■Melodie de Ciel                            Layer 1 「大丈夫?何か、顔色悪いよ?」  言葉の割に、にやにやと笑いを浮かべて、幼馴染のルーディが声を掛けてきた。幼馴染 というのは得てして、夢と浪漫を喚起する要素だが、現実に幼馴染という存在を持つ俺に してみれば、夢も浪漫も手に届かない所にあってこそ輝く物だという事を、天啓のように 感得した訳である。そもそも夢や浪漫と言うのは、手に届くペンやパンという日常の物に 生じるのではなく、掴む事の出来ない星の光や、未だ形を成していない、未来の自分が書 くであろう、感動的な一大巨編にこそ発生する物なのだ。手の届かない物やまだ見ぬ未 知――その点を両方踏まえていない、既知の存在である幼馴染のルーディは、俺にとって は天地を回転させても夢や浪漫には成り得ないのである。  閑話休題。学術都市ウォンベリエの中でも、一、二を争う度外れた傾奇者達が集うと言 われる学部。――その中でも更に、トップならぬボトム争いで二、三の学科と競い合って いるのが、通称「学者科」。見事に生き残れば、学院研究員としての立場が予め決定され ているという、暇と金が無ければどうしようもない学科。その生徒としてこの学科に通っ ているのが、俺とルーディである。  その内の一要素――資金が、決定的に不足しているにも関わらず、奨学金とアルバイト で手に入れた賃金、そして切り詰めて浮かせた生活費を駆使してまでそんな学科に通って いる俺は、変人中の変人中の変人なのだ。  ――と、思っているのは事情を知っている連中だけであって、俺自身はわざわざそんな 変人アピールを行う訳も無い。髪型をアフロにする訳でもなければ、チェックのスカート に細長い帽子を被って、楽器を吹き鳴らしながら学校に来る訳でもない。俺自身、常人並 の身体と常人並のポテンシャルしか持っていないと思っている。実際は魔術的な要素も加 味されて、漸く総合的に「並」の人間となっているのだが、そんな細かい所まで気にする 人間は居ない。 「エド、もしかして、アレでしょ」 「答えの判っている問いは――」 「――確認って言うんでしょ」  チェシャ猫みたいに笑ってやがる。飽くまで俺の口から話させるつもりか、こいつ。 「サバイバル実習でな」 「うん」 「――ミミズのハンバーグ食わされた」 「あはははは!」  机を叩いて大爆笑。てめぇ、判っててフケやがったな。 「いやー、ティーちゃんのリークがあってマジ助かったわ」 「誰かと思ったら、ティーブレイク先生かよ。ああ、しかしあの人……いや、陶器も長生 きだよなぁ」 「だねぇ。で、ティーちゃんがおあつらえ向きの薬を調合したらしいんだけど、貰ってこ ようか?」  このテラゲイドウ。 「俺を実験台に売りやがったな……」 「良いって、良いって。座ってなよ。私、ちょっと行って来てちょっとクスリ貰ってくる から」 「なんで薬がカタカナなんだよ!?俺が直々に断ってくる!」  だん、と机を両手で叩いて机から身を起こす。――急に、くらっと世界が暗転した。 「わっ、ちょっ、何?ホントに大丈夫?」 「うるせー馬鹿。意地でも薬は飲まねぇからな……」  とは言ったものの、言葉にも力が入らない。突然立ち上がったのが何かのスイッチに なったのか、机に突っ伏してても異様に辛い。体調は悪くなる一方だ。  俺の事情をよく知るルーディが、やっと心配そうに尋ねてきた。 「もしかして――魔術実習とかあった?」 「ある訳ねーだろ。俺の素養を考えたら実習やるのは初級で手一杯だってーの。あとは座 学座学で知識を詰め込むだけだ」 「じゃあ……サバイバル実習で損耗した体力を補おうとして、それでも足りないとか?」 「ミミズ食っただけだぞ?」  そうなのだ。俺は生来の虚弱体質を、生来の魔力で補っている。魔力持ちには時折見ら れる体質だ。尤も、その魔力が人並み程度しか無いのだから、俺の場合は魔力を操る方の センスがあっても魔法が使い辛い。