――海が凪いで、丸い月が覗く夜には      決して魚河岸に来てはいけない――  どこからか、かすかな音がする。それは笑い声のようでもあり、風音のようでもあり、 誰に何を伝えることもなく夜の町に散っていく。そして再び、町に静寂が戻った。 「もう夜中だから、車も人もほとんど通らないのね。店もみんなシャッター閉めてるし」 「うーん、なんか出そうな雰囲気だなー。あたしのオカルトセンサーが反応してるっぽ い」  月明かりと街灯に照らされたコンクリートの道路脇を、女子中学生の二人組が呑気に 歩いていく。ダウンジャケットを着込んだ無造作な茶髪の少女と、制服のブレザーの上 からコートを羽織った黒い長髪の少女だ。 「沙織のセンサー、今のところ的中率ゼロだけどね」  沙織と呼ばれた茶髪の少女は、手に持った双眼鏡で黒髪の少女の頭を軽く小突き、呆 れたように肩をすくめた。 「馬鹿だなー京子は。今まで一度もオカルト体験が無いんだから、的中率も何も無いっ しょ」  黒髪の少女――京子はズレた眼鏡を片手で直し、ため息まじりに「確かにそうね」と 返した。  確かに、彼女たちは超常現象の類に遭遇したことが無い。常日頃から様々な方法で情 報を集め、地道なフィールドワークも重ねているが、全て徒労に終わっている。そして 今夜も、彼女たちはまだ見ぬ不思議を求めて町を歩いているのだ。 「だいたい、魚河岸に幽霊が出るって話を仕入れてきたのは京子じゃん」  小石を蹴りながら横を歩く沙織が、拗ねたように口を尖らせて言った。  事の発端は数日前、京子がネットで見付けた「【速報】魚河岸で幽霊を目撃」という 見出しだった。まだ日数が浅いためか、調べてみても断片的な情報しか見付けられなか ったが、その手付かず感に沙織の心は惹き付けられたらしい。開口一番に「じゃあ、あ たしたちが調査すれば一番乗りじゃん」と口走り、あっという間に計画が立った。とい うより、沙織が「調査に行く」と言えばそれは決定事項なのだ。  しかし別に京子は調査に行きたくないわけではなかったし、むしろ沙織と一緒に行け るのは嬉しいことだった。問題があるとすれば―― 「まあ調査に行くのは良いんだけど、なんで悪霊退散のお守りなんて持ってきたわけ?」 「これはアレ、なんていうか、幽霊が襲い掛かって来たところにビシっと突きつけて、 バシューって感じで」  問題があるとすれば、沙織の目的が調査というよりゴーストバスターに近いというこ とぐらいだ。悪霊退散の怪しげなお守りやらお札やらを装備して、調査する以前に霊が 逃げてしまっては元も子もないだろうに。京子は時々、沙織の楽天的な思考が羨ましく 思えた。 「もう敢えて何も言わないわ。とにかく魚河岸に行かないことには仕方ないし」 「そうだなー、やっぱり十字架も持ってきたほうが良かったかもなー」  あまり噛み合ってない会話を交わしながら、二人は魚河岸への道を歩いていく。交通 量の多い表通りは避けて、なんとなく入りやすそうな路地側から侵入する作戦だ。 「でも裏道みたいなところだから暗いわね。街灯も少ないし……」  少し不安になって京子が頭上を見上げたその瞬間、電信柱に付いていた電灯がパチパ チと音を立て、急に点滅し始めた。 「え!? ちょっと! なんなの!?」  間もなく完全に灯りが消え、月明かり以外の光源は失われた。いきなり周囲が暗くな ったことに加え、急に電灯が切れるという予想外の事態に京子は錯乱し、思わず沙織に 抱きついてしまった。オカルトマニアでありながら、京子は意外と怖がりだったりする。 ちなみに沙織は、プラズマ生命体が電気を食べたのではないかと疑ってすぐさま望遠鏡 を空に向けていた。 「はっ、私としたことが……」  冷静を取り戻した京子は自分が情けない姿を晒していることに気付いたが、せっかく なのでもうしばらく抱きつくことにした。さらに、もっと薄着だったら沙織の肌の感触 を存分に味わえるのに、と思っていた。 「あ~あ、何も見つからないや。やっぱり電灯が切れただけかね」  残念そうに呟いて沙織は双眼鏡を下ろし、なぜか自分に抱きついて幸せそうにしてい る京子の顔を見る。一つのことにしか頭が回らない沙織は、この状況が理解できないら しい。 「京子、なんでくっついてるんだ?」  嫌味や疑いの無い沙織の言葉に、京子は再び我に返って慌てて離れた。そして「いや、 沙織が寒そうだったから、ほら、それに、プラズマ生命体に襲われる可能性もあるし」 などと口走りながら視線を逸らす。  ――どうしよう、この言い訳は流石に苦しかったかも。怪しまれてるかな。  しかしもう一度沙織のほうへ視線を戻した時、京子は絶句した。月光と混じり合う薄 闇の中、沙織の後ろに不気味な黒い影が見えたのだ。一瞬の後、京子はその影が生気を 欠いた少女の亡霊であると気付いた。 「うらめしやぁ……」 「――うわああああ! おばけ!?」  目を剝いたまま絶叫と共に倒れ込み、尻もちをついた京子。背後からの声に反応して 振り向いた沙織も、すぐ後ろに佇む謎の少女に驚いて「わっ」と短い声を上げた。 「す、すごい、本物の幽霊だ! こいつぁたまらーん!」  興奮の叫びを上げながら沙織は双眼鏡を構え、幽霊を観察しようとしている。 「沙織、その至近距離で双眼鏡は意味ない! ていうか取りあえず逃げなさいよ」  いつもと大して変わらない沙織の振る舞いを見て、京子は取り乱した自分が恥ずかし くなってきた。ずりおちた眼鏡を両手で直しながらさっさと立ち上がる。いつの間にか 電灯も復活していた。  改めて見ると、その黒髪の少女は幽霊と呼ぶにはいささか特殊な風貌だった。京子た ちより少し年下のようで、クマが深い目元や生気の無い表情は幽霊そのものなのだが、 浮遊しているというより明らかにヒモで吊るされていた。しかも首吊り状態で。 「あれ、よく見たら変な幽霊ッスね。ニュータイプかにゃ?」 「確かに、なんか変……」  京子と沙織は、少女を吊るしているヒモを辿って夜空を見上げた。電信柱のもっと上、 満月が輝く夜空の彼方まで、首吊りヒモはずっと伸びている。 