「次の……何ですって?」 「次の俺≠ノ、だ」    脇腹の深手も、腕に纏わりつく奇怪な靄も忘れて魔理佳は聞き返し、魔人は繰り返した。   「俺を斃したお前は、次代の俺になる――このバルナ・ガルグリフにな」 「何を言って……」    振り向こうとして少女は呻いた。ぐらり、と体勢が揺れる。   「既に闘争の理は決し、我らは混ざりつつある。千言を費やすより、その身で感得した方が早 かろう」    魔理佳は唇まで青褪めていた。出血の所為ではない。  鋼が軋るような魔物の声は、あろうことか魔理佳自身の口から洩れたのである。彼女の意思 とは全く別に。  魔理佳は視線を手元に落した。魔物の胸の紅玉より出ずる靄は、彼女の腕の中へと沁み込む ように、急速に薄れがかっている。  その薄煙目がけて『哭制刀』を薙ぎつけた。猶も狂気のように揮いながら叫ぶ。 「出ていけ、私の中から出ていけ!」 「無駄だ」と、バルナ・ガルグリフの声が応じた。相変わらず、魔理佳の口から出る声が。    自分で喋り、自分で答える。一人芝居か、はたまた二重人格の発症のような光景だが、喜劇 めいた印象など欠片もない。ただ名状しがたい不気味さがあった。   「俺≠ヘ、勝者と敗者の間にある因果律にかけられし呪詛よ。なまじな方法で解けはせぬ」  魔理佳の手から黒刀が落ちた。床で跳ね返る。  内側より弾けそうになるのを抑えるかのように、魔理佳は自分自身を抱き締めた。   震えている。見た事もない情景、体験した事のない感触が脳裏と体中で溢れ返っていた。席 巻しているといってもいい。  ある時は己の肉体を、ある時は武器を以って他者を破壊してゆく過程。  魔術のような、異能の力の時もあった。人には有り得ぬ器官、尻尾や触手の時もあった。  それは闘争だった。  人と、魔物と――そして黒い魔人との、おびただしい戦いの記憶だった。       超長期に渡る出現、時期や時代による差異、それでも変わらぬ性質――バルナ・ガルグリフ に関するそれら疑問の答えがこの現象だった。  黒ノ魔人≠斃したものが、次なる黒ノ魔人≠ヨと変貌するのだ。それまでの先代達の 意識と記憶を引き継ぎながら。  今回のように「相討ち」に近い結果でも、それは変わらない。要は黒き魔人に匹敵する力の 持ち主と証する事が、この憑依を受け入れる条件なのである。    そうしてバルナ・ガルグリフと成ったのは魔物だけではなかった。同じ数の人間もいた。  男も女もだ。魔理佳の精神を覆い尽くしつつある、彼ら彼女らの記憶の全ては闘争に彩られ ていた。  何となれば―― 一対一で戦うという、あまりにも人間的≠ネセオリーは、こちら側≠フ 人間を取り込む事で形成されていった後天的資質なのかもしれなかった。  ひたすらに強敵を求める狂気の戦闘本能は、人間がマギナという武器を生み出してからは、 戦いの相手にその使い手を選ぶようになる。  血ぶるいするような闘争を、より純度の高い死闘を求めて。  ――因みに同一の意識が負けを知らず、勝者足り得た最長期間は百八十四年と七十一日であ り、最短は六秒であった。    勝者と敗者――演じ手の片方を次々と交代させながら、決闘者達の間にて紡がれる終わりな き円武曲(ワルツ)。  それこそが人界魔界を馳せる大魔、バルナ・ガルグリフの正体なのであった。       いつの間にか、黒い靄はなくなっていた。  バルナ・ガルグリフの巨体は、変わらず魔理佳の背後で佇立している。  しかしその身に湛えていた強烈な気は、拭ったように失われている。まるで張りぼての人形 だった。胸の紅い宝玉すら、その血のような輝きを消している。    魔理佳は呻きながら額を押さえた。頭の中で無数の声がする。  それはかつてバルナ・ガルグリフと戦い、勝利し、そしてバルナ・ガルグリフと成り果てた 全てのものどもの声だった。     『――戦士よ、我らの地獄へようこそ』      おびただしい群体による巨大な個――巨億のバルナ・ガルグリフ≠ェ言祝(ことほ)いだ。  少女は身をよじり、唇をわななかせる。 「……あ……ああうぅ……!!」  魔理佳はひずんだ叫びを上げた。  