人類の軍勢……大陸内同盟軍はそれぞれの思惑を抱えながらも、トルケ第二公   爵スティルを総司令官として、全軍を三分し進撃することを決定する。    オールベロウの月。近年寒さが和らいでいるとはいえ、未だ刺すように冷たい   トルケの冬空の下、兵たちは蠢き始めた。             『ライカ=メギトゥスの正義』(前)  その日、私は騒然とするフリトラン伯の陣幕の前に居た。  さあ進軍開始だと兵だけではなく、それに迫るほどに膨れた輜重隊の構成員が右に左に 走り回っている。多種多様な小売商、娼婦、芸人……。  無駄にもほどがある。  笑い声や怒鳴り声が飛ぶ中、ウンザリしつつも陣幕をくぐった。  傭兵隊長はいなかった。銀の髪の少女が一人居ただけだ。 「賢龍、殿……」  時間の無駄遣い以外のなにものでもなかったあの会議の中で、はじめて彼女を見た時は 我が目を疑ったものだ。  賢龍シャルヴィルト。  その名は人間が言うところの貴龍種。知性ある竜の楽園に居るはずのものであった。  私も、龍だ。  人の世に降りてすでに三桁を数える身だ。しかし彼女は古代龍の一種、ハイエンシェン トの末裔、滅びゆく種の最後の一人であり格が違う。  それにしても、何故――――何故あんな薄汚い傭兵隊長の横に居るのだ!故郷に居た時 でさえ、私は一度も喋った事がなかったのに! 「ああ――――貴女ですか。ライカ」  来るのが判っていたかのような言葉。名を呼ばれて私は少しドキリとした。  そして一瞬遅れて気付く。 「……私が何故ここに来たかおわかりだな。賢龍殿」  彼女が何故ここに居るのかはわからない。しかし、私に関しては明白なのだ。故あって 初代アルシオンの王と私は契り、常にアルシオン王の片腕として侍ってきた。そして、そ のアルシオン王国は王国連合加盟国でもある。  睨んでよいのか判らず、私は視線をやや下、彼女の立つ足元へ向けた。 「貴女だな。スティル『公子』を…………あの状況、誰も疑問には思わない。誰も再確認 などしない。彼は明らかにユニコーンに乗っているのだから。あの契約書とて、良く見返 せば彼の母のサインであるのに」 「ええ、たとえ彼の体が変質しているとしてもです、ね?」  彼を見た時違和感があった。  たとえば強力な呪物ならば、物を知らぬ農民とて恐怖を感じる。いくらかの才か、訓練 を受けた人間ならば、幻覚を見せる為の魔術を看破する事もあろう。我々は龍ならば、巧 妙に隠されたそれを微かに感じた。  疑惑――――純潔の乙女しか乗せぬユニコーンの不審さ。誰が知ることもなく、その場 に立っている賢龍。  推論は出来る。  ハイエンシェント。一握りの、神代の魔法を使うもの、生体に手を加える事に精通した 賢者や魔王、そう言った存在だけが可能であろう呪。  精霊にも近いユニコーンの知覚を騙しとおせるだけの偽装。公子という個人の器の上に 張られたラベルのみを張り替える。しかしそれは中身と看板の齟齬が生み出す歪みに耐え 続けるということだ。  行き着く先は中身の変質か器の崩壊か。  別人になる方がよほど安易。スティル=ランディバルトという個人を保持し、他のあら ゆる情報に痕跡も残さず性別のみを偽るというのは、それほどの代償を求めるような、回 りくどく手間のかかる事だ。  本来なら無意味な行為が、政治的には意味を持つ。 「高位魔人や学院のアデプトクラスが居れば出来ない芸当でしたね」  涼しげな顔で言う彼女。知性を発する物腰は以前どおりだが、しかしかつてあの楽園に 居た時とは違うように感じられた。その涼やかさが、昔はもっと退屈そうだった。今は楽 しそうに見える。  いや、彼女を見ている場合ではない。 「何故あんな事を」 「公子は公子の為には生きない……とあの『男』は公子に言いました」  私の非難にかぶさった声は、しかし私への釈明ではあるまい。私は彼女が何を言いたい のかわからなかったし、彼女もまた独白のように零した。  だがそこに現れる単語が私の心を乱す。  と。  私は振り返った。本当に何となく振り返って―― 「………傭兵隊長。いや、フリトラン伯」  油断していただろうか。彼女の前で他の事に気が回らなかったか。いやそれほど若いつ もりはない。