学園マギアSS――拳闘令嬢・後編  昨晩は四時間くらいしか眠っていないせいか疲れが完全に抜けていなかった。本当は昼 ごろまで寝ていたかったのだが、授業があるのでそうもいかない。  乳酸の溜まった身体を引きずりながら登校して教室に入る。ここにいる同年代の少年少 女は全てマギナ使い。つまり兵士だ。  ディズィーは近くにいた数人と挨拶を交わし席に着く。この一部始終だけならどこの学 校でも見られる光景だが、皆机の横や後方のロッカーに自分の得物を置いている。普通の 学校に通っていたなら友人たちと楽しくおしゃべりしたりできるのだが、ここで聞く話題 は警邏のシフトのことや魔物に関することばかりだった。たまに浮いた話もあるが、それ も戦闘による死傷者が出ると瞬く間に消え失せた。  自分と同年代の子たちはどうしているのだろうか。ふとそんな思いがよぎる。お洒落を 楽しみ、好意を寄せる異性の話で盛り上がれるのが羨ましかった。今の自分は形だけの学 園生活を送っている駒でしかないのか。ディズィーは釈然としない思いを抱えていた。  このままでは母が予測した姿になってしまう。それだけは何としても避けねばと思うも 具体的な案が浮かぶわけもなく、彼女はただ頬杖をつくだけだった。  そうしている内に時間だけが過ぎ、始業のチャイムが鳴る。教師が入ってきて授業が始 まると、迷いを振り払うかのように黒板に集中した。そうでもしないと今にも心が萎えそ うだったからだ。 --------------------------------------------------------------------------------  憂鬱だった気分も午後には随分と穏やかになっていた。座学は午前中だけのことが多く、 残りは魔術や戦闘訓練に充てられている。  ディズィーはジムの更衣室にいた。黒いハーフトップとハーフパンツのトレーニングウ ェアに着替えると髪結い用のゴムバンドを手に取る。毛色に合わせたブラウンの布地が被 さったそれを左手首にはめた後、髪を両手でまとめて後頭部に持っていき一つに結わう。  電磁拳を持って更衣室を出る。ジムの扉を開けると既に数人の生徒たちが思い思いに身 体を動かしていた。ディズィーは彼らに目もくれずに部屋の奥にあるもう一つの扉に向か って足を進める。  扉を開けるとそこはテニスコート二面ほどの広さで、窓のないドーム状の部屋になって いた。出入口横の液晶画面のついたパネルに掌をかざす。緑色の光が下から上に通り過ぎ ていく。それを身じろぎせずに眺め反応を待った。 <<静脈パターン照合……ID−No.7058、D.ドーリアンと一致>>  天井のスピーカーから男声の人口音声が流れ、電灯が点いた後に扉が閉まり施錠される。 <<戦闘用シミュレーターの使用を許可します>>  音声が感情なく告げると彼女は電磁拳をはめつつ口を開いた。 「モンスターデータ15−Cを」 <<データ確認……該当あり。ラフィドフォリダー、シミュレートレベルMAX。個体数1>>  ディズィーはアナウンスを聞きながら腕や脚のストレッチを始めた。肩や背骨が鳴る音 が耳に入る。わざと鳴らすのはよくないというが、習慣になっているのか無意識の内に鳴 らしていることが多々あった。  やがて天井からレーザーのような光が照射され、半透明の黄色いラフィドフォリダーを 構築ていく。  物理的に触れることができる特殊エネルギー体で作られたデコイではあるが、巨大な昆 虫に人間の四肢を付けたような姿は彼女に嫌悪感を懐かせた。 <<戦闘シミュレートを開始します>>  音声がそう告げるなり一メートルほどの昆虫人間が飛びかかって来る。 『速い!?』  ディズィーは咄嗟に横へ跳び退いてラフィドフォリダーの一撃をやり過ごし、すかさず 反撃に転じるも拳が空を切った。呆気に取られる彼女を嘲笑うかのようにカマドウマが壁 や天井を蹴って跳ね回る。ローレベルの魔物とはいえその跳躍力と運動性は明らかな脅威 であった。  それからいくら立ち回ろうとも拳は全て空振りし、かすることもしなかった。苛立ちが 焦りへと変わり冷静さを欠いていく。当てようとすればする程筋肉は力み拳のスピードが 遅くなる。 