絶叫の尾を引きながら、制服の胸元へ手をかけ、一息に引き千切る。    風雨に耐えかねた花弁のように――赤い縁の眼鏡が、するりと落ちた。        ぴしり、と鼓膜に疼痛すら生じさせる音が鳴った。    金属的な音の正体は、そびえる黒い呪壁に入ったひびである。狂平は躍り上がった。 「うお、やったな嬢ちゃん!」 「……違います! まだ解呪の術式は完成していないのに、勝手に!」  後退るアリスの眼前で、黒き結界に生じた亀裂は、見る間にその領域を広げつつあった。 「皆、下がりたまえ」と、氷のような声でクリフは言った。「――出るぞ」  全員が数メートルも後方へ飛び退いた瞬間、アツィオウスの壁≠ヘ砕け散った。       結界の残片は音もなく吹き荒び、床に落着する前に夢のように消えてゆく。その向こうから 吹きつけてくる妖気の濃密さに、クリフら三人は思わず総毛立った。  妖気は一個の人影として収斂した。   少女だ。  片手に抜き身の一刀を下げている。刀身の漆黒は、今散りゆく黒い吹雪とどこか似ていた。   「桐生……先輩……?」  狂平が震える声で言った。  ブレザーの制服はぼろぼろだが、確かに姿かたちは桐生魔理佳だ。  しかし顔と上体のきっかり左半分は、黒い装甲が隙間なく覆っている。それは魁偉な甲冑の ようでもあり、未だ知られざる甲虫のようでもあった。    トレードマークの赤縁眼鏡のない素顔は、人間的な造作までごっそり抜け落としたかのよう な、虚ろな無表情を晒していた。  大きく開いた制服の胸元で輝くのは、握り拳ほどもある紅い宝玉だ。肌に付着しているので はなく、体の内部から生えているかのように、一つ眼の如く。  同じ色が、もう一つ別の場所で生じている。  清流を思わせていた青い瞳は、血糊を灼きつけたような朱色に変じていた。      後輩には応えず、桐生魔理佳――らしきものは、揺らめくように一歩進んだ。 「魔理佳先輩――!?」 「どうにも、上手く一つになれんな」    思わず駆け寄ろうとしたアリスが、びくりと止まる。その口から洩れる錆びた独語は、断じ て魔理佳の声ではない。 「相討ち≠セと混じり具合が歪むが、それだけではない。この人間、元々――」  そこで漸く気づいたように、魔少女は三人を見渡した。人の名残をとどめた半顔が、にやり と笑った。  クリフが目を細め、狂平とアリスが息を呑む。  それは敵と己の血に頭の天辺まで漬かった人外の――戦鬼(ベルゼルケル)の笑みであった。 「貴様ら――使うな?」  弾かれたように、三人は身構えていた。   それは戦闘の場に立つ心得の有りや無しや、という問いであり――同時にその領域で最も効 果を発揮する武具の行使者たるの確認である事を、期せずして若き戦士らは悟ったのである。  クリフは沈痛な口調で言った。   「デルフォイ・システム≠フ託宣が真に指していたのは、これか」  黒く、鋭く、剣のような――爪。その到来。  確かに預言は正しかった。それが彼らの仲間でもあるという、肝心な点が抜けていたが。   「詳しい事情は判らないが、あれは桐生さんに憑依――いや、融合しているようだ」 「糞ったれ」と狂平は毒づいた。「じゃあ、何とか引っぺがさねえと……!」  クリフの返答はなかった。  視線を魔と変じた少女から離さず、狂平は、   「真逆、桐生先輩ごと殺るってんじゃねえスよね?」 「本当にそうするかは兎も角、その気構えで臨まないと殺されるのは僕達だよ」 「――相手は桐生先輩っスよ」 「外見は。今の彼女の中身は、どうやらバルナ・ガルグリフらしい」  舌打ちと共に金属音が連続し、銀光が狂平の背で跳ね返る。  彼のマギナ『姫蜘蛛』が、その槍先の如き八本脚を広げたのである。   「んな事言ったって、はいそうですかと出来るかって――!?」  言いかけ、狂平は絶句した。  魔物と化した少女が近づいてくるのだ。ただ歩いているとしか思えないのに、絶対にそうで は有り得ない速度で。  そして一足一刀の間合いをかくも無造作に侵犯するなど、戦闘技術に縁のない一般人か、奥 技の神妙境にまで至った達人か、そのどちらかだ。