だが事実として背後、もはや一歩分のところに居る。色の無い男。背と腰の 四振りの剣――――魔力を感じる。奇妙な感覚――――不快感か。  気付けば相手の外套の襟元を掴んでいた。 「貴殿の謀りか」 「公子が選んだ道だ。公位を継ぐ為のあらゆる手を尽くし…………傭兵部隊を使う」  白い髪の合間から見下ろしてくる瞳が磨き上げられた氷塊のよう。ただでさえ冬だとい うのに。  鳥肌が立つ。  フリトラン伯の言う事は、スティルが選んだ事と言うのは、破滅への道ではないのか。  全てを騙しながら権力を固め、外の傭兵隊長を抱きこむ……いやどちらが抱き込まれて いるのか自体分かったものではない。そんなものは王者の道ではない。  しかしではどうしろと言えばいい?スティル=ランディバルトは己を守るために他に何 が出来たというのか……。 「この戦の合間を縫って、この実績を以って、スティルは領内を説き伏せ公爵という実権 と実体を手に入れるだろう。フランセと同じく、スティルは改革者だ。己の決意と誇り高 さが、領土も民も己も…………守るべきものさえ焼き尽くすかもしれない、としても」  意外ではあった。淀みない返答。しかし眼前の男は、恐らく、必要なら必要なだけ喋る のかもしれない。  しかし/だから――――気に喰わない。 「そんなものは暴君だッ」 「ならばそうだ。誠実さと愛情によっても、暴虐の主にはなりうる」 「貴殿が吹き込んだのではないか!」 「一人の貴人、一人の男が望んだことだ」  その返答に迷いが無ければ無いほどに怒りがこみ上げる。その返答を私もまた、妥当な ものとして受け取っていることに怒りがこみ上げる。  しかしそれでも、スティル=ランディバルトの決意を認めるとしても、そこに入り込ん だこの男を見過ごす事はできなかった。  仮にも伯の称号を与えられた者が、人の上に立つべき貴人の座にいる者が、欺瞞を押し 通すのみならず、破滅の影を見ながら何もせず、あまつさえそれを認めるなどと!  その上で己の意思は無関係だと言い張るそれが、あまりにも醜悪ではないか!  それを是とするならば、あまりにも正義がないではないか! 「やはり傭兵か……」  苛立ちをぶつけるように、突き飛ばすように傭兵隊長の襟元を手放し陣幕を出る。拍子 抜けするほどあっさりと、外へ押し飛ばされる男。 「おおっ?」  突き飛ばした男の後ろから声があがった。彼を受け止めた男。がっしりとした黒髪の… ………あれは確か東国の…………。  同時に膨れ上がる違和感。  位置――――臀部。  風切る音――――私が放った回し蹴り。  手応え――――なし。 「さすがアルシオンの名を轟かす女騎士団長。いいケツだ」 「こうも無礼者ばかりかこの度の戦は!!」  首を傾け睨む先には東国騎士団の長ジュバ=リマインダス。似合わぬ金髪碧眼が不快極 まりない笑みを貼り付けている。  無表情も嫌いだが、へらへらしている男はもっと嫌いだ。  黒髪の男――――リマインダスより一回り近く上の壮年だ――が呆れたように溜息をつ いた。やはりあれも東国騎士団の幹部だろう。  東国。連合国の中では新参者。田舎者という評価もしばしば受ける。乱暴者とも。そし て『外側』との最前線にある彼らは、確かに武勇に優れる者ばかりなのだった。  とはいえ若武者に圧される気もない。 「……私が先約だ。しばし外していただきたい」 「馬と豚と蛇を抱きこんだと思ったら今度は連合の旧き星か。調子いいじゃねぇか?」  返答をよこされたのは私ではなかった。彼らもまた傭兵隊長を牽制しに来たのだろう。 東国は傭兵隊長と同じく主戦派ということにはなるが、東国として……そして若き長とし ては伯の動きが気に入らないか。  トルケ第二を背景に、ボレリアとヴァルデギアが接近を見せているとなれば、東国とし て云々以前の問題ではある。伯が出した補給を考えて兵数を絞るという案も、元よりやる 気のない中小の地方領主たちは喜んだだろうが、連合の中核派らは気が気でないはず。何 とか食い下がり、『公爵』と傭兵伯を全軍を三分割するうちの別々に配置させる事で手を 打ったようだが。 「伝統あるアルシオンはやっぱり違うってわけか?相手を突き飛ばすのが話とはよ」  軽い挑発は挨拶のようなもの。