝不足と疲労からきている事は明白だったが、一方で少女にもそれを察すべきだったし、責めを負うべき点は多々ある。  一々揚げ足取りめいた指摘はこの辺りで留めよう。  重要な事はツクヤの一言が少年の癪の虫を踏み潰したという一点である。  或いは腹の内に溜め込んだ鬱憤をゲロしたかっただけなのかもしれない。  言葉とは裏腹に何時の間にか、彼はツクヤに対してだけは好き放題口にするようになっていたからだ。  それはウォルが彼女の事を侮っていた為でもあるし、身の程知らずにも少女の前で背伸びしたかっただけでもある。  けれども、ぐっ、と口をつぐむ。一欠けら程残っていた冷静さが彼のちっぽけな怒りを踏み消していた。  幾ら男の面子を丸つぶれにされようが、ここで自制を失うのは尚見苦しいと言う物だ。 「あのね。えっと……ごめんなさい」 「訳もわからないのに謝んな。ほっとかれた方がマシだ」  割れたスレートの欠片を握りこむと力任せに遠くへ放り投げた。  ツクヤがそれを目で追っていた。何か考えていたのか、思い立ったように少女は立ち上がって少年に向き直り── 「ほんとだ、ってこと見せるから」  冗談のつもりか少年の声真似をして、そんな事を言い出した。  その瞬間まで、ウォルが彼女の言う事を何ら真に受けていなかった事は言うまでも無い。  鈴のように月が鳴る音を聞いた気がした。一瞬、奇妙な浮遊感。平衡感覚が揺らぐ。  何かが胸の内で崩れるような錯覚。驚きが追いつかない。先行する知覚が他の全てを塗りつぶしている。  全く記憶の中に存在しない事態だった。まるで、それは空を飛んでいるような。  ぎょっと、して目を大きく見開く。しかし、少年の体は彼の意思に反乱を起こしたみたいに全く動かない。  視界の中にツクヤが移る。月を背負った彼女が酷く大きく見える。立ち上がって、こっちを見ている。  何の感情も沸きあがらない。まるで、何かに押しつぶされているようだ。彼は何か訳のわからないものを見ているような気分になった。  ぐるぐると茶に落とした牛乳のように意識が混濁し、回転している。  その癖、意識だけはむやみやたらと明晰で、澄み切った水底を透徹と見透かしている気分。   ほんの少し視界を動かしただけで、そこにある全てが互いを調律する秩序を目まぐるしく変えているのが見えた。  緑色の瞳が彼をじっ、と捉えている。まるで、遠く話に聞く魔眼の如しだ。 「……これ、は?」  答えは無く、代わりに聞こえているのは歌とも声とも付かぬ音楽だった。  強いて言えば、それは無数の歌い手たちの声音が十重二十重と重なり近く遠く響きあう様に良く似ていた。  恐ろしく複雑で狂人の見る夢想じみてはいるけれども、しかしてそれは決して混沌ではない。  有機的な統一性を保ち、無限にも等しい部分の一端を遠く眺めている。  それは真っ直ぐに見据えたならば、余程の例外で無ければすぐに発狂してしまうほどの情報量であったが、 しかし、まるで誰かが彼を導いているかのように取捨選択され、整えられていく。  満天に散りばめられた諸要素が一定の像を結ぶ。それは少女の姿をしていて、さっきまで腰掛けていた屋根の上に違いなかった。 「ウォルが見ているもの、それをウォルが見てたの」 「自分の事ぐらい自分で」 「あのねっ、わたしっ思うの」 「……何のことさ」 「止まってるの。だから、動かすんだよっ」 「ごめん。何一つ解らないよ」 「んとね……」    呟いて少女は何事か考える。目の前に写っていたものが途端に姿を変えた。  それは一本の系統樹。彼にも見覚えがある。それは彼自身の来し方に違いなかった。  淀んでいる、という第一印象。それに対して肯定、と言う反応。  アヘンチンキを樽ほど飲み下したような幻覚。声と言う要素を外された誰かの意思が言う。  