狂平の眼前へと迫る魔は、明らかに後者で あった。    半ば恐慌状態に陥りながら、それでも反射的に攻撃に転じたのは、この不良少年もまた非凡 な使い手である証左と言えた。  マギナを駆動させ、八本の脚を同時に繰り出す。全て突きだ。この連続刺突で蜂の巣になら なかった魔物はいない。  世にも美しい音色が鳴った。  下方から持ち上がり、ぐるりと大きく描かれた剣の円――少女の放った孤閃が、突き入れら れた八槍全てを弾き落としていたのである。  八つの刃を捌き終える作業と平行して、魔少女は相手の内懐深くまで踏み入っていた。  白い右脚が流れるように跳ね上がり、狂平の体は蹴りと同じ方向へ飛ばされる。  背後の床に叩きつけられ、声もなく悶絶する少年を見据え、   「殺気も籠めぬ穂先に掛かるこの俺と思ったか」  吐き捨てた魔少女の左手――甲殻に覆われた異形の左腕が不意に上がった。  顔をかばった二の腕の表面で、拳大はある火球が連続して弾ける。  そこへ向けて片手を翳した赤い少女――アリスの放った炎の魔術である。『ワイズマンメモ リ』の増幅(ブースト)を受けた火の飛礫(つぶて)は対象に着弾後、ゴヴニュ効果によって 尖端から二千度の超高熱魔炎を噴出する。 「魔理佳先輩、目を覚まして!」  アリスの悲痛な叫びにも何ら興味を示さず、複数の火種をへばりつかせたままの左腕が軽く 振られた。  それだけで、火球は全て掻き消えたのである。それは魔物が元より備えている耐呪能力ゆえ か、はたまた『魔鬼勁』の武技であったか。  蒼白となったアリスへ進もうとして、魔物の足が止まった。  横を向く。人の左目と昆虫のような複眼と――朱色の視線の先には、さしもの魔物の歩みす ら止めさせた、冷然たる殺気の主がいた。   左手の半弓を大きく引き絞った美少年が。 「一射千本=v短く術名を唱えながら白皙の射手――クリフは氷の矢を放った。    魔理佳の顔の右半分、人間の口が「ほう」と感心したような声を洩らす。  見よ、ただ一本きりの矢は、宙空にて瞬く間に数十の矢へと分裂し、速度も狙いもそのまま に魔少女へと襲い掛かったではないか。  幻覚などではない、全て実体であった。    群がり襲う矢衾(やぶすま)に対して、黒い左拳が突き出された。  拳の先の空間が歪む。音もなく何かが炸裂し――次の瞬間、ざあっと驟雨のような、こちら は確かな音が鳴り渡る。  『魔鬼勁』の放射を受け、幾十本の矢ことごとくが打ち落とされ、四散し果てた音であった。 「――くッ!」    クリフはよろめいた。口元から朱色の筋がこぼれる。  不可視の気は、矢だけでなくその射手をも痛打していたのである。   「手加減する余裕など、くれてやった覚えはないぞ」  赤光を放つ双眸が三人を睥睨する。  狂平の刺突も、アリスの火球も、そしてクリフの弓矢も、全て魔理佳の身を案じて手心を加 えた攻撃だったのだ。  とは言え、三人のマギナ使いの猛攻を、いとも容易く斥けるとは――。  いいや、これは並み居る上級魔の中でも隔絶した武威にて恐れられる魔人、バルナ・ガルグ リフなのだ。  迎撃ではなく、今度こそ我から死を与えんとする歩みは再度止まった。   「これは――」     魔少女は低く唸った。体が小刻みに震え、四肢が痙攣している。  と見るや――ブレザーの背中が膨らんだ。  弾けた。  内側から、少女の背を突き破って黒い奔流が噴き上がったのである。  かっと見開かれた三人の眼は、その黒い流れが獣めいた形状である事を見て取った。  四肢も目鼻もない。体毛があるのか、それとも鱗で覆われているのか。それすら判断できぬ 体色の黒さは、夜明け前の一番濃い闇を想起させる。  人間の頭など丸齧りしそうな大口では、刃物そっくりの牙が何列も、白く光っていた。    己自身の肩口へ噛みつかんとする顎(あぎと)は、甲殻に覆われた左腕によって阻まれた。  杭のような黒爪で押さえられながら、がちがちと無念そうに歯列を鳴らす。   「矢張りか、面白い」    窮屈な姿勢のまま、少女は凄笑を浮かべ、ぬばたまの魔獣は吼えた。  その咆哮の音色は、先刻『召喚の蛮名』によって唱えられた呪言と似通っていた。   