しかしそんな挑発にも、乗れるなら乗りたいと思ってい る自分が居る。  …………やはり苛立っているな、私は。  ちらりと見れば、原因のあの男は何も考えていないかのように立っている。私とリマイ ンダスのやり取り自体見ていたのだろうか?  だからこそ危険だ。  連合の保守派が懸念するような、軍内の勢力争いの問題ではない。この男が、何がどう なろうと知った事ではないという態度をとる事こそが私には恐ろしい。  残虐な傭兵隊長など至って普通だが、あの男は『あの』とか『レギオンの』とか呼ばれ る傭兵隊長ながら、封主であるファーライト側の反応も歯切れ悪い。その現実的な兵供給 力とただ働きの故か、独立君主的な振る舞いすら見せているではないか。一城の主程度な らともかく、『外側』の魔王と衝突するという時に自由にされてはたまらない。  何もかもが焼き尽くされるとしても気にしないなどと憚りなく言える『男』の何が信じ られるだろう。利のために敵に寝返る……ありえないと、考える気になれない。 「人の首領の前で穏やかじゃないな」  横目で伯を見るのがつい睨むかのようになったのは、とはいえ一秒二秒かそこらだった ろう。リマインダスに視線を戻しかけた私は、別の声に振り返った。 「無刀……」 「お?ほー」  先に反応したのは東国の二人だった。傭兵を幾人か引き連れているその相手は人間の男 で、大柄なリマインダスよりは一回り小さい。年は同じほど、二十台中ごろに見えた。傭 兵隊長もそうだが――わかりづらいが三十前後に見える――やはり若い。  私の警戒心が伝播したか、青髪の下の瞳がこちらを射抜いている。猛禽のような……獣 のような目。 「…………レギオンの副長殿か」  傭兵隊長の方はともすれば無気力で呆けているようにも見えるから分かりづらいが、こ ちらの男はまさに傭兵らしい。獣のような…………だから危険なのだ。心を伴わない力な ど諸刃以外の何物でもない。 「騎士様たちは団長が気に食わんと見える」 「カネだろカネ。団長のように儲けたいんだ」  副長と共に戻ってきた傭兵たちが好き勝手なことを口にしはじめる。私は、そして恐ら くは東国の二人も、一時場を離れることを考え始めた。  それが止まったのは、副長の声のせいだ。 「アルシオンと東国の…………強いのか?」  何を言っているのか一瞬わからなかった。 「やめなさい」 「シャル、俺はそれほど金をもらっていないぞ」  賢龍殿が発した制止の声を、鷹眼の傭兵は簡単に突き返した。私は戸惑う/呆れる/憤 激する。  この男は今私に喧嘩を売っているのか?そしてそれを恐らく隊長の代わりに静止する声 を聞かない?副長ともあろうものが?なに、金?  『男』は何も言わない。ただ見ているだけだ。  まさか、この傭兵隊長は副長すら御せていないというのか?  リマインダスが口笛を吹いた。  もしかするならば、この隊長は何も出来ないのではないか/目の前の副長にこそ実権が あるのではないか/実際レギオン最強の戦士として名を馳せているではないか/そんなあ りえない考えが浮かぶ。  スティルとの謀りをあれほどあけっぴろげにして見せて木偶の坊だと?我ながら愚かな。  傭兵団内の力関係がどうだとしても、ここで鼻を挫いておく必要は感じられた。こんな 無秩序な者達に、後々好きにされては堪らない。  この小競り合いでイニシアチヴをとれるなら…………。 「理解できんな」 「なるほど、わかるぜ」  だが、まさか最初から乗るわけには…………え? 「レギオンの副長殿としては、偉そうな騎士どもがそれに値するのか知りたいわけだ。ザ コとつるむのは真っ平ごめんってわけだ?」  朗々と語るリマインダスから逸らし、私は傭兵隊長を視線で刺した。 「できんが、こちらとしても無視はしかねるぞ伯爵。構わんのだな?」  傭兵隊長は首を縦にも横にも振らず、 「それをお前たちが望むならば」  ただそう言って下がった。  望む……それには私も入っているのか?私も望んでいるというのか?愚かな諍いを―― ――そうなのかもしれない。  その言葉と共に、私はリマインダスと同じく弾けていたからだ。  まさか龍態をとるつもりもない。違いを見せてやろうというだけのもの。  