留めているものを外す、と。彼の時は止まったままであると。  誰かが、彼の額に手を触れる。細くて白い指。充足される。大きな渦動が包み押し流していく。  頭が割れそうに痛む。肉で組織された認識の媒体が変容しているかのようだ。  ──二つに分かれて混濁していた意識が覚醒する。  閉じて、それから一つになって再び開いた。  妙に頭がぼんやりとする。正しく狐に化かされたかのようだった。 「……今のは。ツクヤ?」  そして、彼にぞろ妙な事をやらかしたらしい狐娘を探す。その姿が見えない。  ひょっとしてまだ己は化かされてるのだろうか。落ち着いて考えろ。深呼吸を数度。肺腑一杯に夜気を詰め込む。  状況に変化無し。何処にも姿が見えな── 「────ッ!!」  唐突に。  それこそ全く脈絡を無視して、目の前の光景が耳には振動としてしか感知されない声と共に掻き消された。  首を捩り、眼を剥いて声の方向を見上げる。細い月が照らす夜。ゆらぎの凪ぐ音ならぬ音。さざめきが閉じ静寂が支配し。  そして全身の毛を逆立たせた悪鬼が、そこにいた。  恐ろしげに燃える緑眼二つ。髪を振り乱して奇妙な紙切れを指に挟んだ腕を撓ませている。  驚くべきことにそいつは空に居て、世の理など知らぬ存ぜぬと平然と重力を騙していた。  ウォルがまず最初に思い浮かべたのは驚愕の二文字。ここまでで刹那を二つ刻む。  指を二弾きする程の時間でそれが恐怖に摩り替わり吸い込んでいた息が悲鳴を押し出そうとして漠、と。  矢玉の如き速力で割り込んできた長細い札の群れが無理やり広がった少年の瞳孔一杯に威力を写し──  雲燿をブチ抜いた鈍色の光がそれを微塵と斬り薙いだ。  切り落とされた紙屑が音も無くひらひらと舞い散る。 「邪魔をするなッ!!ロボ=ジェヴォーダン!!」  その声で、正体不明だった化け物がクオ=イーファである事にウォルはようやく気づいた。  背後からはゆっくりと空へ這い上る紫煙。足音はしない。気配も無い。何時からそこにいたのかも一向頓着しない。  ただ鼻を突く煙草の臭いだけが存在を告げている。   「下ぁ見ろ。睨んでるぜ」  殺意の篭った怒声を受け流し、指し示した先にはツクヤがいた。  じっ、と恐ろしい程感情の無い能面のような無表情がクオを見上げている。  お前は一体何をしている、その一言のみを含んだ一切の反論を許さない眼だった。  射すくめられてクオが口端を噛む。だが、手には先ほど投げつけてきたのと寸分たがわぬ紙切れを確りと握っていた。  火薬庫で白燐燐寸を弄ぶが如き危うい均衡だった。  勿論、黒服の男はクオが間違いなくボンクラの餓鬼を抹殺するつもりであった事に気づいていたし、 彼女が所謂皇国域で言う所の魔法使いで、人間一人ぐらいその気になれば何時だって苦しめて殺害できる事も知っている。  放った札は、鶏の血とある種の植物、更には自身の血をインクに溶かし込んだ一品で、 描きこんだ意図はと言えば唯一言、死のみであるというなんとも実用性に溢れた代物だ。  その効果は折り紙付きで、即時効能触れれば即死、明快にして実に有効な呪詛を吐き出してくれる。  加えて、彼女が放ったものは勿論ながらそんな単種のみである筈も無く、他にも腐だの毒だの乾だのと、 えげつない札を主従事象連結方式で展開、組み合わせての面打撃を目論む二段構えと来る。  言うまでも無いが、これら全てそこいらの魔法使い崩れには不可能な離れ業である。    さて、ここでロボ=ジェヴォーダンが考察した所のものをウォル=ピットベッカーの場合に置き換えて考えてみる事にする。  ツクヤが訳の解らない事をぞろ言い始め、貧血でも起こしたか眼を回して気が付いたら同行者が紙吹雪をバラ巻いていた。  と、思うと黒服が脈絡無く現れてそれをばっさり切り捨てたかと思うと怒鳴られている──  以上である。