■顔瀬良亮と綾川景の場合のクリスマス■  顔瀬の脳裏に浮かんだのは濃い紺色の夜闇だった。他に何もない、夜だけの空間にしんしんと雪が積もっていく風景。  ガラスの覆いに包まれて並んだ蝋燭の揺らめく橙色に照らされた礼拝堂と、見た目には全く共通点がないはずの風景 が浮かんだのは、きっと荘厳な静寂さがよく似ていると思ったからなのだろう。  やたらに高い屋根を見上げて、少年は何とはなしに呆けた呟きを漏らした。  「まさか、生きてるうちにこんなとこ来るとは思わなかったわー……」 「死んでからなら、来る予定があったんですか?」  先輩のお家がキリスト教だとは不覚にも知りませんでした、とのたまったのは顔瀬をここに引っ張って来た張本人だ。  今宵はクリスマス・イヴ。  日本では男女がイチャイチャするか子供が玩具をもらう日、という認識が浸透しているこの聖前節に「今夜は私に付き合 ってください」と綾川景に言われた時には、万の断り文句が顔瀬の頭を駆け巡ったが、「心配しなくても、デートじゃありませ んから」と続けられてついつい「そんなこと思ってないし」と返してしまい、「それなら決まりですね!」と強引にまとめられてし まった。  別に誘いそのものにOKした訳ではないはずが、完全に押し切られている。人によってはカカア天下の夫婦漫才とも呼ぶ、 いつものやり取りではあった。  まあ元々予定があった訳でなし、イヴに引っ張り出されるのは別に構わないのだが、こいつはイヴを一緒に過ごすボーイ フレンドの1人もいないのかよ、と完全に自分を棚に上げて後輩の心配をする顔瀬もなかなかに自分が見えていない。  見えていないのは、自分のことだけではないのだが。 「しっかし、クリスマスミサねえ。良いのかね、キリスト教徒でもない俺がここにいて」 「良いんじゃないですか、私はキリスト教徒ですけど、外から眺めるのまでいけないって法は聞いたことないです」  そう、てっきりミサに参列するものだと思っていたのだが、彼ら2人は今、教会の建物を正面に臨む広場のベンチに腰掛け て礼拝堂の外観を眺めているのだ。  先ほどまで入口にいた案内係のお姉さんが訝しげにこちらを何度か見ていたが、それもミサの始まりと共に建物の中に入 って行って、今辺りにいるのは彼ら2人だけだ。 「お前がキリスト教徒って初耳だぞ。ネタか? ガチか?」 「ガチの方ですよ。こう見えても8分の1はロシア人なんですから」 「それも初耳だ。って言うか、スネグラーチカのあだ名はそこが由来なのか」 「スネちゃまと呼んでくださいって言ってるじゃないですか」 「そっちを喜ぶのは日本中探してもお前だけだよ。あれ、でもここカトリックの教会だろ? ロシア系ならロシア正教とかじゃ ないのか?」 「いえ、キリスト教徒なのは純日本人な父方の家系でして。ロシア人だったのは母方の曾祖母ですので我が家の宗派とは 無関係です」 「何だそのフェイント。ややこっしいな、おい」 「まあ別にロシア正教の教会に行っても良かったんですけど、一番近場だったのがここだったので」 「おい神の子羊。そんないい加減なことで良いのか」 「私は、いわゆる熱心な信者じゃありませんから。十字架も持ち歩いてませんし、祈りの聖句も唱えませんし」  そう言えばそうだ。顔瀬は彼女との付き合いは結構長いが、そして今は自分が一番近くにいると思っているが、その彼を して彼女がそういった行動を取っているのを見たことがない。だからこそ、先ほどのカミングアウトに軽く驚いたのだ。 「じゃあ何でこんなとこに来たんだよ」 「先輩と一緒にお祈りしたかったんです」 「何にだよ。神さま信じてないんだろ?」 「神さまは信じてますよ?」 「どういうこと?」 「他の人の信じ方とは違うのかもしれませんけど。でもですね、先輩。私、聖書の内容なんて信じてませんけど、あれが全部 架空のことなら、この宗教にはもう価値がないと思いますか?」  事実じゃないから、本当じゃないから、価値がない。  後輩からの言葉に顔瀬は少し考える。 「そんな事はないだろ。キリスト教が歴史的に果たした役割の意義を抜きにしても、その伝えたいことの意味は聖書に書かれ た物語が嘘か本当かだけで決めつけられるもんでもないだろ、と思う。」  もしもその中に各人が見出したものが、キリストの言いたかったことと違ったとしても。  設問を解いて、大人に正解を褒められたい子どもではないのだから。  そういう顔瀬の言葉に、後輩はにっこりと笑った。 「はい、そういうことです」 「だから、どういうことだよ」 「私が信じてるのは、物語でも教えでもなくて、神さまなんです」 「何だよ、それ」 「私には教えられません。それじゃ神さまじゃなくて教えになっちゃいますから。それは先輩が自分で見つけるしかないですよ」 「そういうもんなのか」 「はい、そういうもんです。私にできるのは伝えることだけ」  何となく分かった。いや、彼女の言う神さまが何なのかが分かった訳ではないのだが。  少なくとも人間を見守ってくれてる全知全能の天なる父ではないことは察した。  だから、教会に入らなかったのか、と得心する。あそこはそういう神さまに会いに来た人達が集う場所だ。  自分たちの入れるところではない。 「祈りねえ。あまり好きじゃなかったんだよな」 「好きじゃない?」 「苦しい時の神頼みってさ。普段軽んじて、バカにさえしてるものに都合のいい時だけお願いするって、今こんなに崇めてやって るんだぞって、ムシが良すぎて一時期はそれこそバカの所業だとすら思ってた」  だけど、と続ける。 「一部分だけ、何となくお前の言いたいこと分かった。祈るってのはお願いするってことじゃないんだな。少なくとも俺とお前の神 さまにとっては」 「そうですね。それじゃ」  と区切ってから綾川景は顔瀬良亮に言う。 「今日の本番。お祈り、してみましょうか?」 「おう」  言って、少女が静かに目を閉じるのを少しだけ眺めてから、顔瀬も目を閉じた。  正直、果たして自分がこれから何を祈るのか分からないのだが。自分の安全か、家族の安寧か、友人たちの幸福か、今まで に死んだ戦友と今までに殺した敵の冥福か。それとも、隣りに座る少女の未来か。  どれも正解のようでどれも違う気がする。  或いは、自分が何を祈るのか自分に問い詰めてみるのが祈るってことかもしれない、と思いながら顔瀬は後輩と一緒に、静 かに目を閉じた。 ■終■