3月14日。 世間一般は男性諸氏が財布とともに悲鳴を上げる日。と、兎卯から聞いていた。 こちらから想いを伝えておいて相手にさらに負荷をかけるなんて…。 と、思っていたらその勘違いは佐伯雅人先輩にしっかりと正された。 『あはは、確かにお金はかかっちゃうかもね。その日は気持ちのお返しをする日だよ。  …麻生さんは、その日は空いてるかな?』 そんなこんなのこの日。 私、“麻生奏詠”は今、助手席から流れる景色を眺めていた。 運転席には、最近になって免許を取ったと言う割に、すいすいとハンドルを操る“佐伯雅人”先輩。 『ホワイトデーに海を見に行こうよ』 などという突拍子もない提案を彼は笑顔で言ってのけた。 以前のバレンタインのお返しという事らしい。 その事を思い出すたびに、あの日自分のやった事が思い出されて顔が赤くなる。 そしてそんな顔が見られたくないので、顔を背けて景色ばかりを眺めていた。 今頃変な女と思われているかもしれない。 ……いや、寒さの抜けない三月の中旬に海に行こうと提案する辺り、先輩も変な人なのかもしれない。 PGは既に卒業式を終え、冬休みに入ってた。厳密にいえば先輩は既に学園の生徒ではない。 PG系列の大学の医学部への進学が決まり、寮から離れて一人暮らしを始めると聞いた。 バレンタインデーのあとも先輩は至極普通に接してくれていた。 それ自体は構わなかったのだが、あの時の私のキスがなかった事のようにされている気がしていた。 最初は胸のどこかがチクリと刺されたような感覚もあったが、今ではそれも感じない。 慣れたのかもしれない。 そんな所にこのお誘い。正直、不意打ちだった。 いつもの満面の笑みで話しかけてくる佐伯先輩。 それに柄にもなく慌てふためきながら二つ返事で答えた私。 …そういえば、こういう時の服がわからなくて、兎卯にも見てもらった。 失態と意識している自分に、また顔が赤くなるのを感じた。 「麻生さん、大丈夫かい?外ばかり見てるけど、酔っちゃった?」 「あ、いえ。そんなんじゃないです。先輩こそ運転で疲れてるんじゃ」 「そうだね…それじゃ、この先に休憩所があるはずだから、そこでちょっと休もうかな」 今のは先輩に触れなくてもわかる。私を気遣っての休憩だろう。 先輩は長距離テレパスの能力を持っているが、触れる事で感情の疎通も行う事ができる。 ちなみに最近わかった事だが、先輩は接触した際のテレパス制御が地味に下手だった。 「先輩、質問があるのですが。何故三月に海に?」 「はは、ごめんね。実はお返しが思いつかなくて。  友達に相談したら『海にでも行けば良い』って言われたんだ」 「……それで、海に?」 「口実にはちょっと不足だったかな?」 「わざわざ車でなんて。お返しなんか適当で良かったんです」 「一番に助手席に乗ってほしかっただけだよ」 「え?」 「あ、心配しないでね。ちゃんと一人で乗って練習はしてあるから」 そういって佐伯先輩は前を見たままいつものように微笑んだ。 先輩の言葉が頭の中を反芻していく。 助手席に一番に? それって。 え? 「それに、海に行くのが目的って訳でもないしね」 未だに頭の中を整理しかねる私に、さらに先輩は言葉を投げかけた。 あれ。今日は先輩が海を見に行こうって。 「あぁ、見えてきたね、休憩所」 先輩は私の思考を遮るように呟くと、ハンドルを切って駐車場へと入って行った。 休憩所。 申し訳程度のレストランに汚い公衆トイレや品ぞろえの悪いお土産店。よく見かけるタイ焼きの屋台。 こういうのは高速道路のパーキングにしかないと思っていたけど。 先輩は飲み物を買いに店の中へ入って行った。 