魔道具の支援を受けて魔力を補えば、それなりの魔法 も使える。だが、教員は揃って、魔力では肉体の能力エクステンドの効率を上げるだけに して、体術や体力を磨けと言って来る。俺自身も、動き回っている方が性に合っているし。 「余程ミミズが胃に合わなかったのかな」 「そんならお前の料理なんて食ったら脳溢血で死ぬわ」 「――後で覚えてなさいよ」  待て。メッチャ怖いから。 「となると――憑き物って線かな」 「憑き物だ?」 「そう。事典の低位の精霊種・悪霊種には確か、人間に取り憑いて魔力を奪う奴が居たよ ね。カゲが薄いから、先生らでもちゃんと見ないと判らないって」 「そんなん居たっけなぁ」 「兎に角!それなら先生に頼る他無いじゃない。どっちにしろ保健室がどっかの厄介にな る事は変わりないんだから、先にセンセんとこ寄ってもいいんじゃない?」 「っても……どの先生に頼むよ?」  この体質の所為で、どうにも先生には頭が上がらない。陰に日向に、講義の際は気を使 われるからだ。――余りいらん所で迷惑を掛けるのもなぁ。良いじゃん、保健室が先で。 「丁度良い先生がいるじゃない」 「あん?」  ルーディの顔に、チェシャ猫の笑みが戻ってきた。 「帰って来てるのよ。夢里センセ。あの――魔物生態事典を創った方」  ――ああ、どっちにしろ、俺は実験台ですか。  夢里皇七郎。  と、ドアの前にはやたらと達筆で書かれている。  学院校舎の奥の奥。地下図書館に近い場所に、夢里先生に与えられた一室が在る。廊下 の両脇には、未整理なのか整理済みなのか、どう見たって前者にしか見えない紙束や本の 類が、山のように積まれている。掃除もされておらず、足を踏み出せば埃が舞い、足跡が 付くほどだ。近付く人間もそう居ないのだ。――となると、俺が来る前からある、この小 さい足跡は――夢里皇七郎その人の物に違いない。  やばい。緊張する。  学院内では伝説的な人物だった。実際、あの大戦に参加して生き残っているという、歴 史的に見ても貴重な人物であり、魔物生態事典をその第一版から手掛け、今でも監修とし て手を加えているという人物でもある。  最近ではふらりと外出する事も多く、実際にその講義を受けたとか、姿を見たという人 すら少数だ。人種、龍種、エルフ種、妖精種やその他の生物の血が混じっているとも言わ れている。その上、学院に生徒として入学する前から、今のままの姿で生き続けていた、 とまで言われていると、神話の時代から生きていたんじゃないかという憶測にも納得して しまう。  これ、扉の前に立っただけで「其処に居るのは誰だ」とか言われたりしねぇ?  扉の前にすら立つのを逡巡していると、ふと、地下図書館の方から背の低い眼鏡の男が 歩いてきたのに気付いた。耳の形を見る限り、エルフかハーフエルフだろう。白衣を無造 作に羽織って、ポケットに手を突っ込んで堂々と歩いている姿は、生徒ではなくて、もし かすると助教授や研究員なのかも知れない。 「何か用?」  通り過ぎるかと思った、その少年のような見た目の男は、俺の方をちらりと見遣って、 そう問い掛けてきた。別にお前に用がある訳じゃねーッつの。自意識過剰も程ほどにしろ、 と思いながらも、人間以外の種族も入学してくるこの学院では、見た目を大きく裏切って、 相手が物凄い年長者、その上度外れた高慢ちきという事も大いにある。目を付けられるの も面倒なので、俺は無難な返答を返す事にした。 「あー、ちょっと夢里教授に用がありまして」 「そう」  短い返答を寄越すと、男は白衣から何かを取り出す。古い鍵束。じゃらじゃらと音を立 てて、その一つを小さい掌に掴むと、――夢里先生の扉の鍵穴に、無造作に突っ込んでガ チャリと回した。 「さ、入って。扉の鍵穴から中を覗く趣味があるんじゃない限り、だけどね――エド ウィン=フラットランド君」  何の躊躇いもなくドアノブを捻ると、俺の方に振り返る事も無く部屋の中に脚を踏み入 れ、ばたんと扉を閉めてしまった。  