そしてリマインダスとて、東国の部族間抗争をのし上がり、信憑性は薄いが魔王とすら 単身で戦ったといわれる男だ。全力は出すまい。  2対1だが、言ったならばそれぐらいは受けてもらう。  襲う2本の拳を、傭兵は軽く捌いてみせた。  元より防ぐ事は出来るように放ったつもりだ。怪我はともかく、殺してしまうわけには いかない。  だがその腕の動きを捉え切れなかった。  そして…………相手は明確に反撃に入る動作までを、受けの中に入れた。  いや、何より、殺気が飛んでいる。  自分の心と体で、カチリとたつ音を聞いた。 「東国騎士団の長と、貴龍の騎士……」  そこでふうと息を吐く傭兵。 「視えるな」  その言葉を聴いた瞬間。私とリマインダスは剣を振り抜いた。  ――――本人の意図がどうだったのか、それは私の知るところではない。ただの無邪気 な喜びだったのかもしれない。  しかしその言葉が、私たちに大きな効果を与えた事は確かだ。  反撃の予感を漂わせた上での挑発ともとれる発言。  私は(そして恐らくリマインダスも)それを聞いては行かざるをえない。  全力で。  正面から。  これでも通用するか、と――――  やってしまった。そう思っても止まるものではなかった。  そこまでする気はなかった、と言っては見苦しい。しかしここで流血を起こすのは好ま しからざる事。未熟にも冷静ではなかったのだ私は。  眼を見開くキルツ。  東国最強を謳われた若者とこの龍の身。その二つを前にした男。  巻き起こる剣圧の閃光の直前にその眼が笑んだのは幻覚か。  次の瞬間にやってきたのは血と肉の感触ではなく、ただただ違和感のみ。  じぃんとしびれが鈍く響いた。  我が手に白剣なく。彼の手に黒剣なく。 「な」「……に」  右手に白剣。左手に黒剣。  ・・・ 「取った」  二剣を持ってキルツは未だ立っていた。二剣。私とリマインダスの武器。リマインダス のツヴァイハンダーは地に突いて支えている。  一瞬が回想される。  振った――――手を打たれた――――勝手に力が抜けた――――気付けばあやつの手に 剣が。  混乱を押さえ込んだ。何も私より強い者に会った事がないほど若くも物知らずでもない つもりだ。相手が強すぎるなどと戦慄したわけではない。これはそもそも強い弱いの話で はない!  しかし交錯の後に武器を失したなどと、戦士としての己が激震せずに居られない。 「無刀取り…………」  踏みとどまった意識が我に返ったのは、誰かの声を聞いたからだった。  そしてその僅かな時間に、私は選択を迫られる。  どうする?  戦う事は出来る。なんとでもやりようはある。今の一瞬で何がわかるわけでもない。次 の一撃で引き千切る事も、あるいは出来るかもしれない。強弱というのは、勝敗というの は、そういうものではないのだ。否、たとえ決しているとしても関係のない話だ。もし彼 我の技量差が明らかになったとて、それで尚戦わねばならぬ事もあるという覚悟を持つの が、誰かの剣であるという事ではないか。  問題は、今どうするのか、何を選ぶのかという事だった。  この沈黙の瞬間、私は間違いなく冷静なのだから。つまりは、つい手が出てしまったと いうようなものでは、もはやなくなるのだ。それですら言い訳聞かぬ事であろうが、今度 動くということは完全な殺意を振るう事になる。  明確な殺意を以ってこの男を殺すのか?  私が独りならそれも良いかもしれない。しかし私は騎士で、私の身はアルシオンの剣で ある。  そうである以上は、――――気付けばリマインダスの表情が消えていた。  ……どうする?喧嘩を買うのか?リマインダスを止めるのか?ただ様子を見るのか? 「ジュバ……!」  リマインダスを呼ぶ声は、眼前の傭兵でもなかったし、フリトラン伯でも賢龍殿でもな かったし、当然ながら私でもない。  今まで黙っていた黒髪の東国騎士だった。  彼を振り返り、はたとして視線を戻すとリマインダスは頭を垂れて地面を見ていた。 「あ〜〜〜」  唸るリマインダス。ずうっとそうするのかと思いきやすぐさま顔を上げる。  笑顔。 「いや!やるじゃねぇかオマエ」  とん、と肩を叩いたのは、当然『やられっぱなしは気に喰わない』であろう。全反応を 以って構えていたはずの筈のキルツが一瞬頬を歪ませる。