学園マギアSS――拳闘令嬢・前編  かつての栄華も消え失せて久しい。  空から見るとこの街は卒塔婆の群れ、あるいは墓標のようだった。高層建築と煙突がネ オンの海から突き出し、血管のようにはり巡らされた道路が煌々と街灯に照らされて浮か び上がる。  しかしそれは気休めの光だった。『捕食者』から狙われていることを忘れるための一時 の麻酔でしかない。麻酔はいずれ切れる。そして抗いがたい不安が襲ってくるのだ。  人々は群れ、集まり、自分たちが弱者でないかの様にふるまい、全てを心の底に押しこ めた。それでも彼、彼女らはただ貪られるのを待っているだけの哀れな餌でしかない。  そう、ここは都市という名の生け簀なのだ。往来の激しい大通りにいるとそのようなこ とは忘れがちだが、人間は狩られるだけの存在である。  死への恐怖が心を荒ませ、人々を背徳へと導く。  瞬く間に街は汚れた。人工の密集によるゴミの増加もそうだが、荒廃した気持ちがドラ ッグを横行させ、快楽を得るためだけの無計画なセックスが性病と望まぬ妊娠を撒き散ら した。捕食者たちはそんな姿を見てほくそ笑むことだろう。人類はゆっくりと滅びへの階 段を登り始めたのだ。  そんな不都合を覆い隠すように、街のいたる所から蒸気が噴き出していた。  この街の名は「ザイオン」世界有数の人口密集地である。 --------------------------------------------------------------------------------  人の住まなくなった旧市街は異次元の扉を開けるには格好の場所だった。いくら時間が かかっても誰に気づかれることもなく、彼らは悠々と作業を続けることができる。しかも 闇が巧妙に姿を隠してくれた。夜こそ彼らの世界。異形たちが闊歩する光景は悪夢そのも のだった。  そんな場所を好きこんで歩く者などいるはずがない。自殺志願者かマギナ使いでもない 限りは。  今は使われなくなった大通りの中央でどこからともなく現れた一人の少女が立ち止まっ た。海老茶色のブレザーにグレーのプリーツスカートがいかにもいい所のお嬢さまで名門 学校の生徒といった感じをかもし出し、整った顔立ちと透き通るような白い肌が、グリー ンの瞳とマロンブラウンのストレートヘアに彩られ、美しく可憐な印象を与える。 <<その場で待機、近くでゲートが開くはずだ。魔物が出現次第戦闘開始>>  機械的処理がされた中性的な声が少女の脳内に響く。念話という基礎魔術で話かけてき たのは今週の警邏シフトでコンビを組むことになった山野葵だった。 「随分と人任せですわね」  溜め息まじりにディズィー・ドーリアンが返す。名前は知っているがまだ会ったことが ない人間に、しかも現場にいない人間に指示されることに抵抗を感じていた。 <<肉体労働は苦手な性分でね>>  葵の無感情な返答が返ってきた直後、空間が湾曲し闇よりも更に暗い裂け目が現れた。 裂け目は徐々に広がり、遂に大人数人が通れるほどの大きさに広がった。 「来ましたわ。始めますがよろしくて?」  ディズィーは黒い影が溢れだして地面に落ちる様を見つめ、別に取り乱した様子もなく 手にグローブのようなものをはめつつ淡々と葵に返す。 <<何が出てきた?>> 「シギュワリが二十ほど。張り合いがございませんわね」 <<本当にそれだけか? こちらではもう一種類感知しているんだが>>  自分の情報が信用に値しないような言い方をされたことにディズィーはむっとしながら 反論した。 「機材の不調じゃございませんの?」 <<それはない。後はそちらに任せる。せいぜい暴れてくれ。何かあったら連絡する。以上 (オーバー)>>  一方的に念話が切れた。 「まったく勝手ですこと!」  ディズィーは不快感を露わにした。コミュニケーションが上手くとれないこともそうだ が、顔も性別も明かしてくれないパートナーを完全に信用することはできなかった。その 鬱憤を晴らすかのように彼女はもぞもぞと蠢きだした魔物の群れを睨みつけ、拳を握る。 「今のわたくしはムシの居所が悪うございます! 手加減いたしかねますのでご了承くだ さいまし」  静かな怒気の篭った声がゴーストタウンに響く。突き合せた両の拳を離すと雷光が迸っ た。鉄拳型マギナ『電磁拳』が目を覚ましたのだ。  電火を見るなり魔物たちは目の前にいる少女を餌ではなく敵と認識したのか、威嚇の咆 哮を上げて身を震わせた。  