私だけ暖かいところで待っているのが申し訳なくて、車のフロントに軽く腰掛けて先輩を待つ。 一応今日は平日。駐車場は疎らで、先輩の車以外は2、3台だけしか見られない。 三月の風が頭を冷やしてくれる。先輩を待つ間に考えを整理しようとした。 でも、上手くまとまらない。 これがネクストとの戦闘や学校の授業なら、答えなんて簡単に出るんだろうけど。 なんて考えたけど、不粋かも知れない。 折角先輩と二人で出掛けているのだ、悩むより楽しんだ方が先輩にも失礼がないんじゃ…。 …先輩と二人。これが世に言う『デート』なんだろうか。 いや、意識してなかったわけじゃない。 でもなんだか、その。 デートという言葉が、妙に気恥かしい。 「あれ、麻生さん?何で外に」 「先輩」 名前を呼ばれて顔を上げると、佐伯先輩がキョトンとした表情で私を見下ろしていた。 両手には紙コップが握られている。 「いえ、自分だけ中に居るのが申し訳なくて」 「気にしなくて良いのに。あ、コーヒーとココア、どっちが良い?」 「それじゃあ、ココアで」 「はは、やっぱり」 「…なんですか、やっぱりって」 「実は前に食堂で麻生さんを見かけてね。  その時麻生さんが砂糖抱えてコーヒーカップとにらめっこしてたから」 「……声かけてくれても良かったじゃないですか。先輩、性格悪いです」 「そんなつもりはないんだけど…。苦いのは嫌い?」 「好きじゃないです」 「そっか。今度から気をつけるよ」 なんて言ってはいるが、キチンとココアを買ってきてくれてる辺り、先輩はわざとやってると思う。 要するに、やっぱりこの人はどこかで性格が悪いのだ。 普段が優しい人だけに、こういうイタズラっぽい面が小憎らしい。 紙コップを傾けると、ココアが中から体を温めてくれる。 先輩を盗み見ると、コーヒーを飲みながら駐車場を見渡していた。人なんていないのに。 ちょうど良いので、先程の疑問を解消する事にした。 「先輩、今日は海に行くんですよね」 「うん?一応、目的地はね」 「一応?」 「言ったでしょ、口実だって。  まだ僕はバレンタインのお返しはしてないよ」 「お返し、って……。チョコは友人ので、私は――」 あの日、先輩に渡したチョコレートは友人が用意してくれていたものだった。 私が先輩に渡せたものなんて、ひとつしか―― 「うん。だから、“気持ちのお返し”」 先輩が近づいてくる。 ゆっくりと体を折り重ねるようにして、後退する私を車のフロントの上で追いつめて。 「あ―――」 私は二度目のキスをした。 体の上の威圧感が消えていく。 閉じた瞳を開くと、すぐそこに佐伯先輩の顔があった。 先輩は恥ずかしそうに、いつもの笑顔を見せてくれた。 「――ココアの味だ」 「…私は、コーヒーでした」 「あ、そっか。さっき飲んだもんね。ごめんね、苦いの――」 「…嫌いじゃないです」 それを聞いた先輩が、いつもの笑顔をくしゃっと崩して、可笑しそうに笑いながら私を撫でた。 私は恥ずかしさに口元を隠しながら俯いた。 …こっそりと唇を舐めたが、さっき飲んだココアとコーヒーの味が混ざっている。 そういえば、最初に先輩としたときは、よくわからなかった。 自分からしたくせに。 先輩からキスされた。 嫌じゃなかったけど、ひとつだけ引っかかった事がある。 「先輩」 「なんだい?」 「今のは、お返しのキスですか?」 「え?……うん。バレンタインの時のお返しだよ」 「……“お返し”で、キスしたんですか」 もしそうなら。 私は今どんな顔をすれば良いのだろう。 先輩はそんな私を見て、少し困ったような顔をしてから尋ねた。 「うぅん…伝わらなかった?」 「え?」 「……肝心な時にダメだな、僕は。…その、麻生さん。  