「このロープ、どこに続いてるのかしら」 「月にでも繋がってるんじゃない? バンジージャンプに失敗したかぐや姫だったりし て」 「物理的には色々と無理があるけど、それはそれで面白そうね」  すっかり普段の調子を取り戻した二人に、むしろ幽霊のほうが戸惑っているように見 えた。宙吊りになっているその身体が、所在なげに左右に揺れている。 「あのぉ、そんなことより、うらめしやぁ……。うらめしやってばうらめしやぁ……」  二人が目を輝かせて再び少女に向き直ると、少女は黙り込んでしまった。なんという か凄みの無い幽霊だ。京子はカメラを取り出して写真を撮り始め、沙織は「よしよし恨 めしいんだねーよしよし」と呼びかけながら頭を撫でていた。少女は困り果てた様子で 前後左右に身を揺らして避けようとする。 「ところであなた、何がそんなに恨めしいの?」  京子の素朴な疑問に、少女はおもむろに語り始めた。沙織も興味津々なようで、相槌 を打ちながら話を促していく。 「まだ私が生きていた頃のある日、私の家の裏に食堂が出来たんです……」 「ほいほい」 「それで私はメニューを見て、何気なくカレーライス定食を注文しました……」 「それでそれで?」 「するとなんと、店主はカレーライスにご飯と味噌汁をつけてきたのです……」 「あらまあ」 「なぜライスにご飯をつけるのか……。私は未だに、その食堂のシステムが許せませ ん……。裏の飯屋が、うらめしや……」 「こいつぁ一本とられた!」  えらく感心した様子で笑いながら幽霊に拍手を送る沙織。なんとなく笑うタイミング を逃した京子は、複雑な心境で苦笑いを返した。沙織が楽しそうなのは喜ばしいけれど、 初めての心霊体験がこんなのでいいのだろうか。 「盛り上がってるところ悪いけれど、聞きたいことがあるの。あなたの名前は? あと 出来れば年齢と住所も」 「名前、うらみん……。年齢、覚えてない……。住所、不定……。死因、学校でのイジ メを苦にして自殺……」 「え、ええ、質問してない項目を足さなくてもいいのよ。私は京子、こっちが沙織。よ ろしくね、うらみん」  京子がぎこちなく微笑むと、うらみんも頷いて答えた。首吊り状態なので、頷くとい うより身体が不自然に持ち上がったような感じだが。  とりあえず挨拶は済んだのだが、すると気になってくるのは幽霊の目撃情報だ。果た して、彼女はネットに情報が上がっていた幽霊なのか? 沙織はうらみんの姿をジッと 見つめながら、訝しげな顔をした。 「でも、この子は私たちが探してる幽霊じゃない気がするなー。だってまだ魚河岸の外 だし、目撃情報とちょっと違うでしょ?」  確かに、うらみんの姿形と目撃情報には多少なりとも違いがある。なぜならネットに 上がっていた幽霊の特徴は―― 「リーゼントとサングラス、ていう特徴が挙がってたわね」 「うーん、ちょっと違うよね」  沙織は腕組みをしながら首を傾げた。彼女にとっての「ちょっと」とは何なのだろう と思い、京子も首を傾げた。 「あの、何か……」  よく分からないところで話を進められて困っているうらみんに対して、沙織はおもむ ろに尋ねた。 「あのさあ、もしかしてうらみん、数日前はグレてたりした? リーゼントにしたり、 グラサンをかけたり、さりげなく魚河岸に現れてみたり」 「してません……。それは幽霊というより、ただの不審者だと思います……」  こんな小さな幽霊から至極もっともな反応を返され、京子は少し落ち込んだ。京子自 身も「この目撃情報、幽霊じゃないのでは?」と危惧していたので、痛いところを突か れてしまったのだ。  しかし沙織はそれほど気にしなかったらしく、「そっかー」と呑気に答えた。 「つまり、今夜だけで二人の幽霊に会えるかもしれないってこったね。燃えてきたぞー 」  沙織は謎めいたファイティングポーズを取り、楽しそうに笑った。一体どこまで楽観 的なのだろうか。 「待って沙織、取りあえずうらみんについての調査が先でしょ。うらみんは、どうして こんなところにいるの?」 「築地市場のほうから強いエネルギーを感じたんです……。何か強大な力が集まり、大 変なことが起ころうとしているのかもしれません……」  少し真剣味を増したうらみんの表情を見るに、嘘は言っていないだろう。築地市場に 行く途中でたまたま二人を見付けて驚かそうとしたようだ。  京子は迷い始めていた。こんな不思議な事件に立ち会うチャンス、もう二度と無いか もしれない。でも、自分たちが首を突っ込める範囲なのだろうか。心霊スポットとか呪 いとか、そういうレベルの話では済まないかもしれない。  自分の心が弱気になっていくのを感じながら、京子は横目に沙織を見た。 「――すっげー! こりゃもう行くしかないっしょ!」  沙織は怖気づくことも無く、武者震いをしながら目を輝かせていた。いつものことで はあるが。 「強大な力が集まっているって、悪の秘密結社とか魔王の集会とか、そういうヤツでし ょ! そこに乗り込んでいったとあれば、あたしも魔王の仲間入りだー! やったるぞー!」  沙織の勇ましい叫び声を聞いているうちに、京子の心に巣食っていた弱さも消えてい く。いつも、沙織の底抜けな行動力は京子の心を明るく照らしてくれた。助けているよ うで助けられていた。今だってそうだ。  ――沙織と本当の「親友」でありたいから。せめて私は沙織の後ろじゃなくて、一緒 に横を歩いていかないといけないんだ。  京子は沙織の手を握った。まるで情熱そのものが手の中に流れているような、沙織の 温かさが伝わってきた。 「うん、行きましょう。なんだか楽しそうだし、地獄の底まで一緒に行くわよ」  隣同士で目が合って、二人は微笑みあった。楽しいことへ屈託なく突き進む、不敵な 笑顔だ。 「よっしゃー、私が魔王になった暁には京子を魔界大臣に任ぜよう!」 「夜中だからちょっと声のトーン落としてね」 「うい」  そして二人は再び、魚河岸に向けて歩いていったのだった。 