「この人間、我らの族(うから)を身中に宿しているな。俺をうまく受け入れなかったのは、 先客がいた所為か」 「なんだと……!?」  漸う身を起こしながら、狂平は叫んだ。そちらへ目を遣り、 「ほう、同胞であるお前達も知らなんだか。無理もない、棲み潜みしは魂の底の底。こうして 顕現するのも今が初めてとあってはな。  その代わり――ふむ、漠たると言えど確信はあった、か。何しろ己の体だ」  今一匹の魔獣を鉄環の如く締め上げつつ、書物でも朗読するかのように魔人は続けた。 「混ざり合いつつある今なれば判るぞ、此奴――キリュウ・マリカの心の内が。  身の内に巣食う魔が外に溢るるを恐れ、己が心を閉ざさんとし――せめて敵のみを誅する刃 たらんと欲せども、徹しきれずに懊悩していたか。  愚かな事よ。例えお前達の定義する神とやらが手にしようと、破戒無道の徒輩が持とうと、 一たび揮いし刃で裂くは対手(あいて)の命に過ぎぬ。  そんな些事に心とらわれて、戦がし果たせるものではないわ」 「……だま……れ」     その弱々しい、しかし凛然たる異議申し立ては、嘲弄と同じ唇から漏れていた。  本来の彼女自身――桐生魔理佳の声として。  アリスが愕然としたように、   「魔理佳先輩!?」  「今、漸く……判っ……た……。私は……お前みたいな……心を捨てた戦闘狂にも……心無い 魔物にも……ならない……私……は……」    現在の桐生魔理佳≠支配しているバルナ・ガルグリフに抗うのは、余程の難事なのだろ う。苦悶の極みにある声で魔理佳は続けた。   「私は……人間……だ……!」 「桐生さん――」  クリフは小さく呟いた。苦痛に歪む表情をそちらへ向け、懇願するように、 「はや……く……私……ごと……!」      何か言いかけて、美少年は口を閉ざした。唇から垂れた血を拭う。 「――糸井君、アリス君。攻撃の用意を」 「で、でも!」    狼狽した声を上げた二人は、聞こえぬ命令に打たれたかのように押し黙った。と、それぞれ が呪印を結び、念を凝らし始める。  クリフは弓型マギナ『観鴬(みのう)』に氷の矢を番えた。  弓を引き、狙いを定める少年の姿は凛冽たる氷像のように動かず、その全身にはぴんと張り つめた気が渡ってゆく。    暴れる黒い魔獣の首筋へ深々と『哭制刀』を刺し、少女は刀身を大きく捻った。  魔獣が怒号した。黒い血をぶち撒けながら身をよじる。  冷厳とその様を見据える表情は、魔理佳のものではない。束の間の人格交代は終わり、再び 精神の座を統べるのは黒き魔人であった。    どす黒い返り血で全身を濡らしながら、魔人はクリフら三人にはさして注意を払っていなか った。鎧袖一触であしらった若輩に、さしたる警戒もしてはいない。    だから頭上が薄っすらと翳っても、魔人は視線を上げもしなかった。  直上の天井に貼りついた巨大蜘蛛――狂平の『姫蜘蛛』が、大きく機械脚を広げた時も。   「蜘蛛巣城=I!」  狂平の叫びとともに、八本の脚はその尖端から半ばまでが地上へ向けて撃ち出された。  狂平自身の姿は地上にある。『姫蜘蛛』は、使用者たる彼の肉体より解離させての単独行動 も可能なのだ。  そして巨鯨を屠る銛の如く、槍の穂先のような関節部のみ一斉射出させる事も。    発射された槍の群れが床に突き立ち、林立した。  その一本たりとも、しかし少女の体には疵一つつけていない。刺さっているのは、全て足元 から僅かに外れた場所だ。  魔少女が避けた訳ではない。最初から全ての狙点は外れていたのである。それを一瞬で読み、 微動だにしなかったに過ぎない。  秀麗な美貌――半分だけだが――に似合わぬ鬱蒼とした声と口調で、   「狙って外したな」 「おうよ」    苦しげな声で狂平が受けあうや、突き立つ八本の槍は傾いだ。  それがある意思に導かれた行動であったのは、斜めになったそれらが次々に連結した事から も判る。槍の連なりは即席の柵、と言うより檻を形作ったのである。  頭上に、左右の肩に、足元に――少女の周囲を巡るそれら八本の結合は、完全に相手の動き を封じていた。