要するにクオと黒服がやった事は余りに高級すぎて少年には全くもって、これっぽっちも理解できちゃいないのだった。    町に蔓延る脛傷の人種どもさえ裸足で逃げ出しそうなクオの形相に思わず卒倒しそうになった事は確かであるが、 さりとて彼も引くに引けぬ事情がある。ツクヤの答えを聞いていないのだ。  それが終わる前にすごすごと引篭もる訳にはいかない。無知は力にして幸いなり、正にその一言であった。 「あのー……ですね。一体全体何が起こってるんですか?」 「お前さんにゃ理解出来ん事だ。とっとと寝ろ、ウォル=ピットベッカー」  が、状況把握の試みはにべも無く否が突きつけられる。 「いや、そう言われても……」 「邪魔だ──そう言われねぇと解らんか?良いから戻れ。墜落せずな」 「無茶言わないで下さ」 「大変申し訳ないが今すぐその無茶を実行しろ。手前がいると話が進まねぇんだよ。詮索は無用、とっとと失せろ。以上だ」  ぺっ、と吐き捨てた煙草を踏み消し二本目をくわえて火を点す。ふわり、と不可思議な調子でクオが屋根の上に足を付ける。  彼女は恐ろしく真剣な面持ちをしていた。黒服の表情は夜影と帽子に隠れて窺い知れない。  これ以上は口を挟めなかったし、割り込む余地など何処にも無い。  彼の舞台は今宵、もう袖だった。  /  屋根の縁に掴まって寝室に戻るまで二度ほど転落しかけた。そして、中を覗くと別室だった。  石の隙間に手を差し込み、へばりつくように何とか降り、部屋に戻ったた頃には月が随分と高くなっていた。  その間は何も聞こえなかった。恐らく、睨み合いが続いていたのだろう。  今度こそ、完全に絞りかすだった。思考が完全に揮発している。眼と足だけが何とか機能していると言った状態だ。  だが、それでも一握りの心ばかりは残っていた。連中は結局己を蚊帳の外に置いているに違いない。  何の柵があるのか一向知った事ではない。だが、いきなり割ってはいるとは何事か云々。  そんな弱弱しい苛立ちが藪蚊の如く脳裏を旋回しているだけだった。  ベッドに突っ伏す。八つ当たりに枕を殴るがすぐに腕だけを空しく振り回しているような気分になって止める。  馬鹿馬鹿しい。柄にも無い真似をするからこうなる。などと、ぐにゃぐにゃの脳みそはとうの昔に論理的思考を放棄していた。  自己嫌悪までも萎んでいる。うつ伏せで投げ出した手足は痙攣し、そこから続々と眠気が噴出してくる。  何を考えようが、もはや気力までも折れ果てた少年は睡魔に対して抗う術を残していなかった。  開けていた目が裏返るような感覚。瞼が閉じているのか開いているのかさえ解らない。  事態を上手く飲み込めている、などとは全く思っていなかった。  情けない、と思った。腹も立った。宙ぶらりんのままでいろ、等と言われても納得がいく筈がない。  何より悔しかった。しかし、それもすぐに押し流されていく。  転寝──現か幻か。遠く、微かに声が聞こえた。  少年は最早、それを明確に聞き取る事が出来なくなっていたが、そんな事は関係なく途切れ途切れに続いている。  それは、矢張りと言うべきか言い争いであった。押し問答である。  ぎゃーぎゃーと煩い──どうして止めなかった。止めても無駄だった──何を言っている──言葉通り。  そんな事を言ったつもりは無い──お前が認めたくないだけだろう。そんなものは認めない──認める認めないは関係ない。  約束破りだ──破ってない。馬鹿な事を言うな──少なくともお前の言う通りにだけしろとは聞いていない。  ふざけるな貴様も──いいから落ち着け──に筒抜け──うんぬんかんぬん。  意識が消えて、沈んでいく。  何も考える気になれない。ウォルは今はただ、ゆっくりと眠っていたかったのだった。  next