そして、やおら力を抜いたかと 思うと、リマインダスと私に剣を投げてよこす。 「は」 「はっ」  頬を歪ませるキルツとリマインダス/これであいこ。  ……私は? 「ライカ、貴女はもう少し冷静だったと思いましたが」  う……。  私は一息吐くと構えを解いた。 「何を言われる。元よりただの軽い手合わせでしょう」  賢龍殿が言わせたいであろう台詞を吐いて、剣を収める。 「見定めるにしてはやりすぎだ」 「わーってるよ」  小声で交わされた言葉。龍の聴力で私が振り返ると、東国の騎士二人はもう去ろうとし ているところだった。 「ま、これでご安心いただけたかい?挨拶はこの辺にしておくよ」  黒髪の方の騎士の視線を感じて、そこで私は気づく。  東国はフリトラン伯の動きを警戒してきたのではない。  いや、それもあるだろうが、何より私を観察・牽制しにきたのだ。連合の旧き星、と彼 らが評したアルシオンがどう動くのかを。  だからこそ私が伯爵に接触した時、あえて割り込んできたのではないか。  ――――確かにアルシオンはフリトラン伯とファーライト守旧派を主軸とした勢力争い に参加する気はない。  あくまで魔王撃退の為に動いたのだ。その王道を守る事こそが、アルシオン国内をまと める手段なのだ。正義を失くしては、王座の正当性がかげる。  それを主とする国が現実には少ないというのは悲しい限りではあるが。  去っていく東国騎士の背から視線を外し、私はフリトラン伯の陣幕へと入りなおした。    ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 「馬鹿げた謀だ」 「それが使えるのならば、使えばいい」  冷めた空気の中で巻き戻った会話。 「だが私が居る。こうして抗議しにきた私は、確かに今は一人で来たが……」 「シャルの想定した通りだな」  その一言で私の言葉を断ち切る。  私の前で椅子に腰掛けた『男』は氷のように言葉を吐く。 「だからお前は、言わない」  判っている。私自身が傭兵隊長の謀を明るみに出す気などないことを判っている。そう して逆に傭兵隊長とスティル公子を陥れるような行為を、私は私に許容できない。それよ り何より、アルシオンとしても、その方が都合がいいのだ。  ファーライトの守旧派を軸とする連合中核派と、ボレリアやヴァルデギアを結び傭兵隊 長が生み出した対抗勢力。そういう二項対立が存在してくれた方が、アルシオンは中立を 保ちやすい。  だからこそ、東国の二人は帰ったのではないか。アルシオンは傭兵隊長に敵対する必要 はなく…………そして恐らく味方もしないだろうと。  アルシオンは関わらない。 「そしてアルシオンの軍には頼む事がある」  ……関わら、ない。 「何?」 「純粋に戦術的な話だ。シャルとジャックスが伝える」  貴殿は、と言いかけて、飲み込んで、そうするうちに男は立ち上がった。 「八個中隊四千。それに、必要な知識と適切な援護と格好の状況があれば、事象龍すら斬 れる男をつける。後は頼むぞ」  ――――は?  淡々と言って去っていく傭兵隊長。キルツが呆れて息を吐く。 「おだてられても嬉しくねぇ…………アンタの冗談は笑えん」  冗談…………くそ、あの男。案外言葉を弄するな。  気を取り直してキルツを見る。  猛る龍でさえこのような目はすまい、というような挑戦的で獰猛な瞳。  …………こやつらと共に雑念なく戦場を駆けられるのだろうか、そんな疑問が内に湧き 上がる。  と、無言のまま傭兵隊長は出口へと足を向けていた。 「部下に任せて、貴殿からは一言もないというのか、フリトラン伯」 「……お前には何の言葉も必要ない」  振り返った傭兵隊長に断言される。そういう問題か?よくもまぁこれで伯になどなった ものだ。ファーライトであれば拒絶反応を起こしたものも多かったろうに。私のような堅 物が多いからな。  自嘲が頭をよぎる間に、傭兵隊長は陣幕を出て行く。 「お前がアルシオンの正義であり、お前がアルシオンの母なのだから」  その直前の言葉は、明くる朝を迎えてなお、私の頭で響き続けていた。                                 to be continued.