少なくとも何らかの動作を行おうとすれば、腕を足を体を阻害するだろう。 「小癪な」と少女の姿をした魔物は鼻を鳴らした。  急いて槍を打ち落とすなり避けるなりしていれば、練達の戦人が掛かる罠ではなかったろう。 卓抜した見切りで無駄な行動を起こさなかったが故に、かえって策に嵌ったと言える。   「だが、この程度で俺を縛した心算か?」 「当然――と言いてえけど、まあ無理だよなそりゃ」  狂平は肩をすくめた。顎をしゃくる。 「けどよ、時間稼ぎにゃなるぜ」  魔物は狂平が指した方を見遣った。そこで生じている二つの色を視界に入れても、双眸は無 感情のままだ。    色とは、蒼と紅だった。  クリフが番えた弓と矢には、霜が降りたように青白い燐光が宿っている。神韻縹渺たるそれ は、彼が操る氷のアストラル光の発露だ。  アリスが胸の前に翳した両手には、視神経まで灼き焦がすような真紅の光が生じていた。球 状に凝ったそれは、彼女の得意とする炎の魔的エネルギーの精髄だ。     「科戸(しなと)の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く、八十万(やそよろず)の悪しき禍霊 (まがみたま)ことごとくを死亡(まか)れさせ給え――凍鶴(いてづる)=v 「……フローガ・シャド・イーレ・フォーマルハウト! カークスの焔=I!」      二種類の聖句(プレイヤー)と共に矢は射放たれ、炎が振り撒かれた。  ただの矢ではなかった。ただの炎でもなかった。  氷矢(ひや)は青白き光線となり、火球は紅蓮の火砕流となった。  蒼と紅――二匹の蛇のように、螺旋状に絡み合いながら、絶対零度と超高熱の光条は闇を払 ってひた走る。黒き魔人目掛けて。  超高熱による燃焼と、絶対零度による凍結。これら二つの現象の衝突は、その極端な温度差 により対象物を分子レベルで破壊し尽くす。マギナを介した必殺必死の合体魔術であった。    耳障りな残響を立て、銀の檻がねじくれ曲がる。魔人は檻の拘束に無理やり体を捻じ込ませ、 柵をひしゃげさせたのである。右手の剣は未だに魔獣へ刺されているのに、凄まじい膂力だ。  呪力の洪水は、その魔界の雄姿へと襲い来る。――この秘技を前にして猶、余裕を以って黒 い左腕が持ち上がった。そこから生ぜられる鬼気の迸りは、襲い来る呪力の洪水に対して相殺 以上の効果を成し得る。    筈だった。  そう確信しきっていた本人が、真逆愕然とした声を上げようとは。   「……何!?」  掌底より生ずる破壊の波動も、我と我が身を護持するフィールドも――『魔鬼勁』の一切が 発動しない!  いいや、そればかりではない。少女の体は一指も動かなかった。『姫蜘蛛』の檻にあらず、 それは本来の体の持ち主による妨害(サボタージュ)で―― 「貴様か、キリュウ・マリカ!!」    バルナ・ガルグリフは叫び、魔理佳は微笑んだ。  魔物と変じた紅にあらず、自分自身に立ち戻った青い眼で。  ひそやかなその微笑と、少女の胸元で妖しく光る紅玉を己の瞳に映しながら、クリフは射放 った姿勢と花氷のような無表情を崩さない。    勝利を確信した少女の笑みは、紅と蒼の奔流に呑み込まれていった。          体中が熱に浮かされたように熱く、心臓だけが冷たい。  それでも五体は動いた。  目の前に人影。複数だと確認するより前に体が動く。  手にした一刀は横殴りの斬撃と化して、一人の体を二つにした。  反転する刃は袈裟懸けとなり、今一人をその可憐な顔(かんばせ)ごと斜めに断ち割る。  浴びた返り血の温かさが、斬った二人の名を魔理佳の心に思い起こさせた。糸井狂平、アリ ス・ブレイゾンという名を。    やめて、と魔理佳は叫んだ。自分自身を含め、誰も聞いてはくれなかった。  血刀を下げ、最後の一人へ向かう。富美櫛クリフだった。どこか哀しげな顔で立ち尽くして いる。  透き通るようなその白い喉笛目掛け、剣尖を思い切り突き入れた。真っ赤な大輪の花が咲き、 「――ッ!?」      声にならぬ声を上げて魔理佳は覚醒した。     薄暗い廊下だった。目覚める直前の悪夢で展開された惨殺の情景など、何処にもない。  