「あっ!?」  右フックが空を切った刹那、彼女が驚嘆の声を上げた。ラフィドフォリダーが宙返りし ながら大きく後方へと跳び、壁を蹴って弾丸の様に飛来してきたのだ。ディズィーは避け る間もなく腹に頭突きを食らい内蔵に伝わる鋭い痛みと肺の空気が全て絞りだされるよう な苦しさに意識が遠のいた。足を出して倒れまいと踏ん張った所へ今度はつま先が飛んで きて顎にヒットする。衝撃が奔り口の中に鉄のような味が広がるのを感じながら天を仰ぎ のけ反った。その一瞬、宙返りする半透明の物体が彼女の視界に映りこんだ。それは空中 で体勢を整えると、とどめとばかりに真上から降ってきて両鎖骨へモンゴリアンチョップ を浴びせた。 「ぼふぁ……」  空気の漏れるような僅かな声を上げた後、全身から力が抜ける。口から血が溢れ、ぐら りと上体が揺らいだと思うとそのまま床に倒れこむ。目の焦点も合わず色彩が失われてい る。苦しさこそ感じなかったが異様に身体が重いような気がしていた。 <<意識混濁。戦闘シミュレーションを中止します>>  アナウンスが耳に入る。プログラムされた人工音声とは分かっていても無性に腹が立っ た。ディズィーは這いつくばりながらも起き上がり怒鳴った。 「お待ちなさい! まだ、まだ終わっていませんわ!」  血と唾が混ざったものが顎を汚している。傍から見れば動くことすらままならない状態 だった。 <<意識回復を確認。戦闘シミュレーションを継続します>>  無感情な人工音声を聞きながら顎についた血を掌で拭う。まだ脚に力が入らずにふらつ くが彼女も意地になっていた。  拳を握りしめて再び半透明のデコイの方を睨む。電磁拳から紫電が迸り、いつしか彼女 の腕全体に稲妻が纏わりついている。抑えがたい怒りや悔しさ、恨みなど負のパワーによ って一時的に魔力が上がると現れる現象だった。 「一発殴っておかないと気が済みませんわ!」  怒りを露わにしたディズィーが構えるのとほぼ同時にラフィドフォリダーのデコイが跳 躍して一気に距離を詰めてくる。棘の生えた四肢から繰り出される攻撃をまともに受ける と酷い裂傷ができるため、電磁拳の金属の部分で捌く必要があった。しかし今回は頭に血 が上っていたせいもあってかディズィーは腕が傷つくのを意に介さず正面から攻撃を受け 止め、プラズマを纏った一撃を相手に打ちこんだ。 「破っ!!」  インパクトの瞬間に青い炎が吹き上がり雷光が迸ってデコイは蒸発するように消えた。 <<標的の撃破を確認しました。戦闘シミュレーションを終了します>>  アナウンスがそう告げるなり部屋の明かりが緑がかる。回復魔法を発生させる治療用マ ギナからの光だった。  これで終われると思った直後、張りつめていた緊張が解ける。全身に奔る痛みに顔が歪 む。特に右腕から痛みが強くそこに目を向けてみると十センチ近く前腕部の肉が裂けてい た。普通の少女なら泣き喚いて助けを請うだろうがそこは流石に慣れたもので、落ち着い た様子で傷口を緑の光に晒す。  瞬く間に傷口が塞がりかさぶたが形成されたかと思うとすぐに剥離した。裂傷は完全に 癒えたが僅かに爪で引っかいたような薄ピンクの痕が残っている。ディズィーはそれを気 にするように二、三度指でなでた。また一つ勲章のようなコンプレックスが増えてしまっ たと複雑な気分になった。 <<外傷の全快を確認しました。退室を許可します>>  緑の光が消えてロックが解除される機械音が耳に入る。踵を返してドアを開けて外に出 た。シミュレーターに入る前と何ら変わらない光景が広がっていることに彼女は安堵した。 --------------------------------------------------------------------------------  午後の訓練も終わり夜の警邏が始まるまでは貴重な自由時間だ。ディズィーは人でごっ たがえす繁華街にいた。人々の間を縫うように進み、脇道に逸れてから石造りの階段を下 りて行く。歩を進めるにつれ空気は淀み湿気を孕んでいくのが分かった。空調がよく利い ていないせいか饐えたような悪臭が漂っている。  