あ?  ――よく考えれば、俺も地下図書館への階段がある方からここまで来たのだ。こっちに は、夢里先生の部屋以外には、何も無い。だから、誰も訪れる事は無いのだ。  ああ、つまり。  俺は不審にも、夢里先生の部屋の前でうろうろしていた所、その夢里先生とばったり遭 遇してしまった、と言う訳だ。  今更ながら、夢里先生が俺の横を通り過ぎた時に、妙に懐かしい、甘い香がした事に気 付いた。  にやにや笑いながら、ルーディが言っていた事を思い出す。  ――夢里先生はね、サキュバスとヴァンパイアの混血でもあってね。近付いただけでエ ナジードレイン、触れられたらレベルドレインまでされて、骨抜きにされた所を、血と精 気を奪われるんだって。その上、アレでしょう?大戦の前から、どっちかって言うと魔物 よりの立場を貫いていたから。人間種を根絶する為に、大通りの街路樹と同じ数を並べら れる位、人間種の標本を集めて研究してるんだって。……私達、今度会うのは学院祭の研 究展示会場だったりしてね。  ちょっと待て、レベルドレインは勘弁してくれ。ああ、でも精気とか奪われるのは気持 ち良いって言うしなぁ。  下らない事を考えて、ちょっと本気で悩んで、それから結局、ドアノブに手を掛けた。 噂話は噂話。気にしてもしょうがない。――でもこの学院、結構生徒から失踪者出して るんだよなあ。先生は揃いも揃って、夜逃げだ何だって言うけど。  ちょっと、マジかよ?  深呼吸してから、どうにか気力を振り絞って――ドアノブを、捻った。この蝶番の軽い 事軽い事。一片後ろに引くと、予想以上に勢い良く開いて、反対側の壁にドアノブががん、 とぶつかって大きな音を立てた。  窓の無い薄暗い部屋の中央で、晶妖精を宿した鉱石の、ぼんやりとした輝きが見える。 その奥で、二人分のティーカップに、ティーポッドからの最後の一滴――所謂ゴールデン ドロップ――を丁寧に注いでいる、夢里先生の姿があった。 「随分時間が掛かったね――まさか、着替えでも覗けるとか思ってたの?」 「は?いや、その……すいません」 「何か後ろ暗い事でもやってた?」 「いえ……ドア、壁に当てちまったんで」 「魔力の制御が上手くいってないからだよ。変に力んでたし、そもそも体調も悪いでしょ う?顔色も悪い。――エルフ種でも無いし白子でもない。不死者みたいな顔色してたら、 誰だって判るよ。エドウィン=フラットランド君」  そうだ。夢里先生はさっきから―― 「俺の事、知ってるんですか?」 「成績はまぁ、上々かな。成績があんまりに悪くて、ゴマすりに来たとは考えられない。 ゴマをすられた所で、口添えする必要も意味も義理も無い。ああ、君の事だけじゃない。 僕がここに生徒して入学して来た時の同級生から卒業生まで、九年後に卒業した時の新入 生までの下級生。程度の差こそあれ、顔と名前くらいは全員覚えてるよ。ここに客員教授 として招かれてから今までのなら、成績と素行、簡単なプロフィールまで、入学してきた 人間のは全員覚えてるとも」  何の表情も変えずに、とんでもない事を言って来る。その癖―― 「まぁ……生徒としてここに通っていた間は、殆どの人間に興味が無かったから、そっち は“思い出した”とでも言うべきかも知れないけどね」  ――訳わかんねぇ。訳わかんねぇ事を、凄い寂しそうな表情をして言う。 「扉は開けるなり閉めるなり好きなようにしたら良い。とりあえず、用があるなら座って くれるかな、エドウィン君」  テーブルの反対側に片方のティーカップを置くと、夢里先生は机の下から細い硝子瓶を 取り出した。俺は結局、部屋の扉を閉めて恐る恐るソファに座ると、気になって瓶の正体 を確かめた。 「それ――」 「スピリタスだね――ほら」  アルコール度数九十パーセント超。とんでもない酒だ。夢里先生は瓶のコルクを抜いて 無造作に振ると、飛び出てきた飛沫の近くで指を弾く。その、たった一動作だけで、火の 魔術が展開され、飛沫が勢い良く燃えて蒸発した。 