今夜の任務で潜入した建物の中だ。階までは判らない。    全身がひどい倦怠感に包まれている。おまけに妙に不安定な姿勢だった。足を動かしている 訳ではないのに、前進している。  自分は誰かに背負われているのだと魔理佳が理解した時、   「気がついたようだね」  彼女を背負っている人物が、クリフの声でそう言った。    半身を覆っていた黒い甲殻は、綺麗さっぱり消えている。恐らく瞳の色も元に戻っているの だろう、と魔理佳は想像する。自分の体と心の何処にも黒ノ魔人≠フ痕跡は感じられない。  あの黒い魔獣も。  ――そう断言したかったが、無理だった。影も形も感じられなくても、未だにそれ≠ェ自 分の中にいる事を、理非を絶して魔理佳は確信した。    ついでにクリフの上着を羽織らされている。ブレザーの制服はひどい有り様だから是非もな いが、露になった肌を見られたのかと想像し、魔理佳は頬が熱くなるのを感じた。      段々クリアになってゆく思考が、私の刀、と叫んだ。何時いかなる時も命を託すべき魔理佳 の愛刀、『哭制刀』が手元にない。   「君の刀なら、ちゃんと預かっている」    その思考を読んだかのように、クリフは歩きながら言った。  先程から、かちゃかちゃという金属音が下方で鳴っている。魔理佳は視線を落とした。クリ フの腰に吊られているのは、鞘に納まった刀剣型マギナ『哭制刀』だった。ぼやけた視界でも 愛刀を見誤りはしない。  ――視界がぼやけている? と自問し、眼鏡を掛けていない事に漸く気づいた。  と、クリフは背中越しに何かを手渡してきた。  魔理佳の眼鏡だった。バルナ・ガルグリフに憑依された時、落としたものだ。   「床に落ちていた。生憎レンズが割れてしまっているけれど」 「あ、ありがとう……ございます」  礼を言い、受け取った赤い縁の眼鏡を掛ける。割れたレンズがもたらす光景は煩わしかった が、何となく気持ちは落ち着いた。   「糸井くんとアリスちゃんは?」 「二人には、露払いに先行して貰っている。小物ばかりだけど、まだ建物内に魔物は残ってい るだろうから」 「――あいつは?」    低い声で魔理佳は訊いた。クリフは歩を緩めず、   「大物なら、間一髪でし止め切れなかった。逃したよ。  しかし、君が閉じ込められていた結界のあった場所には、バルナ・ガルグリフらしき死骸が 残っていた。死骸というより、何というか抜け殻のようだったけれどね。……あの結界の中で 何があったのか、説明してくれないか?」  魔理佳は、かいつまんで自分とバルナ・ガルグリフとの死闘の顛末を語った。「成る程」と クリフは首肯した。 「あれだけの力を持った魔人だ。いずれ何処かで再生するだろう。一旦は追い払えた事を僥倖 とすべきだろうな。――僥倖と言えば、君の左脇腹に大きな疵痕があったが」  クリフはそう指摘した。バルナ・ガルグリフと雌雄を決した時、抉られた疵だ。  そもそも致命傷に近い深手だった事を思い出し、痛みもない現在の状態を魔理佳は今更の様 に訝しんだ。   「疵自体はほとんど治っている。融合しかけている間は奴の体だった訳だから、その時に魔物 の再生能力で快癒したんだろう。奴が出て行けば、後はそっくり君自身の体だ。こちらも、運 が良かった」 「……そういうものですか」 「そういうものさ」     不意に、ぽつりと落し物のような声で魔理佳は言った。   「――御免なさい」 「何故、謝るのかな」 「さっきまでの記憶は残っています。私、皆を殺そうと」 「君の所為じゃない」  静かに、だがきっぱりとクリフは遮った。 「それに、こちらもやり返させて貰った。君と同じく殺す気でね。その位でないと、バルナ・ ガルグリフを君の体外へ追い立てる事は出来なかった」    アリスと共に放った合体技の魔力コントロールは、クリフが行っていた。  敢えて魔理佳を殺めてしまう結果も厭わぬ強烈な攻めで、未だ融合途中のバルナ・ガルグリ フのみ引き剥がす――その戦法に関しては、攻撃に先立つ念話で狂平とアリスに伝えていた。   「嘘です」と魔理佳は声を荒げた。   