この臭いさえなければと彼女はここに来る度に思った。  地下に造られたシェルターを兼ねたアーケード街だったが今は闇市の中枢と化している。 未許可の商店や屋台が軒を連ね、売り子たちの声が絶え間なく飛び交う通路を通過して一 軒の店の前で足を止めた。赤、白、青の螺旋模様が回る看板は誰の眼にも理髪店だと分か る。  ベルのついたドアを押して中に入ると乾いた空気と石鹸の香りがディズィーを包んだ。 今までの臭気を孕んだ空気から解放されて嗅覚が軽くなったように感じた。  しばらくして理髪店から出てきたディズィーは頭が軽いだけでなく涼しいことに気づい た。ショートカットにしたのは小学校のとき以来だ。  人ごみに紛れて歩きだすと彼女は僅かな違和感を覚えた。髪が揺れる感触が殆どないの だ。しばらくすれば慣れるだろうと思うのだがどうもいつもと感覚が違うので落ち着かな い。髪型ひとつでここまで変わるものだろうかとディズィーは自分の過敏さに驚いていた。  気を紛らわそうと周囲に眼をやる。忙しなく商いをする店員と途切れることのない人の 波は活気に溢れているようだが、よく見ると人々の顔には翳があるように思えた。今にも 魔物に襲われるかもしれないという不安と怯えを抱えながら日々を過ごしているのだ。心 から笑える人物などそうはいない。自分は抗う術を持っているため幾分余裕があるが、そ うでない人たちは綱の切れかけたつり橋を渡っている心境なのだろう。絶望して自ら綱を 切ってしまわぬように少しでも多くの魔物を倒さなければと思った。それでも全ての人が 幸せにならないことも理解している。しかし今の彼女にはそれしかできないのだから。 --------------------------------------------------------------------------------  乾いた夜風が頬を撫でた。街の灯りは煌々と点いているが人の姿は全くない。ただ地下 から伸びた廃熱管から水蒸気が噴出する音だけがコンクリートジャングルに反響している。 <<静かすぎやしないか?>>  大通りから少し外れた路地を警邏しているディズィーの頭の中で葵が呟く。 「まるでトラブルを望んでるようですわね」 <<気味が悪いんだ。嵐の前の静けさみたいでね>>  人間らいし反応であるはずなのにディズィーは違和感を懐いた。山野葵という人間は初 めから存在せず、自分に話しかけているのは人工知能ではないのかという懐疑心が拭えな かったからだ。イメージと現実のギャップは心に靄をかけ、心眼を曇らせる。 その靄をかき消すように葵の声が響いた。 <<魔物出現! 急速接近中、用心しろ>>  人工的に加工した音声ながら緊張感が伝わってくる。ディズィーは周囲を警戒しつつ拳 を握った。 <<これは……間違いないこの前ロストした個体だ。十一時方向、来るぞ!>>  葵が言い終わるか終わらないかのタイミングでビルの上から影が飛び降りる。複眼が街 灯の光りを反射して赤く帯を引く。それは地面に着地するとディズィーの方にゆっくりと 顔をむけた。昆虫と人間が混ざり合ったような異形の姿に彼女は恐怖と嫌悪の念を抱く。  僅かに後ずさった瞬間、魔物が「ギィッ!」とひと鳴きしてから飛びかかってきた。 『間合いに入られた!?』  思考がそう判断した頃には既に魔物の爪が襟元まで迫っていた。寸前のところで斬撃を 電磁拳で捌き受け流す。 <<データ照合。リッパーホッパーだ。迂闊に近づくと棘や爪でミンチにされるぞ>> 「近づくなって言われましても既に接近されてますわ!」  頭蓋内で響く葵の声にディズィーが苛立った口調で返す。その間も昆虫人間の攻撃は止 まず、彼女はそれをガードするだけで精一杯だった。 <<奴の間合いから出ろ! このままじゃ殺られるぞ!!>> 「相手の手数が多すぎて、抜け出せそうにありませんわ」  一瞬だけでも隙ができればと思うのだが、人間を遙かに凌駕した魔物の身体能力を前に それは叶わぬことだった。  防戦一方の疲れからか、攻撃をかわすタイミングが僅かに遅れた。リッパーホッパーの 爪がディズィーの襟元をえぐる。  リボンが千切れ飛び、ブラウスが裂けて白い肌が露出した。  