「うらみんの存在、忘れてませんかー……? マジで幽霊キャラになっちゃったよー……」 「むーん、夜でもやっぱり警備員がいるのか」  なんとか魚河岸の入口まで辿り着いたはいいが、二人はそこで立ち往生をしてしまっ た。いくら沙織でも、警備員がいるところを強行突破するほど無鉄砲ではない。頼み込 んだところで入れてもらえる可能性は無いだろう。  実をいうと京子は初めから分かっていたのだが、「なんとかなる」という沙織の言葉 に押されて無計画で来てしまったのだ。もっと下調べをすれば潜入する方法もあっただ ろうが。 「お困りのようですね……」 「あっ、うらみん」  いつの間にか二人の隣にうらみんが現れ、ゆらゆらと揺れていた。実際のところはず っと近くにいたのだが、存在感の薄さゆえに気付かれなかったのだ。 「ここは私に任せてください……」 「いくら存在感の薄いあなたでも、無闇に近付いてったらバレちゃうわよ?」  しかしうらみんは心配いらないとばかりに笑みを浮かべ、パチンと指を鳴らした。  すると一体どういう仕組みなのか、うらみんの身体を支えるロープが引き上げられ、 どんどん上空へ浮かんでいく。 「吊るし上げられるのは慣れてますから、大丈夫です……」  自虐ネタかよ、と二人に突っ込まれながらうらみんは上昇を続け、ついに夜空の暗さ に紛れるほどの高度になった。 「便利な能力ね。でも一体、あそこから何をするつもりなのかしら」 「おー、パンツ見えてる」  二人に見守られる中、うらみんは夜空を滑るように警備員の真上へ移動した。当然な がら、警備員はうらみんの存在に気づいていない。  そして次の瞬間、うらみんは鬼神のごときオーラを纏い、警備員に向かって急速降下 ――というか自然落下した。いくら幽霊といえども重力加速度の影響を受けるらしく、 猛烈なスピードで警備員の頭上から接近する。 「うらみんインパクトー!」  大声で叫ばれた技名と共に、うらみんのストンピングが炸裂――するはずだったのだ が、さすがにあれだけの高度から狙いを付けるのは無理があったらしい。無惨にも警備 員の1メートルほど横に落下した彼女は、粉塵を巻き上げながらコンクリートに穴を穿 った。 「うわあ、なんだ!?」  あまりに突然の出来事で警備員は腰を抜かし、その場にへたり込んだ。そこへ追い打 ちを掛けるべく、低空飛行でうらみんが接近する。 「や、やめろ、来るなー!」  いきなり首吊り少女が落下してきて殺されかけるという前代未聞の状況に警備員は混 乱し、接近するうらみんに対して必死の抵抗を試みた。がむしゃらに繰り出された警備 員の蹴りがうらみんの腹部に直撃し、うらみんの身体は振り子の要領で後ろへスイング する。  なんとか脅威を遠ざけたと、警備員の顔に安堵の色が浮かぶ。しかし、それはさらな る悲劇の引き金に過ぎなかった。 「よくもやったなー、うらみんカウンター!」  やはり振り子の要領でうらみんは再接近し、今度こそ全力のドロップキックを顔面に ぶちかます。かなりの威力があったのか恐怖で失神したのか、それきり警備員は動かな くなった。 「うらみんスゲー! 幽霊なのに蹴り技とか斬新すぎ!」  再び存在感が薄れていくうらみんの前へ、隠れていた沙織と京子が出てきた。沙織は かなり興奮しているらしく、うらみんに賛辞を浴びせかけている。京子はうらみんの落 下によって生じた大穴を見て、その深さに目を丸くした。 「ねえ、さっき盛大に自爆してたけど、足は大丈夫なの?」 「これが本当のジバク霊……」 「まー幽霊なんだから、足なんて飾りみたいなもんでしょ」 「……心配するだけ無駄だったみたいね。とにかく、見つかると面倒だから早く行きま しょ」  そして二人は魚河岸の門をくぐり、今宵の戦場へと一歩を踏み出した――。ちなみに うらみんは邪魔なので別ルートで行動させた。  特に何事も無く場内を探検していた沙織と京子が異変に気付いたのは、マグロの卸売 場の前だ。もちろんまだ卸売は始まっていないから、誰もいないはずなのだが、そこに 不釣り合いな人影があった。  小さな身体にエプロンとゴム長を着用した、紫色の髪の幼女が歩いていたのだ。しか もことさら異様なことに、彼女は自分の身の丈を上回るほどの冷凍マグロを抱えていた。 一体どこから持ってきたものか。  そして極め付けに、少女の衣服には血が染み込み、その目はボンヤリと虚空を見つめ ていた。一目見るだけで、関わってはいけない類の人間だと分かってしまう風貌だ。 「ちょっと隠れて様子を見ましょうか……」 「了解ー」    *   *   *  魚河岸に住み着いている殺人幼女こと魚海堂刺美は、今朝もいつものようにマグロを 奪った。売られる前の冷凍マグロを盗み、逆らう人間はマグロで刺殺する。もっとも最 近は魚河岸の関係者が諦めたため、素直にマグロを渡してもらえるようになっているが。  先ほどまでマグロを抱いて眠っており、夜中になったので起き出した。そろそろ町へ 出て、日課の人狩りをする時間だ。しかし今日は、いつもとは少し状況が違った。卸売 場の前を通り過ぎようとしたとき、何者かに呼び止められたのだ。 「待ちな、嬢ちゃん。tonightこそは逃がさないぜ」  売場の屋根の上に座って刺美を見下ろしているのは、リーゼントにサングラスという パンクな出で立ちの男だった。しかもパンクな雰囲気の和服を纏い、パンクな日本刀を 腰に差している。 「おっと待て待て、言いたいことは分かる、俺様の正体が気になるんだろう? オーケ イ、教えてやろうじゃねえか。俺の名は杜守玄鬼、冷凍睡眠から目覚めて現代に蘇った SAMURAIさ。嬢ちゃんに恨みは無くとも、無闇な殺生は俺のjusticeが許さないんでな。 子供殺しは後味が悪いが、仕方ねえ、死んでもらうぜ」  死刑宣告を終えたその瞬間、玄鬼の身体は天高く飛び上がった。一瞬にして刀を抜き 放ち、ついでに服も脱ぎ捨てて、一糸まとわぬ肉体で満月を背にして刺美へと飛びかか る。その姿はまさに、絶対の正義を以て死を与えんとする修羅、あるいは変態であった 。  そして一秒後には玄鬼の股間にマグロが突き立てられていた。