「殺す事が出来たのに、しなかったじゃないですか。あの時、あいつの核(コア)を撃つ事だ って出来た。いいえ、そうすべきだった」  氷と炎の合体魔術によって、バルナ・ガルグリフの核――胸の紅い宝玉を直撃する事は十分 可能だった。そうなっていれば、黒き魔人の命脈は絶たれていたろう。  同時に魔理佳の命も、だ。  そうならなかったのはクリフの魔力制御に因る。敢えて破壊力を減衰させ、衝撃力のみを引 き出した攻撃で肉体を圧迫する事で、バルナ・ガルグリフの撤退≠誘ったのである。   「何故ですか。何故、私ごと殺さなかったんですか。――私の正体を見たでしょう? あんな 訳のわからない魔物を抱え込んでいる、私の事を」     「君の中にいる奴に関しては、確かに」  血を吐くような魔理佳の言葉にも、クリフの口調は変わらなかった。  「だが、君は人間だ。さっき自分で言っただろう」 「それは……」 「ならば、僕はその言葉を信じる。糸井君もアリス君も、同じ考えだそうだ」    暫く足音だけが通路に響いた。   「戦を共に=\―」  少年は歌うように言った。不承不承、少女は自分達が属する集団のモットーを応えつつ、   「死を共に=c…共になんか、してないじゃないですか」 「君が自分の命を的にして僕らを救おうとしたように、僕らも君を救う事に自分達の命を賭け てみた。十分共にしていたよ。互いの危機を共有する覚悟――信頼を、ね」    魔理佳はぎゅっと拳を握った。  何かが壊れかけている気がした。今まで自分が頑なに作り続けてきた障壁が。   「端的に言うとだ。もうちょっと普段から他人を頼りたまえ。仲間なんだから」 「……くさい台詞。そういう事、よく真顔で言えますね」 「顔を合わせていないからね」  ふん、と魔理佳は鼻を鳴らした。  目の前が滲んで見えるのは、眼鏡のレンズが割れている所為だろう。そうに決まっている。 「クリフくん」と、魔理佳は訊いた。幾分震える声だった。 「もし、いつの日か、私があの黒い魔物に呑み込まれて――他の誰かを害する存在になったら、 その時は――」 「その時は」クリフは前を向いたまま言った。「僕達が君を討つ。誓うよ」 「――ありがとう」  魔理佳はクリフの背に頬を預けた。華奢のように見えるが、肩幅はそれなりにある。男の子 なんだなと、そう思った。 「もうちょっとだけ……おぶって貰っても、いいですか?」 「勿論」    クリフは請合った。  魔理佳は目を閉じた。私の心臓の鼓動、聞かれているだろうかと思ったが、別に構わないと 考え直した。     「桐生さん。一つ、いいかな」 「はい……?」    まどろみの世界にへ半歩踏み入れ始めていた魔理佳は、やや不明瞭な声で答えた。  次の瞬間、魔理佳の全身は凍った。クリフはこう告げたのである。     「君――意外と重いんだね」      ぽかり、といい音がした。  背負っている方の後頭部が、背負われている方にはたかれた音であった。   「痛い」 「あの、何ていうかデリカシーってものがないんですか!?」 「素直な感想を述べたに過ぎないのだけれど」 「そういう美徳が尊重されるのは、時と場合によるんです! ……下ろしてください。自分で 歩きます」 「遠慮しないで。君の体重を大体……六十四、乃至六十五キロと見積もっても、建物の外まで は十分背負っていける」 「見積もるなあ! 目利きの正確さが余計むかつくんですよ!」 「ふむ、大体当たっていたか。それは重畳」 「し、しまっ……! もう、下ろしてくださいってば!」      暗い通路を、屈託のない会話が軽やかに過ぎてゆく。  背後に残してきた闇と、これから向かう闇。――いずれも修羅の巷ながら、今この瞬間だけ は、寄り添う二人の影は穏やかな道程を進んで行くのだった。   【The End】        ■学園マギア■ 魔術と科学が混濁する世界。 人は”マギナ”と呼ばれる武器で魔術を行使し、科学をもってこれを鋳造した。 マギナとはマギ(魔法)とマキナ(機械)が組み合わされた造語である。 人は戦わねばならなかった。 心を持たぬ機械のように無慈悲な殺戮を繰り返し、飢えた獣の如く人間を喰らう異界の魔物達。 