ダブル / ジョーカー                  一話:表                 『D機関情報』  ドクター・ストレイ・ストレインジは最高の学位たるその称号通り、知の人だった。そ の知識欲は尽きることがない。たとえば、そう、皇都中央の皇宮の、その隅の更に地下深 く……『研究室』と呼ばれる部屋、そして皇国による製造研究機関においてドクターが見 ているそれさえ、彼にとっては解剖し、調査する為の対象でしかなかった。 「ところで」  ドクターが視線の先のものへと声をかける。その声はひどく幼い。数十年前、前皇帝の 頃よりこの地下にて蠢く彼は、しかし少年の姿のままだった。  研究の成果。肉体は若々しいに越したことはないと彼は思っている。知を重んずる彼は、 しかし肉を軽んじるようなことはない。いやむしろ彼は肉体というものに並々ならぬ関心 を抱いていると言って良い。だからこそ、彼は今眼前にあるものをかつて研究対象にした のだ。 「ところで、ねえ、ザーラス」  彼は見下ろした武具の一つを軽く蹴る。武具。十三個の武具だ。それらは紫色に輝いて いている。 ≪……なんだ≫  蹴られた武具から声。酷く面倒臭げ。それもかつて彼が生物に寄生して生きる魔の鎧、 上級リビングアーマーであったのが、他でもないドクター当人によってこのように分割・ 再生されてしまったとあれば、むしろ穏当すぎる態度だろう。  剣陣列行ザーラス。それはかつてかの『魔同盟』において剣の6の座にあった上級魔人 の名。ドクターはそれをも己の知識欲の糧としたのだ。それが上辺とはいえ味方であった 頃に。  最上級魔人を超える検体が、そう簡単に手に入るだろうか?否である。故に、ドクター は倦んでいた。確かにザーラスを調査することによって、多くの研究が歩を進めた。つま りそれは結果が出始めている。そしてザーラスを『複製』するにいたり、現皇帝に特に有 益と認められ、更なる改良を命ぜられているとはいえ、人工的魔人生産の目処はもはやつ いたと言っていいだろう。既に第一号はその正体を伏せられたまま軍に籍を置いた。  新たな刺激が欲しい。  新たな検体が欲しい。  ザーラスを超えるものが存在しないわけではない。いくらでもいるだろう。たとえば、 ザーラスの属した封鎖結界機構『魔同盟』においては、ザーラスのような五十六人の魔人 より、いやそれとは存在の格の違う者が、二十二名の『事象魔王』が居る。または、そこ までいかずとも、魔王を名乗る魔族の君主たちは何名もいる。東の機械兵のサンプルも欲 しいし、古代種に関しても何か掴めそうな違和感を持っている。更に多くのサンプルさえ あれば……。  しかしどれもそのサンプルを手に入れる事が難しい。実働者が足りない。そもそもザー ラス自体が、『研究室』の為の実働者だったのを、それよりも研究対象にしたいという欲 求が抑えられなくて、皇帝の許可の元、そうしてしまったのだ。眼前に転がる武具とザー ラスのコピーはその穴を埋めてはくれるけれども、それでも足りない。圧倒的に足りない のだ。  ドクターはもう一度ザーラスを、その頭を軽く蹴った。子供のような仕草は、その肉体 が故だろうか。いやむしろドクターのその精神的幼さ故に、彼はその体に収まったのかも しれなかったが。 ≪……なんなのだ≫  煩わしげに魔人が呻いた。  ザーラスにも大体のところはわかっている。つまりは、ドクターは暇を持て余している のだ。だからこそ、ドクターはそれに僅かな興味を抱いていた。そうでなければ、気にと めない程度の興味だった。 「D……」 ≪む?≫  ドクターがようやく口にした単語は、あまりにも短すぎてザーラスは反応に窮する。 「キミがやってきたのとほぼ同時期から、『D』というサインが増えてやがるんですよ。 この『研究室』は皇国の暗部っつーやつです。前皇帝陛下が組織した皇帝直属の外道組織 ですよ。あらゆる人道を排して皇国と皇帝の利益の為だけに解剖し調査し製造する――― ―ではこのサインは何なんでしょうね?」  ばさりと広げられた命令書。そこには確かにその文字がある。