瞬時に跳び上がった刺 美が必殺の刺突を放ったのだ。しかし、まだ貫通はしていない。彼の股間にそそりたっ たKATANAが、間一髪のところでマグロを受け止めていたのだ。  二人の力は拮抗しているのか、激しい鍔迫り合いが空中で繰り広げられる。それは永 遠のような一瞬であり、つまるところ玄鬼は一瞬で絶頂に達してしまった。魂を失った 彼のKATANAにもはや力は無く、瞬く間にマグロが身体を貫く。股間に直径数十センチの 風穴を開けられた玄鬼は力尽き、無惨に地面へ叩きつけられた。  SAMURAIは振るう刀も無く、動かぬまま血液だけが溢れ出ていく。しかし刺美はすで に玄鬼への興味を失っているらしく、マグロに付着した返り血を舐め取っている。  そして数分後、刺美の体温によって冷凍マグロは完全に解凍されていた。やっと食べ 頃になったマグロに思いきりかぶりつき、硬い表皮をものともせずに噛み千切る。血だ らけの口でマグロの肉を咀嚼するその様は、野性的でありながらもどこか年相応の愛ら しさを漂わせていた。  しかしその幸福は長くは続かない。彼女は、このマグロが“何者”であるのか知らな すぎたのだ。  マグロに噛み付こうと口を大きく開いた刺美の顔面に、突如として浅黒い拳が叩きつ けられた。完全な不意打ちを受けて、なすすべもなく吹き飛ぶ刺美。  どこからともなく刺美を殴ったその拳は、他でもない、マグロの皮を突き破って内側 から現れたのだ。まるでマグロから人間の腕が生えているかのようなその光景は、異様 さのあまり滑稽にさえ思えた。  そしてその奇妙なマグロは、次の瞬間にはマグロですらなくなっていた。内側から膨 れ上がる何かによって、マグロの身体は爆散したのだ。  マグロの皮膚を突き破って生まれ出たそれは、浅黒い肌のインド人だった。太陽のご とく黒光りする禿頭に、戦闘民族と呼ぶにふさわしい屈強な肉体、白く清らかな衣を身 に纏ったその姿はインド人以外の何者でもない。 「流石に、マグロの胃の中に身体を押し込むのは無理があったか。もっとヨガの修行が 必要だな」  彼は身体の調子を確かめるように何度か首を鳴らし、手足を動かした。どうやらマグ ロの体内で長期間生活していたため、身体が思うように動かないようだ。 「少し準備運動をしたいところだが、ひ弱な子供を殺すわけにもいかんな。起きろ小娘」  先ほどから倒れ伏していた刺美が、インド人の声に応えて起き上がった。その表情は 苦痛と憎悪によって歪んでいる。彼女にとって至福の時間であるマグロ丸かじりタイム を邪魔され、あまつさえマグロを跡形も無く破壊されてしまったのだ。 「うう、マグロ……、マグロが……!」  刺美は鋭くインド人を睨み付け、一足飛びに躍りかかった。獣のごとく歯を剥き出し にして、インド人の喉笛を食いちぎろうと迫る。しかしそんな決死の突進も、インド人 にしてみれば児戯に過ぎない。  インド人は身を低くして攻撃をかわしながら、刺美の腕を掴みとった。そして身体を 旋回させて勢いよく振り回し、空中へと放り投げる。  刺美といえども空中では自由が利かない。そこへインド人は即座に追い打ちをかけた。 巌のような両手で合掌し、そこにエネルギーを集中させる。極限まで収束したエネル ギーは猛烈な光を放ち、夜空を明るく照らさんばかりに輝いた。インド人の頭に僅かに 生えている産毛さえも反応し、金色の輝きを放っている。  そして次の瞬間、このエネルギーは光線となって刺美に襲い掛かった。 「くらえ、無抵抗ビーム!」  まったく無抵抗にほとばしって刺美を直撃した無抵抗ビームは、彼女の中に存在する 抵抗心をことごとく打ち砕いた。抗うことも出来ずに地面へ落ちた刺美はもはや動く気 力さえ失っているようだ。 「すこしやりすぎたようだが、悪く思うな。スポーツの試合ではないのだからな」  そしてインド人は卸売場の屋根を軽々と飛び越え、どこかへと去って行った。    *   *   * 「何としても、ヤツを見付けなくては……」  夜の魚河岸に暗躍する者は、何もインド人だけではない。ここにもう一人、世界の危 機を救うべく現れた武人の少女がいた。  月光を浴びてアンテナの上に立ち、魚河岸全体を油断なく見下ろす。身に着けている のは剣道着だが、その胸部は乳房に合わせて丸く切り取られ、柔らかな豊乳が露わにな っていた。  彼女の名は乳ヶ崎桃花――乳首でフェンシングを行なうニップフェンシングの若手選 手だ。厳しい鍛錬を続けて世界チャンピオンに迫るほどの実力を得た彼女だが、今日は 競技をしに来たわけではない。その実力を見込まれ、特別な任務を帯びて来たのだ。  任務と言っても今のところは監視をしているのみであり、実際に動いてはいない。し かしある時、鷹のように鋭く魚河岸を見つめていた彼女の瞳が、不意にかすかな光を映 した。 「間違いない、あれはヤツのハゲ頭の輝き!」  桃花は瞬時に動いた。剣道着とは思えぬ軽やかな跳躍で夜空へ飛び立ち、屋根を飛び 移って標的に迫る。 「見付けましたよ、インド人!」  そう、彼女が追っていたのはマグロから現れたインド人だったのだ。高速で移動する インド人の軌道を予測し、先回りで屋根に下り立つ。 「追手か、想像以上に早いな……」  インド人は逃げるでもなく、桃花と同じ屋根に飛び移った。逃げても無駄だと思った のか、あるいは自信の表れか。その表情からすると、おそらく後者だろう。 「しかしこの吾輩に勝負を挑むとは、よっぽどの命知らずか? あるいは単なる無知か?」  明らかに見下したようなインド人の言葉に、桃花は強く唇を噛んだ。 「私とて、本来ならばあなたと戦いたくはありません。どうしてこんなバカなことをな さったのですか……、ニップフェンシング元チャンピオンともあろう人が!」  説明しよう! インド人はかつて、ニップフェンシングの選手だったのだ!  女性だけが戦える競技と思われていたニップフェンシングに男でありながら参戦し、 インド人はその強靭な乳首で着々と勝利を重ねていった。