傷こそつかなかったが動揺が隙をつくる。それを逃す魔物ではない。  ディズィーが危険を感じ防御の体勢をとったが、リッパーホッパーの拳がガードを突き 破って鳩尾に痛烈な一撃を加えた。  衝撃が波紋状に広がりディズィーの身体を弾き飛ばす。  胸が潰れ空気が絞りだされる苦しさはあったが不思議と痛みはなく、一瞬の浮遊感の後 に地面に叩きつけられる。口の中に鉄の味が広がり意識が遠のく。  やはり自分は何もできないのかという悔しさが思考の淀んだ脳内を巡る。 <<ディズィー、生きてるか? 返事をしろ! ディズィー!!>>  葵の声が幾重にもエコーがかかったように聞こえていた。 「まだ死んではいませんわ……」  力なく言葉を返しよろよろと立ち上がる。 〔そうだまだ死ぬな。死んだら遊べない、つまらない〕  突如彼女の脳内に何者かが侵入する。ディズィーは直感的に魔物の意思だと分かった。 テレパシーや念話のようなもので話しかけてくるのは高位の魔人だけかと思っていたが、 下級の魔物にもその能力は備わっているらしい。 〔さあ構えろ。楽しい時間はこれから。これから!〕  更に意思が侵入し脳内で口を利いた。ディズィーはそれを振り払うかのように首を数回 横に振ってから意思の主に視線を向ける。 「バッタに指図される筋合いはありませんわ」  胸の痛みを堪えつつ両の拳を突き合わせてからファイティングポーズをとった。紫電が 拳の周りを疾駆しては消えていく。  戦う意志を示したディズィーを見たリッパーホッパーの眼がぎらつき、姿勢を低くし地 面を蹴った。  猛烈な勢いで飛来する魔物に負けじとディズィーも飛びかかる。がむしゃらに突き出し た拳が虫の顔を捕らえた。強引に殴りつけて地面に叩き伏せる。黄緑に光る体液が噴出し 電磁拳を汚した。  その汚れに顔を顰める猶予すら与えずに魔物は平然と立ち上がる。  視線が交錯した瞬間、リッパーホッパーが笑ったように感じ、背筋が寒くなった。  戦闘を楽しむかのように三度異形の怪物が襲いかかる。両者の拳が激突し衝撃波を放つ。  抜き手をかわし蹴りを捌き鳩尾にカウンターを決めるも、頑強な外骨格に守られた虫に は有効打にならなかった。 『そろそろ決めないと身体が……』  胸に食らった一撃がずっと尾を引いていた。その痛みが痺れに変わっていく。肋骨は確 実に折れているだろうし、肺やその他臓器にも損傷があるかもしれない。長引けはそれだ けこちらが不利になる。  一刻も早くけりをつけようと懐に潜り込もうと脚を踏み出した瞬間、膝の裏側にローキ ックをくらいよろけた。 「ひっ……!!」  ディズィーから息を呑むような悲鳴が上がる。魔物との距離が近すぎて防御が間に合わ ない。殺されると本能的に感じた。 抜き手が眼前にまで迫る中、無意識の内に目を瞑ってしまった。しかし抜き手は彼女の 顔を逸れて空を切る。前腕部の棘が左頬をかすり、しこから線を引いたように血が滲んだ。  恐る恐る目を開けると、そこには眼の光りを失った魔物が抜き手を放った状態で硬直し ていた。 「ギキ……」  弱々しくひと鳴きしたかと思った次の瞬間、突如リッパーホッパーの膝ががくりと折れ て跪く。そして黄緑に光る体液を口から吹き出して息絶えた。 「一体、何が?」  間の前で起こったことが理解できず、ディズィーはただ呆然と立ち尽くす。 <<寿命だな>>  葵の念話が聞こえてはっとした。 「どういうことですの?」 <<セミと同じさ。成虫は短命なんだよ>> 「情報があるのに何故教えて下さらなかったのかしら?」  ディズィーに声に怒気がこもる。情報の共有は必須事項だからだ。 <<黙ってたわけじゃない。ついさっき分かったんだ>>  相変わらす淡々としている葵に対し、自分たけ怒っているのが馬鹿馬鹿しくなった。デ ィズィーは一言「そう」とだけ言って口を閉ざした。 <<付近に魔物の反応はない。早く戻って手当てしてもらえ。以上(オーバー)>>  最後も一方的に念話が切れる。 「全く、本当に勝手ですこ……」  大きく溜め息を吐こうとして空気を吸い込んだ直後、鋭い痛みが胸部に走る。肋骨が折 れていることをすっかり忘れていた。 ――了――