「歳を取るとね――何にでも慣れてくるものだよ」  言いながら、その中身を、たった一滴だけ、自分のティーカップに注いだ。  ――慣れてもソレなんだ。  微笑ましいやら腹の底が見えないやら。この調子で行くと、ビールジョッキ一杯でベロ ベロになるんじゃなかろうか。  閉じ切ってしまうと、夢里先生の部屋には紅茶の香が篭り始めた。その香の中に混じる、 微かに甘い香り。――夢里先生の香り。 「それで、用は何?」 「ええっと、その――なんつうか、自分じゃよく判らないんすよ」 「そう。じゃあ、用が判るようになるまで、紅茶の味でも楽しんで置くと良い」 「え?――その、良いんですか?講義とか、あるでしょう?」 「帰ってきたばかりだから、そういう予定は立ってないね。まぁ、確かに明日まで掛かっ たら、エドウィン君の方に用事が出来るだろう。――大事なのは、君が、どうしたいか、 だ」  夢里先生が眼鏡を外すと、その真っ赤な瞳が、直接鉱石の放つ隠微な光を反射して、淡 く輝いた。 「ボクが、こうした方が良いよ、と答えを提示する事は出来る。だがそれは、君にとって はどうあっても、唯のボクの我侭でしかない。いや、そもそも本来は、君が君自身の力で 解決するべき問題なんだ。だが君は、君自身の意思で、ボクに助けを求める事を選んだ。 それに応えて、ボクが力を振るう。――果たしてそれは、一体、誰の我侭という事にな るんだろう?」 「その――話が良く判らないんすけど」 「つまり、ボクの我侭は、この問題を、極力君の我侭として解決したいという事だよ」  問題、というのは、可能な限り自分で解決すべきだ、という弁舌は良く聞く。だが、そ れすらも、自分の我侭だ、と言ってのける目の前の少年染みた男が、少なくとも一筋縄で はいかない人間だ、という事を、改めて思い知った。 「その……体調が、悪いんです」 「知ってる。それで?」  表情が変わらないだけで、実は俺をからかっているんじゃなかろうか?夢里先生の性格 は苛烈で、底意地が悪いと、古株の先生には言われている。物分りの悪い馬鹿には厳し い――先生にとって俺は、猫に弄ばれる鼠のような物なんじゃないのか? 「ルーディ……知り合いに、憑き物じゃないかって言われた」 「ルーディ=サーキュレイト君か。君の幼馴染だね。――よく見ている。それで、君はど う思う?」  これだ。 「あの、先生。俺は――講義を受けに来た訳じゃないんすよ」 「ふむ。それもそうか。――どうもね、迂遠な物言いをする連中に囲まれてきたから、ボ クにもそれが遷っているらしい。一種の心理学的な転移現象かな」  ――そこで、何で嬉しそうに微笑むんだ?  音も立てずに、夢里先生がソファから立ち上がった。気付くと、――夢里先生の赤い瞳 が、目と鼻の先で、真っ直ぐに俺を見据えていた。 「うわっ」 「静かに」  こつん、と冷たい先生の額が俺の額に重ねられた。長く柔らかな黒い髪が、ふわりと広 がって俺の耳を掠めた。妙に細く、繊細で、柔らかい掌が俺の両頬を包んだ。薄っすらと 目を閉じると、囁く様な声で先生は呟きだした。 「――意思持ち応えよ、仮初の魂。たゆたい浮かぶ魔素と大気が、汝に器を、流動から孤 動へ――」  頭の先から、すうっと何かが抜けていく感覚。あれ、俺、このまま死ぬのか?身体が 段々前に傾いてきて、柔らかい何かにとすんと落ちる。目の前には人の顔。幽体離脱の王 道なら自分の顔だが、そうではなく、真っ直ぐに見下ろしてくる。夢里先生の顔と――蝋 のように白い、歪んだ笑顔を刻んだ仮面。 「――何だ、コレ」 「君に憑いていた物だよ。事典の分類で言うなら、悪霊種、心霊類、リドル・フリーク ス」  えー、ちょっと待て。  皇国内で声を潜めて囁かれる都市伝説。出会った人間は一人残らず死んでいる。ドッペ ルゲンガーよりも達の悪い、正体不明の悪霊。 「俺、やっぱり死ぬんかよー……」 「正確にはその成り掛けだけどね」 「――つうか、先生って確か、神代言語使えるんじゃありませんでしたっけ」 「変な所を気にする男だな、君も。