当時の関係者の談によると、 彼ほど強さに貪欲な選手は見たことが無いという。その肉体美はとどまるところを知ら ず、ついにはチャンピオンの座すら我が物にしたのだ。しかしある時、インド人は突如 としてニップフェンシング協会の会長を乳首で殺し、海へと逃亡した。その後の消息は 不明だ。 「私はあなたの活躍をテレビで見て、憧れを抱いていました! そのあなたが、なぜあ んなことを……どうか理由を教えてください」  インド人を睨み付ける桃花の瞳は、複雑な感情に揺れていた。彼女の目の前にいるイ ンド人は、任務の標的であり、許されざる犯罪者であり、かつて憧れたチャンピオンな のだ。 「いいだろう、教えてやる。だがその前に、お前にとってニップフェンシングとは何だ?」 「そ、それは、私の生きがいであり、自己鍛錬の――」 「甘い! 貴様のような甘ったれた輩に嫌気が差したから協会を抜けたのだ!」  桃花の言葉を打ち切って、インド人は吐き捨てるように叫ぶ。その視線には、あから さまな嫌悪感と軽蔑が込められていた。 「なんですって……?」 「チャンピオンになって気付いたのだよ、こんな称号など何の意味も無いと。本来のニ ップフェンシングは人を殺すための技術だ。貴様らのようにルールに縛られ、命のやり 取りも無く、そんな中で本当の強さが生まれると思うか? 否! 生まれるはずが無い! 争いというものは、生死を賭して行なわれなければならない。だから吾輩はスポーツ選手 としての自分を捨てたのだ。ただ武のみに生きる、真のチャンピオンとなるためにな!」 「強さというものはそんなものじゃない! 私は絶対に認めません! それでもあなた が意見を変えないというのなら、私の全力を以て止めます」  様々な感情を意志の力で抑え込んで、桃花は堂々と叫んだ。たとえどんなつらい道だ ろうと、自分が人生を捧げたニップフェンシングを貶めることだけは許せない。  インド人はニヤリと笑い、桃花の凛とした双眸を見下ろした。 「いいだろう、それこそ吾輩の求める答えだ。本当の力とは何か、教えてやろう」  インド人は衣を脱ぎ捨て、パンツ一丁になった。その瞬間、二人の間の空気が一気に 張り詰める。お互いに胸部を露出したこの状態は、いわば抜き身の刃を構えているよう なもの――一瞬の読み違いが勝負を分ける臨戦態勢だ。  いざインド人の肉体と対峙し、桃花は今さらに冷や汗が出てきた。研ぎ澄まされた刃 のように勃起した乳首、巌のような胸板、そして美しい褐色の肌。立ち姿だけでこれだ けのポテンシャルを感じさせる超人に、果たして勝てるのだろうか。  しかし迷っている暇は無い。心が波立っていては隙を突かれる。ならばむしろ、攻め に行け!  桃花は肩の動きで右の乳を旋回させ、一気に踏み込んで逆袈裟に斬り上げた。しかし インド人は一歩引いて間合いから外れる。  初太刀は空振り――しかし桃花の攻撃はまだ終わらない。離れ乳を活かした左右のコ ンビネーション――双竜舞が桃花の持ち味だ。右の乳を引くと同時に左の乳で鋭く突く。  剣道の動きを取り入れた桃花の技運びは、並の選手が相手ならば反応する間さえ与え ない。しかし流石は元チャンピオンだ、桃花の突きをたやすく乳首で叩き落とした。し かも、その一撃が予想以上に重い。  弾かれた乳が左に流れるが、ここで攻撃を休めるわけにはいかない。右の乳で牽制し つつ、左の乳の外旋運動を攻撃力に昇華、渾身の打ち下ろしを放つ! 「でぇやああああ!」  それでもインド人は余裕の表情を崩さず、桃花の左へ回り込んで攻撃をかわそうとし ている。  無駄だ、左の乳の勢いがあれば連続で攻撃が繰り出せるし、右の乳を使うことも出来 る。左側に死角は―― 「インド人が右に!?」  それは一瞬の出来事だった。左へ動いたように見えたインド人が、瞬時に右へ回り込 んでいたのだ。見破りようも無いほどの完璧なフェイントだった。 「動きのキレは悪くない。だが、吾輩と戦うためには全てが遅すぎる!」  ――まずい、反応が追い付かない。退かなければ。  そう思って動いた瞬間、インド人の乳首が右肩に突き刺さっていた。 「ぐぁあっ」  桃花は思わず悲鳴を上げて倒れ込んだ。追撃を避けるために転がって距離を取り、痛 みをこらえながら起き上がる。 「その乳房に風穴を開けてやろうと思ったのだが、狙いが外れたか。だが、もう実力差 は分かっただろう。お遊びで培った力など、所詮この程度だ。次は殺しにいくぞ」  インド人の言う通りだ。実力差は歴然だし、本気で来られたら勝てないだろう。だけ ど、桃花の心にはなぜだか力が湧き始めていた。  ――あなたは、こんなところで倒れる人じゃないでしょう?  桃花の最大のライバル、ジャンヌの声が聞こえてくる。言葉は厳しいけれど、いつも 桃花の背中を押してくれるジャンヌ。彼女の言葉で何度励まされたことか。 「そうだ、私には仲間がいる……!」  ニップフェンシングの真剣勝負や、異種格闘技の変態キャットファイターズ、多くの 舞台で桃花は戦ってきた。厳しい勝負の世界で生きる彼女たちだが、選手たちはみんな がライバルであり、仲間だ。  そう、この戦いは桃花一人の戦いではない。共に高め合ってきた仲間たちと一緒に戦 っているのだ。 「あなたのやってることは、ただの殺戮だ! アンジェの慎ましさ……山田のばーさん のスピード……屁風燃の羞恥心……光文寺華優の掻痒感……ミューフェミアの打たれ強 さ……ジャンヌのパワーが! そして私の怒りが! あなたを打ち破ります!」 「何を言い出すかと思えば、仲間の力か。ちょうどいい、ならば貴様の次はそいつらを 天国へ送ってやろう」  そしてインド人はパンツに手を突っ込んだ。その手がパンツの中から引っ張り出した のは、金色に輝くカレーポットだ。 「言っただろう、命がけの勝負にルールなんか無いのだと」 「ま、まさか、それを……」  狼狽する桃花を尻目に、インド人はポットからカレーをすくい取って自らの乳首に塗 りたくった。香ばしい匂いが魚河岸の夜に漂う。 「吾輩は乳首にカレーの刺激を与えることにより、勃起力を二倍にすることが出来るの だ!」  