ダブル / ジョーカー                  二話:表                 『Daredevil』 「で、なんだよ用って」  露骨に嫌そうな顔を浮かべるというのは、つまり深刻ではないという事なのだろう。そ ういう意味では、ただ黙してまっすぐとドクターを見つめている横の男の方がより、彼を 歓迎していないのだろう。  ドクターは第十軍『裂攻軍団』の兵舎に居た。軍団はあくまで皇国の、皇帝のものであ り、軍団長は皇帝に指揮権を借り受けているに過ぎない。だから、常設十二軍団には軍団 長用のオフィスも存在している。軍団長個人がそれを用意するような事はない。例外は第 四軍のみだった。  そのオフィスで、顔を歪めてドクターを見ているのは軍団長当人だ。横に控えている男 はドクターの知らない男だった。覚えている軍団員の方が少ないのが当然なのだから、誰 何することもなかったが。 「まさか俺も解剖するとか言うんじゃねえだろうな」  言いながら、相手はその額から角の張り出した顔でドクターを見下ろす。  角。そして背には蝙蝠のような翼がある。今は机に隠れているが、その下半身は山羊の ようになっている。 「そういう用じゃあねーんですがね」  ドクターは眼鏡のつるを抑えながら皮肉げに頬を吊り上げた。  その言葉。『俺も』。彼は見たまま非人間種だったが、この場合はそういうことではな い。  ドクターをじろじろと見回す魔人の眼。 「ザーラスは?持ってきてねぇのか」 「持ってきてどーするって言うんですかね?それとも親交を暖めあうような仲してやがっ たり?」  ドクターはザーラスをこの相手に会わせる気はない。そう聞けば、誰もがそれを当然の 処置だと思うだろうか。  何故ならば、相手はザーラスの所属した機構に席を持つ。  裂攻軍団の長。そして魔同盟が金貨の騎士。クラウド=ヘイズ。  魔同盟は、大陸を封鎖包囲している。しかし、皇国が同じく包囲の内側にある王国連合 やヴァルデギアや、その他多くの国と歩調を合わせていないように、彼らもまた一つのシ ステムに属しながら、各々の動きはバラバラだ。魔同盟の構成員であることは、あくまで 包囲結界を維持する歯車の一つであるという事に過ぎない。いやむしろロープを張り巡ら せる為のピンのようなものか。とはいえ、それを真の意味で理解している者は少ない。ド クターにしても、その実態について深く知っているわけではない。。五十六の魔人たちは、 確かに普段、そしてたった今眼前にいるけれども。本来の意味での『魔同盟』である二十 二の魔王は、事象龍と同じ、それに出会う事だけで巨大な流れに巻き込まれてしまうよう な、そんな存在だ。  だからヘイズが一体どんな目的で此処に居るのかに関して自体は、ドクターにはわから ない。  だがしかし、ドクターがザーラスを持ってきていない理由はもっとシンプルなものだ。  それは、既に否定したように、ヘイズを検査対象にしたいという気持ちが全くないとい うこと。ヘイズは割と若いし、種族的にも希少というほどではない。魔同盟構成員として の力というのは、ザーラスを改造する過程で知ったのだが、魔同盟というシステムに付随 しているらしく、個体の調査には意義がなかった。ザーラスが元のザーラスでないものと 化してしまったからか、上位存在に外されたのかは不明だが、構成員でなくなった時点で それは保持できなかった。よって肉体が主な対象であるドクターとしては、そこまでで終 わりだ。  ゆえにドクターの持つヘイズの評価は、強大だが研究的価値はない。あと粗暴な性格に 知性が感じられない。というようなものであり、もしそれを伝えたとしたらドクターの印 象通りにヘイズは怒るであろう。  よってドクターは、そんな相手に必要のない実験は行わない。単に『元同僚と接触させ てみる』という程度のものでさえ。 「いや、別に会いたいわけじゃないけどよ…………ってなんだよ、何笑ってんだよ」  ただし、それをドクターが尊ぶかどうかとは別問題としても、ヘイズに関してはまた別 の評価も下している。  