もう一回だけ、いいかな」 休憩所を出た私たちは、再び車に乗り込んで海へと向かっていた。 …頭がクラクラする。 以前、先輩に頬を張り倒された時に精神感応で他人の感情が流れ込んだ事があったけど。 まさかあんな方法で伝えられるなんて…。 「…大丈夫かい?ゴメンね、僕もそんな器用じゃないから、他の方法が――」 「だ、大丈夫です。ちょっと追いついてないだけで、その、伝わりましたからっ…」 比喩でも何でもなく。 流れ込んできた先輩の感情が、頭の中を飛び回っている。 …別の意味で酔いそうになる。 「――麻生さんはさ。卒業したら、どうするの?」 「卒業したら、ですか。先輩は医師を志望してるんですよね」 「うん、一応ね。だからもっと勉強しなきゃ」 「…私は……」 言いかけて、淀んだ。 両親の仇を討つまできっと私は闘い続ける。 それが終わっても、私はまだ戦っているのだろうか。 独りで―― 「わかりません。考えた事、ないです」 「そっか」 先輩は短くそれだけ返した。 私は脚の上に置いた自分の手を、少しだけ握る。 考えた事はある。望みだって。 「麻生さん、僕の手をとってくれるかな」 「…先輩?」 「大丈夫、読んだりしないよ」 先輩はチェンジレバーに置いたままの手を指しているようだ。 先輩を信用してない訳ではない。でも、もし今の心を読まれたら私はどうしたらいいのか。 恐る恐ると先輩の手に掌を重ねた。 ……暖かい。 「うん、暖かいね」 「え!?」 「ん?どうかした?」 「あ、いえ、何でもないです」 ビックリした。私の手を事を言ったのか。 ――そっか。暖かいんだ、私の手。 「君はきっと復讐を第一に考えるんだろうね。例えその後の全てを犠牲にしても。  それを否定なんて出来ないけど、僕は君に『それだけ』の人生を歩んで欲しくなんかない。  …君はこんなに暖かいんだ。  きっと復讐が終わっても、出来る事がたくさんある」 「……私は、そんな人間じゃありません。復讐以外の事なんてきっとできない。  例え復讐が終わったとしても。そんな手じゃ、何も触れない」 「麻生さんは良いお母さんになるよ」 「……血塗れの手で、子どもを抱くんですか?」 「血に濡れたら、落とせば良いさ」 先輩はそう言って微笑んだ。 私は横目で先輩の顔を見ながら、重ねた手を握りしめた。 「復讐がどんな事か君はわかってる。だからそうやって悲観してる。  でもそれがわかってるなら、その先はきっと埋めていけると思うんだ。  …もしそれが君一人で出来ないなら、僕が埋めてみせる。…何が出来るか、自分でもわかんないけどね」 先輩は照れ隠しのように、声を漏らして笑う。 それにつられて頬が緩むのを感じた。 佐伯先輩の手から、より一層のぬくもりを感じる。 「出来るでしょうか」 「きっと出来るよ」 先輩の声が心地良い。 きっと、出来る。 それだけの言葉が、私を勇気づける。 あぁ、この人は。 きっとこんな能力なんてなくても、私に伝えてくれる。 「佐伯先輩」 「なんだい?」 「今日は、ありがとうございます」 「あははっ、どういたしまして」 車が進んでいく。三月を海を目指して。 海につかなければずっとこのままなのに。 先輩の手を握りながら、そんな事を考えていた。 「子どもも結婚も。縁なんてないと思ってました」 「そうかい?だとしたら悲しいな。気にされてなかった?」 「そうじゃないですけど、自分のそういう姿が想像できません」 「んー……。うん、綺麗だよ」 「…不潔です」 「あ、そっか。イメージ流れるんだったね。失敗失敗」 「…もう。勝手に想像しないでください。  ……見た時に、ガッカリしますよ」 「え?」 「何でもないですよ」