ビキビキと音を立てて、インド人の乳首がその長さを増していく。より長く、より鋭 く、ついにインド人の乳首は刺突剣をも上回るリーチと破壊力を得た。 「いくぞ!」  その叫びだけを残して、インド人の姿は消失した。あまりに速すぎて、もはや目で追 うことは不可能だ。しかし僅かに漂ってくるカレーの香りは、インド人の場所を辛うじ て伝えてくれた。 「上か!」  インド人の急襲を悟った桃花は、見上げる暇さえ惜しんで後方へ飛び退る。それとほ ぼ同時に、直前まで桃花がいた場所をインド人の乳首が足場ごと貫いた。あの刺突をま ともに食らったら、瞬く間に頭から足先まで串刺しにされるだろう。  フェイントを混ぜつつ後退する桃花の後を追いながら、散弾銃のごとき刺突が次々に 足場を穿つ。インド人の滞空能力が明らかに向上している――おそらくカレーの香りに 血が騒ぐのだろう。  桃花はなんとか冷静に対応しながら、致命傷を負うことなく避け続けてきた。しかし、 それももうすぐ終わる。足場にしている屋根の端が着々と近付いているのだ。屋根の端 まで辿り着いてしまえば、引き返そうが飛び降りようが隙を突かれるだろう。  かといって迎撃することも困難だ。あの超スピードの攻撃に対抗できるわけが無い。  ――何か、方法は無いのか……。  そこで桃花は、ある一つの突飛なアイデアを思いついた。おそらく誰も試したことが 無いであろう、無茶な発想だ。そして失敗すれば命は無い。だが、賭けてみるだけの価 値はあるように思えた。 「こうなったら、やるしかない!」  桃花は覚悟を決めて、屋根の端に立った。そして右の乳首を左手で掴み、脇腹の辺り まで引っ張って伸ばす。これこそ、桃花が思い付いた新たな構えだ。  呼吸を整え、機が訪れるのを待つ。今の桃花には全てがゆっくりに感じられた。降り 注ぐ月光の粒子、迫り来るインド人の鬼気、ほのかに漂うカレーの芳香、その全てが平 等にありありと感じられた。  ――今なら出来る、どんな無茶な筋書きだって。  凶器と化したインド人の乳首が、桃花を貫こうと突き出される。桃花は自らの乳首を 掴んだまま、身体を捻る最小限の動きで誘い込むように攻撃をかわした。そしてインド 人の乳首が屋根に突き立ったその瞬間、桃花は掴んでいた乳首を手放した。  今まで抑えられていた乳房の弾性力が解放され、爆発的な初速で乳首が振るわれる。 さらに全身の捻りを加えて加速、究極の斬撃を生み出した。屋根に突き刺さったインド 人の乳首へ、桃花の乳首が垂直に叩きつけられる。  人類の限界を越えた神速の一撃は、鋼を打つような音と共に、閃光といっても過言で はないほどの火花を散らした。そして激しい光の中で、インド人の左右両方の乳首がへ し折れる瞬間を桃花は目撃した。  おそらく人類初であろう、乳首を使った居合切りの誕生だ。  光が収まった後、そこには仰向けに倒れた二人の姿があった。インド人は乳首に重傷 を負い、血を流している。桃花は限界以上の力を振るった反動で、全身が悲鳴を上げて いた。  これがもし判定試合だったなら、勝者は桃花ということになったかもしれない。しか し非情にも、時として勝負と試合は異なる結果を生むのだ。  立ち上がったのは、インド人だった。 「はあ、はあ、なんて恐ろしい力だ。だが、無茶をしすぎたな。貴様は素晴らしい剣士 だったが、ここまでだ」  ふらつく足取りで桃花へ歩み寄るインド人。桃花はなんとか意識だけは保っていたが、 身体はピクリとも動かず、歯噛みすることしか出来なかった。 「これで終わりだ……死ね……」  インド人は力を振り絞り、なんとか勃起させた短い乳首で桃花の喉を貫こうとしてい る。もはや、どうすることも出来なかった。  しかしその時、どこからか人の声が聞こえてくる。もしや新たな追手ではないかと、 インド人は声が聞こえる方向を向いた。だがそれはあまりにもタイミングが悪かったよ うだ。 「カレーーーーだあああああ!!」  声の主はすでに、すぐ近くまで接近していたのだ。インド人が振り向いた瞬間、その 顔面に襲撃者が飛びかかった。突然の衝撃にバランスを崩し、そのままマウントポジシ ョンを取られてしまう。 「カレーどこ!? どこにあるの!?」  襲撃者の正体は、なぜか電子ジャーを持ってスプーンをくわえている少女だった。カ レーのような色の茶髪にカレーの具のような髪飾りを付けているため、なんとなくカレ ーっぽく見える。そして驚くべきことに、桃花と比べても遜色が無いほどに乳が大きい。  桃花からすると助けられた形なのだが、この少女の正体が全く掴めない。とりあえず 敵でもなさそうだが。  見ていると、少女はクンクンと鼻を動かして匂いを嗅ぎ始めた。どうやらカレーを探 しているらしい。  やがて少女はカレーの匂いを探し当て、折られて半分ほどの長さになったインド人の 乳首に顔を近づける。  ――あ、そういえばさっき、乳首にカレー塗ってたっけ……。  どうなるものかと思って眺めていると、少女はインド人の乳首を舐め始めた。と思い きや、すぐに噛み千切ってしまった。左右の乳首を噛み千切って咀嚼しながら、少女は 不思議と満足そうな顔をしている。 「乳首がカレー味なんて、さすがインドの人だね」  本当にそれでいいのだろうか。ていうか、この少女の頭は大丈夫なのだろうか。  少女は再びカレーの匂いを探し始め、今度はインド人のパンツに顔を近付けた。 「あっ、ここだ!」  ついに本命のカレーを探し当ててしまった少女は、嬉々としてインド人のパンツを破 り捨てた。桃花が思わず悲鳴を上げて目をつむるが、少女はお構いなしだ。  パンツの中に隠してあった黄金のカレーポットを見付け、少女はいよいよ目を輝かせ た。持ってきた電子ジャーを開けて、ご飯が詰まったその中にカレーを注ぎ込む。そし て口にくわえていたマイスプーンを構え、豪快にカレーを食べ始めた。 「本格派かと思ったけど、意外とマイルドで美味し~い!」  ここが先ほどまで戦場だったことなど忘れさせるほどの幸せそうな表情で、少女はカ レーを頬張っていく。 