そして、それを利用する悪しき人間達と。 魔物の肌は鉛も火薬も通す事無く、ただ、マギナによる攻撃と魔術でのみで駆除する事ができた。 しかしマギナを自在に扱う才を持ち、魔物を駆逐できる力を持つ人間は極わずか。 そして素質ある一握りの子供たちを集め、実戦を経て人を守る教育機関が創られた。 特務学術機関「Mgina-Academia」 年端もいかぬ少年少女に高度な魔術とマギナによる戦闘技術を教育し、 形だけの学生生活を味わわせるその機関を、人は『学園マギア』と呼んだ。 社会を守る為の生贄の兵士。彼らは何を思い、何を成すのか。     ■学園マギア■ 桐生 魔理佳(きりゅう まりか) 特務学術機関「Magina-Academia」に所属する18歳。 茶髪のロングヘアで赤縁のメガネが特徴の女子。瞳は青い。 赤いラインの入ったベージュのブレザーに赤のプリーツスカートが基本スタイル。 日本刀型の接近戦用マギナ「哭制刀(こくせいとう)」を扱う。 「漆黒」のアストラル処理の施された刀身は黒く、魔物の皮膚を容易く切り裂く。 黒魔術に精通し闇の力を身に纏う。 異界の扉付近で見つかった捨て子で学園マギアの教師に拾われた。 高いマギナ適正を持ち、魔物の弱点を見抜く鋭い洞察力を持つが、 想定外の事が起こると脆く、一流のハンターには程遠い。 クールを気取るが感情の起伏が激しく、挑発されるとすぐカッとなる。 「計算通りです」が口癖。     ■学園マギア■ 富美櫛クリフ(ふみぐし-) 18歳 男 特務学術機関「Magina-Academia」所属。 ブレスレットと一体化している弓型マギナ「観鴬(みのう)」を使う。 「観鴬」は「氷繰」のアストラル処理が施されており、 氷の矢を放ち対象を凍らせる事ができる。 姫カットでポニーテール、長身。 年齢に対し不相応なまでに落ち着いた青年。 有名な茶道裏千家の跡取りで、茶道を身に着けている事もあり、身のこなしが美しい。 性格的にも能力的にも前に出ることはまずなく、指揮や補助を行う。 怒ると怖い。無表情で切れる。 弓道部所属。     ■学園マギア■ 糸井 狂平(いとい きょうへい) Magina-Academia所属の17歳男子 着崩した制服に茶髪とピアスという俗に言う不良少年 所持マギナは背面に装備し敵を切り刻む多脚型マギナ『姫蜘蛛』 8本の銀色の脚を刃のように操り息つく暇を与えない連撃を得意としている 戦闘の際も必要以上に怪物を斬り刻んだり弱った相手を嬲る傾向がある 残忍性を隠そうともしない問題児だが、友人たちには割と気さく 妹が一人おりベタ甘やかしのシスコンという一面もある 姫蜘蛛は狂平から切り離して蜘蛛型マギナとしての単独行動も可能     ■学園マギア■ アリス・ブレイゾン 特務学術機関「Magina-Academia」に所属する少女。13歳 金髪ロングヘアーで青いツリ目を持ち、小柄な体型が特徴 真っ赤なエプロンドレス姿で、下は白のハイソックスを穿いている お嬢様育ちで頭はいいが、プライドが高く子供っぽいので、周囲と衝突する事が多い しかし根はいい子で、いざという時の行動力には定評がある 所有するマギナはワイズマンメモリ。赤い宝玉の付いた大きなリボンカチューシャである 宝玉の中には様々な知識と膨大な魔力が封じ込まれており、装着者の知力と魔力を向上させる 炎系の魔法が得意で、主に後方からの支援や現場指揮などを担当している ただし効果を発動させている間は精神的な負担が大きい為、長時間の使用はできないのが欠点     ■学園マギア■ バルナ・ガルグリフ 複眼で昆虫っぽい顔の魔人 胸に赤いコアを持ち肉体にフィットした黒い甲殻を身にまとう この甲殻は魔術を大きく減衰させ、 アストラル処理したマギナでなければ効果的なダメージをあたえられない 自我を持ち知性があるため魔物としては上級にあたる 人間を襲う時は必ずマギナ使いを襲い 一対一で倒した相手しか食べないという不思議な魔物 武装は両腕の拳のみ 他の魔物の横槍などが入り一対一を邪魔されると横槍を入れた魔物を殺した後、 「食欲が薄れた」と言って元の世界へ帰ってしまう