ザーラス自身、このよう な姿にされてしまうまでの短い間だが、『研究室』の戦力として使われていた際にそれを 眼にした覚えがある。勿論、彼はそのサインが不可思議なものだとは知らなかったが。  ザーラスがここにやってきたのは、ザーラス本来の主が敗北したからだ。あの恐るべき 魔術師。底知れぬ人間。死の恐怖を超えた男。ブラックバーン=アームによって魔鋼将軍 ザーフリドは封印されてしまった。  あれは北のヴァルデギアと皇国の戦闘の最中だった。あの時皇帝が失ったのは第十二軍 の長と勝利。皇帝が手に入れたのは、ザーフリドと彼らだ。しかしそこに『D』を連想さ せるものはない。まして皇帝直属の裏組織に指示を出すものなど。 ≪思い当たることはない。あったとして教えるとは限らんが≫  ドクターはザーラスを利用した存在だ。元々からして不本意な立場。それでもそう答え るのがザーラスの身のように堅い律儀さを表していた。または現状に甘んじる事に抵抗の ない生ける鎧ならではの諦めと妥協でもあったろうが。  だから暇つぶしに付き合うというなら、別にそれはそれで悪くはなかった。何より動け ば動くほど、機会というものは巡ってくるものなのだ。 ≪が、……確かあの後、我々が殺した軍団長に新参者が抜擢されたのではなかったか?≫  沈黙。  時間をたっぷりととって、ドクターは「ああ」と吐き出した。魔鎧であるザーラスもそ の停滞を気にすることはない。 「そーいやそんなのも居やがりましたかねー。キルツ=レギオン……とかいう」  それは五年前の事で、皇国とヴァルデギアの……そして魔将軍との争いは世界を緊張さ せた事件の一側面でしかない。キルツという名の傭兵は、東で戦っていたという。そして 戦いの後に、皇国軍団長を任せうる後継者としてスカウトされてきた。 「なるほど、少し調べてみないとならねーってわけですか」 ≪しかし珍しいな。何故そんな事を気にする?≫  もっともな――――人間らしい質問。ドクターは、まさにドクターのように指を立て、 もう片方の手でかけていた眼鏡をずり上げた。研究室に僅か入る外光が反射し、硝子が白 刃のように輝いた。 「まーそうですね。僕様はようは飼い犬ってぇやつですよ。だけどねぇ、ザーラス、何も 全てを委ねようってわけじゃねーんです。上の気持ち一つで、何もかも全てを失うわけに はいかねーでしょう?キミが僕様のボディガードをやっていた頃の事を、思い出してみや がりなさいよ」  それは今とて変わらぬ心象ではあったが、ザーラスは無言で通した。  数日後も、ドクターはザーラスの頭部だったものを足で弄びながら、研究室の奥で黙考 していた。  ドクターは煙草を吸わない。強い酒もあまり飲まない。案外外に出るし、意外と睡眠時 間を犠牲にしない。肉体を無駄に痛めつける趣味がないからだ。  だから手持ち無沙汰にザーラスだったものを弄り回しながら、頭の中で記憶を弄り回し ている。  疑問を直接皇帝にぶつけるというような不用意な行為はしなかった。『研究室』の室長 であれば、皇帝に会う事は可能だ。話す事も。しかし探っている事をあまり皇帝に知られ たくはないというのが、ドクターの正直な気持ちである。何も言われなかったという事は、 何も伝える気がなかったという事であろう。ならばそこをあえて、しかも今頃になってほ じくり返す事に、先方が不快を示す可能性はないでもない。  ドクターは現実主義だ。人道を考慮しない程度に狂人ではあっても、無用の障害を避け ようともしない程度に奇人ではない。  そういうわけで調査に進展は見られないというのが実際だった。そもそも自分に来る命 令書以外で、『D』のサインのついたものが見当たらない。何かと理由をつけたり、盗み 見たしてみたが全くない。一度だけ見つけたのは常設十二軍団の第十軍『裂攻軍団』への 命令書のみだ。去年、彼らが出撃した時の。  多くの些事には関わっていない。それでいて『研究室』や軍を動かした記録にちらりと 見える。重要な件にのみ現れている。  現在所長が出かけたとかいっていた魔法研究所にはどうか。あのサインが見られるだろ うか。と考えた所で、足元から声がした。 ≪…………D機関≫ 「ン?なんです?」  数日前とは逆に、ザーラスの呟きにドクターが眉根を寄せる。 ≪D機関だ。そういう単語を聞いた事を思い出した≫  その返答に、ドクターの眉根に寄せられた皺は更に深まった。 ≪『研究室』に来る前の事だな。皇帝とブラックバーン=アームの会話の中に出てきたよ うな気がする。つまり私をどこに配置するかという話題だな……≫  ドクターはザーラスに心を許したつもりはない。いくらバラバラに砕かれた後で自分の 手によって改造されたモノだとはいえ、その魂はザーラスのものだ。人の心に滑り込み肉 体を奪う魔鎧ならば、油断はならない。  しかし騙すにしてはあまりにも些細だ。更に裏を疑うには今のザーラスの言動がそれほ どの何かとは思えなかった。とっかかりがない以上、警戒は維持してもとりあえず進んで みる方がいいとドクターは判断する。 「フーン、なるほど。やはり軍団長ですかねえ……」  十二……いや十三人の常備軍団の軍団長は、それぞれが皇帝に直接指揮権を委譲された 存在だ。参謀部は存在するが、あくまで助言機関に留まる。一人を除けば彼らは皇都の市 民ならば誰もが知っている公の身であり、所詮は汚れ役であるドクターとは違う。最後の 一人もまた、暗黙の常識ではあるのだが。  ともかく政務官以外では皇帝に次ぐ最上位の要職であり、実際に『D』のサインの入っ た命令書を受け取っている可能性のある彼らぐらいしか手がかりはない。十三人目に会う のは遠慮したかったが、それは案外彼が『D』の当人かもしれないと思っている相手でも ある。あの『ドラゴンヘッド』ならば、なくはない。彼は五年よりずっと以前からそこに 居るが、何か理由があるのかもしれない。  だがもしそうでないとしたら、自分の知らない誰かが居るということになる。しかもそ の者は軍団長への命令書に皇帝と共にサインを入れているのだ。  しかもそれは、ザーラスの言葉が真実ならば『機関』と名づけられた組織なのだ。ドク ターの統括する『研究室』と同じような極秘機関。 「『D機関』……ですかー……」    政治と切り離された軍団長でありながら唯一軍団領を持ち、その運用は他の十一軍とは 一線を画す第一軍団長テトラ=V=V=グラン。  五年前、キルツ=レギオンをスカウトしてきたのは第二軍団長ジェレミー=C=ハイン ライン。  五年前に生まれ、『それと同時に』皇国教皇庁ロタリア神殿の教皇に就けられた第三軍 団長エレム=P=エルンドラード。  五年前、皇帝とD機関について言葉を交わしたというのは第四軍団長ブラックバーン= アーム。  魔王級の魔族との直接交戦経験のある第五軍団長ゲイル=アンバーサナー。  皇国においてドクターが最も検体に望む存在である第六軍団長ロロ。  数百年に渡り皇国の政と戦に関わり、今も尚絶大な影響力を持つ元大司教、第七軍団長 ミサヨ=J=オロチェル。  現皇帝を最も早く支持し、現皇帝に最も近い女、第八軍団長イライザ=クロム=フュー リー。  『D』調査中に、最近やたらと手紙が増えているらしいという情報のあった第九軍団長 ヴァヴァ=ロア。  Dサインの入った命令書を受け取った事が確定している第十軍団長クラウド=ヘイズ。  五年前に皇国最大の敵『王国連合』を裏切った第十一軍団長ゼファー=ローデス。  同じく五年前にやってきた傭兵。第十二軍団長キルツ=レギオン。  そして公式には存在しない第十三軍団長ナチ。  謎の上部機関を調べること。それはドクターにとっては当然保身の為のものでもあるが、 もう一つの理由がある。  それは新たな刺激を得る為。新たなデータを得る為。新たなサンプルを得る為。  ドクターの研究は、当然ながら皇帝からの命令によって選択され進まされているのであ り、つまりはそこにD機関というものの介入が存在するのなら、それは皇帝の相談を受け、 ドクターに魔人を量産させる事を選んだ者たちということになるのである。  ならば。ならば。  この<D機関情報>に喰らいつくことで、新しいナニカを得る事が出来るのではないだ ろうか―――― 「あたってみちまいますかねー、十二軍団に」