「そこの人もちょっと食べる?」  なぜか唐突に話を振られて、桃花は戸惑いながらも「食べます」と答えてしまった。 少女が桃花の口元にスプーンを差し出して、一口分のカレーとライスを食べさせる。 「うん、これは確かに、日本人基準で考えてもマイルドですね」 「だよね。でも私としてはこれぐらいのほうが丁度いいと思うんだけど」 「いや、私からすると少し甘すぎる気がしますけど、スパイスの香ばしさはかなり本格 的な味わいですね」  二人は一緒にカレーを食べながら、しばらくカレー談義を展開した。そしてカレーを 食べ終わると、少女は「じゃあね」と手を振ってどこかへ去っていった。  それなりに話はしたのだが、結局のところ彼女の正体は全く分からなかった。強いて 挙げるなら、彼女の味覚がかなりお子様であることぐらいだ。  そして相変わらず桃花の身体は動かない。よく考えたらカレー食べてる場合じゃなか ったと今更に思いながら、桃花は空を見上げて夜を明かすことにした。    *   *   *  一方、先ほど死闘が繰り広げられた卸売場はと言うと―― 「どーしよっかー、これ生きてるかな」 「いや生きてるはず無いでしょう!? 見なさいよ、この出血量! どうしてそんなに 落ち着いて……」  下半身を大きく損傷した玄鬼を前にして、沙織と京子が騒ぎ立てていた。  マグロから現れたインド人が去ってしまったので、取りあえず隠れるのをやめて出て 来たのだが、何が出来るわけでもない。沙織は楽天的すぎるし、京子は重傷者を前にし てパニックを起こしているので、どうすることも出来ないのだ。  実際問題、これだけの重傷者を前にして正しい反応は逃げることだと思うが、沙織が 事態の深刻さを把握してないのでそれも出来ない。そんなわけでずっとうろたえながら 無意味に騒いでいたのだ。 「グラサン外してみよっかー。ウホッ、意外といい男」 「言ってる場合じゃないでしょ!?」 「あ、そーだ、あそこにマグロの破片があるから傷口に詰めてみよ?」 「ちょっ、何言ってるの沙織!? 詰めてどうなるのよ!」 「同じ有機物同士だから、どうにかなるかなーって」  なるわけが無いと京子が必死に訴えているが、沙織は反論を待たずに実行していた。 玄鬼の股間あたりに開いた風穴へ、次々とマグロの肉片が詰め込まれていく。  そして表面的にはだいたい元通りの形になり、手術は終了した。 「動けー!」 「動くかー!」 「What's……? 俺様 the what's happened?」 「動いたー!」  沙織が玄鬼の頭を叩くと、いきなり目を覚まして起き上がったのだ。もちろん下腹部 はマグロが剥き出しなので、かなり異様な生命体になっている。 「いやあ、サムライって凄いね」 「そういう問題じゃないわよ、コレ……」  いちおう蘇生には成功したので、京子もいくらか落ち着きを取り戻した。というより、 マジメに考えても無駄だと悟った。 「おお、お前らが俺様を助けてくれたのか。サンキュー、恩に着るぜ」  玄鬼は沙織と京子の頭を撫でて、何事も無かったかのように歩いていった。どう考え ても致命傷だったこととか、下腹部がマグロに置換されていることとか、気付いていな いのだろうか。  とにかくこれで一件落着、かと思いきや、ちょうどいいタイミングで刺美が目を覚ま してしまった。 「マグロ……」  どうやらマグロを探しているらしいが、マグロの破片はほとんど玄鬼の修復に使って しまったので残っていない。そして彼女の目の前を、当の玄鬼が歩いている。 「マグロー!」  どうやら玄鬼の肉体からマグロを取り戻すつもりのようで、追いかけはじめた。玄鬼 も先ほどの経験から危険を感じ、本気で逃げ出した。 「マグロー!」 「dangerous! most dangerousだ!」  そして二人は追いかけっこをしたまま、建物の角を曲がって消えてしまった。  結局、残されたのは沙織と京子の二人だけだ。しかし今、この二人は致命的な問題を 抱えていた。 「あたしたちって、なんで魚河岸に潜入なんてしてるんだっけ?」 「さあ……。騒いでるうちに忘れちゃったわね」  あまりに元も子もない事態だが、そもそも最初から大した目的が無かったのだから仕 方ない。当初の目的だった幽霊の目撃情報も、実際は単なるサムライだったのだし。  座り込んで壁にもたれかかっていた沙織が、大きなあくびをした。 「なんだか眠くなってきたにゃあ。寒いし」  隣に座った京子も、そろそろ寒さが身に染みてきた頃だ。 「そうね、帰りましょうか」  そして二人は今日の出来事について話しながら、魚河岸の出口に向かって歩いていっ た。  ――しかし!  彼女たちはまだ気付いていなかった! 今夜の一連の事件には、まだメインイベント が残っているということに!  沙織たちが卸売場を去る前に、新たに魚河岸へ侵入してきた者がいた。そいつは他の 誰にも気づかれることなく、魚河岸の中を徘徊し、沙織たちと入れ違いで卸売場に辿り 着いた。  それは体長1メートル以上の巨大な蛇のようでありながら、その口の中には人間の少 女の頭があった。彼女は蛇なのか、人間なのか、はたまた蛇に食われている人間なのか、 それは誰にも分からない。彼女の名は―― 「お待ちかね、如呂巳ちゃん登場ニョロ~」  如呂巳はズリズリと地面を這いながら、卸売場の前にやってきた。そしてマグロの小 さな肉片を見付けて、おもむろに食べ始める。 「はあ、やっと御馳走にありつけたニョロ」  如呂巳が食事をしていると、その隣に一人の少女が降りて来た。さっきからずっと魚 河岸の上空をブラブラしながら安全圏で様子を見続けていた、うらみんだ。 「如呂巳、なんでこんなところに……」 「珍しく魚河岸の入口に警備がいなかったから、お魚が食べられると思って入ってみた んだニョロ。でもお魚はいないし、いきなりガレキが降ってくるし、散々な目に遭った ニョロ」 「死ななかっただけ幸いだと思うけどね……」 「でもまあ、マグロが食べられたからいいニョロ。