神代言語は余りにも、どぎつ過ぎるからね。色で言う なら極彩色。リドル・フリークスは人間の意識から生まれ出たものだから、神代言語なん か理解しないし、そんなもので呼び掛けたら、君の意識ごと持って行って粉々に霧散する だろう」  俺、どんだけ綱渡りしてるんだよ。 「しかしまぁ……へぇ、コレがリドル・フリークスか。もっと、どうしようもない化け物 だと思ってましたよ」 「ヒトのカタチをしてるのが理不尽かな」 「ま、人間ほどとんでもない化け物もいませんがね」  夢里先生が、顔に手をやって可笑しそうに笑った。それから、その手を横に滑らせて、 自分の顔に掛かっていた髪を、耳に引っ掛けて後ろに流した。――その拍子に、ふわりと 優しい香りが舞う。 「知りたいという事、知って欲しいと言う事。ある物を真似るのは、高度な同化作用の第 一段階だ。Organe de l'aventurier仮説を聞いた事は?」  俺が首を振る事など気にした風も無く、先生は話を続けた。 「――ふむ、今は結構微生物学の方も進んでいるんだったかな。早期から目を付けてたの はギムリアの奴位だったし。――病毒の方はどうだったかな?ともかく、アレらが感染す る過程で、特定のレセプターを選り好みするのも――或いは、人間を理解したいからなの かも知れない。少し詩的な解釈だけどね」  そういえば、夢里先生はどちらかというと神学論の人だったな、とふと思い出す。 「事象龍。それと――エルダー」 「少なくとも前者に関しては、内か外か、という問題に決着は付いていないけど、まぁ、 そうだね」  ――今度のはピンとこない。神学論を本格的に齧っている訳ではないし。 「さて、リドル・フリークスの話に戻ろうか。彼らはね、人間の、知って欲しいと言う意 識なんだ。発生の過程で言うなら、極東の一部の妖怪と共通する所がある。――知的生命 体の知的欲求は大きく、知りたいと言う欲求と、知って欲しいという欲求に分かれる。こ のリドル・フリークスは、君の知って欲しいという欲求だけを吸い取って成長した物だね。 力の絶対値も小さい。精々、君に答えられる一つの質問を問い掛けるのが精々だろう」 「それに答えたら、俺は解放されるって訳ですか」  スフィンクスの謎掛けかよ。そう思った俺の頭の中を読み取ったかのように、宙に浮 かんだ白い仮面――リドル・フリークスが頷くように揺らいだ。  ――お前は、夢里皇七郎という人間が好きか。  えー、何だよソレ。  周りが薄暗いのが有難い。こっぱずかしい質問をぶつけられて、顔が火の様に熱くなっ てきた。夢里先生は気付いていないか、そもそも気を回していないのか、平然と口を開い た。 「こんな質問なら、ボクが代りに答えられるくらいだ。ボクが答えた所で、リドル・フ リークスは耳を貸さないだろうけど。ボクとエドウィン君は今日ここで顔を合わせたばか りだ。好きか嫌いかなんてレベルじゃない。――それとも、夢里皇七郎は人間じゃない、 という方の答えかな。ふむ、これは意外に――」 「好きだ」  夢里先生の言葉を遮って、言った。 「好きか嫌いかと言われれば、俺は夢里先生が好きだ」  リドル・フリークスの姿が、ぼんやりと拡散していって、消えた。  ――どっ、と疲れが来た。 「あー、もー、何て厄日だよ」  毒づいて、寝返りを打って、やっと気付いた。俺の頭の下には夢里先生の白い太腿―― 要するに、ずっと前から俺は夢里先生の膝枕の世話になってたっつー―― 「わー、わー!」 「じっとして。……あのリドル・フリークスは、君の魔力そのものだ。それが霧散したっ て言う事は、今、君の身体を維持する魔力は底を付いている訳だ。下手に倒れられるより、 回復するまでこうしている方がボクの面目と言う奴にも良い」  俺が良くない。憑き物がよりにもよって、リドル・フリークス?正体不明の揺らめく殺 人鬼。魔物生態事典にすら、詳しい詳細は――あ? 