血の臭いのような腥さが辺りにたちこめる。魔物の吐く息に混じる瘴気のせいだ。 「さぁ、最初はどなたですの?」  ディズィーが不敵な笑みを浮かべてファイティングポーズをとる。挑発されたと思った のか、サメのような頭をした魔物、シギュワリが数体激昂して突っこんできた。  手に持った粗末な斧やこん棒が打ち下ろされるのを易々と避け、先行しすぎた一体を射 程に捉える。灰色だが人型をした胴体にまずボディブローを叩きこむ。上体がよろめきの け反った所にフックを決め、最後に震脚を踏むと同時に正拳突きを見舞う。  破裂音がこだまし後方にいた残りのシギュワリを巻きこみならが吹き飛び、衝撃が波紋 を描いて広がり彼女のロングヘアを揺らした。  ディズィーの拳には何かが潰れる確かな手ごたえがあった。鳩尾付近に放った一撃が体 内のコアを破壊していたのだ。  地面に叩きつけられたシギュワリの一体が見る見るうちに融解していき、ついにコール タールのような液体になった後に消滅した。  同胞の死を認識したのか残りの個体たちが一斉に怒りの咆哮を上げ、堰を切ったように 襲いかかる。ディズィーは大きく息を吐き丹田に力をこめて地面に拳を叩きつけた。紫閃 が煌めきアスファルトが砕けて破片が舞い上がる。素早く上体を起こしそれらに高速のジ ャブを当てて弾き飛ばした。破片はそれぞれが一瞬で加速し、迫り来るシギュワリの身体 にめりこんだ。  電磁拳には『磁力』のアストラル処理が施されている。磁気を傾けて磁石の同極が反発 し合うようにすれば、アスファルトに含まれている砂利の鉄分を利用して少ない力で高速 の飛礫をぶつけることができるのだ。 「飛び道具は無粋でしたわね。ご免あそばせ」  口許を歪め、礫が食いこみ動きが封じられた魔物に侮蔑の視線を向けた後、地面を蹴っ てシギュワリの懐に飛びこんで行く。紫電迸る双拳で正中線に連撃をお見舞いする。人型 ならこの世の者であろうとなかろうとそこは急所のひとつだった。  ディズィーは梯子するかのようにシギュワリに接近し急所を突いて次々と屠っていく。  もともと俊敏性に欠ける魔物だったせいか、彼女のスピードを活かした戦法に反応が追 いつけないのだろう。  呻き、黒い血反吐を流して突っ伏す異界の住人たち。気づけば辺りはコールタールの海 となっていた。最後の一体が狂乱したような雄叫びを上げなら特攻して来る。シギュワリ の思考に「逃げる」という選択肢は存在しないらしい。両手で握った斧を振りかぶって力 まかせに打ち下ろす。  単調な動きを見切って素早く懐深くへ潜りこむと、まず右手でボディブローを脇腹に叩 きこむ。続けてボディアッパーを鳩尾に放つ。敵の身体が衝撃で浮き上がった瞬間を狙っ て身を屈め、地面を蹴って垂直に跳び上がった。 「ライジング・アッパー!!」  電光を纏ったアッパーが胸骨を砕き、顎を突き破る。天高く上昇して行く様は昇り龍さ ながらだった。  ディズィーが着地した頃にはシギュワリの死体はほぼ融け朽ちていた。  彼女がブレザーの内ポケットからハンカチを取り出して頬に付着した魔物の体液を拭っ た直後、あの中性的な人工音声が聞こえた。 <<なかなかの腕じゃないか>> 「あら、何かご用ですの?」  突然のことにいささか慌てたものの平静を取り繕って葵の相手をする。 <<魔物の全滅を確認したのでね、撤退許可を知らせてやろうかと思ったんだ>> 「それはそれはご丁寧にどうも」 <<それに、先ほどの反応についてそちらにも教えておこうと思ってね。二十体ばかりのシ ギュワリではゲートを開くのに若干パワーが足りないんだ。もう少しレベルの高い魔物が 一体でもいれば可能なんだけど>> 「解説は結構。とどのつまりを仰って下さらない?」  後輩に話を遮られても葵は腹を立てる様子もなく淡々と念話を返す。ディズィーにはそ の無感情さが不気味に思えたが、葵はそれに気づいていないかの様に尚も淡々と続けた。 <<ラフィドフォリダーだ。名前くらい聞いたことあるだろう?>> 「外見も把握しておりますわ」 <<ならば結構。一体だけが出現し、そこから西へ一キロほど行った所で反応が消えた>> 「消えた? 随分と高性能な偵察マギナですこと」  ディズィーの葵に対する不信感は肥大していた。一週間限定のパートナーだから我慢し ているが、今後は二度とご免と考えている。  