それはこうして、態度としては嫌そうにしながらも、地下で何をやっているかわからな い怪しげなクソガキの容姿をした老人を、それなりきちんと迎えること。また、ザーラス について一応は触れてみたりすること。  クラウド=ヘイズが人付き合いのいい解放的な男だということである。  だからこそ 「聞きたいっつーのはですね、去年の事なんですがね」  そう言った途端、ヘイズの眼の光が変わった事に、ドクターは気づいた。  それは機密的な事にドクターが触れようとしている可能性があって、それで警戒してい る――――というようなものではなかった。  去年、ヘイズたちの軍団が行動を起こした事は、それ自体は今更極秘でもなんでもない。 というよりそこらに歩いているおばちゃんを捕まえたって知っていることだ。だが、その 実際に何らかの秘密があったとて、おかしくはない。全てが公になることなど、常にあり えない。  だが違う。  ヘイズの瞳は、そういう裏に踏み込む不用意さに不快感を浮かべているわけではなかっ た。もしそうであれば、正直なこの男は感情をもっと率直に表に出したであろう。  その顔に浮かんだのが何なのか、ドクターは知っていた。ドクターが人間種の平均寿命 より長く生きて皇都に居た以上、魔人クラウド=ヘイズは比較の上で付き合いの長い相手 ではあったのだから。  それは『葛藤』だった。この男にはおよそ似つかわしくないモノ。  ドクターはその瞬間、ザーラスを連れてこなかった事はやはり正解だったと再確認して いた。  ヘイズがその表情を浮かべるのは、ある人物に関わることに限られるからだ。その者の 名はジェイド。肩書きは魔同盟『世界』の魔王。交渉人ジェイド。  実際のところヘイズは勢力がどうのとか、種族がどうのとか、組織がどうのとか、大昔 がどうのとか、そういう事に頓着するタイプではない。今この男はここに居るのは、兄と 慕うジェイドの指示があるからだ。ジェイドという魔王は、魔同盟は穏健派に属するらし く、その方針の為に皇国とも関係を持っている。  普段ヘイズはその指示に抵抗を見せる事はないようだ。少なくとも皇国で将軍をやって いる事に関して嫌悪感は見せていない。いやむしろその持ち前の人懐っこさでノリノリで やっていると言っても良い。  そのジェイドの指示とヘイズ個人の意思に折り合いをつけ切れない時、ヘイズはその表 情を浮かべる。ドクターがそれを知ったのは、二十年ほど前だったろうか。 「アンタは、D……」  何かあることを確信して、ドクターがその言葉を口にしようとした時、それを遮ったの はヘイズの奇妙な言葉だった。 「また変な事言い出したのかよあの野郎」 「ま、た?」  とっさに聞き返す。と同時にひっかかる、明らかに誰か個人を想定した言葉。男。 「おめーの所にも何か注文つけてきたんじゃねえのか?アイツだろ。チッ、いけすかねぇ んだよアイツは」 「ちょっと待ちやがれってんですよ。去年のあの出撃、D機関の指示を受けて、攻めたっ て事でいいんですかね」  吐き捨てたヘイズに、ドクターはあわてて話の筋を戻した。ヘイズはきょとんとして数 度頷いてから 「D機関……ああ、そんな事も言ってたな。攻めるっつうか、陽動な」  ドクターの知るヘイズの去年の出撃は、敵国の一つに対する攻撃であった。それまで自 然の要害に阻まれていると思わていた国境に穴が存在し、ヘイズらはそこから奇襲をかけ て、敵領内を荒らしたのだ。ドクターは特に戦略には興味がないので、それがどういう意 味を持つかなどを考えはしないし、この情報も別に特別詳細なものではない。というより 一般に言われている去年の事件の話に過ぎない。巷で聞けるそれだ。 「陽動ってどういうことです?一体何の陽動を」  それは機密であるのではないかとドクターは思ったが、ヘイズは構わずに続けた。どこ か、それで苛立ちを発散するように。そういうところが<考え無し>なのだが、今のドク ターにはそれがありがたい。 「俺たちの目的は敵を引き付けて動きやすくする事だった。向こうの王都にいたアイツを ……つまりD機関長とか名乗った、その男をだよ」  敵国の王都に居た?それは、それが意味するところは、そしてその男は。 (D機関は諜報組織……)  「でまあ、首尾はよく行ったみたいだがな。姫君が、どうとか」  その単語は、ドクターの意識を急転換させるに十分なものだった。かの姫は、つかみど ころのない謎の存在である。そして謎の存在だということは、つまりドクターにとっては 解剖してみたい相手であるのだ。それが本当に何か特別なものなのだとしたら。  ソレと、D機関長は会ったのだろうか。いや会ったに違いない。 「その男は今どこにいるんです」  突如として急かすような調子になったドクターに、ヘイズは面食らった。 「ええ?いや、それは知らねえよ……皇帝陛下なら知ってんだろうけど」  当然の答えだが、勿論ドクターは皇帝に直接問いただす気はない。ヘイズも、その程度 は何となく察したようで、顎に手を当てる。 「うーん…………」  男の悩む顔など、じっと見ていても面白いものではないな。と考えていたドクターは、 ふいに一つの疑問を思い出した。 「そういえば、D機関長がやってきたのは五年前ってことでいいんですかね?」 「あー?そうだぜ。あの戦の後さ。そん時から俺は好かなかったんだ。兄貴も一体何考え てんだか……」  ブツブツ愚痴りはじめたヘイズに、先ほどの推測が正しかった事を確認しながら、ドク ターは頷く。魔王ジェイドもやはり絡んでいる。それが現実的でないとしても、ドクター の望む検体の第一候補は勿論、魔同盟の事象魔王たちなのだ。 「ジェイドが連れてきやがったんですか。確か、彼は五年前東部の戦場にー……居たんで したっけ?」  ドクターの言葉に、ヘイズが不快感を露わにする 「違ぇーよ。確かに東には居たけどさ。いや、兄貴じゃねえんだが、誰かは知らねぇんだ よな」 「なる、ほど」  それは視線を上げたせいだったが、ふとドクターの眼に顔が映った。ヘイズのものでは ない。ヘイズの横に微動だにせず待機している男の顔だ。  よく見ると、顔が引きつっていた。  全部聞いてしまったのだ。本来ならヘイズが途中で席を外させるべきだった。今までた だ沈黙を守っていたかのように見えた男の、その胃がどんな事になっているのかを、ドク ターは少し開いてみたいと思った。  だがドクターは、自分の身を案じる程度のバランス感覚は持っていたが、他人を案じる ような優しさは持っていなかったので、すぐに興味を失った。研究室に帰る頃にはその男 の事も忘れるだろう。 「あ、帰るのか?」  立ち上がったドクターを見て、ヘイズが顔を上げる。 「ええ、まぁありがたかったですよ。礼はそのうち」 「おめぇの礼なんていらねーよ」  そう言っている間にも、ドクターの意識はもはやこの場から離れ始めていた。 「勘弁してくださいよ旦那」  背後でそんな声がしたが、ドクターにはもう聞こえていなかった。  五年前、第十二軍の長として傭兵キルツ=レギオンを東部でスカウトした男。  第二軍団長、ジェレミー=C=ハインライン。  物音がして、ザーラスは意識を覚醒させた。魔鎧は眠らないわけではない。単に通常の 生物と違って、それが非常に自由になるというだけで、彼らが生きている以上は、維持の 為に一時的に意識を遮断する必要はある。  視界には何も映っていない。視界は元頭部であり、現ハンマーである部分にあったが、 いかんせんドクターが無造作に収納箱に叩き込んだので、何も見えない。  それ自体はザーラスにとってどうというものでもない。なぜならドクターのザーラス保 管方法は常時それであるからだ。彼は作り終わったものに対する興味は薄い。  とはいえザーラスは、その収納箱の外の状況を把握する事ぐらいはずっと出来ているの だ。  誰かが居る。ドクターではない。ドクターの研究成果の誰かでもないし、ドクターの部 下でもない。往々にしてそれはイコールで結ばれているのだが。もしくはそのうち結ばれ るのである。ザーラスのように。  その『誰か』は、研究室の中を行ったり着たりしている。時に何かを手に取ったり、机 の棚を開いてみたり、ちらばった資料を拾い上げたりしている。  ザーラスは、収納箱を開くその人物になんと声をかけるかを考えることにした。