「――夢里先生、どうして、リドル・フリークスの項を改稿してないんすか」 「簡単な事だよ。リドル・フリークスは、皇国に存在する多くの知的生命体の、知って欲 しいと言う意識の集合体だ。自分が知って欲しい事、他人が知って欲しい事、自分は知り たくない事、他人の知りたくない事――そんな質問を矢継ぎ早にぶつけられて、正気で生 きられる人間なんてまず居ないよ。質問に答えなければ、その強固な実体で物理的に対象 を抹殺する。リドル・フリークスがどういう存在であれ、人間にとっては、強硬的な対応 策しか存在しない、危険な魔物でしかない。その正体を事典に記した所で、そんな物は誰 も呻吟しないよ」 「でも」――学者の目的は、真実を知る事、じゃないのか?  言葉に出す前に、夢里先生はその顔に笑みを浮かべた。諦めたような笑み。 「さっきも言ったかな。知的生命体の知的欲求は二つ。その二つは切っても切れない関係 にある。――ボクは、色んな事を知ってきた。知り過ぎてきた。それでもまだ――知らな い事が多くある。知る事に、疲れてきたのかもしれないね。知りたいと言う欲求が薄れて くると、知って欲しいと言う欲求も薄れて来た。――待てよ、そうか」  母親が子にそうするように、膝の上の俺の額を撫で、前髪を梳きながら、夢里先生は独 り言のように呟き続ける。 「情報の熱的死……複雑系の、フラクタル構造か――。人体は一種の小宇宙だ。国家 も――それから、ガイア理論。太陽系……銀河。知る事はインプットで、知って欲しい事 はアウトプット。ふむ、宇宙の情報的なエントロピー飽和、情報の熱的死を予言したのは 確か、マクラギ――じゃない、クロヤの方だな。デリンジャーの手掛けたわんこが、その 影を追っている。宇宙の情報的死が、ヒルベルト空間へと無限大に発散していく――?い や、だけど、ビッグクランチモデルに添えば、情報は一点に縮退する。不完全な物理的縮 退モデルでさえ、周囲に質量の30%近いエネルギーを放出するんだ。外部の干渉が無け れば、波動のパターンは保存される。縮退した宇宙はむしろ、アナ/カタ軸へ展開するの か?そして、ヒルベルト空間へ無限に展開する――ああくそ、チェスボードの上のこの宇 宙は酷く限定的だ。断定するには、情報がもう少し足りない」  目の前の、学者、という生き物に圧倒される。垣間見える人名は多分、過去や現在の学 者の名前だろう。自分の中の知識、経験と他人のそれを重ね合わせ、象り、一つの形に纏 め上げる。あの事典を創り上げた時の様に。――学者。その全身で未知を既知に切り分け 続ける彼らにとって、今のこの時間すら、一瞬で歴史的な瞬間に変えられてしまうのかも しれない。  俺は今、音を立てて歴史の中に組み込まれているのかもしれない。ルーディとのくだら ないお喋り。講義をフケて得る、ささやかなまどろみの時間。――まるでその対極にある ような、学者と言う生き方。 「夢里先生は――やっぱり、凄いな」  考えに耽っていた夢里先生がふと、今この瞬間、俺の存在に気付いたように、その双眸 を真っ直ぐ俺の瞳に向けた。 「君の方がずっと素敵だ」  ――ちょっと、待ってくれ。細められた双眸が、その唇が、少し近付く。先生の右手が、 俺の左頬から、顎を通って、右頬までを撫でた。それから、その掌は静かに下りて、俺の 首筋に降りた。繊細な白い指の下で、俺の頚動脈が忙しなく跳ねる。  ――生きていると言う事。先生が声も無く呟いた。 「私が思うに、この世で最も慈悲深い事は、人間が脳裡に在る物総てを関連付けられずに いる事だろう。我々は無限に広がる暗黒の海の只中、無知という名の平穏な島に住んでお り、遥かな航海に乗りだすべく謂われもなかった――」  俺の前髪を梳きながら、先生が歌うように言葉を紡ぐ。 「――それぞれの分野で懸命の努力をする諸科学は、これまで我々にに害を及ぼす事も殆 ど無かったが、何時の日かきれぎれの知識が総合されるなら、現実は勿論、その中におけ る人間の恐ろしい立場にかかわる慄然たる景観が顕わになり、我々はいずれ、思いもかけ なかった事実の開示によって発狂するか、致命的な光を遁れて、新たな暗黒時代の平安と 康寧の中に逃げ込む事だろう」 「あの……」 「前時代の、アンニュイな科学者の言葉だよ。