それで、今日は大事な話があるニョ ロ」 「別に聞きたくないけど、何……」 「実は、お別れを言いに来たんだニョロ。如呂巳はもう、ここにはいられないニョロ」 「ああ、冬眠か……」 「違うニョロ! 如呂巳は巳年の象徴なんだニョロ。だから巳年が終わったら、もう出 てこれないんだニョロ」 「もう終わってる……」 「それは放っておくニョロ……。とにかく、如呂巳はお役御免になるんだニョロ。何か 労いの言葉でもかけてほしいニョロ」 「おつかれ……」 「うむうむ、まあ実際は大したことしてないから、そんなに畏まらなくてもいいニョロ よ」 「……」 「というわけで、今度は午年だから馬の着ぐるみに着替えて、新キャラとして生まれ変 わるニョロ。語尾はヒヒンになるヒヒン」 「吊るし上げられるのは慣れてますから……」 「あっ、吊り上げで逃げるのは卑怯ニョロ! 待つニョロ、せめて着替えぐらい手伝っ ていくニョロー!」 終 ■あとがき■  最後までよんでくれてありがとうございます。  年納めということで、今年絵化された自キャラたちでSSを……と思ったら元日にな ってました。SSで動かしやすいキャラを選んだので、かなりギャグに偏った人選にな ってますけど(なんでインド人があんなに動くの……)。  ちなみに、途中で名前だけ出てきた変態キャットファイターズの人たちは自キャラじ ゃないです。自キャラも交じってますが。  あと自キャラについては、かなり好き勝手にキャラ崩壊させてしまった部分もありま す。絵化してくれた絵師あき、ごめんなさい。  特に米子ちゃん(カレーの子)とかのキャラ崩壊が深刻な気がします。刺美ちゃんの 性格に引っ張られてしまって……。ちなみに当初は、米子ちゃんがカレーポットを取ろ うとしたらインド人の股間にこぼれちゃって、みたいな展開も考えてましたが、さすが にキャラ崩壊が激しすぎるので自重しました。あんまりカニバルしすぎるのも問題です よね。  登場キャラたちの設定は下に載せておきます。 ■設定■ 野寺 沙織(のでら さおり) UMAや都市伝説など不思議なものが大好きな14歳の少女 茶髪の無造作ショートヘアで、シャツ&パンツのラフな格好に首から双眼鏡を下げてい る 身勝手で軽い性格だけど好奇心は旺盛で、授業中でも窓の外へ双眼鏡を向けてUFOを探 したりしている 性に対しても興味が尽きず、特に薔薇百合が好き 香田 京子(こうだ きょうこ) 沙織の同級生にして小学生時代からの親友である、理知的な少女 ツヤのある黒髪のロングヘアで眼鏡を掛け、普段から制服を着ている ネットに詳しく、沙織のためにUMAなどの最新情報をチェックするのが日課 両親が共働きなので幼少時は淋しい思いをしていたが、沙織と会ってからは家族のよう に付き合っている ■設定■ うらみん 首吊り自殺した後、未練によって幽霊となった少女 いつも紐で吊り下げられているが、紐の上端は空の彼方 黒髪で片目を隠しており、薄気味悪い顔をしている しかし、その珍奇な見た目が同年代の少女たちにウケてしまい、 生前よりも友達が多くなったので恨みは消えて大人しくなった 現在は友達に誘われて勝手に学校へ通っているが、 紐が邪魔で校舎に入れないため、授業は窓の外で聞いている 彼女の陰鬱な冗談はクラス内で微妙に人気らしい ■設定■ 魚海堂 刺美(ぎょかいどう さしみ) 魚河岸に住み着いている大量殺人犯の幼女 自分の身長より大きな冷凍マグロを盗み、いつも持ち歩いている 深夜になると町を徘徊し、通りかかった人をマグロで突き刺して殺害 殺した後はマグロに付着した血を舐め取るけれど、 舐めているうちにマグロが解凍され、最終的には食べ尽くしてしまう マグロ一匹で満腹にならない時は殺した人間の死体も食べるけど、 あまり口に合わないらしく、2時間後ぐらいに電柱の陰で吐いてる ■設定■ 杜守 玄鬼(もりもり げんき) 冷凍睡眠から目覚めて現代へ蘇った謎の侍 新しい文化に感銘を受けた結果、色々と侍ではなくなっている パンク風な和服とアフロなチョンマゲが特徴 カタカナ語を織り交ぜた時代劇口調で話す いちおう正義の味方らしく、悪人には容赦しない ■設定■ さすらいのスーパーインド人 すごく強いよ 必殺技は無抵抗ビームだよ ■設定■ 乳ヶ崎 桃花(ちがさき ももか) ニップフェンシングの有力若手選手とされる18歳の少女 黒髪ショートヘアで意志の強そうな顔立ちをしており、剣道のような袴を着用 強い向上心を持つ努力家で、チャンピオンになるための鍛練を欠かさない 選手としては平均的な巨乳だが、離れ乳を活かした変幻自在の攻撃が持ち味 左右の乳首で交互に素早く突く「双竜舞」という必殺技を持つ ■設定■ 光文寺 華優(こうもんじ かゆう) 黒髪ロングヘアで清楚な高校二年生の女の子 奥ゆかしい控えめな性格で、クラスのマドンナ的存在 しかし実はいつも肛門の痒みに悩まされている 周囲から大人しく見えるのは、痒みのせいでハキハキ喋れないから 授業中でも痒みは止まらず、最前列の席なので掻くことも出来ない そのためいつもモゾモゾと体を動かし、お尻と椅子を擦り合わせて我慢している 授業が終わるとすぐさまトイレへ、そこで思う存分に肛門を掻きむしる その時の表情は普段の姿からは想像も付かないほど淫らなアヘ顔 ■設定■ 雁井 米子(かりい よねこ) 三度の飯よりカレーライスが好きな女の子 茶髪に赤や黄色の髪留めを付けたカレーヘアという独自の髪型 愛用のスプーンをいつも口にくわえている 究極のカレーを求めて旅をする求道者を自称(実際は江戸川区に定住) だけど実は食べるの専門で料理できない ■設定■ 如呂巳(にょろみ) 巨大な蛇の口から顔を出している色白少女 「別に食われてるわけじゃないよ、着ぐるみだよ」 とは本人の談だが、時々カジカジされてるので蛇も生きてるらしい 所構わずニョロニョロ這い回り、ネズミの死骸とかゴミとかを食べてる 「少女の排泄物はどこへ?」「蛇は何を食べてるの?」 などと謎は多いが、彼女の美徳は自分語りを良しとしないので謎のまま