葵のマギナは軌道上に浮かぶ『P−205X』と呼ばれる偵察衛星を改造したものだ。 情報の収集に役立つと思って多少なりとも期待した自分が甘かったとディズィーは苛だっ た。 <<異界に戻ったり地下や海中に十メートル以上潜行されたら“ぴーちゃん”でも感知でき ない。それに気にならないか? 本来群で行動するはずの魔物が単独でいたことが>> 「まだ不明な点が多いんじゃございませんの? 憶測は聞きたくありませんわ」 <<まあそう言わずに……。未確認情報だが、ラフィドフォリダーは成長途中の形態らしい。 完全に成長するまで群で行動するとしたら、単独行動するのは成長しきった個体というこ とになる>> 「確信的ではありませんが、一応頭に入れておきますわ。いつ遭遇するか分かりませんの で」 <<さすが現場の人間だ。こっちはデータの解析が残ってるんで。それじゃ>>  またしても一方的に念話が切れた。 「本当にっ……勝手ですこと!」  足下に落ちていた小石を蹴り上げ、電磁拳で力一杯弾き飛ばす。衝撃波が広がり、前方 の廃ビルの窓ガラスが砕け散り、石は大気との摩擦で赤熱し遂にはプラズマ化して青い炎 を上げて蒸発した。 --------------------------------------------------------------------------------  大通りから僅かに離れると街はゴーストタウンのように静かだった。通行人は誰一人お らず、商店のネオンサインも輝くことを忘れたかのように沈黙している。  細い路地には生ゴミと下水の臭いが染み付き、常に異臭が漂っていた。  不意にビルの上から黒い影が降り立つ。グチャっと何か粘着質のものがアスファルトに へばりつく異様な足音がするも何一つ反応するものはない。  淡々と降り注ぐ街灯に照らされてシルエットが浮かびあがる。  大型犬ほどの大きさではあるが、人のような昆虫のような異貌。この世のものではない 存在。  異界からの来訪者、『魔物』である。が、特に何をするわけでもなくその場にうずくま って動かなくなった。  しばらくすると背中が割れ、青白く光る体液が流れだす。まるで節足動物が脱皮するよ うに裂け目からずるりと新しい身体が滑り出てきた。より人に近く細身になった身体は全 身が外骨格で覆われ、血に染まるのを待ち焦がれるように鋭い爪と棘が整然と並んでいる。  やがて湿っていた外骨格が乾くと跳躍しビルの上階へと消えていった。 --------------------------------------------------------------------------------  自室の玄関に据え付けてあるカードリーダーのスリットにカードキーを通す。赤いLE Dランプが緑に変わり乾いた音と共にロックが解除される。日付が変わって十数分、ディ ズィーはようやく安息の場所へとたどり着いた。警邏は深夜組へ引き継いだので緊急の呼 び出しもないはずだ。  寄宿舎――といっても殆ど1Kのアパートのようだが――の自室は八畳ほどのワンルー ムだった。デスクとクローゼットとベッドが大半を占め、シャワールームとキッチンがせ り出しているためかなり狭く感じた。最初は独房のようだと思ったが、慣れてしまえば特 に不便はない。  荷物をベッドに脇に置いて上着を脱ぐ。それをハンガーにかけると冷蔵庫からミネラル ウォーターのボトルを取り出し、キャップを開けて一口飲んだ。冷えた水が食道を通過し て胃に落ちる感覚が疲れた身体に心地よかった。もう一口飲んで大きく溜め息を吐くと、 キャップを閉めて冷蔵庫に戻す。屋敷の者がいたら咎められるだろうが、ここならば誰も その様なことは言わない。礼儀作法を教える暇があったら戦い方を教える。それが彼女の 通う学園、マギナ・アカデミアだった。  ディズィーはクローゼットから下着を取り出しシャワールームのドアを開けた。窓がな いせいかやや圧迫感のある部屋の電灯を点ける。洗面所も兼ねた脱衣所で服を脱いで全裸 になる。女らしい曲線を描く身体のラインとは対照的に割れた腹筋と筋張った四肢、そし て全身に点在する傷痕が鏡に映っていた。左肩から胸の中央辺りまである傷痕を指でなぞ る。 「殿方が引いてしまいますわね」  ディズィーはそう呟いて苦笑した。