でも――そうだな。脳神経のシナプス同士 が、単純な電気信号で以ってお互いの存在を知り合い、知らせ合う――ボクは、こんな単 純な事が、こんな単純な事こそが。生命が唯、こうしてあるっていう事が、とても尊くて、 素晴らしい事なんじゃないかって、最近思うんだ」  ――君が知る必要のない事だ、と。そう言っているようにも聴こえた。 「でも――俺は、知りたいんだ」 「知っているとも。だから――学者になる、だね」 「――はい」  夢里先生の小さい手が俺の頬を撫でた。 『吾が身の内より汝へ』  神代言語。――ワンワードで奇跡を成す、人外の知識。 「さ、これでもう立てる筈だ。――エドウィン君」 「ああ、えーっと、はい」 「それとも、膝枕が恋しいとか言うつもり?」 「もういいです、大丈夫です、立ちます、すぐにでも」 「おっと」  勢い良く上げた俺の頭を、夢里先生は気の抜けた声を上げながら軽々と避けた。 「これでもう、君は大丈夫」 「はい。御蔭様で――って奴です」 「縁があれば、また顔を合わせる事もあるだろうね。――っと、そう言えばまだだったか な」 「はい?」  二人してソファから立ち上がり、間抜けに顔を向け合いながら、突然、夢里先生が言っ た。   ハ  ロ  ー    グ ッ バ イ 「ボクは夢里皇七郎だ。――また、何時か」 「――ええ、また、何時か。――ありがとうございました」  夢里先生が片手を伸ばす。俺は、反対の手でそれを掴む。  ――互いに知り合い、知らせあう。  ほんと、この部屋が暗くて助かる。 「先生――これって、そうじゃないすか?」  先生が首を傾げた。 「こうして肌で触れ合うって事は、決して一方的なコミュニケーションにはならない。俺 も――それから夢里先生も。こうして生きています」  やばい、顔を真っ直ぐに先生に向けられない。 「俺の何倍も生きてる先生の方が――やっぱり、素敵なんじゃないんですかね」 「はっ!」  一瞬、耳を疑った。先程まで温和だった先生の口から、短い、嘲りのような笑声が上 がった。その癖――その癖、顔を完全に逸らして、恥じたように表情を隠している。―― 震えが、握手した手先から伝わってきた。 「ほんと、歳を食うのは、これだから――君も、あまり大人を泣かせるような事を言う もんじゃないよ」 「……すいません」 「褒めてるんだ、いっそ踏ん反り返れ。――その瞬間、時計塔の上まで転移させて、ボク の脚で蹴り殺すけどね。さ、君が余程の悪趣味でないなら、さっさと部屋から出て行け」  軽い握手――そのまま、振り返らずに扉に向かった。  夢里先生の部屋のドアの蝶番は、相変わらず、酷く軽い。何の抵抗も無く開き、何の躊 躇も無く閉じてしまう。  ――今頃は、俺の事なんてすっかり忘れて、ほんの少しだけアルコールの入った、ぬる い紅茶を味わっているに違いないのだ。  ため息が出た。 「――大丈夫なもんかって」  両手で顔を覆う。――もしかすると、泣いている夢里先生に、もっと別の言葉を掛ける べきだったのかもしれない。それか、酒の相手になるとか。突然沸いて出たような数ある 選択肢が酷く恨めしい。  扉はもう、閉じてしまったのだ。  知識の量も、見えている物も違う。相手は男で、しかも、夢里先生の記憶には、大切な 人達の思い出が、今も生きているかのような鮮明さで、確かに息づいている。  ――でも、仕方ないだろ?  知りたいという事。知られたいという事。目の前の生き物が何なのか。目の前の人間が 一体、どういう人間なのか。  ああ、成る程。――学者の本質という奴は、意外に陳腐で有り触れた物かも知れない。 「追いつけっかなぁ――」  握手した手に、夢里先生の熱が残ってる気がして。ただその程度の事が、嬉しくて、や るせない。