本来ならばティーンエイジャーとして楽しいスクー ルライフを送っている年齢のはずだが、彼女は戦士として戦う道を選んだ。  視界の端に覗く前髪をかき揚げた後シャワーを浴びるためにカーテンを開ける。熱湯と 水のバルブを捻って好みの温度に湯を調整してから裸体にかけた。湯気が換気扇に吸いこ まれていくのを漫然と見つめながらディズィーは今日――正確には昨日――の警邏の時に 葵が言っていたことを思い出していた。  ラフィドフォリダーは巨大なカマドウマを直立させたような魔物だ。群で行動しニッパ ーのような顎と手足に生えているノコギリ状のトゲで攻撃してくるが、接近さえしなけれ ばどうということのない相手だった。そう、接近さえしなければ。  しかしそれは魔法攻撃のがあまり得意でない上に電磁拳という接近戦に特化したマギナ を使う彼女にとっては憂慮すべき問題であった。今回はたまたまシギュワリのような緩慢 な相手だから優位に立てたが、これがニアル・デアやガウス・ティグアのように俊敏な魔 物だったらそうはいかなかっただろう。  悶々とした考えを払拭するようにディズィーは熱めの湯を頭から被った。水気を含んで 髪が重くなるのを感じながらシャンプーのボトルに手を伸ばして数回ポンプする。白濁し た薄緑色のどろっとした液体を掌に取り、髪の毛へと持っていく。 『髪が長くなってきたかしら』  肩甲骨の下辺りまである泡にまみれた髪を洗いながら散髪にでも行こうかと考えていた。  髪についた泡をすすぎ落とすと、リンスをしながら手櫛で髪の絡まりを解いていく。マ ロンブラウンの髪が水を纏って蜂蜜色に輝いていた。  髪が洗い終わると続け様に身体を洗い始める。ディズィーは化粧することが殆どなかっ た。そのせいか顔も身体と一緒にボディーソープで洗う癖がついている。汗をかき、生傷 が絶えない今の生活では手当のことを考えるとしない方が楽だった。  お洒落をしたい欲求がないと言えば嘘になるが、自分が置かれている状況を考えれば自 重せざるを得なかった。  身体についた泡を流しバルブを捻ってシャワーを止める。カーテンを開けてバスタオル でを手に取った。身体の水気を拭き取りショーツを穿くと頭を右に傾け、髪をタオルで挟 んで毛先の方へとスライドさせて水分を取っていく。二、三度同じ動作を繰り返した後、 ハーフトップを着てからドライヤーをかけた。  長さのせいか乾きが悪い。この手間さえなければもっと早く寝られるのにとディズィー は思っていた。散髪に行こうという思いが強くなる。  髪が乾いてシャワールームから出てきたときには午前二時を回っていた。薄水色のパジ ャマを着てから部屋を消灯しベッドに潜りこむ。心地よい柔らかさと僅かな冷たさが全身 を包んだ。やがて冷たさは温もりへと変わり、彼女の眠気を誘う。  目を閉じた闇の中でディズィーは家族の顔を思い出していた。一族のためと言いつつも 本当は何の為に闘っているのか分からなくなっていたのだ。  中高一貫校への入学を辞退しこちらへ来てもう四年。母親はもちろん、親戚中の女性か らマギナ・アカデミアへの入学は反対された。魔物を殺すだけの駒にはなって欲しくない と母は泣きながら抗議していたのを昨日のことのように憶えている。あの時は意地になっ て抵抗したが今思えば悪いことをしたと入学以降ずっと蟠りを感じていた。現にあの一件 以来母と話をしていない。  ディズィーの眼から滴が流れ落ちる。できることなら直に会って謝りたい。今の彼女は 戦士ではなく普通の十六歳の娘であった。  ふと祖母の言葉が甦る。 「自分の決めたことに自身を持ちなさい。間違っていたっていいのよ。やり直せばね」  年輪を重ねた優しい声が彼女の寂しさを僅かに忘れさせてくれる。心が折れそうになっ た時はいつもこの言葉を思い出していた。  しかし何故だろうか、今夜はやけに寂しさが身に沁みる。涙が止まらなかった。  かけ布団を頭から被り、声をころして泣く。できることなら幼子のように声を出して泣 きじゃくりたかったが、それをやったらプライドが崩れてしまうような気がしてならなか った。  ひとしきり泣いたせいか、心が落ち着きをとり戻した。闇の中で涙を拭い、布団を被り 直す。今は一転してとても穏やかな気持ちでいられた。  静寂がディズィーを包み、重鈍になった思考が心地よさをもたらすと全身の力が抜けて 行く。深い、深い眠りの淵へと彼女の意識は沈んで行った。 ――つづく――